松浦達

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KANYE WEST『808's Heartbreak』(2008)*画像
THE VINES『Winning Days』(2004)
ASH『Free All Angles』(2001)
SIGUR ROS『()』(2002)
RADIOHEAD『In Rainbows』(2007)
ゆらゆら帝国『Sweet Spot』(2005)
SHUGO TOKUMARU『Exit』(2007)
VAMPIRE WEEKEND『Vampire Weekend』(2008)
THE FLAMING LIPS『Embryonic』(2009)
THE AVALANCHES『Since I Left You』(2000)
 もし、仮にロックの教科書や正史があるとしたならば、影響的なものでは断然、脱ロック志向を示した00年の『Kid A』だろうが、メジャー・レーベルを離れ、自主配信方式を取ったレイディオヘッド『In Rainbows』が示したインディペンデントな在り方はナイン・インチ・ネイルズ等のアーティストやmy space、pitchfork世代に勇気を付与した。そして、ある種の現在進行形の「絶望的な何か」の代弁者であった彼等が「希望的な何か」にリーチした有機的なアルバムとして意義深かったと思う。そして、エレクトロニクス要素と有機的なバンド・サウンドの絡み方も過去最高に風通しの良さがある。08年での来日ライヴはもはや「円熟」としか言えない境地までいっていたが、それも含めて、とても鏡像的なバンドであると思う。

 その彼等にも影響を与えたシガー・ロス『()』は何も名付ける事が出来なかった「郵便」的な作品と括るのは性急だと思う。ビョーク、モグワイ、ゴッド・スピード・ユー・ブラック・エンペラー、更にはアニマル・コレクティヴやブルックリン・シーン勢に間接的に数多の影響を与えたこのポスト・ロック性はアイスランドの島国という環境に依拠するのでは無く、寧ろ、エドワード・サイード的なオリエンタリズムを弁えた「現代的な大文字のロック」への脱構築行為として有効だったからだと思う。「現代的な大文字のロック」としては00年代のザ・ストロークス、ザ・ホワイト・ストライプス、ザ・リバティーンズ以降のガレージ・ロック・リバイバルの中で、衰微しつつあったギター・ロックの持つ清清しさを明確に体現した作品としてアッシュの『Free All Angels』の輝き方は大きかったので入れた。
 
 また、ガレージ・ロック・リバイバルの中でも浮いてしまわざるを得なかった悲運のバンド、オーストラリアから出てきたザ・ヴァインズは、最初、ザ・ビートルズ・ミーツ・ニルヴァーナの名称が付き纏ったのは周知だろうが、特にクレイグ・ニコルズの佇まいに対してカート・コバーンの影を観た人も多いだろうし、僕は79年生まれという年代で、グランジに間に合わなかった世代が故に、彼等の佇まいのジャンクさには魅力を感じた。

 00年代後半の象徴的なムーヴメントの一つとして、ニューレイヴよりニューエキセントリックと呼ばれるものの方がとてもスマートにクールに時代と共振していたとしたならば、フレンドリー・ファイアーズ、MGMT、レイト・オブ・ザ・ピア、フォールズではなく、トーキング・ヘッズ・キッズの面目躍如たるザ・ヴァンパイア・ウィークエンドのマルチカルチャリスティックな抜けの良さが閉塞的なインディーシーンに風穴を開けたのは間違いない。コロンビア大学という出自、ポロ・ラルフローレンのシャツを纏い、プレッピーにミドルクラス的な浅さを示す様は皮肉的というよりは健気に映った人も多いに違いなく、僕もその一人だった。

 日本からの二枚は自分との「共振」もあるが、海外の方との話の中で出てくる事が多かった意味を含む。村八分やジャックス等の文脈を越えて、00年代においては郵便的誤配を怖れない、帰属性なきサイケデリック・バンドの象徴的存在だったゆらゆら帝国はその後、結果的にラスト・スタジオ・アルバムとなる『空洞です』がジェームズ・マーフィーのDFAから『Hollow Me』として出された意味は大きいだろうが、そのプレ段階のこのアルバムの温度感とライヴでの演奏でのとてもパッシヴなムードは深度があった。サウンドとリリックの「行間」に意味が詰まっている熱量を鑑みた。トクマル・シューゴに関してはティーンエイジ・ファンクラブのノーマン・ブレイク等の猛烈なアプローチもあり、ポスト・コーネリアス的なポジションを確保したとも言えるかもしれないからだ。飄々としたボヘミアン的な佇まいとマルチ・インストゥルメンタリストとして「現代のブライアン・ウィルソン」の名を借りる事が多い彼の鳴らした音の軽やかさは、00年代に蛸壺化が激しくなったインディー界隈を内破するローファイさがあった。ローファイとはそもそも、カウンターではない、明確なるメインストリーム的なものへの批評行為だ。個人的に、パリのクラブでジャスティスやキツネ関係等に混じって、「Parachute」がふとスピンされたのには流石に驚いた。

 そして、通奏低音的に00年代で、僕の中で流れていたのはザ・フレーミング・リップスとザ・アヴァランチーズだった。前者は99年の『The Soft Bulletin』以降、付き纏っていたユーフォリックなサイケデリアから再びアシッドで捻じれたマイルス・デイヴィスの『パンゲア』的な作品への回帰。USインディーの鑑であり、踏み絵的な存在にならざるを得なかった彼等が00年代を通じて表象した作品群はどれも意義深いが、特にこの作品の持つ強烈なカオスは、元々の彼等の本質がここに表れている。後者は、900曲以上のサンプリングに次ぐサンプリングを繋ぐ事によって、ベック・ハンセン以降のカット・アンド・リミックスの地平を更新したのがこのアルバムの本懐であり、そして、ディプロやホット・チップ辺りのDJ的なセンスに則った生真面目な音楽に継承されることになった。

 カニエ・ウェストは別枠にしたい位だったが、やはり入れないといけない必然性を感じた。大学中退、中途入学、卒業の三部作。カーティス・メイフィールドやダフト・パンクといった大胆な大ネタ斬り、有機的なバック・トラック、決して流麗ではないが生真面目なフロウ。しかし、それが時代の要請と合っていた事自体が彼に付与された糾える禍福だった。そして、母親の死と恋人の別離を巡ってヒップホップ界のナードの雄が選んだのがオート・チューンでラップを捨て、歌いまくるというメロドラマのような世界観であり、逆にそれが「メタ」にカニエの生真面目さを表象した。こういったメビウスの輪的なコンテクスクトこそが、00年代のヒップホップ・シーンの在り方だったのかもしれないとしたならば、エミネムやファレルやJAY-Zが切り込めなかった「場所」に行けた彼の功績は大きい。

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