フライング・ロータス『コズモグランマ』(Warp / Beat)

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雨の中、傘を差さずに踊る人間が居たっていい。それが自由というものだ。(ロジャー・スミス)
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 今回の新作に際してのインタビューで、彼がセオ・パリッシュ、ドナ・サマー、ジョージ・デュークへの愛慕の念を示していたのが僕は一番、興味深かった。というのも、兎に角、シリアスなイメージが常に纏っていたフライング・ロータスの存在を今、再解釈するのに良い文脈かもしれないと思ったからだ。

「ディスコ」の起源は第二次世界大戦にまで遡らないといけない。

 戦争の激化に伴い、バンド演奏の生演奏が不可能となったフランスのナイトクラブで、しかたなく演奏の変わりにレコードを掛けて踊るようになったのが発祥と言われている。そもそも、「ディスコ」という言葉もフランス語のdiscotheque(レコード置き場)の短縮形であり、生演奏の代替物として発生したディスコも、生演奏よりも曲を「客に合わせて再生できる」というメリットが受けて、第二次世界大戦後のパリに「ラ・ディスコティーク」というクラブが開店したことでフランスに新しいディスコというカルチャーが定着する。

 そして、生バンドの代わりにスピンされるレコードの価値が本格的に世界的なブレークの契機になるのは60年代のアメリカのゲイ・シーンである。ヒスパニック、黒人層、移民達のマイノリティの磁場が熱狂的に支持をするが、その背景には彼等のアンテナの鋭度が流行曲、大衆歌を越えて、世界中の音楽、特にブラック・ミュージックのソウル、ファンク、のバネの強さに反応して、ダンスの機能性と共振した結果、ユース・カルチャーと根付いていき、クールでファッショナブルな場所として様々なディスコ・クラブを産む。有名なものではパラダイス・ガラージ、フラミンゴ、ギャラリーだろうか。特に、パラダイス・ガラージにおけるDJのラリー・レヴァンの影響力は大きかった。単純にレコードをスピンさせて、原曲で踊らせるという形式からオリジナルなテイストを組み込むこと、二枚のレコードを繋げてミックスして流す所作、クラブ向けの12cmのヴァイナルといったものも広まっていくことになる。そして、60年代の、まだ黒人差別やゲイ・カルチャーへの偏見が根強かったアメリカにおいて、カウンター・カルチャーとして有為に機能した。

 70年代に入り、伝説の番組『SOUL TRAIN』をして、トライヴや垣根を越えて、アメリカでブームが起きる。このディスコ・ブームと呼ばれるものは元々のディスコが内包していた強度を漂白して、商業化への波へと舵を切る事になり、各国に輸入されたものはこの時のブームの要素が強く、マイノリティやゲイ・カルチャーへの目配せというよりは、もう少し「表層」的な部分も含意していた。
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 そして、表層から深層、深層から実相、実相から空洞へ。

「空洞」の中に、際限なく多種多様な文化的産物から派生したドローン音が響く現代で、こういった文化的背景を踏まえて、フライング・ロータスことスティーヴン・エリスンの2年振りの新作『Cosmogramma』(Cosmo+Gramma、宇宙+原理)への解析をすると面白い。この作品が表象する、こんがらがった「小宇宙的世界観」はサン・ラー、ファラオ・サンダース、ジョン・コルトレーン辺りの「それ」(例えば、コルトレーンで言えば、『LOVE SUPREME』的)なものでもあるが、これは希釈化されたビート・ミュージックの「カウンターへの、カウンター」が「内在化されている」という意味では仄かな深度がある。精神的な「何か」を希求する為の意志的なビートとアタック感、そこで脊髄反射されるクールなモダンネスとスキゾ性。スティーヴ・ブラナー、レベッカ・ラフ、ミゲル・アットウッド・フォーガソンと多くの面で組みながら、ヒップホップ、電子ノイズ、グリッチ音、テクノ、ゴスペル風コーラス、ダブ・ステップ、ガラージ、エレクトロニカがハイブリッドに撹拌され、マッシュアップされた上で、「46分のボードリヤール以後の、ナラティヴ」としても捉えても良いだろう中で繰り広げられるマッシヴな音像は「均質と差異」を行き来しながら、微妙にサウンド・レイヤーをずれていく構造を更に対象化していく。
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 この音像の混沌たる「美意識」が示す、「気高きマイノリティをスイングさせる」強度は時代を越えて、ラリー・レヴァンのスピンしたレコード群に混じりながら、確実にフロアを上気せしめるかもしれない。J・ディラ、エイフェックス・ツイン、インドープサイキックス、今回のトム・ヨーク客演などの「外部」要素は越えて、この作品は「内部」に潜航していきながら、「内部の<内部性>」から外部的な道筋に快楽をセットインする。そういう意味では、マルチチュード的な佇まいもある。
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 想うに、ビート・ミュージック系のハイエンドな音に触れるということは「現実の退路を断たれる」意味さえも孕む気がする。(エレクトロ・)ビートの先にアルコール、ドラッグやささやかなこの瞬間の永続性を願う祈念や等が待備せしめる瞬間、クラウドの総てが万能になるの「ではなく」、観念の肥大にダンスが、ステップが追いついていかないもどかしさ、とそこにカットインされる「大文字のセンチメント」が前景化するのが常だからだ。そこが今におけるダフト・パンク、ジャスティス的なものの「デッドエンド感」やWARP勢にしても時折、ちらつく悪しき選民主義もサジェストしたとも言える。WARPという事で言えば、新世代的なビート・メイカーのクラークやハドソン・モホークが畳みかける判り易い変拍子、歪みは個々の生体リズムに仮託(マップ)されて、「不自由」な刻みでヘドニズムを感応することができる導線は敷いたが、複層性は無かったように。

 そんな中で、フライング・ロータスとはコルトレーンの甥という出自もあるのか、この(非自覚的だろう)「浅さ」を逆手に取ったドープさの先に見える、「終わりの中での、始まり」への意識をビートに乗せて、その位相をスライドさせるのが巧みだ。しかも、それがオーディエンスの自意識の「ソト」でちゃんと響くようにセッション的に乱雑に音を「畳みかける」ので、音像への同一化の余地を許さない代わりに、音楽の「音」自体への耳の反応を鋭角化させる。
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 ほんの少し前、ポスト・パンクやニューレイヴで酔っていた輝かしい都市生活者、キッズ達のパーティーはクールなブランド服で固められたある種の護られたユニティが出来ていた。並行して、ダブ・ステップやグライムのクラブには「完全に世から離れている」トラッシュ達の咆哮と欲動を感知する事が出来たが、すぐさま「離散」した。だからこそ、今、本当の「外れし者たち」や「メトロポリタン主義者」とは「ディスコ」や「ダンス」にさえ繋がっていないのではないか、と思いさえする。
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 ラリー・レヴァンがソウルやファンクのブラック・ミュージックに並べて、日本の歌謡曲をスピンしたような位相としてスーパーフラット的に、「現代のラリー・レヴァン」が居るとしたならば、皿に真っ先に乗せるレコードはこのフライング・ロータスの新作ではないか、というのは穿った妄想ではないかもしれない。この作品には徹底的な記号的なラジカリズムへの求心的で皮肉な視点と古のスピリチュアル・ジャズへのオマージュ、90年代以降のIDM、エレクトロニカ文化、更には西海岸アンダーグラウンド・ヒップホップへの明確なポスト性がある。

 この作品は決して「郵便的」ではない。IDチェックや管理下の五月蠅い閉ざされたドアを開こうとする真摯な外れし者たちが46分程で、脳内でインナー・トリップする為の入構証のアウラがある。既に戦時下の世界で、2010年代最初の、ハーヴェストと反抗のステイトメント。LAからコスモス、そして、内的宇宙、素粒子レベルに還流して、ウロボロスの蛇のように何もかもが「消失」する点(ヴァニシング・ポイント)の上に、この作品の「真価」が可視化出来る。

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