LILLIES AND REMAINS「Meru」EP(Fifty One)

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 元々、07年に、人づてに「(自分が出た大学)のバンドの中でクールな新しい音を鳴らしているのが居る」というのを聞いて、関心を持ち、MySpaceでチェックしてみたら、そこには幾つかの音源と、如何にもなヴィジュアル・コンセプトが設定されていた。簡単に言えば、15世紀から16世紀にかけての、ルネサンス前の中世建築やアートに中指を立てたアントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリのような高貴さ、と「ゴート風」な全体像と言えるだろうか。それは、当時、全員が同じ大学で出会ったという事実から、「クラーク記念館」的なドイツ・ネオ・ゴシック様式に魅せられた「よくある学生」という感じもした。翌年に、ライヴを観たことがあるが、演奏は拙いものの、低温火傷を起こさせるようなパフォーマンスで細身のスーツ姿の四人の佇まい、バウハウスをラルク的な希釈的な解釈じゃなく、しっかりと鳴らしている感じには好感を持てた。それは、セカンド前のザ・ホラーズ辺りとも共振もしていたし、スーサイド、ジョイ・ディヴィジョンやインターポールの匂いを強烈に感じもしたし、歌詞世界はザ・キュアーのロバート・スミスではないか、と思った。同時に、漸く、堂々と胸を張って、こんな暗い音をスタイリッシュに鳴らす事が出来る日本のバンドが出てきた事に、シーンの変化の胎動も察知出来た。それは、当時のニューエキセントリック・シーンの盛り上がりの中で、ミドル・クラスの子たちが「敢えて音楽をやる」意味解釈が自分の中で再定義出来てきていたという背景もあった。

 この日本で所謂、ゴシック系の音を鳴らすのは実際的に難しい。ともすれば、すぐヴィジュアル系、耽美系と侵食し合ってしまうし、また、デモーニッシュなものが「現前」しているアメリカとかUKでは成立しても、そういった「デモーニッシュな何か」を持ち得ていない、この国だと「ただ暗いだけ」の音楽だけで片付けられる可能性もあるのは実際に海外のそういう人たちと話せば分かる。それは、ナイン・インチ・ネイルズやレディオヘッドのライヴに足を運んで、確実に少なくない数でいる「黒の誘惑」に魅せられた集団や、彼等の文脈で、意味が付与されているバンドの音の回収のされ方とも繋がってくる。勿論のこと、それは、各々の信条、生き様、宗教性にも連関してくるので僕は良いと思うが、日本という独特な国で基本的に、成立しにくいのはカタルシスが「別方向にある」という快楽指数の問題だけに依拠する。「神」は寧ろ、「八百万」なのだから。

 インターポールのストイシズムの美学とかは日本では「受けにくい」のはサマーソニックという大きいイベントのライヴで観ていても思ったし、大文字の「理解り易さ」を受容する磁場がマスを設定しているのだ、とも別解出来る。パワー・コードやヴァース・コーラス・ヴァースのカタルシスが仕掛ける感情のタイプキャスティングには勝てないということだろうか。

 でも、だからこそ、僕は彼等に期待していた。それは、「上品な翳り」があって、スタイリッシュでメロディーも締まったバンドとして。アンサンブルも引き締まっていて、それでいて何処と無く厭世感が漂っているというデビュー期のザ・ストロークスに似たような温度のニヒリズムと熱さに対して。

 局地的にバズが起こった08年のデビューEPの「Moralist S.S.」は、興味深かった。特に、表題曲の持つキャッチーさと、思索的な歌詞、そして、感情の襞の内側を潜行、内破していくかのようなエッジ。インタビューに依ると、フロントマンのKENTの意図で「S.S.」は大江健三郎の「日常生活の冒険」の斎木斎吉から取ったと聞いた時、そのベタさに苦笑いしてしまった。ベタさ、というのは、僕は大江健三郎というチョイスではなくて、「個人的な体験」でも「万延元年のフットボール」でもなく、「日常生活の冒険」というのが「らしい」な、という文脈だ。71年の作品で、或る程度、彼がオブセッシヴに性的なモティーフに駆られていた時期のもので、斎木斎吉は模範的なモラリストとして生きる事を予め設定されている。18歳でナセル義勇軍に志願したのを始めに、「当時の現代」を旅とタナトスをベースにサヴァイヴしていく青年像が彼の盟友であった伊丹十三氏を参照に描かれるという、大江作品群の中では比較的、地味で、評価的に決して高いものではない。それにKENTが敢えてインスパイアされたという捻じれ方に僕は逆説的な「出口なき、時代を生きる典型的な若者像」を可視化出来た。
その後、東京に居を移したり、メンバーの変遷がある中の混沌とした様相、09年のファースト・フルアルバムの『Part of Grace』の「幅の狭さ」、「音楽的な語彙の少なさ」もあり、自然と僕は期待より不安の要素が大きくなりつつあったのは否めない中で、届いた今回のEPはとても吃驚した。

 「Meru(メール)」というタイトルはサンスクリット語で言う須弥山という意味であり、インド宗教の世界観の名中で、その世界の中心にそびえ立つ山を指す。サンスクリット語とは、古代インドの有識者を対象にした 「人為語」であり、ヴェーダ語から発展し、紀元前4世紀頃パーニニによって文法が体系付けられたものであり、パーニニによって完成されたサンスクリットは、その後二回補修されただけで、二千数百年経った今も変化していないという独特の言語であり、そこから更に意味深い「Meru」という単語を孫引いてくる辺り、新しいモードに入っている事が如実に分かる。そして、KENTの意図に沿って、6曲のそれぞれにストーリーが付加されており、コンセプチュアルなものではないと言っているが、6曲を通してこそ、見えてくる世界観もある。

 例えば、リード曲の「devaloka」を通底するテーマは「無常への恐れ~仏教的世界観との出会い」といったものだが、流れるコードは耽美的なものであり、メロディーも思索に潜る雰囲気といい、それまでの彼等の延長線上にある曲と言っていいだろう。「Moralist S.S.」に続くピンポイント・アンセムとして、今後も要所で活躍すること紛う事ない。そして、この曲だけでも明確に分かるのが、リズムの重厚さへの意識的な変化だ。ニューウェーヴ的な翳りを纏い、金属的でエッジのきいたギターで駆け抜けるような繊細さからの脱却。それは、デビュー期から比較対象に挙げられていたザ・ホラーズが「Sea Within The Sea」でクラウト・ロックへの目配せを入れて、パースペクティヴを拡げた鮮やかさも彷彿させる、と言えるかもしれない。でも、僕は、彼等の変遷は、東洋的な、和的な変遷があるという気がしている。「Devaloka」や「Decline Together」に関しては、これは私的な感想だが、世界的に今も活躍するBUCK-TICKの95年の名盤『Six/Nine』の持つスマートな重さ、を思い出した。今井寿氏は彼らを評価していたと聞くが、BUCK-TICKという孤高の暗みを描いてきたバンドと、現代になって「共振」してくるのは非常に示唆深い。

 3曲目の「A Life As Something Transient」では冒頭からダヴィーなサウンドスケイプの中、BPMをグッと落として歌う部分には、『K』~『Peasants、Pigs And Astronauts』の際のクーラ・シェイカーのようなムードも一瞬感じたが、そういったスピリチュアルなムードを払拭するように、テンポを変え、鋭角的なギターで切り込む展開はとてもスリリングで、今のバンドの良い温度感が伝わって興味深いし、今の彼らにはまだ「Shower Your Love」は必要ない故に、納得できる。

 細かく列記していくことも出来るが、何よりも先に、今回のEPと、これまでと大きな違いは、METALMOUSEを共同プロデューサーに参加していることもあるのか、音響空間的な幅が出ているのに尽きる。これまでの彼等は優等生的に、真摯にバウハウスやジョイ・ディヴィジョン的なモティーフを輻射することに命を賭けていた所があった。しかし、それが逆に形式主義的になってしまう所は垣間見えたのも事実だ。僕は真面目な話、ポーティス・ヘッドのジェフ・バーロウと彼等が組めば面白いことになるのに、と思っていた時期があった。今作はそんな勝手な自分の思惑を跳ね除けるように、別の角度から応えるように、新しいリリーズ・アンド・リメインズ像を提供してきた。世界というシリアスな難物に対峙するとき、方法論を変えるのも、スピリチュアルに潜るのも一つの手としたならば、このEPで得た手応えをベースに更に彼等は先を描ける筈だろう。

最後に、2部構成の「Tara」における、オーウェン・パレットが築き上げたような壮大なサウンド・タペストリーには心底、僕は感動したし、その冒険心に拍手を送りたい。

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