90年代半ばになり、モダン・ヘヴィネスというジャンルができあがり、代表格としてはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがいた。つまり、ヘビーロックのサウンドスケイプを参照点に、ラップ的に速射砲的なボーカルを乗せるスタイルと言えるだろうか。セカンドの頃のリンプ・ビズキット『Significant Other』はその優秀なモデルであり、最大公約数であり、マリリン・マンソンをして(揶揄込みで)「スポーツ・メタル」と言わしめるだけの軽やかさと徒花性を前景化させたが、当時、世界中で大型のフェスが台頭している中、確実に機能的に多くのクラウドを煽動させることが出来るサウンド・スタイルとしては発明だったのも確かだった。そこには、メタルもヘビーロックもヒップホップも平準的に煮込まれており、非の打ちどころのないサウンドスケイプを築き上げており、その代表格のバンド勢はそれぞれの色を強く打ち出した。例えば、冒頭のレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは硬のようなバンド・サウンドにザックの政治性の高いライムが乗るというシリアスさを提示し、311はレゲエやヒップホップの影響を上手く咀嚼したミクスチャー・ロックの反射神経の高さを表象するといったように。
その中でも、異端だったのがKORNだろう。
それは幼児期~少年期のいじめやトラウマ、死体置き場でのバイト体験をベースにした怨嗟にも満ちたジョナサンの"泣き喚く"ようなボーカル・スタイル(その後、実際にレディオヘッドの「Creep」をカバーしたりしたが)にも依拠するだろうし、どうにも凡百のヘヴィーロック勢とは違う不穏な不協和音が混ざるサウンドをして、ニルヴァーナやナイン・インチ・ネイルズ的な集合的無意識的なダークネスを担う分だけの巨大な存在になるべくしてなっていき、自ら「FOLLOW THE LEADER」と銘打ち、コアなファン以外にもポップなフィールドにも切り込んでいった。
しかし、彼らを語る際の「闇」とは記号論にしか過ぎないものであり、それは猟奇殺人事件の犯人の心を語るときの卒業アルバムや、個人のナラティヴとその表現物を「ダイレクト」に結び付けるくらい、無為なものだ。例えば、デカルトは普遍的懐疑において、感覚的事物の確実性について疑うが、その懐疑のプロセスで「狂気の人」に触れる。そして、『第一省察』の中で次のように言う。「彼らは気が違っているのであって、もし私が彼らの行ないを真似たりするなら、私自身彼らに劣らず同じような扱いを受けるであろう」。それに対して、フーコーは『狂気の歴史』で、このデカルトの言説をこう解釈する。この懐疑の手口がどのような社会的な、イデオロギー的な意味をもつか、ということをベースに、私が、彼らと同じようだと言ってしまうと、私が非理性的な人間になるので、私は彼らと違う。デカルト自身は、その懐疑におおげさな社会的な意味をもたせているわけでないと思うものの、以後の歴史を見ると、倫理的な空間で大きな問題が起きてくるという訳だ。大きな問題とは、もっと敷衍して考えてみると、デカルト以前には、「モンテーニュ的な理性」というものがあった。それはモンテーニュの『エセー』で、「人間というのは、理性的であって、かつ非理性的だ」、といった記述に代表される。それに対して、考える精神である「私」は狂ってはない、とデカルトは断定する。それが所謂、「デカルト的な理性」の時代。それは、非理性の排除を実践する時代においてコーン的な世界観は大いに有効だったし、同一化出来る余地があったのは確かだ。
しかし、フーコーは、デカルトの場合は、人間の中にある、もしくは人間そのものの本質を形成しているかもしれない非理性的なものに、狂気というレッテルを貼り、人間の中からそれを外に「追放」してしまう構造論に言及する。つまり、現実の政治的権力から見ると社会的に不都合な人たちを特定の施設の中に囲い込む、閉じ込めていくという実践的なプロセスが始まる一つの尺度がデカルトの掲げた理性である、と。となると、デカルトのような形而上学的ディスクールも歴史的ディスクールを離れて存在しえないことは自明になってくる中で、モダン・ヘヴィネス(近代の重さ)とは解体される。
レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは解散、再結成の中で明らかに「エッジ的な何か」を失っていき、リンプ・ビズキットはどうにも空中分解した。メンバーを変えながら、生き延びたコーンは今回、ロス・ロビンソンと再び組んで、原点回帰を掲げ、プロトゥールスを使わない録音を敢行して、『Ⅲ』とアルバムタイトルに付すように、これが自分たちのサード・アルバムだという意味を含めたが、もはや「形式」だけが輪郭を結ぶ絶妙な重さが破綻なく、おさまった内容になっている。リンキン・パークやマイ・ケミカル・ロマンス辺りの音が既に提示されている今にこの音は或る人にはノスタルジーを、或る人には目新しさを発見するかもしれないが、このサヴァイヴの仕方をして成功例として括るには浅愚が過ぎるし、彼等の原点回帰の原点とは「あるようでなかった、幸せな90年代の景色」だったとしたならば、この作品が受容される磁場は如何に健康的なのか想像するに難しい。何故ならば、世界は此の音よりもっと先で荒んでいるからだ。
