追悼、中村とうよう氏

 約半年ぶりに、この個人ブログを打ちこんでます。

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 ツイッターにもその気持ちをぶちまけてしまいましたが、中村とうよう氏の自殺が、あまりにもショックだったから...。ツイッターでは「(ぼくの両親は幸いにも存命中だが)父親が亡くなったら、こんな気分なのかも」と言ったけれど、そういったことを考えながらニュー・オーダー『Movement』を聴いていたら、また眠れなくなってしまった...。

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 以前...80年代くらいまではそういうことを平気で公開してたんですが、久々にはっきり述べると、ぼくは高校3年生のとき、激しく精神のバランスを崩しています。

 1週間、完全にブラックアウト状態になってしまい、学校も3ヶ月ほど休みました。強制入院させられそうになったけれど、そのとき首を縦にふらなかった両親には感謝してます。

 ブラックアウト直前には体が硬直して全身の血管が浮きでるというエクソシストもかくやという状態になったので、あれがある種の思春期性精神異常のメタファーでもあることがわかったりとか、フィリップ・K・ディック『火星のタイムスリップ』を初めて読んだとき、そこに登場する精神分裂症の描写があまりにもリアル...自分に近くて「これは作者もぼくと同じ体験をしているにちがいない!」と泣きながら(実際、最初は狂ったように傍線をひっぱりまくりながら読みすすめ、とくにラストのサブ主人公のセリフに)激しく共感を覚えたり...というメリットも(結果的には)あります。別に恥ずかしいことだとは思っていません。

 そのブラックアウト寸前の2、3年、ぼくは『ニューミュージック・マガジン』の、超がつくほど愛読者でした(そのあいだに誌名が『ミュージック・マガジン』に変わりました)。

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 まだ中学生のころ、まずは、いろいろな雑誌を買ってみました。『ミュージック・ライフ』『音楽専科』『ロッキング・オン(当時は300円以下で、完全な"同人誌"でした。渋谷陽一氏らの文章はともかく、岩谷宏氏のそれの青臭い"文学青年"っぽさに反吐が出るほど辟易して、もう絶対に二度と買いたくないと思いました。"情報"もゼロに近かったし...)』等々。

 そのなかで『ニューミュージック・マガジン』〜『ミュージック・マガジン』が最も肌にあいました。当時(1978年〜1981年ごろ)のそれは、"オルタナティヴ"な音楽の情報もむちゃくちゃ充実していて、かといって『フールズ・メイト』や『ロック・マガジン』みたいな、気持ち悪い神秘主義に走ってるわけでもなく、むしろすごく"リアリスティック"で...。

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 ただ、1981年後半には"オルタナティヴ"な音楽が誌面に占める割合が徐々に減退してきていました。今思えば、いわゆる「ポスト・パンク」的な動きが下火になってきた、という状況の反映でもあったのでしょうが、それに危機感を抱いた(笑)ぼくは、原稿用紙20枚以上の原稿を徹夜で仕上げ「読者のページ」宛に郵送しました(当時はメールどころか、ファックスもなかった)。ブラックアウト直前には、編集部に「ぼくの原稿、届いてますか? どうですか?」とか電話をかけて、1時間くらいキチガイみたいにしゃべりまくったりもしました(って、「みたい」じゃなくて「キチガイ」そのもの、ってわけか...。そのとき、どなたが対応されたのか? 本当に迷惑だったと思います...。今ふりかえると申し訳ないかぎり...)。

 ブラックアウトから(一応それなりに)現実世界に戻って、すぐに大学受験です。鉛筆もろくに持てない状態でしたが、進学校に行っていてそれなりに成績もよかった自分は、当然大学に進むものだと思っていました。しかし、ぼくがあまりに(狂ったように...というか狂って)『ミュージック・マガジン』『ミュージック・マガジン』とぶつぶつ言うのを見かねた父親が、「そんなにそこに行きたいなら、大学行かなくてもいいぞ。面接とか受けられないか、保護者として頼んでみてもいいけど?」と言ってくれました。

 まだろくに働かない頭でしばらく考え、ぼくは断りました。そこには、いろんな思いが交錯していたと思います。もちろん、大学くらい出ておきたい...という(狂ってるわりには)冷静な(いやらしい)計算もあったでしょうし、「なに言ってるんだ! 父さんが頼んだって、向こうは向こうの事情があるんだから、面接なんてうけさせてくれないよ!」という気持ちもありました。しかし、ぼくのなかでは、こういった考え方が最も強かった気がします。

「ぼくは『ニューミュージック・マガジン』〜『ミュージック・マガジン』が、そして編集長の中村とうようさんが大好きだ。そういうことをやるのは、意義のある行為だとも思う。だけど、今そこに入ってしまって、本当に自分のやりたいことができるのだろうか? 編集者や文筆家としてなんの経験もない自分が、今『ニューミュージック・マガジン』〜『ミュージック・マガジン』で『自分の好きだと思う部分』をのばしていくなんて、無理だよ、そんな...」

「最近の若者」にも通じる、「逃げ」の姿勢、ですね(笑)。

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 ただ、もしかするとそこで、のちの自分に通じる態度の萌芽が、すでに現れていたのかもしれません。

 それが『ミュージック・マガジン』という場であるか否かは、どうでもいい。「ああいう感じの、オルタナティヴな音楽を紹介する媒体」が、やってみたい。

 そして、いつか中村とうようさんに、「ああ、問題はあるけど、まあ、いいんじゃない? 伊藤くん(笑)」とか言ってほしい...。

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 そのあと、1984年(上記の都合で「1年間は自宅にいなければいけない」と精神科医に言われたので、ヘヴィーな安定剤飲みつつ1浪してます。だから大学2年生のとき)から商業誌(なぜか『フールズ・メイト』。主宰者の北村昌士氏の文章とか、正直大嫌いだったんですが...)に書くようになり、90年代には『ミュージック・マガジン』にも書きはじめていました。

 編集部にも何度かうかがったんですが、とうよう氏にお会いできる機会には、残念ながらめぐまれませんでした。

 1997年に『クッキーシーン』を始めたころは、まだときどき原稿発注があったんですが、それが何年もつづくうちに忙しくなって、『ミュージック・マガジン』編集部ともつい疎遠になり...。

 現編集長の高橋修氏は(たしか、ほぼ)同年齢で、ぼくはオタクとしてのシンパシーも持っている(正直「オチャムちゃん」と呼んでます。もちろん面と向かっては「オサムさん」ですが...)。『クッキーシーン』も「雑誌」ではなくなったことだし、またそのうちご挨拶に行きたいな...。そして今度こそとうよう氏にも紹介してもらいたい...。彼、ぼくがどういうことをやってきたか、認識くらいはしてくれるかな? そうじゃなくても、絶対に一度お話しはしたい...。

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 それも、かなわぬ夢になってしまいました。

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 というか、今、ちょっと、パニック状態になってます。でも、なんとか生きていくつもりです。よく鬱状態に陥るぼくも、遠い将来には、自殺してしまうかもしれません。なにかの事故や病気で数年後...いや明日死ぬかもしれません。

 だけど、その日まで、とうようさんの遺志を(勝手に)ついだつもりで、ぼくはぼくなりにがんばります。

 本当に、おつかれさまでした。これからは、7月21日を、ぼくの個人的な「お盆」とさせていただきます。今はそれくらいしかできない自分が、歯がゆいです...。

 どうか、安らかに、お眠りください。

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