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ARCA『Xen』.jpg

 ダンス・ミュージック・シーンでは、名義を使いわけ匿名性を醸す手法は決して珍しいものじゃない。とはいえ、その匿名性で遊んでいるかのような存在が、ここ数年の間で急激に増えたのは興味深いと思う。"u"を"v"に変えたチャーチズ(Chvrches)はまだ易しいほうで、たとえば日本だと、セーラーかんな子とおじぎという女性ふたり組のDJユニットぇゎモゐ(えわもる)、それからswaptvを中心とした§§(サス)というバンドがいるし、シフテッドが主宰する《Avian》から『Linear S Decoded』という秀逸なテクノ・アルバムを出したばかりのスウェディッシュ・デュオ、SHXCXCHCXSHなんてのもいる(Resident Advisorのインタヴューによると、「Hは無音なんだ。あとは、文字通り読めばいいだけ」だそうだ)。他にも、バンドキャンプで"vaporwave"のタグ検索をすれば、読み方がわからない匿名的な名前がごろごろある。なんだか、平野啓一郎が小説『ドーン』で提示した、場所や対人関係によって人格を分け、その場に適した自分が生じる"分人主義" 的感性に近いものを感じる。


 そんな分人主義的感性は、ベネズエラ出身のアルカことアレハンドロ・ゲルシが作りあげた本作『Xen』にも見いだせる。収録曲である「Thievery」のMVも含め、アルカのヴィジュアル面の多くを担うジェシー・カンダによる "分人" のほとんどが性別を超越した存在とされていること、そして、その存在が本作のジャケットでも大々的にフィーチャーされていることをふまえると、本作でアルカは自身のセクシュアリティーについて今まで以上にハッキリ表現しているように思える(アルカのセクシュアリティーについては、FADERに掲載された本作に関する記事が詳しい)。それは言ってしまえば、"分人"として自身の一側面を切り分けるのではなく、これまで切り分けてきた"分人"をかき集め、アレハンドロ・ゲルシという"個人"の物語を本作で表現したのではないか、ということ。


 そう考えると本作は、アルカのパーソナルな部分があらわになったという意味でのソウル・ミュージックである。こうした部分を考慮し、本作のタイトルが仮想マシンモニタの名称と同じであること、さらに冒頭で書いた分人主義的感性をふまえれば非常に面白い作品だと言えるし、ネット以降の状況と照らしあわせて社会学的に分析して楽しむのも一興だろう。だが、大きなシーンを生みだしたり、新たな潮流を作るような衝撃は去年発表の『&&&&&』よりも少ない。表題曲や「Sisters」といったビートが際立つ曲も、たとえばジャイアント・クロウの『Dark Web』を聴いたあとでは"斬新"と言い切れるものじゃない。ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーを彷彿させる冷ややかでアンビエントな音像は、耳に心地よく馴染んで素晴らしいと思うが。



(近藤真弥)

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 2012年のファースト・アルバム『World, You Need A Change Of Mind(世界よ...必要なのは変心)』は、その年のトップ10にあげられるくらい愛聴した。初期そして最近のフェニックスとの関係でおなじみフィリップ・ズダールとの共同作業による「クラブ・ミュージックとポップ・ミュージックの交差した地点」感が、なによりたまらんかったというか。


 この待望のセカンド・アルバムでは(ファーストのように、とくに「ひき/おしの強い特定の誰か」というより)世界中のさまざまな新進クリエイターたちとコラボレーションをおこなうことで、自らの世界を深めつつ、理想的なスケール・アップを遂げている。


 前作およびこの新作に共通する特徴といえば、ラテンやワールド・ミュージック的要素と並んで、いわゆるジャズのエッセンスを、実に心地よくとりいれていること。単なるムードというレベルを超えて(いくぶん変態的な)ポップ・ミュージックとジャズを深く融合させてアーティストは、昔からたくさんいた。前者側から後者に接近したものといえばスティーリー・ダンとか、その逆であればマイルス・デイヴィスとか...。ただ、その「混ぜ方」の印象は、彼らとかなり異なる。まさにニュー・フェイズ、今の時代にふさわしく新鮮なものとなっている。


 それこそ、マイルス・デイヴィスが伝道師となり、今や普通の日本語にまでなっている「クール」というセンスのとらえかたが、なんか昔と全然違うというか。

 

 たとえば、サイケデリック・ロックにはじまって最終的にはUKフリー・ジャズと区別がつかないほど、ややこしくもかっこいい音楽をやっていた、カンタベリー一派のソフト・マシーン。彼らの最高到達点と思える『Six』(1973年)あたりに通じる部分もあるのだが、80年代末~90年代初頭の、いわゆるアシッド・ジャズを思わせる「うたごころ」も、これでもかというくらい備えている。ただ、前者が持っていた「知的にかっこいい感じ」の記号性も、後者が持っていたよりモード的にファッショナブルなそれとも無縁な感じ。その塩梅が、たまらなく素晴らしい。


 元ライトスピード・チャンピオン/現ブラッド・オレンジことデヴォンテ・ハインズ、スウェーデンのエレクトロニック歌姫ロビン、デーモン・アルバーンらと共演経験もあるガーナ人ラッパーのマニフェストなど、コラボレーターの人選にも、それは見てとれる。


 結局のところ「クール」になりきれるはずもない。なにせ、芸名がカインドネス(人間らしい思いやりの心)だからね。とはいいつつ、そこに縛られたくもないんだろう。今回のアルバム・タイトルは『アザーネス(それ以外)』ときた...。この、ひねくれかたも含み、スーパー・グレイト、だ!



(伊藤英嗣)

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 少し前、電車を乗り過ごしてしまい、気がついたら河川敷の景色を眺めていたことがあった。ヘッドフォンからは何気ない優しさで気持ちを射抜かれるような、Kate(ケイト)のこのアルバムが流れていた。ゆるやかな川、広い土手と空を舞う鳥たち。夕暮れ時の河原を歩く女子中学生や、のんびり犬の散歩をしているおじいさんにも、きっと誰にでも「こんな感じ」があるんだろうなあと思った。


 ケイトは、2009年より活動をスタートさせた3人組。個性的でありながら隙間のあるサウンドがどこまでも気持ちいい。2012年から約2年かけて制作された今作は、ひと言で言ってしまえばピアノをベースにしたインディー・ポップ・ミュージック。澄み切った青空のように爽やかな、極上のポップ・アルバムとなっている。メロディーの良さはもちろんのこと、何といっても心に響くのがヴォーカリスト、リン(中国人女性)の歌声。良い意味での青臭い彼女のヴォーカルはほんと、グッとくる。イギリス? 中国? アメリカ? ブラジル? 東京? その全てのようでどれでもない。まさしく異国を何ヶ国にも渡ってずっと旅してるような感覚。それが、いつのまにか聴く人それぞれの心象風景と重なってリアリティーを帯びていく過程こそが『TODAY』のスリルだ。『TODAY』というタイトルとヴォーカリストであるリンの優しいファルセット気味な声から、初めは毎日の生活に寄り添うような温かい音楽という印象を受けたが、聴いていくほどに煌びやかな、そして少しの過激さがなんとも頼もしく思えてくる。カラフルでポップなサウンドだけど前のめりな所もあって、耳に馴染みやすいグッド・メロディーなのにBGMになるつもりはさらさらなくて。むしろ、マンツーマンなコミュニケーションを迫られるようだ。


 歌詞も、"どこから来て何をするのか。99%の信頼と1%の裏切り。創作と秩序と破壊を行うのは神のみ。人間は考えて試して諦めるだけ。"という内容を歌った「99% Is Sincere for You」や、"多すぎることも少なすぎることもない。惑星が行ったり来たりする宇宙の物理法則に従っている"という内容の「Physical  Laws」など、ハート・ウォーミングな曲のイメージとはそぐわないものだったりする。そういったほんの少しの違和感といつか見た夢の断片を丁寧に繋ぎ合わせたような趣があちこちで顔を覗かせていて、それを発見するたびにハッと息を呑んでしまう。ともかく、『TODAY』にはまだ見たことのない景色が広がっているし、果てしなさを見せつける音世界に思わずゾクゾクする。聴けば聴くほどパンチを喰らわされる唯一無二の作品だ。



(粂田直子)

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The ‎Juan MacLean『In A Dream』.jpeg

《この光は愛によって照らし出されたもの この場所にあるすべての愛によって たくさんの声に耳を傾けてほしい どうかもう一度だけ》

(「Tonight」)


 この印象的な一節が登場する「Tonight」が収められた、ザ・フアン・マクリーンのセカンド・アルバム『The Future Will Come』。このアルバムを聴いたとき、筆者はすぐさま、"ああ、彼らはディスコの歴史を理解しているな"と思った。それは、ディスコが主にゲイなどのマイノリティーによって支えられた音楽であり、広められたという歴史。もちろん、"情報"としてなら、検索エンジンに"ディスコ"と入力すれば誰でも知ることができる。しかし、"知る"ことと"理解する"ことは、似ているようで別物だ。理解するためには、その音楽が積み重ねてきた歴史や文脈を体得しなければいけない。歴史から逸脱した表現も魅力的ではあるが、その逸脱も歴史を理解していなければ到底不可能な芸当だ(一部の天才と呼ばれる者を除いて)。


 ザ・フアン・マクリーンは、自らが鳴らしている音楽の歴史や文脈をちゃんと理解したうえで、それをより多くの人がコミットできるポップ・ソングに変換する才に恵まれている。先に引用した一節だけでなく、彼らが紡ぐ言葉のほとんどは、この世に生きるなかで抱く疎外感や孤独に心を荒らされる繊細な感性の持ち主にとって、小さくない励ましとなるものだ。性的指向は関係なく。


 こうした彼らの魅力は、『The Future Will Come』から約5年ぶりとなる本作『In A Dream』でも健在だ。前作以上にジョルジオ・モロダー的なエレクトロ・ディスコ色が濃くなり、「Love Stops Here」などは、さながらニュー・オーダーのようである。そういった意味で本作には、ポスト・パンク色も存在すると言っていい。前作のラストを飾った「Happy House」のようなアンセムはないが、そのかわりアルバム全体としての統一感は前作以上。ロボティックで、熱を帯びながらもどこか冷ややかな質感のサウンドが終始貫かれている。このような作風は80年代のニュー・ウェイヴを連想させるもので、ここ最近の作品でいえば、ラ・ルーの『Trouble In Paradise』や、マニック・ストリート・プリチャーズの『Futurology』に近い。


 歌詞のほうも特筆しておきたい。熱すぎないクールなナンシー・ワンの歌声に乗る言葉は、人の感情にまつわる機微を孕んでいる。この機微は、《君のことを本当に愛してくれる誰かに会えるかもしれない》《そして結局ひとりぼっちでクラブを出る》と歌われるザ・スミス「How Soon Is Now?」でも描かれた、"期待と失望" に通じるものだ。簡単には説明できない、複雑にこんがらがった感情と哀愁。さすがに《そして死にたくなるんだ》(ザ・スミス「How Soon Is Now?」)とまでは歌わないが。



(近藤真弥)

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AnD『Cosmic Microwave Background』.jpeg

 2013年も終わりに差しかかったころ、筆者はツイッターで「来年はハード・ミニマル」という予言めいたことを呟いた。この年は、イギリスのシフテッドが『Under A Single Banner』という、《Modern Love》などを中心としたポスト・インダストリアルの潮流とも共振できるハード・ミニマル・アルバムを発表したし、クラウズはティガ主宰の《Turbo》から、ダブステップ以降のベース・ミュージックとジャングル、そしてハード・ミニマルとインダストリアルを接続した『Ghost Systems Rave』をリリースしていた。それゆえ先に書いた予言を呟いたのだが、今年のダンス・ミュージック・シーンを見ていると、それもあながち的外れではなかったと我ながら思う。政治的メッセージが込められたパーク『The Power And The Glory』には、初期のジェフ・ミルズを想起させるハード・ミニマル・トラック「Dumpster」が収められ、現在16歳の新鋭ハッパは、マンニ・ディーと結成したハビッツ・オブ・ヘイトのシングル「Habits Of Heit」で、2010年代向けにダブステップを再解釈するなかでハード・ミニマルのエッセンスを取りいれている。パークはもともとハード・ミニマルに通じるトラックをいくつかリリースしていたが、ハッパのような新世代がハード・ミニマルに接近したのは見逃せない動きだろう。


 マンチェスターのデュオ、アンドによるデビュー・アルバム『Cosmic Microwave Background』も、こうした流れの上にある作品だ。本作を聴いて真っ先に思い浮かぶのは、初期のジェフ・ミルズ、サージョン、レジスといった、いわゆる90年代のハード・ミニマルやインダストリアル・テクノと言われるサウンド。このあたりは、長年のダンス・ミュージック・ファンにとって懐かしく感じるかもしれない。一方で、「Photon Visibillty Function」のグルーヴはハビッツ・オブ・ヘイトに通じるものとなっており、言ってみればダブステップを通過したインダストリアル・テクノとも言えるトラック。このトラックは、本作が過去のテクノを模倣しただけの懐古的作品ではないことを証明している。


 そして、ハード・ミニマルやインダストリアル・テクノにありがちなグルーヴ感の乏しさとも本作は無縁だ。ベース・ラインとリズムの組みあわせ方も秀逸で、アルバムとしての統一感を作りつつもグルーヴは多種多様。ゆえに本作は、ダンスフロアに相応しいのはもちろんのこと、リスニング・アルバムとしても優れている。


 激しくも冷ややかで、破壊的。そんなテクノ・アルバムに仕上がっているが、よくよく聴いてみると、アンドの巧みなサウンド・プロダクションを楽しめる深い作品。



(近藤真弥)



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OGRE YOU ASSHOLE『ペーパークラフト』.jpg
《あなたの周りを気づけば占領》
(「見えないルール」)


《きれいな海 あふれる光 ハリボデの街もなんだかいい》
(「いつかの旅行」)


 このふたつの印象的な一節が登場する、OGRE YOU ASSHOLE(オウガ・ユー・アスホール : 以下 オウガ)の最新アルバム『ペーパークラフト』を聴いて筆者が想起したのは、1998年に公開された、アレックス・プロヤス監督による映画『ダークシティ』だ。


 『ダークシティ』は、舞台俳優としても知られるルーファス・シーウェルや、今では "ドラマ『24』のジャック・バウアー" と呼ばれがちなキーファー・サザーランドのコミカルな演技を楽しめるSFスリラー。ルーファス・シーウェル演じるジョン・マードックが、ある日バスタブの中で目を覚ますと、なぜか記憶をなくしていて、おまけに殺人犯として追われる身になっていた。ジョンは逃亡を続けるが、そのなかで彼は、いま自分のいる街がストレンジャーという謎の異星人たちによって作られたものであり、その街に住む人々の記憶も、人の心を知るというストレンジャーの目的のため操られていること、さらに、自分が生まれ育った "シェル・ビーチ" は存在しないという事実を知ってしまう、というのが大方のストーリー。そんなストーリーは観客に、"真実"とはなんなのか?、そして、ジョンと妻であるエマの関係を通して "人との繋がり" について問いかける。


 アレックス・プロヤスが『ダークシティ』に込めたメッセージ、それは、人々は記憶に生かされるのではなく、おのおのに沸き立つ偶発的感情や不確実な行為の積み重ねによって生かされ、互いを繋いでいくということ。ストレンジャーは、同じ記憶を全員で共有しながら生きてきた画一的存在として劇中に登場するが、そのような存在に打ち勝つジョンは、偶発的感情や不確実な行為によって生じる多様性の象徴と言える。現にジョンは映画のラストで、戦いのなかで得た、ストレンジャーと同様の街を作りかえる力でシェル・ビーチを作り、ジョンの妻としての記憶を失い "アンナ" となってしまったエマと、シェル・ビーチに向かって共に歩きだす。つまり、偶発的感情のひとつである "愛" を信じたのだ。


 そんな『ダークシティ』と類似する思想が、『ペーパークラフト』では描かれているように聞こえる。そうなると、腰を据えて聴かなきゃいけない重厚な作品と思うかもしれないが、クラウトロック、ファンク、ポスト・パンクといった要素によって築きあげられたミニマルでサイケデリックなサウンドスケープは、重苦しさを感じさせない。肉感的なベース・ラインとシンプルなリズムでグイグイ引っぱっていく「見えないルール」や、トライバルなリズムが印象的な「ムダがないって素晴らしい」などは、ダンスフロアで流れたら観客が踊りだすであろうグルーヴを持っている。もちろん、石原洋(サウンド・プロデューサー)や中村宗一郎(レコーディンク/ミックス・エンジニア)という長い付き合いを持つスタッフと練りあげられた音粒は、聴きこめば聴きこむほど味わい深さが増してくるし、さまざまな音楽的要素が上手く混在しているおかげで何度聴いても飽きがこないから、腰を据えて音楽に向きあうタイプの聴き手にも届くだろう。おまけに、リリースからある程度の時が流れても、ふと想いだしたように再生してしまう魔力も宿っている。だが、誤解を恐れずに言えば、さながらイージーリスニングのように聴けるのだ。ソファに寝そべりながら・・・なんてシチュエーションで聴いても本作は見事に機能する。少なくとも、レディオヘッドのような聴いていて死にたくなる暗さはまったく感じられない。


 とはいえ、歌詞に注目してみると、『homely』とそれに続く『100年後』の流れを汲んだシニカルな言葉選び、さらには『homely』リリース時のインタヴューで出戸学(ヴォーカル/ギター)が語っていた、「居心地がよくて悲惨な場所」(※1)というテーマが健在なのは明白。ゆえに本作では、"熱を帯びた音に冷ややかな言葉" という、非常に興味深い共立が実現している。その共立は聴き手の多様な聴き方や解釈を許す余白を備えており、この点は坂本慎太郎の『ナマで踊ろう』に通じる。片手間で音に耳を傾けるだけでも惹かれるが、そこから作品に深く入り込むと想像力が刺激され、「画一的な熱狂」とは異なる連帯を私たちにもたらしうるという意味で。このような余白には、現在の日本を当てはめることも可能だし、身の周りの人間関係を重ねても不自然ではない。過去に出戸学も言っていた、「そういう場所をどう思うかっていうのはみんな次第なんじゃないかな」(※2)という姿勢が残っているからだ。


 また、本作の歌詞が、『homely』や『100年後』と比べるといくばくか具体的になっている点も見逃せない。もちろん、いろんな解釈ができる曖昧さを孕んでいるのは確かだ。しかし、《みんなが未来や夢を語り合った 問題は誰を見捨てるか》(「他人の夢」)、《不気味だルールは》(「見えないルール」)など、オウガにしては "言い切った言葉" も目立つ。


 かつて出戸学は、弊誌のインタヴューにおいて、編集長の伊藤英嗣と次のようなやり取りをしている。


「伊藤 : 日本でも何でもいいんだけど、『居心地がいいんだけどどうなのか...』という部分にしぼって、ズバリどうなんですか? そこを脱出したほうがいいと思うのか、それともそこにずっと居つづけていいと思うか?

出戸:気づかなかったらいいと思いますけどね。気づいちゃったときは居られなくなるんじゃないすかね。そんな感じしますけどね。」(※3)


 もしかすると、本作を作る過程でオウガは気づいてしまったのかもしれない。だからこそ、"言い切った言葉" が多くなったのではないか? そう考えると本作は、バンドとして着実に深化を果たしながらも、共時性と通時性の共存という音楽の理想形に近づいた傑作だと言えるだろう。



(近藤真弥)



※1、※2、※3 :  クッキーシーンでおこなわれた『homely』リリース時のインタヴューより引用。


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Kane West『Western Beats』.jpg

 ロンドンのレーベル《PC Music》を知ったのは、今から1年前くらいになるだろうか。キッカケは、ダニー・L・ハールの「Broken Flowers」という曲だった。シンプルなハウス・ビートに、哀愁を漂わせるメロディー。初めて耳にしたとき、なんだかオーパス3の「It's A Fine Day」を想起してしまったことは、今でも鮮明に覚えている。そこから《PC Music》のリリース作品を漁ってみると、トラップ・ビートに心地よい緩さを持つラップが乗るGFOTY「Bobby」や、UKガラージをキュートに鳴らしたデュックス・コンテンツ「Like You」など、バラエティー豊かなカタログであることもわかった。このあたりは、さまざまな要素が混合した音楽を数多く生み出してきたイギリスのポップ・ミュージック史に通じるなと思ったり。


 また、《PC Music》はヴィジュアル面も面白い。リリース作品のほとんどはサイトでフリーダウンロードできるのだが、作品ごとに凝った仕掛けが施されている。そのほとんどが思わずクスッとさせられるものだから、サイトを散策しているだけでも楽しい。こうしたトータル・アート的な見せ方は、同じく新世代のレーベルとして注目を集める《Night Slugs》とも共振するものだ。アーティストでは、FKAツイッグスやアルカなども、トータル・アート志向の持ち主と言えるだろう。ヴィジュアルやイメージなども重要視する多角的な見せ方は、数多くの娯楽で溢れる現在においては自然な選択なのかもしれない。膨大な情報量が行き交う現在、ただ音楽を作って発表するだけでは、多くの人に知ってもらうことは難しい。いま、最先端とされているレーベルやアーティストの多くが、ヴィジュアル面でも独自性を明確に打ち出しているのは、おそらく偶然ではないはずだ。


 さて、今回取り上げたケイン・ウェスト(と読むのだろう)の『Western Beats』、《PC Music》からのリリースにしては渋いと言えるサウンドだ。「Gameset」で鳴り響く人工的でツルッとしたシンセは《PC Music》印と言えなくもないが、全体的には、2000年代前半に隆盛を極めたエレクトロクラッシュ、それから初期の《Turbo》に通じる、シンプルでチープなサウンド・プロダクションが際立っている。音の抜き差しは最低限にとどめ、執拗な反復によって高い中毒性を生みだす。それでいて、ダンスフロアだけで通用するような偏った音作りはせず、iPhoneに入れて外で聴くというシチュエーションにも適したポップネスを備えている。収録曲から適例を挙げると、ミニマルなリズムの上に女性ヴォーカルのリフレインが乗った「Baby How Could We Be Wrong」や、ケロケロボニトのセーラが参加し、隙間だらけのビートが耳に残るシカゴ・ハウス「Good Price」になるだろうか。


 一方で、「Power Of Social Media」ではヒットハウスの「Jack To The Sound Of The Underground」をサンプリングしたりと、過去のダンス・ミュージックに対する造詣もうかがえる。こうした側面は、先に書いたエレクトロクラッシュや《Turbo》周辺に通じる要素も含めて考えると、最先端の音を闇雲に求めるというよりは、自身の中にある個人的音楽史を解体/再構築した、いわば"情報で遊ぶ"という感覚が根底にあるように思える。ゆえに本作は、《PC Music》のカタログを彩るに相応しい同時代性と、先達が築きあげてきた歴史や文脈を重んじる人たちも巻き込める魅力を持つに至った。そんな本作は、ただ情報で遊んでいるだけのその他大勢から抜きん出た作品である。



(近藤真弥)



【編集部注】『Western Beats』は《PC Music》のサイトでダウンロードできます。

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 日本のポスト・パンク/ニュー・ウェイヴに感銘を受け、バンド活動だけでなく音楽ライター業、レーベル運営まで手がけるイアン・マーティンという英国人がいる。カヴァー・バンドを結成するくらいガイデッド・バイ・ヴォイシズを愛し、ヒカシューをフェイヴァリットに挙げる男。去る2014927日、東高円寺二万電圧にそんな彼のイベントを観に行った。筆者好みのアクトだったのは、ニュー・オーダーを想起させる2組。キーボードを歪ませて、激しく楽しくパワー・ポップ寄りなJEBIOTTO(ジェビオット)。それから、一見オシャレな女性スリー・ピースだが、ときに民謡のような力強い節回しのヴォーカルと、ファンク寄りのポスト・パンクなグルーヴ感が素晴らしいmiu mau(ミウ・マウ)。両バンドとも、歌い手の華奢な身体のどこからあんな気迫が出てくるのかと引き込まれた。


 メロディアスで踊れる彼女らとは対照的だが、度肝を抜かれたのが鹿児島のサイケデリック・デュオ、経立(ふったち)だ。長い黒髪の女性イグゼット漱石が叫びながら歌い、痙攣するように叩き弾く鍵盤の轟音。そこに長身、スーツの男性O-miの爪弾くギターが荘厳な雰囲気を加える。歌というより原初の叫びと衝動的に鳴らされる伴奏、その中に景色が見える。凄惨な景色、美しい景色、もの悲しい風景。単純なノイズの繰り返し、そのズレ、隙間に様々な感情がよぎる。


 本作は30分ワン・トラック音源。時代の流れの真逆。ツイッターフェイスブックで目にするキャッチ―な3分間ポップスや、タイトルで興味を引きクリックさせるようなニュース記事とは対極のアプローチだ。同じ形式で有名なのはX JAPANART OF LIFE』。クラシックの素養を持つYOSHIKIは組曲としてこの長さがないと自分の半生を表現できないと考えた。本来、人の思考なんて複雑で簡単には表せない。そして、『ART OF LIFE』も『Tane to Zenra』も約30分という長尺にも関わらず、聴きだすと引き込まれ最後まで聴いてしまう。


 本作では途中、「君が代」を連想させるギター・フレーズが何度も聴ける。繰り返し現れるうちにそれは歪み、高速化してハード・ロック調になる。子守唄のように優しいコーラスが加わった後に全てはフェイド・アウトしていくが、最後まで残るリズム・トラックの単調な響きで、ふいに私は幼少期の記憶を思い出した。両親が帰ってこない公営住宅の一室で眠れずに過ごす私の耳にコツコツと規則的で不気味な音が大きく響き、それに合わせて両瞼がひどく痙攣して苦痛を覚えた。度々そういうことがあったが、音の正体は秒針が動く音だったと後に気付いた。時計は私の不安も同時に刻んでいたのだ。


 柳田國男『遠野物語』によれば、"経立"とは長寿を経た動物が妖怪化したもので、主に東北に分布するという。誰しもが抱く不安を別の形に置き換えた彼らの音楽はまさに妖怪と同じ。時に妖怪は災害のメタファーとして生まれる。川で子どもが溺れ死ねば、河童に尻子玉を抜かれたという。子を失った親の悲嘆を背負うのが妖怪だ。


 スピードに重きが置かれる情報化社会において、伝わりやすく拡散されやすいキャッチ―な表現は便利だ。しかし世界の様々な事象、それに伴う人々の感情はそれだけでは正確に表せない。経立の音楽のように、長い時間と手間を要する表現にアートもメディアも最終的に回帰していくはず。



(森豊和)

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 ノラ・ジョーンズが組んだ女性3人組バンドのファースト・アルバム。メンバーのひとりサラ・ドブソンはジェシー・ハリスのレーベルからデビューした人、キャサリン・ポッパーはライアン・アダムス(リリースされたばかりの新作もグレイト!)のバックで活動していた...という経緯からも想像できるとおり、ギターを手にしたシンガー・ソングライターもしくはアメリカン・オルタナティヴ・カントリー・ロック色の強い作品となっている。


 全12曲中、ノラが1曲、サラとキャサリンが2曲づつオリジナル・ナンバーを提供しているほかは、ジョニー・キャッシュ、ザ・バンド、ウィルコらの歌唱/演奏で知られるもの。「みんなで歌おう、誰の曲でもない」というフォーク・ミュージックの(いい意味での)伝統を受けついでいる。


 1曲目がトム・パクストン「Leaving London」、ちょうど真ん中あたりに位置する6曲目がニール・ヤング「Down By The River」という選曲の妙も素晴らしい。「愛する人に会いたい、明日にはこの町を出よう」と歌われる前者で描かれた町の冷たさは、今の時代にも似合いすぎるほど似合ってる。そして、トムのような男性が歌ってもプス・ン・ブーツのような女性たちが歌っても、悲しくもあたたかい人間の心がじんわりと胸にしみてくる。


 後者「Down By The River」は、彼がクレイジー・ホースと組んでリリースした初のアルバム『Everybody Knows This Is Nowhere』でも、ど真ん中に収められていた名曲だ。永遠の傑作たるその作品の冒頭は「Cinnamon Girl」でクロージングは「Cowgirl In The Sand」だった。どちらも男性の立場から女性に向けて歌われた曲としてぼくが最も好きなもの(軽く数百はあると思われ...:汗&笑)のひとつ、女性が歌うのは似合わない。だが、こんな事実は、まるで幻が訴えかけるかのごとく、彼女らこそ「Cinnamon Girl」であり「Cowgirl In The Sand」(のひとり)であるとむしろ明白に語っているようだ...って、彼女ら自身はたぶん意識してないと思うけど(笑)。


 プス・ン・ブーツというバンド名もおもしろい。今回は、字義を明らかにするためこの表記にしたが、プスンブーツというのも、もちろんあり。ロックンロール(ロック・ン・ロール/Rock 'n' Roll/Rock And Roll)と同じように。そして『バカがいなけりゃ、お楽しみなんて存在しない』というアルバム・タイトルが、また最高。こういった言葉の使い方の妙が、「ジャズ界の大御所であるブルー・ノート・レコーズから純正フォーク・ロック・アルバム!」というトゥー・シリアスもしくは「タグ」に縛られた堅苦しい評価に傾いてしまうことを、軽やかにかわしている。最近日本で、ジャズを新しい視点で評価する本(編注:『Jazz The New Chapter』シリーズ)が話題になっているようだ。ぼく自身は読めていないのでなんとも言えないのだが、そんな人たちがいる一方で、彼女らのような人たちもいる(笑)。いいバランス...なんじゃないかな。こういった部分は、ブルー・ノートの現社長が元ウォズ(ノット・ウォズ)のドン・ウォズであることの影響も決して小さくないだろう。


 風通しの良さ、ピカイチ。日本の秋にも、合ってるよ。



(伊藤英嗣)

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Giant Claw『DARK WEB』.jpg

 ディープ・ウェブ(Deep Web)という概念はご存知だろうか? 簡単に言うとディープ・ウェブは、ウィキペディアなどの情報サイトが漂うサーフェイス・ウェブ(Surface Web)よりもさらに深いところにある情報群のこと。グーグルやマイクロソフトのビング(Bing)といった検索エンジンに拾われないプライベートネットワークや、データベース、イントラネット、さらには、違法ポルノや海賊版メディアのやり取りをおこなう際に重宝されるトーア(Tor)など、これらによって形成されている。通説として、いまあなたが見ているこのレヴューも含め、人の目につきやすい情報やサイトは、ワールド・ワイド・ウェブに占める割合でいうと全体のわずか1%程度だと言われている。もしかすると、このレヴューを見ている人のなかには、途方もない量の情報を取捨選択するだけで大変・・・という人もいるかもしれないが、その目に見える情報ですら、たったの1%程度なのだ。


 なんて書くと、なんだか茫然自失としてしまうが、ジャイアント・クロウことキース・ランキンによる『Dark Web』を初めて聴いたとき、そんなディープ・ウェブのことを想起してしまった。本作は端的に言うと、フライング・ロータス主宰の《Brainfeeder》を中心としたLAビート・ミュージックが基調にありながらも、トラップ、R&B、ファンク、ジュークなどの要素が振りかけられた、膨大な情報量を誇るコラージュ・ミュージックだ。バラバラのように聞こえるたくさんの音粒やフレーズがクロス・リズム的にひとつのトラックとしてまとめられると、いびつながらも体を揺らしたくなるグルーヴが生まれるのだから不思議。人工的な響きを携えたシンセ・サウンドは同時にどこか温もりを感じさせ、耳に違和感と心地よさを残してくれる。特定のジャンルを拡張したり掘りさげるというよりは、幾多の要素を自らのセンスに任せて接続したような音作りが目立ち、そうした側面から本作は、ユーチューブにアップされた動画などからサンプリングすることも多く、近年のポップ・ミュージックを語るうえでは欠かせない潮流のひとつであるヴェイパーウェイヴ(vaporwave)以降と捉える人が多いと思う。実際、ジャイアント・クロウのバンドキャンプでは、本作に"vaporwave"のタグがつけられてもいる。


 しかし、そのような捉え方を喧伝してしまうと、本作の万人性を見逃す危険がある。FKAツイッグス『LP1』のレヴューで書いたことを繰り返すようで恐縮だが、かつてロキシー・ミュージックは、「Re-Make/Re-Model」という曲でコラージュ的な解体/再構築を試みているし、さまざまな音楽が並列に置かれている本作の特徴にはDJカルチャーの文脈を見いだせなくない。もっと言えば、あらゆる要素を取り込もうと試みる全能感に満ちた本作の折衷性は、すでに存在していたとも言える。例えば、クラフトワークが1978年に発表したアルバム、『人間解体』がイギリスにあたえた影響にまつわる話で、元ウルトラ・ヴォックスのジョン・フォックスは興味深いことを述べている。長い引用になってしまうが、それは次のようなもの。


 「その頃(おそらく79から80年にかけて。『人間解体』)、イギリスは脱工業化時代に突入していた。どの街もやたらと巨大で、汚くて、コントロール不能になってたんだ。パンクっていうのは、そういう時代に反応するためのきっかけだったと言っていい。でも"怒ってばかり"の時期は終わった。あれは、乳母車の中でおしゃぶりを吐き出してるのと同じ、見た目はおもしろいけど意味がなかったんだ。それに代わる何かが必要だった。みんなの胸にある驚きや恐怖、美しさ、ロマンス、虚勢、希望、無力感といったものを表現するための何かがね。で、それを可能にしたのがシンセサイザーだったわけさ。(中略)新世代の若者たちは、それまでの世代がしてきたのと同じように、身の周りのガラクタや古くなって捨てられていた要素をかき集めて、自分たちの文明を組み立て始めたんだ。『コレっていいかも』って思うものなら何でも取り入れようとした。ディスコ、フィルム・ノワール、ポップ・ソング、ロック、安っぽいSF、三文小説、漫画、前衛芸術、髪型、それに限定な意味でのセックスと暴力もね。あとバラードやバロウズみたいな作家、キューブリックみたいな映画、ウェンディ・カーロスみたいな音楽、それに「カッコいい!」って思う態度......とにかくすべてひっくるめてさ。」(※1)


 他にも、少しばかり突飛な例かもしれないが、フジテレビの石田弘は83年に『オールナイトフジ』という番組を始めたキッカケについて、「情報過多の時代に入っていたので、情報を先取りするんじゃなくて、情報で遊ぶんだという発想で始めたわけです」(※2)と語っていたりする。いわば情報で遊ぶ感覚は、20年以上も前に至るところで見られたというわけだ。


 もちろん、本作のオープニングを飾る「DARK WEB 001」などでうかがえる、LAビート・ミュージックなどを下敷きにした変則的なグルーヴに、ディスコでよく用いられるオクターブ・フレーズを違和感なく忍ばせるセンスは "今" ならではだと言える。だが、何よりも興味深いのは、その "今" が過去に通じる歴史性を孕んでいる(あるいは見いだせる)ということだ。ゆえに『Dark Web』は、インターネット・ミュージック的感性をまとったものではあっても、インターネット・ミュージックとは言い切れない絶妙な立ち位置を獲得し、もっとあけすけに言ってしまえば、"わかる人にだけわかる魅力"という限定的な枠組みから見事に逃れている。情報過多の時代に入りはじめた20年以上前の世界から現在に至るまでの動きがたどり着いた先端、それが『Dark Web』なのかもしれない。


 そういった意味で本作は、ヴェイパーウェイヴが登場してから数多く生まれた、インターネット・ミュージックと呼ばれる音楽がいままで突破できずにいた壁、つまり、インターネット・ミュージックという枠を拡張しつつも、そこに縛られない普遍性と万人性を手にした作品のひとつとして祝福されるべきだと思う。『Dark Web』は、過去、現在、そして未来を繋ぐ架け橋のようなポップ・ミュージックである。



(近藤真弥)



※1 : デヴィッド・バックリー著『クラフトワーク エレクトロニック・ミュージックの金字塔』223~224ページより引用。


※2 : フジテレビジョン編集『フジテレビ・全仕事』64ページより引用。