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 96年に結成され、現在は勝井祐二、山本精一、芳垣安洋、岡部洋一、原田仁、益子樹の6人組のバンド、ROVO。彼らは「何か宇宙っぽい、でっかい音楽」をコンセプトにし(このコンセプトは半分冗談のようだが)、フジロックや朝霧JAMなど多くのフェスに出演している。毎年5月には「宇宙の日」と呼ばれるROVO主催のフェス、MAN DRIVE TRANCEの本拠地、日比谷野外音楽堂を満員にし続けている。音楽の素晴らしさはもちろんのこと、異国の音楽性を貪欲に取り入れる姿勢や様々な音楽家との交流にも積極的でアルゼンチン音響派と呼ばれる音楽家とライヴを行なったことは記憶に新しい。キセルやポラリス、エンヴィーなど、多くのミュージシャンからの信頼も厚い。ROVOの音楽性はグレイトフル・デッドや再始動したデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンと比較され、また、なぜかポスト・ロックの文脈で捉えられることもあった。それはROVOの音楽的多面性があってこそ。生楽器主体にダンス・ミュージックを意識しているROVOは人力トランスと評される。
 
 海外では前衛音楽だと評されたこともあるようだが、たとえ前衛的だとしても、ROVOの姿勢として「分かる奴にだけ分かればいい」という妙なアーティスト気質がないことを挙げられる。ROVOはとことんアヴァンギャルド的な音楽をやろうと思えば平気な顔でいくらでもやれるとは思う。が、絶対にやらない。あらゆる種の嗜好のリスナーも虜にしてしまう包容力がある。だからこそポピュラー・ミュージックとして大きく羽ばたいているのだろうし、ファンは村社会化せず、特別ROVOに熱心ではないリスナーにも支持されているのだろう。そもそも「ライヴ・バンドだ」と自ら宣言している彼らだ。決して独りよがりにならず、オーディエンスをリスペクトする姿勢は崩さない。媚びているところもない。
 
 ROVOに関して前述したことは言わずもがな、かもしれない。ただ、ライヴで感じられるカタルシスがCDからも十分感じられるのかと問われたら、ライヴ盤を聴いても僕は首を縦に振れなかった。ライヴとCDを完全に別けて聴けばいい、という話になってしまうが、それでもだ、ROVOのライヴ体験は圧倒的過ぎるゆえに作品を聴いていて、僕は、わがままにも歯がゆさを感じていた。おそらく同じ思いをしているリスナーは多い。しかし、2年ぶり9作目のオリジナル・アルバムとなる本作『Ravo』にはライヴにも負けないカタルシスがある。
 
 ミニマル・ミュージックを意識している彼らの音楽は同じフレーズを反復することで永続性を醸し出し、徐々に沸点までもっていき、爆発させることが特徴としてあった。それは過去の作品同様、貫かれているのだが、本作ではツイン・ドラムのドラミングや攻撃的とも言えるヴァイオリン、ギターなど、全ての楽器が高揚する沸点の瞬間を瞬間的に、ではなく、常に反復させている。いわばライヴで感じられる最高潮の瞬間が本作に詰まっている。しかも瑞々しく、浮遊感があり、ヘッドホンで聴けば否応なしにトリップする。それは外から与えられているというよりも、体の中から瞬時に湧き出てくる高揚感だ。プログレッシヴ・ロックを愛する勝井祐二の変拍子に対する解釈も抜群で、より音楽を盛り上げるものとして働いている。インプロヴィゼーションも違和感なく楽曲にはまるところではまっている。ROVOの最も魅力的なところに満ちている作品だ。
 
 しかし単に「ROVOの魅力」の寄せ集めではない。スウィング感がどのスタジオ録音盤よりも増しているし、ライヴ以上の迫力がある。それはCDという「作品」にメンバーがこだわったことの表れでもあるのだろう。作品でしか表現できない細かなアレンジが、立体的な空間の中で音響をひとつ残らず聴かせるものになっていて、いくつものグルーヴが次々と一体となっていくさまは怒濤。だが圧倒的に清々しい。聴いていて音楽と分かち合えていると感じられるほどに親密性が高く開放感がたっぷりある。ROVOは感情を呼び起こし発散させる音楽をやっていると思っていたが、発散ではなく解放させる音楽をやろうとしていることに本作を聴いて気付いた。そしてそれを本作でやってのけた。感情の発散は空になるだけだが感情の解放は自由を生みだす。自由は人と人との繋がりを生み出し続ける。そんな空気を含む音楽が、閉塞感に溢れていると言われる時代にあって、堂々と響き渡っているのは爽快だ。数百年前に西洋で音楽は宇宙だということが本気で信じられていた時代があったが、「宇宙っぽい音楽をやろう」というROVOはポピュラー・ミュージックとして、曖昧だとしても宇宙を音で呼び起こしている。聴いていると彼らの宇宙とは音楽と聴き手の、そして人と人との繋がりだと思え、頼もしく、嬉しい。人との繋がりも宇宙と同じで無限だ。その可能性を音楽で突破した感がある。本作を聴き、ライヴに行くもよし、ライヴをまず体験して本作を聴くもよし、ROVOを聴く最初の一枚としても最適。

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 ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、「すばらしい詩や美しい物語が、何の役に立つのかと尋ねることは、愚かなことだ。たとえば、カナリアの歌声や夕映えが生活に不可欠かどうかを、日常の言葉で立証しようとするようなものだ。」と言っていたが、言葉によって説明できない対象の先に空虚な仕掛けが持ち上がったことを、今、ポストモダンの作法に沿って、名称化するには時代が早すぎる。何故ならば、今は、もはやポストモダンですらないからであり、逆回った近代の下に大文字の感性論が収斂していると言えるかもしれないからだ。だからこそ、生活の中に埋め込まれることすら無くなりかけている文学やナラティヴが持つ文字の羅列は決して、人間自体を幸福にも善き方向へと運びはしないが、自由にはさせることができるということ自体を、改めてメタ的に喧伝しないといけない(表現)行為性に対してはどう対峙すればいいのだろうか、と考える。意味があることを求める行為自体が、意味がないとされるのならば、意味がないことは最初から「諦めてしまう」しかないのかもしれない。または、モーリス・ブランショのように「読書空間」を設定して、完全に日常空間と切り隔ててしまうべきなのか、時折、混乱してしまう。

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 ナラティヴとは、一種の装置としての暴力を加速、増幅させ、同時に救済に似た何かを個々にもたらす。例えば、人間の人間に対する馬鹿げた行為、愚行といったものは凡庸な暴力の形式(コード)の一つであり、そのコードに沿い、様々な偏見や悪意や謀略が巡らされることになる。そして、コードから演繹された景色が背景となり、自分の理想や想いを切断する現実の世界とは違った世界への渇望を照射するために、ナラティヴは用意されるという可能性が出てくる。そのナラティヴの仮構化を試みることで、荒れ果てたリアリティと幻惑的な未来の間隙を縫い、虚無だけを避けることができる。

 昨年、ノーベル文学賞を受賞したペルー出身のマリオ・バルガス=リョサは、大きなナラティヴと文学の復権に常に挑み続けている作家であり、人間に纏わる不条理や虚無に対峙し続けてきた。出世作となった1966年の『緑の家』では、サンタ・マリーア・デ・ニエーバという街に建つ売春宿「緑の家」を中心にして、五つのストーリーがほぼ切り替えなしで語られるというもので、ここで用いられたそれぞれの人物のモノローグの巧みなスイッチのオンとオフの仕方、シーンの改変、緻密な情景描写がカオティックにドライヴしてゆく「構成」こそが、いわゆる、マジック・リアリズムの醍醐味と言われるべき点かもしれない。ラテン文学におけるマジック・リアリズムとは、代表作とされるガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の印象もあり、どうも誤解されているところもあるが、細部は厳然たる現実的なもので生活に密着したものであり、語られていることの全体像が幻想的だという特徴を持っており、『緑の家』に関しても、細部のリアリズムは徹底されている。

 また、彼といえば、1973年の『パンタレオン大尉と女たち』、1977年の『フリオとシナリオライター』などユーモア溢れる作品やゴーギャンとその祖母で革命家のフローラ・トリスタンの生涯を壮大に紡ぎ上げた2003年の『楽園の道』のような作品も面白いが、個人的には、1981年の『世界終末戦争』でのシリアスで重厚な内容に潜む人間の尊厳性を再定義するような視座こそが彼の本懐だと思っている。

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 このナラティヴの下地になっているのは、ブラジル内陸部の奥地で19世紀末に実際に起こったカヌードスの叛乱である。貧しい奥地セルタンゥに、コンセリェイロと呼ばれる流浪の説教師が現れ、不思議な威厳と福音で貧しい人々の心を掴んでいく。貧者ばかりでなく、身体障害者、盗賊、犯罪者など、さまざまな人間たちが彼の周りに集う。やがて彼らは、カヌードスという村に共同体を構え、神の教えだけに従って生きていこうとするが、共和国政府はこれを反乱とみなし、制圧のために軍を差し向け、衝突する。この貧しいクリスチャンたちとブラジル軍の闘いをカヌードスの叛乱と言う。そして、このカヌードスの叛乱を全体の物語の軸に沿えながら、無数の人々の輪郭が丁寧に描かれる。少年信者ベアチーニョ、高い知性と巨大な頭を持ち、四足歩行するナトゥーバのレオン、黒人奴隷ジョアン・グランジ、などそれぞれの登場人物に付随する幾つもの挿話、背景が鋳型を成していった結果、読み手が感情移入できる余地ができる。しかし、その余地はまた伏線のナラティヴによって想わぬ形で回収されてしまう。

 同じ国に居ながらも、全く違った価値観と時間を生きている彼らはお互いを理解することは決して出来ないが、それぞれの「正義」や「信心」を持っており、それらがリョサ特有の筆致で平等に拾い上げられる。時系列が交差し、それぞれの人物の精神描写が複雑に絡み合いながら、カヌードスでの闘いは終末に向けてよりシビアな展開になってゆくが、"カヌードスというのは一つの物語ではなく、沢山の枝分かれする物語が集まった樹木のようなもの"と記すように、そこには総てがあったが、なにもなく、カヌードスの闘いを巡って呈示される人間の尊厳(dignity)に関してこそ、読み手側の思慮がはかられることになる。

 グローバル化が進捗し、中心と非中心、支配と被支配、個の阻害という社会的矛盾が顕わになっている今こそ、この作品が総体的に投げ掛けるものは意味深長である。

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 新年あけましておめでとうございます。さて、あなたが昨年とりわけ気に入ったアルバムはなんでした? クッキーシーンのサイトでは、コントリビューター諸氏による「Private Top 10s of 2010」を近々発表する予定ですが、それのみならず読者のみなさんからも「Private Top 10s of 2010」の投稿を受けつけています。こちらをご参照のうえ、ふるってご応募ください!

 ぼくの場合、昨年のトップはザ・ドラムスのファースト・アルバム。LCDサウンドシステムのサードとMGMTのセカンドが、それにつづく感じ。このあたりは(ぼくにとっては)順当なセレクションと思える一方、愛聴度ってことで言えばライトスピード・チャンピオンのセカンド、そしてこのディーヴォによる20年ぶりのニュー・アルバムも絶対はずせない(これで、すでに5枚が決まってしまった:笑)。

 00年代におけるポスト・パンク・リヴァイヴァルの風にのって再結成して来日も果たした彼らだが、その時期には新譜をリリースしなかった。でもって、この『サムシング・フォー・エヴリバディ』、まさに「満を持して」と言える作品となっている。ディーヴォといえば、ひとを食ったセンスに関して「冷笑的」などと評されることも(彼らがデビューした70年代後半には)少なくなかった。たしかに、彼らのブラック・ユーモアの「黒さ」は並大抵じゃない。「人類の進化」といったコンセプトにつばを吐きかけるバンド名(evolutionの反対語としてのdevolutionの略)からして、明らかに「いいひと」の対極にある批評性を含有していることは間違いないのだが、その音楽は最高にポップ。ライヴは見事な(痙攣した、もしくはひきつった)ロックンロール。『あらゆるひとのための、なにか』というアルバム・タイトルどおりだ。

 彼らはこのアルバムに先駆け、彼ら自身のウェブ・サイトで収録予定曲を全部ファンに試聴してもらい、どれをアルバムに入れるべきか投票してほしいと呼びかけていた。アーティスト至上主義の放棄? インターネット時代にふさわしいポップ・バンドの在り方? どちらにしても、すごくディーヴォっぽい行為だと思う。

 その初期において、自主制作ショート・ムーヴィーも積極的に制作していた。MTVが全米を席巻する何年も前の話だ。1979年の初来日ライヴでは、演奏の前にそれが上映され、当時高校生になったばかりのぼくは完全に度肝を抜かれてしまった(ちなみに、ぼくが初めて見た外国人アーティストのライヴだった:笑)。徹頭徹尾ブラック・ユーモアに貫かれたショート・ムーヴィーの内容もさることながら、音楽とその他のメディアを同等にとらえる姿勢に、完全にぶっとばされた(それに影響されて高校時代には中学のときに始めたバンドを辞め8ミリ映画制作に没頭してしまった:笑)。インターネットというメディアの使い方ひとつをとっても、彼らの感覚が一切にぶっていないことがよくわかる。インターネットの発達は人間にとって「evolution」なのか、それとも「devolution」なのか、という問いかけも含めて(そう考えると、『サムシング・フォー・エヴリバディ』などというタイトルもブラック・ユーモアっぽく見えてきてしまう:笑)。

 音楽/ソニック的にも、今の時代にふさわしい、ジャストなものとなっている。00年代には、もう本当に(ぼくなどには)ディーヴォを思いださせる素晴らしいレコードが次から次へとリリースされていた(そのピークはLCDサウンドシステムの『Sound Of Silver』だったかも)。クラブDJをするとき、それらと並べてディーヴォをときどきかけてみたのだが、どうもしっくりこない。70~80年代のものなので多少古びた感じがするというか、当時を知らないひとには盛りあがれないという雰囲気がどうしてもこびりついていた。リマスターされたCDでも同じこと。そこに染みこんだ時代性は消せない、ということだったのだろう。しかし、このアルバムは全然大丈夫だ。ソウルワックスやダフト・パンクやLCDサウンドシステムと、実に心地よくつながる。

 実際、最初はLCDサウンドシステム(ジェームズ・マーフィー)やファットボーイ・スリム(ノーマン・クック)もプロデューサー候補に挙がっていたらしい。しかし、それをやらなくてよかったと思う。彼らは(とりわけジェームズは)おそらくディーヴォが好きすぎる(笑)。それでは自家中毒を起こしてしまうかもしれない。このアルバムには、そうではない客観的視点もある。

 メイン・プロデューサーはグレッグ・カースティン。ザ・バード・アンド・ザ・ビーの頭脳としても知られている彼だが、5歳のときにドゥイージル・ザッパ(もちろん、フランク・ザッパの息子)のバンド・メンバーとしてデビューしたL.A.オルタナティヴ音楽業界の鬼っ子である彼であれば、いくら若くともディーヴォを前にしておじけづいてしまうようなことは決してないだろうし、実際そうだったと思える。ほかにも、サンティゴールドことサンティ・ホワイトおよび彼女と組んで素敵な作品を残してきたジョン・ヒル、ザ・ダスト・ブラザーズ(ケミカル・ブラザーズじゃなくて、ビースティーとかの仲間だったほう。ぼくは彼らのほうがより好きだった)のジョン・キング、さらにマニー・マークことマーク・ニシタらが絡んでいる。

 今回からエナジー・ドーム(日本人には巻きグソのようにも見える帽子)の色が赤から青に変わったことを「彼らって、昔からイメージ先行だよね」とか冷笑的に語るひともいるようだが、もともとエナジー・ドームなんてものを彼らが導入する前からのファンとしては、そっちのほうがむしろこざかしいとしか言いようがない。彼らはイメージも音楽も最高なんだよ! 「我々は人間ではないのか? 我々はディーヴォ!」と昔から叫んでいたぼくのような人間...いやディーヴォはもとより、そうでないひと...エヴリバディに是非とも聴いておいてほしい1枚だ。リリースから数ヶ月たっているが、その程度では(当然ながら)古びることはない。

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 エヴリシング・エヴリシング『マン・アライヴ』のレビューでも少し触れたが、2010年の英国ではフォーク・サウンドが大衆的な人気を得ていた。なんとなくの推測だが、たとえば90年代におけるオアシスのような国民的なビッグ・バンドが生まれづらくなった(それはつまり、誰でも口ずさめるキャッチーな曲を書ける人間が減ったということかもしれないし、そういう曲を書いても誰もが耳にできる環境が衰退したのかもしれない)状況下のロック・シーンで、トラディショナルなメロディーやサウンドへと聴衆が惹かれ、回帰したくなるのもわからない話ではない。

 アメリカから数年遅れで00年代初頭あたりに勃興したイギリスのアンチ・フォーク・シーン(最近は"アンタイ"・フォークと表記することのほうが一般的みたいだ。ややこしい)も、エミー・ザ・グレイトやデヴィッド・クローネンバーグズ・ワイフ(改めて素晴らしいバンド名)のような捻くれた才能を輩出してきたが、これまた代表格バンドであるノア・アンド・ザ・ホエールの元メンバー、ローラ・マーリングの2010年作『I Speak Because I Can』は、ときおりハードな展開を見せつつも、蜃気楼や森のなかを縫って歩くような英国フォーク・サウンドの伝統を継承した、"アンチ"と形容するのも憚れる威風堂々としたアルバムで、とても20歳の女の子が作ったとは思えぬその音からはシーンの成熟さえ垣間見ることができた。彼女を中心に、イギリスのこのシーンはアメリカのそれとの交流も活発なようで、彼女もジェフリー・ルイスや元モルディ・ピーチズのアダム・グリーンらともステージを共にしていたみたいだ。

 で、そのシーンがそこまでの注目を浴びるに至った起爆剤となったのが、07年デビューであるマムフォード&サンズの登場と、彼らのつくった09年のアルバム『Sigh No More』である。全英チャートに55週間に渡りトップ40圏内にランクインするという、大ヒットにしてロングラン作となったこのアルバムとライブの評判で彼らはいちやく人気者となり、フェスやアワードにも引っ張りだこに。フリート・フォクシーズのようなバンドが歓迎されたとはいえ、この手の音が受けづらい印象のあるアメリカでさえも好評を集め、いよいよ日本でも一年遅れで国内盤がリリースされた。

 ブルーグラスやカントリーの影響を受けたバンドはエレキ・ギターの代わりにバンジョーを中心に据え、ライブ盤もかくやのエネルギッシュなサウンドが全編に漲っている。"フォーク"と聞いて想像しがちな静謐さとは違う、地響きまで起きそうなダイナミックな演奏による高揚感はアイリッシュ・フォーク譲りのメロディーにも起因している(実際、アイルランドのチャートでも1位を獲得)。フェアポート・コンヴェンションよりはポーグスやゴーゴル・ボルデロの音楽に遥かに近いと思う。イントロから徐々に熱を帯び、演奏の一体感が生みだすドラマチックな展開はヒット・シングル「Little Lion Man」に特に顕著。野太い声に重なる土臭いハーモニーも美しい。

 この作風で地味な方向に陥らなかったのはバンドのオリジナリティもさることながら、ビョークの『ヴェスパダイン』やアーケイド・ファイアなどを手掛けたプロデューサーであるマーカス・ドラヴスの功績も大きかったのだろう。足踏みやジャンプをしたくなる彼らの熱演はフェスでも大合唱の渦を巻き起こし、一方でレイ・デイヴィスもセルフ・カヴァーのお伴として起用、グレン・ティルブルックも最近のお気に入りに挙げるなど、老若男女に愛されるのも頷けるエポック・メイキングな作品だ。アルバム全体をとおしてやや一本調子というか朴訥なところも目立つが(それでいて、歌詞にはシェークスピアやスタインベックの影響が色濃いという!)、かつて英国パンクの先陣をきったクラッシュやダムドのファースト・アルバムがそうだったように、荒削りながら多大な可能性を秘めたサウンドが歓迎され、新たな道を切り開いているのはとても健全な証拠。正直、日本でもウケそうかと言われたら素直にウンと頷けないところもあるが、きっと彼らのステージを見たら圧倒されてグウの音も出なくなるだろう。気の利いていることに、国内盤には新曲のほかにライブCDも付属されている。

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 東京大学社会科学研究所で2005年度から進められている希望学プロジェクトというものにどうも個人的に首肯できない部分がある。例えば、玄田有史氏の「これまでの経済において希望は前提だった」、「今の若い人たちの問題などを考えると、希望があるという前提自体が崩れているように見える」というポイント自体には問題はないし、その通りだと思う。しかし、希望を社会の文脈で捉える中で、誰もの"個別な体験"をフレームとして希望内で括ると、個々の自由度や不安度の測量を曖昧にしてしまうところがあり、希望という大文字を修整した上で、一般論に落とし込む際の強引さがある。勿論、グローバリゼーションが進捗し、砂粒化した個々が艱難に生きることを要求されるこの世において、希望の質に関して議論するのは意味があることとは思うが、そのような抽象論では追いつかないくらい、現実は押し迫っているという側面もあり、その細部への降下、目配せが行き届かない点が気になってしまう。

 もはや、「希望的な何か」が失われてきているという憂慮は当たり前であり、今更、識者に語られるまでもなく、共通だった「通気孔」や「言語」がなくなり、誰もが息詰まることが増えた。だからこそ、構造論として上部から下部へと流れる空気は澱み、滞った結果として、スラヴォイ・ジジェクが今、装置化された近代的暴力への批判を積極的に行うことになったという所作は繋がる。それでも、ジジェクも指摘するように、主観的な暴力と"真正面"で向き合うと、自分自身がそこからの避難の意志を示そうが、その現象自体を生み出す「システム」としての暴力に関与している者たちの偽善にも「連結」されるという葛藤も発生してしまう。"希望的な何かの欠如の欠如"を補填するための導線付けは現代だと非常に困難であるというコンテクストも踏まえないといけない。

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 そんな中、ロンドンから現れた21歳の気鋭、ジェームズ・ブレイク(JAMES BLAKE)は"希望的な何かの欠如の欠如"に対して向き合った象徴的なサウンド・メイカーと言える。マシュー・ハーバートの「One」シリーズでもそうだが、大文字の物語と神話化の解体が積極的に行われるようになり、島宇宙化が進んだシーンにおいて、現前する音楽("音"自体の"楽"しみ)に無邪気にフォーカスを当てるという行為が逆説的に政治的だというのを示したからだ。

 現代のジャン・ジュネとでも言えるだろうか、「剽窃」に対する行為を敬虔なものではなく、造作なく取り入れる貪欲さの背景にあるセンシティヴなまでに現代に依拠するセンスは新しく、それでいて、アンチ・ヒロイズムの空気感さえあり、クールなところも似ている。しかし、その「新しさ」を語る言葉を持つ人が極端に少なかったのも事実で、YouTube、Facebook、口コミ、フロアーを通じて、増殖してゆく評価はグローバリゼーションが仕掛けた情報の均質化に対して差異ベースの企図が予め含まれているようで、興味深かった。個人的にも、例えば、全世界のクラブ・シーンでパワースピンされた「Cmyk」など、いまだによく「分からない」曲でもあるのは確かだ。隙間を活かしたサウンド・ワーク、ダブステップが帯びるメランコリアとロマンティシズムを承継しながらも、別種のエレガンスの属性、また、IDMに近い観念的な音とも捉えることもできること―。但し、そこで「素材」にされるのはアメリカのヒップなR&Bであり、アリーヤやケリスの「声」がいつかのアクフェンのような所作で「解体」されているという捌き方は新しいと言えばいいのか、どうなのか、分からない。それでも、この曲がもたらす昂揚感は大きかった。ジュネに関してもサルトルやコクトーに代表される救済の手が差し伸べられ、多くの言葉が費やされたが、どれも彼の核心を精確には射抜けなかったように、ジェームズ・ブレイクもジャイルス・ピーターソン、ピッチフォーク辺りから過度の期待が寄せられ、フック・アップがはかられたが、まるでそのテクストや評価とは別物というかのように、シングル毎に展開される音世界はより実験性を強めていきながら、独自の音世界を創造しているのは周知だろう。

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 来年に控えるというデビュー・フル・アルバムに向けて、先行となる10インチ・ヴァイナル・シングル「Limit To Your Love」では、馴染み易いポップな曲に「している」。この曲は、2007年にファイストがリリースしたセカンド・アルバム『The Reminder』に収録された曲のカヴァーだが、オリジナル曲にもあった清冽で静謐な美しさは保持されながらも、彼特有のウイットに富んだ解釈がなされている。ピアノの旋律が美しく響きながら、沈み込むようなトーンはまるでポーティスヘッド『Dummy』やトリッキー『Maxinquaye』辺りの作品が持っていたシリアスで深みのある音像を彷彿とさせる。そして、その低音とダークな美しさはダブステップの次を見渡すような「何か」を秘めている要素も伺える。とはいえど、そのような切実さと重さに注視するよりもまずはこの音自体が持つ政治性と強度に感応すべきだと思う。何より、「今、ここ」で鳴っている音という意味において、批評的な作品でもあるからだ。

 今年のビート・ミュージックの極北でもあったフライング・ロータスがビートのビット数を上げた傍で、ジェームズ・ブレイクはR&B、ヒップホップ、ジャズ、ファンクまでをメタに折衷させ、"揺らぎ"を加える。その"揺らぎ"の中にクラウドが踊ることができるスペースが用意されるというのは美しく、勇気の出る事柄だった。彼の作る音には、トゥーマッチな叙情性もドラマティック性もなく、どちらかというと、ストイックでもあるが、そのストイシズムが突き詰められた美意識からは針の穴ほどの希望的な何かを視ることができる。

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 1982年のSF映画『トロン』。電脳世界を描いた、ある意味早すぎるプロットの導入で知られている。ちなみに数年後に制作された円谷プロの特撮テレビ番組『グリッドマン』のアイディア/基本プロットの源流とも思われるのだが、『グリッドマン』でさえ「時代の先を行きすぎていた」ものだけに、『トロン』がいかに「早すぎた」か、わかってもらえるだろう(ただ、『トロン』もマイナーだけど『グリッドマン』もマイナーだからなあ:笑)。インターネットが普通のものとなった...30年前にはSFの世界でしかありえなかった世界が現実となった今、かつては「B級」の一言で片づけられていたその映画の28年ぶりの続編『トロン:レガシー』を、ディズニーが制作することも、まあうなずける行為だ。

 特撮ファンである筆者は是非見たい映画であるけれど、まだ行けずにいる。そんな自分がなぜこのサウンドトラック盤のレヴューを? といえば、大好きなダフト・パンクが音楽を担当しているから。

 ストリングスなどをポップに大量導入していた『Discovery』(2001年)から、次作の『Human After All』(2005年)では一転してエレクトロニック・ミュージックの骨格のみというパンキッシュな作風にふれただけに、当然ストリングスが大量導入されるであろうサウンドトラック盤がどのようなものになるのか? どきどきしつつ購入し、聴いてみた。

 結果から言えば、その期待が裏切られることはなかった。聴きこむうちにおもしろさがつのる...にしても、やはり「サウンドトラック盤」の域は超えていないというか、彼らの「(ダフト・)パンク」な部分にとりわけ興味をひかれる筆者としては、正直肩すかしを食らった気分ではある。

 『Discovery』の最も深い部分にあるコンセプトにのっとって松本零士をフィーチャー、『インターステラ5555』を作った(それについては、クッキーシーン・ムック第一弾にも掲載したインタヴュー原稿でくわしくふれたので、どうかご参照いただければ、と...)という地点から、「音楽と他メディアの関係」については少々後退してしまったようだ。いや、だから「ああ、サウンドトラックだな...」という作品になっているということは、「映像と混ざれば素晴らしいだろうな...」「映像がほしい(映像が見たい)」と感じてしまったわけであり、音楽が「負けて」いる? いや彼らは「やるべきこと」をきっちりと、それも並ではないクオリティーでやった。文句を言われる筋合いはない、とは思うけど(笑)。

 ダフト・パンクは仕事...宿題(彼らの1997年のデビュー・アルバムのタイトルが『Homework』だったことを思いだす...)をやりとげた。この『Tron: Legacy』の展開で、次のオリジナル・アルバムがますます楽しみになったことは間違いない。

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 正直言うと、最初は神聖かまってちゃんに興味はなかった。もっと言うと好きではなかった。大昔に(と言ったら偏屈なパンクスに怒られそうだが)セックス・ピストルズがやった、「ノー」を突きつけ未来をこじ開けようとしたことのクリシェにしか見えなかったからだ。現在の複雑な時代において、ピストルズを「まんま」演じているかのような姿には吐き気がしたし、初期マニックスのような計算されたセンセーショナリズムも見られなかった。しかし、インタヴューやライヴを追いかけていくうちに、神聖かまってちゃんに対する僕の見方は変わっていった。ただの駄々っ子にしか見えなかったの子の言動に見え隠れする批評精神や知性。発言や歌詞で発露される真面目さ。様々なイメージや装飾を取り払い神聖かまってちゃんそのものに焦点を当てたとき、正統派なロックンロール・ヒーローの系譜に連なるの子の姿が現れた。

『つまんね』『みんな死ね』を聴いていると、本当に心の底からの言葉を歌っているんだなと感じる。この世界を生きるうえでのイライラや劣等感を「真っ直ぐな皮肉」という言語感覚でもって、ポジティブで溌剌としたエネルギーに変換されているのには驚いた。たぶんこの言語感覚は同世代でないと理解しづらいものだし、決して誰もが分かり合えるというものではない。でも、神聖かまってちゃんの目的は同時代性を歌うことにあるわけだから、寧ろ多くの上の世代に渋い顔で素通りされるほうが嬉しいのかも知れない。

 だが、『つまんね』の厄介なところはどこまでも「かまってちゃん」なところである。『つまんね』は「チルウェイヴ?」と思ってしまうような目配せすら感じるポップな1枚となっている。の子もソングライターとして優れた能力と魅力を発揮していて、その魅力を生かした曲の構成もよくできているし、演奏もメンバー全員バンドとしてのグルーヴを意識しているかのような一体感もある。僕はどんなに時代とマッチしていたとしても、音そのものがつまらなかったら興味が持てないのだけど(神聖かまってちゃんが好きじゃなかった一因もこれにある)、アルバム全体に試行錯誤の跡が見られる。そして、この試行錯誤に「かまってちゃん」としての本音が表れているから厄介なのだ。『つまんね』『みんな死ね』というタイトルは、聴く者に唾を吐きかけるためのものではない。『つまんね』の後には「だろ?」という言葉が続く。つまり、神聖かまってちゃんはコミュニケーションを求めている。そのコミュニケーションの相手は、この世界に生きるすべての人々だ。『つまんね』を聴き終えたとき、僕は「何が?」と答えた。すると、僕の中で歯車が噛み合う音がした。「つまんね」と呟きながらも、神聖かまってちゃんの音に心が揺さぶられる僕が居たのだ。

《なるべく楽しいフリをするさ誰だって / 憂鬱になると気づけば誰もいないんだ》(美ちなる方へ)

 このフレーズは見事にロックの本質を言い当てている。ロックとは虚構である。その虚構の積み重ねによって、「現実」を抉り出すのがロックなのだ。そういう意味では、今もっともロックな存在なのは神聖かまってちゃんであるのは間違いない。もちろん、こうした姿勢を維持したまま神聖かまってちゃんとして活動していくのは厳しいかも知れない。ピストルズは消滅してしまったし、マニックスはリッチーという尊い犠牲を払った。「リスク・コミュニケーション」というのは大きな力をもたらしてくれるが、欺瞞がない分とても傷つきやすい。だから僕は、常にこの言葉を問いかけながら神聖かまってちゃんを応援していきたい。

「お前ら生き抜く覚悟あんのかよ?」

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『つまんね』『みんな死ね』は、どちらも神聖かまってちゃんの「今」と「本音」がしっかり刻み込まれているアルバムだ。本当なら、2枚を抱き合わせ2枚組としてリリースすべきだったと思う。まあ、結果的にインディだろうがメジャーだろうが変わらないということを示しているからいいけど。 

『みんな死ね』というタイトルは、「死んだように生きるくらいなら死んでしまえ」ということだと思う。でなければ、《さんざんな目にあっても、忘れ方を知らなくても、僕は行くのだ》(怒鳴るゆめ)と歌うような曲を『みんな死ね』なんていう名のアルバムに入れる必要はない。そして、「死んだように生きるくらいなら死んでしまえ」という言葉は神聖かまってちゃん自身にも向けられている。 

《僕だけどあたしもいる、嫌われても人間らしく、素直に今を歌いたいのです》(自分らしく) 

 神聖かまってちゃんは、「死なないため」にロックを鳴らした。だが、「死なないため」のロックがバンド自身だけではなく人々に「生きるため」のアンセムとして広まったとき、神聖かまってちゃんは人々に覚悟を見せなければいけなくなった。『みんな死ね』には、そんな覚悟が垣間見れる。行き過ぎた言葉の表現に隠れがちだけど、神聖かまってちゃんが言いたいことは「生きさせろ」というすごくシンプルなことだ。『みんな死ね』というタイトルには、「みんな死んだとしても俺達は生きてやる!」という意味があって、聴いてると刹那的なものではなく「未来」を感じるのもだからだと思う。「僕のブルース」は自暴自棄な歌詞だけど、これは誰もが遭遇する「すべてを投げ出してしまいたい」という瞬間をの子なりに表現しただけ。「自殺する日も近いと思うから」というフレーズだけを切り取って、「過激で物騒なアルバム」なんて評する人もいるだろうけど、アルバム全体で聴くとポジティブな印象を抱くはず。ただ、このアルバムをポジティブなものとして受け取るには条件がある。それはリスナーの「依存」だ。神聖かまってちゃんがリスナーに「依存」を求めるのは、自分達だけでは「弱い」と認識しているからで、「弱い」と認識できる強さがゆえに『みんな死ね』という言葉が輝くのだ。

『つまんね』『みんな死ね』というのは、神聖かまってちゃんが未来を考えるうえでの自問自答の末に生まれたものだと思う。『つまんね』は自分達に「お前ら生き抜く覚悟あんのかよ?」と問いかけるアルバムだとしたら、『みんな死ね』は自分達に対する返答だ。だけど、決して内省的になっていないのは、その自問自答をロックというエンターテイメントとして発信しているからだ。そしてなぜロックを選んだのかというと、神聖かまってちゃんはロックの力を(というか音楽の力を)信じているからだと思う。時代を切り取る際に発揮される鋭い批評眼とは裏腹に、その批評眼によって見つけた膿に立ち向かう方法は感情的でロマンティックなものだ。こういった観念先行型の行動パターンは具体的な事実から離れやすいものだし、抽象度が上がって伝わりにくくなることもあるけれど、我慢できずに頭の中の考えを吐き出してしまうの子には軽いシンパシーを覚えてしまう。正直、まだ「事件としての神聖かまってちゃん」からは完全に脱皮しているとは言えないが、僕はクラッシュのような存在になる気がする。アティチュードとしてのパンクを抱きつつ、音楽的な進化をしていくようなバンド。『みんな死ね』は、神聖かまってちゃんが未来への扉を抉じ開けたことを証明する感動的なアルバム。

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<希望と絶望>

 エドウィン・コリンズは、ずっと聴いてきて個人的にもとても大事なアーティストだ。そのせいか脳溢血から本格的に復帰した今作のレビューを書くのも、いろいろ思いがありすぎて書くのに時間がかかってしまった(某ネオアコ/ギターポップのBBSでのハンドル名を'Edwyn'にしていたこともある)。

 エドウィン・コリンズ(以下、エドウィン)との出会いは、リアルタイムで聴いたオレンジ・ジュースのセカンドからだ。当時、「シティロード」の音楽欄でオススメ盤の大枠で取り上げられていたのが聴くきっかけだった。同世代的な歌詞として意識したアーティストのかなり始めの一つだった。《世界は君の敵じゃない》(「Hokoyo」)など、印象に残る歌詞がいくつもあった。その後、すぐにファーストは馬場の中古レコード屋のタイムで輸入盤の中古を買った(音源で買ったり、アマゾンで買ったりしている今の人は、こういう買ったお店の記憶もないのに今気付いた)。このファーストは聴いた当初と変わらぬ新鮮な音楽で、今も聴きつづけている。その後のミニアルバムとラストのサード(フールズ・メイトの伊藤英嗣さんのレビューが買うきっかけだった)もリアルタイムで輸入盤で買った。
 
 ソロでは、ファーストは特に愛聴している。タイトルトラックの「Hope & Despair」で《You were offered hope. But you chose despair.》と歌われているが、仕事としての映画や音楽をやめていった友人や仲間を思い出す。このことに関連して書くと、今年2010年は10年というキリのいい年だからだけでなく、「今年何をしたかで今後数年が決まる。同じことをやっていたら漸次下がっていくだろうし、新たに何かを始めたり、きちっと結果を出したことは起点になるだろう」と近しい人には言っていた。それぐらいのメディアや人の気持ちの転換点になると、どこか肌で感じていた。
 
 だからこそ、このエドウィンの復活は象徴的だったし、今作を聴いてエドウィンの正直さに改めて気付いた。いや、今まであまり歌われていない一歩踏み込んだ感情を表現していると言ってもいいかもしれない。冒頭のタイトルトラックの「Losing Sleep」で《眠れない/自分にはなんの価値もないような気がしてくる/恩義を感じるものすべてが目の前に並んでいる/それがぼくを落ちこませる》と歌いながら《信じたほうがいい/取りもどすべきだ/自分が知っているものを/正しいと思うものを/大切だと感じるものを/必要なものを/それが欠けている/ぼくの人生には》と前向きな固い決意を歌う。そう、本能的に必要と思うものを掴みとるべきなのだ。諦めかけている人が、こちらの周りにも何人かいるが今こそやりたいことをやるべき時で、今することが如実に今後につながってくるのだから。
 
 次の曲「What Is My Role?」では《あまりに考えすぎたら 自分にはなにも似合わないような気分になってしまう/わかってる ぼくらは「悩むことそれ自体」のために悩んでいるんだ》と生きる不安を吐露する。でも、これらの曲は驚くほどアッパーでシンプルなチューンだ。後遺症でギターは弾けなくなったが、再び歌う喜びをリトル・バーリー、クリブス、マジック・ナンバーズ、フランツ・フェルディナンドのメンバーやポール・クック、ロディ・フレイムなどの仲間と演奏する。最新号の「Uncut」のインタビューでも、エドウィンは「今は希望と喜びに満ちている。後ろ向きな人生観から脱け出したんだ。今作はオレンジ・ジュースのファーストのようだと感じている」と語っている。そして、同じインタビューで奥さんのグレイス・マクスウェルは「入院しているときは本当に暗い気分だった。他の入院患者の命がわたしたちの周りにあるようだった」、その返答で「本当につらかった」とエドウィンは答えている。これらのことはYouTubeにもアップされているエドウィンの闘病記のドキュメンタリー「Edwyn Collins - Home again」を見れば分かる。
 
 上記と同じく「Uncut」誌の今年の号の回顧インタビューでオレンジ・ジュースのサードを作るときに、どれだけ新しいことをしようとしていて、それまでの自分たちのアルバムのアイデアがヘアカット100やブルーベルズに盗まれているかを辛辣に話していて、当時、情報のあまり入ってこない日本では、同じような音楽として楽しんでいた身としては驚かされたが、それぐらい道を切り開いてきた自負があるのだとも強く感じた(そのことは今年、ドミノから出たオレンジ・ジュースのボックス『Coals To Newcastle』を聴いてもよく分かる)。
 
 アルバム最後の曲(ボーナストラックを除く)である「Searching For The Truth」のカントリーミュージックのテイストにOJのセカンドのラストの曲「Tenderhook」に通じるものを感じ、とても嬉しくも思った。

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 カニエ・ウェストが負った亡き母親と別離した当時の恋人への痛みを隠すためにオートチューンで「歌いまくった」センチメンタルな08年の『808s & Heartbreak』において、彼のエゴ・オリエンティッドな要素(新作では見事に露悪的なまでにそれに回帰したが)はE.H.エリクソンの言うアイデンティティの拡散意識に依拠していた部分があった。あらゆるアイデンティティへの同一化を拒否して、敢えてアイデンティティ拡散の状況を選び守り、モラトリアム的なエゴに無期限にとどまろうとする所作。三部作できっちり大学を「卒業」したはずの彼はやはり、まだ宙ぶらりんな自我同一性を持っていた訳であり、それが形成される途中で実験的同一化を統合していく社会的遊びが阻害されて、社会的な自己定義を確立することが出来ないという状態が露呈したからこそ、あの作品は多くの人たちの心を素直に打った。

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 そのアルバムにも客演していたキッド・カディの09年の作品『Man On The Moon:The End Of Moon』における多彩なエレクトロ・サウンドをベースにしたスペイシーで浮遊感のあるトラックの上で歌うようなラップのような、また、どっちともつかない鼻歌的な歌唱法で言葉を乗せてゆくスタイルは当のカニエ自身に大きく影響も与えたことだろうし、カニエのレーベルから出たとはいえ、カニエは彼の存在にかなり引っ張られた形で『808s & Heartbreak』を作った背景は想像に難くない。また、メランコリアの強さも彼の特徴だったが、更に突き詰められた形でセカンドのこの作品『Man On The Moon 2: The Legend Of Mr. Rager』に繋がる。彼自身が「今までで作ってきた中でもっとも暗い作品」と言うのも頷ける重みのある作品になっている。

 ストリングスやギターを用いながらも、基本は前作の延長線上のエレクトロニクスを駆使し、巧みなサンプリングのセンスを活かしたサウンド・ワークもかなり「締まった」ものになっており、尚且つ、《はじめからひとりになる定めだったのさ》など翳りのあるフレーズが要所にある。ダークな通奏低音が貫かれた結果、ヒップホップの持つパーティー、マチズモ、エゴ・オリエンティッド、拝金性といった要素群よりもっとロック・コンシャスな疎外感やドラッグ(「マリファナ」という曲もある)にフォーカスをあてたオルタナティヴな作品になったのは興味深い。

 また、以前に彼が麻薬所持で捕まったとき、「俺は黒人が27歳で死ぬと知っている。俺は今26歳だが、その歳まで生き延びることを約束する。」と言っていた事も自然と作品の後景に浮かぶ(ちなみに、彼は来年の一月で27歳になる)。「27歳」にこだわっているのはいかにも"彼らしい"感覚だろう。27歳で亡くなったロック・アーティストに、ジム・モリソン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ、カート・コバーンと居るように、「鬼門の年齢」でもあるからだ。

 カニエ・ウェストが客演したロック・チューン「Erase Me」のPVにおけるジミ・ヘンドリックス、酒や女性といったモティーフに溢れる典型的なロック・ストーリーのパスティーシュからしても、「27歳」を意識している面がこのアルバムにも散見しており、自信に溢れていた男がドラッグに耽溺してゆく過程で「独り」になってしまうという繊細なナラティヴをシーロー、メアリー・J・ブライジ、セイント・ヴィンセントなど多彩な客演で丁寧に紡いでいる。しかし、ドープで重厚な作品でもなく、キッド・カディという人が現今のヒップホップ・シーンで如何に「異端」な場所に居るのかを証左する作品にもなっている。その「異端さ」とは「内側への遠心力」に準拠する。(自意識の)内側への遠心力によるエネルギー変換装置としてのシフト・ポイント、つまり、高次元のエネルギーが収斂する場所というのは、想念の位相の間の結合する場所であり、それは中心でありながらも、「空(から)」であり、そこからエネルギー変換されることで、ある種の「かたち」として発現するようになり、それをしてこの作品内の別人格「Mr.Rager」と名付けることができる。つまり、その発現のあり方が「空」としての「中心へ投げ出される」ということで、そこでこそ、この作品のダイナミクスは視える。

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 最後に、確認しておくと、前作にあった浮遊感と無邪気な要素が極端に減り、彼のヒポコンデリーがより深く刻まれていることが感じやすいように、エレクトロニカのような不規則で不穏なビート、自棄気味な70年代のビッグ・ロックのようなサウンド、ダヴィーで沈んでゆくようなトラックといったサウンド・メイキングと陰鬱なリリック、「マン・オン・ザ・ムーン」という前作から地続きのコンセプトがリプレゼントするのは実はそのままの「等身大の暗さ」ではない。彼自身の抱える切実な、しかし、届くかわからない想いのこもった宛名のない手紙を、郵便箱に投函する行為の表れでもあり、そういう意味では周到な孤独主義者なのかもしれないという要素もある点は留意が必要だろう。そうでないと、このモダンでクールなサウンド・ワークが示す「空っぽさ」は説明出来ないからだ。

 ここで呈示される世界観もまた、厳然たるリアリティーに立脚した「捩れたファンタジー」でもあるとしたならば、蓋然的なのか、カニエ・ウェストの『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』とコインの裏表のような作品に"なってしまった"気もする。