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 「お祈りなさい 病気のひとよ--ああこのまつ黒な憂鬱の闇の中で/おそろしい暗闇の中で--ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ」(萩原朔太郎『青猫』より「黒い風琴」抜粋)

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 思えば00年代的な「浮遊の時代」にフィットしたのが「空を飛ぶような」、ネオ・サイケデリアの運ぶユーフォリアだったとしたならば、10年代に入って「波へ乗りに」出て行ったユース達はでは今、何処に居るのだろうかと周囲に目を遣ると、「パーティーの喧噪」を遠目に見送って(Glo-Fi/ Chillwave)、彼らはどうも「祖父の」すすけた(Grimy)地下室で神経質なダンスを踊っているようだ。

 人間は自身が不安定な状況下にはノスタルジアを求めるきらいがあるそうだが(事実、911以降のアメリカではベティ・ホワイトといった往年の俳優が度々フィーチャーされていた)、インディ・レーベルに於いて少しずつ浸透しつつある、生産量が頭打ちされたバイナル盤限定というリリース形態を見る限り、前述した陳腐な比喩も強ち全くの見当はずれというわけでもないように思える。

 漆黒のオフビートに乗る沸点の低いベース、不明瞭な人間の呟き。叫喚のようなエフェクトを掛けられて唸るギター、クラップの音--そんな不安を煽るように、「神経症の子供」があやされる訳なのである。

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「今回のアルバムでは単純なリフか、或いはキーボードのループから始めて--そう、各要素を小さく限定して、それを可能な限りエクスパンデットするようにしたんだ。」--ラオス語でゼロを表す"suun"を冠したサンズはカナダはモントリオール出身の4人組のバンドであり、本作は彼らのデビュー・アルバムに当たる。

 スロッピング・グリッスル直系、フロント・ライン・アッセンブリー、スキニー・パピー然としたアグレッシブで隙間の無いビートにボディ・ミュージックの要素を挿みつつ、数々のアートロック、或いは同郷モントリオールのミニマル音楽から影響を受けたという彼らの音楽は、そのアプローチはトータル・セリエズムを踏襲しつつ十二音技法的な無調の音楽と繰り返しの否定からの「音楽/非=音楽」に関するコンフリクトから「作品」と対峙した例のノイズ・ミュージックの鱗片も感じさせるからして、なるほど洞窟を蝋燭の明かりを便りに彷徨するようなある種独特の空気感が認められる。--「例えば...「Pie Ⅸ」という曲は同じことを何度も何度も繰り返すんだけど、でもリピートの中に少しずつ要素を加えていって、緊張感を保つようにしたんだ」(Ben Shemie/ Vo)

 ブレイクグラス・スタジオのジェイス・ラセックを共同プロデューサーに迎え、『Zeroes QC』で彼らは、USインディらしい「如何にも」ヘイト・アシュベリー然としたアシッド・ロックから、「ロマンティックな」フロア対応のダンサブルなシンセポップ(「Arena」)、そして或いは、しばしば「スコール」と称される深く歪ませたギターの創出するフロウティングな空間に「俯き加減の」ロウファイなダーク・ポップといったジャンルの「可能性」を示唆しつつ、一つ一つスロウに躱して行く。

「君は君自身になっちゃいけない/君は君じゃない、他の誰かなんだから」(「Gaze」)、「君は自分自身のことがわからないのかい?」(「Organ Blues」)―そう、この「不穏な」エレクトロ・トラックは「ゆっくりと滴る血液」のように、明確に呪詛的な狙いを以て展開されるのだが、これらの迂闊に「迷い込ん」だ意識を攪乱させるような曲群は或いは、ガントレット・ヘアー(Gauntlet Hair)、WU LYFといった気鋭のインダストリアル勢との共振さえも確認することが出来るのだ。

 付則すると、配信元であるシークレットリー・カナディアン(Secretly Canadian)は1996年発足のインディアナのレーベルで、アニマル・コレクティヴ、イェイセイヤー、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズの新譜などがまだ記憶に新しいと思うが、この辺りは現在アリエル・ピンク、リアル・エステイトらのフォレスト・ファミリー、若しくはスリープ・オーヴァー(Sleep∞Over)、ガントレット・ヘアーらが所属するブルックリンのメキシカン・サマーと並び「最も信頼できるレーベル」として、「シーン」を牽引しているインディ・レーベルの一つである。

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思えば10年代始めの一年は「センチメンタルでナイーヴな感性」に多く触れたような気がするが、嘗てのジョニー・マーのように「雨の降る11月の水曜の朝」はダブルデッカーに乗り込み、或いはただ、「頭を窓におしつけて」いるだけで良かったのかも知れない―「過去」を縫い付けて、バスは動き続ける。

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 デリダの考案した「差延」という概念においては自ら、自らの名において書かれたように思われるものを遠ざけ、固有名は、自ら変容(プロテアン)し、多かれ少なかれ匿名の多様性の内へと他化することがある。これこそが、エクリチュールの舞台において「主体」に起こることである。要するに、表現は常に先行する表現の平面の位相座標の組み合わせから再現前する。違う表現をするならば、引用符の「 」で、誰の引用元から引用したと指摘される表現以外においても、作者は常に無意識に多様な引用装置を表現の平面に取り込んでいると言える。これをデリダは「相互汚染」と表現している。つまり、「固有名を持つ作者は存在しない」。存在しているのは、署名され、脱固有化された匿名性の内に帰属する主体である。この主体がペンを握るとき、ひとは「人がものを書く」というのだ。

 学生時代からの仲というブランドン・ウェルチェズ、チャールズ・ローウェルのユニット、クロコダイルズがサンディエゴから出てきたとき、あまりにその匿名性の強い佇まいと音に興味を持った。ユニット名はエコー・アンド・ザ・バニーメンの1980年の名盤のタイトルそのままから取っただろうと思われるし、2009年のファースト・アルバム『Summer Of Hate』では、ヴェルヴェッツ~ザ・キルズに繋がるアート・ロックの鋭度、ジーザス・アンド・ザ・メリーチェインのような轟音の中に浮上する甘い旋律、更にはスーサイドのエッジまでも彷彿とさせるクールでフリーキーな音を孕んでいた。そして、浮遊感の漂う甘美なサイケデリアにはスペースメン3、スピリチュアライズドの影響も伺えた。しかし、兎に角、エッジばかりの音楽を束ね上げてみせる力技は、如何せん無理をしている部分もあり、同時に、センスだけが先走った音楽と言えたのも否めない。また、ニューゲイザーというブームにも攫われることにもなり、音楽誌やファッション誌の評価と称賛も受け、ヒップな存在として台頭した反面、エスケーピズムが過ぎるとか、過去の遺物を寄せ集めてそのミームの解析に長けたオリジナリティのないデュオでしかない、などの批判を多く受けることになってしまった。

 そういった批判を受けながらも、ザ・ホラーズ、ホーリー・ファックのツアー・サポート、ダム・ダム・ガールズとのスプリット・ツアー等を経る過程で、確実に知名度もライヴ・パフォーマンスも認められるようになってきた中、この本作『Sleep Forever』が届けられた。結論から言うと、前作はデモ・トラック集だったと思えるくらい、非常にスマートでシェイプされた音になっており、コンパクトに纏まっているアルバムである。また、シミアン・モバイル・ディスコのジェームス・フォードがプロデューサーとして参加したことも関係しているのか、80年代後半のUKインディーシーンに犇めいていた音への傾注が露わになっているのも面白い。メロディーだけを取り出すと、アノラック・バンドのようなものもあったり、マッドチェスター的な要素も強くあり、ザ・ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズなどが一時期に持っていた煌めきから、『スクリーマデリカ』時のプライマル・スクリームも参照されている。そういう意味では、ファーストにあったジャンクなムードは減り、よりダルにメロウになりながらも、クリアーに整頓されたサイケデリアが現前するようになった。特に、1曲目の「Mirrors」はクラウト・ロックのような反復するビートに対して、じわじわと真っ白なノイズが曲を覆ってゆくダイナミクスが美しい。その他も、ライドやスロウダイヴを思わせる曲から、ザ・ホラーズやジーズ・ニュー・ピューリタンズのセカンドと共振するダークさを孕んだ曲、マーキュリー・レヴのような幽玄なサウンドスケイプが映えた曲など、ファースト時からアップデイトされたセンスも垣間伺え、好感が持てる。

 想えば、10年代に入って、MGMTやイェーセイヤーなどの主たるアクトがセカンド・アルバムにおいて、80年代のポスト・パンク、ニュー・ウェイヴの音を参照点にしたというのは興味深い変化だったが、クロコダイルズの場合は彼らよりもっと自覚裡にファーストのサウンド・モデルを変えるためにこのような音を選んだと思える。そして、この「視界」の絞り込み自体は間違っていない方向性だと言えるだろう。

 オリジナリティという意味ではまだまだ努力が要るかもしれない。しかし、表現という面での反復可能性に従うと、クロコダイルズは最初からミメーシスではなく、「ノイズ(寄生)」に生起点を持った「偽装」だったともいえる。自己同一性を失って他化し、その他化において再度、自己同一化するプロセスを経て、「署名(オリジナリティ)」をしたためようとした際、「偽装的形式」が再現前されることにもなる。勿論、"非・偽装的な表現"などはないゆえに、反復なき引用はなく、引用が反復を含意するとしたならば、彼らの既聴感のある音を誰が否定できると言えるのだろうか。少なくとも、僕にはできない。

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 CDショップで見つけてからプレーヤーのトレイに載せるまで、こんなにワクワクしたアルバムは本当に久しぶり。そしてスタートボタンを押してから聞こえてきた音楽は、想像以上にカッコよくて、楽しくて、自由だった。つまり最高だってこと! タイトルは『コンゴトロニクス世界選手権』。その名のとおり、世界各国からインディ・ロック、テクノ、ハウス、現代音楽などの気鋭アーティスト26組が"コンゴトロニクス"のもとに大集結。以前、僕が紹介させてもらったコノノNo.1やキンシャサ在住で25人ものメンバーを擁するカサイ・オールスターズの楽曲を独自のセンスと手腕でカヴァー/リミックスしている。コンゴトロニクスは自分たちを「トラディ・モダン=伝統的かつ現代的」と位置づけ、26組の参加アーティストたちを"ROCKERS"と呼ぶ。オリジナル・タイトルは『TRADI-MODS VS ROCKERS』。国内盤の解説でも言及されているとおり、元ネタは映画『さらば青春の光』にも描かれていたモッズとロッカーズの対立。今や時代は10年代。音楽の真剣勝負はルール無用で、楽しくて、僕たちの耳と心をとことん刺激する。

 2枚組アルバムの冒頭を飾るのはディアフーフ。どうやって演奏しているのかさえ謎だと思われるカサイ・オールスターズのカヴァーに挑戦! 親指ピアノ(リケンベ)やパーカッションのパートを従来のバンド・フォーマットに置き換えるアプローチとサトミさんのメロディーが素敵。そう言えば、彼らの新作は『Deerhoof Vs. Evil』だったっけ。対TRADI-MODS戦も大健闘でしょう! インディー/オルタナティヴ・ロックからは、ディアフーフの他にもアニマル・コレクティヴやアンドリュー・バード、ウィルコのグレン・コッチェ、ボアダムスの山塚アイなどが参加。どれも自分たちのカラーを残しながらも、コンゴトロニクスが大放出するグルーヴの渦の中で自由に暴れている。遊んでいる。アンドリュー・バードの口笛は、いつになく楽しそう! 山塚アイのトラックは、リケンベを増幅させた極太ベース・ラインが最高にカッコいい! 

 このアルバムを企画したクラムド・ディスクスのマーク・オランデルのセンスにも注目しよう。81年、ポスト・パンク黎明期から現在まで多国籍な音楽を発信してきたクラムド・ディスクス。最近ではやはり、この"コンゴトロニクス"と呼ばれるコノノNo.1やカサイ・オールスターズを熱心にリリースし続けてきたことは特筆に値する。グラミー賞にまでノミネートされるようになった彼らの音楽には、普段からリミックスの依頼が絶えないという。それでも彼は、それを断り続けてきた。このアルバムに参加できたのは、レーベル側から"選ばれた"アーティストだけ。コンゴトロニクスへの愛着と理解こそが、そのオファーの理由だという。

 先述のインディー/オルタナティヴ・ロック勢に加え、90年代にベーシック・チャンネル名義でミニマル・ダブを定義したマーク・アーネスタス、現在のクラブ・シーンで大きな注目を集めるシャックルトン、そして初めて耳にする現代音楽のアーティストまでが名を連ねるこのアルバムには、マークの目論見どおり"コンゴトロニクス"への愛情がいっぱい。2枚組なのに1枚分の値段(税込2,520円!)で買える国内盤にも愛を感じる。自動車やラジオの廃品から生み出されたグルーヴは、新しいイマジネーションとアイデアを得て、どこまでも自由に広がってゆく。国境も、音楽のジャンルも飛び越えて。

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 ああ、なんて素晴らしいメロディーの洪水...。決しておしつけがましくない、アコースティックな空間を活かしたアレンジ/サウンドともども、普通にずっと流れていてほしいと感じる。「2010年の隠れた名盤...になってしまいそうだけど、それは残念、ひとりでも多くの人に聴いてもらいたい」アルバムのひとつ。それも最上級の。

 キーンのメイン・ソングライターでありキーボード奏者でもあるティム・ライトオクスリーと、サポート・メンバーであるジェス・クインによるスペシャル・バンドのデビュー・アルバム。ノア&ザ・ホエール(Noah & The Whale)やキラーズのメンバーも参加している。

 昨年リリースされたキーンのミニ・アルバムも素晴らしかったけれど、そっちのほうはバリバリにエレクトロニック・ポップな作品だった(だから、OMDもかくや、という感じの)。こちらは一転して、初期イーグルスや80年代のUSインディー・バンドの一部(当時はカレッジ・バンド、などとも言われていたあたりとか)にも通じるような(もちろんあくまで今っぽくポップでオルタナティヴな)カントリー・テイストもあって、ティムの旺盛な表現意欲に感心されられつつ、どこかなごめる。セカンドでちょっと別のほうに行ってしまったノア&ザ・ホエールって、こういう感じになってくれればよかったのに、などとも思いつつ、愛聴してます。

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 スウェーデンのバンドたちが鳴らす音...特に打ち込みの音色などその音自体が、どこかノスタルジアを宿しているような感覚に陥るのは僕だけだろうか。レディオ・デプト然り、クラブ8然り。このブライダル・ショップも、一聴して近い感想をもった。この作品『In Fragments』は 彼らのEPオムニバスに提供された曲で編集された日本デビュー盤である。
 
 1曲目から東洋的なアプローチのストリングスが印象的な「Fragments」、おそらくアルバム中最もポップでニュー・オーダーを彷彿とさせる「Ideal State」、また「While It Slept」で女性ボーカル、アイダの歌声がサンデイズのハリエット嬢に激似なのに少し驚く。この曲に限れば曲調もどこか共通するものがあるような感もある。編集盤でもあるためかアルバムとしては統一感やまとまりに欠ける印象も否めないが、そこを全体にわたって霞みがかったような淡い音響処理がうまく支えている。
 
 今にも消え入りそうな、でも確かに煌めいている音。人生を、価値観を大きく捻じ曲げられるような力をもった1枚ではないだろう。ただ、知らないあいだに心の一部に染み込んでいるような(もしかしたら通り過ぎてしまうかも...)、そんなさりげないエレクトロ・ポップバンドだなと思った。タイトルは『In Fragments』=断片的。なるほど。

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 サンフランシスコを拠点とする3人組のインストバンド、Desertshoreの1stアルバム。バンドの主軸となるフィル・カーニーは、サッドコアやスロウコア周辺の最重要バンドの一つである、Red House PaintersやSun Kil Moonのサポート・ギタリストを務める人物である。それら二つのバンドといえば、フロントマンであるマーク・コゼレクの存在感があまりにも大きい(Sun Kil Moonはマーク・コゼレクのソロ・プロジェクトなので当然ではあるが)。彼の贖罪するようなヴォーカルは強烈すぎる。Desertshoreでは、そういった暗澹とした音楽性は抜け落ち、良い意味でマーク・コゼレクの影を感じさせない。
 
 基本的には、ロウなテンポとギターによる繊細なアルペジオを重ねる、スタンダードなポストロックである。サッドからノスタルジーな方向へシフトしている。ピアノを用いた荘厳な曲や、アコースティック・ギターによるフォーキーな曲(洗練されたSun Kil Moonのようで、非常に良い)も散りばめられているが、ドラムのミキシングの雰囲気がスティーブ・アルビニのそれに酷似しており、アルバムの全体像はやはりポストロック的だ。
 
 ヴォーカルのないRed House Paintersの作品ではなく、一つのバンドとして地に足がついている。この楽器群を背景にコゼレクが唄う姿は、ちょっと想像できない。アンビエント、ポストロック寄りのギターインスト作品として、高いクオリティを誇っていることを断言したい。

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 エドウィン・コリンズがプロデュースしたタイトルソング「アングレイトフル」が話題の、Wichitaが送り出すイギリスのサンダーランド出身で5人組のフランキー&ザ・ハートストリングスのミニ・アルバム。今まで出しているシングルはどれも限定の7インチなので、まとめて音源が聴ける盤になっている。タイトル曲に顕著なように荒削りながらも光るものを持つバンドで、80sのポップさも持ち合わせているのが特徴。ザ・ドラムスが好きなら気に入るだろう。5曲目はブライアン・イーノの「ニードルズ・イン・ザ・キャメルズ・アイ」をカヴァーしていて、あまりカヴァーされない曲で新鮮だ。このカバーや歌詞からも「あからさまにスタイリッシュで残忍なほどに文学的」とNMEが絶賛したのも分かる。10月に来日し、11月のエドウィン・コリンズのツアーサポートもしているとのことだが、今作収録のライブテイクからも、今後もライブも含めて期待できる新鋭だし、エドウィンが目をつけたバンドには外れがないので(以前のフランク&ザ・ウォルターズ、ア・ハウスから最近のクリブスやリトル・バーリーまで)フルアルバムを楽しみにしている。

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 怒涛怒涛怒涛!! アタマ真っ白!! 65daysofstaticの「Await Rescue」を初めて聴いてエレクトリカルな衝撃を全身に浴びた時の様な。デジャヴとはまた違う、全く別物として受け入れざるを得ない性急な感覚。自分の中の閉まっている扉という扉を、急いで全開にしなければと奔走する興奮。突如として現れたイギリスはヘレフォードの6人の若者による濃密な野心、基、野望の塊を音楽にして我々を一網打尽にする。その破壊的衝動性はリスナーに「お前らのそんな音楽観をブチ壊して狂わせてやる!」と言った様な、ともすれば幼稚にも受け取れるようなメッセージを見事なまでに真っ直ぐ届けてくれる。楽曲はポスト・クラシカルを通過したハードコアなインスト・サウンドに他ならない。彼らが結成して間もない頃から注視していたのだが(前身のバンドKitesから改名し、ヴォーカリストを排したのが成り立ち)ちょうど3年前ほどか、マイスペースで初音源を上げた頃は今のこの姿とは違って、エモティヴなアーケード・ファイアにシガー・ロスやエクスプロージョン・イン・ザ・スカイを足した感じで、ともすればモグワイなんて名前が出てくる位のポスト・ロック然としたサウンドを鳴らしていたのだが、その頃から比べてもこの飛躍は完全に大気圏を突破している程の進化なのだ。間違いなく進化だ。メタリックなへヴィ・リフも突発的に飛び出してくるが、それは聴き終えると全てが完璧な作品のピースとして必要不可欠なものとして描かれたものであると感覚出来る。但し、この絶妙な調和は理屈で"計算"されているというよりも感性で"設計"されていると表したい。

 そしてこれはあくまで個人的な感覚だが、国内のネオ・フューネラル・メタル・バンドの夢中夢に欲していたリズムの緩急やサウンド・ヴォリュームの大小によって生まれる波形で生み起こされるグルーヴ感も素晴らしく、加えてマスロック的なアプローチで複雑に刻まれるリズム・ワークにも関わらず身体を動かせる余地を作っているのは驚異の一言である。さらに多様な展開をハイ・スピードで駆け抜け、静かなパートで溜を効かせてバーストと言った安易な展開は先ず無いという彼らの心意気を大きく取り上げ称賛したい。残響レコードが本格的にメジャーなシーンに進出し、世界の攻撃的なポスト・ロックもここ数年で大きく取り沙汰されたが、65daysofstaticの登場以降はここまでセンセーショナルなサウンドを放つバンドはハッキリって居なかったように思う。と言うか、色々音楽をそれなりに聴いてきても忘れさせてしまう程に強烈。ストリングス×2による物悲しげなフレーズや大仰さも嫌味なく説得力があり、今の時代ともリンクしたフレッシュなギターのフレーズが満載で非常にエネルギッシュ。不定形だったバンド・メンバーも現在はガッチリ固定され、やきもきさせながらもようやくアルバム・リリースも実現し、これからの活躍がきっと明るい新星の登場だ!

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―象徴は、それが象徴化するものよりも現実的なものである。シニフィアンはシニフィエに先立ち、それを規定する。(『マルセル・モース論文への序文』レヴィ=ストロース)

 レヴィ=ストロースの『野生の思考』によれば、野生の人々の中に、ブリコルール(ブリコラージュする人)がいる。彼らは日常「何の役にたつか分からないが、きっと何かの役にたつもの」を収集しており、何らかの問題に直面すると、計画されたものではなく、拾ってきた素材、使い回された破片など「ありあわせの物」で解決する。

 ブリコラージュについて考えると、1960年前後に起こったフランスのヌーヴォー・レアリスムにおけるアッサンブラージュとの接合点は見つけることができるのか、つい夢想してしまう。例えば、ジャン・ティンゲリーの廃物機械によるジャンク・アートや、レイモン・アンスのアフィシェ・デシレなどのように、ある一定の体系の中の部分として機能する「概念」ではなく、体系を無視して使われる「記号」としての意味。そこには、既存の文脈からスライドして、"新しい意味が発現した「作品」の無意味さ"が明滅する。ブリコルールは「それ」を道具としての「記号」でしか見ないが、"ディスクールとしてのブリコルール"はいまだ汎的に拡がりを増す。

 今、ポストモダニズムの彼岸では、"「ありあわせの物」で決して意味はないが、存在するものを作るという所作"は実はとても有意義な行為である。そこから、先行された「テクスト」の誤差分を読み解ければ、という文脈は必要になってくるが、カルリーニョス・ブラウンの新作『Diminuto』がまさしくそういった観点を要求されるものになっているのが興味深い。道端で空き缶を叩いていた彼は、トラディショナルなモードに帰一するために、旧態的なモダンネスを帯びた作品(『Adobró』)を並存させながら、音楽としての純度の高い作品(『Diminuto』)を「忍び込ませた」ことで、あらゆるブリコルールがディスクールに回収されるのを堰き止めたとも思えるからだ。

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 カルリーニョス・ブラウンが出たバイーアという地域は、ブラジル内でも最もアフリカ系移民の多い土地であり、アフリカから伝承された文化も残っている。例えば、「サンバ・ヂ・ホーダ(Samba de Roda)」と呼ばれるダンスはブラジルの文化に対し、最も大きな影響を与えたと言えるかもしれない。これは人々が輪になって歌い、その中に順番に入って踊るというもので、カーニヴァルにおけるダンスの元になったと言われている。そして、バイーアからは優秀なアーティストが輩出されていることでも有名である。ボサノヴァの始祖ジョアン・ジルベルト、サンバ界の大御所であるドリヴァル・カイーミ、トロピカリズモの主軸を占めたカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、マリア・ベターニャなど数多くいる。

 彼はパーカッショニストとして頭角をあらわし、カエターノ・ヴェローゾのアルバムにも参加し、ツアーにも同行するなどして名前をあげていった。また、地元のカンジアルに住む若者たちを集めて、ストリート・パーカッション集団「チンバラーダ」を結成するなど、バイーアという地域の町興しにも積極的に関わる中、1996年に『バイーアの空のもとで(ALFAGAMABETIZADO)』でソロとしてデビューしてからの活躍は目まぐるしいものがあった。例えば、フェルナンダ・アブレウ(FERNANDA ABREU)『Raio X』、カエターノ・ヴェローゾ『Livro』でのゲスト参加、シルヴィア・トーレス(SILVIA TORRES)のアルバム・プロデュース、THE BOOMの宮沢和史氏のセカンド・ソロ・アルバム『Afrosick』での3曲の作詩、演奏、共同プロデュースなどで、彼の名前を見ることができる。加え、ブラジル国内のみならず、欧米でのライヴ活動も行ない、そのライヴ・パフォーマンスの素晴らしさも浸透していった。その流れを経て、伝統とモダンが相克しながらも、高い摩擦の熱量を保った1998年の傑作のセカンド『Omelete Man』に繋がることになる。この作品では、MPBからファンク、サンバ、レゲエといった幅広い音楽要素をウェルメイドなポップネスで纏め上げるのに成功していた。当時は、「あまりに洗練され過ぎている」という声も上がったが、ワールドワイドに打ち出していくにはこれだけの広さを持たないといけないのは、近年のタラフ・ドゥ・ハイドゥークスが体現する大文字の「ジプシー」、ティナリウェンの「砂漠のブルーズ」といった位相と同じで、「ブラジル音楽」というものが決して、イメージの先にあるボサノヴァやMPBのようなものだけではない、ということを逆手に取り、モダナイズをはかった作品だという文脈は踏まえないといけないだろう。その後、2002年にマリーザ・モンチ(MARISA MONTE)と元ムタンチスのアルナルド・アントゥネス(ARNALDO ANTUNES)と組んだトゥリバリスタス(TRIBALISTAS)がブラジル音楽という枠を越えて、世界的にブレイクした。

 ただし、ライヴ・パフォーマンスは別として、近作の彼のソロ・アルバムが決して期待を越えてくるようなものではなかったのが気にかかっていた。個人的に、どうにも精彩が欠けた感じを受けてしまうときもあり、2005年のカンドンブレのビートと地元の人々が歌う声を拾い上げ、音響処理した『Candombless』も発想も内容も悪いものではなかったが、『Omelete Man』にあったようなパッションとインテリジェンスが程好く混ざり合った作品をもう一度、聴きたいと思っているような自分からしたら、歯痒かった。

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 前作『A Gente Ainda Não Sonhou』から約三年振りに二枚同時にアルバムが出たが、これがなかなか面白いことになっている。

『Adobró』は、エレクトロニクス要素を大胆に取り入れた意欲作になっており、キレのあるパーカッシヴなリズムも活きているが、全体を通底するのは洒脱な空気だ。ブラジルの多彩なビートをよりクリアーに鳴らすことに意識を高めた結果、新しい音響美を手に入れており、嬉しいことに『バイーアの空の下で』、『Omelete Man』にあった生命力もしっかり感じることができる。2010年の9月にリード・シングルとしてリリースされた「Tantinho」は、彼のバイタル溢れる声が女声コーラスの絡みとシャープに刻まれるパーカッシヴなリズムが映えたやわらかな佳曲だったが、アルバム全体の印象としては、よりスペーシーな拡がりを感じさせる。

 片や、『Diminuto』はピアノやギター、弦楽器の音の響きが美しく全編を覆い、アコースティックでオーガニックなサウンドを基調に、ボサノヴァやサンバのリズムの上に言葉遊びのような歌詞と抑制気味の彼のボーカルが乗ってくる静謐な作品だ。派手な意匠もなく、近年の世界のシーンの隆盛の一つであるジャック・ジョンソン、ドノヴァン・フランケンレイターなど程好く肩の力の抜けたシンガーソングライターの作品の持つ緩さと共振する部分もあり、えもいわれぬサウダージ(切なさ)も孕んでいる。ギターとピアノだけの始まりから緩やかに音が増え、鮮やかにサウンド・タペストリーが紡がれてゆく繊細なサンバ「Você Merece Samba」、リオのロック・グループ、オス・パララマス・ド・スセッソ(OS PARALAMAS DO SUCESSO)が参加した「Verdade, uma Ilusão」は白眉と言えるだろう。

 実験的な試みと彼の意欲を鑑みるならば、『Adobró』になる。しかし、カルリーニョス・ブラウンという人の才能のポテンシャルを見せつけるのは『Diminuto』に他ならない。衝撃のデビューから長い旅路を経て、彼がこのような穏やかな成長をしていることが何より頼もしい。

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 イギリス人のニック・パーマーによる、宅録ソロ・プロジェクト、ダイレクターサウンドの2ndフルアルバム。波の音でメロウに始まりつつ、鍵盤楽器やアコースティック・ギター、バンジョー、その他多彩な楽器が鳴る、色彩豊かでトロピカルなインスト作品となっている。アルバムが進むにつれて、次第に陽が沈んでいくようなノスタルジーさも漂わせており、特にアコーディオンの存在は、作品にシネマティックでロマンティックな香りを漂わせている。
 
 晴れた空と青い海というポップなコンセプトを、できるだけ穏やかなテンションで料理している。軽快かつ朴訥で優しいが、どこかポップに振り切れていない。良い意味で、完成に7年の歳月を費やした大作とは思えない、聴きやすいアルバムに仕上がっている。
 
 1stアルバムは、Geographic(パステルズが主宰)からのリリースであったが、本盤は、スウェーデンのtona serenadよりリリース。同レーベルから昨年リリースされた、ミュゼットの『ダートゥム』が比較の対象にされているが(2009年内、私の中では最高の名盤)、ダイレクターサウンドの方がより開放的で、太陽を感じさせるポップさをまとっている(ダートゥムはよりノスタルジー)。ただ、似通った作風のアルバムであるのに、一方は、完成に7年の歳月を費やし、もう一方は、曲名が日付になってしまうほどに即興的で日記的であるというのは、正反対で面白い。