reviews

retweet

museum_of_bellas_artes.jpg
 このスウェディッシュ・ガール・ユニット最高。これは7"でリリースされた「Watch The Glow」も収録された新作EP。音はチルウェイヴの文脈で評価されそうな気もするけど、潮流なんて気にしてない感じがツボ。イタロ・ディスコ色が強いエレ・ポップで、ジョルジオ・モロダーの影もチラホラ見えてくる。最先端というわけでもないし、流行に乗ったイヤらしさもない。じゃあ実験的な前衛音楽なのか? というと、そうでもない。たぶん彼女達は音楽的な野心がなくて、「暇つぶしでやってみたら上手くいっちゃった」という空気がぷんぷんする。ある意味今っぽい佇まいです。リンドストロームやロイクソップもそうだけど、北欧系のアーティストは秘境的な音を鳴らすような気がする。今挙げた2つは「どこかへ連れて行ってくれる」けど、この娘達の音楽からは日常のちょっと過激な部分が見えてくる。初めてセックスをした日が青春映画的な場面として飛び込んでくる感覚というか、童貞・処女喪失をした(若しくはする)瞬間に似たような疼きが、自分のピュアな部分を刺激してくれる。「Days Ahead」は、ハッキリしないムズムズとした感情が鳴らされていて、その感情が僕の失われた部分を突いてくる。だからこそ、ここまでピュアな音を鳴らせるのだろう。

retweet

isobe_masafumi.jpg
 例えば恋愛において、長いこと友人関係だった人が恋愛対象に変わる、ということがある。ずっと知り合い程度だった人と時間が経ってから付き合うことになった、ということもある。相手の見方が変わるようなきっかけがあったり、長い時間をかけてその人の良さに気付いたり、様々な偶然やめぐり合わせがあって「ただの友人」や「単なる知り合い」から、いつしか「大切な存在」に変わる...らしい。残念ながらこれまでの経験上そのようなことはなかったので、そんな話を聞いても何のリアリティも感じなかった。が、ついに私にもそんなお相手が現れた。

 その人こそ、イッソンこと磯部正文。出会いは10年以上前になる。ハスキング・ビーの1stから良く知っていたはずで、見に行ったライブやフェスに出演していたり、ゲット・アップ・キッズやジミー・イート・ワールドと共演していたり、当時レコード店で働いていた私は彼らの新譜を漏らさず聴いていたし、見る機会も聴く機会も多くて、本当はとてもとても近くにいた。音楽性が徐々に変化していったことも、メンバーが4人になった時のことも、早くから「エモ」と呼ばれていたことも、日本語の歌詞が増えていったことも、解散後のそれぞれの活動も、とてもよく知っていた。はずなのに、なんとなく近くを通り過ぎながら「単なる知り合い」状態をずっと続けて来た。

 イッソン(と、あえて呼ばせていただきます)の音楽を、ちゃんと、もう一度聴いてみよう、という熱が高まり始めたのが今年のこと。彼がハスキンの後に組んだマーズ・リトミックが活動休止すると知り、いつもなんとなく近くで音楽を鳴らしていた彼がまたひとつの決断をしたことが気にかかっていた。並行してバンドの休止前から不定期的に一人での弾き語りライブを続けていて、会場では宅録したCDを売っていたりと、音楽と離れることなく活動していることに安心もした。けれど、いつでも近くにいるわけじゃないのだ。とにかく彼の歌を聴きに行かなくちゃ。活動の形がどう変わっても、彼の歌う姿を見に行かなくちゃ。日に日にその想いは強くなっていった。

 私にとってそんな絶妙なタイミングでリリースされた本作は、磯部正文ソロ名義での第1作。きっとハスキン後期~マーズ・リトミック、一人弾き語り等々の流れを汲んだ音なのだろうと勝手に想像していたけれど、その予想はまるで的外れで、またそれは嬉しい外れ具合だった。まるでおもちゃ箱を開けたように、ポップでカラフルで前向きでまっすぐ。疾走感溢れる楽曲に彼の声とギターが加われば思わず懐かしさが込み上げるけど、そこへ新しいリズムを土台に、キーボードが重なり、アコギが重なり、歌声は様々に表情を変え、懐かしさだけじゃない「今」の音へと繋がってゆく。しっかりと過去と今が結びついて大きな広がりを持ったサウンドは、「鳴っていることこそが全て」といわんばかりの爽快な気持ちよさがあって、そこには何の思惑も衒いもなくて、彼の音楽を通り過ぎて来てしまった私の長年の後悔も軽く吹き飛ばしてしまった。これまでと違うことをやらなきゃいけないとか、あるいはこれまでと違いすぎることをやっちゃいけないとか、そういうしがらみが一切無く、なにか吹っ切れたようなすがすがしさと、ソロ名義ではあるけれど新しいバンドを思いっきり楽しんでいるようなワクワク感が伝わって来る。「Sound in the glow」や「花の咲く日々に」、「Spontaneous」のサビで聴かせるハイトーンはイッソンそのものだし、2ビートで駆け抜ける「Paper airplane」や「Magic scene」のような曲を待ってた人はきっと多いだろう。加えて英詞が多いことも昔を連想させるけど、歌詞に描かれた空や風や花や鳥たちはいつでもイッソンが歌って来たこと。彼らしい独特の目線と言葉選びはいつだって変わらない。手書きの歌詞カードも。

 プロデューサーを務めたのは元ビート・クルセイダーズ/現モノブライトのヒダカトオル。彼流のポップさを散りばめながらも、前面に打ち出されているのはイッソン節ともいえるメロディーと変わらぬギターサウンド。そこへ、會田茂一(ex.エルマロ/髭(HiGE))、田渕ひさ子(ブラッドサースティー・ブッチャーズ)、原直央(アスパラガス)、中尾憲太郎(ex.ナンバーガール)、戸川琢磨(カムバックマイドーターズ)、有松益男(ポンティアックス)、伊地知潔(アジアンカンフージェネレーション)、柏倉隆史(toe)、恒岡章(キュビズモグラフィコファイヴ)といった現在の日本の音楽シーンに欠かせない個性溢れる面々とバンドサウンドを作り上げていくことで、イッソンらしさと新しさが見事に同居した作品となった。特に印象的なのはキーボード/シンセが自由自在に彩りを添えていること。ほぼ全曲でキーボードを担当しているシモリョーこと下村亮介(シェフクックスミー)は、元々彼の大ファンで終演後にサインをもらいに行くほどだったというから、プラスに作用しないわけがない。(ちなみにソロでライブを行う際のバンド「磯部正文BAND」でもキーボードを担当しており、とにかく嬉しそうにはしゃぎながら演奏してるのが最高です。)

 ハスキング・ビーというバンドがファンやミュージシャンにとても愛されていたこと、今でも彼らの曲を大事に思っている人がたくさんいることをよく知っている。バンドが変化していく時、知らないどこかへ行ってしまうような不安感に駆られることや、好きだったバンドが解散し新しく個々の活動が始まる時、かつての音と似ているものを聴きたくない、けれどかけ離れてしまうのは淋しい、という気持ちがごちゃまぜになることもよく知っている。ハスキンの音楽性は、いわゆる「メロコア」と呼ばれていたものから、テンポを落とし、日本語が増え、叙情的であったり、日本的であったり、時に切なかったり暖かかったり、と変化を遂げていった。その変化の渦中にあった曲「後に跡」が印象的で、私はその曲を幾度となく思い出しては、その大胆な楽曲の変化と言葉遊びのような歌詞の面白さに魅了され、「どう変わったか」よりも「新たな方向性を打ち出したこと」にハスキンというバンドの強い意志みたいなものを感じた。彼らの軌跡はとても実直で不器用にも思えたけれど、それが彼らが愛された最大の理由だとも思っている。きっとあの大きな変化を受け入れられなかったファンもいただろうし、変化の後に好きになったという人もいるだろう。それはどんなバンドにも起こりうることで、変化の前と後に線を引いてしまうのもよくあること。けれど本当は線引きなど出来はしない。いつだって音の中にはその人の全てが、例え隠れていようとも存在している。この作品はイッソンのどの時代も全て入った、「これまで」と「これから」がとても肯定的に結びついた作品だ。「これまで」を隠すことなく盛り込んで、その音全てが「これから」の未来に向いている。だから懐かしくもあり新しくもあり、とてもすがすがしいのだ。

 彼の今の音楽との付き合い方、リスナーとの距離感や信頼関係、「これまで」と「これから」の音楽活動に対する思いを最も象徴している「符思議なチャイム」は、このアルバムの要と言えると思う。この曲は、彼が音楽を生み出す時、符(不)思議なチャイムが鳴っているような気がする、という感覚を歌ったものだ。頭の中に散らばっていた音符が一つに繋がる時、あるいは降ってくるようにメロディが流れる時、チャイムが鳴っているようだと思うのだという。

《キミの手が僕の手に つながったらメロディーが 咲き誇って流れる
キミの目が僕の目に 合わさってラプソディーが 舞い踊って溢れる》

 そう歌い出されるこの曲は、「キミ」が彼の音楽を聴いているリスナーを指すとしても、一緒に音を奏でるメンバーを指すとしても、どちらにしても「キミ」がいなければ音は響かないという、今のイッソンの思いが凝縮されているように思う。音楽を作り出す時に鳴るチャイムは、自分以外の「キミ」にも鳴っていなければ響き合えないことを、一人でやっていくと決めたからこそ強く感じているのではないかと思う。だからこそ過去も今も隔てることなく、鳴らしたい音、鳴らすべき音を奏でているのだろう。思いがけなく素敵な音楽に出会った時、理由も無く何かに惹かれてしまう時、きっとチャイムが鳴っている。そのチャイムが響き合ってこそミラクルは生まれる。それは誰にでも起こりうる奇跡の瞬間。

 熱心に見に行っていたわけではなかったハスキンだけれど、解散ツアー直前のライブを見る機会があった。好きや嫌いとは別のところでハスキンのことは「いいバンド」だと思っていたから、「もうこれが彼らを見る最後か」と思ったら淋しくないわけはなかった。その日イッソンは多くを語らない中で、「いつか、音楽で」と言った。しばしのお別れの挨拶として、さよならの代わりに言われたその言葉を、私はずっとずっと覚えていた。ライブが終わりに向かうにつれ、これほどのいいバンドを見逃してきてしまった後悔が大きくなっていくのを感じながらも、その言葉のおかげでまた会えると思えた。2つのバンドを休止した後、彼は音楽を辞めることも考えたという。私にはあの言葉がずっと残っていたから、そんな選択肢があったなんて驚きだった。でも今こうして、また音楽で出会うことが出来て、あの言葉は本物になった。

 どんなに「もっと早く出会っていれば」「もっと早く好きになっていれば」と思っても、それは違うのだと思う。私にとっては今がタイミングだったのだと思う。まぁ...本当言うとすっごくすっごく悔やんでいるけれど...、でもそれは違うのだ。きっと私にもチャイムが鳴ったのだ。先日のライブでイッソンはハスキンのことを「一生懸命やっていたバンド」と言った。結果的にバンドは解散したけれど、彼にとって今でも大切なのだと、それは私達となんら変わらない気持ちだとわかって嬉しかった。実際にイッソンはハスキンの曲をとても大切に演奏している。それを複雑な思いで聴くファンもいるかもしれない。その気持ちもよくわかる。けれど過去を悔やむのではなく懐かしむだけでなく、そこから今に繋がる音や思いを紡いでいくことで、これから先の未来を素晴らしいものに変えていくことは出来るはずだ。少し先から振り返ったとき、過去は悔やむべきものではなくなっているかもしれない。だから過去を悔やむことはしないと決めた。(実際はとても難しいことだけれど)

 恋愛も音楽も一目惚れが全てではない。出会いの瞬間だけではわからないことだってある。時間がかかったとしても、自分にとって大切ならば必ず辿り着く。必ず。決して聞き逃さないよう耳を澄ましていれば、きっとチャイムが鳴っているのが聞こえるはず。どうかこの先も奇跡のチャイムが、素敵な音楽が、たくさん鳴り響く世界でありますように。

retweet

motorcitysoul.jpg
 マティアスとシー・ロックというドイツのベテラン2人組によるモーターシティソウルの新曲。それぞれが長いキャリアを持っているんだけど、それらのなかでも1番この名義が好き。硬質でストイックなビートながらも、不思議と柔らかいジャジーな雰囲気がある。グルーヴとしては典型的なダンス・トラックだし、音もバキバキでひんやりとしているのにすごくオーガニック。たまにオリエンタルな空気を覗かせることさえある。最近こうした剛と柔を両立させたトラックが増えてきたけど、「Ushuaia」は頭ひとつ飛び抜けた出来だと思う。さすがのトラック・メイキング。

 そして、ディートロンによる「Ushuaia」のリミックスも素晴らしい。正直、僕はこっちの方が好きなんだけど、原曲の良い所だけを抽出してよりフロア向けに仕上げている。すごくエモーショナルで、大胆かつ繊細なトラック・メイキングと展開はかなりツボ。クラブでスピンされた日には、ふわふわ体が浮かび上がることになるアンセム。少なくとも、このEP上ではディートロンに軍配が上がるんじゃないでしょうか?
 
 モーターシティソウルの曲にはポップが宿っていると思うし、カスケイドみたいなブレイクをしないかなと密かに思ってる。来年はアルバムもリリースされるようだから、そういう意味でも、まずはこのEPを是非聴いてみてほしい。

retweet

bob_dylan.jpg
 ボブ・ディランの未発表音源をどんどん発掘していく『ザ・ブートレッグ・シリーズ』もこれで第9集。これまでにも、ロック/ポップ・ミュージックの枠を超えてサブ・カルチャー史全体においても貴重な音源がリリースされてきた。66年にアコースティック・ギターからテレキャスターへ持ち替えた瞬間を捉えた第4集『ロイヤル・アルバート・ホール』では、ディランに「ユダ(裏切り者)!」と野次を飛ばす観客の声が聞こえる。「お前こそ嘘つきだ」と答えるディラン。ロビー・ロバートソンの「Get Fuckin' Loud!」を合図に「ライク・ア・ローリング・ストーン」がプレイされる。僕はこんな異様なテンションの演奏を他に聞いたことがない。マーティン・スコセッシが監督したドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム』は、そのサウンド・トラックが第7集としてリリースされた。デビュー前(最古のオリジナル録音)から『ブロンド・オン・ブロンド』期までのライヴ音源や別テイク、TVパフォーマンスなどが数多く収められている。

 ボブ・ディランは登場から現在まで、様々なキャラクターを演じてきた。そのキャラクターは、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』のようにアルバム・コンセプトを伴ったものではなく、その時に影響された音楽や思想、ライフスタイルなどから生まれたものだ。そもそも"ボブ・ディラン"という名前の由来やデビュー期のプロフィール(実家は電器屋なのに「家族はいない」と言っていた)などは、ほとんど自分自身によるでっち上げ。限りなく思いつきに近い。ディランの半生をポップに描いたトッド・ヘインズ監督(『ベルベット・ゴールドマイン』も必見!)の『アイム・ノット・ゼア』では、黒人の少年から女性(ケイト・ブランシェット)までが、ディランを演じている。でも、そこに違和感はない。"ボブ・ディラン"という人物こそが架空のキャラクターかもしれない、そんな解釈が面白い。たった一人で、時には多くの人たちを巻き込みながら進み続ける謎の男。伝承のフォーク・ミュージックからエレクトリック・ロック、ブルース、カントリー、そしてゴスペルまでを飲み込む音楽性。イマジネーションが炸裂する詩情は言うまでもない。音楽ファンはもちろん、デヴィッド・ボウイもビートルズの4人もディランに魅了されてきた。

 この『ザ・ブートレッグ・シリーズ第9集:ザ・ウィットマーク・デモ』は、すべてモノラル録音。1962年から1964年にかけて音楽出版社 M.ウィットマーク&サンズでレコーディングされた47曲(!)を収録している。ちょうどデビュー前から2nd『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』発表の前後。すべての歌がディランのギター1本とブルースハープ、またはピアノだけで演奏されている。「風に吹かれて」「くよくよするなよ」「はげしい雨が降る」「ミスター・タンブリンマン」など、おなじみの歌と初登場となる15曲を収録。他のアーティストへの楽曲提供と自作曲の著作権管理のために、数人のレコーディング・スタッフとディランだけで録音された。まるでディランが目の前にいるみたいにリラックスした歌声が聞こえる。アーティスト契約とアルバム制作を経て、彼自身が"ボブ・ディラン"として歩んでいく自信を深めたのかもしれない。

 1800年代後半から"ティン・パン・アレー"と呼ばれていた音楽業界は、音楽出版社と作曲者、演奏者がそれぞれ分業で音楽を制作していた。やがて50年代にはロックンロールが誕生する。そして60年代初期には全米に波及する公民権運動と共にフォークがブームになる。そんな時代に飲み込まれながら、まさにその時代の寵児となるディラン。彼はアコースティック・ギターとピアノで美しい曲を書いた。そして、たった一人で演奏した。"フォーク/プロテスト・シンガー"として時代を書き換える前に、ここでもひとつの時代に終止符を打ち、未来を描いていたのだ。大げさな言い回しではなく、ボブ・ディランの登場とこのアルバムに収められた歌により、ティンパンアレー方式の音楽ビジネスが終わったという。オリジナル曲を演奏するミュージシャンの台頭により、分業制の音楽制作は静かに終焉を迎えた。

 時代を担わされる重圧は、まだない。いくつものキャラクターを演じ分ける必要もない。まず最初に彼自身が発明した"ボブ・ディラン"になりきること。カッコいいウディ・ガスリーみたいに、たった一人で音楽の旅を始めること。その喜びと自信に満ちあふれた素晴らしい歌がたくさん入っている。ミュージック・シーンを一変させる前に、ミュージック・ビジネスを変革させたドキュメントとしても貴重だと思う。この時、ディランは24歳。世界が彼の歌に耳を奪われる、ほんの少し前の出来事だ。

retweet

everything_everything_man_alive.jpg
 (もちろん今年の)サマソニ出演の翌日、渋谷DUO MUSIC EXCHANGEでエヴリシング・エヴリシングのライヴをお目にかかれたんだけども、なにより感心してしまったのは息の合ったコーラスワークの豊かさだった。ラップトップも含めた楽器を持ちかえたりしつつ、複雑に入り組んだバンド・サウンドを鳴らすのと同時に、横一直線に並んだドラム以外のメンバー三人が重ねていく歌声のハーモニーにウットリ。アメリカ人らしく牧歌的で土の香りがするローカル・ネイティヴスのそれとは違う、いかにも西欧的な神経質で厳かな響きは、ああ、クイーンじゃん、10ccじゃん、とも思ったし、バトルスとテイク・ザットの作業量をたった4人でこなしてしまう濃密/緻密で情報過多なパフォーマンスに圧倒させられた。クール・リストのトップにローラ・マーリン選んだ英NMEによると2010年のイギリスはフォーク・イヤーだったらしいが(極論?)、僕は彼らに待ち焦がれていた("ひねくれポップ"という文脈における)英国ロックの理想形を見た気がした。理想は言い過ぎかもしれないけど、こういう音楽をずっと聴きたかったんですよ。

 既に今年のUK新人勢でも筆頭格といえる人気を日本でも獲得しつつある彼らの、待望のファースト・フルアルバムが『Man Alive』である。インテリ然とした実験精神や創意工夫もさることながら、"マーシャルアーツを極めたゴスペル・シンガー"なんて無茶振りな形容をしたくなるほど、抜群の跳躍力と内省的なメンタリティが高いレベルで融合し、そして先述のとおり"古き良き英国"の香りまで漂わせる、すばらしい作品に仕上がっている。

 アルバムの起爆剤となっているのは過去にリリースされていたキャッチーなシングル曲だ。煌びやかなシンセのフレーズとともにラップさながらにファルセットを小気味よく乱射する、ボーイズ・アイドル・ポップスの奇形みたいな冒頭の「MY KZ, UR BF」、つんのめるビートと変拍子の嵐が生みだすファンクネスが痛快なマス・ロックのポップス解釈「Schoolin'」。XTCの「Life Begins At The Hop」をパラノイアックにかき乱したような、バスドラムの躍動感も気持ちいい「Photoshop Handsome」は今回の発売に合わせてPVも一新され、一筋縄でいかない彼らのユーモアがより具現化されている(スパークスの「Photoshop」につづくPhotoshopソングだ! と興奮し、彼らにその曲について尋ねたら、一言「知らない」と返ってきました)。

 他の収録曲については、「以前は完璧に作り込もうとするところが多かったけど、今回はインプロヴィゼーションの一発録りみたいなことにも挑戦した」というベース/キーボード担当であるジェレミーの発言どおりで、やや詰め込み方がトゥーマッチな構築美が印象的だったEP「Schoolin'」と比較して、よりラフでスペーシーに、やわらかい曲調なものが目立ち、起伏とダイナミズムに富んだ楽曲と交互につづくことで、アルバムを彩り豊かなものにしている。「Leave The Engine Room」では広大な宇宙を思わせる音響空間のなかでヴォーカルのジョナサンは得意のハイトーンをアカペラで聴かせ、「Tin (The Manhole)」はポスタル・サーヴィスを思わせるミニマルなエレポップを展開。壮大かつ少しクラシカルで、オーケストラを従えてもこのとおり様になる。音を詰め込みすぎずに複雑な要素をコントロールできるようになったのはバンドの成長の賜物だろうし、ビヨンセをはじめとしたR&Bやクワイア・ミュージックも愛する彼らの嗜好がより前面に出たともいえるかもしれない。「Two For Nero」ではゲーム・ギアや世界大戦に言及しながら、次の世代の子どもたちに向けてビーチ・ボーイズ調の讃美歌を披露する。真っ当な父親になれよ、子どもをつくれよ、と。他の楽曲も、躁鬱のギャップが激しい視座によるエキセントリックなサイエンス・フィクション風の歌詞がどれもイチイチおもしろいし、挟まれるシリアスで批判的な問題提起はこのご時世、たいへん貴重といえる(だからこそ、国内盤がリリースされて本当に嬉しい!)。

 ダブステップなどのクラブ・ミュージックや、レイトバックしたフォーク/ポップスに圧され気味だったイギリスのロック界において、レディオヘッド以降の"バンド・サウンドに固執しないバンド・サウンド"の在り方に、何年か越しで明確な回答を示したバンドとも位置づけられるかもしれない。卓越した演奏能力をもちながらテクニカルな部分ばかりを誇示するのでなく、自由に伸び伸びと息をしながら、よりメジャー感のあるスケールを獲得したこの作品は、保守的で重苦しいムードを吹き飛ばし、これから控えるエジプシャン・ヒップホップら新世代のUKバンドより一足早く、新しい感性の到来を知らせるファンファーレを鳴らし、種蒔きの地ならしをしたという点でもとても価値がある。「オプティミスティックで肯定的で、どこにでも行けるような無限の可能性」が込められているというバンド名のとおり、貪欲に過去の音楽遺産を吸収しながら、あくまで自分たちの文脈を信じ、自分たちらしい筆致で歴史を塗り替えアップデートさせていく。音そのものは幾重にもネジレながら、愚直なまでのシリアスな決意と力強さにみちた快作だ。

retweet

wavves.jpg
 ウェイヴスことネイサン・ウィリアムズは、間違いなくシット・ゲイズやニュー・ゲイザーの文脈で注目されたし、評価もされていた。実際昨年リリースされた2枚のアルバムは、シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーが持つ精神性を分かりやすく表現していたし、今後このシーンが語られていくとしたら、間違いなくマスターピース的な存在として挙がる傑作だ。

 でも、僕はシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーを好きになれないところもある。何故かというと、「自由にやっていいんだよ」というすごく現代的なメッセージを、あえて閉鎖的なコミュニティを作り上げると共に「内省的な趣味性」という退屈な堂々巡りとすり替えたバンドが多く生みだしてしまったから。産業としての音楽が崩壊し、音楽そのものもジャンルという檻から開放されたのに、「内省的な趣味性」という枷をジャンルとして自らに課すこともないだろう? と思うのだ。

 僕が思うに、これは「シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザー」という名前に原因がある。シューゲイザーは、甘美で「ここではないどこか」へと誘ってくれるものだけど、シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーと呼ばれているバンドの多くは日常的な美しさに興味があると思う。だからこそ、剥き出しのざらざらとしたノイズを放っているのだ。ほとんどの人が、シューゲイザーに対するイメージをシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーに引継ぎ過ぎている。乱暴な言い方をすると、シューゲイザーは、「クソなものはクソ」だから逃避する。一方のシット・ゲイズ/ニュー・ゲイザーは、「クソなものこそ最高」。つまり、「最高なクソ音楽」ということになる。クソな日常を変えるために、クソな日常を描き出す(ついでに言うと、アトラス・サウンドのフリーDLアルバムのタイトルが『Bedroom Databank』なのも象徴的だ。ベッドルームは、日常が始まり終わる場所だから)。

 そして、『King Of The Beach』も最高にクソだ。『King Of The Beach』や「Post Acid」というタイトルに込められた皮肉。ノイジーでサンシャイン・ソウル的ですらあるサイケデリック・サウンドは、聴く者をトリップさせる。しかしそのトリップは、「どこかへ行く」というものではなく、我々が生きる日々のちょっとした横道に存在する「開かずの扉」を開けただけの、日常に根ざした「視点を変える」類のものだ。前2作のアルバムはすべて宅録だが、今回はモデスト・マウスなどで有名なデニス・ヘリングをプロデューサーに据えスタジオ・レコーディングを行っている。そのせいか、ポップなガレージ・ロックという音になっている。カート・コバーンとジョン・ライドンを合わせたようなネイサン・ウィリアムズのヴォーカルも面白い。そういう意味では、前2作にあった異端的な雰囲気はないし、人によってはそこが気に入らないかも知れない。でも、僕みたいに極度の内輪ノリが好きじゃない者にとって、開放的なエネルギーに溢れているこのアルバムはすごく意欲的なものとなっている。ひたすら実験的な音を出したいのか、それとも「ポップこそが実験的な音楽なのだ」と言いたいのか、そこがはっきりしないという意味では過渡期なアルバムかも知れないけど、『King Of The Beach』が多くの人に訴えかけようとしているアルバムなのは間違いない。

retweet

warpaint.jpg
 人は他人との距離を測りながら生きている。そのなかで失うものもたくさんある。これが「大人になる」ということで、だからこそ「若いうちにやっておけ」なんて言葉も聞こえてくるわけだけど、僕みたいに、本来失うはずのものに執着しているような人間は、「大人」という集団から疎外され孤独に生きるしかない。でも、愛というものがある限り、人間は孤独になりきれないわけで、だからこそ自由や快楽を求めてしまうのかも知れない。LAの4人組によるこのデビュー・アルバムは、孤独のなかで自由や快楽を謳歌している。ちなみに、彼女達のデビューEPは「Exquisite Corpse(=素晴らしき死体)」という。つまり、彼女達は「死」から始めているのだ。それでもなお、自ら求めるものを鳴らしながらどこまでも堕ちていく。そんな彼女達が鳴らす音を聴いていたら、不思議と涙が出てきた。

 初めてこのバンドを聴いたとき、ちょっと昔の懐かしい思い出が蘇ってきた。周りの景色が捻れ、色彩感覚が狂っていく。地上から数センチ浮き、体が花開くような覚醒感。こんな感覚を音楽で体験したのはかなり久しぶり。シット・ゲイズ/ニュー・ゲイザー以降の流れを意識した音になっていると思うし、ジ・エックスエックスもお気に入りと公言するのもよく分かるダークな雰囲気もある。でも一番すごいのは、雰囲気だけの凡百シューゲイズ・バンドと違って、しっかり音楽的な冒険と好奇心があるところ。プロダクションも凝っているんだけど、これはトム・ビラーとアンドリュー・ウェザオールの影響というよりも(トムとウェザオールはミックスを務めていて、トムはプロデューサーでもある)、彼女達自身が音作りの段階でかなり作り込んでいる思われる。それでも「理性的な本能」ではなく「本能そのもの」として聞こえるのは、理性と本能が共にレッドゾーンを超えているからだと思う。それは、最早どっちかだけで生き抜くことは難しい(時代的にも音楽的にも)ということを図らずも証明しているようだ。そういう意味で言うと、まさに「今」でなければ生まれなかったアルバムだと思うし、だからこそ多くの人に聴いてほしい。癒しや救いとは相反する死と隣り合わせの陶酔をもたらしてくれる『The Fool』は、間違いなく現代のサウンドトラックだ。「ただの良いアルバム」として片付けてはいけないし、片付けられないアルバムだと思う。

retweet

margaret_dygas.jpg
 日本盤は彼女自身が撮り下ろした写真が収められたフォト・ブック仕様になっている。陰翳を活かした写真、ぶれた人間が写ったもの、反面、明瞭に切り取られた青空の下の海、自然の緑をメインに、あくまで輪郭を結ばないアート・コンシャスな構図を保つ。しかし、クレジット前の一枚の写真では何処かのレコード・ショップのヴァイナル・コーナーであろうショットが採用されている。そこには、敢えて目立つように「MICHAEL JACKSON」というレコードを区分けするタグにピントが当てられている作為性もある(インタヴューを読むと、昔から彼のことが好きだったようだ)。
 
>>>>>>>>>>

 マーガレット・ディガス(Margaret Dygas)が「今のような音」に辿り着くまでにどれだけの歳月と試行が費やされたのか、想像するに難くない。

 2006年からベルリンを拠点にDJや活動の主体を移すまでの長い紆余曲折―。ポーランドでの出生、ドイツでの生活、その後の1980年代後半のアメリカのカリフォルニア、1990年代初頭のニューヨーク、1999年のロンドンでの暮らし、と都度、オールドスクール・ヒップホップやハウス、テクノといったシーンの持つ音楽の歴史的背景に引っ張られる形で、場所を固定せず、デラシネ的に動き続けた。その中で、現在にも繋がる「ダヴとミニマルテクノのエクレクティズム」を見出したオンリーワンのサウンドを探し当てることになるのはロンドン滞在時のことだ。Fabric、The Keyといったロンドンの主要クラブでレジデントDJとして名を馳せ、その「名前」を持ったままで、ベルリンでより実験を進めた結果、よりドープによりミニマルな音に意識が向いていった事は推察できる。
 
 ベルリンに移ってからは、ドイツの各地のクラブでのプレイのみならず、Crosstown RebelsやCadenzaという著名なレーベルに招かれる形でツアーにも出ることになり、そして、PERLON、OSTGUT TON、CONTEXTERRIORなどのベルリンの名門のミニマル・レーベルから作品もリリースすることになり、世界的にも彼女の名前が知られるようになった。そんな状態の下で、日本でも汎的に知られる事になるだろうこのアルバム『How Do You Do』はそのタイトル通り、彼女がワールドワイドに展開する為の"改めての挨拶状"のようなものでありながら、また、キャリアを一旦、総括した節もあり、現在のミニマル・テクノ、クリック・ハウス、テクノ・シーンに一石を投じる内容にもなっている。徹頭徹尾、ストイックなまでに切り詰められたダヴィーなサウンド。そして、巷間のダブ・ステップなどの流行りの音に一瞥だにしないかのような彫刻美のようにシェイプされた最小限の音と隙間を活かした音響工作。

 トム・ヨークも好きなモードセレクター(Modeselektor)などが属する、レーベルBpitch Controlのオーナーにしてベルリンを拠点にするDJ/プロデューサーのエレン・エイリアン(Ellen Allien)の最新DJミックス『Watergate 05』の中でルチアーノ(Luciano)やロイクソップ、そして、アフィなどとともに選ばれている彼女の曲の「Hidden From View」(今回のアルバムにもミックス違いで入っている)もフロアー・コンシャスで良かったが、アルバム総体を鑑みたときに白眉なのは電子音が細かく刻まれ、時折、漆黒の闇へと吸い込まれるような展開を見せながら、9分強の間にじわじわと熱を持ち、盛り上がってゆく「Salutation」になるだろうか。何にせよ、このアルバムでは、今までにないオーガニックな要素も伺え、ダークながら風通しの良いトラックも増えたせいか、自然とハーバート、マウス・オン・マーズ、リカルド・ヴィラロボス、リッチー・ホウティンの影までちらつくのが微笑ましくもある。しかし、それらのどの音とも違う彼女特有の美意識に貫かれた「重さ」があるのも流石だと思う。その「重さ」はこれまでの来し方を示したものなのか、昨今の表層的に高機能化したクラブ・シーンへの直訴状のようなものなのか、様々な思慮が巡るが、アルバムを聴き通して、インタールードの意味も含む鳥の囀りや自然音を含んだアルバム冒頭の小品「Note Note Note」に戻ったときに、新たな時間の"捻じれ"が起こり、これまでの音の流れが全部、繋がっているような感覚になる。
 
 彼女のこの突き詰められたミニマルな音世界とは、元来、フィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒなどのミニマル・ミュージックで既に雛型が作られてきた。それが、テクノロジーの進歩により、何の誤差もなく"反復"することが可能になり、その反復を活かしたのがクラフトワークであり、更に機能性を突き詰めた骨組みだけにしたものの多くが「ミニマル・テクノ」というジャンル内に犇く。彼女もミニマルテクノの"手続き"を取りながらも、しかし、規律的な反復を選ばず、微妙なフレーズの"揺らぎ"によって対象を捉える。そこにピアノの断片や差異を示す電子音のフレーズが多彩に転がる。その"揺らぎ"がトランシーに受け手の五感に「効く」。
 
 このアルバム自体、1時間程の尺に纏められたコンセプチュアルな側面も見えるものの、それほどの「永さ」も感じさせず、また、それだけの「瞬間性」も無い。つまり、このサウンドスケープ内で永遠と刹那の狭間を彷徨する亡霊は、ドイツの歴史が孕むミニマルテクノの"それ"かもしれないし、世界中を廻った彼女が拾い上げたクラウドの切り詰まった"感性"の集成なのかもしれないのだ。そう考えてゆくと、マーガレット・ディガスという人が何を音に仮託しようとしているのか、明確になるかもしれない。

retweet

duffy.jpg
 ウェールズの片田舎から登場し、『Rockferry』が大ヒットしてから早くも2年が経つ。その後、「Rain On Your Parade」なんてグリッターさフルスロットルなシングルもあったけど、ダフィーにはオールド・ファッションかつソウルフルなポップが良く似合うことを、あのデビュー・アルバムは雄弁に語っていた。その彼女の適性を更に推し進めたのがこの2nd『Endlessly』だ。

 ほとんどの曲を、アルバート・ハモンド(そう、あのザ・ストロークスのギタリストの父!)が共に書き上げ、プロデュースまて手がけ、全編を通してオーケストラが使用されている。しかも、数曲では、スチュアート・プライス(ザ・キラーズ、シザー・シスターズ等)の名前も登場するし、更に、シングル「Well, Well, Well」ではザ・ルーツのクエストラヴによるドラムがビートを刻む・・・という豪華な布陣。ここで彼女の本領が発揮されないはずがない。

 オーディエンスのざわめきをインサートしたオープニングの「My Boy」は、グルーヴ感と溢れるモータウン風ポップに仕上がっているし、「Too Hurt To Dance」や「Don't Forsake Me」では洗練されたストリングスをバックに切なく歌い上げる。その一方、「Lovestruck」や「Girl」ではエレクトロを導入しているものの、彼女の魅力を損なうような過剰な演出は避けられているのがいい。その結果、セピア色のノスタルジアをまとっていた1st時とうってかわり、彼女の声の表情は曲ごと豊かな変化を見せている。そこからは、彼女の確かな成長が垣間見られるはずだ。

 まるで、この2年間の変化は『マイ・フェア・レディ』を見ているよう。彼女が現代のダスティ・スプリングフィールドと呼ばれるのにも改めて納得だ。

retweet

francesco_tristano_schlime.jpg「演技」という概念が音楽に付き纏うのは周知だろう。

 例えば、いまだ未熟だった頃のヴァーグナーに対してアドルノは「王になるのではなく、指揮者のように立つのだ」という発言をしているが、この場合は「演技」という言葉が否定的な意味を含んでいる。元来、「演技」とは、演技を披露するものと鑑賞するものに相互性によって自覚される「社会的」な行為である。だからこそ、状況論として共犯関係が生まれるほどにアーティスト側は演技力を要求され、より状況主義への依存性を孕み、また、それによって喪われてしまうものも多々ある。だからこそ、ホッブズ、ルソーやロックといった思想家は「自然状態」を仮置することで、一定の実験装置側からのパースペクティヴも備えた。社会形式の上で演技を巡って取り交わされることによる本質主義から逸れてしまうディレンマは現代においても枚挙にいとまがない。

 考えてみるに、演技としての「ダンス」という行為は身体的な側面だけではなく、思索的側面があり、多義的な意味を含んでくる。ダンス自体を「娯楽」として解釈するだけでは事足りず、例えば、マイノリティと呼ばれる人たちが「ダンスを希求する」のはフロアーの中でこそ、"名前を失う"ことができる参加証を取る行為と近似する。と同時に、フーコー的な現代的な一望監視社会が持ち上がってくる中で、フロアーでもIDチェックなどで身分が囲い込まれ、トライヴが各々の身分を策定し合う中、その差異を策定し続ける社会的な「戦略の場」としても用いられてしまう事実にも自覚的でなければならなくなっているのも自明の理だろう。一方で、仮構化された身体性の起源を掘り起こす試みとしてのダンスもあり、文化的なものに回収することができない一回性の現場感覚への帰納する際には「演技」としてのダンスの概念はどうしても必要にもなってくる。

 ならば、デトロイトにおけるチャールズ・ジョンソンの影は現在では何処に視えるのだろうか。人種や国に関係なく、ジョージ・クリントン、クラフトワーク、YMOまでを跨いだ選曲センスが掬いあげた「声なき声」。振り返ってみると、1980年代の初頭、日本の自動車業界のアメリカ進出のあおりを受け、デトロイトは主たる産業とする自動車分野が落ち込み、失業や犯罪が増えるようになった中で、ラジオDJのチャールズ・ジョンソンは国境を越えた選曲を呈示し、それらの曲群にフック・アップされたユースの中にデトロイト・テクノの軸となるホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンが居たという事実は周知だろう。その中のデリック・メイが1987年に生み出した「Strings Of Life」はヨーロッパのレイヴ・シーンとも「共振」し、フロアーアンセムとなり、遂には時代を越えるクラシックとなった史実としても重い意味を持つ曲だ。

 その重い意味を持つ「Strings Of Life」を純粋な藝術的感性でもって優美に大胆にピアノで演奏してみせた現代音楽界の俊英、フランチェスコ・トリスターノ・シュリメ(Francesco Tristano Schlimé)の存在は当初は異端として、また訝しくも目に映ったのも当然かもしれない。しかし、彼の「Strings Of Life」をかのマッド・マイク、カール・クレイグやジェフ・ミルズといった面々が称賛をしたというのは興味深かった。そして、クラシック界からのテクノへの回答とも言われた2007年の『Not For Piano』ではオリジナル曲以外に、デリック・メイのみならず、オウテカやジェフ・ミルズまでもピアノで再構築した。そのディーセントなワークには毀誉褒貶も付き纏う事になってしまうが、それでも、彼はクラシック・ピアニストとしての矜持を保ったまま、バッハ、ハイドン、ストラヴィンスキーなど古典に挑むのと同じような位相でそれらの曲を同じプログラムの中で演奏してみせた。また、クラシック・ピアニストのラーミ・ハリーフェ(Rami Khalife)、ドラマー等をつとめるエイメリック・ヴェストリヒ(Aymeric Westrich)との3人でのAufgangではエレクトロニック・ミュージックへの求心性も高めた。

 その流れから想定できたことかもしれないが、カール・クレイグをプロデューサーに招聘して作品を作っているとの情報が入り、出来上がったのがこの『Idiosynkrasia』になる。意味深長なタイトルは、古代ギリシャ語から取ったものであり、"Idiosynkrasia"には、"自身への正しいやり方"といった意味があるという。2年もの歳月をかけ、カールのレーベル・スタジオであるデトロイトのPLANET Eで、レコーディングやミックス、エディットの作業を行ない、リアルタイムでレコーディングした音をエフェクトなどで加工したり、その上にシンセサイザーやドラムマシン、シーケンサーを乗せていく方法が功を奏したのか、全体を通底するスペイシーなムードは独自のものを帯びることになった。シュリメの崩れ落ちそうな繊細なタッチが映える「Lastdays」、軽快に跳ねるピアノをベースに打ち込みが入り、じわじわと盛り上がってゆく展開が印象的なフロアー・コンシャスなタイトル・トラック「Idiosynkrasia」、IDM的な雰囲気も感じさせる「Single and doppio」など、幅広いレンジを保持しながらも、不思議な音の訴求力がある。

 これは、彼が子供の頃に母親のLPで、クラフトワーク、ジャン・ミシェル・ジャール、ジョー・ザヴィヌルなど多くのアーティストを聴き、ニューヨークでの学生時代にデトロイト・テクノに出会ったという「来し方」を残す(巷間に示す)ための作品であり、また、バッハを始めとしたクラシック音楽は博物館に置かれているような鑑賞用の芸術品ではなく、今も生きていて、テクノやジャズとも"シームレス"に繋がっていると言う彼の貪欲な冒険心の現在進行形の一端を示す作品と位置付けるのが相応しい気がする。また、「生の音楽」としてこれはあまりに現代的であり、現代的であるがゆえに、この作品は「演技」としてのダンス・ミュージック的性格も帯びる。何故ならば、ダンスというものは、それを通じて"対話"をはかる空間を創出する要素もあるからだ。この作品の中でおこなわれるダイアローグは差異を画定し続けようとする社会的なシステムを迂回する内密さを帯びる可能性もあるだろう。

 しかし、一点、苦言を呈すと、現代音楽界の才人の歴史への敬意とデトロイト・テクノの要人の現代音楽への怜悧な視点がぶつかり合ったにしては、音像が存外、淡白でもあるのが個人的に残念でもあった。多くの人たちに届くべき挑戦的な作品と思うだけに、もっとジャンルの垣根や国境を越える何かを孕むものになって欲しかったという気持ちは否定できない。

(松浦達)