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dragon_ash.jpg 前作『FREEDOM』から一年九ヶ月後に発表された、Dragon Ashのフルアルバムとしては九作目になる『MIXTURE』は彼らの誇りであるミクスチャー・ロック・バンドとしての今を鳴らしている。ボーカルであるKj(降谷健志)はライブやフェスでミクスチャー・バンドである事を誇りであると言っているし、ミクスチャーバンドとして出てライブハウスもやらせてくれなかったり出演する機会がなかったデビュー時のこと。その中でずっと続けてきた仲間だったミクスチャーバンドも次々と解散してしまったりしている事を語る。しかし自分たちは辞めないと意思表示している。解散してしまった仲間たちの想いはアルバムに先行されて発売された「SPIRIT OF PROGRESS E.P.」にも収録されている『ROCK BAND』という曲の中に歌われている。

 表現者は最初の作品に全てが集約されているという。ずっと同じテーマを違った見方や表現でしているともいう。それは村上春樹がずっと「父親」になれない問題を何十年も描くように、それは『1Q84』BOOK3にてようやくその先を描き出したように。Dragon Ashはバンドスタート時の三人から現在は七人に増えている。彼らのライブを観た事のない人はロックバンドになぜダンサーが二人もいるのと聞いてくるのだが、それはライブを見て体感してほしいとしか言えない。ミクスチャーロックとは様々なジャンルの音楽を混ぜ合わせた音楽だからそこにダンサーによる身体性が加わる事でさらにハイブリット化する。それを体現しているのが彼らだ。しかも第一線でずっとそれを続けてきたロックバンドだ。

《出る杭になればいい 笑いたい奴は笑えばいい
修練後ケツ蹴ってやんな 10年後お前がベテランだ》

 上記は「SKY IS THE LIMIT」という曲の歌詞だが、これは彼らの新しいバンドや次世代の人に、今何かをがんばっている人へのメッセージであり、彼らが体験した事だ。フェスなどでずっと聴いてましたと若いバンドに言われるような立場になってしまったベテランのロックバンドとしての想い。そんなものがこのアルバムには感じられる。

 ZEEBRAによる公開処刑の後に音楽を辞めようとし、発売予定だったアルバムも中止し、最低の状態まで落ちたKjはそれでも音楽がやりたいと復活し彼らはラップとのミクスチャーからラテンとのミクスチャーに変化し新しい形を得たのがこの数年間であり、前作『FREEDOM』はラテン・ミクスチャー・ロックの一つの到達点だった。そんな彼らが次に作り上げたのは初期衝動を思い出すかのようなミクスチャー・ロックを鳴らす事だった。アルバムを通して聴くと初期のアルバムに近いものを感じる。が、もちろん同じではない。

 さきほど書いた事でいうと永遠に同じループをする表現者と螺旋階段を上っていくタイプがいると思うのだがDragon Ashのニューアルバムに感じられる初期衝動のようなものは13年前にデビューした場所から延々にループしたのではなく色んな階を見ながら自らに取り入れて上がった螺旋階段的なものだという感じ。表現方法やパフォーマンスが上がった事でできるものをアルバムの中に取り入れているから、どことなく初期の作品のニュアンスを感じられて嬉しく思いながらはっきり進化した形を今のバンドの状態で表している。

 日本の音楽シーンでヒットチャートに入るラップやレゲエで家族愛や仲間の事を歌うのが広まったのはKjの責任が大きい。正直、歌で家族に向けての想いを歌うなら直接言えよと思う、歌って伝えるのは違うだろと。あなたにとって一番大事なものは何ですかという質問で今や「家族」は一位だ。世界が変化し、日本社会の旧来の制度が崩壊し、会社も社会も信じられなくなったら家族しかなくなった。でもその家族もとっくの昔に崩壊しているのに。最後に残された家族という幻想に日本人はすがる。
 
 Kj本人も家族愛などを歌うのが広まっているレゲエやラップが広まった責任も自覚していると雑誌のインタビューなどでも語っていた。だがそれだけミクスチャーバンドとして彼らの影響は大きかった。その責任の代償としてか彼は尊敬するミュージシャンからディスられ暗い穴に落ちて沈んだ。そこからの復活からの音楽の方が僕は好きだ。
 
 アルバム『Harvest』以降は祈りにも似たロックサウンドだと思う。神に届かない祈りでもリスナーに届き彼らの内面を鼓舞する優しさがある。Dragon Ashをしばらく聴いてないという人にもお薦めできるアルバムだし、初めて聴き始めるにも彼らの魅力が伝わりやすいものだと思う。父親になっても初期衝動を忘れないKjと、彼と共に進むこのバンドがこれからも色んなものを取り込んでミクスチャーして独自の進化を続けるハイブリッドな存在になっていく、そして轍ができる。まずはアルバムを。そしてライブで。ライブに行ったら飛び跳ねて重力を振り切って舞い上がってほしい。

《まるで街角のポスター 一つ張られ一つ消えるロックスター
路地裏で生まれた名曲 星空のようにシーンをmake up
夢見た理想と現実 あらがい鳴らすディストーションと旋律
洗い流す胸の中 そう"未来は僕らの手の中》
(「ROCK BAND」より)

(碇本学)

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Fellini.jpg 蓮實重彦が以前に言っていた映画のイデオロギー的な"再編"とはどういう意味だったのか、今こそ考えてみるべき余地はあると思う。

 例えば、1920年代のソ連での、セルゲイ・エイゼンシュテインやジガ・ヴェルトフらが視覚的効果を利用して製作していた実験的な前衛映画作品が批判され、1930年代に、それと代替されるように「社会主義リアリズム」と呼ばれるような民衆受けするナラティヴを丁寧に敷いた映画がスターリン政権によって推奨されることになり、本流を歩むようになったことは象徴的な史実の一つだろう。また、映画領域ではないが、後に「ジダーノフ批判」として有名になる、社会主義リアリズムに反したヴァノ・ムラデリに対しての処置も似たようなものだ。ソーシャリズムに相応しい主体的契機とは何なのか、考えてみると、それは、他者と共感する、他者の差異性を肯定する主体性でなくてはならない(はず)だろう。近代的な合理主義はだからこそ、対照的である。この「共感性」は、優れた芸術に満ちており、繋がっているものであるからだ。そうなると、ソーシャリズムが仕掛けたイメージ枠の中に「政治的メッセージ」が組み込まれ、観客が求めるのではなく、「求めさせられる」観念性自体の幅広い共有がメディアからのコロニアル化を迫られるということだ。こういった例は、イデオロギーの周縁を巡って枚挙にいとまがない。惟うに、フランスのルネ・クレールの転回もそういった映画のイデオロギー的"再編"の一環に組み込まれるだろう。『巴里の屋根の下』以前の彼はもっとエクスペリメンタルだった。

 しかし、蓮實重彦のこのような主張を、ハリウッド手製の古典的な物語映画への政治面での批判として読む手順をなぞるのは得策なのか、考える必要がある。つまり、己自身を観念的な物語を伝達するための透明な「メディア」の地位にまで落ちていったハリウッドの大型の娯楽映画とは、その装置性をしてナイーヴに批判できるだけの意味文脈があるのか。現代の高度情報化社会での「メディア」や「コミュニケーション」のヘゲモニーを創出しているのは、マスメディア機能として不全状態に陥った凡庸な物語映画である要素は看過することはできない。
 
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『8 1/2』は初めから映画のメディア機能としての不全の状態から始まっている。それでいて、『道』のような丹念に編まれた物語映画や難解と言われながらも、実は骨子は明瞭な『甘い生活』から「退却」している点も面白い。周知の通り、1960年時点で、フェリーニは映画界の頂点には君臨しながらもカオスの真っ只中にもあり、「美しき混乱」と名称付けられた"それ"は、スタッフ、脚本人の迷妄もありながら、それまでの彼が撮った映画のうちの『寄席の脚光』はアルベルト・ラットゥアーダとの共作だったので、1/2とも換算した通算映画の本数とも言えたり、その他の数多のエピソード(それは映画雑誌や探せば幾らでも出てくるだろう)、結果的に『8 1/2』と曰くつきの表題に至った。そして、彼の生涯で最後のモノクロームに縁取られた退屈な貴美さは撮影監督のジャンニ・ディ・ヴィナンツォの手腕もあったのか、コントラストが鮮やかで、カラフルな色彩よりも雄弁な麗しさを画面そのものが帯びている。

 ストーリー自体は多くは語るまでもなく、映画監督が映画監督自身の苦悩をモティーフにした「メタ映画」だ。マルチェロ・マストロヤンニが演じる43歳の映画監督グイド・アンセルミは、映画監督という職業上の苦悩、「女性たち」を巡っての溢れ出る感情、想い出、回想、幻惑と夢と混沌を行き来しながら、点は線を結ばず、伏線は断線を呼び寄せるかのように、次のイメージの奔流に飲まれ、消滅してしまう。

 温泉地に逗留しにきたグイドは、愛人のサンドラ・ミーロ演じる豊満な白人女性カルラ、従順で美しいアヌーク・エーメ演じる妻ルイザ、また、職業上での知人たちとの煩わしい関係性から逃れることはできず、疲弊する。カルラは美しい女性だが、肉体的関係で結ばれている存在であり、今のグイドにとっては面倒な感情も持っている。妻のルイザとの関係も倦怠性を帯び、別居することを考えはするものの、結局は必要にもなってしまう。そんなグイドの心に願望の「象徴」として若くて綺麗な女性のクラウディア・カルディナーレ演じるクラウディアがよぎる。そして、そういった女性たちを巡る幻念から思索は、今は亡きグイドの母親へと行き着き「循環」する。あまたの女性「性」の発現とそれに対する無意識裡からのアディクト、あるいは抗い。ユングは男性の中にある無意識の女性的な資質を「アニマ」と称し、男性はこれを「現実」の女性に投影し、そこで新たな(再)発見すると言ったが、ユングを敬愛していたフェリーニの想いはこの映画でこそ、歴然と発火している。
 
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 ラスト・シーンの「出演者たち全員が輪になって踊る」構図は映画に疎い人でも散見したことがあるとは思う。しかし、これは「予告編の為」のシーン割りであって、本当は「失われた結末(ロスト・エンディング)」があった。実は、この映画のエンディングとして登場人物達が白装束を着て、列車に乗ってどこかに向かうというシーンが撮影されていたのだが、それは結局は使われなかった。作品として、"チネ・チッタ"という「虚構の国」の規律するタナトスとエロスの絡み合う祭祀性へ捧げる形を取る為には当時は「輪になって踊るシーン」で終わる必然があったとも言える。

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 最後に言及しておこう。ニーノ・ロータの音楽が全編を麗しく彩りながら、個人的に、フェリーニの作為と、映画のイデオロギーが帰一する"再編"への明確な縄抜けとも言えるシーンがある。それは、湯治場でのマダム達の登場と喫茶のシーンでかかりつづけるヴァーグナーの「ヴァルキューレの騎行」なのだが、なぜ、この曲がこんな何気ない場所、シーンで選ばれたのか、判らない。「ヴァルキューレの騎行」といえば、例のコッポラの『地獄の黙示録』での使い方が象徴的だったが、ああいったベタな作用ではなく、ここでのヴァーグナーはもっと鼻歌のようなものである。その鼻歌を口ずさむように現代においては「輪になって踊る祭祀性」ではなく、「ロスト・エンディング」として用意された肥大したモダニズムに対してのフューネラルの記号のような白装束で列車に乗りこむべきシーンの方が「合っている」というのは少し悲観が過ぎるかもしれないが、どうだろうか。

 政治的に映画が再編されることが増え、グローバリゼーションの手の上で「平板な映画」が溢れるなかで(それは、3D映画の台頭という事象とリンクした形なのも興味深い。)、この混沌としたイメージ片が散らばった『8 1/2』が提示する意味はいまだ大きいと思う。もし、フェリーニが今、生きていたら、どのような想いで二つのエンディングを位置付けるのか、知りたくもなる。もしかしたら、「その先」もあったのかもしれないと夢想するのも悪くない所作だと思うのだ。

(松浦達)

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 いわゆるガレージ・ロックというタームがある。「比較的住宅状況に恵まれており一家に少なくとも一台は自家用車を持っていたアメリカ郊外のキッズたちが、60年代に両親のガレージを勝手に占拠して見よう見まねで(もしくはD.I.Y.的に)始めた、がしゃがしゃうるさいロックンロール」をさす言葉として登場した。

 70年代にレニー・ケイが編纂したコンピレーション『Nuggets』は、プレ・パンクの象徴とも60年代サイケのエッセンスを凝縮した名盤とも言われているのだが、それはそのままいわゆるガレージ・ロック・サウンドの原型ともいえるものだった。リトル・バーリー待望のサード・アルバム『KIng Of The Waves』には、そこに入っていた素晴らしいトラックの数々にも決してひけをとらない、熱い初期衝動が凝縮されている。

 中心人物バーリー・カドガン(ギター、ヴォーカル)は、プライマル・スクリームのギタリストとして彼らのツアーなどに参加するのみならず、モリッシーのギタリスト&ソングライターとしても活躍、ポール・ウェラーやスピリチュアライズドのレコーディングにも力を貸した。さらには今回から新ドラマーとしてヴァージル・ハウ(イエスのギタリスト、スティーヴ・ハウの息子:笑)がメンバーに加わった...といった情報からは、なんか「セレブ」っぽい、どこが「ガレージ・ロック」だ...と思うかもしれない。

 しかし、ここで聴ける彼らの音楽には、これまで以上に(いい意味での)「クズ」っぽさが強烈に漂っている。バーリーがギタリストおよびソングライターとして玄人筋の高い評価を受けるようになったのは、あくまでファースト・アルバム(『ウィー・アー・リトル・バーリー』:2005年)リリース以降のこと。あの時点での「どこの馬の骨か知らんけど、こいつらかっこよすぎ!」という衝撃は並じゃなかった(ちなみに、初期チャットモンチーが、そのアルバムへのオマージュと思われるアートワークを採用していたことにも、おおいに納得したものだ)。それと同じくエドウィン・コリンズがプロデュースを手がけた本作には、ソニック面のガレージ・センスはもとより、当時と同じ「誰でもない」感覚および鼻っ柱の強さが存分に表現されている。

《王様のいる首都に行くとわかる/なんてひどいことをやらかしたのか/資本主義の王者が支配する町が教えてくれる/あまりにひどいことをやってきた/あんたも含む誰の心にも/「変化」のかけらさえ見いだせない》《汚いシャツを売って小銭が瓶いっぱいたまった/汚れたシャツを売って小銭を瓶にいっぱいためた/タンポポの綿毛を吹いてる少女よ/そのお守りをこすって幸運を祈るんだ》《今/俺たちは/どこでもない場所にいる》
(「Now We're Nowhere」より)

 バーリーは、エドウィンの奇跡の復活アルバムにも参加していた。今でもオールドスクールなインディー・スピリットのかたまりのような存在としてUKプレスに怖がられている(笑)マネジャー&妻のグレースには「バーリー? もう(わたしたちの)ファミリーよ、ファミリー(笑)」みたいに言われていた。

 UK音楽界の鬼っ子...オルタナティヴな存在であるエドウィンおじさん&グレースおばさんのガレージで演奏に熱中するキッズたち...というのは冗談として具体的な話をすれば、バーリーくらいの存在になればミュージック・ビジネスの王道にもっと食いこんで、流行の寵児になれそうなものだ。しかし彼らはあえてそれをやらない。日本盤ボーナス・トラックの最後に収録された「We Can't Work It Out」(ビートルズ「We Can Work It Out」への返歌?:笑)の歌詞では「えっ、こここまで言って大丈夫なの(笑)?」というくらい、ポップ・ミュージック/ロック・ビジネスの「アイコン」商法...スター・システムにブラックな皮肉をぶつけている。

 だいたい、『KIng Of The Waves』なんてアルバム・タイトルからして皮肉っぽいではないか。

《いい感じのものと「売れる」ものの狭間で/俺の心は塀につるされたまま/好転するなんてことを信じてるとしたら/ちょっと思慮に欠けるんじゃないかな/だから今は/おまえと俺の「虚飾の時」を燃やそう》《「救い」など存在しない/海の王者ではなかったとしても/決して救われることはない/「波」を代表する者ではなかったとしても》
(「KIng Of The Waves」より)

「思慮の浅い者たちのふるまいを、精神的優位に立ちつつ鑑賞して楽しむ」といった日本型エンターテインメントの典型に近いものを期待するのであれば、このアルバムには手を出さないほうがいい。11曲目(日本盤ボーナス・トラックをのぞくラスト・ナンバー)「Money In Paper」では、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやプライマル・スクリーム、クラウトロックにも通じるエキセントリック反復ロックをとおして、現在の世界の資本主義状況を見事に揶揄している。その鋭さが気持ちよすぎる。「思慮深いバカ」による最高のロックンロールだ。

 思慮の浅さや深さに関わらず、いい感じのバカであることは言うまでもない。

《あんたは自分の黄金でも大事にしな/俺は関係ない/この出会いに俺は驚いた/衝撃を受けた/自分の幸運が信じられない》《俺の愛がやってきた/もろもろのトラブルを吸引しつくしてくれる/やつらの王冠を錆びつかせ/それを粉々にふきとばして塵にかえしてくれる》
(「New Diamond Love」より)

 現在彼らの日本公式サイトでは、アルバム全曲が試聴できる。是非チェックしてみてほしい。

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 イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは自著『極端な時代』で「この数十年ほどの間に、社会学的な意味でのコミュニティは実生活の中に見出しにくくなったのであるが、それにつれて"コミュニティ"という言葉も、かつて考えられなかったほどに無分別に、また意味もなく用いられるようになった」(1994, P428)と述べているが、元来、コミュニタリアン的な視座を持つ彼の感覚は「別枠」に入れるとしても、歪曲された共同体というものが瓦解していったのがモダニズムの瀬であったのは間違いないだろう。グローバリゼーションが進捗するにあたって、国同士のボーダーラインがぼやけてしまい、文化が相対化されるようになった中で、「事実」は単純に知的構築物に過ぎないと「してしまう」ポストモダニズムという知的潮流が攪乱した「名前が付けられる前(または、名前が付けられてしまった後)の場所」ではファクト(事実)とフィクション(作り話)の明確な分岐線が設けられず、曖昧模糊たる小さな神話の中に回収されることになってしまった。その際の小さい「神話」はロベルト・ボラーニョのような事実に肉薄した幻惑的なパラレル・ストーリーなのか、ボードリヤールの提唱したシミュラークル的なオリジナル性の無い、模倣の文化要素を孕んでくるのか、今こそ考える必要はある。

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 想えば、1960年代以降、ラテン・アメリカで見られた"ヌエバ・カンシオン(Nueva Canción)"という、音楽を通じて社会改革を目指した運動の中で、"モダンネス"という言葉がリアルに響く事になったコンテクストは大きかった。"Nueva Canción"とはスペイン語でそのまま「新しい歌」という意味を指す。特にチリでは、1960年代末から1973年まで、ビオレータ・パラとビクトル・ハラを中心にして、多くの優れた音楽家が登場している。しかし、チリでは1973年9月のチリ・クーデターによってアウグスト・ピノチェトの軍事政権が成立すると、ヌエバ・カンシオンは大弾圧を受け、ビクトル・ハラは殺害され、他の多くの音楽家もやむなく国外追放されるなどにより、運動は一時的に停滞を求められることになった。

 その後、1990年にチリで軍政が倒れ、その前後の時期に再びヌエバ・カンシオン運動が盛り上がり、反軍政活動に大きな役割を果たすこととなった。但し、チリでは15年続いた軍政の間に国外に亡命していた有名な音楽家と、国内で活動していた音楽家の間では、音楽的な傾向に違いが生じていた。基本的に、70年代まで活動し、その後亡命に追い込まれた音楽家はトラディショナルな民族音楽(フォルクローレ)を基礎に置いていたのに対して、軍政下に国内で活動していた音楽家は、ロックなど欧米の音楽を軸に置くように変わっていた。

 では、今のチリ音楽の様相はどうなのか、というと、世界で類を見ない大文字の「モダンネス」を獲得しているものが多く、面白い。スマートな女性シンガー・ソングライターのフランシスコ・ヴァレンズエラ(Francisca Valenzuela)やカエターノ・ヴェローゾやホセ・ゴンザレスのような繊細なタッチの唄を歌う男性シンガーソングライターDaniel Riverosによるソロ・プロジェクト、ヘペ(Gepe)やエレクトロ・パンクからニューウェーヴ直系の音を痛快に鳴らすパニコ(Panico)、ショーグン(Shogun)名義での活動も盛んなCristián Heyneなど続々と出てきている。そして、そのチリ・シーンの中でも、注目が高いアーティストの一人にハビエラ・メナ(Javiera Mena)がいる。日本でも高評価を得た彼女のファースト・アルバム『Esquemas Juveniles』から4年振りに届けられた新作『Mena』では、前作と引き続きCristián Heyneをプロデューサーに招聘し、よりレトロフューチャーな音像の解像度は強まったが、前作と同様にアナログ・シンセをベースに用いた80年代的なサウンド・メイキングは淡い浮遊感を醸している点は変わらない。全体を通じて、キャッチーなメロディーと、彼女の軽やかな声がハミングするように乗ってくる爽やかな作品になっている。また、アップ・テンポな曲も増え、フロアーでも機能することが可能なスペースを残しているところが感じられる。

 例えば、アルゼンチンの音響派たちがより知性的に電子音を連ねてゆくというスタイルを取るのと比して、彼女は自分自身が好きな70年代後半から80年代初頭のディスコ・サウンドをモティーフにした上で、チープでローファイな質感を大事にしているという点で非常に無邪気だ。だからこそ、とても「モダン」的であり、そこに作為もなく、<非>的なグローバリズムへの距離感と共同体意識に対しての独自の孤高感があるのが美しい。また、フアナ・モリーナの『Segund』のジャケットを手掛けたグラフィック・デザイナーのAljandro Rosによるアートワークも神秘的ながら、非常にアイキャッチの強いものになっているというのも含めて、「ポストモダン的なもの」がもたらす無力性の周縁を巡るように幻惑的な世界観を提示しているのは面白い。

 歌詞で見られる「光」「空」「あなた」といった大きい言葉の先には「新しい歌(Nueva canción)」に近付くための実験精神も宿っているのだろうか。巷間に溢れるビッグ・アレンジとは違う箱庭的なディスコ、フォークトロニカのような可憐な音風景は非常に「記名性の強い」ものになった。旧き良き「モダンネス」が宿るこの作品にはポスト・モダンの仕掛けるフェイクを避ける透明性がある。

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 近年のUK音楽事情にある程度くわしい方であればご存知と思うのだが、ポール・スミスとはいっても、もちろんあの有名ファッション・ブランドではない。00年代初頭のデビュー以来、本国UKでは中堅以上の位置を獲得しているニュー・キャッスルのバンド、マキシモ・パークのリード・シンガー(つづりもまったく同じだから、例えばワープ・レコーズと契約したとき、少し変名にすればよかったのに...。でも、そんなところが彼っぽい:笑)のソロ・アルバムだ。

 その音楽性を微妙に変化させつつあるマキシモ・パークだが(UKミッドウィーク・チャートでレディー・ガガにつづき2位を獲得した最新作にあたる2009年のサード・アルバムでは、ほぼ同時にリリースされたヤー・ヤー・ヤーズのサードと同一のプロデューサーを起用、似たようなベクトルの、いい意味でのポップ化をなしとげていた。どちらも大好き!)、このソロは、またがらりと印象が変わっている。

 ここ日本では、未だに初期の「ニュー・ウェイヴがかった元気なイメージ」が強いと思われるマキシモ・パークの、ライヴでは「欽ちゃんジャンプ...もしくはモンティー・パイソン的な跳躍」でおなじみポールのソロだから、さぞやがちゃがちゃしているだろうと思えば、さにあらず。

 むしろ静謐な空気感と、ベッドルーム的なインティミット(親密)さが印象的な、まさにプライヴェートな作風となっている。

「ぼくは『ソロになる』わけじゃないよ。ジョージ・マイケルがワム!を辞めたのとは違うんだ」(ポール・スミス)

 ワープからのデビュー前からの友人たち...アンディー・ホドソン(ザ・マチネ・オーケストラ:彼は共同プロデュースも担当。録音も彼の家でおこなわれた)や、フィールド・ミュージックのデイヴィッド&ピーター・ブルイス兄弟がバックアップしたこの作品は、マキシモのそれ以上に「インディー・ファン」には入っていきやすいかもしれない。

 というより、以前からボニー・プリンス・ビリーやスモッグが、その歌詞の世界も含み大好きと語っていたポール(ちなみに、その発言は12月16日発売のクッキーシーン・ムック第1弾にも掲載)が、ちょっとだけバンドを離れてやりたいことを思う存分やった感じ。

 現在ポールのオフィシャル・サイトフリー・ダウンロードできるアルバム1曲目「North Atlantic Drift」冒頭では、こんなことが歌われている。

《ぼくのプライヴェートな心情/ここで/映画の一場面にいるかのようにまた考えている/その内面は/なめらかな光沢のある表面にすぎないけれど/自分自身をあてにしながら/変化に向かっている/品種改良ゲームから逃れて/少なくともむこう1年は》
(「North Atlantic Drift」より)

 わかりづらいようで、大変わかりやすい。この曲を作ったときから、1年くらいはマキシモの活動はお休みの予定なんだろうな、とか...。結構シビアなこと(《品種改良ゲーム》)も、意外とズバリ言ってしまっている。そんなところも、すごく好きだ。だいたいアルバム・タイトル『Margins』にしても、「余白、欄外」「(時間、金銭などの)余裕」「(能力、状態などの)限界、極限」といった意味のほかに、「(商業的な)利ざや」という意味もある(ぼくなどは、つい最後の意味がぱっと頭に浮かんでしまった。いや、ぼくはミュージック・ビジネスというものを「研究対象」にしている部分もあるので:笑)。

 こういった「言葉」の使い方のおもしろさも、マキシモ・パークそしてポール・スミスの魅力のひとつ。だから、日本では(非常に残念ながら)あまり人気が出ないのかな...と思ったり...。

 あ、でも日本盤ボーナス・トラックとなっているスモーキー・ロビンソンの超名曲のカヴァー「The Tracks Of My Tears」は、マキシモも含み、珍しいほど「ストレートに良さが伝わる」タイプの試みだし、マキシモ・ファンの方もそうでない方も、是非一度チェックを!

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 小さな小さなサブジャンルの好みには的確に対応していくが、広範囲にわたってリスナーを引き付けるアクトが少なくなったインターネット時代の現在。あえてそれに一番近い存在といえば、レディー・ガガなのだろうが、根っからのインディー・リスナーからは強烈な拒否反応を食らっている(元々はNYのアンダーグラウンド出なんだけどなあ)。

 まあ、それはいいとして、やっぱりどんな人でも共有できるポップ・ソングが欲しい。とみに昨今そう感じる。そこへきて、2010年のシーロウ(Cee-lo Green)は圧倒的なまでの存在感を放っていた。

 先行シングル「F**k You!」のPVがネットにアップされるやいなやウェブメディアやブロガーの話題をかっさらい、UKチャートではNo.1を獲得(USでは最高17位)。いやいや、それにも納得の楽曲なのだから。伸びやかでソウルフルな歌声が素晴らしいのはこれまでのキャリアで既に証明済みだが、スウィートなコーラスや明るくファンキーな曲調は2010年屈指のクオリティのポップ・ソング。そして何より、悲しくもコミカルなコンプレックスをぶちまけたリリックには抱腹絶倒しつつも世の男性の多くが共感したはずだ。

 そして、ついに届けられたアルバム『The Lady Killer』は頂点まで達した期待を一切裏切ることは無かった。オープニングの「The Lady Killer Theme(Intro)」から、007を気取ってみるものの、結果としては小芝居的(笑)。だが、それがこの上なくいい。コメディアン的な気安さがリスナーへの敷居をぐっと引き下げることに成功し、アルバムのイントロとしてはこれ以上なくリスナーを引き付けるものだ。なぜなら、彼のソロとして3作目となるこのアルバムは、クラシックなブラック・ミュージックのエッセンスを濃縮還元したようなロマンスと内容だったのだから。往年のモータウンの名曲や、レイ・チャールズにカーティス・メイフィールド、スモーキー・ロビンソン、オーティス・レディング、更にはアース・ウィンド・アンド・ファイアやマイケル・ジャクソンまでを彷彿させるキャッチーさには、もはや無条件で身を委ねるしかなくなるはずだ。

 プロダクションにおいても豪華なメンツを揃えているのだが、今をときめくR&Bのプロデューサー陣のみならず、ブロック・パーティーやフローレンス・アンド・ザ・マシーンなどを起用するところがインディ・リスナーとしては注目ポイントだろう。

 タイトル通り一貫してラヴ・ソングを集めているが、あくまでも自身の三枚目キャラを前面に出していて全くキメ切れていない(当然確信犯なんだろうけど)ところが現代的で痛快。ナールズ・バークレイ「Crazy」の特大ヒットはあったものの、グッディ・モブ時代から付きまとっていた影が一気に消え去ったこのアルバムで、シーロウはギークだけのものから世界のポップ・シーンを席巻するスターになったのだ(三枚目だけど)。

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 ザ・キンクスは、この世で最も大好きなバンドのひとつだった。レイ・ディヴィスの書く曲は、いつだって「ああ、死にそうだけど、明日もなんとか生きていこう」と思わせてくれる。そんな彼の、キンクス時代の名曲を、超豪華な面子と共演セルフ・カヴァーしまくった異色ソロ・アルバム。

 問答無用の名曲が、新しい切り口のフレッシュなヴァージョンで聴けてしまう。当然、最高! 悪いはずがなくて実際に素晴らしいというのはおもしろみに欠けるなあ...などと文句をたれつつ愛聴してる。2011年の年明け一発目に聴くアルバムはこれで決まり! 以上!

 ...というのは、あまりに不親切なので、一応概要を...。

《明日こそは、いいことが...!》と歌われる「Better Things」をブルース・スプリングスティーンと! ハリウッドへの(ミュージック・ビジネスに生きる者としての共感をこめた)憧れを歌った「Celluloid Heroes」をボン・ジョヴィと! 「Days / This Time Tomorrow」というその"流れ"だけでも泣ける意表をついたメドレーを期待の新人マムフォード&サンズ(彼らのアルバムも素晴らしい!)と! つづいて「This Time Tomorrow」と同じアルバムからピックアップされた「Long Way From Home」をルシンダ・ウィリアムスと(わおっ)! そのあとパンクの時代にヴァン・ヘイレンがカヴァー・ヒットさせた「You Really Got Me」をメタリカと(ぐわーっ)!

 すみません、メタリカで盛りあがりすぎてちょっと疲れたんで(汗&笑)、あとはおもだった参加者をいくつか列挙しますね。ジャクソン・ブラウン、(当然生前の)アレックス・チルトン、エイミー・マクドナルド、スプーン、ブラック・フランシス(元ピクシーズ)、ゲイリー・ライトボディー(スノウ・パトロール、タイアード・ポニー)、ビリー・コーガン(元スマッシング・パンプキンズ)、そしてラストはマンドゥ・ディアオと(日本盤はそのあとにボーナス・トラックもあるらしい)!

「Better Things」はファウンテインズ・オブ・ウェインのカヴァーのほうがよかった(けど、スプリングスティーンとのデュエットもぐっとくる!)とか、「Celluloid Heroes」はジョーン・ジェットのヴァージョンも泣けたとか、「Lola」はザ・レインコーツと、「Victoria」はザ・フォールとやってほしかったとか、ヨ・ラ・テンゴといっしょになにか録音したというトラックは結局お蔵入りなの? とか、この面子だとアルバム・タイトルが「ほらほら、俺の友だち、こんなにすげえやつばっかだよ」と威張っているみたいに感じる(笑)とか、いろいろあるけれど、すべて許す。仕方ないでしょ、レイ・デイヴィスなので!

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 小泉文夫やヒュー・トレイシーのフィールド・レコーディングの作品群をして、研究素材としては有効だが、時に西洋優位主義からなる非・西洋圏文化のコロニアル化に過ぎない、というような評論磁場があり、例えば、よりもっとポップで商業音楽的な側面に近接すると、ポール・サイモンの第三世界の音楽の摂取の仕方はあざとく、デヴィッド・バーンはスマートだというよく分からない言説に時々、対峙することもある。しかし、ブラー、ゴリラズで活躍するデーモン・アルバーンがマリ共和国でセッションした作品などは先進的なアプローチや近代的な視座を無邪気に取り入れているので、全くそういった対象枠内に入らなかったのも不思議だと思う。"センス"のレベルで未開拓の文化の表層を掬うのが是なのか、もっとフィールドに降り立って同じ目線でその文化に真摯に向き合うのが是なのか、少なくとも僕には分からない。届けられた音像を聴いて想う事はあっても、どんな国や地域でも凡たる搾取の「構造」など対象化している気高さも商魂もそこに介在するケースが多いからなのもある。

 そもそも、芸術という文化現象には、国家権力の政治的な判断で権威付けられ、庇護されたりすることによって肥大化したものに過ぎない、とそれに抗って民衆の側が主体的に引き継ぎ発展させてきたものがある。当然のこと、ア・プリオリ的に文化・芸術に高等なものや下等なものなど存在しない(はずだろう)。ただ、伝承的に音楽的な形式が護られているとしたならば、民衆が何世紀にも渡って主体的に受継し、択び取ってきたものとは「一体、どういう姿をしているのか」―それこそがフィールドワークの中で実際に民衆の奏でる音楽の現場に立ち会ってこそ、初めて理解出来るものなのかもしれない。とはいえ、例えば、「ブラジル音楽」と言っても、対外向けのMPBと自国のロック・ポップスは分けられているのは周知だろうし、「もたざる国」が「もてる国」を逆利用するケースなどままあり、少なくとも、大型レコード・ショップで棚的に区分けされている「WORLD / OTHER」というパラフレーズは自分が知っている世界ではなく、自己意識が想定し得る次元での「異文化」という要素を含む。「ここではない、どこか」を夢想してサウンド・トリップに身を委ねてみるのもいいものの、「どこか」など本当はない。

 また、考えてみるに、サイードが「オリエント」に本質を付与する事を拒否する際において発想のベースにフーコーのディスクール理論を参照にしていると言ったとき、内側から起こる違和は皆、感得できるだろう。何故ならば、フーコーは「言葉と物」で18世紀以前(古典主義時代)のヨーロッパの知の在り方と19世紀以降(モダン)の知の在り方に大きな「断絶」があるという事を述べているからだ。要は、近代主義の尺度で古典主義の知を図ることは不可能だとしたならば、トラディショナルな何かがモダン・マテリアリズムに侵食されて、決定的な「内層」を喪失するという事は有り得るのか疑念を呈さずにはいられない。

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 台湾の「先住民」、ブヌン(布農)族の伝統的な8部和音コーラスと、映画音楽、現代音楽、ジャズやニューエイジなど多様なジャンルを横断するアメリカ人チェリスト/ 作曲家であり、「現代人」たるデヴィッド・ダーリングのチェロが出会い、それを深いアンビエント音楽として紹介するという所作自体はいかにも、前述のような批判の矢面に立ってしまう危惧はあるだろう。しかし、聴いてみると、そんな要素は全く感じないのも事実なのだ。

 台湾の人口の2%を占める12の先住民の中の一つであるブヌン族は山地を中心に生活しており、この作品でも伺える8声の澄んだコーラスは1943年に日本人の音楽学者である黒沢隆朝氏によって世界に紹介された。そして、その9年後に黒沢氏がブヌンの受け継がれている伝統的な曲「Pasibutbut」をユネスコに紹介したときは波紋を起こした。何故ならば、彼らの複雑な8部合音のハーモニーは民俗音楽者の音楽起源に関する研究においても異端なもので、それまでは「楽曲の起源は"単音"を基調としてより複雑なアレンジメントに発展していった」という学説を覆すものであったからだ。そこから、ブヌン族の伝承音楽に世界中の注目が集まることになった。彼らのハーモニーとは狩猟、祝い事、酒席の場等で当たり前のように披露されており、現在も局地的にだが残っている。(しかし、近代化と中国の漢民族の施策の影響もあり、少数民族の文化様式自体が消えつつある状況にもなってしまっているのは残念としか言いようがない。)この作品『Mudanin Kata』のレコーディングにあたって、フィールド・レコーディングを彼らの最も伝統的な因習が根付いているウールー村で2002年の4月に行なっている。パーティーのような雰囲気の中で円滑に進められたという言葉も分かる、朗らかなムードが終始し、周囲の雑音も含みながら、最小限度の形でのデヴィッド・ダーリングのチェロの奏でが、たおやかな音風景を生み出している。少しのスタジオ・ワークを加えて、音響的な拡がりが持った形でこうしてパッケージングされてリリースされることになり、世界中で受け入れられることになった。

 これは、「WORLD / OTHER」の棚を彷徨しながらも、「環境音楽」というジャンルにも入ってくるのだろうか、いや、"入ってしまう"のだろうか。環境音楽というと、アルヴィン・ルシエ、アルヴァン・カラン、ヤニス・クセナキス、フルクサス・グループ、エリック・サティ、ジョン・ケージ、ブライアン・イーノといったアート性を重視したものに含まれてくる作品だとは思うが、これがハイパーキャピタリズムの傘の下で機能的なチルアウトを企図するものになってしまうのではないか、という懸念も生まれる。僕個人としては、帯に書かれているボアダムスのYOSHIMI、カヒミ・カリィの絶賛する「アンビエンス作品の傑作」といった側面よりも、もっとナチュラルな視座から、ブルガリアン・ヴォイス、モンゴルのホーミーに触れたときに、そこに自らが規定している「音」へのコンテクストが脱構築されシンプルに心に響く経験をしたことがあるような人たちに届くようなエコーがあればいいと思っている。ここには、人の生の声があり、自然や鳥の音があり、現代音楽の象徴としてチェロが寄り添うように鳴り、柔らかいサウンド・アトモスフィアが優しく広がっている。尚且つ、深い伝統音楽の持つ悠遠たる歴史の一端に飲み込まれる感覚をおぼえる凄みがあるだけだ。そして、VocalとCello以外にクレジットされたAmbient sounds としてbirds,frogs,monkeys,and insects around Wulu Villageという部分こそが大事なのかもしれない。また、こうしてリイシューといった形で手に取り易くなったのは喜ばしいことである。

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cornelius.jpg ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』は「芸術作品は、原理的には常に複製可能であった」と書き出される。中でも、19世紀の中頃に登場した「写真」という媒体こそが複製芸術の革命的な転機として位置付けされるが、その技術を逆手にとって差異を均したのがアンディー・ウォーホールであり、以降のモダン・アートの宿命に「複製」を巡っての距離感が欠かせなくなる。

 しかし、複製されていけばいくほど、「オリジナル」と変わらない唯一無二の存在であり、それに依拠する芸術の「真正性」を示す事になったのは皮肉としか言いようがなく、更に、複製の複製をメタ認知していく磁場が現代の前提と「なってしまった」ならば、オリジナルの作品のみが持つ「アウラ」という言葉は記号化するのが先か、意味に落とし込まれてウィキペディアやグーグルの侵犯を許してしまうのが先か、の競争になってしまう。

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「渋谷系のエッジ」、フリッパーズ・ギターとして無数のサンプリングをカット・アンド・コピーして表層的にポストモダンの最前線を走ったコーネリアスこと小山田圭吾は最初から「様々な物が出揃っている時代の寵児」だった。だから、「借り物性」を表明し、自分のオリジナリティを示す事でアイデンティティや自意識の難渋さを回避していた。

 思うに、是が非でもコーネリアスとしての始発点は「渋谷系の集大成」のような『The First Question Award』でならなければなかったのかもしれないし、或る種のオブセッシヴな集合的無意識の要請が彼の音をそう「規定」していた枠を外れる事が出来なかったのかもしれない。とすると、創り手の意思とは「非」関係に作品というのは予期設定されているタイム・ボムのような危うさを孕んでこないだろうか。その爆発までの「基準閾値」を更に引いて視た際に、どんな音楽もリアリズムの壁を越える事が出来ない辛苦を孕む。その「リアリズム」に真正面から向かい合ったのがフリッパーズ・ギターのもう一人、小沢健二だったとしたら、彼が『LIFE』で背負った傷痕も同時に非常に根の深いものになってしまったと言える。そして、「引用と言葉の人」だった彼はどんどん言葉数を減らしていき、沈黙に近いフュージョンのような作品に行き着き、今年のような畏まった形でのリサイタルが行なわれるようになったのは皮肉だが、時代に負けたのかもしれない。

 時代とは社会の共約可能性があって初めて「成立」するものだから、今、自己のイメージ管理の罠について滔滔と語る小沢健二の反グローバリゼーションの姿勢は少なくとも、僕自身には「遊び」が足りない、旧態的な<左>軸を想起させた。思えば、最初は旧態的な<左>軸に居た小林よしのりが90年代に右旋して掲げた「大きな物語」が通用する瀬とは幸福だったのだと思う。大風呂敷を拡げても、それをスルーするでもなく、認知してくれる場所があったからだ。だから、ミスター・チルドレンも小沢健二も悠然と構えていることが出来た。やはり、確実にフェイズが変わったのは9.11以降であり、グローバリゼーションの進捗に起因するだろう。社会学の曖昧さから政治学の急進性へ一気に傾ぎ、同時に「地球市民」だとかの危うい言葉も行き来しだした。その「危うさ」は集団的恐慌状態の一歩手前の状態ともいえ、その常態を庇うような芸術作品は必然的に各々に適用するものにならないといけなくなった。そうなると、日本からワールドワイドに展開して誤配も少なく、勝つ為に引用数を減らし、最大限まで音をシェイプして、バンドとして音を鳴らしながら、高度なVJをリンクさせるモデルまで行った『Point』以降のコーネリアスは鮮やかだった。アートの臨界点とロックのカタルシスを同時に共存させながら、ドライヴさせてゆく手捌きは世界中のインディー・キッズからアーティストまでを魅了した。

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 よく『Point』以前/以降のような言い方もされるが、僕は精確には今の流れは既に『Fantasma』で待備されていたと思う。1997年のリリース当初は沢山の音が詰め込まれたガジェット的な意匠が前景化しており、レディオヘッドやプロディジーのような「足し算の音楽」が多かった雑音の中に埋もれてしまうような危うさもあった。それでも、セカンドのヘヴィ・メタルやハード・ロックで固めた『69/96』よりも同時代性もあり、何より鮮やかな「音響工作の美」が溢れていた。缶のプルトップを開ける音からマイク・チェックが始まり、そのまま作品が始まるという画期的なスタジオ(そこ)とここを繋いだスムースな導線。今まで、「ここ」に居る人は「そこ」は夢想しか出来なかったが、その夢想をより近しいものした上で、音をキャンパスに描くように塗り込む所業が目に浮かぶというのは新しかった。

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 その『Fantasma』が砂原良徳のリマスターの上、全面改訂された形でオリジナル・リリースから10年以上の歳月を経て2010年に、届けられた。「今の耳」で聴くと、見事に時代の風化を避けている、どころか、全く旧さを感じさせない点は改めて唸らされる。エレファント6界隈からシカゴ音響派、果てにポスト・ロックと呼ばれる音まで跨ぎ、要所にナード的な拘りも見せるコントロール・フリークな様はマッドながら、至極、シビアで、これにデーモン・アルバーンやハイ・ラマズのショーン・オヘイガンなどの人一倍癖のあるアーティストが称賛を寄せたのも然もありなんか、というくらい、「面白い」だけでは済まない奥の深さがあるアルバムである。

「奥の深さ」―そういったものに一番、無縁であった筈のコーネリアスが表層の表面を滑っていく事でメビウスの輪のように捩れていつの間にか深層を抉っていたのは今だからこそ、感心するが、相当な知的体力がいった事も推察出来る。何故ならば、この後に『Point』や『Sensuous』といったオリジナル・アルバム、数多の秀逸なリミックス・ワークス、膨大なツアーがあり、"コーネリアス"というアウラが礼拝価値から展示価値へと移行したとも言えるからである。だから、「コーネリアス印の音」が幾ら複製されようが、複製される事を弁えているからこそ、逆説的に価値は「高まる」。

 8cmシングルを二枚同時に掛けると一つの曲になるというドラムンベースを取り入れた「Star Fruits Surf Rider」から、数字の1から6まで数えるだけの歌詞のギターロック「Count Five Or Six」、彼のサンプリング・センスが冴えるポップでカラフルな「Monkey」など、『Fantasma』の曲群はブライトフルでもあり、また、無邪気に音楽と戯れている心地良さがある。その点ではよりアート方面へ傾いでいく前夜のカーニバルのような狂騒をパッケージングした作品であり、それを例の音の粒子が浮きあがって聴こえるような意匠を凝らす丁寧な砂原良徳氏のリマスタリングで、よりダイレクトに耳に新鮮な刺激を与えてくれるものになった。初回限定版には本編ディスク以外に、『Fantasma』前後の音源、リミックス、デモなどが収められたディスク2とライヴ等が含まれたDVDが付くが、コーネリアスが立ち上げたトラットリアという今は無くなったレーベルのコンピーレションに入っていた「Lazy」や「The Micro Disneycal World Tour」の原曲の持つ全面的な多幸性を再解釈して、少し不穏な要素も入れたハイ・ラマズのリミックスなど聴きどころも多い。

『Fantasma』の音風景は、『Point』や『Sensuous』に比べると、まだラフ・スケッチの部分があり、当時の渋谷や原宿のイメージを幻像化させていたとしたら、「情報を多く持っている方が勝ち」の時代の最後の通行手形のようなものだったのかもしれない。今は「情報はより少なく、大事なものだけで身軽な方が良い」という時代に反転してしまったからだ。そういう意味で、精巧な再現表象能力によってアーティストのメチエのあり方を厳しく問う一方で、夥しい複製を流通させ、引用によって成立する世界観を形成し、人々の知覚や記憶の在り方をも大いに変容させてしまった時代に毅然と立ち向かった証拠資料のような作品である。

(松浦達)

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Atlas_Sound.jpg 人生を「生きている」人は、かならず「このまま死んでしまおうか」と思うことがあるはず。まあ、「死んでしまおうか」は言いすぎだとしても、自暴自棄になってすべてを放り出したくなる瞬間はあるはずだ。そんな状態から抜け出すための方法は人それぞれだとは思うけど、僕の場合やはり音楽を聴くという方法を選んでしまう。そこで、アッパーでハッピーなものよりも、べス・ギボンズやニック・ドレイクのような、ダウナーで悪魔的な魔力を持った歌声を聴いてしまう。励ましよりもトリップを求めてしまうのだ。

 ディアハンターにしろアトラス・サウンドにしろ、ブラッドフォード・コックスの才能を評価する理由としては、主にメロディや様々な音楽的要素を混ぜ合わせるそのセンスに焦点が集まっていたように思う。しかし、今回自身のブログにてVol.1~4までリリースされた『Bedroom Databank』シリーズでは、彼の「言葉」が存分に味わえる。歌詞としてだけではなく、音から自分の心に浮かび上がる風景としての「言葉」もあるし、何より『Bedroom Databank』シリーズそのものが、ブラッドフォード・コックスの「言葉」で紡がれる物語であって、だからこそ感動的ですらある。ベッドルームという狭い空間から、ここではない無限大なる世界へ。その世界において僕達は、何をしても許される自由な存在へと変貌する。

 そしてもうひとつ重要な点として、ブラッドフォードの歌声そのものが挙げられる。僕は彼の歌声が大好きなんだけど、何故歌声が注目されないのか不思議でならない。よく、「ドラッグをやらないでドラッギーになりたいなら、アトラス・サウンドを聴けばいいのに」なんていう馬鹿げたことを聞く。そんな言葉を吐くなんて、愚か者以外の何者でもない。アシッドは目の前の視点を変えるし、エクスタシーは多幸感と恍惚を味わえる。そして、ブラッドフォード・コックスの歌声は、未知なる興奮を教えてくれる。
 
 音楽というのは、理屈ではどうしても説明できない「ナニカ」があると思うし、ブラッドフォード・コックスはその「ナニカ」をもっとも多く含んでいる者のひとりだと思っている。もちろんブラッドフォード・コックス自身いろんな音楽を聴いているだろうし、だからこそディアハンターで見せてくれる目まぐるしい音楽性の変化があるわけだけど、彼の歌声には、理論や知識なんかを無効にしてしまう不思議な力がある。こんな書き方はレヴューとしてズルイというのは承知しているし、評論としては意見がないと言っているようなものかも知れない。だからといって、彼の歌声に対し付け焼き刃の言葉を並べても、それは嘘になってしまうし、やはり僕にとって、掴み所がない魅力と不思議な力があるということになる。それらが、未知なる興奮に繋がっているのだと確信している。

(近藤真弥)