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kimonos_album.jpg This is 向井秀徳とLEO今井によるユニットKimonosのアルバム『Kimonos』は、ナンバーガールを経て現在進行形のザゼンボーイズを率いている向井秀徳のサウンドに似ていながらも、LEO今井とのコラボレーションの中で違う色が混沌として混ざり合い響くものとなっている。それら二つのバンドサウンドが好きな人はさらに楽しめるはずだし、苦手だった人はLEO今井のヴォーカルにより引き込まれるのではないだろうか。

 最初に一通り聞いて特に印象的だったのはラスト『Tokyo Lights』だった。もしもナンバーガールが続いてたらこんな曲もあったんじゃないかと思った。ナンバーガールのその向こうの景色のようなサウンドだと思った。が、もともとこの曲はLEO今井の曲でアルバム『City Folk』収録されているものだった。そして元の彼の方を聴いてみるとサウンドが全然違う。曲のテンポも雰囲気もロック調ではなかった。向井の音楽性とLEO今井の音楽性が混ざり合うとどことなく洋楽ロックテイストのようなものが孕まれていくようだ。

 文学性を持っていたナンバーガール的な歌詞に、LEO今井が持つヴォーカルと英語圏で暮らしていたその感覚からくる歌詞がお互いにしっかりと自分を殺さずにきちんと主張している音が心地いい。
 
 バンド名"Kimonos"はアートワークを大正時代の美人画(着物を着ているがピアノを弾いている女性など)を使う事から決まったという。西洋と日本が見事に調和したミックス感が自分たちの作っている音と合うと思ったことからと聞くとなるほどなあと納得してしまう。アルバムにあるのはやはりミックス感であるから。

 彼らがスタジオに入りいろんなカヴァーを試みる。その中からアルバムに収録されているのは細野晴臣「Sports Men」だが、この曲があると知らずにアルバムを聞いていて鳴りだした時には興奮した。いろんなカヴァーを聴いているしいろんなアーティストが歌っているのも知っていたが、とても前からそこにあったような当たり前の景色の様に存在していた。この二人によって演奏されているのがまるで決められていた様にアルバムに完全に溶け込んでしまっていた。

 このユニットが発表されて、ザゼン好きな僕は期待と不安が入り混ざった。彼らの狂うようなサウンドは圧倒的なカオスと正確なテクニックに裏づけられたリズムによって、シーンの中でも孤高の存在のようなものだと思っている。その中心である向井秀徳という彼のプロジェクトはどういう風に展開するのかと。

 杞憂に終わった。ずっと繰り返して聴き続けた。飽きない、聴く度に自分の中に溶け込んでいくのに新鮮な感じはなくならない。LEO今井のヴォーカルの心地よさも向井のサウンドも、ザゼンのようにいい意味で狂っていない。が、的確に今を照らしながらその中の景色をサウンドを色彩をミックスして見れなかった色や風景、聴けなかった音やその囁きを届けてくれる。

 一度でいいからこのアルバムを全曲通して聴いて欲しい。僕にはニヤリと微笑むThis is 向井秀徳とLEO今井が浮かんだ。このやられた感はとても幸福な気持ちだ。そしてまた再生してしまうのだ。

(碇本学)

*インタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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The_walkmen.jpg 海外で売れてて、何で日本では売れないの? とか最近言いまくっている気がします。いや、だってそんなバンド山ほどいるし。キングス・オブ・レオンだって、キラーズだってそうじゃない。でもね、彼らは音楽雑誌で大きく取り上げられて高評価を得ているから、売れないのはただ彼らのサウンドが日本人の趣向と合うか合わないか、っていう問題も大きいと思うんです。ただ3年ぶりに新作『Lisbon』をリリースするウォークメンは雑誌でもほとんどちゃんと紹介されない。海外では音楽的に絶賛されていて、年間シングル・チャートとか、もっと大きい枠の「2000年代のベスト・ソング」みたいなのでも、彼らの曲は必ず入ってくる。私も初めて彼らの曲を『スパイダーマン』のサントラで耳にしたとき、「超格好良いな」と思った。何となく投げやりな感じのする高音ヴォーカルも、かきむしるようなギターも、ほかにあまり聴いたことがなくて、ウォークメンの曲だとすぐに分かる。ニューヨークで活動するバンドとしては、影響源がかなりトラッド寄りみたいだけど、基礎がしっかりしているからこそ破天荒なパフォーマンスにも文脈が生まれる。

 新作も安定感抜群。おそらく悪い評判が立つことはあるまい。特筆すべき冒険もないが、中盤の「Stranded」でホーン隊による雄大なイントロが聴こえてきた瞬間、あなたはおそらくこのバンドの本当のポテンシャルを思い知ることだろう。バンド名はいかにもノーマルでちょいダサいが、日本ではもうちょっと光を当ててあげてもいいバンドだ。一度好きになると新作を欠かさず買うようになるバンドでもある。かといってありきたりとは全然違うんだよな。メロディが素晴らしいです、とか、そんなのよりも、謎のベールに包まれた天才バンド、とかの方が説明としてはしっくりくると思います。

(長畑宏明)

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weekend.jpg ダーウィンとは進化生物学の始祖であり、アダム・スミスやマルサスなど「経済学者」にも影響を与えているのは知っているだろうか。例えば、「見えざる手」を巡っての論争等で大きく機能する。「個人の利益追求が市場そのものの最大利益に繫がる」という事を「前提」として、要は、Aという生産者とBという生産者がほぼ同じ規模で同じ利益率だったり扱っている領域が同じだったりすると、どちらかは競争市場を生き延びるため、生産費用を削減して、増益が可能と「なるように」、もっともハイクオリティな技術を援用する、というベタな理論。でも、それで消費者はより安く、より高度な商品を手に入れる事が出来る。

 キャピタリズムやグローバリゼーションを礼賛する現代のエコノミスト群は「見えざる手」論が大好きだ。何故なら、「社会総体」的に最大の利益を付与するのは「自由競争」だ、というエクスキューズと幻想を商業ベースで撒き散らす事が出来るからで、但し、アダム・スミス自身は自己利益の拡大が自分の全く予想もしていなかった、目的を達する運動を促進することになる、と自著で明言しているように、自由競争の可能性や継続発展性に対しては懐疑的でもあったが、そこからダーウィン理論をベースにして、戦争や政治や教育や優生学と組んだ時に、とても危ういものに「なった」のは過去の歴史が示しているし、今現在も「ダーウィン理論」にそれ相応の正当性をデータで出したりする学者も多いが、例えば、「費用便益の原則」というのがある。

 費用便益の原則とは、個人は便益を支払う「べき」費用を越えるとき、「行動を起こす事になる」。その際、「見えざる手」が「働くと、される」のは、その個々の行動により生じる便益の総てを手に入れて、総ての費用の負担をするときしかないというものだ。だが、実際は別の人が便益を手に入れて、費用を負担してしまう。規制緩和のせいで増えたタクシーが一斉に街に出れば、既にタクシーをしていた人たちの客数は「相対的に」少なくなる。同じ値段を払って観に行ったコンサートで斜度が低くて、シート席で自分の前が、背が高くて太った人ばかりだと、視界が遮られて、不利益を被ることになる。こういった場合、「見えざる手」は機能しない。タクシーは皆の動かない時間に、と我先にと走らせれば、結果的に市場が乱れ、「共有資源の乱獲→資源の枯渇」を生み出してしまう。コンサートで皆、立とうとシート席で立つと、それはシートで「ゆっくり座って見よう」という規律が失われてしまう。「コモンズの悲劇」、とか持ち出すと、ややこしくなるが、2010年の「ディアハンターの悲劇」はあったと言えるかもしれない。「みえざる手」側からの搾取構造の中でネオゲイザーとさえ名乗る事を拒否した痛々しく、悲しくもヒプノティックでローファイなアルバムにして、ブラッドフォード・コックスの夢やイメージの切れ端が散らばったまま、刺さったのは自身だったような気がするからだ。ネオゲイザーの主役たるディアハンターのポスト・パンクへ舵を切った先にあったの自縄自縛だったのだろうか。

 そんなことを想いながら、ベスト・コーストなどを輩出し、一躍USインディ・シーンの注目されるレーベルとなったMexican Summerから"10インチ・シングル"でデビューをして、また、UKのTransparentからYoung Prismsとのスプリット・シングルをリリースするなど、欧米においての"トレンド・セッター的"レーベルからも「一目置かれる」サンフランシスコ出身の、ローファイでシューゲイズな音を誠実に鳴らす3人組Weekendのデビュー・アルバムの『Sports』を聴けば、見えてくるものがある。ここには、例えば、ブラッドフォード・コックスのソロのアトラス・サウンドにあった陶然とした雰囲気、ワイルド・ナッシングとも同期するようなローファイネス、また、ライドの『Nowhere』のような瑞々しい轟音とメロディーのバランス感覚はノー・エイジを髣髴とさせる、など様々な名前がふと出てしまう音になっている。要は、とても「今の音」なのだが、それだけ未だ、匿名的な音でもある。それでも、ジーザス&メリー・チェインやマイ・ブラッディ・バレンタインなどの音像に潜む甘美なサイケデリアと彼岸に意識を飛ばすような酩酊した佇まいと、素面で酔って、真面目に狂っているようにWeekendの三人が鳴らす音は兎に角、「見えざる手」からの握手を拒み、非効率なシューゲイズで埋もれた音から新しいユートピアを希求しているかのような自律性を感じる事も出来るのも確かだ。

 ライド『Nowhere』前後のような青いメロディーに初期のモグワイの「正しい雑音」でコーティングされた10曲全体が醸し出す浮遊感はドリーミーさよりも峻厳なリアリティの中の暗渠のようなものが目立つように、まだ彼等自身が描く世界観は箱庭的で、10曲の中でロマンティックに干上がってゆく。ネオゲイザーやグローファイといった音自体は「新しい」とは僕は思わないが、そういった音を鳴らす意味を見出しているバンドの意識が多いのは「新しい」と思う。

「週末(Weekend)」と自ら銘打ち、『Sports』という記号の中で「見えざる手」に攪乱される、この音はナイーヴで些か閉塞的だが、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートとウェイヴス(Wavves)の狭間のミッシング・ピースを埋めるような可能性のある一枚になった。また、こういった音が一時のブームで犇めき合い、過ぎていくものではなく、彼等は健やかに成長していって次の地平も見渡して行って欲しい、とも希う。

(松浦達)

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One_Ring_Zero.jpg 先日、アメリカ人とカラオケに行った。僕はせっかくだからと思って、レディオヘッドの「Creep」とピクシーズの「Debaser」を披露した。「みんなで歌おう!」って盛り上がるはずだったんだけど...。はっきりと「歌詞が暗い」と言われた。「せめてガンズにしてくれ!」とのこと。もともとオルタナ好きじゃない人だったのかもしれない。でも、その時に"曲調/ノリ"ではなく、歌詞の内容を指摘されたことに驚いた。普段、聞き流してしまっている歌詞もある。好きな曲の歌詞を知って、気持ちが揺さぶられたり、新しい発見をすることもある。歌にしてはいけない言葉なんてないと思っている。あれこれ考え込んでも仕方がない。歌おう! "I'm A Creeeep! I'm A Weirdoooo!"  いつもより歌詞が心にしみる。そんな夜があった。

 歌詞と曲。ロックやポップ・ミュージックでは、切っても切れない大事な要素。そこに大胆なアプローチを仕掛けて、アルバムを1枚作り上げたバンドがいる。ニュー・ヨークを拠点に活動するワン・リング・ゼロ。2004年リリースの5thアルバム『As Smart As We Are』は、なんと総勢17人の現代作家とのコラボレーションによるもの。作家たちが歌詞を手掛け、バンドが曲を作るという手法で制作された。そして今、対訳/解説付きの国内盤が登場! 参加した作家陣を見てみると...ポール・オースター(!)、デイヴ・エガーズ、マーガレット・アトウッドなどなど。読書好きなら、ちょっとは聞き覚えのある名前ばかりのはず。バンドよりもむしろ、作家の知名度のほうが高いような...。ところで、ワン・リング・ゼロって、どんなバンド?

 ワン・リング・ゼロは、ヴァージニア州リッチモンド出身のマイケル・ハーストとジョシュア・キャンプの2人が中心となって結成された。2人はもともと楽器メーカーのホーナー社に勤めていて、マイケルはハーモニカ、ジョシュアはアコーディオンの技師だったそう。ある日、ドイツのホーナー本社から"クラヴィオラ"という楽器のプロトタイプが2人のもとに送られてきた。"クラヴィオラ"は、見た目がアコーディオンみたいで演奏方法はピアニカに近いという珍しい楽器。"クラヴィオラ"に魅せられた2人は、この楽器を使ったバンドの結成を決意する。バンドは99年に1stアルバム『Tranz Party』をリリース。その後、活動の拠点をニュー・ヨークのブルックリンへと移す。彼らはリーディング・イベントへの参加などを経て、多くの作家と交流を深めていった。そんな出会いの数々がこの『As Smart As We Are』制作のきっかけになったという。ニュー・ヨークっぽくて、素敵な話。映画『スモーク』(ポール・オースター原作/脚本)の1シーンが目に浮かぶ。

 イントロダクションに続いて、ポール・オースター作詞による、やさぐれ感たっぷりの「いかした男のブルース」でアルバムはスタート。いきなり「シンシナティに罪(Sin)はねぇ」 と、ダジャレを飛ばす! 歌わず、楽器も弾かない作家たちの"プレイ"とワン・リング・ゼロとの共演に耳を澄まそう。懐かしくも不穏なメロディにヴィオラやピアノ、トランペット、テルミンなどの音が重なり合う。フランケンシュタインが登場して、うんうん悩んだ挙げ句に「ドクター、あんたのせいだ!」と叫ぶ。アーロン・ナパーステクという作家の歌は、なんと英語による俳句。愉快なポルカの「観葉植物のすべて」も傑作だ。「植木鉢はいつしか金色に変わった/葉っぱはしかし、枯れてきた」だって。子供のコンプレックスを歌う「厄介な宿命」やゴキブリたちが居場所を知らせる「水」など、歌詞にぴったりのポップで奇妙な曲調も楽しい。本を読むというよりも、怪しげなサーカス小屋に迷い込んでしまったみたい。そこで垣間見るちょっと不思議な日常/非日常のあれこれ。後期ビートルズや『Swordfishtrombones』~『Franks Wild Years』の頃のトム・ウェイツを思わせる音世界。

 最後に、このアルバムに参加した作家を少しだけご紹介。ポール・オースターは、有名すぎるから省略ということで。「リタ・ゴンザロの亡霊」を作詞したデイヴ・エガーズは、映画『かいじゅうたちのいるところ』でスパイク・ジョーンズと脚本を共同執筆。01年に日本でも出版された『驚くべき天才の胸もはりさけんばかりの奮闘記』は、うちの本棚にもある。マイラ・ゴールドバーグは、後に映画化された小説「綴り字のシーズン」が有名。ザ・ディセンバーリスツ(The Decemberists)は、その作品にインスパイアされて「Song for Myla Goldberg」という曲をリリースしている。他にもデニス・ジョンソン、リック・ムーディなど、国内でも作品が出版されている作家ばかり。村上春樹、村上龍、吉本ばなな、町田康(もともとやってる)、山田詠美あたりの作家がいっぺんに日本のインディーズ・バンドに歌詞を提供したら、どうなるだろう? そんな想像も楽しい。ポール・オースターが好きな人、他の作家の名前にピンと来た人はぜひ。逆に、このアルバムを気に入ったら、参加している作家を見つけてみるのも楽しいはず。素敵な出会いと発見がたくさん詰まった最高の1枚だから。

(犬飼一郎)

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splashgirl.jpg ノルウェイのオスロを拠点とする3人組、スプラッシュガールによる2ndフルアルバムがHubroよりリリース。
 
 ピアノ、ウッドベース、ドラムス、アコースティックギターというジャズ的な編成の下で、マウンテンズあたりのエクスペリメンタルとフリージャズとを同時に鳴らしてしまったようなバンド。電子音の使用は控えめで、ピアノやギターの伸びやかな音や、その余韻、演奏者の息づかいに耳をすませる類の音楽だ。アルバム一枚を通して、アブストラクトな雰囲気に包まれており、暖炉を囲んで鳴らすような、波風のない平穏な曲もあれば、サッドなピアノがフリーキーに叩かれる、荒廃した曲もある。
 
 気持ちいい音を鳴らすだけのバンドを思い描くかもしれないが(そんなバンドも素晴らしい)、スプラッシュガールは全体のアンサンブルにしっかりと身を委ねたバンドだ。ジャズを通ると否応でもそうなる。ジャズがやりたいのかエクスペリメンタルがやりたいのかが釈然としないが、明確にする必要性もないと思う。中途半端で人間味がある方が、何度聴いても楽しめる。
 
 どちらの音楽性に傾くにしろ、傾かないにしろ、エレクトロニックな要素はもっと省くといい。現代的でスタイリッシュではあるけれど、悪い意味での「誰かがやりそうな音楽」になりかねないからだ(でもそれでもいいのかな。本人達が楽しんでいるアルバムだと思うし)。なんにせよ、長く聴けるアルバムには違いない。

(楓屋)

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haisuinonasa_jacket.jpg 新人5人組による通算2枚目となる6曲入りのミニ・アルバムが到着。複雑かつ緻密に構築された硬質なバンド・アンサンブルと浮遊感と透明感を持ち合わせた女性ヴォーカルとの組み合わせという、デビュー作で提示された基本路線がさらに突き詰められている。歌のテーマの基本となっているのはタイトルでも明示されているように「都市」であり、特に日本の都市部ならではの、精緻に設計されている無機質で一見不純物のない建築の合間をひとりで真夜中に歩いているかのような風景が浮かんでくる。
 
 例えばコーネリアスが『Point』の頃に提示していた生活の中に自然に溶け込んだミニマリズムを、別の角度から5人というバンド編成のアンサンブルによって描き直そうとしているかのようにも聞こえる。その潔癖性的な音の質感が、2曲目の「均質化する風景」で歌われているような「平均化されてしまった世界」という、都市にいる人々が心の内に抱えている問題点をもまた浮き彫りにしているようで妙にリアリスティックだ。そういう意味で、「2010年のシティ・ポップス」とも呼べるかもしれない。フル・アルバムでは都市に秘められた狂気的な部分がこの冷静な筆致で暴かれるとどうなるか、という点についても聴いてみたい。

(佐藤一道)

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girls.jpg 昨年リリースのデビュー作『Album』は様々なメディアで2009年の年間ベストを総ナメにし、待望の来日公演には多くのファンが殺到、会場となった原宿アストロホールがギュウ詰めになった。あのステージではフロントマン=クリストファー・オーウェンの憂いに満ちた表情と、人の心を掴んで話さないメロディ、そして郷愁をかきたてるような爆音のホワイト・ノイズを直に感じる――それはまさに白昼夢のような、はかなくも甘美な体験だった。だがその一方で、演奏は危なっかしく、リズム隊のプレイが安定していなかったら見て入れたものではなかっただろう。しかも、ステージで披露された新曲(この「Broken Dreams Club」収録曲)も『Album』収録曲と同じく、直線的なメロディでこれまでの彼らとあまり代わり映えがしない印象。このバンドにこれから後はないのでは?、僕はそう感じてしまった。

 しかし、彼らから届けられたEP「Broken Dreams Club」を聴いて、考えを改めざるを得なくなった。確かに、クリストファーの切ない歌声やビーチ・ボーイズ直系のメロディ、女の子について歌うリリックのスタイルはそのまま。聴けばすぐにガールズと分かるはずだ。しかし、今回もプロデュースを手がけている、メンバーのチェット・Jr.・ホワイトの手腕は見事で、『Album』とは異なるベクトルが感じられる内容になっている。『Album』ではジザメリ風のギターが前面に押し出されていたが、「Broken Dreams Club」にはそれが一切なく、メランコリックなスパニッシュ風のギターや、新たに取り入れられたホーン、ドリーミーなフレーズを鳴らすキーボードなどで描き出されたのは、フリートウッド・マックから譲り受けたような華やかさだった。

 哀愁を漂わせるオープニングの「Oh So Protective One」や、美しい男女コーラスと大胆に変化するメロディが印象的な「Alright」など、リラックスしつつも新たな挑戦が感じられるが、特に注目すべきはそして、ラストの7分の大作「Carolina」。天上に上り詰めるような至福のイントロといい、ユニークなコーラスや電子音を導入した実験性といい、そしてビタースウィートなメロディといい、この作品を象徴するトラックといえるだろう。

たった6曲ながら、新たな境地に踏み込んだこのEPで、まだまだサン・フランシスコの空気を伝えてくれるワン&オンリーなバンドであることを証明したガールズ。次はどんな作品を届けてくれるかに期待したい。

(角田仁志)

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mas.jpg アグレッシヴなサウンドに併せ持つ翳り...。本気で〈10年に一度の傑作!!〉と言ってしまいたい、5年振りとなるMASの3rdアルバム。ツジコノリコやtoto(suika)のプロデュースを手掛けるヤマダタツヤ(Tyme.)をリーダーとする5人組。疾走するリズムの上を神秘的なバイオリン、濃厚なサックス、密かに白熱するギターを中心としたアンサンブルがダイナミックに絡み合う。圧倒的なロック・グルーヴをかますアバンギャルドかつナイーヴなサウンド、絶望感と隣り合わせの愛の重みにズキリ。その後には小さなキラリ。反復されるリフにキラキラと舞い散る音の粒が溶け合った今作は、聴き手の期待をなだめるように静かな世界が展開されていくが、だからこそタイトル(=円径、遠景...)に込められた思いが伝わってくるし、そこから聴こえるメッセージに耳を傾けたいと思う。それにしても、暗部の中に果敢に美しさを見いだす彼らは、なんて志の高いグループなんだろう。

(粂田直子)

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    sleepy.ab.jpg 北海道出身の4人組sleepy.abの、ライヴ・アルバムに続く3曲入りニュー・シングルが到着。水彩画の滲んだ筆致を想起させるレイジーなトーンのギターが鳴り響くイントロから早くもおなじみのsleepy.abワールドへと誘われる。隠し味的に鳴らされるストリングスの優雅な音色(これも実はギター・サウンドによるもの?)も、ゆったりとうねるコクのあるリズム隊も、暖かさがありつつ心地よい「伸び」を聞かせるヴォーカルも、すべてが聴き手を包み込むような大きなスケール感をもつタイトル曲。キラキラしたギターの瞬きと「君と僕は似ているね」というフレーズが印象的な「夢織り唄」。そして、初期のヴァーヴを思い起こさせる浮遊するギターの音色に魅せられる「雪中歌」のLive Remixヴァージョンと、いずれも「冬」という時期の夜空の向こう側に思いを馳せるシチュエーションとの相性が格別な、包容感と温もりに溢れた充実したシングルだ。

(佐藤一道)

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kyozyaku.jpg 都内を中心に活動中の、平成生まれ女子4人インストゥルメンタル・ポップバンド、虚弱。の2nd demo『donguribouya』。

 重低音の効いたベースサウンドに、繊細なタッチのドラムによって構成されるリズム。その上に響く透明感のあるピアノの音に、曲の軸となる一本のギターサウンドが多彩に変化し、織り混ざり、曲が紡がれて行く様子は聞き手に対して壮大で繊細な物語を感じさせる。

 唐突だが、人間にとって言葉は特別な存在だ。人は言葉によって思考する部分が大きい。メロディーに言葉がのせられ、それが頭に入ってきたとき、そこに浮かぶ情景、色、空気、温度など、言葉は人の思考や完成のさまざまな部分に大きく影響してくる(もちろん他にも様々な要因はあるけれど)。聞き慣れた曲を歌がない状態で聞いた時に感じる不思議な感覚を、誰しも一度くらいは経験したことがあるのではないだろうか。
 
 この虚弱。の曲には歌、つまりは言葉が全くない。けれど、確実に楽曲からは言語といった伝達手段のレベルを越えた、何か訴えるものを感じとることが出来る。言葉が無く、音だけで表現されているからこそ気付いたりすることのできる感情、そして言葉によって縛られないからこそ感じることの出来るものがある。普段、歌の無い音楽はあまり聞くことがないとか、そういうった些細なものを取り払う懐の深さと奥行きを持った作品である。

 そしてインストゥルメンタル・バンドであるが故に、その独創的な世界観を成立させている希有なバンドだ。虚弱。というバンドの曲が持つ物語の最大の魅力が、研ぎ澄まされた「理性」と、それに背中合わせな存在である強靭な「意志」だ。「理性」には強い論理性や想像力によって成り立ち、「意志」というのは表現への渇望と言い換えられるかもしれない。
 
 インスト・ポストロック的な要素の一部ともいえる幾何学さを感じさせる、変拍子を含んだリズムや展開から感じることのできる論理性やアイディア。そこへ表現に対する渇望、狂気、破壊、葛藤、美しさといった強靭で、非常に人間的な「意志」を感じさせる様々なサウンドがぶつかった時に生まれる物語は、届きそうで届かない空想的で抽象的な感覚と、現実的で身近に感じられるような感覚をあわせ持った世界を見せてくれる。それはとても魅力的だ。

 もうちょっと話を具体的な方向へ引き戻せば、そういった人の感情に訴えかけるようなサウンドの選択が非常に素晴らしい。グロッケンの音や、生音に近いピアノの音。4人編成でギターは一本しか無いのだが、音源同様に、ライブでも一本とは思えない程のノイズ・ギターや、音が空間を流麗に進むようなディレイ・ギターなど、多彩な音を使い分けておりセンスを感じる。

 少し話は逸れるが、推理小説の祖であり、詩人であったエドガー・アラン・ポオは『構成の原理』という著作の中で"大抵の作家、ことに詩人は、自分が一種の美しい狂気というか、忘我的直観で創作したと思われたがる"そして、自作の詩に対しては"構成の一点たりとも偶然や直観に帰せられることなく数学の問題のような正確さと厳密な結果をもって完成されたもの"と述べている。つまり、簡単に言ってしまえば彼にとって創作は理性的なものであったということだ。

 なぜこんな話を持ち出したかと言うと、音楽やアートなどの芸術は、それを聞いたり鑑賞したりする側に立つと、狂気や情熱にとりつかれ、そこに作り手の自我はなく、インスピレーションのみによって生まれ落とされるように見えることが僕にはある(もちろんそういうものも存在すると思う)。そのインスピレーションの偶然性のようなものを、天才的と表現したりするわけだ。そしてそれを見ることにより、作り手と、受け手の間になにか見えない断絶のような物を感じてしまうことがある。

 けれども、そういったロマン主義的なものではなく、さきほど引用したポオ的な態度である「理性」と「意志」を強く感じさせる虚弱。のようなアーティストが僕はとても好きだ。誤解の無いように言えば、「理性」と「意志」を持って創作に向かうということは、もちろんそこに天才的な直観やセンスが無いといった意味では全くない。つまり、ポオの言葉を借りれば「忘我的」なのではなく、自分に対して向き合い、そうした行為の中で素晴らしい芸術を生み出しているということだ。

 そして、それがこうして人に伝わり、物語を感じさせられるということ。それは確実に紛れも無い才能だし、「天才」だ! と僕は呼びたいな。

(陰山ちひろ)