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yura_yura_teikoku.jpg 例えば、ジョン・ケージの「偶然性の音楽」は、従来の古典的な音楽を聴くような態度で接すると、分裂した不可解で滅裂なものでしかないが、聴取姿勢を変えてみることで、別位相から豊穣な音楽として発現する。要は、聴取という解釈学から聴取という詩学への「実存転調」によって、より深奥に潜り込む事が出来る訳だ。

 2010年3月31日をもって解散をしたゆらゆら帝国の近年の作品は聴取側の実存転調によって、漸く呼応出来るほどのストイック且つミニマルで隙間を活かした内容になっていたのは周知だろう。ただでさえ、03年の『ゆらゆら帝国のめまい』と『ゆらゆら帝国のしびれ』の二作品でスタジオ・ワークとしての細部への下降と3ピース・バンドとしての実験の限界に挑んだような点があったにも関わらず、その後にフィジカルな要素を少しずつ減らしていった『Sweet Spot』、「つぎの夜へ/順番には逆らえない」、『空洞です』といった作品群の照射していた景色はより雄弁に「無」を語っていた。足し算のサウンドではなく、有り余る音から引き算の末、シェイプされたサウンドが映す歪んだ鏡越しの現実。そこに「非・意味」を連結する事によって、意味のイメージ枠を広げるような歌詞が乗り、アシッドでトリッピーな世界像を作り上げる所作はサイケデリアの極北へ針を振り切っていた。

 そもそも、彼等の作品には日本語のロックに必然的に付きまとう強烈な自意識を感じない。反転した構造の内にある鏡像内の自我がかろうじて可視化できるくらいであり、その可視化する主体側がそれを自らの像と混同し、写しによって同時に想像的に騙し取られてしまうような要素がある。即ち、主体が自らをその音像に「差し出す」ことで決めた自分の像の内に疎外されている、ということ。加え、根源的に欠けた主体はその疎外について無知であり、こうして自我の慢性的な誤認が形成されることになる。結局、主体は他者の欲望の対象の中にこそ、漸く自らの欲望を見定めることができる(他者の欲望の中にしか自らの欲望を当て嵌める事ができない)、といったラカンの提示したような構造を当て嵌める事が出来る。だからこそ、彼等は"さしずめ俺はちょっとしたくぼみさ/特別邪魔になっていないつもりさ"(「あえて抵抗しない」)と歌えてしまう。

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 彼等のメジャーでのデビューアルバムは98年の『3×3×3』であるが、それ以前に10年近くの活動歴があった。その98年以前は、東京の深いアンダーグラウンドの繋がりの中でメンバー変遷がありながらも、濃厚な情念と不穏さをラフな音に込めていた。象徴的なのは92年のモダーン・ミュージックのレーベルPSFの『Tokyo Flashback 2』というオムニバス・アルバムで、WHITE HEAVEN、HIGH-RISE&灰野敬二、などの中に「バカのふり」という曲で参加していることだろうか。しかし、その「バカのふり」からスタジオ・アルバムとしての最終作となった『空洞です』で、再度、初期衝動にメタ批評的観点を加え、独自の温度を抜き取ったストイシズムの美学は不思議なことに「あたま山の花見」のようなうねりで繋がっている。サウンド・スタイルは変われども、参照点として大きかっただろう、三上寛、ジャックス、裸のラリーズなどの持つ独特の日本語ロックの明るい翳りと、前衛的なサイケデリアはキャリア全体を通底しており、例えば、92年のインディーズとしてのファースト『ゆらゆら帝国』での「狂っているのは君の方」という視座から07年の「空洞です」における「意味を求めて無意味なものがない」というスタンスまで大きく変わっているようで、実は時間軸が捩れただけで80年代以降のポストモダンの瀬で消費された幾つもの物語群、メタ・テクスト群への徹底した「拒否」の核心が浮かぶだけなのが興味深い。

 その核心を軸に周縁を「ひとりぼっちの人工衛星」が廻りながら、「つぎの夜へ」行く事が出来ず、彼等は発展的に活動を終えた訳だが、自分たちが創造した「ゆらゆら帝国」内で、想像し得る「ゆらゆら帝国」を再構築してみるという所業により、最終的に純度の高い虚無に還っていったというのは美しかった。その虚無はミニマル・ミュージックのような「素材の簡素性と反復」を特徴としており、つまりは、「作品」という概念がプロセスに取って変わられ、「時間芸術」の下でプロセスの補填する時間と、作品の持つ時間との差異の位相をスライドしてみることで、「そこ」は「そこではない、どこか」になる彼岸にあるものだった。また、ウィム・メルテンが示唆するミニマリストたちの考える時間の空虚さはゆらゆら帝国が常に持っていた「時間」だった。ゆえに、彼らの音楽には「現実の変化」は起きてこない。そして、音楽的時間の静止と隙間に非・意味が独自のコンテクストが敷かれながらも、視界を捻じ曲げる空間の揺らぎだけがあった。

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『ゆらゆら帝国 LIVE 2005-2009』には、07年、09年のライヴから程良く曲群を抜粋したCD、『空洞です』を07年~09年のライヴ音源群から選択し、曲順をアルバムの通りに再構成したライヴ版『空洞です』ともいえるCD、09年の日比谷野外大音楽堂でのライヴとボーナスとして07年のライヴの一部、05年~07年の作品のビデオ・クリップを入れたDVD、の2CD+1DVDの形式になっており、3曲の未発表曲も入っている。未発表曲の中でも都々逸とルンバの合わせた、いわゆる、ドドンパのようなリズムの拍子と「ほら 振り払おう」という歌詞が印象に残る「お前の田んぼが好き」、「次の夜へ」に微睡みとセンチメンタル性を入れたようなサイケデリックな「いまだ魔法がとけぬまま」など"ポスト『空洞です』の地平"を見渡すことが出来るような曲などは、完成度も悪いものではないだけに、残念にさえ思うが、彼等自身は模索過程で、これらの曲が結実する着地場所が見えなかったということなのだろう。

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 この作品に触れることで余計に想いを新たにしたが、ゆらゆら帝国とはやはり、特異なバンドだった。サイケ、ネオGS、オルタナティヴ、アングラ、ニューロック、ポストパンクなどの名称が彼等の周縁を行き交いながら、どれにもカテゴライズされる事も無く、ファンは日々刻々増えてゆき、遂にはDFAからもCDを出してしまうという所まで行きながらも、全く異端の存在性を放っていた。その異端性は、孤高でも孤立でもない、違和感の塊としての「それ」だった。想い出してみるに、大型フェスやイヴェントでも彼等のパフォーマンスは、他アクトと比較して、などではない、一旦「断絶」をもたらすようなものだった。その「断絶」の本質は、一回性と反復性に帰納されるものだと言える。

 身体に還元されることのない精神と自分「だけ」が引き受ける一回性としての死を巡る「私」。その「私」を幻像化するかのようにイメージが散逸するフレーズとスタジオ作品とは違う肉感的なライヴ・パフォーマンスが一層、攪乱させるのは感性ではなく、もっと深層心理内の各自の散らばった記憶の破片をだとしたら、こういったライヴ・アーカイヴスは色褪せることはなく、各々の心が隠し持っている生傷を抉るのかもしれない。そこには、チャールズ・ブコウスキーが言った"You have to die a few times before you can really live."(貴方が本当に生きる為には、まず何度も死ななければならない)という台詞が似合う。

(松浦達)

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son_of_rambow.jpg『リトル・ランボーズ』の英語のタイトルは『Son of Rambow』で、劇中でも主人公のウィルが「僕はランボーの息子」だと言っている。数年前に公開されヒットした『リトル・ダンサー』も英語タイトルは『Billy Elliot』なのでどちらも配給会社が日本語タイトルとしてつけたんだろう。『リトル・ダンサー』もヒットしたし、こっちも『リトル・ランボーズ』にしようみたいなのがあったのだろうか。 『リトル・ランボーズ』が1982年のイギリスで『リトル・ダンサー』は1984年のイギリス北部の炭鉱町が舞台なので時代背景も近い。

 ストーリー・イギリスの片田舎に住む11歳の少年・ウィル。厳格な戒律を守るプリマス同胞協会である彼の家庭では、テレビも見てはダメ、フィクションの小説もダメ。ポップスも禁止、新聞、スポーツ観戦、ラジオ、芸術、もちろんアクション映画なんて禁止中の禁止事項だ。そんなウィルは、偶然クラスのいじめっ子・カーターと出会い、ある日偶然、彼の家で『ランボー』を見てしまう。初めて見るテレビ、初めて見る映画、はじめて見るランボー! すっかりランボーの虜になってしまったウィルは、放課後になると"プチ・ランボー"に変身して、カーターの映画製作に協力するのだった。ところが不慮の事故が起こり、ウィルは入院する羽目に...。

 監督のガース・ジェニングスは72年生まれで、ブラー『Coffee & TV』R.E.M『Imitation of Life』をはじめ、これまで多くのMVやCMなどを手掛けてきている人物。『Coffee & TV』でのミルク君が歩いているユーモアさとポップさが彼の持ち味なんだろうか、『リトル・ランボーズ』にもこのMVは通じているというか観ると同じ人がやってるんだろうなって感じがするので、これが好きならまあ映画も大丈夫じゃないかな。

 監督の幼少期の実体験が入っているらしい。実際に友人たちと『ランボー』を観て映画を撮影したのが元で、映像許可のためにスタローンに手紙を書いて許可を得たとのこと。なのでこの作品には『ランボー』の実際の映像が出てくる。 主人公・ウィルが聖書やノートに書いている絵が実際の映像と合わせて使われていたりと、ミシェル・ゴンドリーやスパイク・ジョーンズの作品に近いのはMV作りとかしてた監督の空気感とかポップさだったりするのだろう。

 この10年代(テン年代ともイチゼロ年代とも言いますが)は80年代的なものが来ると言われているのは、時代の周期が30年で回るとか回らないとか言われてて、僕が思うのは僕らの世代や少し上の人達が過ごした80年代ってのがあって、その世代が世に出ていき映画なり音楽なり表現をしていくメインになるので自分たちが過ごした幼少期や影響が作品に出てくるのでそうなるんだと思うし、あと80年代に二十代とかで活躍してた人が四十代後半とか五十代になって行く中で時代とまたかみ合っていくので、80年代の反復みたいな事になるんじゃないかなって思う。

 でも、実際に僕らの思春期だった頃は90年代なんでそれもどうだろうなあとか思ったりはする。たぶん、三十代前半と二十代後半は90年代の影響の方がデカイ。なんでどちらかというと90年代の影響下から始まった初期衝動から始めた人が出て行ってメインストリームになりそうな気がしているのだが。十年後の20年代はたぶん違う形になると思うんだけど、90年代以降ネットや携帯が生まれた頃にすでにあった世代が最前線のメインストリームで活躍する時にたぶん、今以上に世代の断絶感や距離が出てくるんだろう。たぶん、それはもうどうしようもない。最初に使える、手に出来る表現方法がまったく違うテクノロジーだと想像や手段が違うのでかなりそれがデカイかなって。まあ、ゼロ年代は暗かったし景気悪かったし、ポップで華やかなものが溢れてもいいんじゃないかなって思うんだよねえ。80年代や90年代のポップさが前ディケイドのカウンターとして。

 カーターが映画館で上映している『ランボー』を家庭用ビデオで盗み撮りしたものを、ウィルが彼の家で観た事がかなり大きな事だと思う。 監督も『ランボー』の海賊版コピーを観た事でオリジナルではないコピー(海賊版)から影響を受けている。そのことの意味。80年代にビデオデッキの普及したことに伴って、映画は映画館だけで観るものじゃなくなって再生産のようにコピーされ広まっていくという最初の時代。 オリジナルが正式な手順であろうがコピーされようが、その中身はウイルスに感染する様に影響していく。

 僕が最初に見た裏ビデオは友人の兄が持っていた飯島愛の出演作で、それもダビングという名のコピーで広まったものだった。わりと近い年代の人に聞くと最初に見た裏ビデオが飯島愛だという人は多い。確かナースの格好をしてたみたいな事で盛り上がった事がある。ある種の同時代性というのが商品の流通で触れているとあるのだが、ネットで裏動画とか見てるとそれが同世代だから伝わるとか共通するというのは減っているんじゃないかな。

 オリジナルとコピーの問題を考えてみたり、初期衝動があって何かになりたいとか憧れがあるとそれを真似る。例えばファッションだとか仕草とか髪型とか諸々。最初は誰もが真似から始めるしかない。

 彼らは『ランボー』を真似て、ランボーの息子として彼を救いに行く戦いを映像で撮ろうとする。彼らはその作品を撮るということで繋がっていき友情を深めていく。ウィルは父親を亡くしている。彼にとってランボーはある種、父の代わりであって、だからこそ父を救いに行くのだという事も大事な設定だ。彼の一家は厳格な戒律を守るプリマス同胞協会である。協会の同胞のおっさんがやってきては、戒律を守れとか父親代わりみたいな事を言うのだが、それはウィルにとっては最悪な世界だ。

 彼が自身で選んだわけではない宗教の戒律で縛られるという不自由。彼はそれらと戦う様にカーターと共に作品を作り、無茶もするし傷だらけになりながらも自分がやりたいこと、やってみたいことをする。それ自体が戒律を破り、彼ら一家は追放される危機が訪れる。その時に母が選ぶのはどちらなのか。厳格な戒律があるプリマス同胞協会について、物語がうまく機能する様に設定されているのもこの作品の上手さだと思う。 カーターも父はいないが母は海外に行っていて、兄だけが自分を孤独にしない唯一の家族である。故に、彼は兄に奉仕するような感じになっているが学校では問題児だったりする。その設定も最後にうまく活かされていてほろりとくる。

 『スタンド・バイ・ミー』や『グーニーズ』のように、少年時代がどんなに糞ったれでも仲間と冒険する事で想像する事でそこから一瞬でも抜け出す事ができる、その興奮と楽しさはその時代にしか味わえない。だから大人になり観ると昔とは違った想いが湧く、ノスタルジーが。かつて子どもだった僕らがこの映画を観ると甦ってくる。あなたの心の中の少年・少女は元気ですか?

(碇本学)

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stereolab_not_music.jpg クラウトロック・テイストや旧時代のアナログ・シンセサイザー・サウンドを採りいれつつ、ロック登場以前の「ラウンジ」ポップ・ミュージックの魅力とポスト・パンク的先鋭性を同居させたステレオラブの音楽は、1990年の結成以来ぼくらに刺激を与えつづけてくれた。

 1999年の『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』以降、ブラジル音楽のエッセンスなども導入しはじめた...とはいえ、フランス人女性レティシア・サディエールも敬愛する(やはりフランス人女性シンガー)ブリジット・フォンテーヌ/サラヴァ・レコーズを思わせる「一筋縄ではいかない」消化方法をとっていたというか。

 2008年の前作『Chemical Chords』発表時にクッキーシーンがおこなったインタヴューで、レティシアはブリジット・フォンテーヌについて、こんなふうに語っている。

「彼女は、わたしにとってすごく特別な人。27歳くらいになるまで、それまでも歌ってはいたんだけど、わたしは他のどのシンガーにも感情移入できないと思ってた。でもブリジットのうたに出会って、本当にソウル・シスターにめぐりあったように感じたの。政治や中絶の問題、人間関係なんかへの考え方や対応の仕方...本当に共感を覚えたわ。現実と向きあいながら、それを芸術としてポエティックに表現することができる人がここにいる、って思った!」

 ステレオラブの新作『Not Music』は、彼女のブリジットに対するこんなコメントがそのままずばりあてはまるような、傑出したアルバムとなっている。

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『Chemical Chords』制作時に録音されたけれどそこで使われたなかったトラックを集めたもの...という情報をまず入手して「えっ、単なるレア・トラック集? 残りもの?」みたいに最初は思った。しかし実際に聴いてみると、そのあまりの良さに驚いた。正直『ケミカル・コーズ』より全然いいのでは? それどころか(今のところ、筆者がステレオラブのすべてのアルバムのなかで断トツで一番好きな)1996年の『Emperor Tomato Ketchup』とためをはるほどの「挑戦心」にあふれた作品ではないか? 前作発表時のインタヴューをあらためて見なおしてみると、レティシアはこうも言っている。

「(そのアルバムに収録しようと思ったトラックは)全部で31曲もあった。最初はうまくのれなかったかな。でもアルバムの半分をすぎたころから、やっと本当に慣れてきて、気に入って曲を作れるようになった。『Chemical Chords』は、その全体(31曲)の約半分なのよ。いつになるかわからないけど、この次に出る残りの部分を使ったアルバム(注:『Not Music』となった部分)のほうが、たぶんもっと楽しんで、気に入って作れているんじゃないかな(笑)。より多様性にあふれているし、今回のものよりもうちょっとダークでストレンジなものになるでしょうけど、わたしはそっちのほうが気に入ると思う。リズムにもヴァリエーションがあって...。まあ、わたしの個人的な意見だけどね(笑)」

 ぼくも同意見だ(笑)。ダークというよりインテンシヴ(intensive)。ここにおけるリズムやアレンジの多様性は、最近のポップ・ミュージックの世界では稀有とさえ言えるものだ。しかし、それを無駄にたれながしてはいない。徹底的に抑制が効いている。ときには(ほんの一瞬だが)ヤング・マーブル・ジャイアンツを思わせるほどに。

 選びぬかれた言葉だけを使い、極限までとぎすまされた歌詞も、そんな構成に一役買っている。ブリジット・フォンテーヌがそうであるのと同じような意味で「政治的」なメッセージがそのあいだに見え隠れするさまは白眉であり、レティシアと並ぶ中心人物(ギター担当。歌わない)ティム・ゲインが90年代に参加していたマッカーシー(「左翼的」と言われていた。元マニック・ストリート・プリーチャーズのリッチーは彼らの大ファンだった)より格段に高いレベルで、それをなしとげている。

「とても混乱していて 識別できない/『高潔さ』という概念に困惑している/元来 曖昧なもの(であるはず)/不確定性にあふれ 輪郭も不明瞭/そのなかに/本当に高潔な存在...虚飾のない真実がある」(「Leleklato Sugar」より)

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 アルバムのちょうど中間地点である6曲目ではチキン・リップスのアンドリュー・チャームことザ・エンペラー・マシーンが、本編ラストの13曲目ではディアハンターのブラッドフォード・コックスことアトラス・サウンドがミックスを担当している(なお、日本盤にはボーナス・トラックとして14曲目に、アトラス・サウンドのより「奇妙な」ミックスが収録されており、さらに深い余韻を残してくれる)。

 これを「純血主義」的に「バンドのメンバー以外がそこまで深い役割を負ってもいいの? やっぱ、これは『イレギュラーな』作品じゃない?」とネガティヴにとらえるかどうかが、このアルバムを楽しめるかどうかの境目になっている...ような気もする。

 音楽は、もっと「自由に」とらえていいんじゃない? 本サイトにおけるエドウィン・コリンズのインタヴューのところでも述べたけれど、「バンド」という概念さえ曖昧になってきているのが「今」の趨勢なのではないだろうか?

 だいたい、先日「いったん活動休止する」ことをアナウンスし、レティシアもソロ・アルバムをリリースしたあとに、突然『Not Music』なんてタイトルでアルバムを発表するなんて、杓子定規...大袈裟に言えば「官僚的」にとらえたら、まったくわけのわからない行為だ。

 でも、そこがいい。

「さまざまな真実の最も美しい面は/なんの役にも立たない それが/本当に深くて すごくダイレクトな/個人的体験に基づいたものでないかぎり」「それは誰かの手中に固定されることもない/浸透することは稀なケース/だけど人々の心に届くものとなれば/『真実』を『知る』必要なんかない 『体験』して『学ぶ』べきだ」(「Everybody'S Weird Except Me」より)

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 ティムやレティシアとほぼ同世代である筆者は、70年代の末から80年代初頭のポスト・パンク期に、どっぷりと音楽につかりはじめた。当時は「極端にアヴァンギャルドな」ものがもてはやされており、ぼくが通っていた高校の近く(愛知県西三河地方の地方都市)の小さな(日本盤専門)レコード店には、そういったロック系の奇妙な音楽のみならず「現代音楽」系のミュージック・コンクレートや騒音派などのLPも並べて置いてある小さなコーナーがあって、「非音楽」と名づけられていた。

 本作で聴ける音楽は、それよりずっとポップだけど、『Not Music』というタイトルと、この「自由な」センスにふれて、そんなことを思い出してしまった。

 アトラス・サウンドやザ・エンペラー・マシーンの参加もありさらに多様性を増したリズムの幻惑的魅力も、ヒップホップなどを聴きなれた耳からすると少し脆弱というか、むしろ「現代音楽」に近いと感じられる部分もある。それも彼らならでは。例の「31曲」の制作に関してレティシアが語った、こんな言葉も引用しておこう。

「フランスでも、ロンドンでもレコーディングした。ティムはベルリンに住んでるからベルリンで曲を書いてたし。ということは、ヨーロッパ全土にわたって制作していたと言えるのかな(笑)。そう、これはヨーロッパのレコードなのよ(笑)」

 自らの立脚点に真っ正面から向きあってるからこそ、ここでのステレオラブは、ものすごく「身軽」だ。「とりあえあず(活動休止したので、当面の)ラスト・アルバム」といった「重さ」も存在しない(たとえばLCDサウンドシステムのジェームス・マーフィーが、サード・アルバムについて語っていたトーンと同じように)。それでも、アルバムのラスト近くでは、こんな言葉が歌われている。それをどうとらえるかは、あなたの「自由」だ。

「心こそが統治者/それは真実の攪拌機...打つ道具であり/決断をもたらすもの/賞賛せよ/ドラマーたちを/究極的に」「同点決勝試合/祝福せよ/ドラマーたちを/最後に」(「Aelita」より)

(伊藤英嗣)

*日本盤は11月17日リリース予定です。【編集部追記】

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azure_ray.jpg アズール・レイは、マリア・テイラーとオレンダ・フィンクという二人の女性ミュージシャンによるデュオ。前身バンドのリトル・レッド・ロケットを経て、アズール・レイとしての活動を開始し、00年代前半に3枚のアルバムをリリース。幻想的なサウンド・スケープと美しいメロディ、そして何より二人の声の魅力がリスナーに支持され、絶大な人気を獲得する。 

 しかし惜しくも04年にバンドは解散。二人はそれぞれ別々の道を歩むことになる。マリア・テイラーはソロや、ナウ・イッツ・オーヴァーヘッドのアンディ・レマスターとの共作アルバムなど計4枚をリリース。一方オレンダ・フィンクは、元アニヴァーサリーやザ・グッド・ライフのメンバーらとアート・イン・マニラというバンドを結成したり、レミー・ゼロのベーシストとO+Sというユニットを結成したり、更にソロ名義でもアルバムをリリースするなど、活発な活動を見せる。 

 それぞれの活動を経て、一回り成長した二人はアズール・レイを再結成。そして、ここに通算4作目となる復帰作が届けられた。 

 ハープの音色に導かれ、レコード針のノイズとともに歌が始まった瞬間、聴き手はハッと息を飲むだろう。控えめな電子音に彩られたシンプルなアレンジに、違った個性を持った二人のヴォーカリストによるハーモニー。淡々とした雰囲気の中に息づく温かなエモーション。何も変わらない、アズール・レイの音楽がここにある。 

 プロデュースはお馴染みの元アーチャーズ・オブ・ローフ~クルーキッド・フィンガーズのエリック・バックマンが担当。ちなみに、アルバムのバック・カヴァーには二人の美女を抱きしめたエリックの写真が使われている。...なんなのこのオッサン、羨ましい!

(山本徹)

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80kidz.jpg ナイーヴネスとセンチメントは違う。

 前者は閉じた秩序内世界の内側での思考形態であり、その無比の現実と思っている世界観が実際には、閉塞的な完結性を帯びたものではなく、数多の幻想と強情さによって修整された、不安定なものであることを、知ったが故のシンプルな欲動である。つまりは、頑固なまでに、そういった不安定さの受け入れを「否認」することで、狂信的な何かを内側突き抜けようとする権利主張の傘の下での規定行動と言えるとしたら、「ナイーヴな感性」という大きな記号が示すものは実はヴァルネラビリティを示唆せしめず、自意識内で固定されてしまった強権的な価値観のピン留めを仄かに発露させる。だからこそ「ナイーヴな自由」は存在し得ると言えるかもしれない。自由で「ある」と言うのは受動態的な意味を孕みながら、自由を「する」という主体性の放棄の中でのアフォーダンスでもあるからだ。「認知」はしているが、「是認」はしない。「否認」はするが、「認証印は押さない」という強権性。そこに、事実の誤認があったと「しても」、自意識内での誤算は当事者にとっては全くの他人事でもあると言えるのだ。だから、想い込んでいる誤認の中で傷ついたのは実存ではなく、表層意識だけかもしれないとすると、「ナイーヴな感性」が巻き込む厄介さは反転した行き止まりのあるユートピアなのかもしれない。

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 だとしたら、後者のセンチメントは意識的に前景化した「侵された自由」に対して自覚的になってしまう。自覚的になった結果として、それは自分に還流されてくる危険性を孕む。例えば、彼等がファーストで『This Is My Shit』とモノリスを立ててしまう行為はナイーヴな何かではなく、センチメントなものであり、そういった「自虐的な好戦性」こそが、逆説的にボーカル・トラックを主に華開いてブレイクしたというのもアイロニカルな構造であり、数多の手掛けたリミックス・ワークでもふと挟み込まれるセンチメントな部分片こそがエイティーキッズ(80kidz)という認証印をより強く世界中に知らしめ、他のエレクトロニック音楽との差を付けていた。

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 アンダーワールドがあの形を取る前に取っていたリック・スミス、カール・ハイド等からなるバンドのFreurはエレ・ポップ、ニューウェーヴな音を鳴らしていたのは知っている人も多いだろうが、そこからテクノ方面に触れる際に彼等はナイーヴ性じゃなく、センチメントな部分を残し、結果的に「Born Slippy」というアンセムに辿り着いたが、そのアンセムが持つセンチメント性に今度は逆に彼等が苦しめられる事になるようになり、その桎梏が外れたかのように、緩やかにシフト・ダウンしたのが新作の『Barking』だったとも言える。あの作品の持つ「風通しの良さ」はここ暫くの彼等には薄れていたものだったので、個人的に嬉しかった部分はあった。

 その意味で、エイティーキッズはスタート地点では既に、エレクトロ・クラッシュ勢のチックス・オン・スピード、ティガ辺りとの「共振」もありながら、ニューレイヴとの近接点もあった中での、2008年のEP「Life Begins At Eighty」でのかなりのアグレッシヴで硬質的なビートの提示、KITSUNE界隈との繋がりも含め、あっという間に世界的に彼等のワークスは拡がっていき、DJにもよく用いられることになったのは良かった事なのかどうなのか、彼等を取り巻く周囲の速度が少し早すぎる気さえした。がしかし、今はメンバーではないものの紅一点のMAYU、そしてAli&、JUNのスタイリッシュな佇まいも含め、とてもクールにクラブを揺らせた美しさは紛うことなく、あった。ボーカル・トラックを含めてベタに拓けた『This Is My Shit』ではメロディアスな部分も押し出され、所謂「ロック・ファン」も囲い込む事に成功した。

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 その後、MAYUの脱退、CSSのフロントマンであるLovefoxxxとの「Spoiled Boy」など話題を振りまきながら、満を持してと言ってもいいだろうセカンド・フルアルバム『Weekend Warrior』は全編ノン・ボーカルの原点回帰的な硬質なエレクトロ・サウンドからサイケデリックな新機軸的な試みを試したトラック、まるでマッドチェスターのようなトラックまで幅広くも、多種多様なリズムに挑んだ意欲作になっているのは興味深い。また、ファーストよりも零れ出るセンチメントが、全体を通してアップリフティングなものにしているという余韻よりも、どちらかというと、果敢ない気分を助長する部分があるのを否めない。「Shift」という声で始まる10曲目の「Private Beats」以降がよりグッと実験的にもなり、また、メロウでアンビエントな様相を帯びたトラックも増えるが故に、「始まりの終わり」という倒錯を予期させる。「終わりの始まり」をパーティーが確約するとしたならば、このセカンドは初めから「始まりが始まる」。

 躍動するような、ワクワクした気持ちにさせてくれるサウンドはここに詰まっていて、寧ろロックやボーカルが綺麗に入ってくるハウスが好きなトライヴこそが入り込み易いような人懐こさが増しているのは二人になり、以前と視える景色が変わったからなのか、必然的な帰結なのか、推察しか出来ないが、基本、ノン・ボーカルというのは気にならず、どちらかというとアンビエントな要素や余白が前景化した抒情的な通奏低音が響く。そのセンチメントは"Persons who deliberately cultivate their sentiments"に向けられてしまう誤配もあるとしたならば、回収先が少し個人的に彼等の意図したものと変わってくるような気がするのだけが懸念が募る。

 彼等のセンチメントは「過剰」ではなく、「零れ出てしまう」ものだからして、それは強みにさえなるからだ。ナイーヴなピュアリストは「破綻してしまう」ことが多いが、センチメンタルなピュアリストは真摯なシニカルさや粗野的な知性を持ち得る事が出来るとしたら、今後に期待を十二分に持つ事が出来る「希望的な何か」が込められたアルバムであり、フロアーじゃなくて、日常も揺らす音楽としても機能することだろう。

「このままの方向性を突き詰める」ということはないだろうからこそ、ジョエル・ファインバーグの言葉を借りれば、「誠実なセンチメントを偽善的まがい物の流通から保護することが大事だと感じている人たち」のエレクトロニック・ミュージックになったこのセカンドは、僕は支持したい。

(松浦達)

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chatmonchy.jpg 僕にとって、チャットモンチーとは、刹那的な感情の発露を鳴らすバンドだった。ヒリヒリするようなグルーヴに、女子だけではなく、みんなが琴線に触れてしまうような歌詞。人生のほとんどは我慢だけど、チャットモンチーは、最大瞬間風速的な音楽でもって、聴く者の我慢しないでいい時間を増やしてくれた。でも、チャットモンチーは、余韻がないバンドでもあった。常にギリギリで鳴らされているせいもあってか、聴き終わった後に、残るものが、残り火しかなのが寂しいと思っていたけど、『Awa Come』では、チャットモンチーが深化していた。大人の余裕と同時に、初期の荒々しさによって、聴き終わってから、噛み締めるような感情が残っていた。まるで走馬灯のように、僕の思い出がぐるぐると回って、心のなかで、いろんな人と再会した。特に、遊び心溢れる「青春の一番札所」以降の流れは、ちょっとした心の旅が体験できる。そして、弾き語りの「また、近いうちに」が終わる頃には、日々を生きるうえで見失ってしまった、自分の「帰る場所」が発見できる。『Awa Come』には、音楽ができる最高のマジックのひとつが詰まっている。素晴らしい。

(近藤真弥)

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spitz_togemaru.jpg ティーンエイジ・ファンクラブのように更新はされてゆくが、変わらない。そして、変わらないが確実に更新されてゆく、金太郎飴のようなサウンド。また、職人によって作られる金太郎がそれぞれ違う「ように」、転がってゆくロックンロールの「ロール」とは多義的な意味を含む。

 例えば、ザ・ブルーハーツの提示した正義はパンクという前史を弁えたが故の<反>への意志だった。だから、「人にやさしく」と言う時に、何故かアナーキーなバックスクリーンとしてザ・クラッシュが浮かびあがってくるように、スピッツの音の後ろには彼等の精神もディープ・パープルも新進のギターロック・バンドへの目配せも反骨の気概もビート・パンクも成熟を拒む碧さも、残照光として今も届いている。

 基本的に、2000年のオルタナティヴに振れた『ハヤブサ』からの作品群は多少のマイナーチェンジを加えながらも、実験性よりもバンド・サウンドとしての「一体感」とメインストリームに身を置きながら、内側からそういったシーンの監獄からの脱走を試みるような要素を含ませながら、疾走していたきらいがあり、ミスター・チルドレン的な何かが日本の多くの「牧歌的なロック」を覆う温度とは別位相で彼等は独自の「大文字」を小文字に変換しながら、誤作動を企図する道を進みながら、2007年の『さざなみCD』ではシェイプされたサウンドは、もうライヴでの「再現」を予期される為に作られるようにもなり、小さなライヴハウスからホールまでを廻る為のステージ・パス的な様相を呈していた。

 そこから、シングルは幾枚か挟んだものの、3年を経て届けられた今回の『とげまる』は前作の路線を継承したという声もあるが、もっとアグレッシヴで奇妙な捩れが表象されているオルタナティヴで簡潔な作品になった。亀田誠治氏との共同作業で或る程度、固まったサウンド・ワークの中に例の草野マサムネのザラッとしながらも、透明度のある声が乗り、アタック感のある崎山氏のドラム、雄弁な田村氏のベース、三輪氏の残るギターフレーズが絡み合う、相変わらず、歪なのに歪に聴こえない4ピース・スタイルの「バンドとしての音」が健やかに鳴る。また、シュールレアリスモやダダ的な様相を示していた歌詞はどんどん直截的になっていったのは近年の彼等を識っていれば、理解出来るだろうが、今回はかなり「大文字が拗れている」のが面白い。

"君に夢中で泣きたい ゆらゆら空を渡る
燃えている 忘れかけてた 幻のドラゴン"
(「幻のドラゴン」)

"部外者には堕ちまいと やわい言葉吐きながら
配給される悦びを あえて疑わずに"
(「TRABANT」)

"理想の世界じゃないけど 大丈夫そうなんで"
(「君は太陽」)

 何故か行間に「秘密」に潜ませるようなフレーズがふと入ってきて、知りたくなる。禁忌を張られると、より見たくなるのと同じように。そして、スピッツを聴くと、「自分たちが本質的に精神分析的な存在である」と認識をさせられる。もし、自分たちが刺激に対して動物的な欲望を持つだけの存在ならば、欲望と刺激の関係性というのは欠伸が出るほど、凡庸だ。抑制の美もいいだろう、連想させるフラグメンツが時にリアルに響き渡るという文脈で。それは、「隠喩」的なものに反応し易い生き物だという事実を含意するだけで以上でも以下でもないからこそ、退屈でもあるという付箋は必要になってくるのは、「解釈学」を知っている方ならそれはデフォルトと言える。精神分析と解釈学は全く違うものにはなるのだが、人間は人間を、あるいは人間の作り出したものを「解釈するとき」、そこに「解釈学的循環」が持ち上がるとされる。

「何かを理解する」為には、文脈、フレームワークがいる。

 これを「先入観」とすると、理解が進めば、先入観は「修整」される。「修整が加えられた先入観」はしかし、完璧ではなく、また、欠けている。先入観から理解への解釈を延々続けていくことが解釈学的循環の中で沸き起こる疑念。では、人間は何をもって人間を理解するのだろうか。「自分自身という鏡」、それもそうだろう。「自己」をベースに誰でも他人(非・自己)に共感したり、理解したりしようとする。これは、大きく見ると現象学の領域になる。そして、精神分析は、この点で解釈学と分かたれる。

「共感」や「理解」は、基本、想像的な営みだからして、これで、症例が分かれば苦労は要らない。フェティシズムや特殊な欲望についても、共感的理解は限界がある故、こんな時に、例えば、ラカンなどは「共感の仕組み」さえ疑おうとする。共感というのは想像的なもので、それはつまり、「自己イメージ」から出発しているということを示唆するのだ。そういう意味で、スピッツの捩れたイメージの鏡像性は「欲望が人をしている」と言えるのかもしれなくて、「人が欲望している」という簡単な構図を越えてくる可能性を孕む。

 そうでないと、この『とげまる』における「君」はまるでセカンド・アルバムの『名前をつけてやる』のような暴力性を帯びてこないだろう。漂白された「君」だが「"君として"名前をつけてやる」という「探検隊」的な意図が放り投げられたまま、茫漠とした砂漠に置いていかれる。置いていかれた「名前」は「君」なのか、それもぼやける。

 今回、サイケデリックでスケール感のある「新月」やカントリー調に転がる「花の写真」など少しの実験的な曲もあるが基本、ビートを前に押し出したバンド・サウンドが主体になっており、前作よりもかなりエッジがあるものも多い。ライヴを予期させるものとして、延長線上にも位置するのだが、『とげまる』が再生させるだろうライヴはもっとオルタナティヴで妙な温度を帯びる気がする。というのも、ヴァース・コーラス・ヴァースを遵守しながらも、シンガロングを「拒否する」頑なな「スピッツという王国」の中で昔の「ロビンソン」のような浮遊感と入り込めるような「間」が敢えて排されているような印象さえ受ける部分もあるからだ。『とげまる』というタイトルもキュートなようで、彼等自身の立ち位置を示すようなメタファーに満ちているが故に、示唆深い。その示唆は彼等が移り変わりの早いシーンの最前線で生き延びてきた報告書のようであり、その報告書はタブラ・ラーサのようなものかもしれない。

"美しい世界に 嫌われるとしても
それでいいよ 君に出会えて良かった"
(「えにし」)

(松浦達)

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violens.jpg ≪60年代のハーモニーと80年代のサウンド・プロダクションを持ち合わせた彼らの楽曲は、先の見えない未来に向かって漂っている。ゾンビーズと比較されることもしばしばであるが、彼らはプリファブ・スプラウトからも影響を受けているに違いない。≫

 これは本作に対する英NME紙のレヴューからの抜粋。十数年前にリリースされたギターポップのレコードを掘っていたころ、帯や店頭のPOPなどでこういう類の文章を眼球にまで印字されそうなほど目にした記憶がある。≪キンクスを彷彿とさせる~≫、≪バカラック印の~≫、≪ペイル・ファウンテンズの流れを汲んだ~≫、など、など、など...。

 嫌味っぽく書いてしまったが、そういう作品が自分の大好物なのも事実だ。こういう文章を見かけると条件反射で涎が出そうになる。外れも詐欺もペテンも多いキャッチだが、とにかく引っかかるものが少しでもあれば、勇気を持って、まずは自分の耳で確かめることにしている。というわけで、さっそく聴いてみよう。

 道徳観念のない...という意味の『Amoral』と冠したこのアルバムは、「The Dawn Of Your Happiness Is Rising」、"君に幸せの夜明けがやってくる"と題された曲の陽気に跳ねるベース・ラインで幕を開ける。なるほど。この軽快さとコーラス・ワークはゾンビーズの「Care Of Cell 44」にも通じるものがあるし、メランコリックに煌めくギター・フレーズといっしょにバンジョーも絡めてみたら、プリファブの「Faron Young」みたいにもなるかもしれない。とてもメロディアスだ。続く「Full Collision」はストーン・ローゼズからMGMTまで経由し、太陽の光にやられて突然変異したスミス、あるいはモノクローム・セット...といった趣のサイケ・ギター・ロック。歌詞の冒頭は"常識に降伏するのは / 完ぺきな防御だね"で、曲の終盤には錯乱状態を思わせるバーストしたサウンドが広がる。

 この二曲だけでもこのバンドがタダ者でないのがなんとなくわかるが、続く「Acid Reign」は...。おいおい。小刻みなシンセの連射とハードなドラム・ブレイクが叩きつけるように放射されるエレクトロ・パンク。抜群にカッコいいけど、これはもはや、ゾンビーズでもプリファブでもなんでもない。もちろん、ここで「ふざけるな!」と、NMEに向けてちゃぶ台をひっくり返したくはならない。このアルバムへの好奇心はますます膨らんでいく。

 ヴァイオレンス(Violens)は2007年に結成されたブルックリンのバンドで、現在は3人組。もともとは映像制作などアート全般に熱心で、さらに中心メンバーを含める何人かは過去にランジング・ドレイン(Lansing-Dreiden)というバンドで活動していたそうだ。そちらもmyspaceで聴いてみたが、なるほど。80'sの耽美派シンセ・ポップを思わせるサウンドである(この結成に至るまでの流れは、ザ・ドラムスとも少し似ている。彼らもエルクランドやホース・シューズといった、どちらかといえば耽美路線のシンセ・バンドを経由して結成された)。

 その「前歴」を思わせるのが「Are You Still In The Illusion?」で、それまでの曲調から一転し、教会のオルガンを思わせる重いメロディとリズム、泣き咽ぶサックスによるデカタンとゴシップの世界へ。「Until It's Unlit」は(もはや、来年度版の「現代用語の基礎知識」にまで掲載すべきタームであろう)チルウェイヴの空気を汲みとった緩いディスコだが、これまた曲終盤にシューゲイズなギターが畳みこんでくる。「Violent Sensation Descends」は世界の終わりを思わせる狂乱のノイズと、そこからの再生を思わせる讃美歌っぽいハーモニーが交互に押し寄せる忙しいナンバーで、かたや「Could You Stand To Know?」は、オアシスらUKロックの王道のようなアンセミックなメロディを讃えた大陸的なアリーナ・ロック...。ここまでしつこく書けばもうおわかりだろう。これは単なるヴィンテージ・ロックの愛好家やフォロワーによる仕業ではない。様々なスタイルに挑戦しながら、いずれの楽曲も高い完成度を誇り、さらには瑞々しく新鮮な光沢まで放っている。

 国内盤の解説によると、彼らが意識しているバンドはウィーンだそうだ。ウィーンといえば、そのキャリアにおいても時期ごとに様々なジャンルを横断しながら悪意を振りまいてきたが、アルバムという枠組みのなかにおいても、闇鍋の要領で多種多様な型の曲を詰め込み、グロテスクな作品群を完成させてきた。わかりやすい例として、94年のアルバム『Chocolate And Cheese』を聴いてみよう。ダーティなロッケンロールも端正なカントリー・ブルースも、HIVをおちょくったローファイ・ポップまでそこには詰まっている。一昔前ではこういうスタイルは「変態」とか「奇天烈」とかいった接頭語とともに、その下品なケバケバしさが持て囃された。『Chocolate~』のジャケもデカ乳(しかも半分見えてる)が強調されまくった、しかめっ面するしかないデザインだ。もう少し昔ならフランク・ザッパなどもこれに該当するだろう。しかし、ヴァイオレンスも相当やりたい放題ながら、彼らと比べると格段にスタイリッシュである。独特の優雅な美意識は決して小奇麗にまとまっているわけではないが、一方でスマートさも失われていない。このバランス感覚が今っぽいといえばそうなのかもしれない。

 彼らはMGMTとも交流があり、ツアーを共に回ったり楽曲のリミックス(「Time To Pretend」!)を手掛けたりもしている。かといって最近のMGMTのようにサイケデリック一辺倒にも陥らず、自分たちのシングルに(チルウェイブの代表格である)ウォッシュド・アウトを担ぎ出したり、国内盤のボーナス・ディスクに収録されたリミックス曲もそうだし、クラブ・シーンなど外への目配せもきちんと行き届いている。2010年もまもなく終わってしまうが、来年以降の近い将来に向けたあるべきバンド像として、理想的な志向性をデヴュー・アルバムの時点で獲得してしまっているようだ。

 ここ数年で名乗りを挙げた他の多くのバンドと同様に、知識の収集と吸収に長けたネット世代による、シンプルな名称をもったこのバンドが今後どういう方向に歩を進めるのかは気になるところだ。ちなみに、このアルバムのラストを飾る「Generational Loss」は、緩いギター・ストロークが徐々に熱を帯びて轟音と化して爆発し、最後は静かに雨が降り注ぐ音が鳴り響いてフェードアウトしていく。その演出は曲名とともに確信犯的に意味深で、彩りに溢れた賑やかなアルバムのラストとしては少し侘びしい気もする。その侘びしさにほどよく感情移入しながら、この雨が何を憂いているのかについて思いを巡らせてみる。

(小熊俊哉)

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aeroplane.jpg ニュー・ディスコとチルウェイヴって、意外と関連性があると思う。共に00年代後半からそれらしき音が出てきたし、ニュー・エレクトロが登場して、瞬く間に閉塞感を纏っていったのと入れ替わるように、ディスコが戻ってきた。なぜディスコなのかというと、ディスコが持つ開放的で自由なイメージが、閉塞感を打破する手段として魅力的に映ったのだと思う。でもそれは、本来ディスコが持っていたものというより、歴史性が無効化されつつあり、どんな音楽にもフラットにアクセスできる若い世代が生み出した幻想だと僕は思う。パラダイス・ガラージを例に出すと、白人の客を増やそうとしていたマイケル・ブロディに対して、ラリー・レヴァンは反対していたという話があるように、70~80年代のディスコは、ゲイや黒人など、差別を受けてきた者たちのアイデンディティーを示す場として機能していた。そういう意味では、決して開かれた場所ではないし、自由とは言えないのではないか?

 ディスコというのは、ブルースのように、悲しみや憎しみから鳴らされる音楽だ。しかし、このAeroplaneのアルバム『We Can't Fly』で鳴らされているディスコが、どこまでも風通しがよい「軽い」ものとなっているのは、骨抜きになったというよりも、ディスコが持っていた時代性や思想というのを排除して、新たな時代性を獲得したということだと思う。その時代性とは、乱暴に言うと「繋がり」だ。 つまり、マイケル・ジャクソンが目指したような、「白も黒も関係ない世界」の元に人々を集めて、「踊る」ということで、様々な困難を乗り越えようとしているのではないだろうか? その「白も黒も関係ない世界」の元に人々を集めるための手段として、ディスコが必要とされているから、ニュー・ディスコやチルウェイヴが出てきた。というのは、僕の考え過ぎかも知れないけど、『We Can't Fly』は、そんな僕の考え過ぎを確信に近づけてしまうアルバムだ。ここでは、70・80年代のディスコとは違う現代の悲しみや憎しみが鳴らされている。

(近藤真弥)

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laetitia_sadier.jpg 夜中に部屋に戻りテレビをつけBSにチャンネルをあわせると、古そうなモノクロのフランス映画が映し出される。ベッドに横になって、タイトルはおろか、詳しいストーリー、役者の名前や相関関係、映画が既にどのくらいすすんでいるのかもわからないまましばらく見ていると、寂しげな音楽とともにエンドロールが流れ唐突に終わる。我に返り、寝る前にしておこうと思ったことをひとつふたつ片付ける。映画について調べようとも思わず、そんな時間があったということだけを、ぼんやりと覚えている。

 ぼくがステレオラブの作品を聴いている時間は、そんな一日の浅い余韻の中で見る映画のように思える。それは彼らの音楽がなにかのサウンド・トラックに似ているというのではなく(もちろん似ていないというわけでもないのだけど)、もうただただ映画のような音楽だ、と感じるのだ。はっきりとしたストーリーよりも映像の断片、雰囲気の方が深い印象を残す。そういったイメージは、転調の多い気だるいハーモニーとメロディ、それらをProToolsを駆使して緻密に練り上げた、エレクトリックでレトロなステレオラブの固有の音楽性が思い出させるのだと思っていた。

 しかし、このアルバムを聴いて少し考えを改めた。それはサウンドやストラクチャーの印象よりもレティシアの声そのものが喚起するイメージではないだろうか。というのも、アルバムの半分を共同プロデュースするリチャード・スウィフトが、彼自身の音楽とそれほど遠くない形で貢献し、残る半分のイギリス録音を同じく共同プロデュースとしてクレジットされているエマニュエル・マリオが、それにコントラストをつけるように、非常にウォームで全体のハーモニーが際立つサウンド(ぼくは『プレヴィサン・ド・テンポ』の頃のマルコス・ヴァーリの音楽を思い出した)を作り出しているにも関わらず、どちらに対しても抱くイメージはいつもぼくがステレオラブを聴く時と変わらなかったからだ。

 アルバム冒頭から「I lost someone precious/ In the depth of my lining/at the heart of my loss/my little sister's voice」と唄いだされるように、彼女の妹、ノエルの死が大きなテーマになっている。しかし、それを知ったとしても、その圧倒的な存在感を示す彼女の声や、共同プロデューサーと綿密に作り上げたサウンドが織りなす、このアルバムの作品性の高さの前には、彼女がアルバム制作を通じて向き合った悲しみや喪失感は、「部屋に戻った頃には既に終わっていて見ていないストーリー」のように、ぼくには思える。見始めた後の美しい映像の断片は、存在したであろうサッド・ストーリーやそのストーリーへのシンパシーよりも、まっすぐにその美しさだけを伝えていく。映画が終わりに近づき、その物憂げな美しさの断片がブラックアウトしてエンドロールが流れはじめると、ラストを飾るスタンダード「サマータイム」がゆっくり重なっていく。アルバムが終わりまだ横になっているぼくの頭に、彼女の声とジャケットの残像のようなモノクロのポートレイトが思い浮かぶ。この映画についてくわしく知ろうとはしないし、この映画の事を鮮明に憶えていられないかもしれない。だが、それが美しい疲労感に満ちたものだということは忘れようがないのだ。

(田中智紀)