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sharon_van_etten.jpg ニューヨーク発のSSW、シャロン・ヴァン・エッテン(Sharon Van Etten)によるセカンド・フルアルバムがBa Da Bingからリリース。前作はヴァシュティ・バニヤン辺りのトラッドなブリティッシュ・フォークを彷彿させる、アコースティック・ギターの弾き語りが主軸となっていた。本盤は転じて、アコースティック・ギターが中心なのはそのままに、周囲をピアノやリズム隊で囲んだバンドスタイルへと変貌した。ブリティッシュ・フォークからポップなフォークロックへと、編成がまるで違うため、前作のファンと今作のファンとでは温度差が生じるかもしれないが、文句なく本盤には名盤の太鼓判を押せる。
 
 励ましになるようなエモーションさとか、力強さとかは別に感じない。上の空というか、能天気でポップだ。ある意味、サッドな前作よりも、彼女の人間味が滲み出ていて人懐っこい。明るみが増したわけではないが、もう寄り添う友情のような音楽ではない。「かわいそうね」と慰めていたのが「まぁ、もっと苦労してる人もいるわよ」と少し突き放すような友情に変化したとでもいうか。
 
 閉塞的で内省的なスタイルが、少しだけ開放的になってきた兆候を見せている。途中経過を示すアルバムかもしれない。ただ散々ポップになったと言いつつ、本盤内のキラーチューン「Love More」は、まだどこかサッドだ。自身のあるべき姿勢に対して揺れ動いているような気がしてならない。揺れ動いているからこそ、人懐っこいのかもしれない。12月の初来日に備えて黙々と聴いているが、やはり素晴らしい...。

(楓屋)

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elliott_smith.jpg 孤高のシンガー・ソングライター、エリオット・スミスがL.A.の自宅にて「I'm sorry-love, Elliott. God forgive me.」という言葉を遺し、自らの胸にナイフを突き刺して命を断ってから(自殺の説が有力であり、当時も自殺として扱われたが、他殺とする説も少なからず存在する)、随分、時が過ぎた。
 
 世界が、彼を失ったのと同じ7年後の秋にリリースされるこのアルバムは、タイトル通り、彼の音楽への入り口としてふさわしい盤となっている。どうしても、その内容ゆえにベスト盤扱いになってしまうのだろうが、当然ながら、故人である彼自身の知り得ない範囲で選曲されたリリースだけあって「ベスト」というニュアンスを用いるのはできるだけ、このレヴューでは避けたいと思う。もう一度、これは、彼の音楽へ、世界へ、今から歩み入ろうというリスナーのためのアルバムなのだ。従って、このレヴューも彼の音楽を、そしてエリオット・スミスという人物を、まだあまり知らないというリスナーに向けたものにしたい。

 端的な彼の情報は、英語版Wikipediaだけに関わらず、日本語版のそれからも相当なものが得られる(現時点でとても良記事であるので、彼に興味がわいたら是非、チェックしてみてほしい)ので、彼の来歴を長々と書く事も避けたいが、彼の紹介を。
 
 エリオット・スミスは、とても綺麗な人だった。それは、成人してもどこかにあどけなさが残る彼の顔立ちや、その透き通る美声だけに限ったことではない。うつ病などの深刻な精神疾患を抱え、数々の脅威や恐怖に苛まれ、アルコールや薬物に耽溺していても、それでも、エリオット・スミスは決してその純粋さを、美しさを手放す事はなかった。名曲「Miss Misery」でアカデミー賞にノミネートしたにも関わらず、数度にわたる自殺未遂の末に、遂には無惨にもそれに成功してしまった、このポートランド出身(生まれこそネブラスカ州オマハであるが、彼のホームタウンはポートランドと言っていいだろう)の青年は、その死の瞬間まで、彼の心に潜む純粋な少年性を失いはしなかったのだ。
 
 彼自身は否定したがるかも知れないが、それでも、たくさんの傷や欠損を抱えた孤高のアーティストの多くがそうであるように、彼にとっての音楽は、相容れない世界と自己を結ぶ強かな祈りの橋でもあったと言えるだろう。彼のソロ・デヴューは90年代前半。グランジやオルタナが全盛を誇った北西部のシーンにおいて、彼の繊細でフラジャイルな美声と、基本的にはアコギ主体の至ってシンプルながらも強かなサウンドは、グランジ(原意は爪垢)に汚れた世界を浄化し得る存在だった。

 このアルバムは、そんな綺麗な彼の、インディー時代から死後に発表されたアルバムまでの全キャリアを網羅する盤だ。しかし、レーベル元がインディー時代のKill Rock Starsだからか、収録曲の時期には偏りがあり、生前、晩年にリリースされた曲は、3曲程度しか入っておらず、大部分がインディー期のキャリアからの選曲になっているのは、少し惜しいところだ。旧来のファンが「あの曲がない!この曲がない!」と言い出せばキリがないが、とは言え、アルバム全体を通して聴いても、全く違和感がなく聴けるよく練られた曲順は、新たなリスナーにとって、非常に最適な彼への入り口となるだろう。
 
 もっとも、彼の書く澄んだ曲は強かな説得力があるので、再生ボタンを押して一曲目が流れた瞬間から、リスナーの心を掴んでしまえるだろう。そこに、「ベスト盤ではなく」だの「収録曲の時期が」だのといったエクスキューズは不要なのかも知れない。
 
 さあ、だからあなたも早く、このレヴューを読んだらすぐに、再生ボタンを押してみてほしい。そして、アルバムが終わる頃には気付くだろう。彼を亡くしてから、彼に匹敵するくらいに澄み切った世界を鳴らせるアーティストは未だにどこにも出て来ていない事に。

 最後に、このアルバムを聴いた後に、更に深く彼の世界へ入り込めるように、オリジナルアルバムの紹介をしておきたい。M-8は彼のソロとしてのキャリアの始まりになる『Roman Candle』に、4,7はセルフタイトルの『Elliott Smith』に、1,3,5,6,9はデンマークの実存主義哲学者、キルケゴールの著作の名を冠したインディー期の名作『Either/Or』に、2、および14はそれぞれ晩年の名盤『XO』、『Figure 8』に、10,11、ならびに12,13はそれぞれ彼の死後に発表された『From A Basement On The Hill』、『New Moon』に収録されている。
 
 どのオリジナル盤も素晴らしいので、このアルバムで気に入った曲が見つかったら、そこからどんどん聴き入ってみよう。

(青野圭祐)

*日本盤は11月17日リリース予定です。【編集部追記】

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the_dirty_cuts.jpg ザ・ダーティー・カッツは、イギリスの4人組バンド。「Yummy Mummy」はセカンドシングルになるけど、ポストパンクのような鋭いギターと、ディスコを意識したベースとドラム。ダブステップ的なロウの使い方も面白い。ディスコティークなポストパンクというと、フランツ・フェルディナンドやラプチャーが思い出されるけど、ザ・ダーティー・カッツは、ダークで危険な香りがするところが良い。吐き捨てるようなヴォーカルも、まるでホストが口説いているみたいで、すごく耳に残る。

 最近ディスコを取り入れているロックが多く出てきているけど、アメリカと違って、イギリスのバンドは、明るいだけじゃない少しひねくれたディスコを鳴らしている。イギリスでは、ダンス・ミュージックがゼロ年代のほとんどを地下で過ごしていたからかも知れない。しかし、ロックにまで、アングラ精神とエッジが宿ったままのダンス・ミュージックが侵入しているのは、すごく興味深い。もしかしたら、サード・サマー・オブ・ラブが起きるための導火線が、あちこちに仕掛けられているのかも知れない。なんてね。

(近藤真弥)

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sekainoowari.jpg 「ツァラトゥストラはこう語った」の中でニーチェは「生」、「認識」という抽象的な概念を二人の「誘惑度の高い」女性の姿に擬人化し、比喩を使うことによって「ツァラトゥストラ」を語ろうとした。二人の女性は「ツァラトゥストラ」を挟んで当然のこと、敵対的な関係にある訳だが、「ツァラトゥストラ」は、本当は「生」だけを愛していると言いながら、「智恵」にも心を奪われているジレンマを持っている。それはこの二人があまりに似ているからだ。認識精神の象徴たるニーチェは、誘惑に苛まれるように、生を愛しているのと同じように、例えば、辛苦しかもたらさない認識であっても、その「認識」も絶対的に必要なものであると言える。切り捨てることなど出来るはずもないからだ。

 だから、単純な二分法で世の中が「語れない」ように、おそらく、皆、それぞれ個々の誘惑に抗い、時に引き裂かれ、跪いている筈だろう。もっと平易に日常に降りていけば、「ダイエットは明日から」でも何でもいいのだけども、その「永遠に来るか来ないか分からない、明日」を「今日」に置き換えて、今日は「これをやる」と決めた人間が或る程度、高度な篩いの中を掻い潜っていき、「鳥居」だけを跨いで、市場に吸い込まれてもいくが、では、その「苦労・努力分」だけの「元を取ろう」として、相応の身分になった途端、人間は「希望の明日」が待っているのか。それは、僕には分からない。
 
"もし 僕らが正しくて 
君らが間違いなら
僕らは戦う運命にあるの?
僕らはいつも答えで 
戦うけど 2つあって初めて答えなんだよ"
(「天使と悪魔」)

 ゲームのような人生を選ぶのか、人生はそもそもゲームなのか、「成功」したら、弾みもつくが、潜めていた深奥の魔的な何かだけはどうにもならない。そして、そこに「誘惑」が忍び込む。「終わりなき旅や煩悶」よりも、今の「正しさ」を選ぶミステイクも一つの道だと言えるとしたならば、バタイユ的な連続性・非連続性の断絶の狭間に欲望は落ち込んでしまうのだろうか。歳月がいずれ、人の本性を暴くとしても、今回、世界の終わりはベタでスタティックな「天使」も「悪魔」も「無い」から、アウフヘーヴェンして、最終的に「否定を否定するという 僕の最大の矛盾は 僕の言葉 すべてでたらめだってことになんのかな」という帰結点に着地してしまう。

 これは、自意識内の大文字の葛藤という所謂、セカイ系のその次の彼岸を意図しているのではないか、とすれば、「自分で自分を爆破するしかない」というレディオヘッドのような極北の原罪性がフラットに今、ありふれた日常に接合されているとも言える。その捩れの一点に注目する分には、僕自身として「答えが誘惑する誤答」しか出来なくなってしまう根本的なエラー理論をかつてのミスターチルドレンやバンプ・オブ・チキン、ラッドウィンプスのように、彼等に当て嵌める事が出来ない隔靴掻痒があり、興味深い。何故ならば、あっけらかんと彼等は直ぐ鼻の先の誘惑、つまり、現時点でそれほど望ましくないことに「敗北」するからだ。敗北した上で、「歌い始める」ファンタジーはJ-POPという甘やかな共犯関係を産み出し易い磁場で一層の拗れ方を起こす。

 条件付け、でだが、「双曲割引」という概念で、彼等の「世界」「終わり」、「天使」「悪魔」はもっと精緻に説明出来る。将来起こることの価値を現時でどう評価するのか、つまりは、どれだけ割り引いて評価するのか。今、5,000円があって、1年後に必ず10,000円あげるよ、と云っても、「今の5,000円を大半の欲望」は選択する。時間的に双曲線で示される価値。矮小で短期的な誘惑は近付く程に大きく視え、まだ遠くにぼんやり見える大きい長期的な価値、見返りよりも、一瞬的に大きい付加性を帯びる。そうすると、彼等にとって「終わり」は誘惑的にそこにあるものかもしれない。
 
 club EARTH設立、「幻の命」、『EARTH』と規模や人気が拡大される中での今回のシングルはある種の彼等の決定打にもなり、また桎梏にもなるかもしれない。サビのフックが印象的で少し幼さは残るが耳につく声、大きい意味の言葉、ストリングスの絡み方が適度に薄い「天使と悪魔」、ポップに弾けた「ファンタジー」は80年代のエレポップのようで軽やかだ。要は「Old-Fashioned」がベタに「Brand-New」になる時代への「正答」を出している。健康的な二曲。
 
 僕は、だから、そんな健康的な彼等のこの無邪気なペシミズムには乗れない部分がある。何故に人の「意志」というものはこんなに不可解で、しかし、「意志がある」ことで、不幸を選ぶという人間の様態まで行ってみる。その上で、「自由」であればこそ、不幸を希求する、生活の富裕に反して空虚感が拭えないという近代社会のイロニーはインストール済みだから、もはや、「意志は負の資産」と計上するべきならば、ここにホイジンガの「19世紀はあまりに<まじめ>な時代だった」という言葉を落とし込んでみると、より浮かんでくる何かはあると思うからだ。彼は「遊びは文化より古い」という歴史家なのは周知だろう。

 そうすると、世界の終わりは、僕には真面目過ぎて、「遊びが足りない」、とても文化的なバンドに視えてしまう。自分自身が文化よりも遊びを選ぶ側に退行(対向)するからなのだが、彼等の尤もな正論の外で、数多の誘惑を担保に入れて、意志の外れの合理性を正当化するように、君の意志と誘惑の駆け引きを「理論」で説明して、躍りたいだけの不誠実な人間なのかもしれないと確認させてくれたシングルであり、このシングルが出した答えの分だけ、世界はまだまだ十全ではないと思わせてくれた、と言うには少し楽観が過ぎるだろうか。
 
 自身として、もう少し微分解析しない限り、手に余る言葉が青いままに投企された意味を翻訳する必要性が要るこの二曲を皆はどう受け止めたのか、気になる。

(松浦達)

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sufjan_stevens.jpg スラヴォイ・ジジェクは「幻想の感染」において、こういう事を述べていた。

 カントの哲学においては、美しいものと崇高なものと異形なものとは三つ組みを成す。「三項」の関係はボロメオの結び目の関係であり、二つの項が第三の項を介して繋がっている。「美」は異形が崇高になるのを可能にし、崇高は美と異形とを媒介する。それぞれの項を極端にする―「完全に実現」をすると、「隣のもの」に変化する、徹底して美しいものは、もはや単に美しいのではなく、崇高になる。同様に徹底して崇高なものはどこか異形になる。あるいは逆に言い方をすれば、崇高の要素がない美しい対象は、真に美しいものではないし、異形の兆しとなるような次元を欠く、崇高なものは、真に崇高なのではなく、単に美しいだけである。

          *          *          * 

『The Age of Adz』を初めて聴いたとき、崇高さと鬩ぎ合う異形性を感じると共に、そこに美しさを感じた。ここには過去にアメリカ50州シリーズに挑んでいた際の例えば、『Michigan』、『Illinois』のようなテーマ性や麗しさは「破綻」しており、『The BQE』や「All Delighted People」EPとも違うが確実に、それらを「通過」したが故の独自の捩れた音が鳴っており、「現代版のバーバンク・サウンド」とでも言えるのかもしれない、ミレニウムやハーパーズ・ビザール、レフト・バンク、アソシエイションなどのような音を現代的に再解釈する手腕は相変わらず巧いが、『Illinois』時のようなチェンバーポップの鮮やかに「再写」する手法に関して周到に避けている。

 全体を通じて、エレクトロニックな要素群が格段に増え、エフェクトやサンプルやループや打ち込み音が明らかに独自の歪な音像を結び付けている。その結び目をほどき、サウンド自体の意匠を外せば、フォーキーでトラディショナルな伝承歌のような歌であったり、現代音楽的な様相が浮かんで消える部分もあり、また、ゴスペル的な要素因とIDMとポップ折衷が捩れながらも昇華に向かわず面妖な麗しさを醸す所作の妙はなかなかに凄味さえ感じる。引き合いに出される彼の初期の2001年の『Enjoy Your Rabbit』的なものよりも、もっと表象されているものが違う。より過剰になったサウンド・コラージュの前衛性や黒いフィーリングが表面化している様は今の彼のモードなのだろう。

 しかし、そこはスフィアンらしく「歌心」も忘れていない。今回の歌詞はストーリーテリング的なものではなく、一人称の根源的な独白になっており、そこで愛や孤独、不安などをモティーフにしたもので、時に「ぼくはきみを愛してる」、「長い人生さ 少しは苦労しよう」という衒いのないストレートな歌詞が乗る。ヴォコーダーで加工された声、ヴァン・ダイク・パークス的なストレンジなストリングスの絡み方、幾重にも組まれたサウンド・レイヤーの中で曲は着地点を見出さず、「中空」に浮かんだまま、安直なヴァース・コーラス・ヴァース形式の意味が敢えてぼやけるような構造形式を取っている(ように思わせるが、実際、骨組みだけ取るとポップなものが存外、多い)。

          *          *          * 

 ヘッド・ミュージック的な側面もあるが、「内側に閉じてゆく」独善的な作品にもなっていない、とてもポップで万華鏡のようなトリップ感で耳に訴えかけるテンションもある。それは、今回の作品を作るにあたってインスパイアーを受けた黒人画家のロイヤル・ロバートソンのスピリチュアリティが強く出ているのかもしれない。ロイヤル・ロバートソンの提示していた黙示録的な世界観、また、それでも、浮世離れはしないリアリティへ立脚しながら創作活動に励んでいた様。スフィアン自身が憂き世離れしないで、「今、ここ」に留まりながら、音楽に対峙する「意味」が彼を通じて視えてくる。

 インテリジェントでスマートなポップ職人としての彼を求める人なら、『The Age of Adz』はいささか期待を覆してくる内容になっているといえる怪作になったかもしれない。また、各曲の過剰な情報量の多さに眩暈をおぼえてしまうかもしれない。最後の曲の25分を越える「Impossible Soul」に至っては多重コーラスとエレクトロニクス要素と目まぐるしくうねるサウンドスケイプ、ゴスペル・パートなど二点三点も落ち着きの無い展開を見せるサウンド・タペストリーになっている。これをしてアニマル・コレクティヴ的な「サイケデリック」との共振を探すにはあまりに思考停止が過ぎると思う。このサイケデリアは彼自身の内的宇宙の潜航からなる<外>への開きでもある訳で、ファラオ・サンダースやジョン・コルトレーンのような行き着くべきして行き着いた「彼岸」であり、「過程」とも言えないだろうか。

          *          *          * 

 異形に近接する美へ彼が崇高性を求めた結果、「こうなってしまった」のか、彼の今の脳内を示すにはこういった「異形性を求めないといけなかった」のか、詳しい所は分からないが、あらゆる面で「引き裂かれた」アルバムになっている。黒いフィーリングと白さ。前衛性とポップネス。安寧と孤独。その引き裂かれたクレバスの間から福音のようにとても優美な音が漏れ聞こえてくるのは確かだ。現代のポップ職人の奏でる異形の美は"ソング・サイクル"を抜けて何処へ向かうのだろう。

(松浦達)

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hurts.jpg ペット・ショップ・ボーイズ、ティアーズ・フォー・フィアーズ、そしてヴィサージなど、様々なバンドと比べられているハーツだが、ハーツは紛れも無くハーツである。と、柄にもなく好きではない「である」口調を使ってみたけど、彼らの記念すべきファースト・アルバム『Happiness』では、ハーツのアイデンティティがこれでもかと主張されている。サマソニで見せてくれたステージングやヴィジュアルを見る限りだと、デコレーションされまくったつまらないポップ・アクトと思われるかも知れないけど、この『Happiness』は、不思議と人間味溢れるアルバムになっている。

 ハーツは「ポップ」というものに対して、誠実に向き合っている。それは、ハーツがポップ・ミュージックの力を信じているからだと思うのだけど、では、なぜ彼らにとっての「ポップ」が、ここまで個性的で、とことん過激な表現となっていったのか? それは、ハーツにとっての「ポップ」とは、「逃避先の世界」だからではないか? だからこそハーツは、どこまでも己に装置を配置していく。しかし、それでも人間的でピュアな部分が見え隠れするのは、その装置の使い方、そして、その装置そのものが、セオとアダムという二人の人間の根底から生まれたものだからだと思う。つまり、この『Happiness』はニュー・オーダー「Blue Monday」や、オアシス「Supersonic」と同じ系譜にある。もちろん、それぞれの事情は異なるし、音楽性も同じではないけど、「前に進むための逃避」という意味では、『Happiness』「Blue Monday」「Supersonic」は、共通するものがあると思う。

『Happiness』は、「理想的な現実」というのが描かれている。耽美に浸るわけでもなく、ドラスティックに現実を描写し、ひたすら自己と格闘しているわけでもない。それぞれの感情や思惑を行ったり来たりしている。それは、人から見れば「迷走」に見えるだろうけど、ハーツの「迷走」は前に進むための「迷走」であり、「ポップ・ミュージックを作る」というハッキリとしたヴィジョンが窺える。そして、この「迷走」が『Happiness』をなんとも不思議なアルバムにしている。「理想」を作り上げているのに、そこから滲み出ているのは、生きるうえでの「哀しさ」や「辛さ」だ。歌詞と曲調が相反していたり、「Wonderful Life」という曲がある一方で、「Devotion」という曲もある。つまり、『Happiness』というアルバムは「今の世界において、ポップ・ミュージックを作るということ自体が、戦いになってしまう」ということを、図らずも証明してしまっている。

「ポップ・ミュージック」を作ることによって生じる「儚さ」というのは、この世に音楽が誕生したときから、何度も表現されては、砕け散っていったもの。この「儚さ」というのは、世界が不穏な雰囲気に包まれるほど、必要とされるものだ。そして、『Happiness』には「儚さ」が十二分に詰まっている。この素晴らしいアルバムがたくさんの人に聴かれてほしいと願う一方で、「いったい世界は、いつになったらこの「儚さ」を必要としなくなるのだろうか?」と、少し悲観的な感情を抱いてしまう自分もいる。

(近藤真弥)

*日本盤は11月3日リリース予定です。【編集部追記】

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fran_healy.jpg 思えばトラヴィスのアルバムをボロカスに貶したレビューなんてこれまで一度も目にしたことがない。他のバンドもコールドプレイやキーンには文句を言うことはあるけれど、トラヴィスにその矛先が向けられたことは、あまりない。というかそのケースを私は知らない。トラヴィスのメロディにはどんな偏見や先入観の介入も許さない凛とした佇まいがある。「こりゃ、悪いわけがないよね」とついつい全面肯定してしまう魔法の力が働いている。ロクでもない人生でも最高のユーモア・センスとシンガロングできるコーラスがあればそれなりのものに見えてくる。トラヴィスのメロディは基本的にメランコリックだが、ふっと笑ってしまう気の抜け方が大好きだ。たぶん私以外のファンもそこが好きなんだろうと思う。

 そのトラヴィスのフロントマンであるフラン・ヒーリーのソロはブランドン・フラワーズのソロほどバンド・サウンドに傾倒しているわけではないが、アコースティックに振り切れたというわけでもない。そして「Selfish jean」や「Flowers in the window」のようなハッピーなヴァイブに満ち溢れているわけでもなく、内向的といえば内向的だ。だが、これは紛れもなくトラヴィス・サウンドである。おそらく特別にバンドとの差別化を図って制作されたアルバムではないだろう。だってトラヴィスの新作を聴くような気持ちで聴いたら、普通に良いアルバムだったから。シングルの「Buttercups」なんかは前々作の「The boy with no name」のどこかに紛れ込んでいてもたぶん気付かない。そういえばこの曲のビデオは、フランが車のなかでやたら女性に花束を投げつけられる、っていう内容なんだけど、最近こういうの多くないですか? まさに強い女性と情けない男子、というか。マルーン5の「Misery」もそうだったし、ブランドン・フラワーズの「Crossfire」もそうだった。まあ、男はいつだってその役回りだよね。スレンダーな女の肩に手を回して、プールだ、車だ、シャンパンだ、のマッチョなビデオに対するアンチとしては、かなりおもしろい。

 アルバムの話に戻します。まあ、鉄板ですから、フランの声は。ソングライティングも絶好調です。ポール・マッカートニーとニーコ・ケースが参加しています。でもそんなたいそうな参加の仕方ではありません。付け合せの野菜みたいなもんです。あと「Holiday」は「Sing」を彷彿とさせます。ボーナス・トラックにはハーツみたいな興味深い路線の曲が収録されているので、日本盤がおススメです。

(長畑宏明)

*インタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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leonard_cohen.jpg レナード・コーエンの歌。ジーザス&メリーチェインは「Tower Of Song」を覚めきった轟音で鳴らしていた。ジェフ・バックリィの「Hallelujah」はオリジナル以上に聞かれている1曲かもしれない。一時期、エコー&ザ・バニーメンを脱退していたイアン・マッカロクのソロ・アルバムには「Lover, Lover, Lover」が収録されている。そして90年代にはピクシーズ、ジョン・ケイル、R.E.M.など当時のオルタナティヴ/インディー系のバンドが参加した『I'm Your Fan』と、もうひとつ上の世代であるドン・ヘンリーやビリー・ジョエルなどのカバー・バージョンを纏めた『Tower Of Song』という2枚のトリビュート・アルバムが発売されている。

 カレッジ・チャートの萌芽から時を経て、オルタナティヴ・ミュージックがようやく音楽シーンの中で影響力を持ち始めた90年代。歌詞というよりも「詩」そのものである言葉とメロディ、キャリアの中で多少の変化を見せながらも一貫してシンプルなサウンド・デザインは、その唯一無二の歩みからもオルタナティヴの元祖として時代の空気にぴったりだったのかもしれない。崇高でありながらも、「自分にも歌える」そう思わせるという意味で、レナード・コーエンの歌はパンクと同じ力を持つ。そして、この『Songs From The Road』や他のアルバムを聴いてもらえばわかるように、彼はちっともテクニカルなミュージシャンではない。彼の作品の中で名曲と言われるもののほとんど全てをローファイと言っても差し支えないはず。だから一度聞けば、誰もがレナード・コーエンに憧れる。レナード・コーエンの歌が好きになる。それは10年代の今でも変わらない事実だと、僕は思う。エミー・ザ・グレイトの『First Love』で歌い込まれていたように「オリジナルのレナード・コーエン・バージョン」をよろしく。

 レナード・コーエンは1934年、カナダ生まれ。今年でもう76歳。もともとは地元カナダで詩人/小説家としてキャリアをスタートさせている。何を思ったのか60年代後半になってアメリカへ渡り、シンガー・ソングライターとしてデビュー。その時すでに34歳。初期はボブ・ディランやジョニー・キャッシュを手がけた名プロデューサー、ボブ・ジョンストンの腕を借りながらミュージシャンとしての知名度を上げていった。その後は大ヒットこそないものの、ほぼハズレなしのアルバムを3~4年ごとに発表しながら現在に至る。2008年にはしっかりと「ロックの殿堂」入りを果たしている。日本での知名度の低さにはガッカリだ。

 この『Songs From The Road』は2008年後半~2009年前半までのツアーをパッケージしたライブ・アルバム。もともと声量のないヴォーカルをバックアップするような控えめながら手堅いバック・バンドの演奏とオリジナルに忠実なアレンジが秀逸だ。代表曲はほぼ網羅されている。できれば「So Long, Marianne」と「Hey, That's No Way To Say Good Bye」も聞きたかったけれど、もう声が出ないのかもしれない。サマソニでホールのコートニーが「セックスの歌よ!」と言ってボロボロで最強のカバーを披露した「Take This Longing」も入っていない。でも、最高。特に「Waiting For A Miracle」(オリヴァー・ストーン監督の『ナチュラル・ボーン・キラーズ』のエンド・テーマ。音楽監修はNINのトレント・レズナー!)から「Hallelujah」までの流れは本当に素晴らしいから、シャッフルなしで聞こう。クレジットに目をやると「Hallelujah」はコーチェラ・フェスでの演奏だ。観客が熱狂している!

 クッキーシーンに載るミュージシャンでは最高齢かも。まだ聞いたことがなくて、「ライブ・アルバムはどうも苦手でね」と言う人には『The Best Of』というベスト盤がおすすめ。ブライト・アイズやキャット・パワーが好きなら、きっと気に入ると思う。『Songs From The Road』にも入っている「Bird On The Wire」を聞いて欲しい。AメロのコードはA/E/A/D/A/E/Asus4/Aのはず。間違っていたらゴメンなさい。歌詞はだいたいこんな感じ。

"電線にとまっている鳥のように 真夜中の聖歌隊に紛れ込んだ酔っぱらいのように
 僕は僕なりに 自由になろうとした
 死産の赤ん坊のように ツノが生えてる怪物のように
 僕は僕に近づくみんなを 傷つけてきた"

 レナード・コーエンの歌を聞いて、歌おう。

(犬飼一郎)

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kings_of_leon.jpg かつてアメリカの片田舎から鳴らされたプリミティヴなロックが、10年も経たないうちに世界を制覇する直前まで上り詰めるなど、誰が予想できただろうか。ましてやデビュー当時、彼らはけっしてシーンのエース的存在ではなかった。異端児といっても過言ではなかったが、これがドカンといきなり大ヒットしてしまうイギリスという国は、まあ不思議だよね。肝心のアメリカではほとんどスルーだったが、4枚目となる前作でいよいよ本格的にスターダムにのし上がった。老若男女共通のアンセムとして「Use Somebody」が幅を利かせ、「Sex On Fire」というド直球の名曲に全員が悶えた。日本ではセカンドからのシングル「The Bucket」がラジオでヘヴィー・ローテーションされたが、それ以降日本と英米の温度差は酷くなる一方だった。つまり、彼らは日本以外では理想的なキャリアでバンドとしての地位を高め、いまやほとんど唯一のエレポップ勢やR&Bにチャートで対抗できるギター・バンドである。他にいたとしてもキラーズとか、コールドプレイくらいか。

 成功の代償が小さいわけはない。初期の土にまみれたようなサウンドを愛するファンはKOLの現状に理不尽なまでに腹を立て、あとからついてきたファンと一緒にはなりたくないといわんばかりに、もはや彼らのファンではないことを宣言してまわった。ギター・サウンドが空間的な広がりを持った途端、「セル・アウトだ」と糾弾した。一方で音楽を日常のBGM程度にしか考えないKOLのリスナーは激増した。その環境に1番苛立っていたのは、ほかでもないメンバーたちである。盛り上がりの悪いフェスの観客にケチをつけ、バッシングをくらったこともあった。アンセム詰め込み放題の4枚目から新作でどのような変化を遂げるのかが注目された。初期のシンプルで粗野なプロダクションに戻すのか。それとも第二の「Sex On Fire」を書くのか。

 正解は後者だった。先行で解禁になったシングル「Radioactive」は「Sex on fire」の勢いそのままに「Use somebody」の雄大さが加わって、しかも祝祭感溢れるゴスペル風のコーラスまで聴こえてくる圧勝のアンセム。その前の冒頭曲、「The End」では彼らのいまの姿勢を表すかのように、どっしりとした迷いのないビートがリスナーの期待を煽る。

 さあ、これからどんな風景を見せてくれるんだ? 私は全曲聴いて大声で「最強だぜ、お前ら!」と叫びたくなったぞ。小細工や媚びは一切なし。ファースト原理主義者はこれで完全に置いてけぼりをくらうぜ。彼ら以上のギター・サウンドが世界中にひとつも存在しなかったという意味で逆にアンセム欠乏症に陥らせた前作よりも、はるかにアンセミックな怪物作。きっと売れ売れです。日本でもいよいよ本腰入れて売ろうよ。これで興奮しないなんて嘘だ。「Mary」は多くの野朗どもの涙を誘うだろう。「Back down south」でカントリー・ミュージックの偉大さを噛み締めるだろう。ピンと来ない奴も多いだろうな。でも楽しんだほうがいいに決まってる。インディ・ミュージックはここまで来られる可能性を秘めているから刺激的だ。王座揺るがず。

(長畑宏明)

*日本盤は11月24日リリース予定です。【編集部追記】

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people_in_the_box.jpg「うひゃー。また、だ。ピープル・イン・ザ・ボックスの新譜」と、リリース前に曲名やタイトルが公式に発表された時も、実際にそのサウンドを聴いた時にも思った。相変わらず、暗喩的で変化球な表現の数々、めまぐるしく変わる変拍子と変調に満ちた曲構成、それでいて、スリー・ピースというバンド形態を活かし、一切の無駄を削ぎ落としていく職人技のようにストイックなサウンド構築。およそ二年半ぶりの、彼らの新譜には彼らの持ち味の世界は変わらず、それがどんどん強固になっていく様を見て取れる。
 
 リリース前の曲名およびタイトルが公表された時に、多くのリスナーが感じたのは、「前作(シングル『Sky Mouth』を除く)『Ghost Apple』に引き続きコンセプチュアルな内容になるのでは」との思いだろう。なぜなら、今作のタイトルは全ての曲が、国名、地名あるいは不特定ながらも、それぞれの想像力を喚起させるような場所の名前が冠せられており、アルバムの曲名を眺めると、まるで世界旅行の様相を呈しているからだ。一曲目「東京」から始まり、最終曲「どこでもないところ」に到達するまで、このアルバムはヨーロッパを中心に北米や南米などを旅することができる。
 
 しかし、個人で海外旅行する事が趣味な僕は、タイトルを見た時に、「思い切ってやってくれたな」という気持ちと同時に、ある種の過剰さも感じてしまったのも事実だ。「ここまで徹底しすぎると、かえって閉鎖的になってしまうのではないか。聴く前から聴き辛そうな狭い印象を与えてしまうのではないか」という懸念だ。しかも、アルバム自体のタイトルは『Family Record』と全く国名にも地名にも関係ない、独立したものになっている(と言っても、これは彼らの以前のタイトルからそうだったが)。ジャケットもスタイリッシュではあるけれど、何だかよく分からない白濁だ。

 「どうなるんだろう、新譜は」などと、若干の不安も拭い切れずに聴いたが、その内容は冒頭で書いた通り、今までの彼らの魅力をより研ぎ澄ましたもので、結局は、僕の杞憂だった。今作のサウンド面は、今までよりも格段に、三人の楽器が奏でる絶妙なアンサンブルがスリリングで心地良いのが第一印象だ。それは、演奏技術云々と言うよりも、フロントマンの波多野裕文自身が、このスリー・ピースをどんどん信頼していっていて、より他の二人とのセッションを楽しんだ結果できたものと思われる。どの曲も変拍子と変調の嵐で、一寸狂えば曲全体が台無しになりかねない構成にも関わらず、個々人が相当思い切ったプレイ・アビリティを発揮している。波多野のギターは、時に狂ったディーヴァのように爆音で呻き、時に精霊の祈りのように繊細に泣き、山口のドラムは相変わらず、細やかな動きからダイナミックなフィルまで楽曲の根幹を成すグルーヴの強かさを実直に表現しており、福井のベースは、そんな大暴れな二人の仲を取り持っていたかと思えば、意外なところで主役をかっさらっていく。それでいて、三人のグルーヴは、ブレがなく強固だ。
 
 歌詞を見れば、タイトルの地名や国名について言及するものは少なく、それらは単なるメタファーであったことが分かる。従来通りの、波多野による暗喩や倒置を多用しながらも、主語の置き換え、コンテクストの乱暴な改変によるシュルレアリスム的手法が映えている。まるで、実存主義を通過した不条理文学を読んでいるような錯覚に陥るのも、相変わらず見事である。まさに、ジャケットの白濁のような、クリアながらもドロっとした印象を与えてくれる。

 最後に、少し個人的な事を書いて終わるのが、申し訳ないが、ご容赦願いたい。このアルバムの10曲目に「スルツェイ」という曲があるのだが、この耳馴染みの薄い地名は、世界遺産にも登録されているアイスランドにあるスルツェイ島がモチーフだろう。実は、この島、北欧神話にも密接な関係にある火山島である。僕は、個人的にアイスランドと言う国に対して―親氷家とでも言おうか―とても親近感を湧いており、様々なアイスランド文化を敬愛しているのだが、(ご存知、シガー・ロスやムームなどの出身地でもあり独特のシーンも形成している)首都のレイキャヴィークではなく、このスルツェイ島をタイトルに選んだ波多野の素晴らしい命名センスに心底、脱帽してしまった。

(青野圭祐)