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aM.jpg 2005年に惜しまれつつも解散したスーパーカーのドラマー、タザワ・コウダイと、初期スーパーカーを手がけ現在もプロデューサーとして活動中のカナイ・ヒロアキ(ミユキ)による、エレクトロ・バンド、aM(tm)[aem]。彼等の5年振りとなる3rdアルバムが英Rocket Girlから逆輸入という格好でいよいよリリースされた。

 エレクトロをキーワードにしつつも、やはりサウンドの核となるのはコウダイの叩き出すなんとも心地よく反復するグル―ヴィーで彼独特のタイム感を持つドラム・サウンドと、それに乗せ直観的にかき鳴らされるミユキのフィードバック・ギターだ。そして後期スーパーカーにも通じる、いやそれを更に発展させたかのようなミニマルでいてあまりにも美しいエレクトリックなサウンド・メイキングには脱帽するしかない。シューゲイザー/ドリーム・ポップ・ファンならば是非手にしてもらいたい改作。

(八木橋一寛)

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ongaku.jpg 例えば、アドルノが抱いた思想の主軸をなしているものは「近代において人間はどのように人間的でありうるのか?」ということに集約される。それを考えると、主体的に「音楽を書くこと」は「漂流する瓶に詰められた願い」を海に流す行為であり、それは聴衆を無視して、ひたすらわけの分からないことを書き続けるのとは違う―つまり、誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる「べき」音楽である筈とも言える。その音楽には、作り手と聴衆との「間」に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている。

 だからこそ、今、「音楽を聴く」という行為自体を、再定義しないと、このまま、相変わらずの印象批評が飛び交ったり、「良/悪」の二元論で帰着してしまったり、音質(温室内)問題であれこれ右顧左眄したり、歴史改竄されてしまったり、ファイルの中に、フェスの中に、音楽が埋もれてしまったり不健康なことこの上ない、と感じる。ただでさえ、難渋な世界になったな、と痛感する事が増えてきた昨今ゆえに。

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 私事になるが、面と向かって「音楽に対峙した」のは高校生の頃だった。94年辺り前後の、渋谷系、J-ROCK、小室系、ブリット・ポップ、オルタナティヴ、モダン・ジャズ再発、ワールド・コーナー充実など華やかなりし頃で今とは比べ物にならないものの、兎に角、情報量は凄い量があった。

 ヘッドホンの中で拡がる軽快な自由の「気配」に魅かれつつ、レンタル・ショップで只管CDを借りて、様々な文献を紐解き、それでも「井の中の蛙」を自覚しながら、井戸の上に広がる空の深遠さを信じていた。周囲は卑近な空に溺れていたから、僕は「遠い空」を夢想する事にした訳だが、どうにも孤独なものだった。エアロスミスやらボン・ジョヴィがデフォルト的にラジカセから流れたりするクラブの部室で、フリッパーズ・ギターやペイル・ファウンティンズやベックなどを掛けようが「認知」もされなかったし、それが「代案(オルタナティヴ)」として出来るにはヴォキャブラリーも悲しいくらい「感性論」の壁の前で何も出来なかった。音楽は各々の感性に収斂すればいいもので、別に強制するものでも何でもない。それは分かっていたが、何故かもどかしかった。

 00年代で一気にギアが入った。プロディガル・サンとして彷徨している時に、兎に角、凄まじい熱量で色んな音楽を聴き、血肉化して、呼吸をして、ヘッドホンやステレオ越しに、セックスやアルコールやドラッグといったものの青春のシンボリズムの先の不健康な、希望的な何かへリーチしようとしていたし、ふと音楽に飲み込まれそうな自分さえ居た。碌な味方なんて殆ど居なかったけど、少しの「理解者」はいたので、迷わず舵を切った。鬱と不安と将来への茫漠とした虚無、デート、ラヴ・アフェア、文学全集、哲学・思想本、膨大な時間、刃物のような集中力と、無数の音楽とも言えない音楽。更にそれを覆うほどの音楽。あらゆるものに包囲されながら、エディ・ヴェダーの云う「ロープ」のようなものとして、音楽を握っている時は何となく「この、どうでもいい後付けで出来た世界」の仮構性を受容出来る様な「気」がしていた。でも、「気分」なので直ぐ蒸発した。

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 そもそも僕個人的に「絶対」なんかは信じていない。世の中は「相対的」なものだと想うし、「絶対」という蛸壺に自分を持っていった途端、その人の信念がエッジとして「鈍化」するような気がする。「自分は絶対だ」と「ストイシズム」どうこうは違う。自分を信じる事(I need to be my self)は大事だし、「自分を"在る"ということ」を弁えるのも肝要だが、人間は「関係性の生き物」であって、関係性とは、誰かを想う事により、自分が再規定される、ということでもあり、即ち、自分を想うという事は必然的に「誰か」を想定されないと「いけない」と思う。

 となると、スキゾ的な何かや、引きこもり、自意識内で「完結」してしまっている人の目には何が映っているのか、と言うと、それは「書割」の世界だろう。「書割の世界」―自己充足して、マスターベイティングな様式美、はたまた、自家中毒的なデッドエンド。宗教学、政治学、経済学...白黒が出てしまう領域に僕がそれほど、アディクト出来ないながらも、一応魅かれてしまうのは、白黒を見詰め続ける事で、グレイ・ゾーンが可視化出来るようになるというのもある。

 自分が修めている「経済学」とは本当に突き詰めると、「黒白」を「理論」で説明するのでも、起こった現象を後付けで補強するものでも、預言的な事を言うものでもない。ただ、「思考的な視力が上がるもの」なのだ。思考的視力が上がるという事は「生き易くなる」という事でもある。だから、僕は戦争不安神経症なりヒポコンデリアなり色々抱えているし、根源的には人嫌いだが、それを悲惨だと想った事はなくて、そういったタイトロープ上を積み重ねてきて、今はグンと生き易くなってきてもいる。ただし、知れば知るほど楽になるよ、という発言を自重しないといけないのは、情報と知識を履き違えてしまって、「潰れてしまう」ケースを間近で見てしまうのもある。

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「音楽」というものは、「実体」は無い。そして、もっと言うと「あっても、なくてもいい」ものかもしれないし、例えば、僕が海外に行く度に、民俗的なものや宗教的なものと音楽って本当に密接に結びついていて、ちゃんとその分野や聴いているものによってトライヴが分かれているのだな、と想って、色々考察の対象になるのだが、単純に言えば、USのヤッピーとか中国のニューリッチ層とかがコールドプレイやマルーン5をよく聴いている。それは彼等がロック/ロックじゃない、じゃなくて、単純にチルアウト、ガス抜き装置として機能しているだけであって、別に彼等に纏わるゴシップや彼等のベタッとした「薄さ」はどうでもよく、BGM的に「機能」すればそれでいい。でも、それも「音楽」としてその場で空気を揺らせている。

 比して、世界のインディー・キッズ達はもうファイル交換などし合って凄まじい量の音楽を聴き貪っていたり、ちゃんとしたユニティや共同体が出来ているのは周知だろう。今は音楽を聴こうと想えば、只管聴けるようになったしライヴ現場も用意されているが、リテラシー能力が断然下がってきてもいるし、「偏差値」的なもので言えば、文脈を敷いて、ちゃんと意味内容と必然の中でその音楽が鳴っているという事を「説明出来る」人が蛸壺化し過ぎているし、そうではない人達はディグするサウンド・ツリーの深淵さを何処かで放棄して刹那的に耽溺している様な気がする。
 
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 19世紀、エジソンは音楽の容器としてレコードを「発明」した。そして、最初の目的としては、彼は「家族の声を残したい」という欲求があった。だから、「音楽」がちゃんと吹き込まれるようになるのはしっかりしたオーディオの発達を待つ必然性があった。現に、初期のレコードには「寸劇」から「朗読」から残されている。

 音楽→録音→レコードという形式はビートルズ以降、巨大なビジネス装置として起動してしまったが、僕は「音楽」というものはCDやレコードやデジタルの中にだけ「溢れている」訳ではなく、其処此処に溢れているものだと想う。それはただの雑音かもしれないし、もっとネイティヴな迸りかもしれない。七尾旅人氏みたいに、「それぞれ人は、音楽を鳴らしているんだよ」、というところまでは僕はいけないが、それでも、今、音楽がこれだけ安く、また、不用意に流れ過ぎている中、京都の伏見稲荷大社の奥の竹林でフッと竹の割れる音を聴いて、凄まじく耳の良いジャズメンの友達が「素晴らしい音楽ですね。」といった感覚と、ジャンクフードだらけの世界で更にジャンクフード的な音楽を求めるように揉まれる感覚などなど、が混在しながら、それでも、日常において心を、五感を、駆り立てさせられる欲動を訴求してくれる限り、音楽に忠誠を誓えるかもしれない。勿論、そのジャンクフードだって生命維持としての装置を持っているのは分かってはいるからこそ。

 それに、FMなりタクシーのラジオなり音楽専門チャンネルなりでふと流れた曲を聴いて、メモしてレコードを買いに行って、持ち帰って、ライナーなり歌詞なり編成を読みながら、じっくり音を聴く、という全体そのものが「音楽を求めるという意味性」なのだと僕はまだ想うし、持っているCDでもレコードでも観れば、何処で買って、その時はどんな心理状態だったか、などをふと想い返しも出来る、という部分がまだまだ好きなのかもしれないし、今も音が僕を引き付けるのだろう。

 音「楽」とは、音は人を「楽」しめませる為に鳴るのか、「楽」にさせる為に鳴るのか、それは分からないが、音楽の中の「漂流する瓶に詰められた願い」が難破しても、何処か岸には届く筈なのだ。その岸で待っている人たちが居るならば、まだ音楽は「在る」可能性を孕む。

 最後にアドルノの言葉を、引用して皆に投げ掛けたい。

「(私は)音楽について語っているだけにすぎない。しかしながら、対位法的な問いかけがもはや和解しがたい葛藤を証言しているような世界とは、一体いかなる状態にあるのだろうか。生の震撼や硬直が、経験的苦境がその中にまでおよばないこの場所、不気味な規範の抑圧からの避難を許すと人々が信じているこの領域においてさえも、反照しているならば、生とは今日、なんと根本的に混乱したものであることか。人々への約束が果たされるのは、彼らが期待するものを拒否することによってのみなのである。」(『新音楽の哲学』より)

(松浦達)

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b&s.jpg拝啓 ベル・アンド・セバスチャン様

 グラスゴーはもう秋の装いでしょうか?待ちこがれていた新作『Write About Love ~愛の手紙~』を聞きました。前作の『The Life Pursuit』が2006年だから4年ぶりとなるのですね。オリジナル・アルバムとしても通算8枚目だなんて、デビュー作の『Tigermilk』でさえついこの間に思えるのに、なんだか時の経つ早さを感じると共に、こうしてまた素敵な新作を聞けることをうれしく思います。それにしてもタイトルからして「Love」だなんてすごくストレートな表現で最初に聞いた時からどんな作品なんだろうとドキドキしていましたが、その名のとおり愛と優しさの溢れたアルバムで、改めて音楽の持つ「愛」の力に気付かされた気がします。

 アルバムの1曲目、今年のフジロック・フェスティバルのステージでもいち早く披露されていた「I Didn't See It Coming」のピアノとドラムのみのイントロから、サラ・マーティンの凛とした声でファースト・ラインの「Make me dance, I want to surrender」という歌詞が流れてきたときに、古い友人に出会ったような懐かしさと、その友人の新しい一面を見るような興奮を感じました。長く会いたかった友人に久しぶりに会ってみたら以前にも増して素敵になっていた、そんな感じです。

 その「I Didn't See It Coming」は後半になるにつれエレクトロ.ポップなアレンジが色濃くなりますね。それは、スチュアート・マードックのポップ・スターさながらのヴォーカルが印象的な「Come On Sister」でのキーボードや、同じくフジ・ロックでも聞けた「I Want The World To Stop」でのビートとマイナーなコード進行、スティーヴィー・ジャクソンによる「I'm Not Living In The Real World」のコーラス・ワークあたりにすごく顕著なのですが、これは前作同様にロサンゼルスンのスタジオで行なわれたレコーディングでプロデューサーをつとめたトニー・ホッファーとのコラボレーションの成果でしょうか。そうしたエレ・ポップさは流行のものというよりもむしろ80年代的なものも強く感じられます。もしかすると前述の1996年のファースト『Tigermilk』のプロデューサーだったアラン・ランキン、ひいてはアソシエイツなどの80年代のサウンドへのオマージュ/原点回帰といった意味合いもあるのかもしれませんね。スロー・テンポの「Calculating Bimbo」や、息が止まりそうなくらい繊細なアコースティック・サウンドが美し過ぎる「Read The Blessed Pages」など、初期~中期にベルセバ・サウンドを象徴するかのようなバラード曲を含め、アルバムからどこか懐かしさを感じられるというのはそうしたサウンド部分によるところも大きいのだと思います。
 
 もちろん最初に書いたようにアルバムには懐かしさだけでなく、新鮮さも同居していると思います。それはストリングス/ホーンの洗練されたアレンジなどにも感じられますが、中でも一番の驚きだったのが、ノラ・ジョーンズのゲスト参加です。前作と今作の間にリリースされていたスチュアートのソロ・プロジェクト『God Help The Girl』でも多数のゲスト・女性ヴォーカルが参加していましたが、グラミー賞も受賞したジャズ・シンガーである、あのノラとはびっくりです。でもそのスチュワートとのデュエットとなっているメロウな一曲「Little Lou, Ugly Jack, Prophet John」でのノラの力強くも優しい声は、ベルセバのサウンドに自然にとけ込んでいてその参加に納得するとともに、優れたポップ・ソングにおいてはジャズやソウルなどそのアーティストが(ともすればメディアに)分けられているジャンルに関係なく、その魅力が伝わりスタンダードに響くものなのだと改めて感じました。

 続くタイトル・トラック「Write About Love」にゲスト参加している、映画「17歳の肖像」で各国の映画賞を受賞していたイギリス新進女優キャリー・マリガンの初々しいヴォーカルもとても新鮮ですね。また、この2曲もそうですが、同じくスチュワートがこれから制作する映画のサウンド・トラックという位置づけだった『God Help The Girl』を経ているからなのかもしれませんが、今作は歌詞にストーリー・テリングなものが多く、以前のアルバムにも増してそれぞれのラヴ・ソングに自分の個人的な恋愛の経験や想いを重ね合わせた情景が思い浮かびます。特にアルバムの本編ラストを飾る曲「Sunday's Pretty Icons」(日本盤は「Last Trip」と「Suicide Girl」の2曲がボーナス・トラックとして収録されています)で最後に歌われる「Every girl you ever admired/Every boy you ever desired/Every love you ever forgot/Every person that you despised is forgiven」という福音のような響きの歌詞は、アルバムを象徴するかのように、そこで歌われてきた様々な愛の形とそこから思い起こされる自分の想いを、まるでハッピー・エンドのように祝福してくれていてしばらく涙が止まらないほど感動的でした。

 そうした懐かしさと新鮮さが溢れ、「愛」を感じさせてくれるアルバムですが、思えば、こうしたバンドとファンの関係も恋愛に似ているのかもしれませんね。うまく言えませんが、このアルバムでは今までの作品以上にバンドとのつながりを感じると共に、作品で表現されているその「愛」が自分の気持ちや感情の深い部分に根ざしていくような気がします。そして、それはとても素敵なことだと思います。ほんとうに美しいグラスゴーからの愛の手紙を届けてくれてありがとう。また日本で会えるのを楽しみにしています。

                                               敬具

(安永和俊)

*ただいま「ライト・アバウト・ラヴ~愛の手紙~」コンテスト開催中! 詳細はベルセバ日本オフィシャルサイト及びdigital Convinienceブログのこの記事をご参照ください。ベルセバ愛に満ちた↑の手紙も、英語に訳して本人たちに直接見せてあげたい!【編集部追記】

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brian_eno.jpg 2008年に久し振りにデヴィッド・バーンとブライアン・イーノが組んだ『Everything That Happens Will Happen』は興味深かった。彼等のウイットと知性が程好い緩さで交じり合い、そこには『Remain In Light』的な張り詰め方も強烈なハイブリッド性は無かったものの、確実なケミストリーがあり、奇妙な熱を放っていた。

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 このグローバリーゼーションの世の中で、エドワード・サイードの言うようなオリエンタリズム的視点は有効なのか、疑念を持つ事がある。要は、先進国の人々の「得ぬ場所」への視線が「オリエンタリズム」と特徴づけられるようなものになる理由をどう理解するかという文脈を敷くと、単純に、先進的な人たちにとっての「遠い存在」とはただの「無知」に依拠するのではないか、ということがある。「よく知らない」から、無知ゆえに種々の誤解が発生しても、その発生の過程さえ無視するという悪連鎖。これと比して、先進国と発展途上国の「間」には隣接・交流・対抗の長い歴史があるが故に、その歴史の中では優位/劣位の時期の捩れを「深層」部分で捻じ曲げようという策略性が孕んでいるのではないか、という修整。「過去における劣位の記憶」を対象化するために敢えて位相を曲げてみて、そこで、「オリエント」とは果たして何を示唆するのか、興味深さをおぼえる。グローバル・スタンダードと発語したときの、スタンダードはもしかしたら、もっとシンプルな先進国諸国の強引な価値観の押し付けではなく、旧くに封じ込められた意識の問題としての標準測位としたならば、わざわざシビアな観点から世界を捌く必然性は無い。

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 80年代後半だろうか、「ワールド・ミュージック」という棚が正式にどんどん出来だしたのは。そして、それまで雑多な枠に納まっていた音楽群に一応、「名称」がついた。アフリカ音楽ならユッスー・ンドゥール、サリフ・ケイタやフェラ・クティ、レゲエならスタジオ・ワン、ラテンならカルメン・ミランダ、カエターノ・ヴェローゾにジョアン・ジルベルト、加え、ヒュー・トレイシーなどのフィールド・レコーディングものも「再発見」され、レア・グルーヴとの「共振」を経て、モダナイズされる「未開の地の(実は、高度帝国化に或る程度毒されている)先進的でプリミティヴなビート」は世の中に還元され、あちこちの音楽家の手元に渡り、本当の「民俗音楽」は門外不出のように、また、その場所に行かないと分からない代物に成り果て、雑な「WORLD/OTHER」という棚だけが透明度を増し、誰かの音楽を「誰ものもの「へ橋渡そうという「試み」だけが空転した。言うならば、まだ未然犯罪のようにその棚に並べられているCDやレコード群は誰かを待っているのかもしれない、と思っていたら、配信の時代が来て、世界中の人たちが辺境の国の音楽を掘り下げられる事が出来るようになった。

「1980年代の一枚」によく挙げられることになり、現代ではヴァンパイア・ウィークエンド含め数多のバンドに影響を与え、ワールド・ミュージックのポップ側からの「平準化」の産物のスケイプゴートとして提示さえされているかのような、トーキング・ヘッズの『Remain In Light』とは何なのか、今でも考える。
 
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 アフロ・ビートの拝借、70年代前半エレクトリック・マイルス期のような循環するグルーヴ、DFA界隈に流れ込むような「人力のダンス・ビート」の産物にして、ブライアン・イーノとデヴィッド・バーンの音響工作の妙が最高精度まで高められた白人側からの黒人音楽、第三世界へ向けたオマージュのような、上澄みを掬うように、知識と度胸だけでギクシャク踊ろうとしてみせた当時のデヴィッド・バーンのサイズの合わないスーツで踊る「そのまま」のようなアルバム。

 この作品を巡っては、のちにキング・クリムゾンに加入するギタリストのエイドリアン・ブリュー、エンジニアの一人のジャマイカ人のスティーヴ・スタンリー、元ラベルのノナ・へンドリックスなどがいるように、人種・分野の横断・共同体的な「一枚」のセッションの結果の果ての、アフリカ音楽の白人側の拝借ではない、ニューヨークという土地柄が示す人種のメルティング・ポット、混雑振りを如実に顕したハイブリッドな都市音楽の側面が実は、強い。「肉体性」と「還るべき場所」を持たない(持ち得ない)白人たちが、「肉体性」と「戻るべき場所」を持つ黒人音楽の屈強さへ知識と好奇心でリーチしようとせしめたナイーヴながらも音像化した中でのデッド・キャン・ダンス。
 
 ロックという「伝統芸能」をパンクが「デッド・エンド」を表明して、相克していた時期、ロックは「未開のグルーヴや未開の音」を求めて、取り敢えず、プレスリーやビートルズやストーンズのレコードは「もう、分かっているから、いい」と横に置いた。非西欧音楽へ魅かれた汎的なノン・ミュージシャンたるブライアン・イーノが混じっての臨床実験は成功に終わったのか失敗に終わったのか、2010年に聴き返す『Remain In Light』は僕にはとてもフラットに新しく聴こえるが、それは何故なのだろうか。30年経ってまだ、光を保っているのかどうか。少なくとも、当時の論争にあった様な「西洋音楽によるアフリカに対する帝国主義」などといった言葉でもう片付けられる事はない事だけは確かな、核心的な表現が此処にはある。

 そして、保たれた光は「残存」している儘、この作品をもってトーキング・ヘッズのプロデュースを離れたブライアン・イーノがなんと2010年にWARPからアルバムを出すという時代を用意することになるという事実は非常に面白い示唆を孕んでいると思う。

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 タイトルは『Small Craft On A Milk Sea』。非常に柔らかなタイトルであり、基本、ここにはブライアン・イーノらしい「知性」を感じさせる以外、過剰なビートもボーカルも入ってこない。しかし、アンビエント調の曲の中に含まれる変拍子のビートを持った曲がもたらす「異化」作用が全体像に歪な印象論をもたらす。Warpから出たから、という訳ではないのだが、何故か僕はエイフェックス・ツインの『Drukqs』的なイメージを持った。それよりも、もっと悠遠でファストな感じは無く、「練り込まれた」様相はあるのだが、ギターにしてプロデューサーの若きレオ・エイブラハムズの影響と、ジョン・ホプキンスの効果もあるのか、もっと即興的な何かがある。その即興性の光の保ち方をして、ブライアン・イーノに関しては「換骨奪胎」と言えないのが彼自身の曲者性を示唆するというのがこの作品の奇妙な着地点を仮設定する。

 究極的に「純然たる音楽」を目指していたはずのブライアン・イーノはトーキング・ヘッズ時代からの都市的なハイブリッドな音楽の坩堝から離れて幾つものフェイズを潜り抜けて来ても、相変わらず「実験室」の中で白昼夢に混じる雑音に耳を傾けていたとすると、これは彼自身の独自の「途中経過報告」なのか、「来るべき新しい実験に向けてのワン・ステップなのか」と想いを馳せたくなるのは古参のファンの仕方が無いところだろうか。

 この、いささか支離滅裂なサウンド・アトモスフィアを示す『Small Craft On A Milk Sea』はいまだに「ポップ」に寄り添っており、また、都市音楽の真ん中で零れる電子音を拾い上げた微かな光が此処にあり、美しい独自の選択と集中によって編み込まれた音響工作は錆びていない。彼はまだ光に囲まれたままで居る(REMAIN IN LIGHT)。

(松浦達)

*日本盤は10月20日リリース予定です。【編集部追記】

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gold_panda_lucky.jpg「暖かいな」。これが、ゴールドパンダのファーストアルバムを聴いて、心に浮かんだ言葉だ。CDショップとかに行くと、「ポスト・ダブステップのニューカマー」として紹介されていたりするけど、よく言われるように、ダブステップではないと思う。そういう意味では、よく比較対象にされる、スクリーム『Outside The Box』と比べるのは、無意味ともいえる。ゴールドパンダ本人は、ダブステップを好んで聴くようだし、アルバムにも影響は見られるけど、それ以上に、シンプルな4つ打ちが、ゴールドパンダの味付けで味わえる。

 僕が思うに、「ダブステップの新しい流れを作り出す」という一部の期待を裏切るアルバムになっている。それは、一部の人の期待を裏切ることになるだろうけど、僕みたいに、端からゴールドパンダをダブステッパーとみなしていない人にとっては、期待通りの痛快なアルバムになっている。すごくパーソナルで、自分のすぐ隣にある音。音のひとつひとつが歌っているような、そのひとつひとつの歌が交わるとき、聴く者の頭に懐かしいような、それでいて、心地良い風景が浮かんでくる。このチープで素晴らしい電子音は、ここではないどこかへと連れて行ってくれる。クッキーシーンに既に掲載されているインタヴューにもあるとおり、まともな機材はTR-808くらいで、あとは名もないチープな楽器や機材で作られているけれど、ゴールドパンダの場合は、そこを本人のセンスでもって、みごとにすべてを調和させている(ゴールドパンダは本当にユーモアのある人で、インタヴューでダブステップの話になったときにジョーカーを例えに出したジョークはかなり面白かった)。

 見た目や性格はかなり文系なゴールドパンダだけど、そのなかに潜んでいる熱やセンスというのは、かなりぶっ飛んでいる。特に、「India Lately」の展開なんかは、「僕もう我慢できない!」的な、駄々っ子みたいな展開で、微笑ましくもある。かと思えば、抜けの良い爽やかで繊細な「Snow & Taxis」もある。僕はこの振れ幅の大きさにある種の狂気を感じるのだけど、どうだろうか? ゴールドパンダは野心を抱えているように思う。でもそれは「世界を変えてやる」とか、そういうがつがつしたものではなくて、「目の前の景色を変えていく」という極めて日常的な、まるでベッドルームに根ざしたような夢がある。シーンをひっくり返すとか、そんな大げさなものではなくて、「あなたの隣に住んでいる天才」の誕生を祝う、そんなアルバムだと思う。

(近藤真弥)

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antony_and_the_johnsons.jpg 大傑作映画のクライマックスを最初から見せ付けられるような1曲目にまず私はたじろぐ。緊張を強いる音楽だという固定観念があったのでなおさら。かつてアンダーグランド・カルチャーに魅せられた一人の青年は、ロンドンからニューヨークへと活動の舞台を移し、おそらくアーティーな人たちが多く詰め掛けたであろうアヴァンギャルドなシアターで注目を集めた。そのプロフィールから浮かび上がってくる彼の音楽のイメージは、日常とはまったくかけ離れたものである。それにも関わらず、私は彼の音楽に不思議な心地よさを感じる。前述の緊張ももちろんあり、胸の中に温かい液体が流れ込んでくるような安らぎも感じるのだ。

 最初に解禁されたシングル「Thank you for your love」は、やはりこのアルバムのなかでも際立ってポップ・ソングに近いニュアンスを持つ。ピアノとギターの美しい絡みのなかで徐々にホーン隊が存在感を増してくるところなどは、まさに至高の瞬間だ。それ以外のアルバム曲のほとんどは彼の名前から連想される、そこだけゆっくりと時間が流れる舞台のための音楽のようである。舞台の上ではバレリーナがソロを噛み締める気持ちで華麗に踊る。あるいは孤独な老人が見えない涙を流す。そこには不思議と絶望の概念が見当たらない。私たちはこの世界に光を見出し、自分のなかにあるフィーリングをひとつひとつ確認する。

 ビョークが参加した「Fletta」も大きな聴きどころではあるだろう。やはりこれはピアノ伴奏のみ。ポップという言葉を多用してレビューを済ませてしまえるアーティストでないのはたしかだが、アントニーの音楽は誰も拒絶しないし、狭いコミュニティのなかでひそひそと聴かれるようなものでもない。たぶん、海外の音楽に精通している人はアントニーの新譜なんて聴き逃すわけがないと思う。ぜんぜん、本当はこんな文章なんて必要ないくらい素晴らしいから。でも、もしアントニーの音楽と今まで無縁だった人たちがこのレビューを読んでくれていたら、『Swanlights』をじっくり堪能するために、ちょっと1日の最後の時間くらい空けてもらいたい。このアルバムには愛が溢れていた。今回は恥ずかしげもなくこんなことを書きました。

(長畑宏明)

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neil_young.jpg 僕は『The Bridge : A Tribute To Neil Young』というニール・ヤングへのトリビュート盤がお気に入りだった。このアルバムは、ニール・ヤングと奥さんが運営しているハンディキャップを持つ子供たちの支援施設へのチャリティを目的としたもの。参加していたバンドがとにかく豪華。ソニック・ユース、フレーミング・リップス、ニッキー・サドゥン、ピクシーズ、ニック・ケイヴ、サイキックTV(!)、ダイナソーJr.などなど。発売はグランジ前夜の1989年。ニール・ヤング本人は迷走の80年代を何とか切り抜けて、『Freedom』という傑作で「Rockin' In The Free Worldだろ!」と、再び声を上げ始めていた。

 20年後の今、ニール・ヤングの最新作『ル・ノイズ』が素晴らしい。プロデュースは、U2やボブ・ディランの名作を手がけ、最近ではブランドン・フラワーズのソロ・デビュー作にも参加しているダニエル・ラノワ。アルバム発売と同時にYouTubeにアップされた映像も必見だ。聖堂にも見えるバルコニーで、アルバム全曲を歌とギター1本だけで演奏するニール・ヤング。そして、ジャケット・デザインそのままの陰影を音像化するラノワのプロデュース・ワーク。フランス語っぽい『ル・ノイズ(Le Noise)』というタイトルは、訳すと「喧嘩」という意味もあるらしい。ノイズというには、繊細すぎるフィードバック。喧嘩というには、叫びから程遠い歌声が聞こえる。

 90年代を迎えた頃、ニール・ヤングはグランジの隆盛と共にシーンの最先端で活躍する。クレイジー・ホースを率いたファズの歪みと着古したネルシャツ、マーティンのアコギと美しいメロディは、パール・ジャムをはじめとする当時の若手バンドのリスペクトを一身に集めていた。ソニック・ユースを前座にツアーしていた時期もあった。どんなに分厚いフィードバックを轟かせても、その歌声だけは細く、時に頼りなさげ。それがどこまでもリアルで、僕たちの心を捉えて離さなかった。だけど、94年にカートがニール・ヤングの「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の言葉を借りてこの世を去った。「錆びつくよりも、今燃え尽きる方がいい」。バカ野郎。

 『ル・ノイズ』はアート・ワークも音の粒子もザラザラでモノトーンだ。燃えカスみたいだ。錆びついちまったみたいだ。でも、あの歌声は今も変わらない。『ル・ノイズ(Le Noise)』ってタイトルは、プロデューサーのダニエル・ラノワ(LANOIS)のダジャレらしい。あんまり笑えないな。カートを失ったあとも、僕たちだってたくさんの時間を生きてきた。911、環境問題、経済不況、政治、戦争、人には言えない個人的なあれこれ。このアルバムの「LOVE AND WAR」という曲を聴いて欲しい。「愛と戦争を歌おうとしても、何て言ったら良いのかわからない」「間違ったコードで正義について歌った。それでもまだ、愛と戦争を歌おうとしている」。今ここにいて、声を出す。ノイズを増幅させる。あきらめてはいない。そう、まだ錆びついていないし、燃え尽きてもいないんだ。

(犬飼一郎)

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styroform.jpg 00年代の初頭~中頃辺りまでに頻繁に見られたエレクトロニカやポストロックにまつわる言説や狂騒の数々を僕は冷ややかに眺めていたものだけど(このスノッブ野郎ども! ってね)、2010年に聴き返したMorr Musicのレーベル・コンピ盤『Putting The Morr Back In Morrissey』(04年作)は思った以上に新鮮で、不意打ちのごとき郷愁に襲われてしまった。(電子音楽における必然で)音自体は経年劣化も多少見られるが、このときレーベルやアーティストが共有していた美学はいつまでも古びず残るのだろう...なんて、腕組み&したり顔で考えてしまったくらいだ。うまい具合にモリッシーを引っ張ってきたタイトルのセンスも、いち早くスロウダイヴの再評価に動いたりもしたレーベルの審美眼も、柔らかでヒンヤリ冷たいシンセの音色も、結構な時間の過ぎ去った今になっても素敵だなって思える。

 あのアルバムに参加していたミュージシャンやバンドもまだまだ元気だ。今年新譜を出した面々だけでも、ラリ・プナ(Lali Puna)は相変わらずメランコリックな光景をポップな電子音と淡々としたフィメール・ヴォーカルで描き出し、ソルヴェント(Solvent)は一時期標榜していた弾けたクラフトワーク的エレポップから『Putting~』の時代にレイトバックするかのように、聴く者を穏やかに包み込むやさしい響きを聴かせてくれた。どちらもやや地味ながら、噛めば噛むほど味の出る好盤だった。

 同じくあのアルバムにも参加し、早い段階でインスト・エレクトロニカに別れを告げたスタイロフォームの新作も長く聴ける作品になりそうだ。04年にリリースされた『Nothing's Lost』はポスタル・サーヴィスやアメリカン・アナログ・セット、ラリ・プナのもつアンニュイな空気やサウンドの影響を汲んだり(実際に各バンドのメンバーも参加している)、Anticonのエイリアスも客演してドープなヒップホップ的要素を取り入れたりと実験的でメロウな作品だったが、Morr Musicを離れて作られた08年の前作『A Thousand Words』がもつ、爽快感と甘酸っぱさを兼ね備えたストレートな歌ものエレポップ路線(こちらにはジミー・イート・ワールドのジム・アトキンスらが参加。ゲストの顔ぶれの違いが端的に作風の違いも現している)を本作も基本的に踏襲している。

 カラフルな色合いの映える自画像がデカデカと載ったジャケット同様に人懐っこい本作は、そのデザインが表わすとおり、ベルギー出身のスタイロフォームことアーネ・ヴァンテン・ペテヘムが基本的にはひとりで長い期間スタジオに籠って作りあげたそうだ。レコーディングの際もプロトゥールスには頼らなかったらしく、ヴィンテージな電子楽器を駆使したアナログな触感がパーソナルな作風を一層色濃くしているが、曲調は今までになくポップだ。アルバム冒頭の「Carolyn」は後期ニュー・オーダー直系のキャッチーなメロディ・ラインが素晴らしいし、続く「Get Smarter」ではアッパーで尖ったエレクトロ・ヒップホップを鳴らす。女声コーラスも絡む「Mile After Mile」や「What's Hot (And What's Not)」をはじめ、躍動感の溢れる気持ちいいエレポップもたくさん用意され、エモく力強いアーネの歌声は聴いていてなんだか励まされる。

 作中の歌詞には近年のベルギーにおける政治危機からインスパイアされたという攻撃的なメッセージも籠められていたり(「Kids On Acid」なんて物騒なタイトルの曲では、"これは何かが起こる兆候だ 目を覚ませ!"と警鐘を鳴らしている)、セックス・ピストルズのポール・クックとディーヴォのアラン・マイヤーズがゲストとしてドラムを叩いていたり(売れっ子グレッグ・カースティンがプロデュースしたディーヴォの新譜と、"(いい意味で)開き直れている"という点では通じるものも)、アッパーな曲調もそうだし外向的でシリアスな面も多々あるが、若手ミュージシャンではジェームス・ユール辺りにも通じるこのポップ・センスはやはり「人懐っこい」と形容するのが正しい気がする。

『Disco Synthesizers & Daily Tranquilizers』という超カッコいいアルバム・タイトルは、エルヴィス・コステロの1978年の名曲「This Year's Girl」からの一節を引用したとのこと。「This Year's Girl」といえば、当時のロック・シーンでもっともヒップな存在のひとりだったコステロが、ファッションの世界で煌びやかな脚光を浴び、同時に消耗していく女性の物語を歌いながら「最先端の流行なんてすぐ忘れ去られちまうぜ」と毒を振りまいた、自虐的/批評的要素を存分に孕んだ痛快すぎる一曲。たしかにディスコテークともいえるシンセ・サウンドも鳴っているし、日々服用する精神安定剤の代わりにもなってくれそうなこのアルバムだが、おまけにアーネ自身も「タイムレスなエレクトロニック・アルバム」を目指したというのだから、これは本当にベストの引用。1978年のコステロがもっていたシニカルな視線に匹敵する、文句なしのクリティカルヒット。

 リミックス・ワークの方でも活発に提供を続け(最近ではブロック・パーティのケリーが今年リリースしたソロ作なども)、本作にも流行への目配りは随所に感じさせられるが、ややオールドタイミーなスタイルに落ち着いている部分もあるし、≪This Year's Model≫と評するには少し無理がある気もする。とはいえ、今日び派手さがウリの楽曲なんて至るところに溢れているわけだし、ふと思い立ったときにこのアルバムを取り出し、静かな高揚感に浸るのはとても有意義だと思う。聴き飽きないという点でたしかにタイムレス。彼の目標はここで十分に達成されている。

(小熊俊哉)

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Im_not_a_gun.jpg オーストリア出身のトラック・メイカー、ジョン・テハーダと日本人ギタリスト、タケシ・ニシモトからなるデュオ・ユニットの通算5作目となるアルバム。ジョンによるトラックの上をニシモト氏の美しくも様々な表情を見せるギターワークが展開していくという基本構造は変わらないものの、以前よりジョン自身による生ドラムが大きくフィーチャーされており、ある種ロック的ともいえる躍動感が生まれている。一方で、言葉がないために一見抽象的な表現に偏りがちな音楽性なのだけれども"私は兵器ではない"というマニフェスト的なユニット名や、「In Sepia」、「Red or Yellow and Blue」といった言葉で彩られた曲名群、そして全体を貫くシリアスなトーンからは(具体的な言葉ではなく音の響きによる)何らかのメッセージの「色」が感じられる。

 あと、本作の幾つかの曲におけるニシモト氏のギタープレイにはヴィニ・ライリーのソロ・ユニット、ドゥルッティ・コラムを想起させる部分も。ヴィニ自身は全身音楽家で、まるでギター好きの少年が演奏に全身全霊を捧げるあまり、少年の心を持ったまま大人になってしまった、という印象がある。一方で、本作には「Music For Adults」というタイトルの曲がある。たしかにアイム・ノット・ア・ガンの音楽は卓越したテクニックと経験を持つ「大人」だからこそ奏でられるものだと思うと同時に、この曲におけるヴィニを思わせる「無垢」な響きからは、ひょっとして(技術だけに偏ることをよしとしないという)反語的な意味合いが曲名に含まれているのかも、なんて勘ぐりをしてしまう。

(佐藤一道)

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World_Penguin's_ Carnival2010.jpg 重量感のあるリズムなのにカラッと渇いたグルーヴに思わず身体が揺れる。サイケデリックやジャズなテイストも味わえる。そんな自由で郷愁な素晴らしい曲たちが収録された、PENGUINMARKET RECORDSの5周年記念コンピ。参加アーティストはsgt.、wooderd chiarie、MAS、middle9、Tujiko Noriko、Screaming Tea Party、egoistic 4 leaves等々。

 変則的なウネリが心地良いダンス・ミュージック、カラフルなエレポップに融合する声のない歌(ペンギンマーケットはインスト・バンドを中心に運営するインディーズレーベルなのです)は甘い響きを魅せる。そして、ソウル溢れるホーンセクションに、パンチのあるリズムと温かいメロディが優しく空間を包み込んでくれるのだ。緩やかに陽が沈み、素敵な仲間たちとの賑やかな夜が始まる...そんな気分が味わえるアルバム。それぞれのバンド、それぞれの音が個性を放っているのに、一体感のある〈現在〉の音が圧巻。

(粂田直子)