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miles_davis.jpg スピノザは、多重言語内の中で「人間精神を構成する観念の対象は存在する身体である」と言った。敷衍して、彼が示す「自由意思」について考えてみると、能動性とは「外部」からの力の作用を受けず、人間が自分自身の力のみによってなす行為であり、受動性とはその反対に、外部の力に作用されてなす行為であると言い換えられ、能動には精神の能動もあり、身体の能動もあるが、精神の能動は理性と呼ばれ、身体の能動は伸びやかな「自然な運動」を指すとしたならば、反対に精神の受動は「パッション」と称されるような心の情動を指し示し、身体の受動は心の命令によって為される運動を指すと換言出来る。その「パッション」が強烈にこの『Bitches Brew』には感じる事が出来る。観念、精神的に潜航していく情熱のような何かとサブライムな逸脱の意思に支えられた自由。


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 1960年代のマイルスを現在の視点から見直すと、面白い発見が幾つもある。

『In Stockholm 1960』でのジョン・コルトレーンとのエゴの張り合いからジョン・コルトレーン以後のサックス奏者を探す中で、ハンク・モブレーに出会ったものの、『Someday My Prince Will Come』では2曲でジョン・コルトレーンが参加しているという流れ。ただ、この作品で「意味が大きかった」のがテオ・マセロの手腕だということ。ここで鮮やかに見せつけられるテープ編集の妙、オーヴァーダビングの技巧は既に「サンプリング」とか「リミックス」の先駆けと言ってもいいのかもしれない。

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 ちなみに、1962年にはUKではビートルズがデビューして、1964年にはUSにも上陸している。また、ボサノヴァの隆盛もあった。アントニオ・カルロス・ジョビンの流麗なレヴェルは軽快に、多くの人に響いた。マイルス自身、負けん気の強い人だったので、1960年代、前半はそういったものに目配せしていたが故に、と言おうか、メンバー探しの苦闘下で、半ば休止状態にあり、『At The Blackhawk』、『Miles Davis At Carnegie Hall』のライヴ・レコーディング作品、ジョビンのボサノヴァに正面から挑んでみせたギル・エヴァンスとの1963年の『Quiet Nights』はレコード会社の「無理強い」だったのもあったのか、化学反応は起こらず、内容は特筆すべき要素は無い。

 そのような中、ロック界では1966年にはビーチ・ボーイズのマッドな音響工作の果ての極北とも言える『Pet Sounds』、1967年にあのサイケデリックなコンセプト・アルバムの至高作『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』がリリースされ、1969年のウッドストックに「向けて」のラブ・アンド・ピースを標榜し、何よりもヒップなものがロックだという認識がユース・カルチャーに定着しつつあるという時代の中、マイルスは「黄金のクインテット」として、テナーサックスにウェイン・ショーター、ピアノにハービー・ハンコック、ベースにロン・カーター、ドラムにトニー・ウィリアムスといった風情で『Miles in Berlin』、『E.S.P.』、『Miles Smiles』、『Sorcerer』、『Nefertiti』と怒涛のレコーディング体勢に入ってゆく。ここらの作品は非常にアグレッシブで<非>ジャズ志向に根差している。また、1967年以降の作品には、愈よエレクトリック要素が強くなってくる。そして、クインテットでのスタイルを終わりにして、ジョー・ザヴィヌルが書いた「In A Silent Way」で或る意味の「沸点」を迎える。テオ・マセロの執拗なテープ編集により、解体と構築の狭間を行くサウンド・コンクレート。それはもはや、ジャズでもなく、ロックでもないものとも言え、同じ演奏パートが複数回出てくるにも関わらず、全くの違和を感じさせない。

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 ウッドストック・フェスティヴァルの開催の翌日から録音が開始され、3日間に渡るレコーディング・セッションはほぼノーカットでマスターテープにおさめられることになり、これを100分という内容に再構成したテオ・マセロと、マイルスの想像力と想像力のピークラインが巨大なキャンパスにぶちまけられたとも言えるパッションが溢れた作品が1969年の『Bitches Brew』になる。

 ドラムスを複数にして、パーカッションを加え、リズムをより多彩に複雑にすることにより、ロック的なリズム・パターンからポリリズミックなアフロ・ビートが行き交うアルバムになり、これがその後の「フュージョン」のベーシックな部分を担い、また、現代においても常に何かの際の参照点にされる作品だと言われるのはその美しいまでの渾沌だと言える。この「渾沌」は当時のビートルズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックスなどと「共振」していたとも思える部分があって、興味深く、ユース・カルチャーがロックにお株を奪われていた時代に、『Bitches Brew』が示した深い渾沌はジャズと呼ばれるジャンルさえも越境させたし、当時の旧いジャズ・ファンからは誹りも受けた。兎に角、時代より進み過ぎていたのか、ジャンルなんて括りなんてそもそも無視していたのか、よく分からないが、今年、40年目をセレブレイトしてか、再評価の波を受ける一端を担ってか、いや、現代的にもまだ通用するものとしてなのか、スペシャル・パッケージとしてリリースされた。

 このレガシー・エディションには「Spanish Key」、「John McLAUGHLIN」の初出となるオルタナ・テイク、「Spanish Key」、「Miles Runs The Voodoo Down」、「Great Expectations」、「Little Blue Frog」のシングル・エディット・ヴァージョンがボーナス・トラックとして追加されている。少し残念なのが、これは「Sanctuary」でこそ終わる「べき」作品だと個人的に想うだけに、そこにそれらを付け足した点は気になる。出来れば、別CDとしてセパレートして欲しかった。またプラス・アルファとして『Bitches Brew』発表後の1970年8月18日のマサチューセッツ州ボストン郊外のタングルウッド公演CDが付加されている。これは凄まじいライヴで、バンド離脱直前となるチック・コリアと、Wキーボードのもたらす昂揚感は特に痺れるものがある。更に、DVDには1969年11月4日デンマークのコペンハーゲンにおけるステージが入っており、ウェイン・ショーター、チック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットという所謂、「ロスト・クインテット」と呼ばれる時期のアグレッシヴなパフォーマンスが収められている。約70分の演奏は、オリジナルのスタジオ録音を大きく編曲しているので、殆どフリーでまるで「曲」が「曲」なのかも分からないくらいのインプロが繰り広げられている。

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 この2010年に『Bitches Brew』が好事家やコレクターだけに回収されるのは勿体ない、と思う。僕自身としては、マイルス・デイヴィスとしては『Kind Of Blue』しか知らない、とか、名前だけで何となく敬遠していたと言える人たちやユースにこそ手に取って欲しいと希っているし、このダイナミクスの力学が働いた音像に触れる事によって、ジャンルの細分化の果てにムラ化が激しいロックやジャズといったものの境界線を跨ぐステージ・パスになるような気もしているだけに、「レガシー・エディション」といった、如何にもな「大人のコレクターズ・アイテム的名称」の部分は除いて、本テイクやオルタナ・テイクなどを楽しみ、DVDでの映像の格好良さに痺れるのは単純に良いと思う。例えば、「Spanish Key」など緻密な構成のままで17分を越えるスリリングな展開を見せるのは昨今のジャム・バンドやインスト・ロック・バンドを想わせる何かがあるし、昨今のトータスやフライング・ロータス等の持つビート・センスやプログレッシヴな面を別位相から照射している光が宿っていると思えてならない。

 まだ、この作品に対する明確な「回答」は出ていないが故に、その問題に向き合う為に、この不気味なまでの自由に向き合ってみるのは今こそ大事な気がする。「聖域(Sanctuary)」は踏み込まれる為に在る。

(松浦達)

*日本盤は11月17日リリース予定です。【編集部追記】

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kataoka_tsurutaro.jpg 1909年のルーセルの『アフリカの印象』という作品を知っている人も多いだろうが、話はこうだ。南米に向かうヨーロッパの客船がアフリカの沿岸で座礁して、黒人の国であるポニュケレのタルーという王様に捕らえられ、身代金が到着するまで軟禁される。

 客船の中には、歴史家、名ダンサー、カウンターテナーの歌手、科学者、フェンシングのチャンピオン、発明家、彫刻家、銀行家、喜劇役者、オペラ歌手、魚類学者、医者、チター奏者、サーカス芸人など多々なる人が居て、軟禁されている間、暇潰しの為に有志で「無比倶楽部」というサークルを創る。そのサークルで戯れている間に、タルー王は敵国との戦争に勝ち、二つの国の王様になり、戴冠式の際に余興として無比倶楽部の面々が奇妙な出し物を披露する。頭蓋骨の中に灯りがつくカントの像、チターでハンガリーの舞曲を奏でる巨大な蚯蚓、丸薬を水に投げ込むと水面にメドゥーサの顔が浮かぶ水中花火...主にこの式内での処刑の模様と余興の描写が全面を占める。最後、人質は無事解放され、フランスの港で別れる。

 ピカビア、デュシャン等お歴々を虜にした、総てを「解放させる」非・意味の物語。

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 もし、「この客船に片岡鶴太郎が居たらどうなっていたのか」、考えることがある。故・ナンシー関やリリー・フランキーやら諸氏に突っ込まれるまでもなく、「鶴太郎・的人間」だけはややこしい。若しくは、僕はそういった「心性」や「人間の在り方」に対して、徹頭徹尾「抗っていく」つもりの覚悟だけは揺るがないのは「自覚」している自分のイメージと巷間との誤差値の補整を試みていない所に尽きる。要は、ひょうきん族での「おでん芸」で名を為したのに、それを葬送したかの「ように」振る舞って、ボクシング、絵描き、俳優、文化人としてどんどん「素敵な自分」を彩っていく様態、人生の在り方そのものが奇妙な「上昇」に見えるフェイクにしか思えないのだ。

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「芸能人」というのは儚い稼業で、また「イメージ」で成立しているとは言え、あの鶴太郎の筆文字や絵、そして、時折、物好きに組まれる「情熱大陸」的なドキュメンタリーをして、その裏に重厚な(ような)人生に想いを馳せる人たちもたまには居るとは想うのだが、そんなに人間という生物、なんて「重厚」でも「裏がある」訳でも無く(寧ろ、それぞれにドラマはある)、幾らスタイリッシュにダチョウ倶楽部がおでんの鍋を前に、芸をキメてみても、それを「伝承させた顔」で高みから観ている鶴太郎こそがが、今でも、「熱熱のちくわぶや大根を口に入れられるべき」だと思っている。「素敵な加齢」でブレイクスルーしたつもりで、谷村新司的にナイス・ミドルを気取っている「余白」は実は彼には無いのだ。

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 たけしが、あれだけの立場になっても相変わらず扮装して「下らない芸」をやる限り、タモリが「昼間のお茶の間で、空虚にボケ続ける」限り、後進者にとっては壁は厚く、敵わないな、という嘆きに変容する中、彼だけは鮮やかに素敵に「全身芸術家」として体現する。全身を賭して文化人を演出する「鶴太郎という空虚な存在体」のもはやこの長年に及ぶ「裸の王様」振りを糾弾する者も居ない。いや、面倒だから「しない」のかもしれない。

 地方の百貨店や温泉街で見受ける鶴太郎作品展、コメンテイターでスーツに身を固める姿、お笑い番組で「坂上二郎の物真似」をしてみせながら、「いや、もう本当は、こんなのやらないんだよ。」と言いたげな顔、総てを対象化して、「おでんの鍋」を今すぐ、彼の前に用意しないといけないとさえ思うのだが、もはやそういった余地さえ彼の前では無いのか、彼が許されないのか、暗黙の内に「芸人→俳優→文化人→藝術家」という螺旋階段を昇っていった(下っていった?)様の、結果論を周囲や視聴者たちは享受はしない、拒絶している筈なのに、当の鶴太郎は「素敵」を纏う。その「素敵」は詐術としてのそれも孕む。

 しかし、鶴太郎的な存在に「思考停止」をしてゆく監視側こそが本当は重要で、それらがスルーしたイメージ分、当事者の過剰な自意識はどんどん肥大してゆくのだ。肥大していった自意識は「本体」を喰い尽す。だから、彼は「自分の描く、素敵な"俺"像」の追及のループの中で、必死に筆を執るのだが、周囲は別に彼の「自意識」に対して値札を貼ろうともしないからこそ、「おでんの鶴太郎」は永遠に、「誰もいない砂漠」に置いてけぼりになるか、YouTubeでの再生回数のみが膨れ上がっていくことになる。矢沢永吉みたいに「自分で自分を笑えて、アルバムに"ロックンロール"と名付けることが出来る」くらいは可愛いのだが、ボクシング、絵画、文化人、と手を出していく鶴太郎を視てきたこの10年以上、僕はどうにもうんざりさせられることが多かった。

 その「うんざり」は、オルテガ的に衆愚社会を憂うとかじゃない、自己批評精神の欠如や評論界の頽廃と近似してもいて、僕はまた彼が熱いおでんを食べて、リアクションが出来る世界に戻らない限り、どこかで見切りを付けるつもりでいる。どうでもいいよ、は罪だ。彼の「素敵な今」にナレーションは付けなくてもいい。今すぐ、おでん鍋を置くべきだ。

(松浦達)

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ash_2.jpg 2週間に1曲リリースし続けるという「A-Z」シリーズでは、いまのアッシュが持つサウンドのパターンみたいなものを確認することができる。まずはこの企画の口火を切った「Return of white rabbit」、今回の「Vo.2」に収録されている曲のなかでは「Binary」「Instinct」に代表される電子音の大胆な導入。決してエレクトロ方面へシフトしたわけではなく、例えばキーンの「Everybody Changing」に使用されていた程度の丁度良い塩梅。ティムの声との相性のよさも際立ったし、ダンサブルなチューンはフロアでも威力を発揮した。もうひとつはいくつかの曲で採用されている比較的長い尺のエモーショナルなギター・ソロ。彼らは永遠に純粋なギター・バンドなんだ、と安心できるし、年月を経ても大人の渋いバンドにはならず、いつまでもティーン("心は"ティーン、の人も)を熱狂させ続ける身近なヒーローの役割を買って出たような印象も受ける。もちろん「Change your name」のようなアコースティック・バラッドだって涙が出るほど素晴らしい。

 ウィーザーも最近新作を短いスパンで出して元気だし、イギリスでもアメリカでもこういうバンドが存在感を失わない、というのは何というか、健全という気がする。だって、ややこしいことは抜きでさ、こういうキャッチーでノリノリでクールなバンドはみんな好きだよね(そういえばウィーザーだけじゃなくて、フィーダーもシャーラタンズも、長い間頑張ってきたバンドたちがいま再びモチベーションを上げてきている、というのは頼もしい事実だ)。

 今回の「Vol.2」で一応シリーズは完結したわけだが、最後までテンションを落とすことなく本当に「シングル・レベルだけ」をリリースし続けたのは、まさにネット時代のパイオニアと呼ぶに相応しい。そして彼らは普通であれば何年も悩んでやっと一枚のアルバムを作ってツアーをまわって築き上げていくようなバンドの新しいアイデンテティを、こんな短期間で手にしてしまったのだ。次が楽しみで仕方ない。もはやアッシュ・ファンにとって共通のアンセムが「Shining light」ではなくなってしまったかもしれない。今回の「A-Z」シリーズでアッシュの大ファンになった若いファンも大勢いるだろう。アルバムというフォーマットの可能性を信じ一枚で素晴らしい物語を演出するバンドもいる一方で、アッシュはそれに早々と見切りをつけた。かつてビートルズやモータウンのグループが奇跡のようなシングルをリリースし続けた時代に想いを馳せ、誰もが口ずさめてハートがキュッと締め付けられるようなポップ・ソングを書き続けた。素敵じゃないか。

(長畑宏明)

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ra_ra_riot.jpg ボーカルのウェス・マイルスがヴァンパイア・ウィークエンドのギタリスト兼キーボーディストのロスタム・バトマングリと、ディスカバリーというエレクトロ・ユニットで活動していることなどでも注目を集め始めていた彼ら、ラ・ラ・ライオット。しかし、それも一部の熱心なUSインディ・リスナーに限られており、まだまだ日本では無名の存在だったが、ここにきて、彼らへの関心の幅はどんどん広がっている。それは、ひとえにASIAN KUNG-FU GENERATIONが企画するイベント、NANO-MUGEN CIRCUITの前座として全公演で彼らが抜擢され、各地で名演を繰り広げたことと、そのアジカンのフロントマン、後藤正文による新レーベル、only in dreamsによるファースト・アルバムの国内盤がリリースされたことが大きいだろう。間違いなく、このチェリストとバイオリニストを携えたニューヨークのバンドは日本にじわじわと浸透していっている。

 勢いが増していっている中、満を持してリリースされるこのセカンド・アルバム、『ジ・オーチャード』は、彼らが出演したシアトルのライヴレポでも書いたように、前作『ザ・ランバ・ライン』より、よりダイナミックなサウンド。10曲中、9曲をデス・キャブ・フォー・キューティーのクリス・ウォラが、1曲を先のロスタム・バトマングリがミックスを担当している。
 
 前作より豊満になったサウンドではあるが、それはふくよかさといった表現のそれとは少し違う。このアルバムのサウンドを例えるなら、誰もいないキャンプ場、夜の闇が深まったロッジの中で、窓からその闇が濃くなるのを眺めている感じ、だろうか。要するに、前作より豊満になったのは、妖艶さだ。確かに、「Boy」などのアッパーなチューンもあるが、アルバム全体を覆う空気はどんよりとしながらも頭を冴えさせるような暗がりのトーン。特にそれが表れているのが、中盤の「Massachusetts」や「You and I Know」といった場面だろう。これらのムードは確実に、新たに彼らが獲得したものだ。
 
 そして僕は前作を聴いた限りでは、彼らの楽曲はそれぞれ曲単位で、どこかスロー・スターターというか、盛り上がりどころが少し遅れているんじゃないか、と思う部分もあったのだが、このアルバムの楽曲はどれもコンスタントに盛り上がっていて(あるいはコンスタントに盛り下がっていて)、それもクリアしていて良い。しかし、前作に比べると、アルバム全体を通して聴くと平坦で、どこか物足りなさも感じてしまうところもある。彼らの世界観が徐々に構築し始めている事を存分に感じられる作品であるだけ、そこは少し残念だが、それも含めて彼らの道程なのだろう。ここから向かう先に期待しつつ、彼らの躍進をチェックしていたい。

(青野圭祐)

*日本盤は10月27日リリース予定。その前に、彼らの最新インタヴューが10月20日ごろにはこのサイトにアップされる予定です!【編集部追記】

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amusement_parks_on_fire.jpg イギリスで活動している、現在5人組編成のアミューズメント・パークス・オン・ファイアの新作である。ミキサーを変更させること14人、制作に4年を費やし、どこかマイ・ブラッデイ・ヴァレンタインのエピソードを彷彿とさせないでもないが、前作に比べ、アレンジの幅や音の厚みが明らかに向上している。
 
 今、新しい世代のシューゲイザーバンドの、いわゆる出世作からの次の一手が次々に登場している状況にあると思う。スクール・オブ・セヴン・ベルズはよりクリアで鮮明な世界観を表しているし、ディアハンターはより深い陶酔を感じさせる、妖しくも美しい名盤を作り上げた。ただ、アミューズメント・パークス・オン ・ファイアの例を挙げる前にあらかじめ断っておくと、彼らはシューゲイザーという括りを嫌っている。サウンドにおける共通項はマイ・ヴィトリオールや、昨年に2ndアルバムを出したシルヴァーサン・ピックアップスなどのバンドが一聴して頭に思い浮かぶ。シューゲイザーを含む当時の90年代オルタナ・シーンの影響下にある バンドといった方が正しいかもしれない。
 
 そこで彼らである。前作『Out Of The Angels』をリリースしたことで一気に知名度が世界的に高まった。しかしどこか、アレンジの多彩さに欠け、また1曲の尺が長い曲が多くそれを活かせていないような印象も受けたのも事実だった。今作は、曲の構成がコンパクトになり、より全体を通じて聴き通しやすくなった。そして重さと厚みを増したブリザードのようなギタ ーはそのまま、音の説得力を引き上げることに成功している。彼らは間違いなく強度を高め進化したといえる。ただ作風自体に大幅な変化は見られず、期待も予想も裏切ることなく、完成度が高められていると言える。ここまでの順当な成長は予想通りだとしても果たして次作は...? という懸念が拭えないというのも事実。 
 
 ところで、このCD、買うならぜひ日本盤を手に入れることをお薦めしたい。ボーナス・トラックの、先行配信されたEPのタイトルにもなっている11曲目「Young  Fight」という曲が素晴らしい。轟音で空間を埋めるギターは影を潜め、あくまで歌を引き立たせるために後ろに配置されることで、メロディーの良さが浮き彫りになっている。このアルバムの最後を飾る美しい曲に、彼らの新しい可能性を感じた。

(藤田聡)

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  superpitcher.jpg デビュー時から天才と言われていたスーパーピッチャー。もしかしたら、マイケル・メイヤーとのユニット、スーパーメイヤーなら知っているという人もいるかも知れないけど、ソロでも良いアルバムを残している。前作『Here Comes Love』は、当時のフロアを意識した音が多かった。今作『Kilimanjaro』も、今の音楽シーンを意識した音を鳴らしているのだけど、フロアよりも、チルウェイヴに寄っていて、なかなか面白い。そもそも、チルウェイヴがディスコを強く打ち出した曲が多いから、あくまでテクノ/ハウスを基本とするスーパーピッチャーからすれば、取り入れやすい音楽だったのかも。

『Kilimanjaro』は、前作以上に「歌」が多いのも特徴で、ビートや構成はミニマル・テクノのそれだけど、電子音でさえ、アコースティックな響きを持った、なんとも不思議なアルバムになっている。個人的には、アコースティック・アルバムを作っても、かなりの物が出来上がると思うのだが、どうだろうか? テクノ・シーンから支持を受けているのは当然としても、フォールズなどのインディ・ロック勢からの賛辞もあったりするし、そういう意味では、スクリームの新譜と同様に、「場所やジャンルなんて関係ない」という意味での「ポップ」が、『Kilimanjaro』では鳴っているともいえる。どの曲も、尺は長いながらも、聴いていくうちに、耳が曲に惹きつけられていって、それは、スーパーピッチャーの音の抜き差しの巧みさもあるが、今作が「歌」のアルバムであるように、やはり「歌」が面白いからだと思う。

 僕は昔、ニュー・オーダーの曲で空耳アワーに投稿して、手拭いを貰ったことがあるんだけど、『Kilimanjaro』もそうした空耳の宝庫である。「裁判裁判裁判」とか、「ハゲねハゲねハゲね」とか。僕の英語力で聴く限り、歌詞にたいした意味はないと思うのだけど(だって、「キリキリキリマンジャロ」だからね)、そうした意味の無い歌詞や音楽が残ることもあるわけで、必要以上に「歌」を加護しすぎてない感じが僕は好きです。アルバム全体としては、ストイックという感じではなく、ドリーミーで、心地良く景色が歪んでいく感覚と共に、だんだん日常から浮遊的に離脱していく流れとなっている。空耳もそうなんだけど、音そのものに幻覚が見えたりしてきて、1曲目の「Prelude」のチャイムの音から飛ばされ、次のダビーな「Voodoo」で、完全に向こう側の世界へ。はっきり言って、『Kilimanjaro』は、害のないドラッグです。『Kilimanjaro』を聴けば、半分くらいバロウズやギンズバーグになれるのではないでしょうか? 『Kilimanjaro』を聴きながらやるセックスは、絶対気持ち良いと思う。

(近藤真弥)

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royksopp.jpg 「透明な沈黙」(青志社)という本は面白かった。透明標本とヴィトゲンシュタインという、あったようで無かった組み合わせ。「語ることのできないものについて人は沈黙しなければならない(Whereof we cannot speak, thereof we must be silent.)」というヴィトゲンシュタインの言葉通りに、沈黙を保つ透明標本越しに論理記号論がオーバーラップして、論理とは、「詩」の形式を取り得るのだ、と教えてくれた。

 既に前作の『Junior』の時点で約束されていた双子作と言っていいだろう『Senior』は透明性の高い沈黙を帯びている。タイトルからしても分かるとおり、前作と対照的な内容になっている。ダウン・ビートが主体に押し出され、アンビエント、チルアウト的な側面が押し出された音響の編み込み方に凝られた実験的でヒプノティックな作品になった上、前作にあった「Happy Up There」に代表されるユーフォリックな要素は減った、というか、全くと言っていいほど、無い。その分、「Tricky Two」に見受けられるクラフトワーク的な反復ビート、ブライアン・イーノの70年代の作風を想わせる「The Drug」、ボーズ・オブ・カナダのような白昼夢的なサウンドスケイプを描く「Forsaken Cowboy」、ふと不気味に人の声が混じるアンビエント曲「A Long,Long Way」など音楽的レイヤーはかなり緻密な形で生成されている。

 北欧はノルウェーからのエレクトロ・デュオとしてロイクソップが出てきた時、僕はそこまでのシンパシーも魅力も感じなかった。「Remind Me」のエレ・ポップの心地良さ、「Poor Leno」における柔らかく重ねられてゆくビートなど「よく出来ている」が故に、時にケミカル・ブラザーズが持つような「大味」的な部分も少し感じてしまったのもあるし、エレクトロニカといった音ではないし、ファースト・アルバムの『Melody A.M.』の持つ繊細さと眩みならば、エールの『Moon Safari』や『The Virgin Suicides』やスティービ・ライヒの諸作辺りに分が上がった、というのもある。ダンス・ミュージックでもアンビエントでもエレクトロニカでもない中途半端さに耐えられなかったのかもしれない。また、ロイクソップの電子音の連なりに浮かび上がる静謐さにはどうにも「色気」を感じなかった。例えば、ロイクソップの二人も敬愛するクラフトワークとは実はとても「色気のある音楽」であり、それはあの反復するマシン・ビートの無機性の中にふと立ち昇る人間味があるからだ。その意味で、彼等はまだマシン・ビートに徹するよりも、人間味の部分を先にサウンドに練り込んでしまったと言える。とはいえ、十二分に精巧には練られている冷ややかなサウンドの質感はしっかりダンスフロアーやベッドルーム・ミュージックに回収されていったのは喜ばしいことだった。

『Melody A.M.』がロング・セールスを続ける中でのセカンドの『Understanding』はデペッシュ・モードやニューオーダー好きが功を奏したのか、ダークながらより踊ることが出来る要素が増え、ヴォーカルの要素も多く入り込み、ゼロ7やグルーヴ・アルマダの間を行くようなポップな振り切り方をしたという点で、僕自身は評価出来た。ファーストにあった北欧的な繊細さ、というイメージが只管、売れ続けている(求められている)瀬で、このハンドルの切り返しはなかなか曲者ではないか、と思っていたら、昨年の『Junior』では一気にポップに弾けたのには驚いた。まるで、初期とは別のユニットになったかというくらい、躁的なヴァイヴに充ち溢れ、80年代的なシンセ・ポップ、エレ・ポップの要素を強烈に感じさせ、ペット・ショット・ボーイズ、『PLAY』時のモービーのような押しの強さがあった。だが、その為か散漫な内容になってしまい、アルバムとしての一貫性が少し損なわれている印象も否めなかったが、今回、その『Junior』と同時期に作られていたという『Senior』が持つアルバムとしての統一性の素晴らしさには唸らされる。

 ポップ・サイドは『Junior』に、そうではないものは『Senior』という切り分けしていたと言っているが、そんなレベルでは片付けられないこの『Senior』は彼等の徹底した美学を感じる。一点、残念なのは時折、伺える硬いエレ・ビートが打ち出された時に、少し全体の世界観を持ち崩すという所かもしれない。それを差し引いたとしても、沈黙を透明標本越しに語る今回の導線付けは大したものだと思う。よくある比喩の「映画のサウンドトラック的な」、という見方は的外れであり、ANOTHER GREEN WORLD(もう一つの緑の世界)を突き抜けてゆくエクスペリメンタルな部分を評価すべき作品になったと言える。

(松浦達)

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love_language.jpg ローカル・ネイティヴスを観に来たつもりだった。9月のシアトルのダウンタウンのライブハウス。オープニング・アクトの2バンドのうち、後に出て来たのは、やけにドラマーの身長が高いニヒルな笑みを浮かべるイケメンたちと紅一点のキーボーディストがいるバンド。サウンド•チェックもメンバーが行っており、「よくある西海岸のオルタナ・バンドか」などと僕も特別な関心を抱かずに、その光景を眺めていた。
 
 しかし、ライヴが始まると突如、凄まじい轟音を鳴らし、先ほどまでの笑みは消え、一心不乱に各々の楽器をかき鳴らすメンバー。最初の曲こそ、どちらかと言えば、オーソドックスなオルタナティヴのフォーマットに乗っ取った曲だったが、ライヴが進行していくにつれ、インディ・ポップ、シューゲイザー、ドリーム・ポップと様々なジャンルを横断するレパートリーの曲が立て続けにプレイされる。メンバーも、時には楽しげにしているかと思えば、次の瞬間には、真剣な眼差しのまま暴れ回っている。そのステージは、バンド編成も相まって、僕にソニック・ユースやスーパーチャンク、あるいはペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートといったバンドのそれを彷彿させた。「何だ、このバンドは?」ライヴ中盤には既に、僕はローカル・ネイティヴスの事を半分忘れたように、このバンドに夢中になっていた。ライヴが終わると物販に走っている自分さえいた。
 
 長くなったが、このバンドこそ、ザ・ラヴ・ランゲージである。

 最初のサウンド・チェックの時の僕の印象とは違い、彼らはアメリカ東南部、ノースカロライナ州チャペルヒル出身のバンドだ。チャペルヒルと聞けば、すぐに、あるバンドとそのメンバーが経営するレーベルを思い浮かべることが出来るリスナーは、お目が高い。スーパーチャンクと、マージ・レコードだ。そう、このザ・ラヴ・ランゲージもマージ・レコード所属の新人で、スーパーチャンクのフロントマン兼マージのオーナーであるマック・マクガワンが彼らを聴くや否やお気に入りバンドの一つになり、マージ入りしたと言う逸話がある。このアルバムはそんなマージとの関係で初めてリリースされるセカンド・アルバム。
 
 さて、アルバムはと言うと、これが一聴するとライヴの雰囲気とはまるで違って驚きを隠せなかった。もちろん、先述の要素は含んでいるのだが、どれもどこか中途半端な印象がある。しかし、ライヴの時には感じられなかった60'sに通じるような、どこか古くさくもサイケなテイストが、彼らの本来持っているインディ感と相まって、斬新に聴こえて良い。特に「Horophones」などは現代のシューゲイザー・リヴァイヴァルを通過した後のシーンの感覚とフォーキーな感覚が合わさって異色のメロディーを聴かせてくれる。ありそうでなかった組み合わせに、面白みは存分に感じられる。
 
 しかし、あえて言おう。このアルバムは、彼らの魅力を全てはパッケージングし切れていない。もちろん、彼らの魅力の大きな一部分はここにある。しかし、僕がライヴで観聴きしたような、あの新しいUSインディーが生まれる時の音は残念ながら、あまり聴く事ができない。ライヴでは開けた印象だったが、このアルバムはどこか全体的に閉じているような印象を与えるのもその一因かも知れない。もし、彼らの音源を気に入ったなら、是非、ライヴを視聴するなり、実際に足を運ぶ事を強くお薦めしたい。もしくは、僕がライヴで観た時に「日本人の耳にも絶対に届くはずの、届くべきサウンドだ」と思ったように、静かに来日を心の片隅で願って待つのも良いかも知れない。
 
 彼らが、このアルバムの異色の感覚とライヴで魅せてくれたような感覚を合わせられて、提示する事に成功したならば、彼らは新しい感覚を僕たちに届けてくれるバンドの一つになる事は間違いない。そう思いながら次作を期待していたい。

(青野圭祐)

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mice_parade.jpg 輝いていて満ちていて、どうしようもなく憧れてしまう音楽が時として生み出される。ただただ憧れ、聴くたびに何度も反省させられる音楽。そういった作品に出会うことはある種の事故だ。自分の価値観というものがバラバラに解体されて、それまで抱いていた常識が否応なしに塗り替えられる。だから僕は音楽を聴く。そして再び音楽によって自分は解体され、その連続の中に身を置くことが音楽を呼吸することだと思っている。08年のフジロックや今年のタイコクラブに出演し、すでに来年にも再来日公演が決定しているマイス・パレードの『What It Means To Be Left-Handed』がまさにそういった作品だ。NYの結成10年を超えたバンドの中心人物アダム・ピアースのセルフ・プロデュースによる3年ぶりの新作である。

 マイス・パレードのみならずHIMやランシング・ドライデンなどでも活動し、ディラン・グルーでも中心人物として活動していたアダム・ピアース。彼にはひねくれたところがあった。ジョン・ケージの「4分33秒」をあえてカヴァーし、エイフェックス・ツインの曲まで生楽器で演奏したりと、茶目っ気というか無邪気さというか、ただの好奇心なのか、何か面白いことをやってやろうという遊び心があった。が、そこに僕はふてぶてしさのようなものを感じてしまったのも確かだ。本作はブラジル音楽の西洋的解釈かと一瞬思ったが、その一言で片づけることの出来ないサウンドで、ふてぶてしさもサッパリ削ぎ、アダム・ピアースの音に対する純粋な姿勢が宿った色彩豊かなイノセントな音がこぼれそうなほど詰まっている。

 スワヒリ語ヴォーカリストのソミ、メレディス・メルドーや、クラムボンの原田郁子など、多くのゲストを招いたが大げさなサウンドにはなっていない。過去の実験的な作風の匂いはあるものの、かつてのひねくれたところは一切なく、前作のメロディを大切にする路線を押し進め、アコースティックを基調とする路線も変えず、凝ってはいるが決して嫌味に聴こえない。レモンをかじったような甘酸っぱい音が広がっていて攻撃性や哀感を削いだサウンドは、自宅のスタジオでレコーディングされたこともあってか親密性が高い。音が肌に触れるような感覚があって大歓迎だ。

 ブラジル音楽、ジャズ、フォークなど様々なジャンルを取り入れているのは過去の作品同様だが、実験的なサウンドには聴こえない。むしろ実験を重ねた末にやっと掴んだポップ感が清々しい姿となって聴こえてくる。そこには宙を漂うような幻想感が込められていて一瞬で虜になった。ほうきでサッと雲を掃いたような青空のもとで鳴らされているような本作には光によって照らされる感覚も詰まっている。それはちょっとした暗さがあった前作を前向きに捉えた結果がこの作品の清々しさに繋がっていると僕は思う。軽々しく「前向きに」などと書くと笑われてしまいそうだが、前しか見えないと言わんばかりの音が溢れ出すさまは、もう決して音楽的技巧に逃げない姿勢の表れなのだろう。
 
 過去のマイス・パレードには演奏の技巧やサウンド・プロダクションの巧みさで音楽と向き合うことをあえて避けてきた、あるいは逃げてきたところがあったと僕は思っている。しかし本作は技巧による過度な演出、ドラマチックなところがなく、音が素直に鳴っている。苦みを含んだアダム・ピアースの歌声と女性ヴォーカリストのウィスパー・ヴォイスに、コーラスが重なるさまは丁寧でやさしくて意識を抜かれてしまう。立体的なミックスも交流の深いダグ・シャーリンのドラミングも、音の配置も抜群だが、あくまですぐれた技巧も音楽を構成する要素のひとつという姿勢が本作で押し出されていて、素の音がそのまま出せるところまでマイス・パレードは来たのだと僕は感じた。もう逃げない。肩書きも経歴も関係ない。アイデンティティの拠り所はいまの自分そのものだと、そんな意気込みが自然対で表現されている。そしてそれはリスナーへの肯定として包まれるように響き、重い腰を上げて動き出そうと訴えられているかのようだ。
 
 何につけ、ダメだと言って逃げても、逃げた先に直面するのが自分の弱さであることがあると思う。だが今の世の中は、自分のダメさもまたネガティヴ思考に浸るナルシシズムによって回避し、それでよしとする居心地の良さが充満している感がある。それが時代の閉塞感に繋がっているところもあると思う。街ゆく人々は常に頭を垂れている。しかし永遠に逃避しながら安住できるほど人間は強くない。だからマイス・パレードは前を向く。隠すものは何もない。歌詞は暗いが、それは人も時代もくだらない世の中も、受け入れた上で奏でられる音楽があるのだと訴える気持ちが込められているから背中を押され、そこに僕は憧れる。頭を垂れている音はない。僕らも頭を垂れる必要は微塵もない。開放感に溢れるこの音楽はそんなふうには自分を見つめ直させる。社会に対して安易にNOと言う勇気より、YESと言える勇気の方が重要な時代にあって本作はあまりにも眩しい。

(田中喬史)

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kudou_kamome_subete.jpg オウテカ、ボーズ・オブ・カナダ、クラークなどのWARP系のエレクトロニカ勢が00年代初頭から幅を拡げる中、「もどきの音」がMySpaceという「誰でも一アーティストになれる」潮流とリンクとして少しの機材でそれなりにハイエンドな輪郭を描きながら、アーティスト・エゴと結びつき、メタ・ベタの二律が関係ない「自意識系ロック」よりもっと気味が悪い「自意識を電子コーティングしたマスタベーティングなベースメント・テープス」の出回りの動きがあったのはしんどかった。当時、僕は無限のように電子上にUPされる様々な音を一応はチェックしながら、一つ一つの「不健康な閉じ方」と「大文字の自意識」の現出を避けながら、律義にプロファイリングもしていたので、その内の一つでも「拓かれた何か」があるのか、と期待を掛けていたのは事実だったが、ほぼ良質なものは出会えなかった。

 特に、00年代はメインストリームではミスチルやEXILEといった意図的な大声がそのままに日本内で響いていた瀬もあり、より「細部」を目指す電子音が自意識を纏う、というイロニカルな構図が生まれ、その捩れた最終形が中田ヤスタカ系だったとすると、バックラッシュ的に「女はいたのか」という問いが宙空に差延される。ロボ声にまで帰着すると、逆に女性性は前景化するのだ。だから、フィメール・アーティストの持つ「大文字の実存」をエレクトロニカ的な音や、椎名林檎以降のディストーションに紛れた告白やaiko的な堂々とした求愛態度で表明されると、そこに何の歪みを感応することも出来ないのも多かった。それくらい、椎名林檎やaiko的な何かが「発明」したジュディス・バトラー的哲学のジェンダー・ロック/ポップス解釈は日本では大きかったとも噛み砕けるだろうが、椎名林檎に関しては東京事変以降の「創られた椎名林檎像」の「かわし方」とそれを受容「すべき」男性たちの自意識が強烈なナード性のデフレ・スパイラルに陥っていたのも仕方ない訳で、男性諸氏が「生まれ変わっても、また君に会いたい」的なものにやられていたというスノビッシュな構造論で何一つリンクするものは無く、地下的に蜜月に侵食され合う異性関係性自体が00年代を通して非常に峻厳だった時を経て、匿名と自意識の迂回をして勝ったのが相対性理論だけだったというのはレジュメしなくても周知だろう。

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 前回の工藤鴎芽のEP「I Don't Belong Anywhere」はその00年代の一つの痕跡でありMy Space世代の臨床例の一つだったとも言える。抽象的な大文字、丁寧に組まれたループ、電子音の行き交い、ディスコード、オルタナティヴの対象化。それがしかし、まだ未消化だった部分があったのは前回の弊名のレビュー(http://www.cookiescene.jp/2010/07/i-dont-belong-anywhereepselfre.php)を読んで頂けば分かる部分はあると思う。

 前回のEPから三ヶ月の歳月を経ってふと送られてきた新しいセカンドEP『全て失えば君は笑うかな』は前作よりヘビーな手触りが増して、音的にも進歩しており、彼女の音楽語彙の幅の広さを披歴する内容になっている。

 ナイン・インチ・ネイルズ、ミニストリーなどの90年代のインダストリアル・サウンドを参照に箱庭的に纏めた予期不安を煽るような1曲目の「暗号」からレディオヘッド「Sail To The Moon」、「Videotape」的な内省的なバラッド「プラシーボ」、前作からの延長線に近い軽快な電子音が撥ねる中、ランボオのような幻惑的な歌詞が歌われるキュートな「夢から遠い夢の中」、「泡沫の末路」はジャジーなスウィング・チューン、「Kiss And Kill」は過去曲のリメイクということで、手堅くもかなりマッシヴなアレンジになっている。

 僕は、咄嗟にフアナ・モリーナの『Tres Cosas』をこのEPからふと彷彿としたが、ブロードキャスト『Tender Buttons』やファック・ボタンズ『Tarot Sport』のような影も後ろには見えるのと同時に、クリスタル・キャッスルズの野蛮さも垣間見えた。例えば、ここにプロデューサーとして、アレハンドロ・フラノフ辺りがついて白昼夢のような世界観を生成するのも面白いかもしれない、とも思った。

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 個人的に、フィメール・アーティストの曲の過剰さに中ってしまう事があるのは、彼女たちは大声でヒステリックに「I LOVE YOU」を唱えてもこの世界でかろうじて「赦される」生き物だからだ。男性は「実存」に届かないが故の「藻掻き」を歌にするコンフリクションがあるが、女性は「世界」と向き合う事が出来るが故の「ブレイクスルー」を体現するという点で愛に対して怜悧で獰猛な本能的なパトスを表明して、提示出来る。抽象的ではない、具体的な生物的欲動のロールを非・郵便的に「預ける」事が出来る、郵便局に。しかし、そんな女性「性」だらけが過剰にストックされた「郵便」局では、僕には読める手紙が無いのも確かなのだ。昨今のAKB48などアイドルの「メディア・セックス」的音楽を視て、偏頭痛を憶えるくらいなら、吉行淳之介の女性描写に酔う方がまだ気分良く酔えるし、彼女の今回のセカンドEPならば、有島武郎の「或る女」的な蠱惑性は透視出来る。麗しき頽廃と円環構造に回帰するように。

 彼女に関しては先ず音源を聴いて頂ければ幸いだと思う。ファーストEPより直裁的になりつつ、幻惑性を増した歌詞。慈愛と悲しみと虚無が通奏低音になっているムードとその循環構造。淡い電子音。か細いボーカリゼーション。「暗号」はループされる。

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「叶えられない祈りより、叶えられた祈りの上に多くの涙は流される」―

 トルーマン・カポーティが好んで引用していた言葉だが、彼女の歌にも似たような雰囲気があるのを感じる。但し、それが単純な「生きにくさ」とか「精神的な不安定さ」故のじゃなく、真摯な思考から演繹された所にも今後も期待できる点だと思うし、まだまだ化けてゆくだろう。六等星はまだ耀く。

"睫毛に六等星が纏わり付いた
景色は素晴らしく百色眼鏡"
(「プラシーボ」)

(松浦達

*このEPはセルフ・リリース形式の為、彼女のMySpaceHPから音源を入手出来ます。【編集部追記】