reviews

retweet

ラ・ルー.jpg

 大ヒット・シングル「Bulletproof」などを収めた前作『La Roux』から約5年、パートナーを務めていたベン・ラングメイドの脱退という困難に見舞われながらも、エリー・ジャクソンはセカンド・アルバム『Trouble In Paradise』を完成させた。それにしても、本作のタイトルを見て、筆者は思わず身を仰け反らせてしまった。というのも、『Trouble In Paradise』は、1932年に公開されたエルンスト・ルビッチ監督による映画と同名なのだ(日本では『極楽特急』として知られているだろうか?)。この興味深い気づきの類例は、《映画を観たあとに 鏡をみると 女優になれない わたしがいるのよ》という一節が登場する、小島麻由美「恋の極楽特急」を聴いたときくらいか。


 それはさておき、映画のほうの『Trouble In Paradise』は、泥棒カップルが香水会社経営の美人女社長を詐欺にかけるはずが、泥棒の男が女社長に恋をして三角関係になってしまい、詐欺計画が上手く進まないという内容のコメディー。一方のラ・ルー『Trouble In Paradise』は、本作のリリースに伴ういくつかのインタヴューでも本人が述べているように、前作の大成功がもたらしたプレッシャーによる苦しみを経て作られたアルバム。実はこの両者、共通点がまったくないとは言えない。前者は泥棒カップルと美人女社長、そして後者は、スターとしてのエリーとそんなエリーに熱狂する大衆、加えてそうした状況に苦悶するもうひとりのエリーという三角関係を見いだせるからだ。本作の歌詞は、スターとしてのエリーと大衆の関係を客観的に見つめる、もうひとりのエリーの視点が色濃い。特に「Cruel Sexuality」や「Silent Partner」などで、それは顕著に表れている。


 だからといって、重苦しい雰囲気かといえばそうじゃない。むしろ、軽快で耳に心地よいエレクトロ・ディスコなサウンドも手伝って、注意深く聴かなければ歌詞が孕む毒に気づくことはまずないだろう。あくまでも体裁は、ラジオ、iPod、ダンスフロアなどを通して誰もが楽しめるポップ・ソングだ。それほどまでに本作のエリーは、5年の間に味わってきた苦難を感じさせない。


 こうして作品にすることで、そびえ立つ強固な壁を乗りこえたのだろうか? と、いろいろ想像しながら楽しめてしまう本作。私たちが消費するスピードを上回る速さで、次々と生まれる新しい音を熱心に追いかけるのも悪くないが、ひとつの立派な円熟をじっくり味わうのもたまにはいいはずだ。



(近藤真弥)

retweet

YUKI『Fly』.jpg
 クッキーシーンの色に合わないかなあ・・・とか、そんなのどうだっていい。楽しいものは楽しいし、面白いものは面白い。好きなものは好き、食べたいものを食べ、着たい服を着ればいい。もっと言えば、好きな服を着てる私が好きみたいな自己陶酔も大歓迎だ。子供がパパやママに目を輝かせながら"見て見て!"と笑顔でアピールする姿を見て思わず微笑んでしまうように、誰かが楽しそうにしている様を見るのは、実に素晴らしいと筆者は思う。


 ソロ・アルバムとしては、2011年の『megaphonic』以来7枚目となる『FLY』を完成させたYUKI。彼女が本作で披露してくれたのは、再生ボタンを押した瞬間、目の前の景色が一気に華やぐ、誰もが楽しめ踊れるポップ・アルバムだ。他誌の仕事で出会った、YUKIが元JUDY AND MARY(ジュディ・アンド・マリー)のヴォーカルであることを知らなかった2000年生まれの女の子も、これなら一発で気に入るかも? なんて思ったり。それほどまでに本作は、キラキラとしたヴァイヴスを放っている。


 収められた曲群も、ディアンジェロなどのネオ・ソウルを漂わせる「It's like heaven」、スクリレックスやポーター・ロビンソンあたりのEDMの要素がうかがえるダンサブルな「Jodi Wideman」、さらにはKAKATOが参加したヒップホップ・トラック「波乗り500マイル」といった具合に、多彩を極めている。そんな『FLY』を聴き進めていくと、YouTubeでさまざまな時代の音楽を手当たり次第聴いているときと似たような感覚に襲われる。この感覚、なんだがインターネット以降のセンスだなと思いもしたが、そういえば、2012年8月にリリースされたシングル「わたしの願い事」ではtofubeats(トーフビーツ)、そして先月リリースのシングル「誰でもロンリー」ではSeiho(セイホー)など、いわゆるインターネット世代と呼ばれるアーティストをリミキサーに迎えていた。将来的には、彼らとガッツリ組んだアルバムを・・・なんて構想もあったりするのだろうか? このような想像が出来るほどの同時代性も本作は孕んでいる。


 また、歌詞にも遊び心が込められており、「誰でもロンリー」における《奈落から這い上がれ 誰かのアイドル》という一節はドラマ『あまちゃん』のことだそうだし、「Jodi Wideman」ではハッキリ《レリゴー》と歌っている。こうした遊び心と余裕からはYUKIの円熟味を見いだせるが、その円熟味に触れていると、近年のカイリー・ミノーグを連想してしまうのは筆者だけ?


retweet

hotaka.jpg

 現行のインディー・シーンを考える際、ネット上で増え続けるタグを無視することは不可能だ。ネオ・アコースティック、シティー・ポップといった歴史に根ざした用語からダーク・ウェイヴ、チルウェイヴ、ヴェイパーウェイヴ、多くの新用語が氾濫している。「今の若者は3行レコメンドさえ長くて読まないんだ」と口癖のように言う馴染みのレコード屋の店主に、いくらなんでも大げさでしょうと返すと、「80'sポスト・パンク、この一言でいいんだ。そりゃ君みたいにややこしい客もいるけど」と寂しそうに笑う。


 しかし、そういったタグが有効に機能しない場合もある。穂高亜希子の音楽はそのひとつの例だ。4人のミュージシャンがサポートして録音された本作は、投げかけられる言葉の切れ味、その歌を支える弦楽器の響きといい、合間に挿入されるアコーディオンやリコーダー、トランペットが鳴らす素朴な哀愁といい、一聴して素晴らしいと思ったが、文章でどう伝えようか悩んでしまった。アヴァンギャルドなことをやっているかといえば全くそうではない。親交あるSSWゆーきゃんに近いのか、それも少し違う気がする。ゆーきゃんの歌は線が細そうでも、やはり男性だからか、いざとなれば全身で立ち向かっていくようなパワーを感じるのに対して、穂高の歌はジブリ映画の主題歌のような優しい語り口で、しかしナイフで瞬時に喉元を切り裂くようなオーラを宿している。


 また、本作の推薦文を書いているJOJO広重は、穂高のシンプルな音楽、その隙間にこそノイズを聴いているのかもしれない。爆音で圧倒することだけがパンクではない。轟音で塗りつぶされた世界はある意味、広大な静寂と似ている。そして弾き語りにおける演奏の合間、歌い出しにも、悠久の時、無限に思えるような静寂が横たわっている。筆者だけかもしれないが、無限とゼロは同じではないかということを子どもの頃よく考えた。宇宙が果てしなく膨張していくなら、それは同時に何もないのと同じ。デヴィッド・ボウイ「Space Oddity」で暗黒の空間に投げ出され漂っていったトム少佐のような感覚、虚無。ジョン・ケージの「433秒」。


 穂高亜希子の音楽はそういった子ども時代の空想、それに続く青年期の様々な焦燥を思い起こさせる。しかし同時に、トム少佐を救うロープも投げかけるよう。いざというときに胆が据わっているのは女性のほうなのかもしれない。筋力でいえば女性は弱い。しかし、子どもや全ての男たちを守り癒す力を秘めている。医学的な見地からいえば、女性は免疫系の老化が男性より遅く平均寿命が長い。つまり攻撃ではなく防御に優れている。種の保存において最終的な主役は女で、男はしょせん働きアリだ。有史以前から"男性"に比して"女性"は断然強いのだ。



(森豊和)

retweet

Aphex Twin『Syro』.jpg
 サマーソニック09に出演した際のエイフェックス・ツインを、あなたは覚えているだろうか? 808ステイトの「State Ritual」をプレイする遊び心に、毒に満ちた映像とサウンド。それは、観客の意識を恍惚感へ"飛ばす"という、ダンス・ミュージックが持つ役割のひとつを明確に表現したものだった。遅めのBPMから始まり、ビキビキとしたTB-303のサウンドと共にBPMが速くなっていく展開も、肉体という器に縛られた観客の精神を解放する、神々しい光を放っていた。その光に包まれていた当時21歳の筆者は、体の皮膚を一枚一枚丁寧に剥がされ、それから筋肉、骨、臓器と順番に摘出される、さながらマッドな外科医の手術を受けているような錯覚に襲われた。


 リチャード・D・ジェイムスによるエイフェックス・ツインは、実に面白い存在だと思う。前作『Drukqs』が2001年のリリース。このたび発表された最新作『Syro』から、13年近くも前のこと。普通のアーティストならば、"過去の人" に追いやられてもおかしくないインターバルである。しかし、みなさんもご存じのように、エイフェックス・ツインは普通じゃない。エイフェックス・ツインの名は、私たちの頭の中で蠢きつづけ、一瞬たりとも忘れられることはなかった。クリス・カニンガムによる「Come To Daddy」のMVは今でも鮮烈さを保ち、エイフェックス・ツインに多大な影響を受けたアーティストたちは、インタヴューなどでリチャードの名を口にする。いわば、リチャードがエイフェックス・ツインとしてアルバムを発表しない間、ファンや信奉者がエイフェックス・ツインを前進させ、新たな神秘性や偉大さを築きあげてきたのだ。まるで、解散してからも数多くの解説書や研究書が発表されつづけているビートルズのようではないか! たとえ本人が終わらせても、周りが終わらせてくれない。それがエイフェックス・ツインなのだと思う。


 とはいえ、ビートルズは解散したが、リチャード自身は一度もエイフェックス・ツインを葬っていない。現にライヴ活動を続け、アルバムも『Syro』という形でやっと私たちの前に出してくれた。本作は一言で言うと、アフリカ・バンバータといったオールド・スクール・エレクトロ、それからこれまでリチャードが残してきた作品群でも見られるアシッディーなサウンドが基調にある。『Richard D. James Album』で顕著だった性急なグルーヴは影を潜め、聴き手を拒むかのような毒々しさもほとんどない。「CIRCLONT6A [141.98][syrobonkus mix]」におけるヴォイス・サンプルの使い方も、リチャードの作品を聴いてきた者にとってはお馴染みだろう。全体的に、キャッチーかつメロディアスなサウンドスケープなのも興味深い。激しいジャングルのリズムが際立つ「PAPAT4 [155][pineal mix]」「s950tx16wasr10 [163.97][earth portal mix]」などは『Drukqs』から地続きの曲に聞こえるかもしれないが、それ以外は、AFX名義の「Analord」シリーズを想起させる静謐な音色が目立つ。


 おそらく本作は、エイフェックス・ツインの神秘性や数多くの逸話がもたらしたイメージを前提にして聴くと、肩透かしを食らう作品だ。むしろ、それほどエイフェックス・ツインに詳しくない人のほうが強く惹かれるだろう。驚くほどの狂気はないし、特に変わったことをしているわけでもない。それでも、リチャードの手癖とも言えるグルーヴやリズムの組み立て方は、多くの人を魅了するはず。そこには、リチャードの音に対する愛情とフェティシズムが込められているからだ。いわば本作は、エイフェックス・ツイン史上もっとも"音楽そのもの"で勝負した作品だと言える。


 確かに、音楽史を塗りかえる革新もなければ、傑作と呼べる作品でもない。だが、優しい。この優しさが、結婚してふたりの子供に恵まれた現在のリチャードが抱える心情と関係しているかは定かじゃない。ひとつ確実に言えるのは、本作の優しさがこれまでのエイフェックス・ツインには見られなかった新しい魅力であるということ。この変化を受け入れるかによって、本作に対する態度は変わってくるはずだ。さあ、あなたはどう受け止める?


retweet

KOHH『MONOCHROME』.jpg

 1966年に公開されたイギリスの映画『アルフィー』は、テンポの良い展開で観客を引きこむコメディーでありながら、マイケル・ケイン演じるアルフィーの生き様を通して、人生の光と影について観客に問いかける名作だ。オシャレを忘れないアルフィーは、次々と女を口説いては抱く、典型的なプレイボーイ。自らの快楽に忠実なその姿は、旧態依然としたルールに反抗する目的でミニスカートを売り出し世に広めたマリー・クワントや、カーナビー・ストリート発の "カーナービー・ルック" という当時の最先端とされたファッションを生み出した、いわゆるスウィンギング・ロンドンで盛り上がるイギリスのムードを上手く捉えていたと思う。イギリス自体も資本主義が黄金期に突入した恩恵を受ける形で、他の先進国と比べGDP(国内総生産)が相対的に低成長率だったとはいえ、文字通り輝いていた。しかし、一夜を過ごした女性に堕胎させてまで享楽を求めたアルフィーは、最終的にルビィという女性を選択し彼女の元へ走るが、そのルビィはアルフィーよりも若い男を作って、アルフィーを捨ててしまう。こうして孤独になったアルフィーは、映画の最後で観客にこう問う。


 「今、これまで出会った女達や、彼女達がしてくれたことをすべて思い起こすと、おれは幸せ者に見える。得たものは? 数シリング、イキな服を数着、車。健康も取り戻し、自由の身だ。だが心の安らぎがない。何もないのと一緒だ。片方が手に入れば、もう一方が入らない。何が答えだ? いつも自問する。人生とは? 分かるか」


 KOHH(コウ)による『MONOCHROME』は、そんな自問で満ちたアルバムだ。『YELLOW T△PE』『YELLOW T△PE 2』という2枚のミックスCDで注目を集めたKOHHは、現在24歳のラッパー。下ネタが目立つラップやチャラいノリが特徴で、筆者も彼の曲を聴いていると思わず笑ってしまうことがしばしば。だが、『MONOCHROME』で見られるKOHHの姿は、ものすごくシリアスだ。ラストの「Love feat. SEQUICK」を除けば大半がヘヴィーな曲で、代表曲のひとつ「JUNJI TAKADA」からKOHHに入った人は、少なくない驚きを感じるかもしれない。


 また、とても正直であるのも本作の特徴。《ママに吸わされた初めてのマリファナ》という一節で始まり、ビートルズ「Lucy In The Sky With Diamonds」のフレーズも登場する「Drugs」では自身の生い立ちと環境を告白しているし、1曲目の「Fuck Swag」も《結局見た目より中身》という歌い出しで、KOHHにあった派手なイメージが見事に破られている。全体的に虚飾がなく、ゆえに重苦しいと思う者も少なからずいそうだが、筆者はKOHHの真摯な側面に惹かれてしまった。


 一方で、先に書いた自問から生じる迷いもハッキリと表現されている。その象徴といえる曲は「貧乏なんて気にしない」になるだろうか。この曲には、《昔からみんなよく言ってるお金よりも愛》という一節があるが、続く言葉は《わからない》という、驚くほど素直な言葉。その後《とりあえず俺は貧乏なんて気にしない》と歌っているが、《やっぱり将来は高級車にも乗りたい》とも告白している。正直、初めて聴いたときはこのどっちつかずな歌詞にやきもきしたが、何度も聴いているうちに、その迷いをまっすぐ表現しているKOHHがカッコいいと思えてきた。そうなると、「I'm Dreamin'」が泣ける曲に聞こえてしまい、本作には喜怒哀楽に収まらないさまざまな感情が詰まっているのだなと気づいた。しかもそれは、「Drugs」で歌われる環境にいない者たちにも届く、言ってしまえばこの世に生きるすべての人に届く普遍性を見いだせるものだ。日々身を削っている援デリの少女や、屋根がある家に住みたくても住めずにネットカフェを渡り歩く若年層ホームレス、それからそういった問題とは無縁だと思い込んで日常を生きる人たちまで、あらゆる人に訴えかけるエネルギーと言葉が渦巻いている。


 おそらく本作は、日本語ラップの重要作、あるいは傑作と喧伝されると思う。だが、平易な言葉で彩られた本作はそういう枠を飛び越え、たくさんの人に聴かれる可能性を秘めた作品だ。



(近藤真弥)

retweet

CLAP! CLAP!『Tayi Bebba』.jpg

 マーティン・デニーなどが代表的アーティストとされ、1950~60年代に流行ったエキゾチカなる音楽は、非西洋的イメージをサウンドで表現していた。エキゾチカを作っていたのは主に西洋人で、ゆえにエキゾチカは、西洋人から見た非西洋(例えば南国や熱帯地域など)という視点が色濃かった。言うなれば、外国人が日本といえば "ゲイシャ! スシ!! フジヤマ!!!" と口にする感覚と似たようなものである。日本だとエキゾチカはイージーリスニングとして聴かれることがほとんどで、レコード・ショップでも安売りのコーナーに置かれていることが多い。


 だが、エキゾチカの影響力は思いのほか大きく、例えば808ステイトの大名曲「Pacific」は、鳥の鳴き声という形でバンドの中心人物グレアム・マッセイが持つエキゾチカへの敬愛を示していたし、YMOがマーティン・デニーの「Firecracker」をカヴァーしたのも有名な話だろう(そういえば808ステイトは同名の違う曲を作っている)。こうした外側からの視点だったり、もっと言えば "ここではないどこか" に対する憧憬は、創造性を突き動かす強力なモチベーションであり続けてきた。


 作者自ら「空想上の島の音楽」と語る『Tayi Bebba』も、そのようなモチベーションが生み出した作品だと言える。本作を作り上げたクラップ!クラップ!は、イタリア人のトラックメイカー。彼はゲットー・ハウスのグルーヴが際立つベース・ミュージック「UaU」で知られる3人組ユニットL/S/Dのメンバーでもあり、筆者がクラップ!クラップ!を知ったのもこの曲を通じて。2009年から作品をコンスタントにリリースし、《Bedroom Research》というレーベルからアルバムも発表している。


 そうした過程を経て生み出された本作はL/S/Dの音に近い、強烈な低音が耳に飛びこんでくるベース・ミュージックだ。とはいえ、込められた音楽要素は実に多彩で、「The Holy Cave」や「The Rainstick Fable」などではジュークのリズムを刻み、隙間だらけのラフなビートが印象的な「Ashiko」は、シカゴ・ハウスの要素が滲んでいる。かと思えば、「Black Smokes, Bad Signs」ではストレートにダブステップをやってみたりと、聴き手を楽しませる遊び心も忘れていない。これまでなかったような音を追求しつつも、決してシリアスになりすぎず、ちょうどいい肩の抜け具合が光る。それは筆者からすると、ハドソン・モホーク『Butter』を初めて聴いたときの衝撃に近い。


 そして、本作を語るうえで欠かせないのが、作品全体を通じて貫かれるトライバルなビートだろう。とは言っても、先に書いたように本作は「空想上の島の音楽」をイメージして作られた作品。だから、"どこどこの国の◯◯という音楽を取り入れて・・・"、みたいな解釈は通用しない。クラップ!クラップ!の頭の中にだけ存在する島(イメージ)を音にしたのだから。そう考えると本作は、ベース・ミュージックにマーティン・デニーが乗り移ったような作品だと言えなくもない。


 それにしても、ラ・ルーは最新作『Trouble In Paradise』で、プロデュースを務めたイアン・シャーウィンと共に考えた「70年代の人たちが想像した未来の姿と音」というコンセプトを表現し、さらにローンは『Reality Testing』でSF感を演出しながら、このアルバムの影響源となった曲を集めたミックスで『機動警察パトレイバー 2 the Movie』のサントラからトラックをチョイスしたりと、現実世界とは異なる場所に想いを馳せる作品が多くなってきたのは果たして偶然なのだろうか? 特定の発祥地を持たずに拡散していったチルウェイヴは、ドリーミーなサウンドスケープと溺れそうなほどのリヴァーブを用いて、"故郷無き郷愁"という少々いびつな感情を表した。それはベータマックスなどの《Telefuture》周辺、いわゆるシンセウェイヴにも引き継がれているが、こうした文脈を本作にも見いだせるのは非常に興味深いと思う。いわば、PCと回線を介して世界中のあらゆる場所へ行った気になれるネット以降の現在を反映した感性ではないか? ということ。そういった意味で本作は、ベース・ミュージック好きはもちろんのこと、現在のポップ・ミュージックに強い興味を持っているすべての人が一聴すべき作品なのかもしれない。



(近藤真弥)

retweet

Vessel - Punish, Honey.jpg

 ヴェッセルが2012年に発表したアルバム『Order Of Noise』は、その年を代表するテクノ・アルバムでありながら、テクノという枠に収まりきらない多様な音楽性が光っていた。タイトルにもある"ノイズ"・ミュージックや、ヴェッセル自身深い造詣を持つポスト・クラシカルなど、実に豊穣な音楽的背景を感じられるサウンド。とはいっても、このアルバムもやはり、《Modern Love》などが中心となって生まれ、ここ最近の音楽シーンにおいて一際盛り上がりを見せていたポスト・インダストリアル・ブームの文脈で解釈された。もちろんそれはそれでアリだし否定はしないが、アンディー・ストットの『Luxury Problems』がポスト・インダストリアル・ブームという枠を越え幅広い層に受け入れられたことを考えると、少々もったいないなと思ってしまうのも本音。まあ、ヴェッセルが意識的に万人性を込めて『Order Of Noise』を作ったとは思えないが、少なくともテクノやインダストリアルだけにとどまらず、さまざまな文脈から解釈可能なサウンドを鳴らしていたことだけは確かだ。


 そんな『Order Of Noise』から2年、ヴェッセルは新しい作品を完成させた。その名はズバリ『Punish, Honey』。少しばかりの暴力性を感じずにはいられないタイトルだ。収録曲に目をやると、「Red Sex」や「Drowned In Water And Light」など、これまた仄かに危うい雰囲気を漂わせる曲名が多い。特に「Drowned In Water And Light」なんて、日本語では「水と光で溺れ死んだ」と読めるタイトルだ。他にも、男性が持つ女性的な側面を意味する心理学用語の「Anima」という曲があったりと、聴き手の想像力を刺激するタイトルが多い。


 サウンドのほうは、前作以上に実験的でミニマルな音像が際立ち、ポスト・パンクの影響が色濃く表れている。艶かしいドロッとしたダークな世界観もこれまでと比べて強固なものとなり、それはスロッビング・グリッスルを想起してしまうほどだ。さらに「Red Sex」ではクラウトロックの要素も滲ませている。とはいえ、「Kin To Coal」における音の重ね方と起伏の作り方は、徐々にハイなほうへ導かれていくという意味でダンス・ミュージックの方法論そのものだ。このあたりにテクノを感じる者もいるだろう。


 さすがに『Order Of Noise』ほどの衝撃は望めないが、ヴェッセルは問題なく着実に進歩していることを確認できる内容なのは間違いない。"こうなったらどこまでも逝ったるわ!"みたいなヤケクソ感も良し。



(近藤真弥)




retweet

Moiré ‎- Shelter.jpeg

 マンチェスターのレーベル《Modern Love》などが中心となって起きたインダストリアル・ブーム。この動きを象徴するアルバム、アンディー・ストットの『Luxury Problems』はテクノ・ファンだけでなく、普段はそういった音楽を聴かないインディー・ミュージック・ファンからも支持されたりと、ここ数年 "インダストリアル" という言葉が至る所で躍った。とはいえ、今年に入ってからその盛り上がりは落ち着きを見せはじめている。もちろん "終わった" というつもりは毛頭ない(そもそもそういう類いの言説は好きじゃない)。例えば、デムダイク・ステアのマイルス・ワイテカーとアンディー・ストットによるミリー&アンドレアは、良盤『Drop The Vowels』でジャングルとインダストリアルを接続し、英ダンス・ミュージック・シーンの新星ハッパは、マンニ・ディーと結成したハビッツ・オブ・ヘイトにおいて、ダブステップをテン年代向けに再解釈したサウンドにインダストリアルの要素を取り入れている。つまりインダストリアルは今、細分化の道を辿っているというわけだ。


 モアレのデビュー・アルバム『Shelter』は、そんな細分化するインダストリアルの動きに呼応したアルバムだといえる。ロンドン在住のモアレは、去年オランダのテクノ・レーベル《Rush Hour》から発表したシングル「Rolx」をキッカケに、大きな注目を集めるようになったアーティスト。レコード・ショップではテクノ・コーナーに置かれているのをよく見かけるが、4つ打ちのリズムを基本とした彼の音楽にはハウスが基調にある。とはいっても、一発で聴き手を揺らすようなものではなく、何度も聴いているうちにだんだんと意識が飛んでいく、いわば "ハマる" トラックが持ち味。すでに公開されているいくつかのインタヴューでも公言しているように、彼は音楽制作においてドラックの影響を受けている。その言葉通り、彼のトラックはドラッギーかつトリッピー、ここではないどこかへ聴き手を導く妖艶なサウンドスケープを描いている。そのような世界観はヴィジュアル面でも徹底しており、『Attitude』のMVでは、監督のレフン自ら「アシッド」だと認める映画『オンリー・ゴッド』に通じる色使いが目を引く。


 そうした魅力は『Shelter』でも健在、いや、深化している。「Rolx」収録の「Real Special」みたいな遊び心は影を潜めているが、断片的なフレーズとビートの反復によって生じる高い中毒性はより鋭利な響きを持ち、妖しくも陶酔的な美しい音世界を築きあげている。また、音楽的彩度も非常に高く、終始ズレたまま刻まれるリズムの後ろでインダストリアルな金属音が鳴る「Attitude」はポスト・パンクとも解釈できるし、「No Gravity」は、《Underground Quality》からリリースされてもおかしくない恍惚感とロマンティックさを宿したディープ・ハウス・トラックだ。


 しかし何よりも惹かれるのは、やはりその逃避願望である。「No Gravity」や「Stars」といった、意識変容を思わせるタイトルが掲げられたトラックはもちろん、アルバムを支配している意思もズバリ、"ぶっ飛びたい" という純粋すぎる欲求だけだ。当然ドラッグの影響も含め、モアレの姿勢に異を唱える者もいるだろう。だが、危険と隣り合わせの衝動から生まれた表現に多くの人が魅せられるのも、また事実なのだ。



(近藤真弥)

retweet

FKA twigs『LP1』.jpg

 ロンドンを拠点に活動するスローイング・スノーが、今年5月にリリースしたファースト・アルバム『Mosaic』は実に興味深い作品だった。ダブステップ以降のベース・ミュージックが色濃い内容でありながら、女性シンガーのキッドAをフィーチャーした「Hypnotise」はウィッチハウスに通じるゴシックで耽美的な雰囲気を漂わせるなど、ヴェイパーウェイヴ以降のインターネット・ミュージックに通じる文脈もあるからだ。他にも、ガムランのような音色が耳に残る「Linguis」、シカゴのジュークを取り入れた「All The Light」、そしてスパニッシュ・ギターをサンプリングした「Pathfinder」といった具合に、さまざまな音楽が一要素として詰めこまれていた。こうした『Mosaic』の作風は、雑多性と折衷性が "特殊" なものから "規準" になったのだなとあらためて実感させてくれる。いくつもの小片を集めひとつの図像を作りあげる手法、文字通り "モザイク(Mosaic)" を想起させる編集感覚。そしてその感覚は、iPodのシャッフル機能、ツイッターのフォロー/リフォローなど、現在を取り囲む "編集" と相通ずるのだ。


 FKAツイッグスことタリア・バーネットもまた、そんな編集感覚を持つアーティストである。1988年イギリスに生を享けた彼女は、シンガーの才を開花させるまではダンサーとしても活動したりと、いわば裏方の立場で音楽業界に携わってきた。シンガーとしての彼女はまず、名刺がわりにツイッグス名義で「EP1」をリリース。その後FKAツイッグス名義で「EP2」、さらにインク.とのコラボ・シングル「FKA x inc.」を立て続けに発表するなど、着実にキャリアを積み重ねてきた。特に「EP2」は、多くの聴き手を惹きつけるキッカケになった重要作である。カニエ・ウェスト『Yeezus』に参加したアルカをプロデューサーに迎えて作られたこのEPは、ダークでざらついたインダストリアル・サウンドに、彼女のセクシーな歌声が交わることで妖しい魅力を放つ作品に仕上がっている。また、便宜的に "インディーR&B" "オルタナティヴR&B"と呼ばれることも多いタリアだが、そのような単一タグで括るのはナンセンスだと証明したのも、「EP2」の重要な点だ。もちろんR&Bの要素がまったくないわけではない。だが、それはあくまで彼女を形成する一要素にすぎないのだ。何かしらの単一タグで括ろうとすればするほど、タリアが秘めた拡張の可能性から遠ざかってしまう。


 なんて書くと、"じゃあその可能性って何?" となるのが道理。そこでようやく、彼女のファースト・アルバム『LP1』の登場だ。まずサウンドは、アルカ、ポール・エプワース、エミール・ヘイニー、クラムス・カジノ、デヴ・ハインズ(ブラッド・オレンジ)などがプロデュース面で助力しつつ、全10曲中5曲に "Produced" でクレジットされているタリアが全体を見るという形。そのなかでもエミール・ヘイニーは、本作に収められた曲の多くで手腕を発揮しており、貢献度は一番高い。暗くも美しいメロウな世界観、言うなれば "暗美(あんび)な音像" が本作を支配しているが、それはラナ・デル・レイ『Born To Die』を手掛けたエミール・ヘイニーの影響も少なからずある。『Born To Die』もまた、暗美な音像だからだ。エミール・ヘイニーの起用は、結果的に本作の統一感を打ち出すことに繋がっている。


 また、「EP1」や「EP2」と比較して、分かりやすいキャッチーなポップ・ソングが多いのも特徴だ。「EP2」のざらついたインダストリアルな質感は残しつつ、ダブステップ以降のベース・ミュージックを感じさせる「Lights On」、シンセ・ワークとベースの鳴らし方がジェームズ・ブレイクを想起させる「Pendulum」といった具合に、随所で時代への目配せをしながらも、基本的にはタリアの歌が前面に出ている。そういった意味で本作は、これまでの作品よりも "シンガーFKAツイッグス" を堪能できる内容だ。しかし、ベース・ミュージック、インダストリアル、アンビエント、ヒップホップ、ダブ、R&Bなど、いろんな文脈から解釈できる雑多な音楽性も健在。そう考えると本作は、よりポップ・ミュージックの浸透力に接近した進化と、ここまで築き上げてきた従来の魅力の深化を共立させたアルバムだと言える。


 そして、彼女を語るうえで欠かせないのがヴィジュアル面。ミステリアスな空気を醸す「Two Weeks」のMVからも窺えるように、彼女はFKAツイッグスという存在のイメージ作りにも熱心に取り組んでいる。本作のジャケットを飾るジェシー・カンダの "imagery" にしても、彼女をモデルにした "ナニカ" としか言いようがない、何とも不気味なオーラを放っている。一見アーティフィシャルだが、そこに彼女の息づかいを見いだせるというか。こうした自然と人工の境界線を曖昧にしたデザインは、ラファエル・ローゼンダールやジョー・ハミルトンなどの、いわゆるポスト・インターネット世代のクリエイターに通じるセンスだ。


 ここまで本作について考察してみると、彼女はトータル・アート志向の持ち主であることがわかるはずだ。ゆえに多くの人はタリアにビョークとの類似性を見いだし、"ポスト・ビョーク" なんてレッテルを貼っているのだろう。しかし、それは少々限定的に思える。例えば、タリアと同様にイギリス発でトータル・アート的な志向の持ち主といったら、ロキシー・ミュージックがいる。彼らはファースト・アルバム『Roxy Music』に「Re-Make/Re-Model」という曲を残しているが、この曲はカフェの一幕から始まり、3分10秒を過ぎたあたりからポール・トンプソンの激しいドラミング、グレアム・シンプソンによるビートルズ「Day Tripper」のベース・ソロ、ブライアン・イーノのノイジーなシンセサイザー、アンディー・マッケイのサックス、フィル・マンザネラのギター、そして最後はブライアン・フェリーのジャズを匂わせるピアノといったように、各メンバーの見せ場(ソロ・パート)が登場する。それが終わるとふたたびキテレツなバンド・アンサンブルに戻るのだが、このような解体/再構築をタリアは高いクオリティーでおこない、それは音楽的要素だけにとどまらず、ヴィジュアルなどのイメージ作りにまで及んでいる。そう考えると、タリアのやっていることはイギリスのポップ・ミュージック史に接続できる伝統的行為とも解釈でき、その行為をタリアは現在のツールと感性を通してやっているとも言える。それゆえ、こうした解体/再構築を "新しい" と喧伝して彼女の神格化を進めてしまうのは、FKAツイッグスというアーティストが持つ万人性を見落とすことに繋がりかねない。


 つまり本作は、解体/再構築という既存の方法でもって、最先端とされていながらもいまだ多くの人の目に触れていない文化を寄せ集め、それらを従来の文脈や文化と接合する試みだということ。これこそがタリアに秘められた拡張の可能性である。



(近藤真弥)

retweet

Shin Rizumu.jpg
 現役高校生Shin Rizumu(シンリズム)の音楽に出逢ったのは、《Ano(t)raks》からリリースされた「処方箋ep」を聴いたとき。まず驚いたのは、幅広くいろんな音楽を聴いてきたことがすぐさまわかる洗練されたサウンド。それはキリンジ、ブレッド&バターといった日本の優れたポップ・マエストロを想起させ、高校生とは思えない老練さを感じさせるものだった。しかし、歌声は高校生らしい瑞々しさを宿している。この両極端とも言えるギャップに筆者は、文字通りハマってしまった。


 そうしたギャップはファースト・アルバム『Shin Rizumu』でも健在だが、より多くの人にShin Rizumuの名が知られていくキッカケになるという点で本作は、彼の作品群のなかでも特に重要作となりえるものだ。作詞/作曲/編曲はもちろん、演奏もほぼすべてひとりでこなす多才さに加え、気持ち良い音に耳馴染みのよい歌という、いわばポップスとしての普遍性と高い完成度も備える。特にロディ・フレイムといったギター・ポップの影響を窺わせる綺麗で親しみやすいメロディーは、群を抜いて素晴らしい。


 そのような普遍性に込められた音楽要素も、実に多彩なものだ。ラウンジ・ミュージック的な心地よさが際立つ「喫茶aori」はボサノヴァを感じさせ、他にもリトル・エスターなどの50年代ソウル、さらにはジャズの要素も見いだせる。こうした普遍性と高い音楽的彩度の共立は、毎週レコード・ショップで熱心に盤を掘る音楽中毒者のみならず、音楽は忙しい日常生活の片手間に聴くくらいというライト・リスナーまで取り込める可能性を孕んでいる。


 また、さまざまな文脈から解釈できる幅広い音楽性は、ネット以降の感性だと言える。というのも、本作を聴いていて強く感じるのは、何かしらの絶対的な柱を中心にいろんな要素が細かく散りばめられた、いわゆるコラージュ的な音像ではないということ。例えば、ニュースサイトのトップページを見ると、膨大な量の見出しとバナーが否応なしに飛び込んでくるが、本作に込められた音楽的要素の多さに触れたときも、それと似たような感覚に襲われたのだ。言うなれば、多種多様な小片を寄せ集め、それらを繋ぎあわせひとつの絵を作り上げる装飾手法のモザイクに近いサウンド。


 だからこそ本作は、耳が肥えた玄人リスナーも驚かせる新鮮さを持つに至ったのかもしれない。それはつまり、Shin Rizumuが文字通りの "新感覚" を持ったアーティストであるということだ。