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white_denim.jpg テキサス州オースティンの3人組、ホワイト・デニム。彼らのサウンドのベースになっているのは、初期ストロークスやホワイト・ストライプス譲りのガレージ・ロックだ。だが、そこにプログレ、ファンク、フォーク、カントリー、更にはソウルやダブの要素までブチ込む貪欲な雑食性で奇妙なサイケデリアを生み出している。もし、レッド・ツェッペリンがアメリカ中西部でトリップしたならこんなふうになっていたんだろうか?、と思わせるような突然変異種のバンドだ。

 そんな彼らは、08年にデビュー・アルバム『Workout Holiday』、09年にセカンド『Fits』をリリース。これまでは速いペースで、充実した作品を制作してきた。

 そして今年はというと、案の定新作が届けられた。しかも、フリーDLでの配布に踏み切っている。現在、バンドのオフィシャルHPにてこの音源は配布中。トップページに掲載されたコメントによれば、この作品はあくまでもオリジナル・アルバムではなく、次のアルバムが出るまでの間ファンに楽しんでもらうためのものだそう。肝心のアルバムは来年になるようだ。

 とはいえ、この『Last Day Of Summer』は手抜きのラフな作品なのかといえば、決してそうではない。前2作と比較して肩の力が抜けているような印象は確かにある。だが、その結果として、これまでの2作に漂っていたムサ苦しさや男臭さがぐっと軽減。その代わり、フックのあるヴォーカルの掛け合いや、トロピカルなビートなどが前面に出てきてぐっと聴きやすくなっている。楽曲のユニークさにおいても、ミニマルなリフを延々と繰り返すインストがあったり、うねうねと曲がりくねるメロディに曲の世界に引きずり込まれたり、はたまた曲によってはサックスを導入して新たなサウンドを模索している充実ぶりだ。『Last Day Of Summer』とのタイトルどおり、ぎらぎらと照りつける日差しが和らぎ、涼しさが姿を現そうとするひとときを切り取った、くらくらするようなサウンドスケープが広がる作品だ。

 全12曲、ポップにベクトルを向けた作風に、今後の期待が高まるばかり。この作品でまだ練習レベルなのだから、これから取り掛かるアルバムは素晴らしいものになるのだろう。この音源で多くの人がこのバンドの期待を共有して欲しいものだ。

(角田仁志)

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DCPRG.jpg 「人類の歴史は、自然の一部でありながら、自然を対象化するようになった生物の一つの種が、悲惨な試行錯誤をかさねながら、個人の一生においても、社会全体としても、叡智をつくして、つまり最も人工的に、みずからの意志で自然の理法にあらためて帰一する、その模索と努力の過程ではないかと思うことがある」
(『曠野から』中公文庫 31頁 川田順造)

 サブ・プライム、リーマン・ショック以降の金融危機が起こり始めた際、戦争が起こるのではないか、と考えた人もいたが、戦争で経済が良くなるには幾つもの条件付けが必要であり、昨今の戦争ではその便益も曖昧になってくるのはポール・ポーストの「戦争の経済学」に詳しい。「戦争」というのは政治的なツールとして使われ、時に国家間の軋みから個へと降りてゆく惨憺たるものでもあるが、経済的に捉える観点も時にドライに必要でもある。損得勘定で言えば、昔の戦争特需的なイメージは現代では抱かない方が良い。

 1999年のデート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン(DCPRG)結成における菊地成孔氏の筆による最初の企画書ではレナード・リュイン「アイアン・マウンテン報告」、モンティ・パイソン、マイルス・デイヴィスの『On The Corner』というモティーフを散りばめ、戦争に関する音楽としての意味付けをした。その「戦時下でのグルーヴ」は、妙なことに全く「ポストモダン」も何も分からないクラヴァーに受け入れられ、ROVO(彼らとはスプリット・シングルを出したりしていたが)や渋さ知らズ等の枠内に収められた。或る種の層からするとベタで苦々しさもおぼえるエレクトリック・マイルス時期の「そのままの音」とポリリズムを「敢えて」の表象の宛先不明性。また、それぞれのパートの微妙なタイムのズレをして、その「行間」でこそ観客を踊らせた様は、00年代は「敢えて‐」の時代に入ってゆくのだな、とライヴに足を運ぶ度に、感じた。

 大友良英氏が居た『REPORT FROM IRON MOUNTAIN』周辺の第一期は兎に角、菊地成孔氏のイメージするバブルな時期のディスコ的な「ミラーボール」を仮象化する事に傾心し過ぎていたところは否めない。その後もライヴでの定番となる「Hey Joe」や「Mirror Balls」はスタジオ録音では非常に無機的で表層的だったが、CDJを絡めての独自のファンクネス、ポリリズムによるバウンシーな「揺らぎ」は十二分にあった。ライヴで再構築される様は現場に居たら感得出来たが、その集大成として2003年のライヴ盤の『MUSICAL FROM CHAOS』にて十二分に確認は出来る。場所を変えて5テイク収められた「Catch22」、マイルス・デイヴィスの『Bitches Brew』の「Spanish Key」の丁寧なカバー。散逸するリズムと放り投げられる或る種のベタな渾沌。兎に角、菊地氏はこのDCPRGにおいては「渾沌」というモティーフを用いる。それが、彼の他の幅広い活動の中でも異例なくらいに、「憂鬱と官能」といったターム以上の「記号性」でもって、半ば「戦時下の為のダンス・ミュージック」という強引さで結びつけられる。大型フェスティバルから小さなライヴハウスまでを跨ぐ強引さで、兎に角、疾走(失踪)を試行した。

 以前、大阪でのトーク・ショーに足を運んだ折、「結婚以後のスラヴォイ・ジジェクに興味は無くなったのは何故ですか?」と質問を彼にしたことがあったが、その質問は僕自身が間違っていた事を今でも考え直す。ジジェクにおける「結婚」というタームの捉え方というよりも、一時期、「一番、インタビューしてみたい、話してみたい人はジジェク」と言っていた彼自身の問題として、アナモルフィック・リーディング的に捉える「べき」だと思ったのもあり、今回、DCPRGが3年振りに活動を再開するにあたって、「主体」自体は、実在の正の場を正の実体と誤って認識してしまうというものに対して「負」を仮置きして、その大きさによって捕捉される作用性自体を考えないといけない、と思ったのもある。

 00年代を猛スピードで駆け抜けた、菊地成孔という人の在り方は多かれ少なかれ皆が周知だろうし各々の感性の神話ベースに吸収され、本人自体が多くを語っているので詳細は割愛するが、「遅れてきたポストモダニスト」としてのその饒舌な語り口のトリックスター性は、スタティック(静的)なユースのイコンでもあったし、停滞を余儀なくされていた論壇界でも軽やかに風穴を空け、遂には大学といったアカデミックな場所にも求められる事になり、ハイブロウもサブ・カルチャーもモードも行き来しながら、兎に角、「今、何故にゴダールやマイルス・デイヴィスを語る必然性があるのか?」という疑念を持つ層さえ捩じ伏せ、「敢えて‐」のイズムを貫き通した。だからこそ、想像を絶するほどの批判や非難も受けただろうし、同族嫌悪のインテリゲンツァは無視することを決め込んだり、彼自身が予期設定した「戦場」ではあらゆる亡霊(revenant)が行き来していた。その意味で、第二期の始めとしての『Structure et force(構造と力)』はおそらく、そのマッシヴで好戦的な部分が最も現れた作品であり、実際のライヴで「structure I la structure de la magie moderne /構造I(現代呪術の構造)」などはイントロ部分で歓声があがり、一気にフロアーが沸いた。その沸き方の野暮ったさとリズムと踊りが噛み合わないギクシャクとした感じはDCPRG、もしくは菊地成孔氏自体を巡る磁場自体を巡る何かを孕んでもいた。ヘーゲル哲学がある種の人たちを「熱狂」させ、そうすることで、「本当」に大事な懐疑精神から目を背けさせてしまうかのような。

 07年の今のところ、スタジオ録音作品として最後になる、カフカの未完の作品である「アメリカ」をモティーフにした『Franz Kafka's Amerika』では遂に「踊ること」自体が困難な音像を生み出してしまい、「宛名のない手紙」が投函される形で、「役割を終えた」と活動の休止に至ったのは仕方なかった事なのかもしれない。オバマ前のマッドなアメリカを「夢想」する限界性はどう考えても、滞留を余儀なくされたからだ。

 そして、3年。ポスト・オバマの閉塞、ソブリン・リスク、チャイナVSアメリカ、オイル・マネー、日本という先進国の底抜け、と世界的な複合不況を引き寄せる要素とそこから派生する予期不安を刈り取る為に今、DCPRGという装置を推し進めようとするのか、それとも、完全なる戦時下においてのダンスを今こそ定義したいのか、明確な理由はまだはっきりとはしない。だが、「敢えて‐」で00年代をサヴァイヴした菊地成孔氏がもうそれでは無理だという「危機の数は13」とばかりに鎧を脱ぎ捨てての、再開なのか、今後の動向が気になると共に、ライヴ、ニューアルバムへの視座などどういう展開になるのか、1929年のニュールンベルグ党大会における、巨大出力PAスピーカーを埋め合わせる意図を孕むのか、米国国防総省(ペンタゴン)と英国王室庭園(ロイヤル・ガーデン)を目指す為のラングはあるのか、注視したい。

(松浦達)

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of_montreal.jpg ジョージア州アセンズのレーベル名(インディー・バンドの小さな音楽コミュニティ、と表現したほうがピンとくるかも)で90年代を代表するムーブメントの代名詞のひとつともなり、日本でも愛されたエレファント6を離れ、かつてのローファイ・ポップからエレクトロ・グラム・ファンクとでも形容すべき音楽性にモデル・チェンジを遂げ、広く世界に名を轟かす契機となった2007年の大傑作『Hissing Fauna, Are You the Destroyer?』以降、ケヴィン・バーンズは己の自我をどこまでも膨らませながら、ビートルズやキンクスの流れを汲んだキャッチーなソング・ライティングとトッド・ラングレン的なサウンド・コラージュを得意とした自身の先天的な資質を、ブラック・ミュージックへの憧憬という名の靴スミで黒く上塗りしているみたいな音楽を作りだしてきた。

 ファンク・ミュージック的なマナーに則ったドラム・マシーンがアルバム全編を支配し、不自然で強引な転調がめまぐるしく続き、曲間は塞がれ息をつぐ余裕さえ奪われた、大仰でパラノイアックなノンストップ・ロック・オペラとなった前作『Skeletal Lamping』はひとつの極北というか、ふだんは部屋のベッドにうずくまって返事もしない男の子が大風呂敷いっぱいに広げた妄想をトイレもない部屋で聞かされているような、どうにも胃のもたれる作りだった(そこが良かったのだが)。おまけにステージでは忍者や虎を従え本物の白馬を乗り回すなどド派手すぎるショウを展開し、破天荒すぎるその雄姿に共感しワクワクさせられつつ、さすがにこの路線もやり尽くしてそろそろ一区切りだろう...と思いきや、本作『False Priest』でも彼はその妄想と黒人音楽への愛を拡張させていく道を選んだようだ。作を重ねるごとに(ケヴィンの弟・デヴィッドが担当している狂ったアートワークとともに)過激に変貌していくオブ・モントリオール。だが、本作にはポップ・レコードとして素直に歓迎できる取っつきやすさが復活している。

 本作は『Hissing~』で生まれたケヴィン・バーンズのペルソナ、Georgie Fruit(デヴィッド・ボウイにおけるジギー・スターダストみたいなもの)を巡る物語の第三章である。「熱烈な恋→らぶらぶ→別れるぷんぷん→いじいじ→開き直る→私清くなんかないもん→強制終了」(的確でわかりやすすぎるので、Twitterでの@emoyamaさんのツイートをそのまま引用させてもらった)という実に現代的な恋愛ドラマのラインに沿いながら、歌詞におけるセクシャルな表現やタブーを恐れぬ居直りっぷりは変わらず。

 この作品が"開かれた"レコードとなっている最大の要因はジャネル・モネイ(Janelle Monae)及び、彼女の音楽仲間であるワンダランド・アート・ソサエティ(Wonderland Art Society、以下WAS)との出会いだ。2719年からやってきた(という設定の)彼女がフリッツ・ラングの『メトロポリス』を下敷きに創ったフューチャー・ソウル・アルバム『The ArchAndroid』は想像力と柔軟性に富んだ今年を代表する作品であるが、オブ・モントリオールもそのアルバムのなかで「Make The Bus」という曲を提供している。露骨にオブモン節溢れる楽曲はR&Bアルバムのなかではさすがにちょっと浮いていて初めて聞いたとき笑ったが、思えばリーゼント・スタイルのアンドロイドと白馬の王子様の邂逅はある意味で必然であり、妄想VS妄想の濃すぎる交友はケヴィンに多大なインスピレーションを与えたようだ(実際、あらゆるインタヴューで彼はモネイやWAS界隈について言及し、さらにツアーも一緒に周っている)。

 まさしくふたりの出会いを歌っているかのような、ボーイ・ミーツ・ガールのウキウキする悦びに満ちたこれぞオブモン! なファルセット・パラダイス「Our Riotous Defects」と、WASの面々に影響を受けて読んだというフィリップ・K・ディックらSF小説の匂いが色濃く反映された、インベーダーの襲来を喚起させるスリリングなシンセが美しいスペース・オペラ調の「Enemy Gene」の二曲でモネイとのセクシーな共演を披露している。また、モネイからの紹介で知り合ったという、ビヨンセの妹・ソランジュとも「Sex Karma」(スゲェ曲名...)で掛け合っている。素晴らしい歌唱力を誇る女性陣と、別にそうでもないというかむしろ音痴なケヴィンの危うい絡みは実にチャーミング。

 さらにアルバムを表情豊かにさせているのはジョン・ブライオン(最近はカニエ・ウエストなども手掛けたが、個人的には『マグノリア』などエイミー・マンの初期作での仕事が印象深い)のプロデュースだろう。バンド史上初の外部プロデューサーとなったブライオンはケヴィン制作のデモに手を加えまくり、前作にあった打ちこみの多用によるリズムのもたつき、ファンクなのに腰が振れないもどかしさを生ドラムや生楽器を前面に押し出し、ベース・ラインを今まで以上に太く強調することで解消させ、多彩なシンセ・ワークでアルバムに見事な音の凹凸をもたらした。これまでは上塗りでしかなかったブラック・ミュージックからの影響を、バンドの個性を殺すことなく完全に血肉化させることに成功している。イントロのサーフ・ロックを思わせるテケテケ・ギターからピート・タウンゼント風ギター・ストロークとヘヴィなリズムに雪崩れ込む、シングル曲「Coquet Coquette」(ぶっ飛んだジャケどおりの"ニワトリ戦争"を思わせる楽曲)も雷鳴のような鋭いシンセの音色で迫力を増しているし、歌のメロディだけ取り出せば1.5流のローファイ・ポップに落ち着きそうな「Godly Intersex」も執拗なまでにエコーやエフェクトをかけまくることで、終わりの見えないエロス地獄の粘り気と倦怠をうまく表現している。「Like A Tourist」の曲終盤で鳴るパイプオルガンみたいな響きは神々しい暴力性をもっているし、ケヴィンの一人多重コーラスもかつてないほど色気がある。

 アルバムはモータウン~マーヴィン・ゲイ調の「I Feel Ya Strutter」でミュージカルのオープニングのように華々しく幕を開け、前述の楽曲のほかにも、後半のうねるブリープ・シンセも気持ちいい洗練されまくったスムース・ソウル「Hydra Fancies」、カーズみたいなギター・ロックからいまやすっかりお手のものなエレクトロ・ファンクに急シフトする「Famine Affair」など、聴きどころは実に多い。終盤はやや曲調も重くなり、レディオヘッドの「Fitter,Happier」(『OK Computer』収録の)で朗読しているソフトにヴォコーダーを通させたような語り口で「兄弟姉妹より神が大事だなんて、君は間違っている~」とかブツブツ呟く≪強制終了≫の仕方(「You Do Mutilate?」)はセカイ系みたいで正直ちょっとイマイチだが、それも誠実さと受け止められるなら(もともとケヴィンの世界観って相当ウジウジしてるしね)本作が最高傑作だと言えなくもないほどの充実度である。

 最高傑作といっても、前作まで僅かながらあったエレファント6時代の残り火のようなものはいよいよ消え失せてしまった。人懐っこくビートリーなギター・ポップやぶっ飛んだ転調もここにはほとんどない。ひっくり返したおもちゃ箱はキレイさっぱり片付けられてしまったようだ。他のエレファント6界隈のバンドも、アップルズ・イン・ステレオはELOみたいになってアメリカを代表するポップ・バンドへと飛躍したり、逆にエルフ・パワーの新譜は炭酸が抜けたぬるいコーラというと表現は悪いが、相変わらずの捻りは見せるもののかつてあった煌めきは正直色あせていた。やめる人は消えていくし、残った人は次々変わっていく。

 そんななかでオブ・モントリオールが逞しいのは、これだけ音楽性が変わりバンドの人気やステージが巨大化しながらもDIYの精神を失わないところ。ツアーにおける多様なコスチュームのデザインもおカネの管理も移動の車もぜんぶ自前で、楽器スタッフもひとりしかおかず、コスト削減とチケット代の値下げに努めているそうだ。先日、彼らの地元アセンズで行われたライブのチケット代はなんと17ドル! この原稿を書いている時点で1,428円である。あんなマジカルなライブがそんな値段だなんて夢みたいな話だ。しかも、今行われているツアーではマイケル・ジャクソン・メドレーのオマケつき! CD不況と嘆かれるなか、前作の超変形ジャケットほどではないけどパッケージ・デザインは凝っていて厚みのあるブックレットもついてるし(「モノ」として欲しくなる)、バンドTシャツを買えばアルバム音源のmp3もついてくるし、一方でケヴィンはステージ上で脱ぎまぐるし、ヘンテコな踊りをかますし、どう考えても誰より信用できるじゃないか。やっぱり極端な人が好き! 一生ついていきたい。

(小熊俊哉)

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maximum_balloon.jpg デイヴ・シーテック。もしこの男がいなければ、00年代のポップ・ミュージック界はかなり違ったものになっていたかもしれない。ブルックリンの大御所バンド、TV・オン・ザ・レディオのギタリストとして、また、ヤー・ヤー・ヤーズやライアーズ、フォールズなどのプロデューサーとして、エポックメイキングな作品を世に送り出してきた。今のブルックリンの活況もデイヴあってのものといえるだろう。

 そんな彼が、初となるソロ・アルバムを作り上げた。名義はマキシマム・バルーン。TVOTRのバンドメイト、トゥンデ・アデビンペとキップ・マローン、カレン・Oにホーリー・ミランダ、それに注目の新人ラッパー、セオフィラス・ロンンドン、更にはデヴィッド・バーンまでがゲスト・ヴォーカリストとして参加している。そのメンツの豪華さはまるで、今年のゴリラズやマーク・ロンソンのアルバムのよう。しかも、共通しているのは、あくまで「裏方」であること。決して、自分自身がフロントにしゃしゃり出てくることはない。

 しかも、ヴォーカリストひとりひとりにベストなトラックを提供していることに驚かされる。そのハマり具合には恐れ入るばかりだ。例えば、艶やかに黒光りするトゥンデのヴォーカルにはゴシック・ディスコを、カレン・Oには『It's Blitz!』に通じる気高さを感じるシンセ・ポップを、デヴィッド・バーンには後期トーキング・ヘッズを彷彿させるミニマルなファンクを、といった具合だ。はっきりいって、各ヴォーカリストが実力を十二分に発揮できないはずがない。すべての曲で、デイヴのトラックとヴォーカルががっぷり四つに組んでいる。そのため、結果的に個性豊かな楽曲が揃うこととなった。

 全体的には、ナイル・ロジャース譲りのパーカッシヴなギターが印象的な、ソウルとアート・ロックを融合させたような作風が展開されている。TVOTRの最新作『Dear Science』での一大抒情詩的作風とは打って変わり、ダンサブルなビートを備えたフロア対応型のアルバムだ。だが、ベクトルこそ違えど、実験性とクロさ、ポップネスの3つを全く欠くことのないハイ・クオリティを誇っている。まだまだ、デイヴ・シーテックは時代のトップ・ランナーだ。彼は、そのことをこの作品で証明して見せたのだから。

(角田仁志)

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mogwai.jpg もう既に役割を終えたバンドだと思っていた。しかし、やはり素晴らしい。役割うんぬんで語るバンドではない。CDとDVDの二枚組みの本作は現時点の最高傑作だ。95年にグラスゴーで結成され、サッカー選手ジダンのドキュメンタリー映画のサントラを手がけ、映画『マイアミ・バイス』に楽曲を提供したことでも知られるモグワイ。今年のメタモルフォーゼにも出演した。
 
 思えばスリントを敬愛するこのバンドは常にリスナーの期待と戦い続けてきた。神秘的なメロディから轟音へ。それは時としてマンネリと評されつつも、母語として彼らは守り続けた。エレクトロニクス・サウンドを取り入れようが、歌や朗読を取り入れようが、轟音だけは絶対に譲れない意地がモグワイにはあった。リスナーになんと言われようとだ。心臓を目の前に差し出す覚悟はあるのか? モグワイにはある。膨張した心臓が脈打つような轟音を、彼らは覚悟として鳴らす。いつ破滅するのか分からない。そんなぎりぎりの覚悟が宿った轟音は血が滴り落ちるほど生々しい生命力に満ちている。音の中でいくつもの音が動き、ざわめき、奇声をあげ、いまにも破裂しそうなまでに「生きて」いる。その音の前ではリスナーのマンネリという言葉はかき消される。心臓を差し出す覚悟はあるのか? 僕らにはない。
 
 90年代後半から00年代前半までのモグワイの勢いは凄まじかった。多くのフォロワーを生み、来日するたびにライヴは伝説とまで評された。特に初来日公演と03年の渋谷AXでのライヴの記憶は今でも頭にこびりついている。巨大な化け物と向かい合わされたような迫力。音に飲み込まれる感覚。音圧が皮膚に当たり、すれ傷になりそうなほど圧倒的な音のかたまりが全身にのめり込む。時間が止まり、やがて訪れる放心状態。音に打ちのめされるという言葉が似合うライヴをやるのはモグワイだけだ。作品も発表されるたびに話題となり、マーキュリー・レヴのデイヴ・フリッドマンをプロデューサーに迎えた2nd『Come On Die Young』はストーリー性に富んでいて、モグワイのメロディ・メイカーとしての素質も浮き上がらせ、なおかつ轟音の破壊力も美として昇華させた傑作だった。続くテクノ的アプローチを見せた『Rock Action』も、一音が持つ美を徹底的に突き詰めた『Happy Songs For Happy People』も素晴らしく、その後二作のアルバムも同様、モグワイだからこそ鳴らせる生命力が宿っていた。

 彼らは決して音楽シーンに便乗することも、音楽性を曲げることもしなかった。それは何かへのアンチではなく、自分達のスタンスを信じているが故の強さであり、モグワイはいつだって裸なのだ。裸の自分をためらいなくリスナーにぶつける。まるで死を恐れず暗闇に飛び込むように。死をも覚悟している轟音から生命力が溢れ出す。そして音の中から再び聞える。心臓を差し出す覚悟はあるのか?
 
 本作は09年の4月27日から29日にわたって行なわれたブルックリンでのライヴを記録したものだ。モグワイは何も変わっていない。いや、いままでの音楽性をさらに深く追求し、これ以上のものはない、というところまできている。彼らと似た音楽性を押し出すバンドは多いが、たとえ同じことをやっていようが、モグワイには遠く及ばない。まさに彼らの意地が、覚悟が、そして裸の姿が詰まっている。新旧の楽曲がまんべんなく並ぶ本作だが、ひとつのストーリーとして聴こえるから不思議だ。それは映画のサントラを手がけたこともあるのだろう。「Mogwai Fear Satan」の次が「Cody」だなんて、素晴らしいじゃないか。それだけで泣けてくるのに、哀感をも大切にするメロディが聴き手を惹き込み、そして轟音が泣き叫ぶように鳴っている。ライヴ盤にもかかわらずエレクトロニクス音を導入した楽曲も生々しさを失わぬまま効くべきところで効いている。興奮と哀感が交互に訪れ、笑顔と涙でぐしゃぐしゃにされてしまいそうだ。そしてより迫力が増した轟音が体の奥まで入り込む。モグワイを聴く事とは音との一体化なのだ。その中毒性は凄まじい。メロディ・メイカーとしての資質も本作で十二分に発揮されていて、それは轟音の中にまで入り込み、多種多様の音が轟音の中で動いている。メロディすら、じっくり聴かせる作品になっているのは「モグワイ=轟音」というステレオタイプなイメージの払拭を狙ってのことだと僕は思う。ついついアーティストに固定したイメージを持ってしまうことがあるが、本作を聴くだけでもモグワイは轟音のみのバンドではないと分かる。メロディがしっかりしているからこそ、過去のバンドとしてモグワイは終わらないのだ。
 
 そしてヴィンセント・ムーンとナサナエル・ル・スクアーネックが監督を務めたDVDが素晴らしい。ライヴ映像中心だが、映像作品と呼べるもので、モノクロで映し出されるその映像はライトなホラー感があり、メンバーのギターを弾く指使いや、眼球の動きや汗まで見えそうなアップを多用することで臨場感を重視し、モグワイの世界観ではなく、メンバーそのものに焦点を当てている。それゆえ、生々しく、アングルの編集も絶妙で、最前列でライヴを観ているような疑似体験が味わえる。モグワイのライヴといえば照明も見物のひとつではあるが、あえてモノクロにし、遠くからの映像をほとんど削いだことで彼らの野性的な魅力が毒々しいまでに映し出されている。観ている間は心拍数が上がりっぱなしだった。すなわち、興奮する。もしモグワイを聴いた事がないリスナーがいたら、まず本作を手に取ることを薦める。そしてDVDを観てほしい。仮にDVDだけだったとしても買う価値は十分ある。呼吸困難になりそうなほど、このDVDは化け物じみている。CDを含め本作は、モグワイが表現者として常に前進していることを示している。脈をうつ音楽は確かにあるのだ。

(田中喬史)

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skream.jpg このアルバムは、スクリームを多くのリスナーに触れさせることになるかも知れない。ダークな2ステップだった頃も含めると、ダブステップもそこそこ長い歴史があるけど、『Outside The Box』はそんなダブステップというジャンルの現時点での集大成がある。6月にリリースされたラスコのアルバムでも聴けるけど、最近のダブステップは、ドラムンベースやヒップホップ回帰していたり、ダブステップにとってのルーツな音が目立ってきている。ダブステップというのは、ほんとに様々な音楽性を取り込んできたし、今もスクウィーなどサブジャンルという形で、広がりを見せている。『Outside The Box』は、そんなダブステップの可能性と魅力が存分に詰まっている。

 そして、このアルバムのもうひとつの魅力は、スクリーム自身の幅広い音楽的嗜好とポップセンスだと思う。特に、「Where You Should Be」「How Real」「Finally」の3曲は、優れた「歌」として機能している。ダブステップの歌モノって、ラップになりがちだけど(基本ダブステップはヒップホップですからね)、スクリームの場合は、アンダーグラウンドよりもラジオ・ヒット曲に近いものになっている。意外とスクリームって、マニックスのようなポップジャンキーなのかも? さらにはアルバムの構成も優れていて、序盤はゆっくりと始まって、4曲目の「Where You Should Be」から盛り上がり始めて、「I Love The Way」でピークを迎える。それ以降は、徐々に熱を下げていって、最終的には「冷めた高熱」というなんとも不思議な感覚に陥る。特にアルバム終盤は、ラ・ルーが参加している「Finally」がキーになっている。彼女の祈りにも似た、囁くようなヴォーカルは、『Outside The Box』に決定的な「ナニカ」を与えている。僕自身ヴォーカリストとしてのラ・ルーの魅力に気づいたのも、「Finally」だ。アルバムとしての流れでは、「Where You Should Be」から「I Love The Way」までの展開は、圧巻の一言。この辺りは、かなりフロアチックな展開になっていて、盛り上がる。

 前作が、フロアの空気を意識した、かなり力任せなジャイアン的なアルバムだとしたら、今作は、スクリームのプロデューサーとしての審美眼とアーティストセンスが同居した余裕のあるアルバム。フロアの外に出たダブステップの多くが、安易なポップの流用でエッジを失っていくなか、スクリームの『Outside The Box』は、ポップ・ミュージックが本来持っているエッジを取り込みながら、スクリーム自身のエッジをさらに鋭くしている。ダブステップで、ここまで心を揺さぶってくるアルバムは、初めてではないだろうか? もしかしたら、ダブステップはあなたの隣に居るのかも知れない。

(近藤真弥)

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seaworthy + matt_rosner.jpg 12kからアコースティックギターとドローン・サウンドによるエクスペリメンタルな作品をリリースしている(レコーディング場所は海軍の弾薬庫)シーワーシーと、Room40あたりから電子ノイズによるエクスペリメンタルな作品をリリースしているマット・ロスナーによる、オーストラリア出身のアーティストらによる共作。彼らの共作はスプリットも含めると二枚目になる。
 
 本盤の生まれた経緯も興味深いもので、4月に彼らはニュー・サウス・ウェールズのメルー湖とターメイル湖を訪れ、そこで生態系研究を目的としたフィールドレコーディングを行った。その副産物(あくまでも生態系研究ありき)として、研究の合間にシーワーシーが即興でアコースティックギターやウクレレを爪弾き、マットがスタジオでそれらにドローン・サウンドを織り込み、ミックスを手掛けたという、いわば研究結果のようなアルバム。曲のタイトルも、メルー湖の岩棚、ターメイル湖付近の砂丘など、"すっぴん"のままである。ターメイル湖での録音の方が、やや寂寥感に満ちてはいるが、お互いの単独作品に比べると風通しが良く、内省的でない。
 
 音楽が片時として彼らの傍らから離れていないというか、パーソナル性の体現である。肩肘はって音楽に対してつんのめるのではなく、もっと平穏で日常的な要素の一つとして音楽と対峙している姿勢はかっこいいと思うし、憧れる。神々しくも現実離れもしていないアンビエント、ドローン、エクスペリメンタルがあってもいいはずだし、必ずしも美しくある必要なんかない。

(楓屋)

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the_hundred_in_the_hands.jpg 漬物が欲しくなる。味噌汁も欲しくなるからしようがない。いわば庶民の味が欲しくなる。いやいや、お前は何を言っているんだという感じだが、08年にTHITHという名義で結成し、現在はザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズに名義を変えた彼らの、Warpからすでに今年発表されたEPに続く待望のデビュー・アルバムはスマートでエレガント過ぎる。これは無論、褒め言葉だ。しかし、である。ブルックリンを拠点に活動するエレノアとジェイソンからなるこの男女デュオを例えれば、欧米の高級な食材を使ったフランス料理。そんな感じにエレガントなのだけど難を言えば庶民性が足りないのである。

 エレクトロ・ポップスと一口に言ってしまえば話は早いが、音響ミックスもダブの使い方も電子音の扱いもこなれている。楽曲によって何人ものプロデューサーを迎え、作りに作りこんだ楽曲のベクトルはすべてスマート。どの楽曲も綺麗に歌いこなす美人女性ヴォーカリスト、エレノアの歌声も手伝い、音楽理論に長けた研究生がすらすらと書いた論文みたいに聴いていて違和感が全くない。それがこの音楽の良さなのだが、同じくブルックリンを拠点にするダーウィン・ディーズの新譜が過剰に作り込まないことを目的とし、音が荒さや持つ土くささ、埃っぽさによってリスナーをずるずると音楽に惹き込んでいくことに比べると、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズは神聖で神秘的な音楽性が貫かれている。人間臭さはあまり感じない。しかしそれこそが狙いなのだろう。メンバーのジェイソンいわく「他のバンドとの違いはプロダクション・テクニック」とのことだ。つまり、サウンド・プロダクションの技巧を聴く音楽という意味を抜き出せばステレオラブに通じるものがある。ブルックリンを拠点とするバンドはそれぞれの良さを持っているが、この男女デュオはプロダクション・テクニックに個性を見出した。それについては賛否両論だろうが僕は賛同している。ここまでエレガントに数々の音楽要素を綺麗にまとめてしまう手腕には恐怖すら覚えたし、ブルックリンにこういうバンドが一組くらいいることで、音楽シーンは広がりを見せると思うからだ。

 また、前述したように本作がWarpから発表されていることが面白い。Warpとは常に最先端のバンドを世に送り出すレーベルだ。過去にもブルックリンのバンドを送り出してはいるが、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズほどスマートなバンドはいなかった。なんだか僕にはこのバンドの新譜が、Warpなりの、他のレーベルが送り出すブルックリン勢への回答だと思える。Warpは以前にもテクノへの回答としてアーティフィシャル・インテリジェンスと表した音楽性を示した例もあるわけだし、その可能性は低くない。本作は現在のWarpの姿勢を映す鏡に成りうると僕は思う。作り込まれた音楽という意味で、TV・オン・ザ・レディオと聴き比べてみるのも面白い。

 ただ、「期待の新人!」と謳われているわりには、あまり話題に挙がっていないのが現状だ。徹底してエレガントであることを押し出している本作は貴重だと思う。その反面、本作を聴いた後は庶民の味が欲しくなる。つまりは構築したアーティスティックなたたずまいを見せる本作をどのように崩し、ポップ・ミュージックとしての親しみやすさ、庶民性を出せるのかが、今後、課題になると僕は思う。スタイルを曲げることには勇気をともなうが、それも含めて僕は「期待の」という言葉を使いたい。なんだか昭和の民は高級料理を食べた後にお茶漬けが欲しくなるという話を思い出した。課題を克服さえすれば、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズは『Emperor Tomato Ketchup』期のステレオラブみたいなバンドになるよ、きっと。楽しみだ。

(田中喬史)

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coldcase.jpg 日本で海外ドラマが盛り上がりを見せるようになって久しい。少し前まではビデオ/DVD化されるまで待つか、いつ実現するともわからないテレビ放送を待つかしかなかったが、最近は民放やケーブルテレビ等で最新の番組も本国とさほど時差なく見られるようになった。TVジャンキーであるロブ・ゾンビは「チャンネルの少ない国ではツアーをしない」と公言し、日本にもあまり来てくれないのだが(昨年15年ぶりにやっと来日してくれましたが)、「今は日本もチャンネル数が増えたんだよ!」と教えてあげたいくらいだ。

 次々と放送される豊作状態のドラマの中でも特に多いのがクライム・サスペンスだ。古くは『刑事コロンボ』から最近では『24 -TWENTY FOUR-』など、日本でも『古畑任三郎』や『相棒』といった数多くの作品が作られ長年に渡って愛されてきたジャンルだが、最近の作品で絶大な人気を誇る『CSI』シリーズのプロデューサーであり、数々のヒットドラマや映画を送り出しているジェリー・ブラッカイマーが手掛けているのがこの『コールドケース』。フィラデルフィア市警の殺人課チームによる犯罪捜査を描いたもので、本国アメリカでもかなりの高視聴率を叩き出してきた人気作品。なので海外ドラマファンであれば既にご存知の方も多いことと思う。

 「コールドケース」とは未解決事件のこと。筋書きとしては、過去の未解決事件(ここで扱うのは殺人事件)についての新たな証拠が見つかるとか、遺族が再捜査を依頼してくるといったきっかけから改めて事件を詳しく調べていくという展開で、毎回ほぼ同じ流れでどことなく淡々と物語は進んでいく。アメリカは殺人事件の時効がないため、どんなに古い事件でも依頼があったり解決の糸口が見つかったとなれば再捜査することが出来る。事件関係者や被害者遺族に再び会いに行き、過去の証拠や証言を検証しなおすという地道な捜査を描く中で、事件当時の回想シーンが必ず挿入されるのだが、それがとても秀逸なのだ。丁寧に時代考証を行い、映像の色合いや風合いによって空気感を再現し、どんな時代だったか、社会的背景に何があったか等が、当時の様子を知らなくても十分伝わってくるように作られている。1900年代前半から現代までの様々な時代が登場するが、それぞれの時代を表現するのに特に重要な役割を果たしているのが、音楽だ。

 事件のあった年代のファッションや流行、文化を映像で再現するとともに、当時のヒット曲やその頃にリリースされた楽曲を惜しげもなく使用しているため、見ている者は一瞬でその時代に連れていかれる。最後の時を過ごしたバーで、流行っていたディスコで、ドライブした車の中で、傍らのラジオから、古いレコードから、音楽たちは物言わぬ目撃者とでもいうように、事件と寄り添うように流れてくる。ごく一部を挙げるだけでも、ビリー・ホリディ、ルイ・アームストロング、ジョニー・キャッシュ、マイケル・ジャクソン、ブルース・スプリングスティーン、スティーリー・ダン、デュラン・デュラン、オアシス、ピクシーズ、スマッシング・パンプキンズ、リアーナ等々...、半世紀以上前からごく近年までの幅広く多岐に渡るジャンルから選曲された楽曲郡は、リストを見ているだけでもワクワクしてしまうほど。中にはキュアーやニュー・オーダー、スノウ・パトロールやカーシヴ、ダッシュボード・コンフェッショナル等の名前も。1話まるごとボブ・ディランやU2、ニルヴァーナといった回もある。
 
 思わぬ名曲に出会ったり、知っている曲であれば改めて良さに気付いたり、その曲を知った時のことを思い出して、いつどこで買ったか、誰と聴いたか、その当時自分は何歳で何をしていたか...とついつい自分と重ねてしまったり、というのは音楽ファンであれば理解できる感覚ではないだろうか。「○○年代」とだけ言われるよりも、音楽が流れることでいつ頃が舞台になっているかを想像しやすくなり、自分と重ね、時代の感覚を掴むことで自然と物語に入っていける。と同時に、映像作品において音楽がもたらす効果の大きさ、音楽の持つ時代を超える力、記憶を呼び起こす力の強さも実感することが出来る。

 この回想シーンと豪華な楽曲郡が当然ドラマの人気要素であるわけだけど、しかしこれは殺人事件を扱った作品である。素晴らしい回想シーンとともに、命を奪われた人達の埋もれていた真実が明かされていく物語なのだ。その真実とは、時に残酷すぎて目を覆いたくなるようなもので、時に被害者の尊厳を守り抜くような尊いものであるが、どんな真実が明かされたとしても奪われた命は決して戻らないということを嫌というほど見せつけられる。
 
 リアルタイムに事件を追うものと違って、スピード感があるわけでも過激さや派手さがあるわけでもない。既に起きてしまった事件を扱っているため、命が救われるケースもほぼ無い。後に残るのは、犯人逮捕の爽快感や安堵感ではなく、浮き彫りになった真実の重みと癒えることのない哀しみばかりだ。事件当時には語られることのなかった、哀しく残酷な真実。犯人のエゴや保身のため、あるいは誰かを守るためや気高いプライドによって隠されてきた真実。それを露わにすることで被害者が救われるのかはわからないし、誰も幸せにはならないかもしれない。けれど、真実が消えてなくなることは決してない。どんなに隠してもそこにあり続けるのだ。被害者遺族が「真実を知りたい」と訴えるシーンをニュース等で目にすることがあるが、このドラマを見ていると、ほんの少しかもしれないが、その切なる思いがわかるような気がする。

 物語のトーンは重くダークで、とにかく切なくやるせないエピソードが多い。これまで何度泣かされたことか(同じエピソードを字幕/吹き替えでそれぞれ見て、どちらでも泣いてしまったことすらある)。フィクションとわかっていながらもこんなに感情移入してしまうのは、もちろんその時々の時事問題を盛り込んだストーリーやリアリティを感じさせる音楽の存在も大きいが、同じような事件がどこかで起こっていても不思議ではないと思わせる、多くの問題を抱えた現代社会のせいでもあるだろう(中には実際の事件をモチーフにしたエピソードもある)。ニュースを見れば毎日のように殺人事件が報じられ、幼児虐待、DV、いじめ、増加する自殺者、リストラ問題、人種間の争いや差別、終わらない戦争、権力によって捻じ曲げられる現実、そんな暗い話題ばかり。これらの出来事が一体ドラマとどれほど違うのか。加えて日本には時効制度によって未解決のまま忘れ去られていった事件も多い。しかし例え忘れ去られてもそこには一人一人の人生があり、このドラマの登場人物と同じく、どんなに時が経ってもたったひとつの真実が明かされることを望みながら、今も哀しみを抱えて生きる人達が大勢いる。
 
 時効制度の問題だけでなく、死刑についての賛否、冤罪問題や少年犯罪の厳罰化、裁判員制度などの法制度をめぐる課題も多く、これからも議論は続くだろう。法とは時代に沿って変化していかなければならないし、何が正しいかという明確な答えが出ないとしても、何が悪で罪なのかを見極め、どんな命も奪われてはならないという根本的な「正義」が、ブレることなく貫かれる社会でなければならないはずだ。
 このドラマの大きな救いは、哀しみや後悔、絶望を描く中にもその「正義」が根底を流れているということ。「正義」なんて言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、決して押し付けがましくなく、説教臭くもない。メインキャスト達の中にそれぞれの思う「正義」が息づいていることが、わずかに垣間見えるだけだ。社会を変えたいとか、悪を裁き根絶させたいといった大きな理想を掲げなくとも、同じ目線を持つことは私たちにも出来るだろう。「命は尊い」と再認識するだけでも十分意味がある。
 
 いつの間にか引き込まれ、そんなことを考えさせられるうち、このドラマが段々とただのフィクションには思えなくなってくる。「ドラマだから」と割り切れないのは、本当は悲しいことかもしれないけれど。

 この作品はあまりに多くの楽曲を贅沢に使用しているため、著作権等の問題でDVD化が不可能だといわれている。興味のある方は日本で放送しているうちにぜひ見て欲しいと思う。一話完結なのでシーズン途中からでも、見逃した回があっても十分楽しめる(「楽しめる」という言い方は語弊がある、というぐらいに内容は重いですが)。
 
 本国ではシーズン7で打ち切りとなっているが、日本では現在シーズン2(テレビ東京)、シーズン4(AXN)、シーズン6(WOWOW)を放送中。

・テレビ東京(シーズン2) 土曜27:15 (第4土曜日は除く) 
http://www.tv-tokyo.co.jp/coldcase2/
・AXN(シーズン4) 月曜20:55/火曜15:30/金曜24:00/日曜14:55/日曜23:00/月曜16:30
http://axn.co.jp/program/coldcase/index.html ※
・WOWOW(シーズン6) 土曜23:00/日曜10:00
http://www.wowow.co.jp/drama/cold/ ※
※放送分までの全楽曲リストあり

(矢野裕子)

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serge_gainsbourg.jpg 近年、話題になった2006年の『Monsieur Gainsbourg revisited』には個人的に納得いかない部分が多かった。フランツ・フェルディナンド&ジェーン・バーキン、ジャーヴィス・コッカー&キッド・ロコ、ポーティス・ヘッド、マイケル・スタイプ、トリッキー、カーラ・ブルーニなどの錚々たるメンツがセルジュ・ゲンスブール(彼の名前の日本語表記は諸説あるが、ここではセルジュ・ゲンスブールに統一する)へのトリビュートを行なったという事と、作品への解釈論ではあまり口を挟むところがないのだが、如何せん世界的に評価の高い『メロディ・ネルソンの物語(Ballade de Melody)』をメインに、中期から後期、又は「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ(Je t'aime moi non plus)」などの有名曲が多かったのには辟易したという要素因がある。

 だから、初期の「リラの門の切符切り(Le Poinconneur Des Lila)」を鮮やかにポスト・パンク的に再構築したザ・レイクスや1968年の映画のテーマ曲「スローガンの歌(Le Chanson de Slogan)」をダルに潜航するように曲自体を低温に落とし込んだザ・キルズの流れには昂揚した。

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 彼は、デビュー作の1958年の『Du Chant A La Une!』のプローモーション時において、「もし、貴方が貴方でなければ、誰になりたいか?」というインタビュワーの質問に即座に、「マルキ・ド・サドか、ロビンソン・クルーソー」と答えている。自分は、彼を偶像・崇拝化する気も貶める気もないが、彼の「借り物」性と、映画監督で見せる「質の悪さ」(ちなみに、僕は、最初は彼の音楽美より映像美に胸打たれた所がある。)、数多の「女性」と寝ながら、下らないブラック・ジョークを潜り、1944年のパリ解放までダビデの星を付けながら、ナチスの迫害に怯えていた頃の恐怖心とトラウマを避わすための長い「余生」を全うすべく、フランス国家への嘲弄、総てにおいてハイブロウな知的戯れに暮れた様は鮮やかですらあった。

 いつも彼は良い意味で空虚だったし、2010年の今においてもフランス人のみならず、モンパルナスの墓を訪れる人が多い理由は分からないでもない。何故なら、こんなに空疎に同じ言葉を持てなくなったセカイで、空虚に踊る為のイコンとして彼を求めるなり、再度、発見「してしまう」のは必然的なのかもしれない。

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 ある一説に、近代以降の大半のポップ・ミュージックとは、女性が男性から離れていった喪失感を基盤としており、「ガール」とは即ち「失って、帰ってこないもの」のメタファーである、みたいなことを言ったりもする。正義、伝統、理性、愛、モラル、平和、光、狂気、自由、何でもいいが、そういうものにも置き換えられるのかもしれない、としたならば、彼の過剰なまでのエロス(と引き裂かれたタナトス)はどうしようもない不条理な人生をバルザックの「知られざる傑作」の画家のフレンホーファー的に受け止めようとしていた証だったのかもしれない。フレンホーファーは10年に渡って、同じ肖像画を描き直し続け、そして、彼の想い入れの中でこの絵は絵画の世界に革命を起こし、「そのままの現実を完璧に描きだす」ものであるという意識で挑んだ。仲間の画家のプーサン、ポルビュスが完成したその絵を見るべく彼の部屋を訪れて、その絵を見れば、キャンバスには雑多な色と形が塗りたくられているだけだった。カオスと条理を通り越した不条理と無為。それでも、フレンホーファーは賢しげを気取る。しかし、その二人の「反応」を慮り、自身の「この10年間」は徒労だったと気付き、慟哭し、仲間が去った後、全部の絵を焼き、自殺する。

 セルジュ・ゲンスブールは、フレンホーファーまで極端ではなかったが、「緩慢なる自殺」を常に試行するニヒリストを気取った徹底したリアリストだった。何せ、デビュー曲と言ってもいい「リラの門の切符切り(Le Poinconneur Des Lila)」で「自分はリラの門の切符切りで、もうこの世の中にうんざりしていて、はやくずらかりたい、そして、自由になるタイミングを逃したら、棺桶に向かっていこう」と表明しているのだ。

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 彼は、15枚のオリジナルアルバムとその他多くの提供曲、映画音楽があるが、今回は、前半7枚辺りの、所謂「ジャズ的な何かを求めた時期」、ブレイク以前の作品を掘り下げることで、何らかの視角を輻射したいと思う。

 周知の通り、彼はアティチュード面では心酔される存在だったが、音楽面では毀誉褒貶があり、デラシネ(deracine)で表層的な振舞い(デヴィッド・ボウイ的な、と言おうか)が故に逆説的に音楽の「本質性」へとアタッチメントしていたのではないかと思うくらい、シャンソンからジャズ、そして、スウィンギン・ロンドン、ポエトリー・リーディング、ロック、レゲエ、ダブ、ニューウェーヴ、果てはヒップホップへとロールしていった。

 そういう文脈では、1958年から1968年の10年間の作品は「リラからスウィンギン・ロンドンまで」の片道切符が切られている。ファーストの1958年の『Du Chant A La Une!』は既に「遅すぎた」デビューアルバムだった。パリのキャバレーでピアニスト兼歌手として働いていて、ここで出会ったボリス・ヴィアンの歌唱を聞き、感銘を受けての30歳のデビュー。ニヒリスティックな歌詞とバックサウンドのバド・パウエルを彷彿とさせる流麗なジャズっぽさと、彼の独特の気品とスノビズムの鬩ぎ合い。「死」の気配が充填されているのも「らしい」作品で、棺桶に足を半分突っ込みつつ、ジャガーが溝に落ちて死にそうになっているカップルの横で鳴るカーステレオ、不倫、というモティーフの中、サン・ジェルマン=デ・プレ、左岸派へ目配せしながらも、裏ではシニカルに挑発的に中指を立てている、いまだにBGMとかカフェ・ミュージック吸収を免れ続けている癖のある23分弱のささやかな10インチ内でのレヴェル(藻掻き)。

 1959年の『No 2』は、デビュー作より更に短くなり、今で言うEPとも言えるような8曲入りの、英語や言葉遊び、語呂合わせを満遍なく取り入れた「遊んでみた」デビュー作と一転しての、軽やかな一作になった。取り立てて特筆すべき冒険は為されていない相変わらずの、ジャジーなテイスト。表層的にマンボやチャチャを取り入れた然り気ない試みは後々のセルジュのカット・アンド・デコンストラクトの手腕の萌芽を感得出来る。

 1961年のサード・アルバム『驚嘆のセルジュ・ゲンスブール(L'etonant Serge Gainsbourg)』では、やはりジャック・プレヴェールの作詞した「枯葉」をモティーフにした「プレヴェールに捧ぐ(La Chanson De Prevert)」が有名になるのだろう。しかし、その実、ネルヴァルやユーゴー、アルヴェールの「詩」へ曲を付けたり、当時の流行のムーブメントであったイエイエに対して真っ向から「抗う」ようなシャンソンの要素が強い、まだ「時代と寝るのを拒んでいた」頃の彼の文学的リリシズムが溢れる繊細な作品になっている。更に、1962年『No.4』ではジャズへの傾倒が進み、ただ、そこでも、ボサ・ノヴァやサンバといった当時ブラジルで隆盛してきた音楽への目配せをされているところがアンテナの鋭敏な彼らしいパスティーシュの鮮やかさがあり、ただ、全体としてとてもダークな趣きが強いのはアメリカーナ、ブリッツからの、ツイスト、イエイエ(1960年代フランスで流行ったロックンロール調の音楽やディスコ調の音楽)の下世話な盛り上がりに耐えられなかったのか否か、「外れ者」であり続けている自分の幕引きさえも考え、絵描きの世界へ戻ろうという失意から生まれた「ツイスト男の為のレクイエム」としてのアルバムになったのは皮肉だった。その流れのまま、1964年の『Gainsbourg Confidential』は、よりジャズに接近する。ベースのミシェル・ゴードリー、エレク・パクチックとのトリオ構成で2、3日で一気に録りあげた静謐さとアイロニカルな知的美しさに満ちた空気感。「何も語らない」アルバム。

 だからなのか、前三作の「沈黙」を対象化して、「語る」ために同年の『Gainsbourg percussions』でアフロ・ラテンサウンドへ傾斜する。ここまでのアルバムになかった開放感と明朗さが打楽器、12人の女性バッキング・ボーカリストと共に、繰り広げられたエキゾティシズムの表層的な剽窃と、譜割に合わせるが故に全く記号的に音韻を踏んだ歌詞世界。ジョアンナやローラ、ジェレミー等が繰り広げる悲喜劇。ちなみに、90年代以降のクラヴ・カルチャーで最も再評価され、パワースピンされたアルバムであるのは知っている人も多いだろう。

 そして、1965年のフランスギャルへの提供曲「夢見るシャンソン人形」のヒットにより、商業作家としてようやっと実を結び始め、映画音楽も多数手がける中、ブリジッド・バルドーと恋仲になる。その躁的テンションのまま、ロンドンで取られたEPが1968年の『Intial B.B.』になる。トータル・アルバムというには程遠い、ちぐはぐなスウィンギン・ロンドン風ビートに満ちた作品。この頃には、「誰がインで、誰がアウト?(Qui est in qui est out)」というコンテクストで言うと、もう彼は愈よ「イン」になってきていたが故に、スキャンダラスな話題を撒き散らすトリックスターを演じるようになってくる。

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 冒頭に戻ると、セルジュ・ゲンスブールの初期作品というのは「敢えて」スルーされているのか、それとも評価するに値しない類の習作群なのか、懐疑が募る。荘厳なストリングスが絡む1971年の『メロディ・ネルソンの物語(Histoire de Melody Nelson)』がベックを始めに多くのアーティストに賛美される瀬も良いと思うし、ルーリードの『ベルリン』を髣髴とさせる『くたばれキャベツ野郎( L'Homme à tête de chou)』の重厚なポエトリー・リーディング調のスタイルとコンセプト性、その後のレゲエ、ダブ、ヒップホップ路線への暖かい視座も許容出来る。

 しかし、現代、「君と僕」で完結してしまうポップ・ソングか、ネタ探しをする迄もない、笑うに笑えない、アリストテレスが「芸術は自然を模倣する」と言ったのに対して、オスカー・ワイルド的に「自然は芸術を模倣する」と切り返してみせるような音楽や表現が多い中で、セルジュ・ゲンスブールの「模倣という美学」の中で存在性と初期作品に漂う強烈なニヒリズムこそ必要されるべきだと思うのは筆者の迷妄だろうか。

 セルジュ・ゲンスブールとは、自己の模倣と他者の模倣の相互作用によって、過去および現在において知られる熱狂や狂信といった歴史の力を対象化する。そして、その対象化能力は初期の1958年から1968年の10年間の作品群にも十二分に詰まっている。来年3月2日で没後20年を迎えるが、今こそ彼の全体像は再定義されるべきだと願ってやまない。この原稿がその一端になれば、幸いである。

(松浦達)