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deerhunter.jpg 80年代にR.E.M.(やラヴ・トラクターやガダルカナル・ダイアリー)を輩出したアメリカのジョージア州(州都はアトランタだが、学生都市アセンズも見逃せない)から、90年代には、オブ・モントリオール(やオリヴィア・トレマー・コントロールなど)が登場した。そして00年代以降は...ディアハンター(やデンジャー・マウスなど)だっ!

 ...なんて言ってもいいほどの存在感を、彼らは獲得している(ちなみに、デンジャー・マウスの件については、この8月におこなったブロークン・ベルズのインタヴューも参照してほしいのだけれど、まだテープ起こしも終わっていない...。うー、もうしばらくお待ちください。すみません...:汗)。

 彼らのニュー・アルバム『ハルシオン・ダイジェスト』は、まさにタイトルどおり夢の世界をさまようかのごとき甘美な感覚も、ポップ・ミュージックとしての強度も、見事に増している。

 ご存知のとおり、ハルシオンとは、医者に処方されればこの日本でも合法的に入手可能な(たしか、今もそうだよね? ちがったら、ごめんなさい...)睡眠導入剤。ちなみに、ぼくは数年前からマイスリーという薬を処方されているのだが、その際に医者と話したところ、ハルシオンは最近は(日本の医者が処方する薬としては)あまり流行りではないとのことだった。その理由は...まあ、あえてふせておくが、とりあえず、ハルシオンは決して「非合法ドラッグ」ではない(もしくは、なかった)ということを強調しておこう。それを薦めているわけではない。ハルシオンの大量摂取の習慣から、そっちのほうに入っていってしまい、結局亡くなってしまったという人も、かつての知り合いにいる。

 だから? いや、ドラッグ=クールなどという、わけのわからないイメージを持つ人には「だっせー」と言われてしまいそうなギリギリの位置にある、こういう薬の名前をアルバム・タイトルにもってくるのが、なんか彼ららしくてかっこいい...というか、素敵に今っぽいな、と。

 オルタナティヴ=アウトロウ(outlaw:法の外にあるもの)=クールといった、これまたくだらないイメージを持っている人が、この新作をどうとらえるかどうかはわからない。しかし基本的には「オルタナティヴ=常にそこにあるけれど見すごされがちなもの」と考えているぼくのような者にとって、この『ハルシオン・ダイジェスト』は明らかに彼らの最高傑作だ。

 ギター、ベース、ドラムスという伝統的な楽器をメインにしつつ、わざと焦点をぼかしたような(ときおり「本題にはなりえない」印象的サウンドが響くことも「焦点をぼかしている」ことにつながる)リヴァーブがかったサウンドと、あらゆる人の琴線にふれつつ心を浸食していくようなメロディーの融合は、(「瞬間のひらめき」を大切にするタイプの)職人芸的な輝きを、ますます増している。

 既にウィキペディアに掲載された記事(早っ!:笑)で、中心人物ブラッドフォード・J・コックスは、アルバム・タイトルについて、こんなふうに語っている。

「このアルバムのタイトルが示唆しているのは、ぼくらの大好きな思い出がここにたくさんつまっている、ってことかな。『ねつ造された記憶』も含めて。たとえば、ぼくとリッキー・ウィルソンが友だちだったときのこととか...。ヴィクトリアン・オートハープ工場だった場所の廃墟に住んでいたときのこととか...。そんなふうに、ぼくら人間が自分たちの記憶を書き換えたり、エディットして記憶のダイジェスト・ヴァージョンを作るのと同じように、このアルバムの曲を書いた。それで、ちょっと悲しい感じも漂っている」

 このリッキー・ウィルソンとは誰なのか? まあカイザー・チーフスのシンガーじゃないだろうし、もしかするとバスケットボールの選手? それとも...、いや、まさか...と思いつつ(実は上記の発言自体は、ほかのウェブサイトの記事で見つけた。オリジナルはどこなんだ? とググって、ウィキにも行きついた)、同じウィキのページに載ってる発言を見たところ、その「まさか」だった!

「70年代や80年代に、レコード屋さんが『アート・ロック』的なもので盛りあがっていたころのことには、いつもつい魅了されちゃうんだよね。アセンズのワックストリー(Wuxtry)とか。ぼくも子どものころに、よく行っていた。あと同じくアセンズのワックスンファクツ(Wax 'n' Facts:ちなみに、ワックスというのは、アナログ盤のこと。それをヴァイナルと呼ぶのと同じような感覚)とか。ルー・リードやXTCのポスターの隣に、もう完全に色あせた(おそらく70年代末とかの?)B-52'sのライヴのフライヤーがはってあったりしてさ...。壁一面が、もう『アート・パンク』のスクラップブックみたいだった。ぼくは『おい、このクソみたいな目玉の着ぐるみをかぶったレジデンツって、誰なんだ? あまりにアホらしくて最高じゃないか!』みたいな感じだったよ」

 リッキー・ウィルソンとは、R.E.M.と同じころアセンズの「アート・パンク」(アメリカにおいて「ポスト・パンク」という言葉を使わないのは当然正しい)界隈から登場して彼らより早く全米でブレイクを果たしたバンド、B-52'sの、ほかでもない1985年に亡くなったオリジナル・メンバーのことなのだろう。

 泣ける話ではないか...。

 そういえば、R.E.M.というバンド名の意味は「どのようにとらえてもいい」と当時から彼らは強調していたものの、「夢を見るときの眼球の動き」であるRapid Eye Movementを示している、という解釈もあったなんてことを思い出す。

 日本では、ディアハンターはシューゲイザーというカテゴリで語られることが少なくない。それを無視するのもなんなので、一応付加しておこう。ぼくとしては、そのカテゴリに入れられる90年代のバンドでは、やはりクリエイション・レコーズから出ていたものがとくに好きだ。そして初期クリエイション・レコーズの作品群は(主宰者アラン・マッギーのそれも含み)、80年代なかば当時、アメリカで「ペイズリー・アンダーグラウンド」と称されていたバンドたち...ドリーム・シンジケートやレイン・パレード、グリーン・オン・レッドやヴァイオレント・ファムズ、そして初期R.E.M.らの音楽に、かなり通じるものだった(アランは当時レイン・パレードをイギリスで出したがっていたという話も聞いた)。

 本作には、そういった80年代なかばのサイケデリックな音楽が、今まったく新しい意匠をまとって蘇ったようだと感じられる部分もある。

 シューゲイザーもポスト・パンクも、アート・ロックもアート・パンクも、レッテル系の「言葉」はすべて飛びこえて、このアルバムからは、こういった素晴らしい「音楽のつながり」さえぼんやりと見えてくる。

(伊藤英嗣)

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manic_street_preachers.jpg 常に時代の真逆へと舵を切っているマニックス。今作『Postcards From A Young Man』でも、時代に逆らうようなアルバムを作ってきた。良い意味で売れ線なのだ。そして、かなり王道的な音になっていると言われたりしていたけど、前作の『Journal For Plague Lovers』の余韻を引きずったような曲もあるし、「まんま『A Design For Life』やん!」な「Postcards From A Young Man」のような曲もある。

 僕自身『The Holy Bible』がマニックスのディスコグラフィーのなかで一番好きだし、どうしてもそのときの「ポストパンク・リバイバルを先取っていた音」のイメージが拭い去れない。そして、リッチーの創造力溢れる歌詞。良くも悪くも、マニックスにはリッチーという存在が付きまとっていた。もしかしたら、今作に収録されている「Auto-Intoxication」での「俺ってラッキーなんだよな/生き残ったんだよな」という一節なんかは、「『The Holy Bible』期のマニックスとリッチー失踪について?」と世間では思われるかも知れない。でも、『Postcards From A Young Man』にリッチーは付きまとっていない。正確には、マニックスの中にリッチーは生きているけど、リッチーを引きずっていないという感じ。今作に対する引き合いとして、『Everything Must Go』や『This My Truth Tell Me Yours』といった彼らが過去に発表したアルバムが挙がるけど、『Everything Must Go』の「とりあえずの応急処置」や、『This My Truth Tell Me Yours』の「手探りで彷徨う姿」というのはここには見られない。むしろ、絶対的な確信に満ちている。それは前作『Journal For Plague Lovers』で、歌詞という形ながらも、リッチーと向き合った影響があるのかもしれない。

『Postcards From A Young Man』でのマニックスは、多くのマスや観衆を求めている。それでも、インターポールの最新作みたいな安っぽさを感じないのは、マニックスの行動が常に批評精神に基づいているからだと思う。今の時代というのは、アンダーグラウンドに留まりつつ(若しくは、その精神を保守的なまでに守りつつ)、少しずつ支持を得ていきながら活動するというのが主流になっている(まあ、そうせざるえないという一面もあるけど)。もしかしたらマニックスは、旧態的な音楽ビジネスの良い面である「音楽のカオスと躍動」が好きなのかも? だから、クイーンだったり、久保憲司さんの言うところのカーティス・メイフィールド、つまり、ハード・ロックだったり、アーバン・ソウルだったりするのだろうか? そうだとしたら、僕からすると、単なる「おっさんの戯言」に聞こえてしまうけどね。でも、マニックスの凄いところは、その戯言でさえ批評として成立してしまうところ。だから僕は、マニックスが大好きなんですね。

 僕としては、このアルバムが現在の音楽シーンの幻想を取り払ってくれることを期待している。つまり、「音楽ビジネスそのもの」を否定して、ある種のナルシズムに陥り、「否定」が自己目的化してしまう罠。現在の音楽シーンって、そんな罠にはまって退屈な音を鳴らしている輩が多いと思うので。DIYな活動で注目集めているアーティストやバンドだって、やっていることは、従来の音楽ビジネスの人達がやっていたことと、ほとんど変わらないですからね。ただ、その使い方を自分なりにアレンジしているだけ。要は、「どう使うか?」ということです。
 
 マニックスは、音楽ビジネスの仕組みを上手く使いこなせるから、どんな方向性に行っても支持され、注目されるんだと思う。そして、自分の主張や表現を曲げずに実行する。これは相当なタフネスと知性がないとできないことだし、それを20年近くも第一線でやり続けているのには、マジで尊敬です。解散してしまったオアシスとの差は、そこだと思う。そして『Postcards From A Young Man』は、そんなマニックスのひとつの集大成であり、新たな始まりだと僕は思う。

(近藤真弥)

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maroon5.jpg 航空機の機内放送御用達の音楽というものがあり、個人的にオーセンティックなロック/ポップスのプログラムで組み込まれているアーティストやバンドを確認するのが趣味になっている。例えば、コールドプレイやレディオヘッド、U2なんて大御所は必ずと言っていい程、入っているが、存外にザ・キラーズ、リンキン・パークやグリーンデイといった十二分に大きな「ロック・バンド」が含まれていない事が時折、ある。移動中に聴くには、それらはオブセッシヴだという事なのか、考える事がある中、正々堂々とした現代のロック・バンドとしてプログラムに組み込まれているバンドにマルーン5が居て、彼等の佇まいの愛され方は「異様」とさえ思う。

 華華しいファーストの『Songs About Jane』は、誰の耳で聴いても「良い」と思えるポップとロックの折衷点を見出した曲の粒の揃い方で、また、スティーヴィー・ワンダーやプリンスなどの「黒さ」を程好く取り入れた軽やかさと全体を通底する伸びやかな世界観で、大文字のロック・ファンからミーハーな層まで魅了した。

 今現在、「高度な」大人ほど幼児化しているのは知っているだろうか。ある玩具メーカーのオフィスは「大きい遊び場」になっていて、皆も周知のGoogleの社内はプログラマーに一つずつ部屋はあるが、PC以外あとは全部、ジオラマになっている。もう亡くなりしマイケル・ジャクソンが夢想した「ネバーランド」を求める大人は、フレキシビリティの中で「サステナビリティ」を回避する。それはつまり、或る意味で今は共通言語が無くなってしまった時代でもあるから、と言い換えられる。野球も見ず、政治もよく知らないけど、漫画の話で延々2時間、昔話で延々2時間、語ることが出来たりする。それをして、「トライヴ」や「クラスタ」など自嘲/自尊ベースで名称付けるが、結局、「過去」だけは誰も侵食されないから、80年代のMTV隆盛時代のようなバウンシーでセクシーだけど、表層的で薄いサウンド・スタイルがリバイバルして、10年代に援用されているのは実はとても切実な現代への「対抗という名の退行」だと思っている。「共通」言語じゃなく「共犯」言語になってしまっている訳だから。

「共犯言語に堕す」と何が悪いか、と言うと「ソト」が分からなくなる。「ウチ」で完結してしまい、その架橋がメディアやコミュニケーション・ベースが或る程度、あったのだが、それも有効的ではなくなったから、今、「同じ言葉」を話していても「位相」は違う。

 先行シングルの「Misery」で「僕は永遠に送ることのない手紙を200通も書いたよ」とか「君を取り戻せない自分は惨め(misery)だ」と臆面なく歌うアダムの「身も蓋も無さ」は正面から向き合うと、相当に痛々しいし、時代錯誤的だ。クリス・マーティンがまだ「エルサレムの鐘が聞こえる」というのはメタ的に認知出来る。何せ、彼は「フェア・トレード(FAIR TRADE)」と手に書いてポーズを決める人なのだから。引き換え、マルーン5というバンドはどちらかというと、そこまでセクシーな対象枠には入りにくい。確かに、前作のアルバムからのリード・トラック「Makes Me Wonder」におけるスティーリー・ダン、ダリル・ホール・アンド・ジョン・オーツ的なシティー・ミュージックを現代的にベタ解釈して、PVでは近未来的なシチュエーション(ストロークスの「12:51」的な世界観と言おうか)で彼等は精一杯、男前を気取った様は目を奪われるものがあった。その「気取り方」がクールなのかアンクールだったのか、セールスが示した通り、アダム・レヴィーンはセクシーなアイドルとなり、バンド自体も全世界で受容されるだけの知名度と信頼度を得た。だが、どうにも彼等がよりクールに巨大な存在になっていく毎に、僕自身は「マルーン5は何に向けて音楽を鳴らそうとしているのか」、懐疑を持つようになった。

 そんな個人的な懐疑を別に、3年振りの今回の『Hands All Over』はなかなかの力作になった。その理由として、沈黙や不在に基づいた独自の文学観を提示したモーリス・ブランショがしばしば、「消失」の運動を志向する文学は実は、思考が消失を目指す非人称的な運動に従うだけでなく、逆に、この非人称性を起点として「孤独・友愛・共同性」という多層的な人称世界を豊かに産出するものでもあることを明らかにしているとすれば、匿名的な「マルーン5というバンド」のYOU&Iだらけの過剰さも、「具体的に」恋愛関係や現実の政治的コンテクストと関係づけることで、彼等を具体的な現実の中に配置して、生き生きとさせているのかもしれないとも思えるからだ。

 ディスコを援用して、リズムのバネのタフさが映える「Misery」、流麗な彼等の18番的な美しくポップなアレンジで詰められた「Never Gonna Leave This Bed」、アダムの歌唱が朗朗と響く「How」、ブルーアイド・ソウル的な「Just A Feeling」、レディ・アンテベラム(Lady Antebellum)と組んだカントリー調の「Out Of Goodbyes」など佳曲群がズラッと並んでおり、一気に聴くと食傷してしまう位の過剰さがある。その「過剰さ」を支えたのがプロデューサーのAC/DC、デフ・レパード、カーズ、シャナイア・トゥエインなどを手掛けたロバート・ジョン・マット・ラングだとすると、当意即妙とも言えるかもしれない。70年代末から80年代の「本流」のロックを支えた大御所。彼とマルーン5のタッグは、ケミストリーを起こさない代わりに、十二分にバラエティに富んだ「メインストリーム」を捻じ曲げるサウンドを生み出した。「スマートで、味気ない」という声をボリュームと過剰さで捻じ伏せるような力技もある。

 日本の寂れたサバービアのショップでも、世界のカルフール、ウォルマートやターゲットでもこれは置かれるアルバムであるし、配信形態としても爆発的に拡がるだろうし、それを手に取り、聴く人はバラバラだろう。でも、それは「共犯言語」のそれではなく、「共通言語」に限りなく近いファンタジーとしたら、マルーン5というバンドは侮れないのかもしれない。

          *          *          * 

 最後に、ロールズの「正義論」に関して触れよう。

「正義論」は、今更語るまでもないものの、功利主義に代わる代案としての「正義」の強度を民主主義の背景に置いて、「相互利益を希求する冒険的な企図」が社会の諸制度が機能した上で分配して、尚且つ「原初状態」における人たちの判断を二つに区分した。

 その二つとは、①各人は基本的な自由に対しての平等な原理を持つべきであって、そのベーシックな自由は各人と同様な「自由」と両立する限り、最大限、自由でないといけない、ということ。②社会的・経済的不平等は、もっとも不遇な人の立場における利益を最大限、尊重しないといけない、また、公正な機会の均等を割り振った条件下での、各位の職位や地位に付随するものでないといけない、というものを満たさないということ。

 これは実はとても、「感覚」論だ。よく考えると、人間の正義原則、本能欲求とは、もっと「無為なものへ働くこともままある」訳で、自由そのものの定義性どうこうよりも現代最新の経済学では「サービスをしないことこそが、サービスであり、奉仕でもある」という理論もある。そこで、マルーン5が描くものとは、決して大文字の他者ではないイロニカルな構造が浮かび上がる。

 ロールズ的正義下では、「原初状態ではみんな、最悪の状態を回避して、合理的な判断を下すだろう」とされるが、この「原初状態」というのは「無知のヴェールに覆われた人たち、つまりは周囲との相対性、優劣意識がない状態」を指す。つまり、先進的な「現実」では援用は出来ても、「適用は出来ない」。何故なら、お金が無くても、皆、「必須なもの」じゃなくても、「気になる」ものにはお金惜しまない。それが全く、効率的じゃなくても。

 今回の『Hands All Over』は「効率的ではない」。故に、より多くの人に求められるだろう。

(松浦達)

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no_age.jpg デビューアルバムが辛口メディアのピッチフォークにおいて10点満点中9.2点をたたきだした二人組には、様々な観点からの掘り下げる材料が用意されているようだ。前述したピッチフォークをはじめとした各国メディアの賞賛や、彼らが運営するザ・スメルから形成されるコミュニティであるとか、ヴィジュアル、パフォーマンスを総括するアート的な部分であるとか、ノイズ・ポップ・デュオでありシューゲイズでありながらもローファイであり、チルウェイブである。と、まあ、彼らを評する時には書ききれない程の要素が混在していて、なんだか複雑な数式を解いている気分になってきてしまった。無理矢理こじつければ、様々な人種が混在するアメリカの縮図と言ったところか。いずれにしても、そのひとつ、どれを掘り下げてみてもしっかりと我々の欲求を満たしてくれるであろうし、きっと彼らは確信犯的にそれらをごちゃまぜにしているのかもしれない。
 
 デビューアルバムよりひとつEPをはさんで、今回の作品へとつながった彼らの変化とは音を重ねコラージュしていく事で深みを増したポップネスを獲得した事であり、特にファーストアルバムと比べて聴きやすい作品になっている事は間違いない。ペイヴメントのようなローファイっぽさは薄れてきた印象で、それよりも前半では80年代のパンク/ハードコアを今に蘇らせ、さらに時代の空気さえ再現してしまいそうな音の雰囲気である。音を重ねたと言っても全編を通して基軸となるのはやはり歪んだギターの音とこもりがちのドラム音が産み出すサウンドスケープであり、そこからラジカセに入れたカセットテープから流れてくるような音を聴き取る事ができる。総じて、僕はチューインガムを噛みながらキャップを被りスケートボードを走らせるキッズの情景を僕は思い起こすわけだが、この作品を聴くとぼんやりと描く80年代のアメリカがそこにある。しかし、ただの回顧に留まらず、彼らの作り出す音は、歪ませたギターの音から、次の展開で出される音のヴォリュームのつまみにしろ、些細な部分で音の陰陽を作り出し、一聴するとざらついてる聴こえるようだが、実に心地よく、時に美しい。後半につれ、その様相は色濃く表現されて、2曲続けて鳴らされるインストゥルメンタルに、この作品のハイライトさえ感じてしまうほどだ。そこに僕はオレンジ色のノスタルジーを思い描き、スケートボードを持ったキッズの背中には昼と夜の狭間に姿を現すオレンジ色の夕日が見えてくるのである。
 
 でも、それはなんだか物憂げ。記憶の片隅に残る古き良き時代をぼんやりと思い描くだなんて、捉えようによっては随分と後ろ向きではないか。こういった音でアメリカを感じてしまうという事はある種の警告なのかもしれない。例えば、アマゾンでこの作品をクリックすれば円高ドル安、グッとリーズナブルな料金で買えるし、関連商品で、例えばディアハンターへと容易に辿り付けてしまうように、この手の音が少なからずシーンを作り出している事は確かである。しかし、そこからはかつてのマッチョで筋肉質な強いアメリカを見ることはできない。もちろん、テンガロンハットも自由の女神もアメリカンフットボールも、その他力強さの象徴諸々も。ただ、こういった音が現在のアメリカにとって、最もリアルな気もするし、物憂げだと見誤る危険だってあるのかもしれない。

 あくまでもDIYの精神にのっとり、彼らはクレヴァーに時代をかえようとしているのかもしれない。そう、僕は夕日を思い描いた情景が、実は夜と朝の狭間に姿を現す朝焼けなのかもしれない、という事だ。

(佐藤奨作)

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summer_camp.jpg「Dear, Dear, Dear... I, I. I... You, You,You...」、というオープニングのフレーズを聴いた瞬間、僕はこのバンドに夢中になった。ロンドンの、サマー・キャンプのデビュー・シングル「Ghost Train」だ。ドリーミーなプロダクション、キッチュな電子音、明快なメロディ、そして何よりこみ上げてくるノスタルジア。ウォッシュト・アウトを思わせるグロー・ファイ/チルウェイヴと、ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートのようなトゥイー・ポップのセンス、更にはヴィヴィアン・ガールズやダム・ダム・ガールズなどから感じられるDIY精神など、現代のUSインディの流れを汲んだサウンドながら、受ける印象は決して、「今」じゃない。まるでタイムスリップしたような感じを受けた。実際、PVもそのイメージ通りで、海辺で繰り広げられるピュアなラヴ・ストーリーともやがかかったような映像はクラシック映画そのものだった。ネットにアップされた彼らの情報は瞬く間に広がり、UKのみならずUSにおいても大きな注目を集めることとなった。

 そのサマー・キャンプによる初のEPがこの「Young」だ。結論から言ってしまえば、「Ghost Train」での期待を全く裏切らない、素晴らしい内容の6曲(日本盤はボーナス・トラック2曲収録)だった。スウィートなコーラスとダンサブルなビートいんシングルとなった「Round The Moon」(この曲のPVもロマンチックな映画風)でEPは幕を開け、スロウなテンポの「Veronica Sawyer」、「パッパパパ・・・」というコーラスが耳につく「Why Don't You Stay」などの曲が並ぶが、どれもノスタルジアに満ちた素晴らしい内容。まるで、過ぎてしまった夏を惜しむかのように、思い出がフラッシュバックさせる1枚だ。

 ジェレミー・ワームスレーとエリザベス・サンキー。この2人がサマー・キャンプのメンバーだ。ジェレミーは、ミステリー・ジェッツやエミー・ザ・グレイトなどと親交があり、既に2枚のアルバムをリリースしているSSW。一方のエリザベスは『Platform Magazine』をいう雑誌でガーリィな記事を書くライター。インディの流れを肌で感じ、またカルチャーを知る2人だからこそ、の楽曲なのだろう。彼らの出自を知ったときにはなるほど、と感じた。

 すでに、ザ・ドラムスやスロウ・クラブのオープニング・アクトとしてステージを重ねている彼ら、次はアルバムをよろしくお願いします。

(角田仁志)

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dorian.jpg 僕は音楽が現実逃避になるとは思っていない。音楽は音楽という現実で、日常は日常という現実で、意識が働いている以上、どちらも現実という一本の糸で結ばれている。音楽が豊かならば日常も豊かになり、逆もまたそうだ。そんなことを考えているからなのか、仮にドリアンの音楽が現実逃避的だと捉えられたら僕は反論してしまうかもしれない。本作はひとつの現実であり、この音と共鳴する感覚は僕ひとりに内在するものではなく、誰もが持っている様々な種の感動を、そして思い出をあぶり出すものとしてあるのだと。東京を拠点に活動し、七尾旅人×やけのはらの「Rollin' Rollin'」のアレンジ、リミックスを手がけたドリアン。僕は彼が出演したイベントに足を運んだことはないが、やけのはら七尾旅人の新譜にゲスト参加した彼のデビュー・アルバム『Melodies Memories』を聴いてそんなことを思うのだった。

 人との出会い、生活習慣、聴いてきた音楽、それら全ての「思い出」によってメロディーは生まれる。新たなメロディーを吸い込んだ「新たな思い出」は、また別の新しいメロディーを生み出していく。それは永遠に終わることのない音楽という現実の創造の連続だ。そしてそれは今も絶えることなく続いていて、僕らの手と手を繋ぎ合わせる。だから決して音楽は終わらない。ドリアンは、テクノなのかハウスなのか、ということ以前に、『Melodies Memories』という、これまで同じ場を共有した人々の時間と記憶というものをカタチにした。そして本作からまた、新たな思い出が生まれ、新たなメロディーが生まれ、広がっていく。なんだか本作のタイトルが印象的だ。

 贅沢なカクテルのように色彩豊かで、夏の終りを思わせる切なさと甘美さに溢れるメロディーが気持ちに残るノスタルジーな音楽性。それは過剰にアッパーではなく、80年代風のディスコ・サウンドを思わせる楽曲が並ぶ。無邪気にポップで愛らしい。先端的、前衛的とは無縁で、それが良くもあり、どんなジャンル愛好家であろうと年代であろうと受け入れられるはず。冒頭曲からして程よいグルーヴ感のあるファンクの要素とジャジーなサウンドが交じっていて、フュージョンという言葉が頭をよぎる。高い音楽性を感じさせるが、やはり、あくまでもポップなのだ。

 ポップス感覚でも聴ける本作は、やけのはらや七尾旅人、LUVRAW&BTBといった気心知れたアーティストや、土岐麻子に楽曲提供したことでも知られるシンガー・ソングライター兼DJのG.RINAをゲストに迎えた。G.RINAをフィーチャーした楽曲は夏の終りと恋の終りの切なさを歌っている。しかしドリアンのトロピカルなサウンドが切なさを甘美なストーリーとして紡ぎ出す。失恋ソングが内に篭ることを避けるように。そんな閉じたところを消してしまうサウンドとアレンジがドリアンの魅力であり個性だ。曲順も練られており、後半に進むにつれ高揚の度合いが増していく。特にスペーシーで歌とラップが交互に飛び出てくる「Shooting Star」の幸福感が素晴らしい。ヴィブラホンの音色がさらに楽曲に美しさを与えていて、なおかつ余白を使うのがとても巧い。空間の上をストリングスが気持ち良さそうに泳いでいく。その中で「この一瞬の煌めきを永遠に信じよう」と、恥ずかしげもなくやけのはらは言う。音は鳴らされた次の瞬間消えてしまう。しかし音楽から受け取った煌きの思い出は永遠にこころに残る。ほんとうに「音」そのものを信じているのが伝わってきて笑顔になってしまうのだった。聴き手が音楽を信じるためには、音を鳴らす側が音楽を信じていなければならない、という大前提がしっかりとある。だからこの音楽の前では誰もが音を信じる姿として無防備になってしまう。

 日々の喧騒に追われる中で音楽を聴く楽しみをどこかに置き忘れてしまった人がいたとしたら、この作品を聴いてほしいと僕は思った。きっと甘い開放感が溢れ出てくるはずだから。そしてそれは『Melodies Memories』と絶対に共鳴する。文字のない文化はあっても、音楽のない文化はない。聴き手であっても演奏者であっても、きっと僕らはギター一本だけで、ビートだけで雄弁に語り合える。音楽はフィクションではないんだ。


(田中喬史)

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kreva.jpg 人間に実は、「MUST」は無い。ただ、「MAYBE」の連鎖がかろうじての生を紡ぐだけなのだ。初期のオアシスだって何故、あれだけ「MAYBE」に拘ったのか、最初から「LIVE FOREVER」とステイトメントすることで、「MUST」の底辺に縛られたワーキングクラスの現実をブレイクスルーとしようとした試みがあり、ロック・スターかサッカー選手になる以外に確約されてしまう、パプで管を巻くか、喧嘩でウィークエンドを何度も繰り返す事へのかろうじての、抵抗でもあり、ささやかな大声でもあったからだとも言える。
 
"このままこうしていられるなら 他には何もいらない
そんな風に思えてしまったなら
終わりが近いのかも"(「かも」)
 
 そういう意味で「言い切ること」への覚悟を定めていたKREVAは今になって、「喪失」と「閉塞」に向き合い、まるでソロ一作目の「希望の炎」時のように捩れながら、還る。インタビューで言っていたが、ここには前作の『心臓』のような甘やかなラブソングは意図的に排され、敢えて言うならば高度情報化社会への疑義呈示が前面に押し出されている。

 09年のSEEDA&OKI(GEEK)のTERIYAKI BOYZへの「ディス」が然程の発展と波及を見せずに結果的に、収束したのは日本という土地柄もあったのか、「ディス」(Disrespect)という作法が巷間的に認証ベースで許容されてはいないのか、想う所はあった。

 想えば、近年、海外でメジャーな所でのJAY-ZとNASの「ビーフ」は大きい余波を残した。しかし、それはヒップホップ・マナーに依拠していた丁寧なルール内でのものだったので、ヒップホップ界「外」の人たちにも興味深く映ったことは間違いないだろう。「ディス」の文脈で言えば、KREVAは過去、般若など多くから受けている。
 
 そんな状況下で、日本におけるアンダーグラウンド・レベルではなく、「正統」なヒップホップを定義するのは難しいと思う。昔、ジブラやラッパ我リヤと組んだドラゴン・アッシュはステージで自分たちの音楽形式を「ミクスチャー・ロック」と名乗るようになったし、シンゴ02やザ・ブルーハーブの許容した基盤ファン層にはアンダーグラウンド・ヒップホップ・マナーを弁えての意識の諸氏も多かったが、もう少し文学的でサブカル的な磁場が囲い込んでいた部分も大きかったのも周知だろう。そういう意味では、小室哲哉プロデュースからの大胆な舵取りを行ない、一気にマッシヴな方向へ振り切った安室奈美恵の「Girl Talk」から『Queen Of Hip-Pop』という流れは大事であり、その「Hip-Pop」という名詞部分の外延の持つ内包性(intensionality)は深かった、と言える。特に、このアルバムにおける「Want Me,Want Me」のパンジャビMC調のバングラ・ビートと歌謡性がミックスされた様は鮮やかでセクシーだった。

 ヒップ「ホップ」か、ヒップ「ポップ」か。日本では検討可能性の余地がある。

 一時期はケツメイシやリップ・スライムと並んで、メジャーシーンへのヒップホップを訴えかけたキック・ザ・カン・クルーの「意味」は大きかっただけに、02年の「マルシェ」のブレイク以降の作品の連続リリースの中で、バルト的に、楽しみながら彼等のトラックやライムを受け取るのが、可能ではない部分が出てきたのは残念だった。「非・快楽的なテクスト≒拡大される作家の苦吟」と商業的なバランスの不和。だからこそ、03年のシングルで「脳内」のバケーションをリプレゼントして、リスナー側の期待をハントするような経緯になった。ワーカホリックたる自分たちへの自重もあったのかもしれない。彼等は、ヒップホップが時に持つ多くのマッチョイズム、私的エクリチュールの押し出しに対して、あくまで茶目っ気と抒情、分かり易さをベースにした「強み」があった。但し、短い期間の間にあまりに沢山のリリース・スタイルを取った所為か、04年の活動休止は必然的だったとも言えた。欲望の弁証法の可能性と悦楽の予見不能の可能性の引き合いのゲームの綱引き結果は、ゲームが行われなくても「遊び」はある筈だったが、その「遊び」自体が煮詰められたと感じたから、キック・ザ・カン・クルーの活動休止後、そのMCの一人、KREVAはソロ名義として実質的な一作目の「希望の炎」で「俺は最低の人間」と表明して、自分の声さえも加工しないといけなかったのだろう。

 KREVAの巷間的に決定打となったのは06年の『愛・自分博』というアルバムでは、キック・ザ・カン・クルー時代にあった抒情性に更に独自のメロウネスを加えながら、「俺」節を入れ、全体はアッパーに貫き通し、Jもののヒップホップ作品としては異例のセールスをマークしたのは彼に詳しくなくても、知っているかもしれない。その際の武道館のライヴでも、彼は完璧にスター性と万能感を提示した。しかし、「スタート」というシングル曲が持つ別離をモティーフにした感性的な繊細性と頼りなさが実は正しかったのは、その後、『よろしくお願いします』、『心臓』のアルバムのパトスを受け取れば判るだろうし、布袋寅泰、スピッツの草野マサムネ、久保田利伸等とのコラボレーションでの鮮やかさでも伺える。決定的だったのはRupert Holmesの「Speechless」をサンプリングした「瞬間speechless」だろう。「パーティーとは、始めから終わりに向かうこと」、「パーティーは一瞬という永遠を約束すること」のニ軸をアウフヘーベンして、喧騒内での沈黙を表象して、君に魅かれても成就はしないだろう(MAYBE)という儚さに向き合った佳曲だった。

 会うは別れの始まりなり。会者定離。

 色んな言葉があるが、要は、万物は流転する。一刻も停まることない時間の刹那内で誰かとはしゃぐ永遠をピンで留めて、額縁で囲んで観ている内にもう終わる。終わるから、始めるのか。別れるなら、出会うべきではないのか。そんな煩悶は不毛だ。何故ならば、在ること自体が「在ることではない、何か」を示唆して「無」の対立事項ではないからだと言える。「無」に怯えるニヒリストは時に過重的に「無ではない何か」を求める。それは仕事か恋愛か芸術か生活か人それぞれだろう。しかし、留保されてリオタールする「無的な何か」は決して何も是認しない。

 KREVAの今回のミニ・アルバム『OASYS』はとても刹那い内容になった。

 加工されたボーカリゼーション、サンプリングした音を使っていない、エレクトロ要素が強まったトラック、全体的に内省性を帯びたリリック。もしかしたら、カニエ・ウエストの『808s & Heartbreak』の影も見える人も居るかもしれない。ヤング・パンチのカバー「エレクトロ・アース・トラックス」もスタイリッシュに再構築して、全体を通してコラージュ的にサウンドの実験が挑まれ、総てが「終わり」へ向かうことへの怖れを為さず、「気がついたら 随分生きにくい世の中になったもんだな」("最終回")と綴るなど、彼のライヴ・ツアータイトルを拝借すると、「意味深」な要素が格段に増えた。推測してみると、彼は今、おそらく、クロールしようとしているのかもしれない、言い切っていた時の自分と、最終回を決める自分の狭間を。

 「最終回」が美しく纏まるべきだとは僕は想わない。宙ぶらりんなまま、保留された痛みが昇華される為ならば、無限に「再放送」を繰り返せばいい。いつだって、最終回を見逃す為に人間は「在る」なら満更、悪くない。今のKREVAは漸く「最終回」を夢想するようになったというのは、好ましい意識変化だと思う。

(松浦達)

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yamon_yamon.jpg スウェーデンはストックホルム出身の4人組のデビュー作。資料にもあるとおり、シー・アンド・ケークを思わせる透明感のあるギター・サウンドを中心とした、慎ましさを伴うポップ・ソング集。約1年かけて制作されたというだけあって、練られた楽曲と端正なアレンジはデビュー作とは思えない質の高さを誇っている。一方で、老成や熟成を重ねた後ではなかなか得ることの難しい(アルバム冒頭の「Alonso」や「African Nights」などでの)「瑞々しさ」、そして(「The Darker Place」、「Fast Walker」などで時折り顔を覗かせる)「スリル」といった感覚が全体に薄く漲っているのはやはりその若さ故だろうか。

 フラットで平熱なのに、目に見えない興奮や感動がその中に密かに含まれているのを、ふとしたきっかけでじんわりと実感してしまう...季節の変わり目なんかによく体験する「あの感じ」に近い音だ。「残響」というレーベル・カラーや日本の気候にも不思議とフィットしている。

(佐藤一道)

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el_guincho.jpg パオロ・ディアス・レイシャ――スペインはバルセロナのサイケデリック・ロック・バンド、ココノットのメンバーであり、そして何より、ソロ名義=エル・グインチョとして活躍している人物だ。2008年にリリースされたソロとしてのセカンド『Alegranza!』では、テープ・ループを多用した、トロピカルかつファンキーなビートは、パンダ・ベアの名作『Person Pitch』に匹敵する内容だった。

 そんな彼の新作がこの『Pop Negro』だ。全体的には前作より楽曲のテンポを落としているものの、今作でも、彼のトロピカルなビートの追求は続いている。スティール・パンやアフロ・ビートにサンバ、それにカーニヴァルなど、南半球の国々の陽気なダンス・ミュージックのセンスをあらん限り詰め込んだ極彩色のビートは、胸を高鳴らせ、制約のないステップに僕らを駆り立てる。

 ハンドクラップやスティール・パンなどで作り上げるサニーな輝きでアルバムは幕を開け、タイトル通りソカを取り入れた「Soca Del Eclipse」、サックスを加えた「Muerto Midi」など、ビートやサウンドは色とりどりでバラエティに富んでいる。

 非西欧のグルーヴを貪欲に取り入れ、カラフルさをぐっと増した今作。ぜひ、DJ機材を扱いつつ、片手でパーカッションを打ち鳴らす器用な彼のステージが日本でも早く見れることを願うばかりだ。

(角田仁志)

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im_here.jpg 皆さん、スパイク・ジョーンズの新作短編映画『I'M HERE』を見ましたか? 数ヶ月前からWEBで公開されてるから「今頃かよ!」との声が聞こえそうで怖い。『I'M HERE』は、サンダンス映画祭やベルリン映画祭でも上映されたアブソルート・ウォッカとのコラボレーション作品。制作にあたっては、スパイク・ジョーンズに完全に自由が与えられたとのこと。だから「お金を出すから、口も出す」ということはなかったみたい。ログインするときに誕生日の入力が必要。それだけが、お酒会社のスポンサーらしいところ。

 近未来のLAを舞台に描かれるロボット同士のラブストーリー。字幕はないけれど、台詞は少なめ。大丈夫。情景描写やロボットたちの表情(!)、そして素晴らしい音楽からニュアンスはしっかり伝わるはず。むしろ、台詞がわからないところは想像で補うという楽しみ方が、この作品にはピッタリかもしれない。アメリカ人社会に生きるロボットを見る僕たち日本人という構図が図らずも、コミュニケーション(通じ合うこと)を意識させてくれるから。

 僕は「かいじゅうたちのいるところ」は凡庸だと思った。よく知られている原作があるから、仕方がないのかな。音楽は良かったけれど、想像を超える発見はなかった。同じ日に、さほど期待せずにレイトショーで見た「ラブリー・ボーン」のほうが印象深い。もともとBMX好きのガキだったスパイク・ジョーンズには、「怪獣もの」よりも「日常」を舞台にした作品が合っていると思う。日常に溶け込んでいる「認識の歪み/差異」がどう見えるか? ということが可笑しくて切ない。登場人物たちがピュアで、居心地が悪そうであればあるほど、滑稽で泣ける。「I'M HERE」にはそんなエッセンスが、30分間にギュッとつまっている。

 地味なセーターを着込むナードな草食系ロボ男子と天真爛漫なロボ女子の恋。壮大なCGやSFXとも違う、チープな合成とも違う独特のファンタジー映像がやっぱり最高。柔らかい秋の日差しと室内の灯りを活かしたライティングが、ロボットたちの繊細な表情を引き立てる。特に眼差しが優しい。そして、相変わらす選曲のセンスも冴えまくっている。ヤー・ヤー・ヤーズのニック・ジナーによる新プロジェクトのTHE LOST TREES、ガールズ、スレイ・ベルズ、オブ・モントリオールなどの曲がフィルムの質感に彩りを添える。

 人間は楽しむことを求めながら、当たり前として身勝手な生き物だ。そして、ロボットたちの行動は、どこか控えめで主体性がないように思える。その大きな違いは肉体と機械ということ。その違いは当然、心の在り方にも影響する。だからこそ、人間にとっては楽しいホームパーティやライブがロボットには悲劇の舞台になる。

 「何としてでも生きる」のが、人間というか生き物の本能。この作品で描かれている主人公のロボ男子には、その対比として「(他者を)生かす」という心がある。人間たちが造り出したロボットに、人間たちが忘れかけていた気持ちがインプットされていた(または、ロボット自身がそう感じた)という皮肉。僕自身、生まれてこの方ほとんど使ったことのない「献身的」「自己犠牲」という言葉の意味に気付かされた。そして、セックスもする生身の人間として「それでいいのかよ!」と思わず叫びそうになったラストシーンは、主人公に自己投影しがちな僕たちの生半可な視点を軽く拒絶する。「I'M HERE」とは、最期まで主人公のロボット男子の言葉であって、僕たちの言葉ではない。見る人にとって「I'M HERE」と言える場所/在り方を優しく問いかける傑作だと思う。秋の夜長に好きな人と、またはひとりぼっちでどうぞ!

(犬飼一郎)