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faifai.jpg 批評家・佐々木敦氏が代表を務める「HEADZ」の演劇/パフォーミング・アート作品をリリースする新レーベル「play」の第一弾リリース作品の快快(faifai)『Y時のはなし』のDVDについて。

 まずは彼ら快快(faifai)について。2004年結成(2008年4月1日に小指値(koyubichi)から快快に改名)、メンバー10+サポートメンバーによる東京のカンパニー。ステージやダンス、イベントに楽しく新しい場所を発信し続けるパフォーマンスカンパニーであり、日本という枠をとっくに飛び越えて海外でもそのパフォーマンスを展開している。

 作風としてはまずは多幸感、そして祝祭性がある。極めて今の時代のポップさがあり身体性があり、ゼロ年代に対するカウンターあるいはアンチテーゼとして機能するカラフルでハッピーなポップさが咲き乱れている。 そんな彼らについたあだ名は「Trash & Freshな日本の表現者」「現代の蜃気楼、ファイファイ」というもの。今月の9月4日にはスイスのチューリッヒ・シアター・スペクタルにて『my name is I LOVE YOU』がWinners of the ZKB Patronage Prize 2010を受賞する快挙を成し遂げている。

 僕が初めて舞台で観たのがその『my name is I LOVE YOU』だったのだが、感想としてはかわいいとかっこいいが混ざり合っている、そして身体を使い、舞台をめいいっぱい使いダンスなどで身体性が発揮されている。観る側の視覚で捉える身体性が示す物語、台詞は英語なんだが、まるで英語がサウンドトラックのように聞こえた。

 舞台をまるで観ないというわけではなく、大人計画などの小劇場出身の舞台を観に行ったりすることはある僕だけども、彼らの動きや物語に孕まれている多幸感というハッピーさは初めて味わう感じだった。そして毎日という平凡な日常の中にある祝祭性を感じれた。それらの感覚<多幸感/祝祭性>はネガティブなものが支配したゼロ年代を吹き飛ばしてしまう素晴らしさがあった。くよくよしても変わらない世の中に対してわたしたちはいくらでも楽しむ事ができるのだという明確な意思表示、カラフルに彩られている世界への気づきが彼らのパフォーマンスにはあり、観ている者をそちら側に振り向かせてくれる。

 DVD化された今作『Y時のはなし』は二年前の日本初演時にも大反響を巻き起こした『R時のはなし』をタイトルも新たに、さらにアイデアを盛り込み長編としてリマスターしたもの。夏休みの学童保育を舞台に、子どもと大人、人形と人間、夢と現実が、子どもの頃に一度は夢見たスペクタクルと夏の終わりの悲しみが鮮やかに交差する物語。本編にもカエルだったり宇宙人だったり三人一組を一人で演じたりと怪演している天野史郎によりアニメーションが重ねられているので実際に舞台を観た時とまた違った『Y時のはなし』に仕上がっている。

 この作品は役者が人形を持って演技をする、つまりはある種の人形劇でもある。人形を持っている役者ももちろんそのまま映し出され演じている。時折人形ではなく彼ら自身が人形の代わりにもなる。人形というデフォルメと人間という身体性が混ざり合っていく、人間の肉体では不可能な事を人形では行なえる。身体で表現できるダンスや躍動感が対比と言うよりはそれらがプラスされて世界を広げていく。小道具もその使い方はポップであり時にはバカバカしくて自然と笑みが溢れてしまう。楽しんでいるというのが画面を通してでも伝わってくる。

 舞台上で流されている映像も、実際の景色やファミコンのドット画像なんかが僕らの幼年期の原風景と重なっているような感じを受ける。それらのものが合わさってお互いの輪郭を薄くして全てものがそこにあるのが自然な雰囲気になってくる。でも、どことなくワンダーランドであって多幸感が溢れ出る。

 ある人が観れば子どもの遊びの様に感じられるかもしれない。真剣に「かめはめ波」を放つ人間を観た事が君はあるか? 大人になっても真剣に楽しんで遊ぶ事の正しさと幸福さ、そこに巻き込まれてしまう事の心地よさ。それは世間に世界に社会にある問題に背を向ける事ではない、きちんとこの世界でどれだけ「play」できるかという挑戦だ。何もしなくても世界が変わらないのならまずは僕たちがわたしたちが、まず出来る限り楽しんで世界の色彩を変えてしまえばいいのだと彼らの舞台を観ていつも思う。

 そして彼ら快快はA.T.フィールド(『新世紀エヴァンゲリオン』の監督・庵野秀明氏は「A.T.フィールドは心の壁のようなもの」と言っている) を張らずに多くものを受け入れるキャパシティがあり、観ているもののそれを取り払ってしまうし、軽々と越えて入ってきてしまう。だから彼らの多幸感や祝祭性が僕らの中に芽生えていく。

 このDVDを観たらきっと生で彼らのパフォーマンスが観たくなるだろう。舞台で観ればもっと違ったものが。

 真剣に「かめはめ波」を放つ大人に僕らもなればいい、ポップな散乱銃でカラフルな風景がこのテン年代(by 佐々木敦)に広がればいいと思う。快快は世界中を走り回って祝祭を与える。

(碇本学)

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luchino_visconti.jpg ジョルジョ・バタイユの「青空」の序文で、実験のために書かれる書物と、必然的に生まれる書物との差異について、書かれている。「文学」とは基本的に破壊的な力を持ち、「恐れとおののき」と共に対峙されるもので、生の真実とその過剰なまでの可能性を開示する力を帯びると記している。「文学」というのは一個の「連続」体ではなく、寧ろ幾つもの「断続」の「連なり」ということだ。僕自身は、その文脈上に敷かれた「激情の瞬間」をアカデミズムや余計なバイアスの外に置く事にしている。だから、その「外」に置かれた場所で、流浪的に「体内に取り込む言葉や表現」を選別することによって、初めて意味が発現すると思っている。

「約束」で形成された場所に行くためには、それに近づく望みを禁忌しないといけない。だから、総てを遠ざけることこそが、何かに近付くことでもある。人生が一回限りの何かでしか無く、何処まで飛べるのか、を競い合うものでしかないなら、自分の確信から「より遠く離れたとき」にこそ、実は「到着地点に近付く」。「未来という過去」に身を投じようとする人たちに、「セカイ系」は勿論、生優しいサルヴェージの言葉も似合わない。因習に沿って、因習を内側から「壊すように」、もう一度再生すればいいだけの話であり、定例通りの作品を避けた後で、定例外の道を、テクストの余白に書き込むように読み解く慧眼を持つならば、今の時代において、ルキノ・ヴィスコンティについて考えることは意義深い事に思える。

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 ヴィスコンティと言えば、大概、『ベニスに死す』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は廉価版で流布されているが、その他の作品群含め、日本ではなかなか評価軸が定められなかった。例えば、『夏の嵐』はネオレアリズモから演劇的様式美へのファースト・ステップを踏み、19世紀の書き割的な小説のような退廃と破滅に対して色彩豊かに「橋」を渡り、認められたが、『白夜』や『山猫』辺りになると途端、評論枠は絞られる。
 
 例えば、フェリーニやゴダール、もっと言うとコッポラがこれだけ藝術的に受容され、「再」評価される世の中だからこそ、今、ヴィスコンティを僕は評価したいのだが、ヴィスコンティ的なロマンや華麗さは現代には必要ないのだろうか、とさえ嘆息もおぼえてしまうのも同時にある。

 彼は高貴な家庭に生まれ、何不自由のない生活をおくっていたハイクラスの人間だった。そして、バイ・セクシャルでもあり、ロシア文学に精通しており、イタリア共産党に属していたりした時期もあったり、面白い経歴を持っている。基本、彼の作品はとても美麗で耽美的とも言える映像を切り取るものが多いが、ナラティヴ自体は頽廃的であり、破滅的で、陰惨な結末を迎えるものが多いのは幾つかの彼の作品を観た人なら認識出来ているだろう。貴族階級の没落、芸術家の破滅、悲恋、絶望的な道筋。

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 なお、僕は、彼の作品の中でも1957年の『白夜』(イタリア・フランスの合作になっている)を愛好しており、現代的にも響く何かがあると思ってもいる。

『白夜』とは言わずもがな、原作はドストエフスキーの初期の短編。映画化にあたっては、イタリアのチネチッタ(Cinecittà)でリヴォルノをモデルとした架空の港町を創り上げ、箱庭的な閉塞感を醸した。原作においては、19世紀のサンクトペテルブルグ(当時はペテルブルク)だったが、イタリアの架空の港町にシフトされ、初夏だった季節は冬に切り替えられている。主な登場人物は、橋の上で旅に出たままの彼を待ち続ける日々をおくる、マリア・シェル演じるナタリアと、そこで出会う転勤で来たマルチェロ・マストロヤンニ演じるマリオ。

 独身の会社員のマリオは転勤で小さな港町に移ってくる。友達も知り合いも居ない中、歩いていると、橋の上で若い女性が泣いているのを発見する。それがナタリアだった。警戒した彼女をマリオはそれでも取り敢えず一度、家に送る。そして、「次の晩に同じ橋の上で会おう」と約束をする。極寒の夜を彷徨するマリオの幻惑を掻き立てるナタリアと位相は拗れながら、女性の扱いにも慣れていないマリオと、ただ怯えるナタリアという構造そのものが「ナタリアの頭の中の物語」でマリオはその中の「架空の人物」だったのかもしれない。

 次の晩に、マリオを見たナタリアは逃げだし、さすがに気分を害したマリオに対して、彼女は「訳」や「自分のこと」を話す。スラヴ系の盲目の祖母と住んでいること、そして、彼女の家にハンサムな下宿人が来て、彼女は恋に落ちて、彼は一年後に帰ると言い、この町を去っていったこと。その下宿人を演じるのはジャン・マレーであり、貧しい青年像の原作のイメージと比してマチズモ的なものを示すが、とても「匿名性」が高い存在としても描かれている。

 マリオが下宿人に手紙を渡したという嘘をついてからの、三度目の夜にダンスホールで二人は甘美な幻想に耽る。ロックンロール、スクーザミ、流れる音楽は性的な、そしてユーフォリックな予感を惹起させる。ただ、突然、「我に返った」ように、ナタリアは「橋」へ向かう。

 その「橋」と結局は何だったのか、考えてみる。幻想的世界と現実的なものを繋ぐ何か、と表象するには違う気がするからだ。もしかしたら、経済学的に言う「見えざる手」のような何かかもしれない。

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 市場原理社会内で「見えざる手」とは、社会総体的に最大の利益を付与するのが自由競争であるから、という言い訳と幻想を撒き散らす事が出来る。無論、アダム・スミスそのものが自己利益の拡大が、自分と全く予想さえもしていなかった目的を達する運動を促進することになる、と自著で明言しているように、「自由」な競争原理の可能性や継続的な発展性に対して懐疑的だった。更に、ここからダーウィン理論への簡単な接線を敷いてみよう。「自然淘汰は、個体の再生産の成果を増加させる」ような、特徴や行動を促進させるが、全体にとって利益になるかどうかは別問題であり、ただ「知性」などの幾つかの特徴に関しては個体の再生産の成果に貢献する「のみ」でなく、全体により幅広く利益をもたらす事となるとしたら、マリオと下宿人の関係性はどう捉えられるだろうか。

 一方で、個体の利益になるものの、全体性には何も還元されないものもある。
例えば、ヘラジカの牡は過酷な競争の中で、牝に近づき交尾の末、種を残すが、その際、「より大きな枝角を持っている」方が「有利」に働くケースが多い。その結果的に、次世代の大きな枝角を持った遺伝子を含有している進化が試されるというのは、凡庸な「進化論」として収斂する。しかし、枝角が大きくなればなるほど、森林内では「目立つ」。目立つと、外敵に狙われやすくなる。総て、字義通り捉えるのではなく、メタファーとして把握してみるとして、小さい港町へ転勤で訪れたマリオの「目立ち方」は、余計なものに狙われやすくもなるのも確かだ。狙ってきたのはナタリアの幻想だったのかもしれない。
 
 ヴィスコンティの作品と、市場原理論、ダーウィン理論の「結び付け」は共約不可能性を帯びる以前に噛み合うことはないだろう。前者はデカダンスの崩れを希求し、後者群はアフォーダンスの揺らぎを求めるからだ。コモンズの悲劇的に、藝術や頽廃や、ましてや「見えざる手」を考えるべきではないのは自明の理としても、そんな瀬においてまた、繰り返される「悲劇」にこそ、本当に「見える手」を差し伸べて欲しい。現代における藝術に向けて、その先の「君」に向けて。

『白夜』でのラスト・シーンにおけるマリオの背中は、とても寂寞と孤独感が滲み出ている。総てが幻の出来事だったかのように元の通り、何もなくなったからかもしれない。

(松浦達)

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vaselines.jpg 全然音沙汰のなかった友達が20年ぶりに姿を現して「やぁ」なんて言ってくる。しかもその友達は全然変わってなくて、なにやら最近新しいことを始めたという。それがまた最高にかっこいいことだったりする。このグラスゴーのポップ・デュオ、ヴァセリンズが届けてくれた21年ぶりのセカンド・アルバム『Sex With An X』は、例えて言えばそんなアルバムだろう。

 ユージン・ケリーとフランシス・マッキーにより結成されたバンドは、80年代後期に3年だけ活動し、同郷のパステルズのレーベル〈53rd and 3rd Records〉からシングル2枚と〈Rough Trade〉からのデビュー・アルバム『Dum Dum』1枚を残して解散。その後、有名なニルヴァーナのカート・コバーンによる一連のカヴァーと「世界中で一番好きなバンド」という発言による90年代の再評価はあったものの、ユージンとフランシスはそれぞれユージニアスやサックルといった自身のバンドやソロ活動を続けヴァセリンズが再結成されることはなかった。そんな2人が地元のチャリティー・イヴェントをきっかけに再結成を行なったのは(ちなみにイヴェントを企画したのはフランシスの妹だそう)2008年のこと。続く2009年には初来日となった〈サマー・ソニック〉と〈ブリティッシュ・アンセムズ〉で立て続けに日本のファンの前でライヴを披露してくれ、それだけでもファンはびっくりだったのだが、まさか新作まで作ってくれるとは、本当にうれしい驚きだ。そして、その新作『Sex With An X』にはこれぞヴァセリンズ!というサウンドが詰まっていて、さらなる驚きと喜びに満ちている。

 アルバムを聞いて一番に感じるのは、彼らが当時のヴァセリンズの音を忠実に再現しているということだ。それは、プロデューサーをファースト・アルバムと同じジェイミー・ワトソンに依頼していることや、当時と同じくテープによる録音方法をとっていることなどからもあきらかなのだが(これらレコーディングの経緯についてはヴァセリンズのインタヴューに詳しいのでぜひそちらで彼らの生の声も聞いて欲しい)、パンキッシュなギターが爆発する一曲目の「Riuned」から、グラスゴー印のキャッチーなメロディーラインにシンプルでエネルギッシュなギターをメインにしたインディ・ロックというヴァセリンズのサウンドを構成する要素が詰まった楽曲が並んでいて、この20年のブランクはいったいなんだったのか?と驚いてしまう。もちろんそれは懐古主義的な意味合いではなく、20年経ったこの今も、彼らが当時と変わらぬロックへの初期衝動を心の内に秘め続けてきたということの証明に他ならない。一口に20年っといってもそこには大きな時代と環境の変化があるはずなのだが(子供が生まれていれば成人してしまうほどの時間の流れだ)、その中においてユージンとフランシスの2人が音楽へのピュアな想いを失っていないことが、この新作を聞くと強く感じられ、またそのピュアさがカートらを魅了した彼らの大きな魅力なのだと気付かされる。
 
 とはいえ、人が全く変わらないわけはなく、アルバムでのもうひとつの驚きは、彼らがそのピュアなヴァセリンズのサウンドを、自分たちの20年のキャリアでさらに磨きをかけているということだ。ともすれば特に演奏とプロダクション面においてヘタウマ/ローファイ的だった彼らだが(当時のグラスゴー・バンドはほとんどそうだった)、その20年の経験からくる自分たちの目指す音への自信とミュージシャンとしての成長で、プロダクション面においての音の完成度は当時とは比較にならないくらいに向上している。それは、ゲストとして参加しているベル・アンド・セバスチャンのスティーヴィー・ジャクソン(ギター)とボビー・キルディア(ベース)、1990sのマイケル・マッゴーリン(ドラム)という地元グラスゴーのミュージシャンの功績によるところも大きいだろう。再結成後のツアー・メンバーともなっていた(現在はベル・アンド・セバスチャンの2人はツアー・サポートからは離れている)彼ら若いミュージシャンが加わることによって、よりサウンドにはフレッシュな響きが加わっている。特に昨年の〈サマー・ソニック〉でのライヴでも感じたことだが、収録曲の「Overweight But Over You」や「Mouth To Mouth」あたりでのスティーヴィー・ジャクソンの唸るギター・プレイはこの新生ヴァセリンズのサウンドの大きな要素となっていて、魅力的だ。
 
 そうした新旧2つの軸からなるヴァセリンズのサウンドが詰まった作品だが、やはり中心にあるのはユージンとフランシスの歌声だ。時にユニゾンで時にハーモーニーで重なる2人のヴォーカルからは、ヴァセリンズとして音楽を作り歌うことへの楽しさと喜びがダイレクトに伝わってくる。再結成だけであれば古い曲だけを演奏することも可能だし、実際そうしているバンドも多い。けれど、彼らはこの新作を作ることによって、音楽を作る楽しさを再び手に入れたのではないかと思う。そしてその音楽の楽しさというものは、いくら年月が経っても色あせることはないものだろう。

 冒頭の例えに戻ろう。その20年ぶりに会う友達としばらく話をしていたら、きっと自分の中にもなにか変わらないものが宿っていることに気付くはずだ。そして忘れていた当時の楽しい気分が戻ってくるのではないだろうか。そうした気持ちと楽しさをこのヴァセリンズの新作でぜひ感じてみてほしい。

(安永和俊)

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mp3_killed_the_ cd_star.jpg 日本においては、まだまだDJのみで生活していくのは厳しい。DJの文化的価値や地位が認められているヨーロッパでは、スーパースターDJなんて呼ばれる存在もいるし、その中の一人であるティエストは、オリンピックでもプレイした。しかし、日本では大きな興行収入を得られるイベントやパーティーは少ないし、そもそも、DJという肩書きへの世間的評価も低い(そういう意味では、興行として成り立ってないとも言える)。そんななか、イベントやパーティーの主催側から、「DJをDJだけで食わしてやろう」と頑張っている人も出てきたと思うし、その動き自体は良いと僕も思う。DJだけで食わせてやるためには、当然DJのギャラを上げなきゃいけない。そのギャラを上げるためには、興行収入を増やさなければならない。そして、興行収入を増やす手段として目立つのが「イベントやパーティーの大衆化」だと、僕は思う。

 僕なりに、いろんなイベントやパーティーに行かせてもらって思うのは、「面白いDJ」よりも、「盛り上げるDJ」を数多くブッキングしたイベントやパーティーが多いということ。「盛り上げるDJ」というのは、良い意味で客を裏切るプレイよりも、なるべく客のニーズに応えるプレイをするDJのこと。もちろん、DJの本質は、エンターテイメントであるし、盛り上げることが悪いとは言わないけど、「イベントやパーティーの大衆化」によって、「面白いDJ」(つまり、ときにはファンの批判なども受けながら、常に前を向いて、変化することを恐れない向上心と勇気を併せ持ったDJのことだ)が、「盛り上げるDJ」が増えすぎることによって、なかなか日の目を見ないことが多い。主催者側からすれば、客の入りが計算しにくいDJをブッキングするのには躊躇してしまうし、たとえ出演させたとしても、時間的に人が少ない22時や23時に配置して、結果、多くの人の目に入ることは、少なくなってしまう。良くも悪くも、盛り上げ重視のイベントやパーティーには、音楽的教養に優れた人は少ない。普段熱心に音楽を聴かなかったり、頻繁にクラブへ遊びに行かない人も来てくれるから、ナイトライフの入口にはいいけど、その分音楽的な面白さや冒険的な試みはどうしても減ってしまう。僕がそんな最近の傾向に疑問を持っていたのは、隠しようのない本音である。

  先日、宇都宮で開催されたクラブ・スヌーザーに行ってきた。クラスヌって、僕にはどちらかといえば盛り上げ重視の「みんなで盛り上がろうぜ!」というパーティーなんだけど、結構好きで何回か行かせてもらっている。でも、好きになれない部分もある。盛り上がることを強要してくる雰囲気になることも多くて、そういうことを求めてくる客も多い。実際一人で踊っていたら、やたら絡んできたり、なぜか突き押してきたりする客が何人か居て、「初の宇都宮開催だし、盛り上げよう!」とするのはいいけど、一人で居るから盛り上がってないと決め付けて、半ば強引に輪に入れようとするのは迷惑。まあ、「俺は俺の踊りを踊ってるんだ!」と言ったら、「すいません」と引き下がって行ったからいいけど。一体感は、「生みだすもの」ではなく、「生まれてくるもの」だから、「自分の踊り」を踊ればいいと思う(タナソウの「Born Slippy」と「Strings Of Life」のマッシュアップで踊り狂いました。そして、タナソウはDJ上手い)。

 話が逸れたな。僕はここ一年意識的に、地方のイベントやパーティーに遊びに行っている。そして、そのイベントやパーティーに来ている客に、「どんな音楽を聴いているの?」と訊いて回っている。すると不思議なことに、イベントやパーティーが流している音楽以外の音楽を好む人達が、予想以上に多かった。はっきり言って、「分断化するクラスタとかないんじゃない?」と思わせるほど、音楽的知識や幅広さがあった。それが一回や二回だったら偶然で片付けられるけど、それがここ一年ずっと続いたから、「最早偶然ではないのではないか?」と思い始めていた。そしてそれは、宇都宮でのクラスヌで確信に変わった。宇都宮という場所は偶然だけど、僕が知る限り、クラスヌに来る客は、音楽の好みが偏っている傾向がある(まあ、スヌーザーがやっているんだから、スヌーザーが取り上げるアーティストやバンドが好きな人が集まるのは、当然といえば当然か)。だけど、ここ最近のクラスヌに集まる客の音楽的な趣味の幅広さは凄い。スヌーザーが大嫌いであろうアーティストやバンドを好む人もたくさん居たし(ちなみに、宇都宮ではミューズが好きな人がいました)。よく、「リスナーには、もっといろんな音楽を聴いてほしい」みたいな発言をするアーティストもいるけど、僕が思うに、リスナーの準備は既にできている。あとはアーティスト(そして、そのアーティストを押し出すレーベルやメディアも)が、リスナーをもっと信用して、好き勝手やって、冒険心溢れる音楽をたくさんやってくれたら、日本の音楽シーンも、もっと面白くなりそうな気がする。「それぞれの分断化するクラスタを無理やり横断しよう」としなくても、リスナーの足枷は外れている。どこへでも行けるのである。

 そして『MP3 Killed The CD Star?』は、アーティスト側から発せられた自由の宣言だと思う。『MP3 Killed The CD Star?』は、マルチネ・レコーズにとって初のフィジカル・リリースで、それまでは、すべてのリリースを無料ダウンロードで配布していたという太っ腹なネット・レーベルである。しかも『MP3 Killed The CD Star?』はちょっと凝った仕組みになっていて、一応ミックスCDなんだけど、ミックスされているオリジナル音源をダウンロードするためのコードが記されたカードと、そのダウンロード音源用のCD-Rが同梱されている。

 参加アーティストはマルチネ・オールスターズといった感じで、Quarta 330やパジャマパーティーズにTofubeatsなど、まさにマルチネを知るにはうってつけのアルバムになっている。僕が特に好きな曲について書いていくと、まずはパジャマパーティーズの「MP3」。音はまんまヒップ・ハウス。セカンド・サマー・オブ・ラブ期の音が好きな僕としては、かなりツボ。でも、歌詞がたまに「えっ?」となる部分があってそこが気になるけど、それを補って余りある熱がある。Gassyoh「Scandinavia」も素晴らしい。ディープ・ハウスなんだけど、ベースが鳴り始めた瞬間から「グッ」と引き込まれる。美しい。あとはTofubeatsのヴォーカル・ハウス「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」も!

 他にも三毛猫ホームレスやokadadaとか、ダブステップ以降の音や、少し先の未来の音も鳴っていて、本当に素晴らしい曲が揃っている。要は、全部良いんですよね。すべての曲に、アーティストそれぞれの思いや熱が詰まっていて、昔親父とお袋に聞かせられた、セカンド・サマー・オブ・ラブ期のミックステープを思い出した。そして、「これが俺達の音楽だ!」という強すぎる主張もない。本当に軽やかというか、上の世代や、他のクラスタを寄せ付けない近寄りがたさというのがない。それは、彼等自身が、tomadによるライナーノーツから引用すると、「クラスタからクラスタへと自由に闊歩する」からだろう。つまり、彼等のほうから、リスナーの元へ出向くのである。そして、「面白そうな所には何処にでも行け」なのである。さらに彼等は、自らその「面白そうな所」を作り出している。その作り出した「面白そうな所」に、既に準備ができているリスナーが集まりつつある。僕と同世代や、その下の世代は、すべて自ら捜し求め、作り出す。それは反骨精神とかいうよりも、純粋に「楽しいから」という思いが、突き動かしているのではないか?

「楽しいところがなければ、探そうじゃないか。探してもなければ、作ろうじゃないか」、『MP3 Killed The CD Star?』からは、そんなアーティストとリスナーのポジティブな声が聞こえてきて、僕は嬉しくなる。ここにあるのは、そんな時代の最先端を行く若者達の行進する姿である。そして、その行進と共に鳴らされているのは、紛れもないソウル・ミュージックである。

(近藤真弥)

*近日中(1週間〜10日以内くらいかな?)には、この3月におこなったマルチネ・レコーズ主宰者tomadのインタヴューを「同人音楽」コーナーにアップする予定です。【編集部補足】


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in_mantra.jpg 1963年に白人テナーサックス奏者スタン・ゲッツはブラジルのピアニスト、アントニオ・カルロス・ジョビンとジョアン・ジルベルトと共に1枚のLPを創る。その中に含まれていた「イパネマの娘」は全世界的に持て囃されることになる。LP盤では途中までジョアンが途中まで歌い、アストラッド・ジルベルトが途中から歌い出す流れになっていたが、EPとして尺を切られた際はアストラッドが全面的に、そのたどたどしい歌声と共に前面にフィーチャーされていた。ボサノヴァ。ブラジルナイズされたジャズという大方の見方に比して、クラウス・シュタイナーはその著作で「ジョビンはボサノヴァがジャズの影響下にあったというのを強く否定している」と述べ、ボサノヴァというのはロック趨勢の中にあったブラジル音楽の中での、カウンターでもあったという見解を示唆する。

 ボサノヴァ(Bossa Nova)とはそもそもサンバの新しい感覚に依拠する。ショーロ、ノエール・ローザ、カルメン・ミレンダを経ての、静謐で上品で野卑な「新しい音楽」と定義付けは今でも可能だろうか。単なるミドルクラスの御洒落なロビー音楽として消費されるか、チルアウト・ミュージックとして受け入れられるのだろうか。

 今、ミナス出身の夫婦デュオ、へナート・モタ&パトリシア・ロバートはジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビン、イヴァン・リンスなどの正統的なブラジル音楽を継承しながら、新しいトライアルをはかっている。

 振り返るに、99年のデュオ名義初の『Antigas Cantigas』における18~20世紀初頭の古典をカヴァー(例えば、カエターノもカヴァーした「プレンダ・ミーニャ」など)の再構築のスマートさは話題になった。以降、世界的にジャック・ジョンソンやサーフ・ミュージック系の緩やかな流れと「共振」しながらも、あくまでMPBの正統的な音楽の後継者として良質な作品群を紡いできた。途程、ブラジルの作家ジョアン・ギマランイス・ホーザにオマージュを捧げた内容のエレガンスが話題になったこともあった。

 マリーザ・モンチ的な麗しさとヒタ・リーのような繊細さを行き来しながら歌唱するパトリシアと、柔らかくマルコス・ヴァーリのように絡むヘナートの囁くようなハーモニーは作品毎に研ぎ澄まされ、他の追従を許さないサブライムな何かを帯びてきた折に、インドのマントラを演奏するプロジェクトを進行させたのは周知だろう。有名な、マントラ・セッション。インドのマントラ(聖句・祭詞)にアンビエント的な「揺らぎ」を持たせ、演奏する試みを07年に行ない、それを纏めた作品は環境音楽やアンビエント音楽、チルアウト・ミュージック、アフタアワーズ・サウンドと同じ遡上に並び、「癒し系音楽」の最筆頭として熱狂的に受容されたのは記憶に新しい。

「マントラ・セッション」の段階ではもう、彼等の純然なMPBの影は仄かに潜めたが、その代わりに「刷新性」ではなく、「ポスト性」がそこにあった。なお、刷新性とポスト性は違う。刷新性は前史を弁えているがゆえ、時に身動きがきかない部分があり、ポスト性は逆に野蛮に脱構築的に対象を解体し、それらのうち有用な要素を用いて、新たな、別の何かを建設的に再構成する要素因を孕み、積極的に意義の解体を見出すために使われる事が多い。ポスト的にマントラへ飛び込んだ彼等の音は「前史は弁えている」が故に、独特の新しさを帯びた。個人的に、07年の『サウンズ:平和のための揺らぎ』のときも驚いたのはマントラ解釈の中に、フュージョンを可視化出来たことがある。ちなみに、パトリシアはクンダリーニ・ヨガの講師資格を持つほどインド哲学やヨガに深く傾倒している。だからこそ、単純な「模倣」で、マントラを解釈するものにはならないし、成り得ないのかもしれない。

 今回の新作『In Mantra』は09年4月26日に鎌倉の光明寺で行われたセッションを収めたもので、優美にして荘厳なサウンドスケイプが拡がっている。ヘナートはギターを、パトリシアはタブラを叩きながら歌い、ショーロクラブの沢田穣治氏のコントラバス、ヨシダダイキチ氏のシタールがそれを支える。『サウンズ:平和のための揺らぎ』からの過去の曲も大胆にリメイクされ、新曲の5曲も深遠な奥行きを持っている。個人的に、新曲群の中でもまるで教会音楽のような「Ang Sang Guru」の上品な美しさとシガー・ロスの残影もちらつくような透明感には唸らされた。

 少し補足しておくと、『In Mantra』内のサウンドスケイプはデヴァ・プレマール(Deva Premal)のマントラ作品に代表されるフラットなものにはない、前衛的なものも含んでもいるのも面白い。宗教性と結びつく様な取っ付き難さよりも、ライヴ・レコーディングという形式を取った作品ながら、演奏の巧さと、行間に鳴る「見えない音」が受容側を魅了させつつ、スタジオ・レコーディングにはない生々しい即興的な部分が聴き手のイマジネーションを刺激するのだ。今年の10月の来日公演で麗しい音を聴かせてくれるのは期待してやまないところだろう。

「これはもはや、ブラジル音楽ではない」という意見もあるかもしれない。但し、ここでの音が還りつく場所はやはり、彼等の故郷ミナスが可視化出来るのは聴いたら分かると思う。

 もう一度、引用してみる。クラウス・シュタイナーの「ジョビンはボサノヴァがジャズの影響下にあったというのを強く否定している。」というコンテクストを彼等に対して今敷いてみるに、『In Mantra』はブラジル音楽を「内破」しながら、教会音楽、ヨガ・ミュージック、マントラを跨ぐ新しい(Nova)隆起(Bossa)が浮き出て「視」える何かがある。

(松浦達)

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esperanza.jpg ふと目に付いた扉を開けてみる。そんなふうに、ジャケットを手にとり眺めてみると微笑んでいる彼女がいる。どうして微笑んでいるんだろう。よく見るとエスペランサの目は恐ろしい程うつろだ。たぶん彼女は知っている。「ようこそ」と言いながらも、やがて自分がこの部屋から出て行かなければならないことを。そして僕も出て行かなければならないことも。
 
 エスペランサは若くしてパット・メセニーやパティ・オースティンなどのツアー/レコーディングに参加した早熟のベーシスト/シンガー・ソングライターだ。20歳になった05年にバークリー音楽院で講師を務め、世界中で活動し、去年はオバマ大統領から直々の招待を受けてノーベル賞の授賞式の場で演奏した。でも、幼い頃の彼女は通常の授業に適応できず長い期間、家庭で勉強しなければならない状況だった。部屋に篭り、学校に通う学生とは違う生活を送った。けれども、チェロ奏者のヨーヨー・マを見て自分の道を自覚し、音楽的才能ある彼女は篭っていた自分の部屋から出ていった。いや、出ていくべきだった。
 
 過去二作のアルバムを経て、彼女は『Chamber Music Society』という、本当にいまの自分にとって大切だと思える部屋を見付けた。ミルトン・ナシメントやグレッチェン・パーラト、リカルド・ヴォートをゲストに招き、チェロやバイオリン、ピアノなど、様々な楽器に溢れるその部屋で、彼女は自由奔放に歌い、ベースを奏でる。スキャットもフェイクも素晴らしい。迫力があり艶があり、わずかに妖しい雰囲気を醸し出す。室内音楽的な響きを持った音の全てが次々にエスペランサの歌に吸い寄せられていく。それはさながら歌が音を吸収し、膨張していくように感じられる。エスペランサは『Chamber Music Society』という部屋の中に招いた僕を音で圧倒し、吹き飛ばすかのように堂々と歌う。どこまでも伸びていくような歌声。
 
 でも、やがてこの部屋も出て行かなければならないことを彼女は知っている。音楽的アイデアに溢れる彼女は扉を開け、次のステップへと、別の場所へ行ってしまうのだろう。僕はこの部屋の居心地の良さに安住してしまうかもしれない。結局いまも僕はこの部屋から出ることができないままでいる。だが、エスペランサ自身がそうだったように、彼女は僕にいつか出て行かなければならないと訴える。「善悪の知識」も「無意味な風景」も受け入れて、様々な音楽家たちが新たに創出する未知の音に触れるべきだと。エスペランサは音楽的に人と人との関わり合いの中で成長した。だから彼女の音楽は強い。スペイン語で希望の意味を持つ「エスペランサ」だが、希望を持つことが強さではなく、強さが希望を生む。嘆いている暇はないのだ。僕らも扉を開け、まだ見ぬ未知の音楽世界へ飛び込むべきだと思う。その最初の扉に本作は成りうる。
 
 本当に大切なこととは何だろう。帰る場所があることなのか、ないことなのか。数年後、エスペランサが音楽性に迷い、ふと過去を振り返ったとき、彼女にとってこの部屋はひとつの帰る場所なのかもしれないし、帰ってはいけない場所なのかもしれない。スティーヴ・マルクマスはペイヴメントという帰るべき場所を見付けた。グレアム・コクソンはブラーという帰るべき場所を見付けた。カート・コバーンは何も見付けられなかった。けれどもエスペランサは? きっと、どこにも帰らない。帰る「べき」場所はない。いくつもの楽器が鳴っていてもシンガー・ソングライターとして自立した姿、それが本作で叫ばれている。素晴らしい感動作。

(田中喬史)

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goldmund.jpg キース・ケニフのピアノ・ソロ・プロジェクトであるゴールドムンドの3枚目のアルバム。過去2枚のアルバムといえば、ポーンと鍵盤を叩いたらそのまま5秒間は無音が続き、その余韻を味わうような、音と音の間をすくい取る作品であった。それに対し本盤は、メロディを味わえる程度には音数が増え、ノスタルジーな空気感、匂いはそのままに、曲調に明るみが帯びている。
 
 音楽性でたとえるなら、アンビエントに近かった過去の作品よりも、純粋にポスト・クラシカルとしての側面に重心を傾けている。そして、よりクラシカルな詩情を携えているにもかかわらず、潤沢なラップトップ・サウンドは以前にも増して空気中を舞っている。
 
 本盤では、寂しさと明るさが見事に調和を成し、共存している錯覚に陥る。錯覚というのは、実際には共存しているわけでも中庸に立つわけでもなく、未だ言語化されていない感情がたまたまそれに酷似していただけにすぎないような気がするからだ。文字通り、悲しくも喜びに満ち、矛盾しつつも美しい。静かな教会でのびのびと子守唄を弾くような、パーソナルなアルバムだ。
 
 息子が生まれたから明るいアルバムになったというのは面白いことだ。仕事に私情を堂々と挟んでいるし(そもそも仕事という括りもどうかと)、そうやってパーソナルなアルバムを作ると、私のような人間達から大絶賛される。奇妙な界隈だ。

(楓屋)

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rega.jpg「ギターの四本晶が加入後初めての音源だったので、前のギタリストが抜けて晶が入って、レガとしての1stアルバムぐらいの気持ちだったんですね。勢いのあるテンションで作ったので、そういうところからエッジの効いた作品になったのかも知れません。」(Gu、井出竜二)

 期待を上回るテンションの高い2ndフル・アルバムを発表した愛媛出身東京在住の4人組レガ(rega)。一応プログレッシヴ・ジャム・バンドってことになってはいるが、その単語だけを聞いて彼らの音楽を聴かないなんて勿体ない! 絡みつくようなグルーヴ、高揚感を煽るメロディー、色気のあるギター。重厚なベースとドラムスが緩急を付けながら次第に沸点へと昇りつめていく際の、めくるめくような快感!

「竜二がギターでメロディーを弾いていて、前の(もう一人の)ギタリストも単音弾きで、前は単音弾き同士の掛け合いだったんですよ。それが晶が入って、彼が弾くコードとかアルペジオの広がりに対して竜二が単音のメロディーをぶつけるので、以前より音の厚みが出たと思う。」(Ba、青木昭信)

 常に変化し続けるエモーショナルなツイン・ギターと、思い切り絡んでくる(笑)ベースが、扇情的なメロディーへさらに複雑なコントラストを付けていく。

「(アルバム・タイトルについて)ちょっと斜に構えたんですかね。インスト・バンドで『リリックス』って捻くれてるじゃないですか?歌詞がないのに『リリックス』って。歌詞ってメロディーに乗って伝わるものだと思うんですけど、そのメロディーの強さは今回の作品に凄くあると思うんですよね。」(昭信)

「他人と同じじゃ嫌っていうのもあるし、インストって枠に収まる気もさらさらないし。俺らの曲には歌はないけど、でも(想いを)届けたいって気持ちが凄くあるんですよ。」(竜二)

 それまでサポートギターだった四本晶が正式メンバーとなり、今作では、より、メンバー4人のバンドに対する偉大な自信と信頼が素晴らしい化学反応をもたらしたのではないだろうか。

「レガに入って最初にスタジオ入って曲作りする時に、作り方が面白いなって思って。前まで歌ものバンドにいたので、順序立てて曲作りしてたんですね。でもレガって、コラージュみたいにペタペタ素材を貼って曲を作っていくんですよ。それが衝撃でしたし、面白かったです。僕も(曲作りの時に)フレーズを持っていって『これじゃないかな?』って思いながら弾いたんですけど、それを使って曲にしてしまうっていうようなこともあって、凄いなって思いました。」(Gu、四本晶)

「晶は一発録り初めてやったし(レガのレコーディングはいつも一発録り)、割と『どうしよ、どうしよ』言うタイプなんですけど(笑)、1曲目で緊張ほぐれて、後は順調にいけましたね。頑張ってくれたなって思います。あと彼は前作の『ミリオン』(1stフル・アルバム)のツアー中にサポートで入ってくれて、そこから100本ぐらいライブをやった後に正式メンバーになったんですけど、そのツアーを重ねた時間がデカかったですね。そこがなかったら『リリックス』は出来てなかったと思います。」(竜二)

 レガの曲は一定の形に留まらず、一曲の中でも変化していくことがユニークなのだが、こういった感覚はどこからきているのだろう?

「俺ら別にインスト・バンドを聴いてきて演奏やってるわけでもないし、より、グッとくる方向に持っていこうとしたら、ああなるっていうか...。狙って変なことしようとは思ってなくて、よりメロディーを引き立たせようと思ったら、そのメロディーに行く前にこういうクッションがいるな、とか。それだけなんですよね。」(竜二)

 また、前作には感じていなかったトリップ感、サイケ感がありつつも、キラキラしていたりヘヴィーメタルな趣があったり...。そういったものが共存しているのは何故?

「自分の作ったものから刺激を受けてるっていうのが大きいかも知れない。自分が作ったものに刺激を受けつつ、さらにそれを裏切ろうっていうのがあるかな。曲が出来た時に次の欲求と次のイメージとそれに対する自分の裏切る行為がまた新しい曲を作って、それに対してメンバーが反応して。その繰り返しが無限の可能性を生んでるんだと思います。」(昭信)

 多様な音楽性を折衷する洗練されたアレンジ能力とバンドとしての半端ない熱量は勿論、それぞれに自立し、主張する音を聴いて欲しい。ギリギリなまんまだから。

*rega「Mr.MARLOWE」Music Video

(粂田直子)

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interpol.jpg インターポールは世界最高のバンドである。それは今までのリスナーにも本作が初購入の方にもだ。何故か? 魂がそこにはある。そしてバンドとして4枚目という新しい段階に踏み出したのだ。今までにあって今までにないインターポールの快進撃だ。Bのカルロスが脱退し、今回はポスト・ロック界でお馴染みデイヴィッド・パホをサポートB.に迎え、ダニエルとポールのツイン・ギターのノイズをフィーチャーさせる新しい形に仕上がっている。「オールウェイズ・マライス(ザ・マン・アイ・アム)」はゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーの「ストーム」を思い起こさせるほどだ。

 プロデューサーにナイン・インチ・ネイルズやスマッシング・パンプキンズ、ブロック・パーティなどデジタルかつギター・ロックな仕事で知られるアラン・モルダーを起用し、ジャケットのようなオルタナティヴ・ニューウェイヴ要素を残しながら、過去マタドールにいたときのようなインディペンデントな音作りをしているのがポイントの一つ。また、Vo. ポールはよく"Light"という表現を使う。今回も「ライツ(Lights)」という曲が収録されているが、これまで「ターン・オブ・ザ・ブライト・ライツ」「ザ・ライトハウス」などこの単語を多用してきた。その言葉にはポールにとって特別な意味があると断言できる。 リズミカルであり、インディーであり、オルタナティヴであり、ニュー・ウェイヴであり、ダークでありながら光を研ぎすます、まさに待ち望んだ音がやってきたというのが実感だ。

 また、若干余談ではあるが筆者とインターポールは交流が深い。2ちゃんねるで彼らは"インポ"などと略されているようだが、筆者とポールの共通の知人女性の家に一緒に遊びに行ったとき、その女性とポールが「ちょっと話してくるね」と言って別室に移動し、戻ってきたら何とパンツ一枚だったという経験がある。ポールは決してインポではない。故、この表現はなるべく避けていただきたい。

 それはさておき、この高揚感といい、こんな最高な音が他に何処にあるというのか! もうザ・ドラムスなどがちっぽけな存在に見えてくる一枚。是非これまでのファンも初挑戦の方もお手に取ってほしい。

(吉川裕里子)

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jenny_and_Johnny.jpg リラックスして横たわる二人。淡く気怠げなトーンに加工されたジャケット写真。裏ジャケットでは二人は腰に手を寄せ見つめ合っている。キス5秒前のポーズ。二人の名義はジェニー・アンド・ジョニー。タイトルは『I'm Having Fun Now』。なるほど、ずいぶんお楽しみのようじゃないか。勝手にしてくれよ...。いやいや、仲良きことは睦まじきことかな。

 子役としてのキャリアがあったことも頷ける美貌の持ち主にして、世界的な成功も収めたバンド(日本では未だ地味な扱いだが...)、ライロ・カイリーの花形ヴォーカリストで最近はソロ活動も活発なジェニー・ルイスと、才能溢れるシンガー・ソングライターであり、ハンサムな顔立ちながらここ数年は少しポッチャリしてきたお腹もチャーミングなジョナサン・ライス。既によく知られているように、2005年にブライト・アイズのコナー・オバーストの紹介で知り合ったという二人は、お互いのソロ作品における共同作業や、ジェニーのツアー・バンドとしてのジョナサンのバックアップ(06年のフジロックや去年のサマーソニックでの来日にも彼はもちろん同伴している)などの過程で愛を育み、今ではUSインディー・ロック界を代表するベスト・カップルっぷりだが(※憎たらしい参考動画)、まさかここまでおしどり夫婦っぷりをアピールする作品がリリースされるとは(つうか、もう結婚しなさいよ)!

 僕は日常生活でライロ・カイリーのバンドTシャツを愛用しているような人間なのでここからはジェニー贔屓の目線で書かせていただくが、本作はほぼ全編において実に軽快なロック、それこそパワーポップと分類してもよさそうなほどの小気味いい演奏が鳴らされている。ルーツ・ロック回帰していたジェニーの過去二作に比べてサウンドはグっとモダンでエッジの効いた触感となり、昨年のジェニーのツアー(日本でのサマソニやその後の単独公演も、パワフルで本当に本当に素晴らしかった...)でも既に披露されていた「Just Like Zeus」などの楽曲も含め、アルバムを通して二人はデュエットし、パートを交換し合い、絶えず息の合ったハーモニーを重ねている(実際、この名義でのツアーにおいても、現在は本作から全曲と、ジェニーのソロ前作『Acid Tongue』収録の「Next Messiah」と、ジョナサンの07年作『Further North』収録の「What Am I Going to Do?」からなるセットリストが組まれているようだ。その二つの曲にはもともと二人が掛け合うパートが用意されており、要するに...ラブラブってことですね)。

 カリフォルニアチックな太陽の匂いとストイックなまでのシンプルさに支えられたこのポップネスは、前者はウェイヴス、ベスト・コーストといったオプスティミスティックな新興パンク勢、後者は初期REMを初めとする80年代USカレッジ・ロックにおけるバンド・サウンドや、彼女たち自身も交流のあるエルヴィス・コステロとそれぞれ近似性も指摘できるのかもしれないが、それよりは二人が互いのフィーリングを一致させ、長所を両立させながらノビノビと発揮できる理想的なスタイルが結果的にコレだった、というだけのことのような気もする。作曲に関しても二人の立場は平等で、むしろどちらかといえば本作からはジョナサンのソロ作のほうを強く彷彿とさせられる。最近のジェニーの嗜好やソングライティングにシンプル・ロックンロールな彼のスタイルが大きく影響を与えているのは『Acid Tongue』の時点で明らかだったし、このパワー・バランスも必然かもしれない。

 限定版ではCD・LP・EPの他にもカセットテープでのリリースまでされたようだが、たしかにカセットをデッキに突っ込んでドライブに出かけたくなるほどアッパーにさせられる(We're Having Fun Now! な)音楽だし、優秀なミュージシャン二人がタッグを組んだだけあってメロディ・センスも文句なし。今のところのライロ・カイリーの最終作『Under the Blacklight』における、バッキンガム/ニックス期のフリートウッド・マックにも譬えられたメジャー感溢れる端正なポップスからはずいぶん遠いところにきてしまったようにも映るが、しかし歌詞のほうは相変わらず鋭い切れ味もときおり垣間見せる。イーグルス「Hotel California」が告発したアメリカ/カリフォルニア幻想の崩壊から30数年が経過した「いま」の世界について歌っている「Big Wave」での、"living your life in the gray is the new American way"というフレーズから続けて描かれる、経済の不安定から個人的なインソムニアに至るまでの「アメリカの病理」を"大波がやってくる!"となぞらえてしまう辺りは、詩人としてのジェニーの健在ぶりを象徴するようである(楽曲自体はサーフ・ロックのマナーに忠実な軽やかさと爽やかなコーラスが印象的で、この味わいこそアメリカン・ロック!)。他の曲のリリックでも、随所に機知に富んだ箇所が見受けられるあたりはさすが。

 イチャイチャぶりをアピールするだけの作品とイタズラに揶揄するのがナンセンスな聴きどころの多い作品であり(でも収録時間は36分! 最高!)、「Switchblade」や「While Men Are Dreaming」などスローな楽曲の(ジャケの淡さに通じる)美しさも息を呑むばかり。もう一押しほしかったところもあるにはあるが、けっきょく最後はジェニーのスウィートで色っぽい歌声に毎度のごとく心をキュっと鷲掴みさせられてしまう(ジョナサンだって素敵よ)。それにしても、本作にはライロのメンバー、ピエール・デ・リーダーも参加しているし、メインでドラムを叩いているのは同じくライロのジェイソン・ボーセル(超余談だが、彼がキルスティン・ダンストと交際しているという噂は本当なんだろうか)。ファン心理としてはそろそろバンド名義の新作も恋しくなってきたが、各々がソロ活動にご執心なところを見ると「次」はもう期待しないほうがいい...のかな? The Electedも素晴らしかったギター弾きの色男、ブレイク・シュネットの動向についてもパッタリ話を聞かなくなったし...。

(小熊俊哉)