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brandon_flowers.jpg かつてデイヴィッド(キラーズのギタリスト)はとっておきのアイデアが詰まったテープを用意して、地元の情報誌に「バンド・メンバー求む!」の告知を出した。そのアイデアのなかには一瞬にして全世界を80年代ポップ・リヴァイヴァルの渦に巻き込んだ「Mr. Brightside」のデモも含まれていた。そして遂にリリースされたファースト・アルバム「Hot Fuss」は空前の大ヒットとなり、誰もが煌びやかでスケールの大きいシンセ・サウンドの虜になった。だがヴォーカルのブランドンは故郷であるラスヴェガスへの想いを断ち切ることができず、セカンドの「Sam's Town」では一転してアメリカン・ロックへの接近を試みた。歌唱法をブルース・スプリングティーンに似せて、リリックはより抽象的になった。彼らの代名詞でもあったシンセサイザーは少しばかり後退し、代わりにスタジアム・ロックの風格を獲得した。しかし、最も理解して欲しかったはずのアメリカでは不評だった。これにはブランドンも落ち込んだ。やはり自分たちのサウンドを変えるべきではなかったのか、と。しかし、その後彼らはスチュアート・プライスというプロデューサーと奇跡の出会いを果たし、セカンド・アルバムのアンセミックな感触はそのままに、ダンスの要素を再び全面に押し出して「Human」という一生ものの名曲を書き上げた。その「Human」を収録したサード・アルバム「Day&Age」は彼らの復活作として各国で大絶賛され、キラーズは名実ともに世界一を誇れるバンドになった。

 ふむ、これだけ見ればハッピーエンドの、素晴らしいバンド・ストーリーということになるだろう。だが、ちょっと待ってくれ。アメリカの雄大な大地の香りがプンプンしてくる「Sam's Town」はそんな簡単に失敗作で片付けられるべき作品では断じてない。現在のライヴでも盛り上がりまくるスタンダード・ナンバーを多数生み出しており、サウンドの広がりという点でも特筆すべきアルバムだ。これがなければサードの「Day&Age」は絶対ない。「Day&Age」はファースト回帰などではなく、「Sam's Town」の空気もたっぷり吸っている。なぜこれだけセカンドの重要性を説いているかというと、ブランドン・フラワーズのソロ作がこの「Sam's Town」で扱ったテーマと深く関係しているからである。アルバム・タイトルの「Flamingo」とはラスヴェガスの中心部を走るフラミンゴ・ロードにちなんでつけられており、大仰なシンセサイザーとどっしりとしたテンポが予感的な冒頭曲のタイトルもまた「素晴らしきラスヴェガスへようこそ」なのである。ブランドンはキラーズのアルバム用に書き溜めた楽曲を使って、もう一度ソロでラスヴェガスという街を「擁護」しようと心に決めた。そこがいくら悪名高い地であろうと、彼にとってはかけがえのないホーム・タウンであり、「Sam's Town」に失敗作のレッテルが貼られていることは我慢ならなかった。そう、だからキラーズは今でもライヴの最後にセカンドの「When You Were Young」をプレイする。

 長くなってしまったな。では、その肝心のブランドンのソロ作の内容はどうなのか。サウンド的にはキラーズと何ら変わりない。感触レベルではやはりソロ作の趣も感じ取れるが、あり得ないくらいどの曲もアンセミックで、私のようなキラーズ・ファンであれば間違いなく心の中で拍手喝采だろう。私なんかテンション上がり過ぎて一晩中踊り狂ったぞ。うわーまじで日本来てくれよー! って切実に願ったぞ。野心ムンムンで結構。童顔に髭で結構。実はシャイで結構。ハード・ロックに勘違いされるのも結構。日本で売れないのは駄目だけど。さて、ここまで読んでくれたあなた、是非このアルバムを手にとってくれ。両極端にあるはずのジャンル、アメリカン・ルーツとUK的キラキラが当然のように共存する最高のアルバムだ。何だかよく分からないし、説明できないからこそ、ブランドン・フラワーズというアーティストは、あるいはキラーズというバンドはあなたにとって生涯最高の音楽体験になる可能性を十分に秘めている。私は本気で言ってるんだ。聴いてくれ、この機会に。

 ブランドンはいまもラスヴェガスの地平線のはるか向こうを見つめている。そのハートは熱く熱く燃えている。

(長畑宏明)

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ratatat.jpg 邦題を付けるなら、やっぱり「インコ大集合!」でしょう。ヴァンパイア・ウィークエンドの1stアルバムに付けられたトホホな邦題をあえて引用してみたくなる。そんなジャケットが素敵なラタタットの4thアルバムは、その名も『LP4』。前作が『LP3』だから当然なんだけれど、投げやりなのか周到に練られたコンセプトなのか、今のところ謎だ。1、2、3、4、...総勢11羽。覚めた目のインコたちがシンメトリーを描くジャケットの裏には「LET YOUR BIRD EAT ITS BEAK」の文字が踊る。「お前の鳥にくちばしを食わせろ」って、謎が深まるばかり。

 ヒップ・ホップのビートに乗っかるマイク・ストラウドの歌っているようなギター・リフとエヴァン・マストによるビンテージ・シンセのキャッチーなフレーズが相変わらず気持ちいい。今までは、ダフト・パンクに影響された「人力エレクトロニカ」という感じだったけれど、この「インコ大集合!」ではなく『LP4』では、よりアレンジの幅が広がって表現力がアップした。音を聞いていてイメージできる世界が本当にカラフル。だからライブやクラブで大音量で聞くと楽しいと思う。そして、ヘッドフォンでじっくり聞くのにもおすすめ。

 アルバム全体がちょっとユルめのBPM。アコギ、パーカッション、アナログなハンド・クラップなどが飛び交うサウンドにストリングスが奥行きを持たせる。サンプリングにも遊び心がいっぱい。虫の音や映画の台詞(ヴェルナー・ヘルツォークだって)、そしてインコたちの可愛らしいさえずり。音のレイヤーが本当に美しい。繰り返し耳を傾けていると実験的、というよりも音を楽しんでいる感じが伝わってくる。ライブで盛り上がりそうな「Drugs」では、泣きのギターとビュンビュン唸るシンセが炸裂。トロピカルなメロディの「Mahalo」(ハワイの言葉で「ありがとう」の意)は、なごみ系の小さな曲。アルバムは後半になると、どんどんトライバルでポップになる。ラスト3曲「Bare Feast」から「Grape Juice City」、「Alps」への流れが僕は大好きだ。この辺りが次のアルバム(LP5?)の布石になるのかな。

 ラタタットが鳴らす音楽には歌詞がなく、曲名も記号的。ビジュアル・イメージは極端にミニマル。テクノ/エレクトロニカのアーティストには多い手法かもしれないけれど、彼らの場合はどこか無邪気で人懐っこい。歌詞はないけれど、曲を聞けば思い浮かぶ風景や色がある。ニューヨークの賢くて意地悪な2人組は、僕たちのイメージを刺激する。しかも、踊れるんだから最高だと思う。でも、やっぱり11羽のインコたちが意味することって何だろう?それを思い描きながら聞くのも楽しい。

 僕がこのレビューを書いている今日は9月11日。あの出来事から9年がたった。偶然にも今こうして、ニューヨークから鳴らされるサウンドを聴きながら色々なことを考えた。忘れないこと。 

(犬飼一郎)

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disclosure.jpg 僕は最近「なぜインターポールを好きになれないか?」が分かった。インターポールがゼロ年代の音楽シーンに与えた影響は認めるし、彼らは商業的な成功も収めている。でも、僕にはインターポールがポストパンクのコピーバンドに見えてしまう(特に『Turn On The Bright Lights』期は)。ちなみに、「コピー」と「パクリ」は違う。「コピー」は文字通り複製だけど、「パクリ」は拝借、若しくは「引き継ぐ・受け継ぐ」といった意味合いがあると思う。そういう意味では、音楽の歴史はパクリの積み重ねで作られてきたともいえる。ルーツ・ミュージックと言われているブルースやカントリーだって、20世紀の発明品に過ぎないし、当然ブルースやカントリーの前にだって、音楽はあった。

「コピー」は音楽を広めることはあっても、発展させることはない。その「コピー」する対象に「なること」が目的だからだ。そういう意味で、僕はインターポールを好きにはなれない。しかし「パクリ」は、パクる対象の音楽を「やること」が目的だ。その「やること」には、「自分」が入り込む隙間があると思う。だから「パクリ」は音楽を発展させるのだ。そしてその「パクリ」に入り込んだ「自分」が、やがてオリジナリティを獲得していく。ビートルズだってレディオヘッドだってそうだ。みんなパクリなのだ。

 そしてディスクロージャーのデビュー・シングルである。はっきり言って、ツッコミどころがありすぎるくらいたくさんのパクリがある。UKガラージを基本として、エイフェックス・ツイン、オウテカ、オービタル、ジ・オーブなどなど。でも、お茶を濁す的に誤魔化して、「なんちゃってオリジナル」になることもなく、「だって好きなんだもん」というふてぶてしい感じも(アーティスト自身がふてぶてしい性格かは分からないけど)、好感を持てる。なんだか、ケミカル・ブラザーズをパクッたアトミック・フーリガンを思わせる(まあ、彼らの場合パクるセンスがイマイチだったけど)。グローファイやチルウェイヴに多く見られがちな、「好きなことをやってやる!」と肩を張りすぎて、結果的に趣味性が強すぎる内省的でつまらない音楽をやるバンドやアーティストが多いなか、こうした「軽さ」というのは、新鮮に映る。肩の力を抜いて、新しいセンスを見せつけてくれるのは、最近だとハドソン・モホークくらいでは?

 音自体は、決して新しいというわけではないのだけど、圧倒的なセンスが、すべてをOKにしてしまっている。そして、そのセンスというのが、なんとなくインディ的な香りを漂わせている。そこが、クッキーシーンの読者の琴線に触れるかも。「センスが大部分を占めている音楽は好きじゃない」という人もいるだろうけど、そこは大目に見て、まずは聴いてみてください。先に挙げたビートルズやレディオヘッドだって、最初はセンスが大部分を占めていたんだから。

(近藤真弥)

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gotan_project.jpg「世界は人間なしに始まったからこそ、人間なしに終わるだろう」とは、レヴィ・ストロース「悲しき熱帯」でのフレーズだが、果たして初めから人間は在るべきなのか、「在る」からこそ、喪失の儀式付けを行なうべきなのか、と考えるときに、「ダンスと貧困と愛的な何かの連関的な切なさ」が演繹される。私的にスクワット・パーティー的な瀬戸際の場所でふとマッシュアップで流れたゴタン・プロジェクトの音の破片は何故か、とても優しく悲しく、冒頭のような言葉を想い出さざるを得なかった。

 タンゴとは、そもそも19世紀末頃に生まれた混血音楽で、港湾町の貧しい一角で、キューバのアバネラのリズムなどを援用しながら、ブエノスアイレスの娼家や酒場でのダンスの伴奏としての音楽だった。ブエノスアイレスという街は、南米でも大きい港で、貿易に使われるだけでなく、ヨーロッパからの移民が上陸する場所でもあった為に、兎に角、様々な人種が行き交った。しかし、当時、本当は「アルゼンチンの白人」と言えば、スペイン人を指した。勿論のこと、19世紀の移民にはイタリア人、ドイツ人、ユダヤ人も、そして黒人も多かった。また、港湾町にはよくあるヤクザや娼婦の溜まり場にもなっており、そこで粗雑に酒場で「踊るための、あくまで伴奏」としてタンゴという形式が形作られていった。なお、1910年代後半に初めてタンゴに「唄を持ち込んだ」のはカルロス・ガルデルというのは周知だろう。カルロス・ガルデルは所謂、「歌謡タンゴ」と言うような域を越えていないものの、民謡にもいかず西洋にも被れず、独自の歌唱でアンソロジーとして纏められるような始祖にもなった。

 タンゴというのは、ベースはフルート、ギター、ヴァイオリンを用いて、リズムはどちらかというと「前のめり」で、20世紀に入ってからドイツからアコーディオンの一種という「バンドネオン」が入ってきたのもあり、それこそピアソラのような巷間的に通じる「タンゴ」の形式の鋳型が取られることになる。そして、結果的にフルートはなくなり、ピアノが導入されるものの、基軸はバンドネオンが担う事となり、あの重厚で哀愁なリズム感が産まれることになる。それと呼応するように、ブエノスアイレスではその頃、ヨーロッパ諸国からの貧しい移民の流入が相俟って、移民の持つ「悲しみ」とタンゴの、バンドネオンの持つ「悲しみ」はシンクロした。

 そして、第一次世界大戦の影響でアルゼンチン自体が好況にもたらされる中、パリジャンがタンゴに興味を示し、西洋諸国でもタンゴが用いられるようになり、結果として、タンゴは1920年代から1930年の間で洗練化されることとなりながらも、よりヘビーになる。

 そんなタンゴの歴史を踏まえ、エレクトロニカ的要素を加え、クールに上品に折衷させたのがゴタン・プロジェクトだった。兎に角、センスの良さもあり、デビューしてから映画、CMまで世界中で引っ張りだこになったので存在は知っている人は多いだろう。前作の『Lunatico』に至っては世界で200万枚をもセルアウトした。今回、彼等の4年振りのサード・フルアルバム『TANGO 3.0』が届いたが、良くも悪くも相変わらずの流麗な内容に終始しており、抜本的な梃入れや冒険は為されていない。ファースト・アルバムの中の「Epoca」のような決定的な曲がない分、地味だとも言えるし、生粋のタンゴ・リスナーからは相変わらず拒否される表層性と、ダンス・リスナーからは無視されるファッショナブルさが仇にもなっている。挑発的なアルバム・タイトル含め、フェイクを意図したスノビッシュさに溢れている。例えば、「La Gloria」では一瞬、「スラム」のスタイルを思わせる部分があるし、ストリート・ミュージックへ目配せをしてみせた部分も間接的にあるのも確かだが、あくまで「借り物」を自覚したシックな諦めが初めから投企されている。

 今回のゴタン・プロジェクトの提示する音像はファッショナブルに消費されてゆくだろう。その消費される場所は、もはや以前のようにダンスフロアーでも、インテリア・ミュージックでも、BGMでもないかもしれない。つまり、この音楽は別に「客体を求めていない」からだ。個人的に聴いていて、これだけの空虚性を感じた音楽は久し振りとも言える、意味も残響も何もない「無ではない」音楽。以前にあった、狙い済ましたようなフェイクネスさえも自らの力で、メタ的にフェイクで捩じ伏せた「人間のいない音楽」として現代的なフォルムを描く。

(松浦達)

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rose_elinor_dougall.jpg 水玉模様の服を着て、「Judy」や「Dirty Mind」でリード・ヴォーカルをとっていたのはもう3年前。ピペッツは分裂し、オリジナルメンバー3人はそれぞれ別の道へ。そして、ローゼイこと、ローズ・エリナー・ドゥーガルはソロとしての道を選び、ついにデビュー・アルバムが完成した。元気一杯なかつての音楽性は跡形もない。代わりにあるには、愁いを帯びた彼女のルックスにふさわしい作品だった。

 基調となっているのは、ロネッツやシャングリラズといった60年代ガールズ・グループのポップネスと、モータウン風のリズムセクション。だが、ピペッツとの音楽性を避けるかのように、やんちゃなポップ・ソングは一切ない。何より違うのはヴォーカルだ。「等身大の女の子」だったピペッツ時代とは違い、一貫して気品が漂っている。そのちょっぴりさびしそうな歌声は、花に例えるならコスモスといったところだろう。

 また、「Come Away With Me」や「To The Sea」を始めとする、収録曲の多くではスコット・ウォーカーやアーサー・リーを思わせるバロック・ポップの要素を導入、結果、まるで夜のメリーゴーラウンドのように幻想的なきらめきをたたえている。もちろん、楽曲のバラエティはそれだけにとどまっていない。「Carry On」ではロックに振り切ってくれているし、「Another Version Of Pop Song」ではオ・ルヴォアール・シモーヌを思わせるキーボードが歯切れよくメロディを刻んでいく。

 クラシックさにこだわりつつ新たな挑戦が感じられる、ソロとしての活動が実りあるものであったことを証明するアルバムと言えるだろう。最近ではマーク・ロンソンと共演し、着々とソロとしてのキャリアを築いている彼女。もう「ローゼイ」とは呼ぶなかれ。今の彼女は以前とはまったく違うのだから。

(角田仁志)

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rock_fashion.jpg パスカルは「人間は死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるためにそれらのことについて考えないことにした」と言った。これは簡単に「根源的に、不幸にならないために考えることにした」と翻訳し直すならば、ロックが反射させるファッション性は「幸福を目指す」というより、「不幸を避ける」為の何かに転回する。この場合のファッションは、時代の風俗性を描写する鏡でもあるから、「流行」と捉えるのも、そのまま今様に「服装」と捉えても問題は無いと思う。
 
 この10年、モード・ファッション界隈で「ロック」の文字を見ない事が難しくなり、ジョイ・ディヴィジョンやらキース・リチャーズやラモーンズ、ボブ・ディラン、果てはカート・コバーンからヴェルヴェット・アンダーグラウンドまでネタ「探し」に奔走しているのはそこまで現場を知らなくても、感得出来る。
 
 衣服史的に、昔、「衣装とはその人の生業を示すアウラ」だった。騎士、農民、僧侶諸々を指し示す体現記号として。ただ、1950年代以降において、特に若者の間で、同じ嗜好・思考をシェアするツールとして衣服を纏いだす。
 
 衣服史としてのロックで有名なのは、60年代のモッズだろうか。ジャケットの襟幅に拘り、ボタンの数に執着し、カーキのパーカーにヴェスパ。イタリアの服飾の美しいフォルムや美学を模範した形で、ロウワー・ミドルクラスの人達が「中心」を担い、ロンドンで火がつき、そのまま、富裕なワーキング・クラスにも「自然」とパスティーシュされるようになった。ザ・フー、スモール・フェイセス、そして、ザ・ジャム。また、ザ・ジャム、スタイル・カウンシル、ソロとしてロールし続けるポール・ウェラー。

 元々、モッズの必須アイテムであるフレッド・ペリーの月桂冠マークに強い「思想」が帯びていたのは周知だろう。ロッカーズとの「対立」軸を置いた時に見える差異。ロッカーズとは、今のヘビメタ勢に引き継がれるバイクメンたちの集まりで、イギリスだと北部の地方労働者に当たる訳だが、革ジャン、ジーンズのスタイルをベタに示唆する。モッズの人たちは基本、聴く音楽でもクール・ジャズやスウィングを好んでいた訳だから、「洗練された感性VS日常の野放図さを愛する人たち」の明確な対立図式は「今も」あるのかもしれない。「色彩鮮やかな服」対「黒」。「カラフル・ライフ」対「モノクローム・サンセット」。モッズは「頭も良く、財力もあったりする」ものから、それなりにサヴァイヴの導線とか体制との折り合いを付けていくのだけれども、ロッカーズは「外れ者」の道筋を行った。
 
 そして、ロンドンからはモッズのよりやわらかなものとして、「サイケ」というものが現れる。スウィンギン・ロンドン。サージェント・ペパーズの世界。そう、色鮮やかなスーツや、花柄のシャツに代表されるスタイル。ただ、「サイケ」と音楽の共振は存外なく、それだと、「ヒッピー」というウッドストックから出てきたスタイルの方が、ロックとのユーフォリックな邂逅だったかもしれない。ジェファーソン・エアプレイン、ジャニス・ジョプリン等の示したルーズで、ダラっとしていて、でも、少し褪せた色目の服装。つまりは、「BACK TO THE NATURE」。自然に還ること。今ならば、「森ガール」的なものは違う位相での「自然」を希求したが、それは「自然体」と「自然」の差くらい歴然と離れている。加え、モッズが「消費社会の到来の中で、消費社会を逆手にお洒落に生活をおくろう」としていたのに比して、ヒッピーは清潔性や消費社会なんかスルーして、そもそも人間なんて自由にある「べき」だという流れを汲んでいたと言えるかもしれない。
 
 その後、「ロック的ファッション」は百花繚乱になり、リバイバルに次ぐリバイバルなど、再・分化の波に攫われていくが、セクト化はあまり為されなかったり、「如何にも、ロック」というファッション性はなくなる。その中で、今でもフェスでの服装含め根強いのは、AC/DC等の流れを経てのハード・ロック・メタル・スタイルの「黒・革ジャン・鉄鋲・長髪」かもしれない。ロッカーズなどの流れを踏まえながらも、70年代以降はそれなりに高級志向にも選別思想に走り、逆にそのスタイルを纏う事が選民性を強めた。逆エリーティズムの観点から、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどのNYファクトリー界隈の低温でクールなスタイルは外せない。黒の革のパンツに白いシャツ。今現在でも、これは多く、そのNY発の小綺麗なものを安全ピンで繋ぎ直したのが、ロンドン・パンクと言える。

 90年代、グランジが世を席巻した際、「汚い恰好」と「カーディガン」が流行り、ブリット・ポップにより、フレッド・ペリーのポロやベン・シャーマンのシャツがハイブロウにクールに蘇り、00年代ではリバティーンズやストロークスの絡みで、スリムで洗練的でエッジなファッションが最尖鋭を極め、当時のディオール・オムを手掛けていたエディ・スリマンというカリスマの所為で、ハイ・ファッション界の方が「ロック」的になり、ストリートは古着「以前」のレベルまで落ちてしまったという反転現象が起きたのは奇妙だった。

 今はどうなのか。ロック的ファッションはここに来て、バブル、インフレ状態にある。「モードとしてのロック・ファッション」を競い合うその瀬に、遂には「LOVELESS」という名前のセレクト・ショップが生まれ、独自の目線からのセレクションで、世界中のファッショニスタから注目を受けている。

 最後に。文中では詳しく触れられなかったが、アディダスのスニーカーを履くイアン・ブラウンやアークティック・モンキーズの面々の在り方も「思想」だし、一つのメッセージだ。ファッションの在り方を考え、そこに働いたエントロピーを「確かめる」作業も肝要なことだろう。それこそ、今のロックとファッションとの「繋がり」を掘り下げていくことで、ぼやけていた音楽の鳴り方も明確になり、また、気にしていなかったかもしれない彼等の服装の意味にも視線が行くようになるのは実はとても意義のあることと思う。ロゴ・マークは決して商業的な罠だけではないのだ。

 筆者自身、フレッド・ペリーのポロシャツを着てモッズ・コートを着る意味は決して酔狂ではなく、ロックに受けたスティグマを自分なりに表象するための明確なメッセージでもある。

(松浦達)

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qururi_kotobani.jpg 前作の『魂のゆくえ』やツアー、それを巡る周縁状況、京都音楽博覧会に向けてのクエストや、携帯サイトなどに関しては、僕自身は辟易する部分があった。彼等なりのセルアウトの試みというよりは、これまで信頼してきたファンにはせめてレールを敷いてあげたい、というまるで、一種の運命共同体的なスタンスを打ち出してきたという追い込まれ方には苦い想いが響いたからなのもある。

 くるりの「モード」とはファッション業界の「波を読む」のと似ており、時折、急速な転回と分裂が為されるが着地するポイントは外していない、という奇妙な美しさと鮮やかさがあった。巷間的なピークは『ワルツを踊れ』でのウィーン録音、クラシック×ロックの折衷などという意見は個人的にはどうでもいいし、その都度のピーク・ポイントを「更新」するように表象するのが巧みな彼等はいつでも「さよなら」や「離別」をモティーフに新しい風景を見たいが為に加速し続けてきたバンドだったから、いつでも過渡期をアフォードして生真面目にワールズエンドで踊っていた無様さを追認出来ればそれで良かったのもある。

 初めに言うと、今回のアルバム『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』にはこれみよがしなフェイクも意匠も無い。メジャーデビューアルバムの『さよならストレンジャー』でさえ平熱のようで「気負い」はあったのに、そういったものさえも無い。もっと言うと、岸田氏、佐藤氏、BOBO氏の3人のアンサンブルによるバンド・サウンドが余計な情報量を排除しながら、健康的に鳴っている「それだけ」のアルバム。くるりでなければ、今の時代において、ギミックなしのどれだけ飛距離を延ばすのかが視えないシンプルな内容のものも作れないだろう。出てくるテーマも「温泉が心地よい」、赤塚不二夫的な「これでいいのだ」、「男女間の微妙な行き違い」、「麦茶の美味しさ」とかほんのささやかな、目の先5m程の日常といつもより捌けた希望的な何かが描かれており、ここには彼等の曲ではお馴染みかもしれないブレーメンもピーナッツもジョニーも悲惨な目には合わない(「犬とベイビー」での、不甲斐ない男性側に対する女性のモノローグなどは「らしい」ことにはなっているが)。

 透き通った景色に透き通った筆で描く所作の難しさを簡単に行なっている部分はくるりとしか言いようがない流石に凝ったプロダクションで、『Harvest』期のニール・ヤング、60年代のR&Bに則ったストーンズ的な野卑なロックンロール、ボ・ガンボスやSFUが持っていた辺境の音楽への愛、または岸田氏自身の嗜好が如実に表れた70年代のヘヴィー・ロック、また、彼等特有のはっぴぃえんどをメタ解釈したフォーキーな風情のもの、前作からのブルーズ・ロック路線のものまで相変わらず幅広いヴァリエーションの曲が入っている。「色々と入っている」と言っても、例えば、『THE WORLD IS MINE』の頃のような散らかった印象を全く感じさせないのは彼等自身が今、「くるり」の身の丈を弁えているからだろう。ゆえに、10代~20代前半の若いリスナーにはこの程良い温さはどこまで届くか、分からない危惧もある。

"さよなら さよなら 再起動
やり直しはきかないから"
(「コンバット・ダンス」)

 ましてや、今、「くるり」という記号を巡る磁場はB面集のベストがオリコンで1位になるという捻じれの位置にいる。それはつまり、まだ「身銭を切ってパッケージCDを買う世代」のギリギリの命綱的な何かであるとも換言出来るだろうし、だからこそ、積極的に「ラジカルな事をする」必要性は無いのかもしれないし、岸田氏がMySpaceといった媒体でふと「東京レレレのレ」を発表したり、Twitterにおいて急にUstreamを始めたり、高度情報時代への目配せをしても、総てはオプション的なものに過ぎず、逆説的に本アルバムでは余計な外部情報や雑音を拒否した、どちらかというと、人肌通うウォームな肌触りと肌理細やかさを孕んだタイトなものになっているのも自明の理と言える。反動の反動。加え、いつも、くるりの歌に出てくる「君」や「空」は儚くて所在無げだったが、それは、いずれその「君」も「空」も移ろうという瞬間に自覚的だったからで、今回は普段通り見える「青い空」にミサイルは飛んでいない。星条旗の先の不条理さを解明して「さよならアメリカ」と言いながら、僕は「ここにいる」と言う潔さもある。何だか、これだけ聴いて切なくならない、くるりのアルバムというのは初めて聴いた気がする。「僕」も「君」も等換可能な記号範囲内でもがき苦しみながら、「コンバット・ダンス」をするしかない悲しい檻に閉じられているとしても、"涙など流しやしない"(「目玉のおやじ」)と表明する明るさは非常に強い意味が宿って響く。

『図鑑』にあった閉じ方やシーンへの葛藤、『TEAM ROCK』にあった強引なダンス・ユーフォリアへの接近、『THE WORLD IS MINE』の茫漠とした風景、『アンテナ』のプログレッシヴな男気溢れる音の饗宴、『NIKKI』の3分間のポップの連弾から持ち上がるポップのマジック、『ワルツを踊れ』の荘厳さ、『魂のゆくえ』の剥き出しの痛々しさを経て、現在進行形でフラットに日々の「生活」と「コミュニケーション」に回帰しようとするくるり『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』は本質的にとても野蛮だ。だからもし、このアルバムで繋がれなくなっている受容側が居るとしたら、それも一つの正解でもあると言える。数多の化学調味料とバイアスが混じった視界で、外を歩き回って飲む麦茶の美味しさが素晴らしく、目の前に在る君の笑顔ほど、リアルなものはないと言い切れる自信は僕には無いのも事実であり、一通のメールや電子媒体を通してのヴァーチャルな遣り取りや難解で抽象的な記号論にだって、救われる瀬があり、そうなると、これはくるり流のレイドバックを企図したとも言える。

「春風」に漂っていたような万能的な幸せは無いが、その尺度を用いるに相応しい「優しい日常」をコンパクトに描いた作品の温度に対して、このアルバムを聴いた人たちが言葉にならない笑顔を、見せるのか、非常に興味がある。君と世界との闘争では世界につくのだろうか、まだ。

"泣かないで ピーナッツ"
(「魔法のじゅうたん」)

(松浦達)

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ogre_you_asshole.jpg "ここまでの君はどうかしてる"
(「バランス」)

 要は、「僕」ではなくて、どうかしてるのは君だという訳だ。このクールな突き放し方に、日本の新世代勢の表現者の一部が共有している感性のヒップな優しさを受容してしまって、グッときてしまった。ポストモダン的に「僕」を消すことを厭わないが、モダンでは「僕」は書き換え可能だということ。

 最近、個人的にエッジがあると想う日本のバンドの中、ザ・ミイラズモーモールルギャバン、踊ってばかりの国、そして、今回のオウガ・ユー・アスホール(OGRE YOU ASSHOLE)といい、彼等は積極的に「自死」の翳を散りばめる。しかも、そういった表現を覆うサウンド・テクストは意外と「ベタ」なギターロックだったり、ファンク、レゲエ、ローファイだったり、意匠は違うものの、脱力した生真面目なリアリティからの脱却の回路が敷かれているのが僕にはフラットに新しく映る。もうわざわざ「表現のために音を選ばなくてもよくなった」、つまりは「この表現にはこの音でしかフィットしない」、という規範となるレールからの外れ方が予め内在化されており、彼等の背後にはぼんやりといつも今は亡きフィッシュマンズやゆらゆら帝国などの存在が亡霊として平然と歩いている。それは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中でマルクスが、「人々は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない」として、人々を動かす「過去の夢魔」を分析したように、夢魔をそれぞれなりに嚥下して、今ここで起きる白昼夢をリアルに生き抜ける。
 
 彼等のキャリア自体は決して短くなく、また既に一定の評価を受けているバンドだが、今年の春から八ヶ岳の麓にスタジオを構え、そこで活動を始め、今回の『浮かれている人』に繋がった流れでは確実にパラダイムのシフトが起きている。森での空気感が融け込んでいるかのように何処か隙間のあるサイケデリアの中に鳥の声や葉の擦れ合う音さえ「含まれている」ような、柔らかさと緩さを孕んでおり、そこにペイヴメントやモデスト・マウス、ビルト・トゥ・スピル等が持っているUSローファイ感があり、DFA界隈が持っていたハンドメイドのダンス・ビートが揺れている。その「誤差」分をゆらゆら帝国『The Sweet Spot』以降の「隙間が埋め立てている」とでも言おうか、bonobosの光も乱反射している不気味さがある。スイートだが、毒を孕んだ甘さがある。

 キルケゴールは、人生には三つの有り様と段階があると考えた。ここで言う「段階」には、どの有り様に置かれようと、どんな人間もより高い「段階」に飛ぶことが出来るという意味が含まれている。しかし、多くの人々がある一つの段階で一生を過ごしてしまうとされてもいる。まず、この段階の人が殆どだろうが、「美的実存の段階」にいる人間は刹那的に生きていて、楽しむ機会ばかり希求して、躍っている。「感覚」の世界に浸かり、自分の快楽や気分に隷属して、面倒なことには一切、乗らない。懊悩にしても、美的、或いは鑑賞的な態度を取るだけだ。そこで軸になるのは「虚栄心」。「虚栄心」は人を多弁にさせ、「自尊心」は人を寡黙にするというアフォリズムが有効ならば、例えば、オウガ・ユー・アスホールは饒舌を気取らないのか、理由が分かると思う。

 簡単に言えば、「美的実存の段階」にある場合、人は虚無に囚われやすくなる。しかし、このような感情が故の希望の矢印を視る事が出来るとキルケゴールは考える。「不安」への肯定性。今の時代、「死に至る病」なんてもう、前提条件であれども、わざわざコース料理のメインディッシュになる程のものではない。「不安」は個人が「実存的な状況」にあると気付いた証左だとしたら、「レースのコース」に一瞥するだけなのだ。

 そういう意味に沿うと、彼等はこのミニアルバムを経て、「美的実存の段階」から「倫理的実存の段階」へと跳躍するように促す「選択」をしようとしているのかもしれない。ソクラテスの「本物の認識は自分の内側からやってくる」、という言葉に沿うならば、「実存的な空洞」を非・実存的な筆致とサウンドスケイプで脱臼させてみせた、自己における「実存的な状況」への"気付き"が、別方向に捩れるならば、次の作品はカント的なものとして「倫理的実存」に着地してしまう憂慮もあるのだが。何故なら、カントの倫理学では、道徳律や努力といった言葉が蠅のように観念を飛び回るからだ。

 彼等は果たして、「深淵への跳躍」は可能なのか、俄然興味が尽きない「過渡期の一枚」にして、「変化の橋」としてキャリアにおいて何らかの楔になる鮮やかな美しさを持った「理知的な」作品になった。「生ける理知に飛び込む」ことによって、人間がサルヴェージされるのは、本当は実存なのかそうではないのか、を露わにすることになるだろう。

 反復されるミニマル・ビート、ローファイネスと60年代のような甘いポップネス、かといって、回顧主義にはならないように仕組まれたコーラス・サンプリングとエフェクト処理、そして、ふと挟まれるシニシズムの視線が容赦なく、借り物の実存を対象化しながら、フィッシュマンズが『空中キャンプ』で提示した「夏休み」なんて何処にでも転がっているものさ、というスタイリッシュな冷酷さが「夏休みを終わらせない」という反転現象を示唆させる。でも、そこで「浮かれる彼 背に浮かぶ」と歌うように、背中合わせで、僕たちが体験しようとしている夏休みではないところが彼等のまた良い所だと思う。

(松浦達)

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world's_end_girlfriend.jpg 最近のワールズ・エンド・ガールフレンドを知っている人ほど驚くと思われる、自身が設立したレーベルから出される新作。
 
 今作は、ワールズ.エンド・ガールフレンド初期、または変名で出されたワールズ・エンド・ボーイフレンドの作品に顕著な、エイフェックス・ツインを髣髴とされるブレイクビーツが前面に出ており、おそらく筆者含む多くがイメージしているであろう美しく叙情的で大きなスケール感を持ち、そのなかに狂気や恐ろしさ が、絶妙なバランスで同居する感触は、影を潜めているといっていい。レーベルの紹介文には「破壊と構築、愛と間違いに満ち満ちた異形のポップミュージック・アルバム」とある。まさに言い得て妙。
 
 さらにこの作品が他のどの作風とも異なるように聞こえるのは、それまでと全く異なる楽曲の組み立て方によるものだろう。一般的なメロディ付きの構成で曲を組み立て、そこから歌メロを全て排除してアレンジを加えていったという。それにはどこかゲーム音楽を彷彿させる部分もある。そして何よりそのような「構築と 破壊」を地で行きながら、いちど聴いてわかるようなワールズ・エンド・ガールフレンド独特の旋律は失われていない。特に6曲目から8曲目に続く『Bohemian Pargatory』でそれが感じられる。
 
 しかしいずれにせよ全体を通してそれこそ異形のモンスターを感じさせるような、異彩を放つアルバムである。

(藤田聡)

 

*9月14日リリース予定です。【編集部追記】

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mirraz.jpg 以前に読んだ元格闘家の須藤元気著『風の谷のあの人と結婚する方法』という本に『守・破・離』の法則がわかりやすく書いてあった。以下引用。

 学びの基本は『守・破・離』の法則。守って破って離れる。最初は先生の教えを忠実に『守』ります。そこで物事の基礎を身につける。それができたら次は、基礎を『破』りつつ、そこから自分の色をつけていく。いわばアレンジ。アレンジができたら先生から『離れて』完全にオリジナル化する、それが『守・破・離』の法則。

 全ての創作はこれに当てはまると思う。完全なオリジナルというものはいろんなジャンルにおいてないだろう、基本がない人間はアレンジとか言ってる場合でもない。

 そんなわけでザ・ミイラズ(The Mirraz)の3rdアルバム『TOP OF THE FUCK'N WORLD』の話を。彼らミイラズはアークティック・モンキーズのパクリバンドと批判されてもいる。まあ、ボーカルの畠山も自ら公言している。ミイラ取りがミイラになるなんて事はあるのかないのか? 

 なんて事も思ったりするのですが、世界的に大ヒットしたアークティックモンキーズのファーストアルバム『Whatever People Say I Am,That's What I'm Not』の有名な煙草を吸ってるおっさんみたいな若者のジャケットがあります。ミイラズの0thアルバム『be buried alive』のジャケットは包帯をぐるぐる巻きにされたミイラさんが煙草を吸っている。もう超が付くほどに自覚的にパクって出てきたのがわかる。あまりにも意図的に。戦略的になのかもしれない。

 ゼロ年代以降に洋楽ロックフォロワーでもろにそれらの音楽を真似て出てきた日本のバンドなんてそれよりも前の時代よりも少ないわけで、洋楽ロック市場は縮小傾向だし、いろんなジャンルが細分化して多様化してジャンルがクロスオーバーしなくなっている、幅広くいろんなジャンルを聴く人は聴いているとしてもそれは音楽マニアのごく一部だと思う。
 
 情報が溢れすぎていろんなジャンルを横断する事は困難になってきている。一般的にはもはや細分化された小さな枠の中でそれぞれがそれぞれの好きなものを愛でるという状況だ。他の枠の中の事は知らないのだ、それをネット社会は完全に完璧に可能にした。

 洋楽聴かない人が増えてて元ネタのアークティック・モンキーズ自体を知らないんだからね、ミイラズがパクってると言っても本家の事を邦楽ロックだけ聴く人は知らない。だから洋楽ロックをまんまやっても邦楽ロックしか聴かない人にはわからない。

 3rdアルバム『TOP OF THE FUCK'N WORLD』はどうなのか? 『守・破・離』の法則のように自分の色をつけてオリジナル化できているのかということだが、完全に離れているわけではないが、完全ってのは無理だろうけども、彼らは自分たちのスタンスをきちんと打ち出している。

 ミイラズを最初聴いた時の印象はラッドウインプスみたいだなあと思った。早口でまくしたてるボーカルが。情報過多な世界みたいな早口で一気に溢れんばかりの詞を歌う。ある種のこの世界の過剰さを体現してる。ミイラズもラッドウインプスも歌詞の内容的には「キミとボク」のセカイ系の感じで、ミイラズはそれもあるけど外部を持ち込んでそこで留まっていないなって思った。そこにしか可能性がないと思っていたので僕は聴き始めた。歌詞は言葉の量の過剰さ、そして固有名詞が多々出てくる。

 江戸川コナンに刑事コロンボ、ドラゴンボールにジャンプにワンピース、ジュダイにエイトフォーに逆襲のシャアとか諸々。

 歌詞に『逆襲のシャア』って!って思ったけど。まあ、ジャンプのくだりは二十代男子の日常みたいな感じで親近感。永遠に続きそうだったドラゴンボールも終わって終わりそうにないワンピースもいつかは終わってしまうんだろう、ずっと続くものなんてあるのかなっていう、「ああ、それ思った事あるわあ」と。「終わらない日常」や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のような同じような毎日の繰り返しに見える僕らの人生も終わって行くんだろうなあ、でもそれでも続くものってあるのかなっていう、その感覚だけが現実感のようなリアル。

 そして自分の痛みをひたすら訴えて悲観的なものやそういうセカイ系とかなんかもういいっすわみたいなのが小説にしろ、音楽にしろ、映画にしろ、溢れまくったゼロ年代はもう終わらせて、きちんと次に向う姿勢がこの十年代には求められる創作の形で、それらが新しい時代を作るのだと思っていた。彼らは外部を取り入れて「キミとボク」の閉じたセカイではなく開かれた世界に対峙しようとしているのが伝わる。

 先日、クラブイベントで初めて観たミイラズのライブはどことなく儚い感じがした。今、自分たちの方向性を見つけて、真似してた影響された部分から少しずつ脱してオリジナルに向っていこうとしているのがわかる、3rdアルバムを聴くとそれは確信に変わった。でも何か今にも崩壊してしまいそうな、そんな空気やロックンロールの儚さが僕には感じられた。

 そのギリギリの所でやってるからこそ突き抜けれるのかもしれない。彼らのドキュメンタリー的な要素も極めて含みつつ、自分たちが好きなものや影響されたものから脱して飛び立つ瞬間、メタモルフォーゼするその瞬間がこのアルバムには収められている。

 ミイラズがきちんと自らの羽で飛び立って行くのか、落下してしまうのかはわからない。だけども飛び立つ瞬間は全ての希望と絶望を含んでいる。そんなドキュメンタリー。

(碇本学)