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dark_night_of_soul.jpg このアルバムの発売を一度は見送ろうとしたレコード会社の人たちは頭がおかしいのかも。素晴らしい作品をどんなことがあってもリリースすることがレコード会社の役割だとしたら、なおさらだ。そして今、ようやく僕たちの手にこのアルバムは届いたけれど、それまでに色々なことがありすぎた。失ったものが本当に大きすぎる。このアルバムのメイン・ソングライターであるスパークルホースのマーク・リンカス、そしてゲストとして参加しているシンガー・ソングライターのヴィック・チェスナットの2人は、リリースを見届けることなく自ら命を絶ってしまった。僕たちの心を揺さぶった2つの悲しい出来事が、このアルバムに暗い影を落とすのも事実。でも、それ以上にここで鳴り響く13曲は美しくて、皮肉にも生命力に満ちあふれている。

 ゴリラズのプラスティック・ビーチへの冒険のように音楽ファンをワクワクさせるアルバムとして、この豪華なコラボレーションはもっと注目されるべき。ただし、冒険の行き先は南の島ではなく、「魂の暗夜」だけれども。『Dark Night Of The Soul』は、ナールズ・バークレイやブロークン・ベルズでの活躍も素晴らしいデンジャー・マウスが、映画監督のデヴィッド・リンチとスパークルホースことマーク・リンカスとスタートさせたユニット。デヴィッド・リンチが視覚化するビジュアル・イメージ、スパークルホースが紡ぐ優しいメロディ、そしてデンジャー・マウスによる繊細なプロデュース・ワークが呼応し合って、美しくも深遠な世界を描き出している。耳を澄ませてみよう。

 フレーミング・リップスが元恋人への復讐を歌い、スーパー・ファーリー・アニマルズのグリフがそれに続く。ストロークスのジュリアンにはローファイなサーフ・ポップがぴったりだ。ピクシーズのブラック・フランシスはいつもよりキーが低い。イギー・ポップはファズで歪んだギターと共に舞台へ登場する。音楽を聴きながら、ジャケットやブックレットを眺めてみる。自分の気持ちのコンディションによって深みが違う闇と生々しい原色が混ざり合う。それはデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」や「ブルー・ヴェルベット」そして「マルホランド・ドライブ」での時間軸の歪み、観念の揺らぎを思わせる。どの曲も残酷なほどメロディは優しく、ハーモニーは儚い。ヴィック・チェスナットの歌はホラー映画の1シーンのよう。元グランダディのジェイソン・ライトル、スザンヌ・ヴェガのアコースティック・バラードも素晴らしい。

 僕はこのアルバムをCDショップで手に入れてから家に帰り着くまで、iPodでオアシスを聞いていた。「Whatever」とか「Live Forever」とか。ずっと聞きたかったアルバムなのに、2人の大好きなミュージシャンの死が重すぎて、びびっていたのだ。オアシスというバカみたいなバンド名、ほとんどの曲から漲る生命力に心を預ける。ベタだけど、僕はそうした。数年前、僕が同じように大切な人を失った時もそうだった。フレーミング・リップスが「Do You Realize??」で歌っていたように、幸せな時に泣きたい。でも、「知っている人だって、いつかみんな死ぬ」ってことを、僕はまだ「Realize」できていないから。

 もう一度、再生ボタンを押して『Dark Night Of The Soul』を聞く。マーク・リンカスがカーディガンズのニーナとデュエットしている「Daddy's Gone」がいちばん好きだ。「目を閉じて。夢がやって来るまで」と歌われる父と子の歌。僕はこの歌を、このアルバムをずっと聞き続けるだろう。デヴィッド・リンチ、デンジャー・マウス、スパークルホースと彼らのもとに集まった仲間たちの想像力(=創造力)こそが生命力だ。僕はそこに助けられた気がした。ひとりでも多くの人に、この音楽が届きますように。

(犬飼一郎)

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underworld.jpg カール・ハイドという人は、やはりロックだ。というか、やっぱりロックをあきらめきれてないんではないか? カール・ハイドのロックスター願望が、アンダーワールドをロックな存在にしていると僕は思う。リック・スミスは、フロントマンの役割をほぼカール・ハイドに任せているように、自分から積極的に前へ出る人ではなく、ひたすら音を生み続ける、プロデューサー的な性格の人だし、そういう意味でも、アンダーワールドは、やはりカール・ハイドの存在によって、ロック的な文学性やポップ性を獲得している部分が大きい。それでも、アンダーワールドがフロアの最先端とリンクして、所謂「現場」と呼ばれるところや、そこに属する人達から一定の評価を得ていたのは、二人が(ときにはダレン・エマーソンも)、常にアンテナを張って、時代やフロアの感覚を感じ取って吸収し、それをアンダーワールドなりの返答(曲)として作り上げるのがリック・スミス、その返答をより分かりやすく、より多くの人々に届ける役割を、優れたバランス感覚でもってこなすのが、カール・ハイド。これがアンダー・ワールドのメカニズムだと僕は思う。

 『A Hundred Days Off』のときから、僕はアンダーワールドに対して「あれっ?」と思い始めていた。ダレン・エマーソンが脱退してから初のアルバムということで迷いがあり、その影響からか、内省的な雰囲気が強く、様々な音を必死で集めた感が、少し痛々しくもあり、その必死さが、ギリギリのところで自分の心を惹きつけるエモーションとなっていた。次の『Oblivion With Bells』は、さらに内省的な内容になっていて、分かりやすさという点では、過去のアンダーワールドのアルバムと比べて、お世辞にも分かりやすいというわけでもなければ、とっつきやすいわけでもない。しかし、クリック・ハウスやミニマル系など、当時注目され始めていた音楽を取り入れたり、少し先を予見したワールド・ミュージック系のテクノなんかもあったりして、「調子戻してきたかな?」と思っていたのだけど、最新作『Barking』を聴いて、僕は複雑な気持ちになってしまった。

 『Barking』は、外部の人材を多く招き制作された。でも、その割には、あまりにも統一感がありすぎると思う。もっとアレンジなんかに影響があってもいいし、何より影響がないほうがおかしい人達と組んでいるんだから。新しい空気を入れて、ポジティブな気分になるために、外部から人を招いたとすれば、それは安易に思えてしまう。アンダーワールドは、さながらフェリーとイーノのように、カール・ハイドのひたすらポップであろうとする姿勢と、リック・スミスの趣味性が高い曲、それらがせめぎ合い融合し、音のシャワーとなって放出される。それがアンダーワールドというバンドマジックであったと思うし、僕もそのマジックから生まれる「無血的にあらゆる人を支配しようとする幸福感と恍惚感」が好きだった。しかし、『Barking』には、そのバンドマジックはなく、あるのは、ひたすら上機嫌なアンダーワールドの姿である。そして、その上機嫌さというのは、アンダーワールドの昔からの本質であり、わざわざ外部から人を招くまでもなく、持っていたものだった。つまり、「こうまでしなければ、こうしたヴァイヴを持ったアルバムを作れなくなってしまったのか?」という確信に近い疑問を、『Barking』を聴いて抱いてしまったのである。

 決して駄目なアルバムではないし、音作りの技はさすがだと思うし、カール・ハイドの力ある歌声は、過去最高と言えるかも知れない。ライヴで鳴れば、アンセムになるであろう曲もある。なんだかんだ言っても、愛聴するだろう。しかし、しばらくは、『Barking』を聴くたびに、「もはや、好きだったアンダーワールドは戻ってこないのか? だとしたら、なぜ僕は今でも、アンダーワールドを聴いているのだろうか?」という複雑な感情と疑問に向き合わなければならないだろう。

(近藤真弥)

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les_savy_fav.jpg 快進撃はまだまだ続いている。

 2007年の『Let's Stay Friends』がUS/UK両方から絶賛されたレ・サヴィ・ファヴ。このアルバムのエッジの立ちっぷりは尋常ではなかった。その後、バンドはフェスティヴァルの常連になり、フロントマンのティム・ハリントンはテレビ出演もこなすようになった。90年代半ばから活動し、活動休止期間を挟んだ6年ぶりのこの作品まさにブレイクスルーしたわけだ。

 とはいえ、彼らは名声にどっかりとあぐらをかくような連中じゃない。特に、ベースのシド・バトラーはレーベル、フレンチキッスのオーナーとしてパッション・ピットやドードーズ、ローカル・ネイティヴスなどを世に送り出しているだけあり、多くのバンドの兄貴分であろうとしているのだろう。3年ぶりとなる今作『Root For Ruin』でもクオリティの高さを見せつけてくれた。

 まず印象的なのは、2人のギタリストによる技巧的なプレイ。時に轟音をまき散らし、時に緻密なメロディを鳴らす共演にはぐいぐいと引き込まれてしまう。ドラムだって負けてはいない。地響きの力強さで曲を鼓動させる。そして、何よりティムのヴォーカル。パワフルなハイトーンや落ち着いた歌いぶりなど、そのレンジの広さには驚かされる。

 方向性は前作と基本的に変わらないものの、不穏なギターのイントロからシャウトが印象的なコーラスになだれ込む「Poltergeist」、ミドルテンポでしっとりと聴かせる「Dear Crutches」、そして群を抜いてキャッチーなメロディの「Let's Get Out Of Here」など傑出した楽曲揃い。確かに、『Let's Stay Friends』のときの衝撃はないかもしれない。だが、変わらずクオリティの高い作品であることは間違いない。

 このアルバムの曲をひっさげて、彼らは相変わらず熱狂のライヴを繰り返すのだろう。そして、ティム・ハリントンは嬉々としてカオティックなパフォーマンスをするのだろう(半裸でオーディエンスにキスしまくるからね)。ライヴバンドとしての名を馳せた彼らが、再び渾身の作品を届けてくれたのだから、ぜひここ日本でも早く彼らが見れる日が来るといいな。切に願っています。

(角田仁志)

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kisses.jpg「誰ひとりとして他人が現実に存在することを本当には許さない、と私には思われる。他のひとが生きており、私たちと同様に感じたり、考えたりしていることは認めることができるだろう。だがつねに、自分とは異なるという匿名的な要素なり、物理的なハンディキャップが残るだろう」(フェルナンド・ペソア)

 「アメリカのバンドは僕らがファンとして夢中になるようなメロディーや音楽により才能があるように思えるよ。イギリスのバンドは大抵悪い真似に聴こえたり、そんなに誠実や特別には聴こえないな。」とは、アメリカのアーティストを中心に良質なインディ・サウンドを掘り下げて現在の「シーン」を牽引する、イギリスはロンドンにあるトランスペアレントの創設者の一人の言葉である。「僕らは特定のジャンルとだけ関わったり、リリースしたいというのはないんだ。素晴らしい曲を探しているんだよ。」--音楽のジャンルの壁を「transparent(=透明)」にしようという意図から命名されたというこのレーベルのロゴはしかし、「今」は兎角、よく目に入ってくるような気がする。

 「この1年半くらい、僕はプリンストン(Princeton)にありがちなフィーリングとは違う曲を書き始めている。元々はストリングスやホーンが入ったディスコ・レコードをやろうと思ってたんだけど、お金もないから自分の家のガレージで録音することにしたんだ」--ジェシー・キヴェル(Jesse Kivel)

 プリンストンといえばカリフォルニアはサンタモニカで育った双子のキヴェル兄弟をco-フロントマンとし、アーサー・ラッセルの紆余曲折と暗中模索にニュー・オーダー的なニュー・ウェーヴ、電子音楽のエッセンスをマッシュアップした浮遊感のあるシンセ・サウンドにジルベルト・ジル的トロピカリアの風を吹かせたような、幅広い参照点を折衷した音楽性を持つインディ・ニューカマー・バンドの旗手だが、マット・キヴェルがサイドプロジェクトとして始めたミステリー・クロウズ、スリーピング・バッグスでそれぞれ、リアル・エステイト、ビッグ・トラブルド的な「古き良き、ギターポップ」への憧憬と、マイブラ、ライド的なシューゲイズ・サウンドを展開する中、双子の片割れであるジェシー・キヴェルはキッシーズとして、自身のパートナーであるジンジー・エドモソンとフォーキーでトロピカルなサーフ・ポップを始めたというのが面白い。

 最大公約数的なメタディスクールが社会の中で成立している状態の崩壊、或いは理想が共有されている状態としての集団的転移の衰退が現代だとするならば或いは、小崎哲哉氏が指摘するような「浮遊するジェネレーション」的な「地に足が着かない、漠たる不安」を私たちは「現在」、抱えている状態にある。そうした条件下においてMGMTがソニック・ブームをプロデューサーに迎えたのも、或いはビン・ジ・リンのような軽やかなディスコ・サウンドの希求が為されているのもだからある意味では、「そういう時代」の起こした因果なのかもしれない。
 
 そうなるとウィークエンド、スミス・ウエスタンといったシューゲイザーのフォロワーや、或いはウォッシュト・アウト、アクティヴ・チャイルドのようにフォグでアンニュイなヴォーカルに空間を含ませるようなシンセサイザーが乗ったフローティングなブリージン・ディスコ然としたアーティストが大半を占めるトランスペアレントから今年5月にリリースされたキッシーズ「Bermuda」EPの即日ソールド・アウトという反響の大きさも頷ける。それに、今回のアルバム『The Heart Of The Nightlife』の配給元がシミアン・モバイル・ディスコ、リトル・ブーツ、ブラック・ゴースツ等のディス・イズ・ミュージック・リミテッド、更に世界に先駆けて発売された日本盤が100%オレンジのジャケットと共にカイト、ヨット、タンラインズらの作品を扱う本国インディ・レーベルの雄、金沢のラリーからとなっていることも実にリマーカブルである。

 「きみと踊っていたら何だか、友達がいなくなっちゃったような気がするよ/ああ僕は独りだよ」--「Bermuda」に於ける「きみ」は最早「人間としての君」の実体を失っていて、センチメンタルなビートに乗って一人称の彼は記号と手を繋いでいる。「何だかもう、よくわからないんだよ/きみは何者なの?(People Can Do The Most Amazing Things)」「恋人のために時間を潰さないようにしなきゃ...だってもう、十分な気がするんだ/もう飽きちゃったよ/ねえ、でもきみが恋しいんだ(Kisses)」--キッシーズが謳う「人間が二人居る」というこの事実は、かくも切実にリスナーの胸に突き刺さってくる。

 地に足の着かない不安を真っ直ぐに見据える「そこ」に真新しさはそれほど感じられない。しかし、パウル・ベッカーは言う―私たちが「他者」という異物の中に見出すのは常に自分自身である。足場を失った「若者」は、不可知で不安定な視座に立って、「そこに、在る」ものとしての交わされることの無い情報、即ち「空洞」を見つめる。

 そういった意味でも、本作を聴くにつけ、閉塞する自意識のセカイを謳うジェシーの「時代を感知する優秀なアンテナ」と、ウエスト・コーストから押し寄せるその「波」をサーフする音が「今」、メランコリックな響きと共に視えて来るのではないだろうか。

 グローファイ/チルウェーヴというタームの胎動が確認されてから約1年、ブルックリンのネオ・サイケデリアや新世代のノイズ・ポップ、或いは「国境の垣根を越える象徴界のスマートなロック」のウェイヴスを踏襲しつつ、キャッチーなメロディ・ラインはそのままに、ファジーで温度感のあるオーガニックなダウン・ビートがオーヴァーグラウンドに出て来たのは私はだから、偶然ではないと思っている。

(黒田千尋)

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drivan.jpg なんだかんだで人は宗教的とも言える自分だけの世界を持っていて、それは誰にも言えない、または言いたくない類のものであったり、人には理解されないものであったりする。とは思うのだが、現在では、その自分だけの世界がオタクという言葉で称され、フランクに誰にでも提示できる環境が整っていると感じる。思えば少し前ならば、人をオタクと呼ぶことには蔑称の意味も含んでいたが、今ではオタクであることがカッコいいという風潮がある。その風潮が出来上がったからこそ、エレクトロニカ・アーティストの機材オタク的な音楽世界や自己満足的な世界観がここ日本で受け入れられる環境が整ったのだと感じる。

 例えば一部のクラブ・イベントにおいて、アンダーワールドでもダフト・パンクでもなく、オウテカを流す方が、場が盛り上がるという状況は何度か目にしたし、ヤン・イェリネクやハーバートといった、盛り上がるというよりは音マニアあるいはオタク的な側面が強いアーティストの楽曲しか流さないことを強調し、それらの音楽がオシャレであることを強調したイベントも存在する。もう「オタク」も「マニア」も蔑称ではなく、カッコいいものなのである。少し前の書籍になるが、菊地成孔の『聴き飽きない人々』という対談集において、音楽評論家の岡村詩野氏と菊地成孔氏の対談で、最近の若いリスナーは聴きやすいポップスを知らず、聴こうとせず、やや難解な音楽を聴きたがる傾向にある、という旨の発言があったが、それはリスナーの、オタク属性化を示しているように思う。そこには音楽によって誰かと繋がることは頭になく、自己の世界にどっぷり浸かりたいという欲求があるように僕には思えた(僕にもそういうところはあるのだけど...)。

 ドライヴァンの本作『Disko』は、ノルウェーを代表するデザイナーであり、エレクトロニカ・アーティストであり、音楽オタクでもあるキム・ヨーソイが結成した北欧の女性3人を加えたバンドのデビュー作である。北欧だからなのか、ムームの2ndや3rdと似た雰囲気を持つ。どの楽曲もクオリティは高く、ヴァリエーション豊かとは言えないが、寂しげなこの音楽はひとりだけで聴きたいと思わせる。もともとダンス・パフォーマンスにキム・ヨーソイが楽曲を提供したのがバンド結成のきっかけらしいが、4つ打ちのダンス・ミュージック的なところはなく、どちらかと言えばフォーク・ミュージックと表した方が適している。歌詞は全てスウェーデン語で女性ヴォーカルの涼しげな歌声が全曲つらぬかれているが、プロデュースも務めたキム・ヨーソイは女性ヴォーカリストの最も深くにあるもの、つまりはヴォーカリストの宗教的なまでの深い部分を引き出そうとしているかのような音響処理や暗いトーンの音色を配置している。そしてそれが奏功している。まるでつぶやいているような歌声。冷酷で淡白。しかしだからこそ迫ってくるものがある。どうしようもなく寂しいがゆえに、歌に、音そのものにすがろうという姿が見える。

 TVゲームであろうと漫画であろうと、いわゆるオタクと呼ばれる人々がそれらに夢中になるのは何かを得るためではなく、自身を満足させるための救済の行為なのかもしれない。それがドライヴァンの場合、音楽に身を預けることだったのではないだろうか。音楽をまず鳴らしたいという欲求よりも、音楽によって自分で自分を認めたいという欲求。そんなことを聴いていると思うのだ。「認められなくてもかまわない。音楽はわたしを救うのだ」と。音楽家は自分の音楽によって救われる。聴く側は音楽を聴いて浸り、分析し、または批評し満足することで救われる。それらは誰にも理解されないものかもしれない。しかし、そうしなければオタクは自分を保てない。本作はそういう類の音楽であると僕は思う。もはや音楽オタクという言葉が一般化し、ブログやツイッターなどで批評する環境が整い、作品をどう受け止めて、どのように評するのかが意識的にも無意識的にもオタクにとって自分の存在価値を示すものになった現在、需要のある一枚に成りうる作品かもしれない。

(田中喬史)

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garda_die_technique_die.jpg 知る人ぞ知る良質のインディー・バンドの産地、ドイツのドレスデンを拠点に活動するバンド、ガルダ。ヴォーカリストのリーマンと、ドラマーのロニーの二人を中心に、流動的にチェロやトランペットを含む最大9人のミュージシャンがライヴやレコーディングに参加している。 
 
 リーマンのアコースティック・ギターの弾き語りを中心に、多くの楽器が重なり合いながら、時に静かに、時にエモーショナルに展開する楽曲は、かつてのブライト・アイズや、カリッサズ・ウィアード(バンド・オブ・ホーセズやグランド・アーカイヴスのメンバーが所属していたシアトルのバンド。少し前に再結成して現在も活動中。)を彷彿させる。マーク・アイツェル率いるアメリカン・ミュージック・クラブのドイツでのライヴのサポートをつとめたこともあるというのにも、納得だ。 

 その美しいメロディーと、繊細な響きを持ちながらも力強く響くリーマンの歌声は、スロウで静かな音楽を愛するリスナーの皆さんの琴線に優しく触れるだろう。

(山本徹)

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viridian.jpg ポップだけど強さもあって、ピュアでロマンテイスト。そして、どこか品格のようなものもあるビリジアンの2ndミニ・アルバム。

 「やり手側としては、気合いだろ!! みたいな感じだったので、そういう解釈は嬉しいですね。前作出してから人間的に成長したので、そういうのが音に表れたんだと思います。凛としたところとか。」(Dr、神谷佑。以下K)

 愛知県在住の3ピースバンド、ビリジアン(viridian)。エコ・バニからtoe、soulkidsまで幅広いバンドをフェイバリットにあげる彼らは地元のライブハウスで知り合い、約5年前から現在のメンバーで活動しているという。「バンド名決める時に色の名前も良いなってなって、好きな色が深緑色と紫色だったんですよ。ビリジアンとモモーヴで迷って、最後は音の響きで決めました。」(Vo/AG、佐野仁美。以下S)というバンド名もナイーブさと鮮烈さが同居していてかっこいい。

 今作は前作よりサウンド面で大人っぽく、そして小気味よくなっているのだが、何か意識していたのだろうか。「ライブ感と衝動、これは意識してましたね。レコーディングのやり方もそういう風にして、フレーズとかもきっちり決めずに勢いで。それが十二分に発揮された作品になってると思います。」(K)

 ライブ感と衝動、それに直結するような歯切れの良いリズム・セクションも素晴らしく、佐野仁美の歌声に絡み付く哀愁のメロディもまた鳥肌もの。ヴォーカリストである佐野仁美の書く詞には出会いと別れ、君と僕の距離、孤独など目に見えないものが描かれていて、それを聴く度に私たちは勇気をもらう。「前は聴き手を意識してキャッチーなものとか、覚えやすいものを作ろうとしていたんですけど、今回は内から出るものを一方的にぶつけています。どうしようもなくて吐き出したって感じなんです。」(S)

 表情豊かな女性ヴォーカルとフォーキーで透明なバンド・サウンドは、年齢にたがわずかなりの本格派志向。そして、激情と乾いた詩情を往復しながら昂っていくその歌世界は強烈な訴求力を放っている。シンプルでありながら印象的なタイトルについて。「シグナルは信号や合図って意味があって...。タイトルとして僕的にしっくりきたんですよね。(この作品が)何かの合図になるのかな、と。」(EG、宮地貴史)

 絶え間なく進歩を続ける彼らの現在を映し出す一枚。これからにも勿論期待なのだが、まずはこれを聴くべし。

(粂田直子)

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prince.jpg 初期のロックンロールにおいて、「弾圧」というものは白人優越主義のヘゲモニーが強く動かされたために、暴力的装置が働いたとヘゲモニー論で解釈出来る。僕はロックンロールという言葉を聴くと、ふと彼のこの歌詞を思い出す。

"赤ん坊が会話して 
スターウォーズが飛び交い 
近所は暗号で合図 
もし夜が来て爆弾が落ちたら 
誰か夜明けをみることはあるのだろうか"
(Sign O' Times)
 
 まだまだ夜明け前。19世紀半ば~後半にアメリカの芸能でミンストレル・ショウというものがあったのを知っているかもしれない。ミンストレル・ショウとは「白人が黒人に扮して」歌入りの演芸会を開くというもので、顔を「黒く塗った」白人の芸人たちが歌い踊り、そこを濾過して伝達されるのは「南部の黒人の実態などを知る由もない北部の白人たちのバイアスのかかった"黒人らしさ"のモティーフ」でしかなく、そこには無論、今も根付く「白人/黒人」の差別構造に依拠した上でのエキゾティシズムが前景化される訳だが、そういうのはスティーヴン・フォスターなんて歌手を問わずよくあるものでもあり、「声大きい者」達の偏見と歪曲によって幾つもの歴史は捻じ曲げられてきているというのは音楽史を除いても常だ。逆説的に、例えば、白人のエミネムが「ヒップホップ」という分野で上を向こうと思った時にどうしようもなく立ちはだかる障壁、それは形容し難い暗黙にして歴史の桎梏だったりするのだ。

 奴隷制度が堅固だった時期は、黒人と白人の実質的接点などないに等しかったが、差別意識や優越意識は温存されたまま、一般社会的に問題はなかったものの、南北戦争の時と言えるだろう、数多の奴隷が「自由の身」となったことで、紛糾する瀬は凡そ推測の通りになった。ま、現代でもそうだが、既得権益を護ろうとする人たちの根深さは革命や政治システムの変化を先刈りするからだ。

 勿論、常識的にミンストレル・ショウの場所に、観覧者としても、黒人は居なくて、白人の下層労働者達は息抜きの為にそういった道化を笑い飛ばし、日々の生活のガソリンに充てていたという見方は出来る。そこでは、19世紀後半に増えたアイルランド、ドイツ、イタリア、東欧系などからの「新移民」層によって支えられていたというのは紛うことない。白人たちが顔を黒く塗り、パフォーマンスするという行為性を通じて、連帯し、アメリカ人としてのナショナル・アイデンティティを保持しようとしていた文脈を僕は否定出来ない部分があるし、昔、大阪の劇場とかで見ていた景色というのは、僕は鮮明に覚えていて、「此処」でしか現実感がない人達も居るのだろう、と思った事もあったし、彼等の居すまいは凛ともしていた。

 この「黒人のイメージ」は、ミンストレル・ショウだけではなく、このアメリカの大衆芸能のルーツから枝分かれし、発展していったヴォードヴィル、バーレスク、ミュージカル、ダンス、映画などにも引き継がれた。今でも、「一方的な黒人描写」が多いのは一概に言えないにしろ、知らず知らずのうちに、芸能が巻き込んでしまった「暗部の舞踏会に僕達が無意識に足を運ぶこと」によって、礎が築かれていっているかもしれない。そんなイメージと現実。そのイメージとしての自分を時に「記号」に変えたりして、シーンを攪乱させ、自分の前さえ呼ばせないようにするエゴというより、信念を持ってブラック・ミュージックの刷新を試みたアーティストにプリンスが居る。

 彼のこの10年の動きの凄さは寧ろレディー・ガガなど比べ物にならないくらい芳醇で、広がりのあるものだったことは知っているだろうか。00年代のプリンスの速度と強度は凄かった。1作品毎に色を変えてくるクリエイティヴィティ。01年の『Rainbow Children』ではジャジーに生音のバンド形式でネオ・フィリーソウルへの回答とも形容できるスムースな演舞をしてみせながらも、歌詞はスピリチュアルで内省的という面白い作品だった。03年の『N.e.w.s』までにはサイト会員への限定のアルバムやライヴ盤もあったが、この作品は長尺のインストが代表するように兎に角、グルーヴがうねっていた。06年の『Musicology』ではロックチューンからメロウなバラッドまで網羅した盤石な内容で、グラミーにおけるビヨンセとの共演やツアーも成功して、完全にプリンスは「過去の人」ではないことを巷間に知らしめた。引き続いての『3121』、更に07年の『Planet Earth』の多種多様な曲を縦横無尽に捌いてみせ、08年のコーチェラでは「Creep」をカバーするなど盤石のステージを見せた。

 そして、この新作『20Ten』はニューウェーヴとポップ・ファンクのケミストリーが生まれている好盤と評していいだろう。10曲40分というコンパクトさながら、オープニングの「Compassion」なんてまるで「Let's Go Crazy」のようなキラキラしたシンセが遠景化して聴こえ、彼自身のギターのリフも格好良く、敢えて狙ったのだろう80年代的な音に仕立てあげた手腕は功を奏している。過去の名盤『Sign O'Times』辺りの重厚さはないが、音はかなり絞られており、ストイック。白眉は「Future Soul Song」で見せる伸びやかなバラードだろうか。オールド・ファンは「相変わらずの殿下」として、ここから入るファンは普段聴いているものとは、少し違うキュリアスなブラック・ミュージックのバネを少しは感応出来るかもしれない。ディアンジェロの沈黙がいつの間にか、忘却にしか繋がらないのではないか、という危惧があっても、プリンスはまだまだ手綱を緩めない。

 惜しむらくは、ヨーロッパでのみ新聞・雑誌の付録CDとして無料配布され、その他エリアでのリリースは限定状態であることだ。80年代回帰がヒップな今にこんな新作を出してくる彼のセンスこそがまたもや評価されるべきであるし、今はあの黒と白の垣根を越えようとした偉大なポップスターも居ないのだ。居ないからこそ、プリンスには黒や白の軸を対象化するべく、精力的に真摯に思いっきり弾けて欲しい、と希ってやまない。まだ、「夜明け前」なのだから。

(松浦達)

 

*本文中でも触れられているとおり、本作品は通常の販売ルートでのリリースではなく、イギリスの新聞デイリー・ミラー紙(Daily Mirror)の付録CDだったと思しきものが輸入盤として日本にも限定入荷されていた模様。以前はAmazonやHMV、タワーレコード等で購入可能であったが、今現在は在庫切れの状態が続いているようである。また、プリンス本人の意向によりインターネットによる本作品の楽曲配信は一切行われていない。【編集部追記】

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tokimonsta.jpg 音が古い。いや、悪い意味じゃなくて古い音をどのように新しく聴かせるか、ということに意識的だと思えるエレクトロニカを鳴らすトキモンスタことジェニファー・リー。フライング・ロータス率いるデイデラスやガスランプ・キラーが所属するレーベル、Brainfeederの紅一点。LAを拠点に活動するコリアン・アメリカンの彼女の『Midnight Menu』、これはもうやっちゃった者勝ちみたいなところがある。音の質感自体は古いエレクトロニック・サウンドに琴や韓国伝統音楽を大胆に取り入れ、「マイナス×マイナス=プラス」、みたいな、「古いサウンド×古いサウンド=新しい音」という具合に音楽を構築し、ひょいと自然に差し出された音に、嗚呼、これは気持ちがいいや、となって新しいとも感じてしまう。もちろん古けりゃ悪い、新しけりゃ良いってもんでもないのだが、エレクトロニカにアジアの古き音楽性を取り入れることは誰かがやりそうでやらなかったことではある。キワモノ的と言ってしまえばそれまでだけれど、いやいや、ファースト・アルバムならキワモノ的でもいいじゃないか。逆に流行に忠実な作品がファーストならばむずむずするよ。
 
 童顔、眼鏡女子という、もうそれだけで萌え要素たっぷりな彼女。眼鏡を外しても美人。どうせなら顔写真をジャケットにした方が売れるんじゃないか、などと、余計なお世話を言いたくなってしまったけれども、「リスナーの為に音楽作ってるわけじゃない」という旨の発言は、ツンとして媚びない彼女の姿勢を端的に表している。そう、傲慢でいい。匿名性の高いエレクトロニカにルックスは関係ない。いや、ちょっとあるけど...。エレクトロニカは売れない音楽であるわけだし。4千枚売れれば大ヒットらしいし。でもツンとしていながら綿菓子のような甘さが口の中で溶けていく。そんなふうに感じられる本作はやっぱり女の子だなあと思わせる。理詰めではなく、あくまで感覚で作っていると思える本作は過剰にアート志向でもなく、複雑でもなく、とにかく大音量で聴けば最高だろうな。フジのフィールド・オブ・へヴン辺りで鳴っていたら、さぞ気持ちいいであろうという音に溢れる。しかもポップなこの音楽はけっこう売れる作品なんじゃないかなと、これまた余計なことを言いたくなった。音がとっても緩やかで、奇をてらっていないのです。だからいい。ボーズ・オブ・カナダから哀感を抜き取ってスウィートにしたようなエレクトロニック・サウンドは何かに誘惑されているみたい。その何かはちょっとだけセクシャルな甘くて酸っぱい恋の味というやつで、いや、まあ、その、かなり、萌える。それはさておき。
 
 ツンとした彼女であるが、しかし、音楽そのものは実にリスナー・フレンドリー。ビートの弾力は柔らかく、ヒップホップ的であったりランダムだったりと、工夫があり、メロディとビートをはっきり別けた音楽性はその両方が同時に耳に入ってきて少しだけ混乱しながらも、こりゃあトリップ感が心地いいや、という、混乱が心地の良さに繋がるパラドックスが良いじゃないか。さらには先に記したようにアジア伝統音楽の要素が強調された音が鳴る。「韓国伝統音楽の深みを知った」と言う彼女が鳴らすその音は奥が深くエキゾチックで神秘的。やはりその伝統音楽の奏でと、音楽性が相反するエレクトロニカと同時に雄弁に鳴らされているところが本作の良さで面白く、コリアン・アメリカンの彼女にとって自分の中に流れている血には逆らえないところもあったのだろうさ。そりゃもう否応なしに。
 
 そもそも本作以前に創作されたアルバム以外の作品が、ジャジー・ヒップホップと捉えられていたことに嫌悪感を露にしていた彼女が別の新たなサウンドを創作しようとしたのは必然で、多くのリミックスやプロデュースで知名度とともに実力を上げ、現在はLAに限らずアジアやヨーロッパまでツアーを周り、ハドソン・モホークと共演する予定もあるとかないとか。唯一無二とまではいかなくとも、ビート・ミュージックとしても面白い。そんなこんなでこの作品、とても気持ちがいいんです。ゆらゆらと揺らされるんです。良作です。

(田中喬史)

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russian_pianism.jpg 「音とは顕われた瞬間に消えていくものだ、そしてその音の連続が音楽である」とは、ピアニストのアファナシェフの言葉だが、記憶の中で点が散在しながらも結び合わない「あったはずの記憶」を現前化させるデモーニッシュな引力がロシア・ピアニズムと言われる(些か、ジャンル内ジャンルとも言える)一連の音色、旋律には宿っている気がする。例えば、ショスタコーヴィッチ『自作自演集』を聴いたときに感じる「有得ない重厚さ」、とは社会主義圏の持つあの特有のストイシズムと暗がりの美はハイパーキャピタリズムの進捗してしまったこの世界では最後のローファイ(人工的技巧主義)だとも言える。

 91年にソ連が崩壊してから、そこまで保存されていた貴重な音源が全世界に知られることになったが、ホロビッツやリヒテル、ソフロニツキーなどのピアノ演奏が「再発見」され、更にはモスクワのグネーシン・アカデミーは或る種の聖地化をしたのは記憶に新しい。近年では、「のだめカンタービレ」やアーノンクール評価、クラシック・ブームの翳で、ロシア・ピアニズムと呼ばれる静謐にしてオルタナティヴな流れはより美しく深度を増していた。ロシア・ピアニズムにあって、他にないものと言えば、「歌」と「エレガンス」と言えるかもしれない。カンティレーナを特徴として、ロマンティシズムに殉ずるべくフォルテさえもエレガントに弾く。その隙間に零れ出る過剰な表現欲求はなかなか味わるものではない。

 僕自身とロシア・ピアニズムの出会いは佐藤泰一氏の『ロシアピアニズム』(ヤングトゥリー・プレス)だった。関係資料と膨大な歴史背景と取材を合わせて、書き進められるダイナミクスを帯びた本で読んで、ここに載っているレコードは欲しくなるくらいの熱量を含んだ良書だった。

 この書物でも触れているが、ロシア・ピアニズムという「歴史」はそんなに旧くはない。

 アントン・ルーゼンシュタインが音楽院を創設してから30年でロシア革命がおき、作曲家やピアニストの大半が流出したり、亡命してしまった訳だが、WW2後、リヒテル、ギレリス、ユーディナのような腕利きのピアニスト達が世界コンクールで注目される事になった。例えば、ポーランド・ピアニズム等は演奏技巧優先主義を厭うが、ロシアの技巧レベルは教育システム含めて、かなり高度なもので、ただそれが故の前衛性は乏しいかもしれない部分はあった。でも、「良い譜面をより良く演奏する」という、素晴らしさこそが大事なときもあり、ロシア系ピアニストのあの重厚なタッチには音楽が本来持っていた「何か」があるような気もするという意見もまだ多い。
 
 しかし、残念なことに現在、ロシア・ピアニズムは衰微の段階に入っている。その代わり、再発見の循環構造の中で、アレクサンドル・スクリャービン、ゲンリッヒ・ネイガウス、セルゲイ・プロコティエフ、ショスタコーヴィッチなどは特に別分野のリスナーの耳も捉えて離さない状況も生んでいる。「ロックだからロックを聴く」という規律は今はなく、かといえど、精神性と音楽の繋がりは心理学的に確実にある訳だから、クラシック音楽のジャンル内ジャンル、とも言えるロシア・ピアニズムへ魅かれるオルタナティヴで貪欲なリスナーが居てもおかしくないとしたら、その音楽の持つロマンティシズムと重さに、他のジャンルにはない別の哲学を視ているのかもしれない。分かりやすいことはなんて分かりにくいのだろう。また、分かりにくいことは何故に分かりにくいままなのだろう。

 最後に、「ロシア・ピアニズムを想う」とき、僕はバタイユのこういう表現を想い出す。生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがあり、私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体である。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし、自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいる。それに耐えられる人なら、必要の無いものなのかもしれない。少なくとも、僕は耐えられないが、皆はどうなのだろうか。

(松浦達)