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kirinji.jpg 十二角形の意味を持つタイトルが掲げられた前々作『DODECAGON』では、打ち込みを多用し文字通り"角ばった"サウンドを聴かせていたキリンジ。前作『7-seven-』を経てリリースされた2年振りの新作『BUOYANCY』は、浮力や浮揚性の意味を持つタイトルが示すように、角が取れて丸みを帯びた物体が、あっちへプカプカ、こっちへプカプカと漂いながら、あらゆる要素を取り込みつつ大きくなっていくようなイメージだ。これまでの彼らのアルバムの中でも、最も振り切れた内容と言って良いだろう。
 
 基本的なサウンド・プロダクションは前作の延長上にある。『DODECAGON』でエレクトロニカ的手法にどっぷりと浸った彼らは、『7-seven-』で再び生楽器によるアンサンブルへと回帰しつつも、通常のアレンジを逸脱するような譜面を書くようになる。本作ではそれがさらに突き詰められ、月並みな言い方ではあるが「テクノ/エレクトロニカを通過した視点での、ポップ・ミュージックの再構築」がなされている。それは、先行配信されたシングル「セレーヌのセレナーデ」における幻想的なコーダ部分などを聴けば一目瞭然だ。また、バンジョーやブズーキ、スティールパンのような"背景の見えやすい楽器"を、敢えて背景から切り離して演奏する、ということをかなり意識的に行なっていることは特筆すべき。要するに、バンジョーをカントリー&ウェスタンっぽくなく弾くこと、スティールパンをカリブ音楽っぽくなく演奏することで、時空を超越した響きを生み出しているのだ。この話を彼らから聞いたとき、筆者が瞬時に思い出したのがハイ・ラマズだ。彼らもバンジョーやマリンバといった楽器を、背景から切り離して用いていた(そういえば彼らの98年のアルバム『Cold And Bouncy』のタイトル、本作にちょっと似ている気がする‥‥)。
 
 閑話休題。サウンド・プロダクションだけでなく、楽曲そのものも従来のキリンジ・サウンドとはかけ離れたものが多い。本作を作るにあたって兄の堀込高樹は、「これまでの自分の作曲スタイルを、出来るだけ打ち壊すよう心掛けた」と語っていた。確かに、彼の得意とする70年代後半のポップ・ミュージック的な楽曲は影を潜め、これまで聴いたことのなかったような楽曲が次々と登場する。中でもアルバム中盤に登場する「都市鉱山」は、もろ80年代ニュー・ウェーヴ・サウンド。イアン・カーティスやロバート・スミスを彷彿させるような、しゃくり上げるヴォーカル・スタイルにも高樹自らが果敢に(?)チャレンジしており、一瞬、「本当にこれがキリンジの曲?」と我が耳を疑ったほどだ。また弟の泰行も、レゲエとフォークロアを融合し歌謡曲風味に仕上げた「Round and Round」など新境地に到達。自らのソロ・プロジェクト、馬の骨での経験がフィードバックされた結果だろう。
 
 とはいえ、キリンジの持ち味であるメロディや和声の美しさは、どの曲にもしっかりとまぶしてある。先行シングルにもなった冒頭曲「夏の光」では、「牡牛座ラプソディ」や「アルカディア」「Drifter」といった名曲群に匹敵する美メロと、桜井芳樹(ロンサム・ストリングス)によるEBowギター+シンセ・ストリングスのウォール・オブ・サウンドが、聴き手に圧倒的な多幸感と高揚感をもたらす。
 
 おそらく、「キリンジ印」の楽曲を量産し続けたとしても、向こう10年は安定した地位を約束されているだろう。にも関わらず、自ら確立したスタイルを迷いなく打ち壊し、新たなスタイルをつかみ取ろうとするバイタリティは感動的ですらある。

(黒田隆憲)

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klaxons.jpg ちょー最高! このアルバムさえあれば無人島に島流しにされても構わない、というくらい最高。「これはリスナーの求めているクラクソンズのサウンドじゃない」というバンドとレーベル双方の判断で、一度は出来上がったセカンドもお蔵入り。程なくしてもうアルバムなんて作るクリエイティヴィティもモチヴェーションも失われてしまったんじゃないか、という最悪のスランプに陥ってしまうが、いや、おれたちはポップ・ソングをやってなんぼなんや! という単純明快にして大正解な結論に辿り着いたクラクソンズの復活第一声が、ニュー・アルバム中盤に配された「Flashover」だった。

 アルバム全体を聴いてみても前作とさして変わりないサウンドだが、現在のロック・シーンを根底からひっくり返してしまうくらいの強度を新たに獲得している。私がかつてキラーズやジェットのセカンドに感じた興奮を、彼らのセカンドにも感じることができる。やっぱりクラクソンズは無敵だぜ、と彼らを(何だったら彼らの母国であるイギリスの音楽シーンを)全肯定してしまいたくなるようなアルバム。おそらく最初から最後まであなたのテンションは下がらず、興奮しっぱなしのまま最初の「Echoes」をリピートすることになる。「Echoes」、これは2010年を代表する大アンセムだ。いまのところぶっちぎり。叩きつけるようなピアノと頭を揺らさずにはいられないダイナミックなドラミング。そのサウンドの中核を担うはギュインギュインのベース。ギターも負けじとばかりにホットなフレーズを繰り出す。
 
 さっき私は誤解を招くようなことを書いた。イギリスの音楽シーンのなかでクラクソンズは異端のはずなのに、なぜ「イギリスの音楽シーン万歳」という話になるのか。彼らが新しいメインストリームになるからだ。フェスのトリを任せるならクラクソンズしかいない、という時代の到来を予感させるくらいスケールのでかいセカンドだからだ。そして今作の日本盤の帯に書かれた「衒いのないロック作品」というコピーそのまんまだからだ。だからキラーズやジェットの名前も引用した。こりゃもうバカでかい会場でライヴを観るしかない。グリーン・ステージか、マリン・スタジアムか。クラクソンズはリスナーの期待に見事に応えた。もしかしたら批評家のあいだで賛否両論あるのかもしれないが、そんな意見はこの際おまけで構わない。ナイスすぎるよ、ロス・ロビンソン。

(長畑宏明)

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herajika.jpg 「ヘッドホンをすれば現実は夢になる」。そういうことなのだろう。ロマンチストだろうとなんと言われようとかまわない。音楽は時として魔法に成りうる。なんて言ったところで陳腐な言いとして受け止められるのがオチだけれどもやっぱりあるのだ。綺麗事だと捉えられそうな言葉を、音によって説得力を持たせ、表現してしまう音楽が。東京を拠点に活動し、インディーズ・シーンで話題になっている男2人女3人の5人組のヘラジカ(herajika)。彼らの音楽を聴くと確信を持ってそう思える。本作「Herajika Test 01」は、3曲入りのデビュー盤。ディスクユニオンの通販では発売日に完売した。

 エレクトリック・ギターやアコースティック・ギター、ドラムに加え、トイ・ピアノやピアノ、メロディオンなど様々な楽器を扱う箱庭的音楽性はトクマルシューゴと比較される。けれどもトクマルシューゴよりも良い意味でわずかに土くさく、洗練されていないがゆえの素朴さが、ちいさいスタジオで、あるいは部屋で演奏されているような身近な雰囲気を醸し出し、同じ目線でやさしく耳に入ってくる。あえてジャンルで言えばフォークということになるかもしれない。
 
 アコースティックを基調とした本作は大袈裟なところはなく、お高くとまらず背伸びもせず、コロコロと鳴る可愛らしいトイ・ピアノの音色も手伝って聴き手を童心に帰してしまう。いわゆるおもちゃ箱をひっくり返したような音楽だけれど、ひっくり返したというよりは、箱に詰まったおもちゃを一つひとつ丁寧に取り出し、見たこともないおもちゃに驚かされるような音が鳴る。また、美しい音を寄せ集め、音楽を創出するのではなく、いくつもの何気ない音と音をハーモニーによって茶目っ気たっぷりな音にしてしまうところがこのバンドの真骨頂なのだと感じる。例えばノイジーなエレクトリック・ギターが入る場面であっても、そのギターはフェミニンな歌声によって中和され、攻撃的なところも耳障りなところもなく、さらりとした質感に変わり必要最小限に鳴っている。さほど工夫していないコーラスも演奏と一体になればとてもキュートな色を含み、違和感が全くない。どんな音もぴたっぴたと、はまっていて、職人的気質すら窺がえるのだ。

 ヴォーカルもメロディの中核として存在感が広く、聴き手に安堵の心地を与え、その心地が聴いていくうちに染み込むように広がっていく。そうして見えるヘラジカの音楽を通した景色。それは些細に彩られた日常の楽しさ。視点を変えれば目に映る風景は変わるとはよく言われる。それは音楽を聴けば感情が変わるからだ。ヘラジカはあらゆる音が持つ可能性を可愛らしさとして創出する。それはたぶん、ヘラジカのメンバーに見えている風景はとても素敵でカラフルで、どんな種類の音であろうと音を認めているからだと思える。いわば演奏で、たとえ荒削りな音であろうとなんであろうと、音というものの全てを認め、音を取り込み洒落た感じにしてしまう。要はどんな音も肯定する音楽をやっている。そして遊び心に溢れる音が、聴き手をも肯定する。その循環が感情をプラスの方向へ向けてくれる。だからこの音楽を僕は信じる。そして聴いてほしいと強く思う。

 何かの映画で「音は心の中で音楽になる」という言葉があった。「ヘッドホンをすれば現実は夢になる」という言葉もあった。そんなふうに、音楽を聴く行為とは、音楽から何を受け取っているのか、ということが最も重要でもあるのだ。ヘラジカが鳴らす音は聴き手を傍観者にしない。常に気持ちをふわりと浮かばせる。驚くほどあっさりと浮かばせる。

(田中喬史)

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natacha_atlas.jpg ベルギー・ブリュッセル生まれで現在はワシントンD.C.在住。モロッコ、エジプト、パレスティナ、イギリス人の混血、そして音楽のルーツは北アフリカやらインディア、アラビックという既にその存在自体がミクスチュア(死語と言わないで~)な彼女の2010年最新作。キャリアはもう20年くらい経つ大ベテランの彼女のバイオをおさらいするのもなんだが、イギリスでエスノ・ダンス・ミュージック・グループ、トランス・グローバル・アンダーグラウンドで活動していた彼女のイメージが強烈で、彼女のソロ作品の多くはリズミカルで踊れるサウンドが特徴。

 然し、コンテンポラリなR&B風にもチャレンジしたりと現代音楽への融合を試みてきた彼女だが、08年にリリースした『アナ・ヒナ』でルーツに立ち帰るように披露したアコースティックな作風に続き、今作もエレクトロ・サウンドは控えめに、ジャズ風味のピアノとエスニックな生楽器が織りなすオーケストレイションにしっとりと音を耳で感じ取れる。ストリングスは重厚にアブストラクトなベースを作り出して、艶やかに情感たっぷりに歌い上げるのだから、うっとりしない手はない...。

 ただ、前作に続いてのアコースティックな編成とは前述したが、アラブの歌謡曲中心で構成されたものとは違って、今作ではアラブ古典やオリジナル曲の他にもニック・ドレイクやフランソワーズ・ハーディの曲をナターシャ風にカヴァーしてみせたり、全編に渡りワールド音楽とジャズ、そしてダーク&ポップに彩られているのである。そしてインターミッションを随所に設け、作品全体を通してまるで映画や演劇を鑑賞するような楽しみ方を提示し、コンセプティヴな作りを感覚出来るのだ。

 そのコンセプトの元は、インドの詩人ラビンドラナート・タゴール(インド国家の作詞作曲者でもある)の詩にインスパイアされたという辺り、日本にも馴染みのある彼の哲学の片鱗にも音楽を通して触れられるし、そんな東洋の神秘がまた西洋から届けられるというこのミラクルと言うかミステリーを存分に楽しんでほしい。溢れ出るアシッド・フォーク勢とは全く違った夢見心地を味わえる。

(田畑猛)

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computer_magic.jpg かなり唐突だけど、オタクって自分の趣味にちょっとでも理解を示してくれる女の子と知り合うとすぐ恋心を抱いてしまいますよね。あの心理ってなんだろう。自分のことをわかってくれそうだから? 会話が弾みそうだから? アイアン・メイデンのライブに付き合ってくれそうだから? でもオレたち、冴えないんだぜ? それってほとんどバズコックスの「Ever Fallen In Love」の世界じゃん! 相手が誰でも"You Shouldn't've Fallen In Love With"だよ! バズコックスってボンクラの味方だよね。

 冴えないくせにオタクって贅沢で、ただ相手がオタク気質をもってるだけでは満足できず、ルックスについても高いハードルを設定したりする。その一方で、自分より明らかに濃ゆい異性を見つけると、スンナリひれ伏たりもする。素直になれなくて。「かわいいは、正義」とはよく言ったものだけど、かわいいガチヲタって本当に神々しい。僕もそういうコは好きだ。見つけるたびに興奮して、間違って話しかけられると挙動不審になる。公の場でそんなふうになっては困るし、競争率が高くても戦える気がしないので、ネットを駆使して自分のアイドルは自分で探すに限る。

 そんなわけで見つけたのが、ブルックリンで活動する(またかよ)とびきりのオタ女子Danielle Johnson。愛称・ダンジーちゃんによる一人ユニットがこのComputer Magicである。まずはルックス。彼女のfacebookを見てみよう。整った顔立ち、可憐な金髪、野暮ったい服装。何点つける? 僕は120点くらい。こういうちょっと野暮いのが好きなんですよ...。MySpaceのアルバムも最高。なんか如何にもって感じですよね。こういう人がいっぱいいたのが90年代ってイメージ。憧れるわ。僕もこの世界観の住人になりたい。いっしょに変なポーズとりたい。
 
 アメリカのナードなリスナーのあいだでは、好きな曲をミックスにして自分のブログに載せるのが何年も前から流行っていて(日本だとそういうのにウルサイ人多いよね)、ダンジーちゃんもご多分に漏れず作ってます。スター・トレックに始まり、ザ・クリーン、ELO、クランプス、ブライアン・ジョンストン・マサカー...。グダグダだったり暑苦しかったりひときわポップだったり。これって完全ボンクラ趣味じゃないッスか...。媚びようと思ってもなかなかココまで出来んぞ?

 そんな彼女が作り出す音楽は、自身が愛する『バーバレラ』や『2300年未来への旅』『アルファヴィル』といったレトロ・フューチャーなSF映画や、古き良き任天堂ファミリーコンピュータへの憧憬がモンド・ミュージックを思わせるシンセの音色にたっぷり詰まった(ブライアン・ウィルソンが標榜したのとはちょっと違う)ティーンエイジ・シンフォニー。Computer Magicとしては今年に入って活動開始したばかりということで技術的にはメチャクチャ拙いが、そういう拙さがいつだってポップを魅力ある姿に変えてきたはずだ。そして、意識的なのか無意識的なのか、音のほうはチルウェイヴとも密接にリンクしていて、気だるい空気と密室的ぎこちなさはウォッシュト・アウトやデザイアといったあのシーンの代表格にも通じるものがある。インターネットとテレビゲームが中心の世界で笑ったり呻いたり愛を叫んでいたりするような音楽。

 何より、散々書いてきたボンクラ的世界観が音に如実に顕われているのがイイ。「Teenage Ballad (High School)」というそのものズバリなタイトルの曲では"I'm Just wanna be free"とサビで連呼しているが、そこまであっけらかんとしたフレーズをこんなゆるフワな音で歌われたら...! ベスト・コーストのド直球っぷりにも驚いたけど、自堕落であること、自分らしくあることにここまで寛容な音楽には久しぶりに出会った気がする。個人的には、元フェルトのローレンスがデニムの次に結成したゴーカート・モーツァルトでのピュアすぎる楽曲を聴いて以来...かな(ちなみに現在、ローレンスはクスリの摂りすぎで相当具合が悪いそうだ。心配...)。

 適当にクリックしていると、すぐこういうお下品でスカムなtumblrに飛んだりして彼女のホームページは厄介なのだが(間近の記事だと、このスリッパはちょっと欲しい)、このEPもそちらでフリーDL可能。キッズが完全武装しているこのジャケ写は誰かの他の作品でも使われてたような。気のせいでしょうか...。いずれにせよ、ダンジーちゃんはこのまま朗らかでいてほしいものだ。スーファミのF-ZEROを朝までいっしょにプレイしたい。妄想しながらパソコンの前にずーっといたら目が乾いて痛くなってきたので、そろそろ寝ますね。

(小熊俊哉)

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mirrors.jpg 最近、イギリスが好きな僕としては、USインディに影響を受けすぎているイギリスのバンドが多すぎて、少し寂しかったのだけど、見つけました。僕にとっての「これぞイギリスや!」というバンドを。ミラーズです。シンセサイザーが3人に、エレクトロニック・ドラムが1人の4人編成。イギリスに住む親戚に教えてもらったのだけど、いろいろ調べてみてビックリ。なんと、元マムラのジェームスによるバンドでした。でも、自主制作でリリースした「Look At Me」に、Moshi Moshiからリリースされた「Into The Heart」と、良い曲ではあるんだけど、特別な要素というのが見当たらなかった。水で薄めたデペッシュ・モード的な感じで、元々マムラが好きでもなかった僕としては、だんだんと興味を失っていたんだけど、「Ways To An End」で、化けたと思う。

 まず、かなり売れ線な曲調になっている。といっても、安易な構成にはなっていなくて、U2のヴァイヴと、デペッシュ・モードのダークさに、プライマル・スクリーム「Swastika Eyes」を思わせる、ロマンティックなシンセのシークエンスが気持ち良い。最近で言えば、ホワイト・ライズとか、ハーツに近いのかも知れないけど、ミラーズは、闇から光へ広がっていく感じ。

 僕は、ペット・ショップ・ボーイズを聴いていると、田舎町から都会へ飛び出すような、高揚感と不安を感じるんだけど、ミラーズの音にも、高揚感と不安を感じる。でも、その高揚感と不安は、ミラーズの場合「未来への高揚感と不安」に聞こえる。何故かは分からないけど、純粋な希望には聞こえない。それが素なのか、それとも仮面なのか、本当は複雑なバンドなのかも? 僕としては、抑制的な美が、良い意味で矛盾になっているような気がするのだけど。その矛盾に、ミラーズのソウルを感じる。ミラーズは、絶対スタジアムで観たいバンド。そこで初めて、ミラーズの本質が、見えてくるはずだから。それが実現するまで、追っかけていたいバンドです。日本でも、「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ!」の大合唱が、聞けるといいな。

(近藤真弥)

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salyu.jpg ご覧のサイトはMUSICAではありません。紛れもなくクッキーシーンのサイトでございます。--------そんな前置きも必要なぐらい、違和感のあるチョイスかもしれない。しかし、クッキーシーンの読者こそSalyuを聴くべきだ! と、今こそ声を大にして言いたいのです。7月に発売された七尾旅人の傑作アルバム『billion voices』にて、「one voice (もしもわたしが声を出せたら)」と「検索少年」の2曲で美声を響かせていたので(七尾のレコ発ライヴにもスペシャル・ゲストとして飛び入り)、そこではじめて彼女の存在を認識したリスナーも多いだろう。ワンマンではジェフ・バックリィやジョニ・ミッチェルなどのシンガー・ソングライターから、ビートルズやU2といったロック・バンドまで幅広くカヴァーすることも有名で、その歌唱力の素晴らしさはもはや説明不要。

 本作「LIFE」は彼女にとって14枚目のシングルであり、恩師である小林武史がプロデュースを務めた、"真夏"の季節感と疾走感溢れる、太陽のように眩しいポップ・ソングだ。カップリングの「CURE THE WORLD」は、自ら書き下ろしたという歌詞にflumpoolやYUKIの諸作で知られる百田留衣が曲を乗せた、切ないバラード。こちらはラジオや映画などで多くの音楽を手がける、マルチ・アーティストのトベタ・バジュンも編曲に名を連ねている。初回限定盤には、今年3月にリリースされた3rdアルバム『MAIDEN VOYAGE』に伴う春の全国ツアー最終日の模様を収めたダイジェストDVDが、通常盤には3つ目のトラックとしてSalyu×国府達矢が12thシングル「EXTENSION」以来およそ1年ぶりのタッグを組んだ、散文的で変拍子なピアノ・ソング「タングラム」がそれぞれ収録という、どう見積もってもダブル買い必須のニクい演出。

 自身初のブラス・セクションを導入したという表題曲の「LIFE」は、本人も認める通りまさに"新境地"と断言できる(ジャケット撮影では水着にまで初挑戦)。レインボー・カラーのウィッグをまとった女の子たちがサーフィンに繰り出すというミュージック・ビデオからも窺えるように、サザン・オール・スターズやTUBEもかくやの軽快なサマー・チューンに仕上がった。どこまでも突き抜ける高音ヴォイス、ギターとストリングスとピアノが幾重にも絡むオーケストラルなアレンジ、ポジティヴでまっすぐな歌詞......まるですべてがSalyuの味方をしているかのよう。前述のツアー・ファイナルで小林武史を招いて初披露されたのだが、幻想的なリリィ・シュシュ時代より彼女を追い掛けているファンからは「Salyuらしくない」との否定的な意見も多かったこの曲。おそらく、そんなことは本人がもっとも強く自覚していただろう。メジャー・フィールドにおけるポップスの歌い手としての意識、アーティストとしての脱皮。それは、「うた」が"大衆性"を獲得するための第一歩に他ならない。

 「色んな物差しが/この世界にあるよ/私のはかり方は/あなたとふたりのバランス」という一節は、近年の「会いたいよ/出会えてよかった/生まれてきてくれてありがとう」などと臆面もなく歌う、自己憐憫と承認欲求にまみれた数多のJ-POPナンバーを軽々と突き放す。というか、Salyuの音楽性を「J-POP」とカテゴライズしてしまうのは、あまりにも安易だ。国内屈指のシンガー・ソングライターである安藤裕子が、最新アルバムにあえて『JAPANESE POP』という衝撃的なタイトルを名付けたように、ケータイで音楽が消費され、違法ダウンロードが横行し、平成生まれのお仕着せアイドル達が蔓延る日本のマーケットに対して、Salyuや安藤、あるいはSuperflyの越智志帆など昭和生まれのアーティスト達は危機感を抱き、本気で抗っている。そんな彼女達が、古き良き時代の音楽への愛情とDIYスピリットを糧に、我々の元へ「うた」を取り戻そうとしている姿には興奮を禁じ得ない。それは、冒頭の七尾旅人だけでなく、山本精一のようなアンダーグラウンドが根城の男性アーティストまでもが、新作で「うたもの」へ回帰したという事実とも間違いなく共振する。

 Salyuはインタビューでよく自分の声を「楽器」と表現している。だからメンテナンスが必要なのだと。そう考えると、本作「LIFE」から迸る陽性のヴァイブは、心身ともに充実のコンディションであることは想像に難くない。「この宇宙(そら)はLIFE(ライフ)の先にある/心に描いてみたいな」--------そう、これは日本の音楽の未来であり、大きな希望。秋には今年2回目の全国ツアーが決定しており、早くも次のアルバム制作にまで取り掛かっているという。かつてなくワーカホリックな彼女の最新モードを、再びステージで目撃できるのが楽しみだ。

(上野功平)

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micmacs_a_tire_larigot.jpg 01年に世界的にブレイクした『アメリ』の提示したファンタジーで囲い込んだ作為性、仕組まれたブラック・ユーモア、模範的教科書には成り得ない寸前のロマン、そして、ヤン・ティルセンの程好いサウンド・トラックはどれも及第点を越えるが故に、味気なかった。つまり、ディズニー映画が時にマッドな領域を超えて、勧善懲悪を全うする為に「仮想敵」を集団的な自意識の中に植民地化して、夢でオチを作るような所作からすると、『アメリ』の描く素朴な残酷さは僕にはナイーヴが過ぎた。

 そういう意味で言えば、主人公であるAmélie Poulainのアナグラムから、Oui à l' ami Le Penになるという指摘も踏まえると、「ジャン=マリー・ル・ペン」の存在を想い出すのは少しクールな気がする。彼が右を向いている間に、例えば、アブダル・マリックを代表とした「スラム」という音楽がパリの郊外の暴動と「共振」して、ダブ・ステップやグライム的な下辺音楽を待備せしめたというリアリズムに振り回される内に、ゼロ年代におけるフランスのファースト・レディーにカーラ・ブルーニが「なってしまう」という皮肉が受容されてしまうことがどうも偶然に思えないからだ。カーラは元々、70~80年代フレンチ・パンク、ニュー・ウェイヴ・シーンの人気バンド、テレフォヌのリーダーのルイ・ベルティニャックがファースト、セカンドをプロデュースしていたこともあって、スーパーモデルなどといった側面以外に、音楽的センスの良さは様々な国の人たちに認証されるところはあった。それが、サードでのドミニク・ブラン=フランカールを招いての「失速」と言ってもいいだろう、ビッグなバランスが象徴していた。ゲンズブールの国はいつもフェイクが似合う。
 
 そこで、実質的なリリースは09年にはなるが、日本公開として10年代の幕開けを『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネの新作『ミックマック』が「冒険」と「ブラック」という原点に回帰したのはとても興味深いと言える。権力装置への「装置」を外す試みとして、今回、レンタル・ビデオ店の店員のバジルは発砲事件の関係で頭の中に流れ弾が入ったままになってしまう。この「流れ弾」はある種のシンボルであり、一つのメタファーだ。何故なら、昔に地雷で父親の命を奪われたバジルにとってその弾を構成している巨大な兵器産業へのアゲインストを心掛ける契機になる訳で、バジルは廃品回収をしながら底辺的な暮らしをおくる共同生活仲間と共に「結託」をする。しかし、その「結託」とは「連帯」ではない。一つの目的の為に、お互いがお互いの特技を許し、託し合いながら(一人はスーツケースに体が入ることが出来るほど体が柔らかい、など)、まるで日本で人気の漫画の「ワンピース」のような活劇のような瞬間さえ浮上させるときもあるロマンティックなピカレスク・ロマン。

 『アメリ』が持っていた過剰なファンタジー性、つまり、ジュネのイマジネーションの飛距離は今回も活きているが、もう少しシビアな形での軟着陸を示している。それは、流れ弾が頭に入ったことで様々な意識が膨れ上がるバジルをモティーフにしながら、肥大し、暴走してゆくように。時には、バジルの「妄想」はフリーキーでバレアリックで、「世界そのもの」の解析を試みるようなものになる。

 今、大人が描く世界がとても味気ない「セカイ」か、3D仕掛けのフェイクのリアリスティックな世界になってゆく中、この作品で描かれる世界はチャイルディッシュで悪意もあって、どちらかというと、残酷で救いのないファンタジーだ。ただ、それは子供が視たままの「世界」であり、例えば、それは、ホッブズがリヴァイアサンを「発見」したのが、社会に「自然状態」というフィクションを想定できたからだったという部分に連結することは出来ないだろうか。国家も法律もない社会における、裸の人間として、フィクショナルに踊ってみせる所作。このラインでのブースターは生命原理に回帰する。生命原理はバイタリティと訳すのも良いだろう。

 その根源的なバイタリティに満ち足りた映画がこの『ミックマック』だ。予想通りの夢も現実もないが、フランクな映画というファンタジーがもたらすカタルシスがここに溢れている。

(松浦達)

*日本版 公式サイト
http://www.micmacs.jp/

*9月4日より東京のみで先行公開。9月18日より全国ロードショー。【編集部追記】

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jamaica.jpg 思えば、意味がなくても、ビルドゥングス・ロマンの夢に乗れなくても、「強度」(世界を濃密に体感すること)さえあれば人間は生きていけると説いた日本の社会学者は、今は何を啓蒙しているのか。例えば、ニーチェは、意味が見つからないから良き生が送れないのでなく、良き生を送れないから意味にすがると言ったが、ニーチェの本を読み、強度を勘違いして「無意味な生」をセルフ・ヒーリングされている人たちは、十分に「意味的な存在」であり、反ニーチェ的であるとしか言いようがないのも残念だ。00年代以降は「強度」のように世界を濃密に分かり合えるように、「濃度」としてグラデーションの境目を見極める視力が必要になったのは「グラウンド・ゼロ以降、ビルが荒野に視えてしまう」という錯覚さえ孕んだ感性や表現を保持しないと、何一つ意味も浮上しないという事が自明の理になったからだ。だから、90年代の最高の産物であるアンダーワールド「Born Slippy」はどんな場所でも、どんな環境でも間に合うように、星を降らせた。

 07年辺りに勃興したニューエレクトロは殆どが「意味」の音楽だった。但し、ゆえにフロア・ユースとヘッドホン・リスナーにとっては、乖離している部分があり、例えば、デジタリズムは後者サイドでふと街の景色と混ざり合う時にその本領を発揮する代わりに、フロアにおいては単調で盛り上がりに欠ける「荒さ」があったのはステージを観た人なら分かり得るだろう。シミアン・モバイル・ディスコなどはその双方の橋を上手く渡せていた器用さがあったが、セカンドは目配せをしてしまったが故に地味になってしまい、どうにも座りの悪いものになってしまった。そんな中で、ジャスティスのあのコンプレッサーがかかった音と硬質で過剰なサウンドスケイプはヘッドホンには耳触りで、フロアでは一方通行のマッシヴな悪意のような熱だけが放射された「強度」の音楽を示唆した。彼等は、周囲が想っている以上に「センス」のユニットでもなかったのは、放埓なステージ以外のオフまでをおさめたDVD「A Cross The Universe」を観れば瞭然で、どちらかというとロック的(旧態的な)な捨て鉢さがチャームのユニットであったから、次はダフト・パンクのようなバズを産むか、潜航期間が長くなるかという選択肢しか見えない気がした。

 そんなジャスティスの新曲と勘違いした人も多かったかもしれない「I Think I Like U」のギター・カッティングの軽快さとマッシヴなデジタル・ビートは久々に何かをブレイクスルーをする新しさを持っていた。ジャマイカというアントワン・ヒレール、フロー・リオネからなる二人組。プロデュースにはジャスティスのグザヴィエもクレジットされており、全体にジャスティス的なコンプレッサーが強めの音が続くが、合間にフェニックスやタヒチ80のようなフレンチ・ギター・ポップの血も受け継がれており、全体のイメージはとてもクールとしか言いようがないものになっている。

 ジャマイカとして影響を受けたアーティストは、トッド・ラングレン、AC/DC、ポリス、ニルヴァーナというのも、何だか微笑ましい、「大文字」に挑む頼もしさがあると同時に、ルーリードの名前も出してしまう所はフランスの鬼っ子たちの憎めなさなのだろうか。同時代的な共振をヴァンパイア・ウィークエンドに感じると言いながら、歌詞に散りばめられたロマンティックなフレーズはフレンドリー・ファイアーズが希求したパリを既に内包したフランスという出自を逆手に取って、甘美で、故に頽廃的なからくりも見える。国内盤のボーナス・トラックに入っているデモ・ヴァージョンなどを聴くと、瑞々しさが先立つ内容になっており、シンプルなネアオコ~ギターポップへの近接も感じるが結果、出来上がったこのアルバム『No Problem』を貫き通したモードは、グザヴィエの過剰さと彼等の意図が加わって、意味から強度を抜けて、深度へと一気に降下していく乱暴さを再構成しているものになった。ラフなまま振り切らず、タフなものに仕上げ直すという捻じれ方は流石、フランスという国から出てきたという矜持とも言えるかもしれない。パリに行かなくても、ここに居れば星は見えるから、「あの子は綺麗ではなかったね、ただ若かっただけさ」と、ニヒルに言い捨てるジャマイカはやはり、クールだ。そのクールはスノビズムも孕むが。

(松浦達)

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here_we_go_magic.jpg ぶっきらぼうなのに丁寧だ。計算されているようでされていない。とかく音は複雑で、それでいながらシンプルだ。ヒア・ウィ・ゴー・マジックはブルックリンのシンガー・ソングライターのルーク・テンプルによるソロ・ユニットとして始まり、ファースト・アルバムはダーティー・プロジェクターズなどをリリースしたテキサスのレーベル、Western Vinylから発表された。そして、現在はバンド編成となった彼らにとって二枚目となるアルバムが、この『Pigeons』である。

 09年にグリズリー・ベアやザ・ウォークメンらとともに北米・ヨーロッパをツアーし、音楽の完成度と人気が一気に高まり、発表された本作は、間違いなくルーク・テンプルのメロディが中心になってはいるが、ジャム・バンド的な演奏あり、ガムラン的な要素あり、ヴァン・ダイク・パークス的なところありと、実に面白い。

 ファンキーで程よいグルーヴ感を鳴らすベースもあれば、クラウトロックを思わせるところもある。ジャケットが暗示するように様々な要素が交じっているが、スフィアン・スティーヴンスからも絶賛されているルーク・テンプルの気持ちのいいメロディによって楽曲に一本筋が通っているから乱雑ではなく、ポップスとして大きく息をしている。実験的な音楽なのにドリーミーで甘美。するっと耳に入ってくる。まるで眠りに誘っているような奏では、夢の中でこの音楽を聴けたらな、と思わせ、思考の弛緩を誘い、「眠り」というもうひとつの現実を表現しているかのようだ。

 意識と感情が無に近くなる眠りの世界とは、村上春樹が『アフター・ダーク』で描いたように、もうひとつの現実で、人間が最も無防備に、無意識になれる状態でもあり、そこに感情はない。もし、無意識の世界に落ちてしまいたいと思ったら、僕はこの音楽を薦めたい。いわゆるサイケデリックと呼べるサウンドではあるけれど、本当に心酔し、自分の意識を失って、この音楽の住人になってしまいそうな作品なのだ。聴いているうちに溢れてくる豊かな心地。その心地は千差万別であろう。10人いれば10人の心地良さがあるのだろう。そうして思うことがある。無意識とは無限の創造なのだと。人間そのものが無限なのだと。だから音楽とは無限なのだ。そして音楽とは人間への圧倒的な肯定なのだ。本作は、気持ちよく麻酔を打たれてしまう危険なスウィート・トリップ・ミュージック。

(田中喬史)