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arcade_fire.jpg 僕がクルマの免許を取るずっと前のある日曜日。当時、世界最強だと言われていたマイク・タイソンが日本で試合をすることになった。試合開始のゴングは午後だったと思う。僕はレコード1枚分のおこづかいをポケットに入れて、市営バスに揺られていた。「試合開始までに帰れるかな。タイソンの試合はすぐに終わっちまう」。そんなことを考えながら、僕はバスを降りてからレコード屋まで急いだ。

 アーケイド・ファイアの『ザ・サバーブス』を聞いて、歌詞を読んで浮かんできたいくつかの記憶のうちのひとつ。不思議と懐かしさはなく、「その時、僕はそこにいた」という確信だけがある。ニュー・ウェーブ、パンクのエッセンスを器用に取り入れたサウンド、ブルース・スプリングスティーンのストーリーテリングを継承するような情景描写に、何かを発明したような新しさはない。それでも全16曲という決して短くはないこのアルバムを繰り返し聞いている。

 何種類か用意されたアートワークには、どれも無人のクルマが停まっている。色褪せる直前の住宅の写真は、何かが失われることを予感させる。遠い記憶ではない。それは、ほんの少し前の出来事だ。過ぎ去る時間の中で、僕たちは何を失うんだろう? この不気味な住宅は、帰ってくるべき場所なのか? それとも出て行くための場所なのか?

 「葬式」と名付けられた1stアルバム、現代の宗教観と資本主義を描いてみせた2ndアルバムを経て、いまアーケイド・ファイアは「郊外」に目を向ける。アメリカ大統領選が終わり、時代は変わったかのように見えた。でも、本当にそうだろうか? 変わったこと、変わらなかったこと。僕たちは結局、その両方を受け入れて生きて行かなくちゃならない。ある人はこのクルマに乗って出て行くだろう。そして、またある人はこのクルマで帰ってくるかもしれない。最初っから、どこにも行けない人もいるだろう。きっと誰の心の中にでもある「郊外」の風景。アーケイド・ファイアは、「時代」や「アメリカ」という背景を抜きに、僕たちの心に問いかける。歌の普遍性は前2作を超えている。

 結局、僕はマイク・タイソンの試合を見ることができたのか憶えていない。憶えているのは、帰りのバスの中でトーキング・ヘッズの『ネイキッド』をレコード屋の袋から出して、心ゆくまで眺めていたこと。窓の外を通り過ぎる友達が住んでいるマンション、電信柱、広い駐車場、古ぼけた商店の看板。「そろそろ降りる準備をしなくちゃ」。いま僕は、そこからどれくらい遠く離れた場所にいるんだろう?

(犬飼一郎)

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yakenohara.jpg ここまで清々しくて初々しくて、楽しいサウンドを滴り落ちるほど贅沢に取り入れた音楽も中々ないであろうよ。DJ、ラッパー、トラックメイカーなど、やけのはらの活動は多岐にわたり、近年はバンド、ヤングサウンズ(younGSounds)に参加。また、七尾旅人とともに「Rollin' Rollin'」を発表したことは記憶に新しい。ファースト・ソロ・アルバムの本作『This Night Is Still Young』は、「Rollin' Rollin'」のアルバム・ミックス・ヴァージョンを収録。同じく七尾旅人がヴォーカリストとして参加した「I Remember Summer Days」を収録し、ライヴで共演の多いドリアンがキーボード、アレンジとして参加している。
 
 大胆なまでの打ち込みを軸とするアルバムだけれどエレクトロニカ的な志向すら持つ七尾旅人と打ち込みの相性が良いのは必然で「Rollin' Rollin'」のアルバム・ヴァージョンも気持ちのいい仕上がり。もちろん淡々としていながらもチャーミングなやけのはらの声と電子音の相性も抜群だ。DJとして数々のイベントや、多数のパーティーに出演してきたやけのはら自身が言うように、ラッパーというよりはDJ的な視点で作られた本作は、間隔の広いヒップホップのリズムと、ころころ転がっているような電子音と涼しげなサウンド・エフェクトを中心に、女性のヴォイスや弦楽器、子供の声がサンプリングされている。さらには管楽器やエレクトリック・ギター、ボコーダーを使った音なども取り入れ、ドリアンがキーボードを鳴らすタイミングも絶妙だ。それらは夏の空気や海辺で人々がたわむれる雰囲気を描写する。様々な音、ジャンルが混じっているが、乱雑な印象はない。DJ的な視点で作ったというだけあって適材が適所で鳴らされ、必要最小限に音をとどめているがゆえにすっきりまとまり、それが本作の爽快な音に繋がっている。
 
 棒読みに近いラップは朗読とまではいかなくとも詩を読んでいる感覚に近く、過剰な主張や激動はない。韻を踏むことすらあまり意識していないと思える。まるで話しかけてくれているようで、そして詩的で、爽やかなサウンドということもあってリゾート・ミュージックとして聴こうと思えば聴ける作品だ。しかし、それだけで終わらないメッセージ性もある。

"俺達が見ている景色が夢だとしたら
最高にアホらしく笑えて スリル満点の夢にしよう
一瞬のまやかしだとしても 錯覚や幻想だとしても
信じていたいと思える何かを見つけたんです
この夏はきっと終わらないって なんとなくそう思った"
(「Summer Never Ends」)

 閉塞感に満ちていると言われる世の中にあって、何か面白いものを見付けようというメッセージ。その何かが、まさに『This Night Is Still Young』。それは都会の鉄の匂いをさえぎって香る。やはり清々しくて初々しくて、楽しい。

(田中喬史)

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sky_larkin.jpg 表立った大きなムーヴメントこそないものの、ロス・キャンペシーノス! やジョニー・フォリナーなど、イギリスのバンドでありながらペイヴメントの系譜を受け継ぐようないびつなUSインディ・マナーのスタイルを貫くバンドがいくつもいる。そして、特に上記2組に顕著なのだが、彼らは頻繁に楽曲を製作・リリースしていく傾向がある。

 このリーズの3人組、スカイ・ラーキンもその例に漏れていない。アイデアは沸いて出てくるのだろう、昨年デビュー・アルバム『The Golden Spike』を発表したばかりだというのに、早くもセカンド・アルバム『Kaleido』をリリースしてしまった。

 と、そのスピードだけを見ると驚いてしまうが、路線は全く変わっていない。紅一点のヴォーカル、ケイティ・ハーキンのさえずるような歌声と、ブロークン・ソーシャル・シーンを思わせるようなメロディの3分間ポップという性質まったくそのままだ。

 だが、このアルバムには「変化」はないが、「成長」がある。クリブスを始めとするアクトとのツアーで鍛えられたのだろう。以前には安定感がなく危なっかしかったサウンドが、今はがっしりとしたバンドアンサンブルにかわっている。「Still Windmills」や「Kaleido」でのタイトなプレイはもちろん、例えば、「Anjelica Huston」ではアーケイド・ファイアを髣髴させるようなスケールが垣間見られるし、キーボードを主体とした「Year Dot」でのファニーでラウドなコーラスはファイト・ライク・エイプスを思わせるよう。プレイヤビリティの向上がそのまま作品に反映され、クオリティの向上として現れている。

 ソングライティング能力は実はかなり高いし、今後に一層の期待を抱かせてくれる作品だ。このバンドをまだ聴いたことがない、という人であれば、僕は迷わずこちらのアルバムを薦めるな。

(角田仁志)

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we_are_scientists.jpg 今回EMIを離れ自主レーベルからのリリースとなった為話題性こそ少ないものの、これは今年の名盤の一つである。キースのギターはバラエティに富み、メロディー・ラインはファーストの頃に戻ったようにしっかりとしている。音楽的にもセカンドの80年代サウンドより純粋にギター・バンドとしてギターを奏でており、1曲1曲は短いが彼らの持ち味が濃縮されている。もちろん自慢のコーラス・ワークも健在。更に日本のファンのために日本のSNS、Mixiコミュニティにビデオ・メッセージを送るなど驚きのサービスが満載の彼ら。国内盤にはアコースティック・ヴァージョンも多数収録されている。

 完璧なロック・アルバムとなった今作サード・アルバムは、以前インタヴューで語ってくれたような"音の隙"をも作られている。それはつまりドラマーのマイケルが脱退してからも3ピース・スタイルを持続するにあたり音が弱くなっているわけではなく、むしろ4ピース・バンドと思える程の重圧感があり、しかしながらギターだけで埋まらないようベースやドラムが上手く入り込む場所を作っているということだ。よりパワー・アップしたWASをこれを期に是非騙されたと思って聴いてほしい。

(吉川裕里子)

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sebastianx.jpg まるで、太陽を飲み込んだような歌声だ。春夏秋冬、冬の寒さと春の暖かさを通りすぎて、真夏の太陽を待ち焦がれるような、とにかく、この歌声はサンサンと輝いている。そう、これは待ち焦がれた太陽だ。と、言いながら前作までこのバンドの音源を聴いても、僕にはまぶしすぎたようで、Sebastian Xだなんて、スパルタンXみたいだなと思ってたぐらいで、そのサンサンと輝く、ド級に力強い歌声に拒否反応を示していたのも事実。例えるなら、ジョジョの奇妙な冒険の第三部は「絵が気持ち悪くて...」と言って損をしていた読者みたいな話。わかりにくいかな。まあ、つまり、マイナス印象からの、にわかリスナーなんです。とは言ってもこのバンドの結成はおよそ2年、今作が2枚目のミニアルバムなわけで、そもそもが間もないわけだけど、いったいこれからどうなっちゃうのよ、というような期待の若手(新世代バンドと言うべきか)なのである。
 
 このバンドの成り立ちは2年前より少しさかのぼって、前身バンドでのハードコアな曲長からはじまったようで、なるほど、そう言われるとヴォーカルである、永原真夏の歌声はハードコアになじむ! 実になじむぞ! と、ついつい、わかる人にしかわからないジョジョネタを前段落にひっぱられ文章に織り交ぜてみたりしたが、伝わるかな?でも、しょうがないんです、このアルバムを聴いていると楽しくて仕方ないのだから。僕だって少しは遊びたくなるってもんだ。
  
 さて、そんな曲の大半は、楽器の弾けない永原真夏がアカペラ等を駆使して持ち込み、ドラム、ベース、キーボードのギターレスのメンバーで具現化されているらしく、時折、調子っぱずれに歌われる歌声も、実はそんな独特な工程からきているのかもしれない。それは一聴すると、歌声と楽器隊がまるでケンカしているようにも思える曲群なのだが、よくよく聴くと実は仲良くじゃれあっているだけで、今作のリード・トラック「世界の果てまで連れてって!」ではホーン隊までも加わり、よりいっそう楽しげである。実は、それが、稚拙な僕の耳に、このバンドの魅力を気づかせるきっかけになったわけで、その音数を増やす方向性とは個人的に大歓迎である。もっともっと、彼女の歌声を音の渦に投げ込んで、じゃれあって、楽しんでほしい。勝手な妄想ですが、上原ひろみのピアノとじゃれあったら最高だなと思ったりもする。

 今作に話を戻すと、ここではのっけから「フェスティバル」と歌い、前述したリード・トラック「世界の果てまで連れてって!」が続き、その後もアップテンポな曲が続くのだが、後半につれ歌声もグッと引き締まり、ハキハキと歌われる歌詞がストレートに響いてきて、あれれ、いつに間にかほろりときたりする。なんだか、楽しいと言ったり、ほろりときたり。兎にも角にも、この一枚を通して喜怒哀楽動かされまくりなのである。ただあっけらかんと太陽のように明るいだけではなく、心に強く響くアルバムなのである。仮に、僕のようにマイナスにふり幅を向けたリスナーがいたのならば、あらためて手にとって聴いてみてほしいし、前作からのファンの皆さんとは、僭越ながら手に手をとり高らかと笑いあいたい気分である。

(佐藤奨作)

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sakura.jpg 重苦しいのも当然、痛々しいのも必然。情念が籠った歌とサウンドなのだから。御歌とギターの升あけみ、御殴りドラムのロデムの前身バンドからの駆け落ち(♀×2)編成だが最近流行りのマス・ロッキンなタイプとは違って、如何わしさが薫る和風ガレージ色にクラっとしてしまうロック・デュオ。今年は話題の神聖かまってちゃんらと対バンしたり、そんな彼女たちが今迄にリリースした音源、通称『白盤』と『黒盤』に続いて今回の6曲入りのミニ・アルバムは画の通り『赤盤』を発表したのだが、これが初の全国発売と相成った。

 そのイメージ・カラーの如く今作品は"赤裸々"に剥き出しに、耳から心臓を突き刺す様に、聴く者が持ち合わせる感性の急所まで最短距離で音が飛び込んでくる...。然し、撲殺でもあり絞殺でもあり、毒殺でもあり刺殺でもあり! 何れにしても曲がスタートした刹那、瞬く間に空気を一変させるのだ。然しその何れもがその行為自体の快楽性などを唄ったものではなく、衝動に駆られた理由や背景を物語った上で全編に渡り二人称が登場した、パーソナルに響く世界。でもやっぱ魅力的な女の子って肉食だな~って思わせたり、端々に感じさせるのはエネルギーに満ちた若さと可愛さだったり。懐かしいたて笛の音色とエレピでほっこりさせるM-5の「目はうずまき特急列車」なんて、なんてキュートなんだ!とか。

 平たく言えばホワイト・ストライプスmeets初期の椎名林檎と言った様が想像し易いとは思う(ヴィジュアル的に)が、敢えてそう評する向きを不肖が嫌わないのは強ち間違いではないと思うし、この音楽をして"アングラ"なんてレッテルを貼るのは凄く勿体なく思うのだ。確かにアッパーではないにしても十分にポップだし。所々耳馴染みのあるフレーズが聴こえたりする部分にもニヤリとさせられる。特にM-3の「歩こう」はナックの「マイ・シャローナ」を彷彿とさせるリフに乗せて、メロディはストレンジに捻くれながらも、エッジは尖らせたままストレートにロック!言葉を届ける甲高いヴォーカルはノイジーなサウンドに映え、その通り名の通りに殴りつけるようなドラムは、一心不乱故に楽曲の持つシリアスな感情と共鳴しながらグルーヴを生み出して、、、って、この辺りは生(LIVE)を見てもらえれば一発で感じる事が出来るだろう。音源で感じ取れるドロドロ感が半端ないから。

 とにかくラストのトラック「サイレン」という爆音ハイライトで締め括る粋の良さを含めて、今後も注目したいロック・バンドである。

(田畑猛)

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empire_empire.jpeg ミシガンで結成された4人組ロックバンド、エンパイア!エンパイア!(アイ・ワズ・ア・ロンリー・エステイト)のファーストアルバム。
 
 一聴してわかるのが、90年代中期から後半にかけてサニー・デイ・リアル・エステイトやミネラル周辺のバンド達によって確立された当時の「エモ」と呼ばれた音楽的エッセンスが集約されていること。00年代にメインストリームで鳴らされていた代表的なエモ・スクリーモと呼ばれたバンドたちが感情を激しいシャウトなどで表現していたとするなら、それ以前のアンダーグラウンドで鳴らされていた音楽は、私的な例え方をさせてもらうなら「負け犬の遠吠え」である。屈折した者たちが鳴らす痛々しさ、切実さが全編にわたって伝わってくる。
 
 そんな空気が彼らのアルバムにも詰め込まれている。ギターのひたすら反復するアルペジオ、タメ気味なドラム、そしてボーカルの不安定さまでいわゆる90年代エモのマナーにのっとっている。これを「焼き直し」だと思われるかどうかは人それぞれだろうが、ゲット・アップ・キッズが新作を出したとはいえリヴァイヴァル・ブームのようなものが起こる気運など感じられないこの状況で、このような音楽が生まれることは興味深い。時代を遡り当時の音楽を語るうえでの、現代における「踏絵」(このシーンを語るならばまずこれを聴くのが早い、と言う意味での...)と位置づけてもいいと思う力作。

(藤田聡)

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sunahara.jpg 例えば、石野卓球がDJではドープなデトロイト・テクノでロング・プレイするときに、そこにはホアン・アトキンス、カール・クレイグ、デリック・メイからジェフ・ミルズへのリスペクトを孕んでいるのは勿論として、アンダーグラウンド・レジスタンスへの視座をより意識している時が必ずあって、「Hi-Tech Jazz」が挟まれた時のクラウドの熱量を捉えた時に浮かぶ「ダンス」はガブリエル・アンチオープの『ニグロ、ダンス、抵抗』におけるそれを彷彿とさせる。

 捕捉しておくに、この書物は奴隷制の変遷をたどった制度史ではなく、17~19世紀という近代国家の黎明期にあって、カリブ海地域を舞台に、いかに「ダンスという行為=文化表象」を通じて人種や民族、ジェンダーが配置され構成されてきたかを分析すること、そして更に、支配と従属のなかに生きてきた奴隷=ニグロにどのような「抵抗の道程」があったのかを明らかにするものであり、S・ホールのような、奴隷制プランテーションに対してそれを生産様式の関係性だけで捉えるのではなく、イデオロギーの次元の関わりをも重視している。ヨーロッパ中心主義的な史実の「書換え」をもダンスという文脈で行なう。奴隷にとっては、ダンスは単なる娯楽ではなく、それは、政治的な意味を持ち、抑圧からの逃亡を可能にするものであり、更にはニグロの定義を更改する。彼らは完全にはマスターに従属した存在ではなかった。

 彼は、電気グルーヴというペルソナではシビアに道化を演じながら、ソロ作品でハードなものからミニマルまで跨ぐ嗅覚にはいつも「現場」を可視化している優しいシビアさがある。それは、一晩で消費されてしまうアルコールの量や求愛の数、そして、鳴り止む音楽と、汗。フロアーが空けた後に戻るそれぞれの日常の辛苦を弁えているということでもある。だから、音楽は「永遠と一瞬を止揚する」なんて甘えた認識よりもその音楽が鳴っている瞬間が永遠であればいい、というスタンスを取っているように思える。そうでないと、あれだけのハード・スケジュールで日本以外の世界も含めて小さな箱もDJで回らないと思う。

 その彼が電気グルーヴ内でも一時期、全幅の信頼を置き、今でも時折繋がりを持ち、奇妙な事に捩れながらも、シリアスなスタンスが似てきているというのが、砂原良徳だった。無論、饒舌でスタイリッシュな石野氏と比して、彼はどちらかというと、テーマ設定の中で「音」を作る職人的なタイプだったので、ツアーやDJといったものより、リミックス作業やプロデューサー業に傾いでいたし、石野氏よりは寡黙に居場所を確認している所があった。その一理として、01年の『LOVEBEAT』が、隙間の沈黙さえも音にしてしまった部分があり、越えられない壁を自ら作ってしまったからとも言えるかもしれない。モンド・ラウンジ、クラフトワーク、飛行機といったテーマから逸れて「一」から構築した音の強度は容赦がないくらいに、クリアーでハイファイであり、また雑多な音を拒むストイシズムを帯びていた。踊るには少し緩やかなエレクトロニック・ファンク、リズムと最小限の音を纏った清冽な意志に貫かれた音の粒子。また、エイフェックス・ツイン、オウテカ、ボーズ・オブ・カナダなどのポスト・エレクトロニカ勢との完全なる共振が行なわれた実験室での未必の悪意は、「LOVE BEAT(ビートを愛する)」ではなく、「LOVEBEAT(愛のビート)」というイロニーを提示した。

 その後、ほんの僅かなリミックス・ワークを除き、以降、沈黙をする。沈黙の間、エレクトロ・クラッシュ、乙女系ハウス、ニューレイヴ、ドラムンベース、フレンチ・エレクトロなど幾つもの音が壁一枚隔てたクラブで分化され、鳴りながら、トライヴは決して噛み合うことなく、散逸され、その中、リバイバルでアシッド・ハウスからジャーマン・テクノ、勿論、デトロイト・テクノまでが巡り巡っていた。猥雑な喧騒を傍目にスタジオで彼は音を研ぐように、次の作品への模索を繰り返していた。

 09年にはサウンド・トラックとしてあくまで試作品的なモードを示してみせていたが、今年に入って彼の漸く「次の視点」が現れていると言えるEPがこの「Subliminal」になる。来るべきアルバムへのパイロットになるのか、彼の事だからまだ分からないが、十二分に密度が詰まった4曲が詰まっている。ここには明確な逃げ場がなく、かといって、誰もが参入できる入口もない。途中参加が赦されるような生ぬるい音像でもない。『LOVEBEAT』時より鋭角的に切り詰められながらも、ふくよかさも増した音は聴き手の安心や予定調和を拒む。ファンタジーというのはデ・ジャヴを何度もインストールし直すだけの非創造者側の怠慢だと定義付けるとしたならば、この作品のファンタジー性は、マッドなリアリズムを切り取り、曝す。YMOが野外で緩やかなパフォーマンスをする今、チルドレンの彼はまだ日和らない。「音の政治性」を認識したとても辛辣な作品だと思う。

 「Subliminal」は具体的に、ダンスを想起させる音像ではないかもしれないし、踊れる音楽ではないかもしれない。しかし、「ダンスが催される空間」の意味は再定義せしめる。その場では身分が可視化され、その差異を画定し続ける政治・社会的な戦略の場でもあり、一方、再創造として仮構された起源としてのダンス文化をヨーロッパにもアフリカにも回収できないようにせしめる。そして、「ダンス」が娯楽や祝祭に関わった振舞いであった以上に、政治的・社会的・文化的なマイノリティの主体化を賭した行為だということをリプレゼントする。

(松浦達)

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best_coast.jpg 『あなたに夢中』―これほど臆面もなくストレートなタイトルは久しぶりに見た気がする。数々のEPやシングルを発表し2009年より注目を集めてきたLAのベスト・コーストのデビュー・アルバムはそのタイトルに違わず、飾らない言葉とストレートで甘いメロディが詰まった作品だった。

 シンガー/ソングライターのベサニー・コセンティノとマルチ・インストゥルメンタリストのボブ・ブルーノによるデュオの特徴は、ジャングリーなギターとスウィートなメロディにある...なんていうと、ヴィヴィアン・ガールズやダム・ダム・ガールズといった最近のガールズ・バンドが頭に浮かぶかもしれない。だが、ベスト・コーストの魅力はシンプルさにある。

 まず、リリックは驚くほど単純明快。基本的には、「あなたと私がいて幸せ」、という笑ってしまうほどピュアなテーマを、中学生英語並みにシンプルな言葉で綴っている。だが、スペクター風のもやがかかったようなプロダクションと、ドゥー・ワップのポップなコーラス、そして初期パンクを思わせる直線的なメロディの組み合わせが簡素な愛の言葉にロマンを与えた。電話を待つ甘酸っぱく切ない気持ちを込めた「Boyfriend」や、ギター・ノイズとロールするドラムで胸の高鳴りを表現した「Crazy For You」にはきっと10代の青春を思い出すだろうし、一緒にいられる幸せを歌った「Happy」でのラモーンズ風の疾走では力強いビートが心臓の鼓動とリンクするようだ。「60年代のポップを多く聴いてきた」というベサニーのペンによる楽曲は多くの人に共感を呼び起こす。

 海や夏といったフレーズがキーワードとなり、リアル・エステイトにサーファー・ブラッドといったサーフ・ロックや、ウォッシュト・アウト、ワイルド・ナッシングといったチルウェイヴ系アーティストが活躍する現在のUS。このシーンにおいて、ザ・ドラムスと並んで大衆にアピールする存在といえる。今回もアンセム化必至のコンバースのキャンペーン・ソング「All Summer」でも、キッド・カディとヴァンパイア・ウィークエンドのロスタムというユニークな2人に囲まれながらメインをとっているし、今年の夏女はベサニーで決まりだろう。

 それにしても、スウィートな楽曲とアルバム・タイトルは彼氏であるウェイヴスのネイサンに向けたものなのか、それとも溺愛する猫に向けたものなのか、そこが個人的には気になってしょうがない。

(角田仁志)

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chilly_gonzales.jpg これはかなり面白い。洒落ているが気取っていない。ダンサブルだが、ただのダンス・ミュージックというわけでもない。彼の作品を聴くのが初めてだった僕でも興味深く聴けたし、本作で初めて彼の作品を聴く方も十分楽しめると思う。ボーイズ・ノイズをプロデューサーに迎えた本作『Ivory Tower』、それは単にひとつのジャンルとして片づけることの出来ないサウンドだとアルバムを通して聴くと分かる。

 カナダ出身、フランスはパリを拠点に活動しているゴンザレス。ビョークやダフトパンクからも絶賛されている彼はピアニストでもありラッパーでもあり、プロデューサーでもありと、多くの顔を持つ。ジェーン・バーキンやファイストをプロデュースし、ジェイミー・リデルの新作にゲスト参加した彼の、良い意味でわずかにねばり気のあるピアノは同じフレーズを繰り返すことが多い。しかし、瞬間的にさらっとした音色やフレーズを奏で、ベースやコーラス、電子音が曲の中で動いていようと何だろうと、ピアノが常に中核にある。歌があればラップもあり、歪んだ電子音も強調されているが、やはりというべきか、ピアノの音色が移り変わるごとに楽曲の雰囲気は瞬時に変わり、その瞬間は心拍数が上がるスリルに似たものがあって面白い。とはいえ見惚れてしまうような美しい「Final Fantasy」という曲もあるから良い。

 以前(今もあるのかもしれないが)、渋谷にはパラパラという動作を共有することで連帯感を高めるダンス・ミュージックがあった。そして、それに対するカタチでムーディーな、大人が楽しめるようなハウスがDJカワサキを筆頭に登場した。しかし本作『Ivory Tower』は、踊るためだけのものや大人っぽさといった、何かに特化した、あるいは何か別の音楽へのカウンター的な作品ではないと感じる。

 もし本作をダンス・ミュージックと位置付けるならば、かつて一部(あくまでも一部だが)のレイヴ・カルチャーがただ騒げればいい、といったものとして働いていた、それに対してのアンチである鑑賞を目的としたIDM。それらを内包しつつも、より実験性を高めた実験音楽的な側面を持つ大衆音楽としてリスナーの耳を楽しませるものとして息をしている。このアルバムの楽曲をライヴで披露するときは音源以上にダンス・ビートを強調するのだろうけど(ちなみに、9月にはピアニストとしての来日公演が決定している)、作品においては滑らかで聴きやすく、かつ、耳をそばだてれば興味深いサウンドに満ちている。

 しかし過剰に快楽を与えないところが面白い。快楽によって踊り、または真摯に音楽を聴く行為はある種の救いとして働くが、本作を聴く限り、リスナーを救おうという意志があまり見られない。「ただ楽しめばいいじゃないか!」という声が音楽から聞こえてこないのである。もしかしたら、楽しむこととは、「楽しもう!」と、あらかじめ意気込むものではなく、聴いている最中に、そして結果として、楽しみの心地とは湧いてくるのだということをゴンザレスは知っているのかもしれない。また、彼がダンス・ミュージックを行事的なパーティーで披露する姿が目に浮かばなくもある。爆発的な快楽を与えず、いつ、どこで聴いても興味深く感じられる本作は、計算的化された、とでもいうべきか、パーティーの行事性へのアンチとなりうる音楽なのではないか。そうだとすれば、本作は音楽そのものが持つ、どのような場面でも耳を楽しませてくれるという現在の聴衆の聴取欲求を肯定する。そんな快作でありパーティー的快楽への焦点をずらした異色作でもあると思う。本作は感情の発露のみではなく、ポジティヴな感情の発生として働く。 

(田中喬史)