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i_am_kloot.jpg
 もう駄目だ。もう死にたい。というところが、ない。とどのつまり、ネガティヴな印象を打ち消してしまう音なのだ。歌の強さである。歌の存在感の広さである。決して過剰にポジティヴなわけではないが、歌声はトム・ウェイツやボブ・ディランなど大御所アーティストを彷彿させる。元リバティーンズのピート・ドハーティにも絶賛されているジョン・ブラムウェルの声が苦みを帯びて淡々とうたわれる。その様に悲しさがあり、暗さもあるのだが、歌はもちろんのこと、ギターもドラムも己の感情を抑制した音の全てが胸を静かに、しかし強く打つ。

 マンチェスター出身の3人組、アイ・アム・クルートが発表した5作目となる『Sky At Night』。プロデューサーにはUKで権威ある音楽賞「マーキュリー・プライズ」を受賞したエルボーのガイ・ガーヴェイ(彼はマッシヴ・アタックの新作にも参加)とクレイグ・ポッターを迎えた。メロディもまた素晴らしく、奥行きを十分作ったミックスも手伝い、神聖な森の中でどこからともなく聴こえてくるようで耳を傾けてしまうのだった。そして訪れる胸がすく気持ち。聖域を見付けてあぶり出してくれるようで何度も聴いてしまえる。ソロの、純粋なギター一本のみの弾き語りも聴いてみたくなった。声がアコースティックな感触にはまりにはまっている。

 演奏スタイルは弾き語りに近い。が、しかし、バンド・サウンドとして重心が座っている。幻想的でもドリーミーでもない。その目の前に立って音を奏でているような親密性がより自然に耳を音に傾けさせる。丁寧に選ばれたアコースティック・ギターの音色。残響音までしなやかに伸びていくストリングス。ドラムはあくまで丁寧だ。時にドラマチックに盛り上がる楽曲の構成が暗闇を思わせる音の空間にぽっと明かりをつける。ジャケットにあるような光が感じられ、ジョン・ブラムウェルもまたジャケットに映る木のように、か細くとも堂々と立っている姿が目に浮かぶ。

 木とは本来曲がりくねり、奇形であるが、アイ・アム・クルートは垂直な木なのである。それはひたすら天に向かっている垂直の木のように、偽りの弱さがないゆえ、とても強い。僕らは何気なく死にたいと、口にしてしまうことがあるが、その死にたいという言葉を太宰治と同じレベルで言える人間は少なく、ほんとうならば、弱さを口にできるのは、強く生きた者のみなのである。弱さを見せられる強さ、というものもあるが、アイ・アム・クルートは弱さを発露するのみではなく、弱さを抱えながらもジャケットに映る木のように強く立っている。彼らならビル・エヴァンスが鍵盤の上で亡くなったように、死の直前まで音を奏で続けるだろう。それは音楽が全てである音楽家としての強さなのだ。このバンドには、生きていること自体が強さを、または弱さを醸し出す姿勢がある。そんな本作に、妙に反省させられる。

(田中喬史)

*日本盤は9月8日リリース予定です。【編集部追記】

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sslyby.jpg 「ボリス・エリツィン(初代ロシア連邦大統領)、誰かがまだあなたを愛している」、USインディー・ロックの熱心なリスナーなら、この長くて変な名前をどこかで目にしたことがあるだろう。本作『レット・イット・スウェイ』は、彼らの三作目となるニュー・アルバムだ。 

 人気ドラマ『The O.C.』の劇中曲として使用され、ブレイクのきっかけとなった「Oregon Girl」をはじめ、キャッチーなメロディーとチープなサウンドでローファイ~インディー・ポップ好きのハートを鷲掴みにしてきた彼らだが、本作では一回り成長した、より完成度の高い楽曲を聴かせてくれている。それは、彼らのバンドとしての成長に加え、プロデュースを担当したデス・キャブ・フォー・キューティーのクリス・ウォラの功績によるところも大きいだろう。(良い意味での)青臭さや勢いを残したまま、よりクリアにメロディーの良さが伝わるサウンド・メイキング。同じくクリスが手がけたシアトルのバンド、テレキネシスの昨年のデビュー作にも通じるものを感じる。

 もちろん、一度聴いたら忘れられないグッド・メロディーは健在で、初期ウィーザーやティーンエイジ・ファンクラブ、ナダ・サーフなどを引き合いに出すまでもなく、ポップなロック・バンドが好きな人ならきっと一発で彼らのことを気に入るだろう。2010年、最新のギター・ポップ名盤がここに誕生した。

(山本徹)

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patrick_pulsinger.jpg パトリック・パルシンガーが新しいアルバムを出すと知って、前作『Easy To Assemble.Hard To Take Apart』のようなアルバムでなければ良いなあと思っていたのだが、それは杞憂に終わった。もちろん内容を悪いと思っているわけでは決してなく、傑作とさえ思っているのだが、彼のそれまでの輝かしいキャリアを振り返ると、やはり数々のシングルで見せたテクノ、アシッド・ハウスや、スラッツン・ストリングス&909(Sluts'n'Strings & 909)名義で出した名作『Carrera』の様なサウンドを個人的には望んでいたのだ。

 一聴してダンサブルでありつつも整理されてない感じがFour Tetの『There Is Love in You』に似てるようにも思えたが、Four Tetの音楽が雑踏のような温度があるのに対して、パルシンガーのそれは地下室のようなひんやりとした質感がある。アルバム中「A To Z」は歌メロがクラフトワークの「The Robots」を思わせるし、「ライズ・アンド・フォール」の2:16のディレイの使い方、「グレイ・ガーデンズ」の盛り上げ方など、古典的な手法が多いと思うのだが、この雑然としつつもひんやりとした質感こそが彼の個性だと思う。

 アルバム中、6組のアーティストがフィーチャーされているが、正直言ってフェネス以外はほとんど知らなかったので調べてみた。残念ながら音源を含んだ詳細がわからなかったアーティストもいるので一部になるが参考まで。

 「グレイ・ガーデンズ」でフィーチュアされている、フランツ・ホウツィンガー(Franz Hautzinger)はデレク・ベイリーや AMMの面々とも共演しているトランぺッター。音源をyoutubeで探してみたのだが、これを聴くとエレクトリック期のマイルス的。プロフィールを読んでもっとインプロしてるかなと思っていたのだけど。

 「ライズ・アンド・フォール」のジー・リッツォ(G Rizo)はエレクトロ系の女性ボーカリスト。本人のMySpaceにYouTubeのライヴ映像がリンクされている。かなりパワフル。

 エレクトロ・グッツィ(Elektro Guzzi)はオーストリアの3ピース・インスト・バンド。ステファン・ゴールドマンのMACROからアルバムが出ている。ギター、ドラム、ベース、という構成ながら、サウンドはテクノ。そのアルバムにもパルシンガーは関わっているようだ。これもmyspaceがある。

 このアルバムを入手してからもう何度も繰り返し聴いている。このクオリティのリスニングにも耐え得るダンス・ミュージックというのもありそうでなかなかないものだ。コンスタントな活動を期待したい。

(田中智紀)

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nsukugawa.jpg 増子真二(ボアダムス、DMBQ)をプロデューサーに迎え、やっとこさ完成したセカンド・アルバム。まずはN'夙川ボーイズの説明から始めよう。彼らはその名の通り、神戸の夙川を拠点に活動する3人組ロック・バンド。誰が何を弾くかは特に決まっていない。演奏は私がいままで観てきたバンドのなかで1番下手。そもそも私が彼らに注目したきっかけは「Candy people」という超がつくキラー・チューンを聴いたから。そう、彼らは誰でも一生懸命練習すれば身につく演奏力をかなぐり捨てた代わりに、誰もがうらやむ「ジザメリがJ-Popを演奏しているような」刹那的に美しいバンド・サウンドを手にしていたのだ。ほとんどの日本のバンドが特筆すべき個性を必死になって探し回っているのに、彼らにはそれがとっくに備わっていた。今作からは「アダムとイヴがそっと」が新たな「Candy people」になるだろう。

 かつて私はペイヴメントのファーストを聴いたときにまったく意味が分からなかった。「金もないのにこんなもん買っちまった」とまで思った。しかし、当時の若者がリアルタイムで彼らの登場を目の当たりにした衝撃とは、まさに私がいまN'夙川BOYsを聴いて感じたものと同じだったのだと思う。それと最後に「MA.DA.KA.NA」、名曲!

(長畑宏明)

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d_rradio.jpg 収録時間40分弱に対し19曲という短編集のようなD_rradioの4thアルバムがディストラクションよりリリース。 

 清澄なドローン・サウンドが波のように起伏を繰り返し、遠くではシンセによるストリングスのオーケストラが鳴り響く。短い映画音楽が穏やかに流れるサウンド・トラックのようだ。雲の上を歩くような夢見心地の陶酔感に溺れられる。本盤は、サウンド・スケープは水で滲んだように不鮮明だが、ジャケットまでも含めて、古色蒼然とした映画の連なりを彷彿させる世界観で統一されている。 

 全て集約させることで壮大な物語が初めて浮かび上がってくるように、一つの枠内に収まっている。枠内に収まるというのは、似た曲ばかりで凡庸という意味ではない。かといって似た曲を寄せ集めてアルバムを作っても棚差しされないし、抑制された音楽にはならない。一つの物語をあらゆる側面から眺めた結果として、初めて統一された音楽性、世界観が産声を上げる。 

 蛇足だが、彼らのMySpaceの音楽ジャンル欄は、3つともpopで統一されている。「それは彼らがポップな音楽をやっているのではなく、ポップでファンタジックな映画世界を対象としているだけに過ぎない!」と強引に理由付けることもできるが、単純に彼らがストイックになりすぎず、脱力しながら創作に取り組めている良い兆候だと解釈した方が良いだろう。

(楓屋)

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0.8.jpg 誤解を恐れずに言えば、このバンドの個性は今度の新作(今回はEP)で確固たるものになるだろう。ファーストの時点での彼らのサウンドはメインストリームとハード・コア、あるいは洋楽とJ-POPの間にあるフェンスの上で何とかバランスを保っている、というものだった。既存の枠に収まらないだけに、曲は大衆ポップス以上にメロディアスでそこらへんのアヴァンギャルド・バンドよりエキサイティングだったのだが、どんな言葉を尽くしても説明できるものではなかった。だから私もファーストの時点では、とりあえず「バラッドが素晴らしい」とか、そういうことしか書いていなかった。そして待望のEPがリリースされた。今回は確信を持ってこう言える。塔山忠臣とJMの2人のボーカルが、何よりも素晴らしい。芯の通った塔山忠臣のロッキン・ヴォイスにJMの透き通ったファルセットが乗っかるとき、私は抗えない。「めちゃくちゃ良い曲だ!」と叫びたくなる。つまりこれは今回のEPに収録されている「Fork Guerrilla」のことなんだけど。またバラッドが気に入ってしまった。もちろん、アークティック・モンキーズを早回しにしたような「ビートニク・キラーズ」だって、ちょっと怖くて切なくて最高。うん、切なくて怖い、というのは0.8秒と衝撃のサウンドを30パーセントくらい説明できているかもしれないな。

 このバンドのルーツは掘れば掘る程どんどん「本当の音楽好きが狂気乱舞しそうな」ものが出てきそうだが、私はアーケイド・ファイアのあとに「ビートニク・キラーズ」を聴いたり、あるいはM.I.A.のあとに「21世紀の自殺者」を聴いたりする。つまり私にとって彼らは脈絡が無いから「超魅力的なバンド」なのだ。頑張って聴く必要はない。あなたは必ずこのバンドが好きになる。アークティック・モンキーズ...もっとぴったりの引用があれば良いんだけど。

(長畑宏明)

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sanah_brasko.jpg とても、とてもいいルックス...。美しいジャケットに心底惚れ惚れする。憂鬱げに視線を逸らしながらも、バックに陣取るキラキラした色合いをした幾何学模様のおかげでポジティブな気分も演出した、秀逸なバランスを保ったデザインだろう。

 簡単にスノッブと一蹴しづらくさせる想像力をかきたてるのは、この「夢見る女の子」ポーズを支える手の配置だろうか。たとえば同じポーズをとっているカメラ・オブスキュラ『Let's Get Out of This Country』と比較すると一目瞭然だが、人間の関節の構造からすると腕の角度がややおかしい。肩の描写を意図的に省くことでこのジャケットのファンタジーは成立しており...可憐さをアピールしておきながらも、いざ腕をほどくと(カルトな人気を今でも誇る、カナダ出身ながらヨーロッパに思い焦がれた退廃的耽美派SSW)ルイス・フューレイの『Sky Is Falling』みたいなろくろ首が間違えて出てきそうで、このアルバムが一筋縄でいかないのであろうことを予感させているようだ。

 本作はシドニー出身のサラ・ブラスコ(Sarah Brasko)の自身三枚目となるアルバムである。本国オーストラリアでは既に昨年の時点で発表されて爆発的な人気を誇っていたそうで、それもあってようやく今年8月にヨーロッパやアメリカでリリースされ、日本でも入手しやすくなった。

 音のほうもジャケットやそういった評判を裏切らない、折り紙つきの素晴らしい内容になっている。陰りをもったオーガニックなオーケストラ・サウンドとピアノの旋律に、ロリータ・ビョークとでも呼ぶべき彼女の歌声に耳を傾けていると、アルバムのタイトルどおりに夜を想起させられる。眠れない夜の夢見がちな妄想を形にしたような。プロデュースを手掛けたのは"口笛ソング"で日本でもお馴染みピーター・ビヨーン&ジョンのビヨーン・イットリング(Bjorn Yttling)で、録音はストックホルムで短期間のあいだに行われたようだ。ビヨーンのプロデュース・ワークといえば本作とも少し似た音楽性のリッケ・リー(Lykke Li)もそうだし、これまたカメラ・オブスキュラの近年の傑作『My Maudlin Career』での印象的なストリングス・アレンジも彼の仕事。本作でも多少メロドラマ的ですらある大胆なアレンジ・ワークを見せつつ、暗さ一辺倒には陥らない舵の取りぐあい、洗練のされ方はスウェディッシュ・ポップに通じるものもあるし、サラもきっと抱いているであろうヨーロッパ的な世界観への憧憬もうまく表現している。この音が大ヒットするというのは羨ましい話ですね、オーストラリア。

 いい意味で浮世離れした、ある種のアンニュイさとピュアネスはエル・ペロ・デル・マー(El Perro Del Mar)に通じるものがあるなぁ...と思ったら既に彼女とツアーを一緒に周っていたり、「Over & Over」という曲でアウトロの節回しにトーキング・ヘッズの「Road To Nowhere」のそれをさりげなく引用したり(跳ねる曲調にも少し通じるものが)、既に発表されていた本作のデラックス・エディションではボーナス・ディスクとしてアニー・ホールやサウンド・オブ・ミュージックの楽曲に、ザナドゥのカヴァーが収録されていたりと、ポップスとその歴史に対して敬意や愛情を思わせるトピックに事欠かないのも好印象。一級品のメロディが書けるのも頷ける。最近はホリー・スロスビー(Holly Throsby)やサリー・セルトマン(Sally Seltmann、元ニュー・バッファローにしてファイストの大名曲「1234」の作曲者。こちらも今年リリースされた『Heart That's Pounding』もソングライティングが冴えまくった傑作!)といった同郷の優れた女性SSWたちとレコーディングに取り掛かっているそうだ。リヴィング・シスターズもそうだが、こういう仲良しっぷりは大歓迎。今後の活動にも期待がもてる。

(小熊俊哉)

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kirino.jpg 男性が上位であり女性が従属物であること(家父長制)の否定から始まったフェミニズムが「フェミニズム」という政治的力を持つ大きな団体として社会進出をするとき、そこから漏れ出るものが出てしまうのは『統一』に拘る限りは必然となる。だが、マイノリティである女性を救い上げることを目的として集まった女たちであったはずなのに、フェミニズムを組織化したい多数派が押し出す『統一』というスローガンの下に零れ落ちてしまうフェミニストが出てしまうというイロニーについてジュディス・バトラーは触れている。

 そんな「統一」を拡散させるように、桐野夏生は「個」の内部に降りてゆく。彼女はサスペンス作家の括りになる場合もあるし、最近では、実際の事件をモティーフにした『残虐記』や今夏映画化される『東京島』という社会性を帯びた作品も増えてきた。ただ、僕自身としては彼女の決定打は泉鏡花文学賞を取った『グロテスク』だと思う。文庫本の解説で、文芸評論家の斎藤美奈子が書かれている悲惨で、絶望的で、陰惨な出来事の連続なのに、「読後感は妙に爽やか」だと言う言葉も首肯するところがある。高村薫が現代のドストエフスキーと称されているが、文体は抜きに心理描写の執拗さでは、彼女の方が近い気がする。そして、「ナラティヴ」がまだ持ち得る対・現実への可能性の「何か」を見せてくれる意味での飛距離が長い。
 
 例えば、個人的にこの作品の読後感は、ドストエフスキー『白痴』や大江健三郎『われらの時代』を一気に読みきった時の感覚やスミスのアルバムを聴き通した眩暈のような感覚、ランズマンの『ショアー』を観た感覚に近いと言えるだろうか、兎に角、人間の「深いところ」まで降りていって(井戸掘り)、逆説的にカタルシスと爽快感があるところが「絶望を見つめ尽くした故の希望」なんて態の良いレヴェルではなく、胸に響く。

 主軸となる人物は四人。外国人を父に、日本人を母に持つハーフである「わたし」。その妹であり、誰もが憧れと羨望のまなざしを向けるほど美しいユリコ。懸命な努力の上で、学力で他者より高みに立とうと必死で藻掻く和恵。優秀な成績をとって周囲に一目置かれる存在のミツル。その四人が、エスカレーター形式で歪な差別構造のある中高大一貫私立学校での出来事を軸に、それぞれの人生が展開していく。この作品の一つの主題である「女性社会のヒエラルキー構造」というのは兎角、ややこしいのはよく知っている。ましてや、美/醜、異性、地位を巡っての駆け引きの陰湿さと周到さは自分達男性の矮狭な想像力や感応力では追いつかない「生物として本能的なもの」だとも思う。
 
 美しくて、若くて、家柄が良くて、お金があって...という女性の持つ刹那さと引換えの富裕や「なにもない」が故に、懸命にサヴァイヴする女性の果敢なく根源的な美麗さ。こういったファクトを受容すると、男性は、仕事とか地位とかで様様な生理的なコンプレックスや先天的な何かを置換出来る生き物だという「社会的事実」に時々救われる気分になるがでも、その分、男性性の持つ触れれば壊れるような脆弱さと頑迷さもよく分かるのだが。男性の苦悩は、「抽象性」に抜け、女性のそれは「具体性」に抜ける、なんて凡庸な物言いをしていた人が居るが、それは「一部層」に限ったことであり、男性のエンヴィーや悪意の根深さは存外、タナトスが巻き付いている。

 上記の、ニンフォマニアでセックスを通じて、男を介しながらも快楽と頽廃の一線上を持ち前の美貌で渡り歩きながらカタストロフィーへと傾いでいくユリコ、東電OL事件のモティーフとして昼は一流企業に勤め、夜は街娼をする和恵、悪意と理論武装で俯瞰的に現実を捉えながら、ユリコの影を常に意識して生きてきた姉(自分)、東大医学部へ行き、常に上昇運動を続けようとしたあまり世間的な価値からドロップしてしまい、横軸としての承認獲得の為、宗教に走って大きな事件を起こすミツル、はたまた中国の内陸地から密入国してきたチャン、それぞれ「真っ当」でなく、(そもそも「真っ当」とは何か僕はよく判らないが)、どれにもアイデンティファイ出来ないどころか、都度これでもかとばかりにどす黒い憎悪や悪意やシニシズムや絆の縺れが重層性を持ちながら、絡まり、点と点が線を結ぶように、しかし、その線が図形を浮かび上がらせないレベルの曖昧な模様でドライヴしていきながら、壊れてゆく。

 アイデンティティの確立を巡る、数多の刻苦と駆け引き、ストラグルは悲愴ですらあるが、人間の本質はこんなものじゃないか、と思わせる本能的な滾りに充ち満ちてもいる。

 基本構成は、姉(自分)の手記がメインだが、ユリコ、和恵、ユリコと和恵を殺したとされるチャンの上申書などが絡まっていき、それこそ、各自が各自なりの感情の文脈沿いに言葉と主観性を持って、露悪的な自己顕示欲、他者への冷徹にして歪んだ視線を向け続け、そして結果的に、どれが真実で、どれが間違っていて、なんて事自体を「問う」行為性そのものがナンセンスで無的なものだと(読み手側は)思い知らされるような着地へと向かう中、「藪の中」にある人間(的生物)の持つエグみと果敢なさと、醜いまでの美しさが滲み出てくる最終的な消失点において、視界が「変わる」ように薄いヴェールに包まれた幾つものブルーの残影が具視化されるとき、妙なカタルシスがあり、「こんな世界」に生きている事を恥じるでも、避けるでもなく、当たり前のものとして受け止められる様な気分になることが出来る。

 強いて言う事では無く、イジメとか差別とか権謀術数とか性差とか弱肉強食とか駆引きとか妬みとか悪意とかもうそんなのは生きていくにあたって「前提」でしかなく、それら数多の負性を掻い潜って生きなければならない様態こそが「人生」であって、だから明朗で底の浅い希望的観測なんて深遠な絶望しか惹起しない。ちなみに、別に自分がそうとかではなく、エリートとかインテリとか高学歴社会の方がその実、凄まじい差別や醜い確執抗争があるのを実際よく知っているし、実際、知り合いに聞いた某・私立一貫校でのヒエラルキーの敷かれ方はこの小説よりもっと生々しかった。

 この小説を読んで、新しい視界は開けないだろうし、相変わらず世界は何処までも憂鬱で、時折とても美しく「視える」ときもあるだけのものだろう。但し、表面的にブラッシュアップされた事象や小綺麗にコーディネイトされた(ような)人間の生きる背景には色々な渦巻くものがあるんだよ、という事を教えてくれる重石のような作品として今でも有効な暗みを孕んだナラティヴを描いていると思う。

 人間は安心するために群れるのではなく、より孤独になるために集まるのかもしれない。

(松浦達)

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menstruation_machine.jpg <生理マシーン>とは、女性特有の肉体現象である生理を再現するマシーン。装着すると腹部に微弱な電流が走り、タンクからは模擬の血液が流れる。
 
 女の子になりたい、女の子の気持ちを本当に分かりたいという欲求を持つ男の子タカシ。そのため、女装するだけではなく、<生理マシーン>を作成する。本作は、彼を主人公とした楽曲とミュージックビデオ。ビデオではスプツニ子本人がタカシに扮する。その上で女装してマシーンを装着し、女友達と街に出て遊ぶ模様が描かれている。 
 
 この作品の大きな特徴は、<生理マシーン>がスプツニ子によって作成された実在するマシーンで、そのプロモーション作品でもあるということ。楽曲の制作もビデオの監督もスプツニ子本人により手掛けられている。全てを観ないと評価しにくい一面はあるが、背景を知らなくてもそれぞれを楽しめるようになっている。私には、楽曲でのヴォーカルのキャラクターごとの使い分けと、映像で吉祥寺をブレードランナー的に描いている点が面白かった。とはいえ、後者については<生理マシーン>の存在自体が私の見方を変えてしまっているのかも知れない。
 
 ジェンダーを鋭く衝いている作品なだけに、センセーショナルなものとして捉えられる事は避けられない(実際に発表後には英語圏で毀誉褒貶が激しかった模様)が、これは彼女の抱いているテーマであり、自覚しているからこそ持ち得る軽やかさが良いと思う。

 スプツニ子(愛称・スプ子)はロンドン在住の芸術家。英国の大学で数学を専攻し、フリープログラマーを経、大学院でDesgin Interactions(コンセプチュアルなデザイン論)を修める。本作はその卒業展示で発表された作品で、発表後に英語圏で話題となった。その際、彼女が男性だと誤解されたという逸話がある。

 また、本作はダウンロードの形で販売されているのだが、利益を全額次作に投入している点も興味深い。ブログ等で表明されているアーティストの利益についての考えも地に足が付いているものだ。余談になるが、やはり自らのポリシーの元、独自に活動しているまつきあゆむと旧知の仲というのも面白い巡り合わせだと思う。

 

(*参考リンク)

http://www.sputniko.com/

http://www.sputniko.com/works/sputniko/menstruation-machine

http://n-a-u.jp/video/nau00027-sputniko.html

(サイノマコト)

 

*販売方式についての記述を一部修正しました【9月7日(火)追記】

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caetano_veloso.jpg「僕の音楽は音楽が嫌いなジョアンという詩人の詩の音楽から来ている」(ポートレイト)

 アメリカ大陸の中で、ブラジルだけが何故、「8年も」遅れて発見されたのか、考える事がある。コロンブスでもカブラルの所作でもなく、偶さかポルトガルの漂着船に発見され、しかも当初はインドと間違われた、という歴史の認識はブラジル人のみならず、その音楽にも影響を与えてきたのはカエターノ・ヴェローゾの最初のソロ・アルバム『Alegria,Alegria』を聴けば明瞭に分かる。カブラルの船よりポルトガルの王様へ宛てた手紙のパロディー、シニシズムから、幾つもの暗喩的な暴力性と幾つものカット・アップ。

 今更、トロピカリズモというムーヴメントの説明は不要かもしれないが、60年代が終わろうとする頃、既に彼はジルベルト・ジルやガル・コスタなどと「ロック」はアメリカの帝国主義が不可避的に生み出した反体制的なムーヴメントという「ベタ」に認知していた。だからこそ、レフトフィールド≒ロックという狭い檻を破る為に、68年に彼は第三回国際歌謡フェスティバルで「E Proibido Proibir」を敢えて歌う。「禁じることを、禁じる」という歌。勿論、この歌は拒絶されることになるが、それは「禁じることに禁じられていた」些か無邪気な人たちには違和として響かなかった証左であり、それはグラムシ的に言う「有機的な知識人」が言葉を発した時に起こる影響の震度を明確にしていた。

 僕はいつも思うのだが、60年代のヌーヴェルヴァーグ、ファクトリー、などのマス・カルチャーとアンダーグラウンドな藝術と臨界点を解析して、ヴェルヴェッツやゴダールの「クールネス」を再評価していく波はいまだ尽きないのだが、本来、語り得るべきものはトロピカリズモだったのかもしれない、ということだ。カエターノは、公のバラエティ番組で"「バナナ」(ステレオタイプ的な熱帯)を持っていること"を歌うというオーバープロテストな行為を行なうが、これはオズワルド・ジ・アンドラージの捉えたブラジルを対象化する意味を含意した。"悲しき熱帯"で生まれ、ロックというモダンネスに魅かれたカエターノは案の定、非・モダンネスの反駁を受け、ロンドンへ亡命を余儀なくされる。

 71年の作品では、ポルトガル語を封じて、英語で内省的で悲哀に満ちた世界観をフォーキーなサウンドで提示する。ほぼ同時期のニック・ドレイクの『Bryter Later』との「共振」が今聴くと、感じられるのが興味深い。

 帰国してからの作品群の中で、やはり白眉なのは75年の『Joia』になるだろう。ビートルズの「Help」の弾き語りカバーを含めながら、混迷の時期を抜け、当時の妻であるデデーと息子のモレーノと映ったジャケット画も象徴するように、この時のカエターノはトロピカリズモで必然的に受けたスケアリーも過剰なまでの知的オブセッションも無くなっており、全体的に透き通った美しさが通底している。しかし、作品として評価していくならば、70年代~80年代の概ねの作品は実験精神が先立つというよりは彼の「日記」的な側面と不安定な音楽的な試みが同居した作品群が多いのは否めない。1985年の彼がNYでライヴを行なった際に知り合ったアート・リンゼイでの化学反応がとても良いものをもたらした。

 アート・リンゼイとは少し説明すると、1970年もほぼ終わるころ、ニューヨークのアート・シーンの中でハードコアバンドのDNAを請け負いつつ、ラウンジ・リザーズでのギタリストも受け持っていた「前衛の前衛」たるアーティストで、今でも坂本龍一との交流やソロ作品で見せる多角的な側面をして、マルチな才人だが、彼とカエターノが組んだ1989年の『Estrangeiro』は兎に角、素晴らしく、90年代以降のカエターノの躍進を「確約」させるに余りある内容だった。リズム・パターンの多様さ、「ネオ・トロピカリズモ」を表象した曲などこの先進性はベックなど90年代のオルタナティヴ・ミュージックの潮流を青田刈りしていたとも言え、更には指針にはなっていた。並列上に様々な音楽要素を並べ、位相を少しずつズラす「センス」の音楽。

 80年代以降のブラジル音楽の新進勢がもはやUSよりニューウェーヴ勢のキュアー、U2、ザ・スミスなどUKの音楽の影響を受けてきたものが多い中でのカウンターへのカウンター。そういう意味で言えば、カエターノという人は常に「カウンターへのカウンター」を意識している。ニルヴァーナ的なグランジへの解釈を00年代に確認してみたり、近年のライヴでは良い意味で「非・構成」的なものになっていたり、「出来あがったもの」には「出来あがってきてないもの」を、「出来あがってきていないもの」には「出来あがったもの」を配置する。オルタナティヴという音楽が『Odelay』によって、沸点を迎え、97年にレディオヘッドの『Ok Computer』で墓標を建てられようとした同時期の『Livro』という作品は、オルタナティヴの先を行くマルチ・カルチャリスティックでエクレクティックな内容であり、それは必然的に「代案は本案に回収される」というイロニーを脱構築する早さがありながらも、決してポストモダン的な小文字の音楽ではなかった。

 「退屈することにも退屈している」僕のような人間には、カエターノ・ヴェローゾという人の倦んだインテリジェンスはとても魅力的であり、今でも刺激的だ。05年の来日公演で観た彼はアンドロジナス的な風情を保ちながら、紡がれる音楽はとても蠱惑的で身震いするようなセクシーさがあった。それ以来、来日公演は残念ながらまだ叶っておらず、また、モレーノたちと組みだして、ラフなロックをやりだしてからの動きは僕は正直、乗り切れないところがあるのだが、今年、ボブ・ディランのライヴを観た時に、彼が今プリミティヴなロックへ戻った理由が分かった気もした。つまり、今彼はグローバリゼーション、帝国の時代において、総てが一瞬で皆と「共有」されてしまう磁場へ対抗する為、ライヴでこそ映える「一回性」のダイナミクスに賭けているのではないか、ということだ。事実、カエターノの最近のライヴ映像を画面越しに観ても、伝わるものは少なく、「現場」に居合わせることで漸く感じるパトスがあると思う。配信でイメージが大きくなっていくアーティストが多い中で、反・イメージの肉体性で挑む彼はまたしても、「カウンターのカウンター」に依拠する。自意識で凝り固まった音楽的なコロニアルを「内部」から拡張してくれるという意味で、ライヴという場の美しさを弁えているのは世界で今、有数のアーティストなのかもしれない。

 発見が「8年」遅れたからこそ、彼はその「8年」先を行く。この10年代に愈よ70歳を越えるにあたり、どのような在り方を示すのか、僕は常に追いかけていきたい。

(松浦達)