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versus.jpg 一昨年の奇跡の再結成・来日に感涙した方も多いであろう、ヴァーサスの実に約10年振りとなるニュー・アルバムがここに届けられた。 

 最初に、ヴァーサスについて簡単に説明しておこう。ヴァーサスはリチャード・バルユットを中心に1990年に結成されたバンドで、ティーンビート、キャロライン、マージといったレーベルから5枚のアルバムと多くのシングルをリリースし、90年代のUSインディー・ファンの間で高い人気を博した。2000年に大傑作『Hurrah』をリリースした後にバンドは解散。メンバーはそれぞれ個々の活動を始める。ちなみにヴァーサスに在籍していたリチャードの弟のジェイムス・バルユットは自身のユニット、プラス/マイナスで精力的に活動、00年代を代表するUSインディー・バンドの一つとして高い評価を得ることになる。 

 10年振りとなる本作『オン・ザ・ワンズ・アンド・スリーズ』でも、ヴァーサス・サウンドの根幹となる部分はほぼ変わっていない。絶妙な男女ヴォーカルの絡みに、どこか不穏な雰囲気を醸すコード進行、そして無二のグッド・メロディーの連続。静かに始まり徐々に盛り上がり豪快にバーストする「Invincible Hero」で幕を開け、「Afterglow」EP辺りに近い、暖かい雰囲気を持つ「Gone To Earth」など、ヴァーサスにしか書けない楽曲が並んでいる。往年のファンには懐かしく、若いファンには新鮮に響く、そんな作品になっているのではないだろうか。 

 2000年代に入って10年。多くのバンドが現れ、ジャンルは細分化され、いくつかのムーヴメントが沸き起こっては淘汰されていった。シーンは大きく様変わりしたように見えて、そんなに変わっていないようにも思える。良いものはずっと変わらずに、私たちの耳と心を捉えて離さないだろう。

(山本徹)

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 本作は8トラックのホーム・レコーディング狂であり、宅録ロック界の才人/怪人としてかねてから一部で知られていた(アニマル・コレクティヴに才能を見出され、彼らが主宰するPaw Tracksからも過去作はリリースされていた)アリエル・ピンクが、暗黒耽美レーベルからストレンジでハイグレードなロック/ポップスの梁山泊へとレーベルの性質を変えつつある4ADに移籍し、自身初のスタジオ録音されたフルアルバムである。70年代のAORや80年代のエレポップの影響を感じさせる洗練されたコード・プログレッションと、スタジオ録音とは一聴信じがたいくぐもった酷い録音が特徴で、依怙地なまでにドラムの録音レベルは低い。ダサい青春映画のフレーバーもあるし、サイケもソウルもパンクもロカビリーも、イーグルスもカート・ベッチャーもここにはある。彼は(彼と同じように、山のように夢の島のように宅録音源をこさえまくった)R・スティーヴ・ムーアの熱烈な信望者であったが、単純なフォロワーとしての従来の彼の立ち位置から本作は完全に脱却させ、多くのリスナーにとっての購入指針となっているピッチフォークで9.0の高得点を叩き出し、アルバムリリースから日も経って既に日本でもその存在は周知となりつつある。ちなみに、ジャケットは少しダムドの『Machine Gun Etiquette』に似ている...のかな。

 それにしてもインターネットとは便利なもので、今回のアリエル・ピンクみたいに(若干のハイプも込みで)祭り上げられたアーティストのデータや感想なら特に山ほど転がっており、適当に検索をかけてうまいこと繋ぎ合わせれば上記のような情報をさも自分が初めて発見したように書くことができるし、感想だって後出しジャンケンでよければ目配せの利いためざとい内容をサラっと書くことができる。アーティスト/バンド(名)についての多少の知識と常識的な言語能力、ヒマを持て余すほどの時間、あとは辞書をひけばなんとなく理解できるていどの英語力とお人よしな性格があれば、今は誰でも音楽ライターになれるのかもしれない。

 実際、00年代に登場したビッグネームのなかには上記のような作業を音楽制作にそのまま転化させた"優等生"はたくさんいた。もっと規模の小さい動きでなら山ほどあった。無難なセンスで音楽を作り上げ、無難な誉め方をされ、良心の名のもとに作り手と聴き手の共謀関係が働き、共有言語を用いて生温かいコミュニケーションを楽しみ、内輪で視野の狭い審美眼を競いあうのが今も昔もインディーの世界の暗部であり、そのぬるま湯に心地よく浸ったことも、辟易させられ自己嫌悪に陥ったことも何度だってある。そして、このように告発することすら既に何万回何億回と繰り返されたことであり、≪視野の狭い審美眼を競いあう≫ことの対象となり...うーん、ややこしい。

 ムダに毒づいてしまったが、しかし、アリエル・ピンクの音楽は不思議とそういったものとは一線を画しているように僕には聴こえる。単に思い入れの違いでしょと言われればそれまでだが、この人も先述のような雑食性と膨大な音楽知識の再構築の仕方が器用といえば器用ではあるけども、その裏には小奇麗に飾ることとは真逆の執念めいたものが見え隠れする。あるていど音の整頓が施された本作においても、フリーク・アウトしまくった過去の宅録音源においても、理解しづらいとっつきづらさが聴きこむことで不思議と心地よい人懐っこさへと変わっていく。ファッションとして音楽を楽しむというか、流行の先端を追ったりニッチなCDをひっそり聴いたりしてニヤニヤ悦に浸ることよりは、もう少し有意義でふくよかで人間味のある快楽をもたらしてくれる。この人懐っこさはなんだろう。フライパンで焦がしたネズミの匂いと、冷蔵庫の隅に放置された腐ったバナナの甘みみたいなものが共存する彼の音楽のどこから人懐っこさが?

 彼が宅録人である前に一流のナード・ロッカーであるのは、趣味の悪い学園映画のワンシーンを切り取ったようなPVもある意味で鮮烈だった本作二曲目の「Bright Lit Blue Skies」からも伺うことができる。これはロッキン・ラムロッズ(Rockin' Ramrods)というボストンのガレージパンク・バンドの66年に発表された曲のカヴァー(ちなみに、ダムドも覆面バンド-ナード・ロッカーとしての所作であるところの-"Naz Nomad and the Nightmares"名義でこのバンドの「She Lied」という曲をカヴァーしている)。FACTマガジンで発表されている彼選曲によるMIXもそう。たとえば、一曲目のНИИ Косметики というバンドの「unknown」という曲。曲名どおりでバンド名も知らないし、そもそも読めない。以降に並ぶ名前もふつうのリスナーには聞き馴染みのないであろう名前がずらっと並んでいる。僕だってほとんどわからない(そして、このMIXは最低なことにほとんど終始グダグダで俯いたままてらいもなくキラキラしていて、今みたいな真夏に冷房のない部屋で聴いていたらそのまま溶けてしまいそうだ)。

 興味深いのはそんなリストにプリンスの名前が並んでいることだ。何年か前にアリエル・ピンクの過去のアルバムである『Scared Famous』をCD屋で視聴して陽気に狂ったイントロの10秒で購入を決め、ついでに冒頭曲の「Hardcore Pops Are Fun」というタイトルがカッコいいというだけの理由で『House Arrest』もいっしょに購入し、一週間か二週間、二枚のアルバムをひたすら交互に聴き返していたが、そのとき連想した名前がやはりプリンスだった。アルバムでいえば『Parade』や『Sign O the Times』。ミュージシャンシップや作曲の手腕は比べるまでもなくプリンスのほうが上だが、宅録でしかなしえないファンキーなドライブ感覚や、ときおり瞬間最高風速的に魅せる陽性なメロディの豊かさ、そしてドメスティックな閉塞感とそれに相反する風通しのよさには似通ったものをおぼえた。

 この時期のプリンスといえば、渋谷陽一氏の言説を僕は条件反射的に思い出してしまう。『Sign O the Times』が23年前にリリースされたときに封入された渋谷氏による解説にこんな記述がある(関係ないけど、この解説の冒頭で渋谷氏が「音楽評論家なんて職業は尊敬されることも少ないし、収入も少なく、どう考えても割のいいものではない」といったことを述べているのが、23年後の今となっては実に味わい深い)。

「プリンスを支えるラジカリズムは単純な前衛主義ではない。人より先に変わったことを演りたい、時代をリードしたいというエリート主義ではない。彼をラジカルな音に向かわせるのは彼のシンプルでストレートな、しかし限りなく激しいコミュニケーションの意志以外の何ものでもない」

 後追いの身としては、プリンスと彼のコミュニケーション渇望についての一連の議論はあわよくばギャグとも受け取ってしまいかねないくらいに青臭くベタな内容だとも思ったりした。十分売れてるしチヤホヤされてるじゃん、みたいな。しかし、この文章の主語をアリエル・ピンクに置き換えてみたら...。ピンとこないでもない。なるほど、彼がプリンスに憧れないはずがない気もしてくる。

 そして極めつけはアリエル・ピンクのこのインタヴューだ。

Q.Are you still aware of what people think of you? Do you still care?
A.I think I've got a very good read on my fanbase. I think I do enough research that I'm the expert on who listens to me.

 困った。彼みたいな音楽をやっている人間でも、別に仙人のような浮世離れした思考に陥るわけでもなく、それどころか、フツーの人と同様にウケを狙っているのだ。普通にモテたいだけなら、ルックス自体は整っているのだから、ヘンな音楽を作っているヒマがあればそのだらしなく伸びきった前髪を今すぐ切って、布袋寅泰といっしょにスーツを買いに行ったほうが間違いなく早い。05年の初来日時には便所に籠ってひたすら体に消臭スプレーをかけまくり、自分のバンドのメンバーに手洗いをきちんとしたほうがいいと陰口を叩かれる男が、まともなコミュニケーションに飢えているという事実。そして彼は、ステージではいっぱしのロックスターのように客席に我が身を投じるわけだ。なんだろう。涙が出そうになってくる。

 そんな不器用の結晶である彼のせめてもの成長の証となるのが本作である。既に誰かが何度も論じているように、宅録時代の音源と比較して恐ろしく聴きやすくなりながら、最低の腐臭と人見知りしまくってそうな(あるいは人を小馬鹿にしていそうな)ハニカミ笑いは健在のまま。以前より楽曲にあるていどの尺をもたせたことでキャッチーさと物語性も有することになるが、どの物語も下劣なホラー趣味や常人には理解しがたい愛情表現について歌っているものばかりで、プレス・リリースに書かれた"最高級のイタリア産大理石に吐き散らされたゲロ"という表現がまったくもってお似合いだ。

 特に3曲目以降は彼の独壇場で、不穏でけばけばしく猛烈なテンションによる演奏(曲終盤の展開の目まぐるしさがすばらしい)とともに、御屋敷のマダムや彼女に仕えるメイドへのよくわからない愛情を歌った(素っ頓狂に裏返る声や、"チアーアップ! ポン!" の口角泡が最高に人をくった)「L'estat」や、キーボードの旋律/浮遊感は極上なのに歌詞のほうは"僕は黒魔術師 みんなの血も吸っちゃうよー"で、だからなんだよと首を絞めたくなる「Fright Night」、はみ出し者のホームレスやゴシップへの賛歌や恨み節ともいえる「Beverly Kills」(この曲なんてうねまくるベースも最高だし、まともな人間が演奏したらスティーリー・ダンみたいになりそうなのに、残念ながら恐ろしくグチャグチャだ...)、70年代の黒魔術系ハード・ロックへのリスペクトを思わせる、5分間に渡る激しいリフの反復とうめき声のようなサビのフレーズがインパクト大な「Little Wig」、先行リリースされた際には「お前がまともな曲を作るんか!?」と多くのファンの度肝をぬいたソウルフルな「Can't Hear My Eyes」...と続き、最後は"革命なんて嘘さ"と嘯く、B級ガレージ・サイケ調の「Revolution's A Lie」で緩めのジャム演奏が気だるく続いてアルバムは終わる。

 珠玉は先にシングルカットもされた5曲目の「Round and Round」で、曲名どおりにあらゆる≪既に何万回何億回と繰り返された≫思考や妄想の袋小路に陥ることへの諦念が滲み出ている。呻いている様、救済を求める様、自らを責める様...。イントロのコーラスからブツブツつぶやく惨めさを挟んでサビの神々しさに至るまでの何もかもが美しい。世界の暗部をニヒルに曝け出すことで、膝小僧をかかえたくなる孤独にそっと肩をたたくようなやさしさを、AORとソフトロックのいびつすぎる奇形児といえるこの楽曲はもっている。

 さまざまな音楽的要素を消化吸収し、演奏の達者なバンドを従えながら、どれもこれも一番イヤな方向に機能するよう仕向けられ...。そんな作品がなぜか求心力を生み、結果として彼は彼の望んだとおりにヒップ・スターとなった。僕にとって本作は先述のダムドの覆面バンドや後期ユートピア、ラトルズ、XTCのデュークス・オブ・ストラトスフィアから80年代~現代までのカレッジ・ロック、近年のマックス・ツンドラ...挙げればキリがないが、そういったナード・ロックの系譜に記すべきひとつの到達点である。そのボンクラでナーディな資質と音の鳴りをもって新進の若い世代が彼を「Father Of Chillwave」と評価するのも必然で、その音楽の汚らしさも愛らしさも不器用さも何もかも突き抜けすぎていて共感せざるをえなくて、だからもう...。最後は検索するまでもなく使い古された言葉で締めるしかなく、恥ずかしくて仕方がないのだが、この音楽を愛しているとしか...。そうとしか言えない。

(小熊俊哉)

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local_natives.jpg 格好付けていないのに格好良いというのは実にカッコいいことなのだなと思う。サウス・バイ・サウスウエストで話題となり、海外メディアから注目を集めているUSの5人組インディー・ロック・バンド、ローカル・ネイティヴスの海外デビュー作『Gorilla Manor』。ロサンゼルスはシルヴァー・レークを拠点に活動する彼らのサウンドは過剰にならず、抑制された熱が生み出す音の数々が渋い。が、しかし、ユーモアたっぷりに弾ける曲あり、ドラマチックに盛り上げる曲ありと目まぐるしく移り変わる。
 
 それは楽曲単体にも言えて、ほんのりとエコーを効かせ、音の輪郭をぼやけさせることがあれば、民族音楽的なパーカッションが躍動の色を濃くし、鋭くギターが切り込むなど、多種多様。まるで聴いていると密林の中に迷い込んだかのようだ。しかしそれでも、あくまでもポップでステップを踏みたくなる衝動に駆られる。そして、綺麗なのだ。
 
 ローカル・ネイティヴスの狙うところは具体的に分からないが、とても遊び心のある音楽を作ろうとしたのではないかと感じる。もちろん真摯に音と向き合っているとも感じるが、聴いていて純粋に楽しいのである。ハーモニーに対する解釈が抜群に深い。コーラスはばっちりきまっているし、エレクトリック・ギターのアルペジオや、かけ声に似たコーラスもまた、きまっている。ややノイジーなサウンドすら和音として奏でてしまうところには正直おどろいた。
 
 音量レベルの駆使、ダウン・テンポからアップ・テンポへ、その移行も絶妙で、トリップを誘う数々の音も手伝って魅了された。8曲目のトーキング・ヘッズのカヴァーも良い。本作が絶賛されているのも頷ける。それにしてもこの完成度の高さは素晴らしい。かなり垢抜けている。まだ早いが、この先、どこへ進むのか気になってしようがない。彼らならどのような方向へも進めるだろう。個人的には本作の音楽性をより深く追求してほしい。きっととんでもない作品になるはずだ。それにしてもジャケットもカッコいいな。

(田中喬史)

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mowmowlulugyaban.jpg まず、確認してみよう。セクシュアリティとは、次のように定義されている。「性にかかわる欲望と観念の集合で、自然と本能ではなく、文化と歴史に帰属する」(女性学事典,岩波書店,2002) 。加え、アメリカ心理学会の見解では、「セクシュアリティの構成要素」を4つに纏めている。

 まず、性的指向のある特定の性(gender)を持つ人に対する持続的な魅力(例えば、情緒的魅力、恋愛対象としての魅力、性的魅力を注ぐ対象としての魅力)ゲイ、ヘテロ、バイセクシュアル、これらに加え、異性と同性の双方に魅力など感じない「Aセクシャル」というものもある。第二に、 生物学的性としての、性器における男女差。セクシュアリティを構成するものとして、生物的な性も含むが、これらも男女の二分法だけで考えていけないのは周知だろう。第三に、性自認(gender identity)。これは、自分が男性である、あるいは女性であるという自己意識のこと。戸籍上の性、養育上の性、身体の性、社会的性役割が一致していると認識されている状態に比して、性別違和感を持つ人もいる訳で、この違和を一つの疾患単位としたのが、「性同一性障害」という概念。性同一性障害とは、「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性別に属しているかをはっきり認識していながら、その反面で、人格的には自分は別の性に属していると確信している状態」を指す。つまりは、身体の「性別」と心の「性別」が引き裂かれている状況内でも、身体性と精神性の溝に対して強い不一致を感じている人も多い。第四に、社会的性役割(gender role)。社会的に規定された性役割や身体理解などの文化によって後次につくられた「性差」。

 「君は大嫌い でも君のパンティーは好き」と歌う「パンティー泥棒の歌」での「君」はセクシュアリティを帯びていないのは上記の見解の枠内に落とし込めば、容易に解析出来るだろう。だからこそ、下着という「記号」にロジカルなパッションをリプレゼントする訳であり、例えば、くるりが昔に「男の子と女の子」で「いつも女の子のことを考えている」というメタ・ベタな「無」を弁えて、別に、男の子は「いつも」女の子のことを考えていないとすると、女性の下着に拘り、クールにジャム・セッションする後ろにはNO NYの影だって不思議に視えてしまうのは当然で、モーモールルギャバンは昨今の「セカイ系」バンドではなく、引き目のメタ俯瞰で「世界」を観ている。その世界の中に在る自己も冷静に責めているナイーヴなバンドだ。

 「裸族になれば優しくなれるのかもね」(「裸族」)

 第一次世界大戦での経験もあり、1920年にフロイトは『快楽原則の彼岸』(Jenseits des Lustprinzips)において、それまでの「性の本能」、「自己保存本能」の二元論からエロスとタナトスの二元論へと転回した。前者は生の衝動、後者は死の衝動と言えるだろうか、つまり、人間を含めた「生物」といったものは、「生の本能」によって物事を作り出し、建設して行くかにみえるが、その深層内で、それをぶち壊して、「無」に再帰していこうとする死の本能に裏打ちされている訳であり、人間という種においてそこから派生して、一般的欲動には性欲動(リビドー)と攻撃性(アグレッション)という欲動に分類される。

 そうすると、「対象関係論」においての攻撃性、つまり「死の欲動」がモーモールルギャバンの佇まいには在ると言えないだろうか。

 彼等の音はどちらかというと、ジャンクな音ではなく、整合的な破綻を示すスウィング感のあるドラムに合わせてのディスコ的なベースのうねるグルーヴをトーンとしながら、ノン・ギターなものの、ピクシーズ、ナンバーガールといったバンドが見せていた鋭角的な疾走感も強く、また、鍵盤の効果が大きく、独特のローファイさと隙間に溢れたサウンド・プロダクションであり、新進系のバンドの中では演奏技巧力やスムースな演奏スタイルは抜きん出ていると思う。但し、パフォーマンスとその歌詞に過剰なアテンションが集まっているのも周知だろう。ドラムでボーカルのゲイリー・ビッチェの上半身裸で汗だくになってハイテンションに「パンティー」コールを皆に煽る様、そのゲイリーに影響を与えたのが銀杏BOYZだから、そういった青春パンク的なものに回収されてしまう、衝動的なバンドなのか、と言えば、僕は精緻には違うと思っている。

 ドラムを叩きながら、セクシュアルなこと、下世話でどうしようもないことを乱射砲のように叫ぶゲイリー、紅一点のユコ・カティーのシビアな目線、低音のグルーヴを受け持つベースのT-マルゲリータのトライアングルが浮かび上がらせる熱量はとても低温火傷しそうな知的な佇まいさえあるからだ。これはただ「無邪気」だけでは出ないアウラがある。

 『野口、久津川で死す』から、メジャーデビュー・ミニアルバム『クロなら結構です』までの速度と存在の大きくなり方は性急過ぎる気もしたが、自らJ-POPを名乗り、その文脈で、過激にJ-POPを嘲笑うかのように、駆け抜ける中、ふと今回、「悲しみは地下鉄で」という曲でタナトスに張り詰められたディプレッシヴなバラードが入っていて、「僕は死ねばいい」とダウナーに真面目に歌う。

 色モノとして彼等を捉えるには、その色がmono(chrome)であるという視座で捉えると、カラフルなステージと比して、まだスタジオワークは単一色なのがよく分かってくる。このグラデーションが噛み合ってきたとき、「下着」や「テンション」に頼らなくても、正統なポジションと評価を得ると思う。

(松浦達)

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wolf_parade.jpg この音の堂々ぶりたるや頼もしい。それにも増してふてぶてしい。とはいえ、彼らの持ち味のひとつである力の抜けたところもあり、メロディのセンスも良く傑作だ。
 
 アーケイド・ファイアやモデスト・マウスから絶賛されているカナダはモントリオールのウルフ・パレード。彼らの2年振り、3作目となる『Expo 86』。それはかなりの力強さを持ったサウンドがまさに堂々と溢れてくる。前作では様々な音楽要素を駆使し、起用に扱っていたところがややあったが、本作ではどんな音楽要素も飲み込み、はちきれんばかりの迫力がある。まるで音でぱんぱんに詰まった箱から様々な音が堪え切れないとばかりに飛び出てくる。それは時にアクセントになり、時にアクロバティックに宙を舞う。へヴィなギター・サウンドもカッコよく、煌めく電子音も楽曲の表情を豊かにしている。変拍子も良い。怒りのパワーをポップに昇華しているところも巧いのだ。そこにひねくれた歌声が乗っているから楽しい。
 
 特に「Pobody's Nerfect」での切り込んでくるギターと良い意味でぬけた歌声のアンバランスな感覚がユーモアたっぷりでいて痛快。そして豪快。ギター・ソロも決してナルシスト気味になっていないから気持ちがいい。コーラス(かけ声?)もまた痛快なのだ。そしてアルバム冒頭曲からして、今、バンドが良い状態であることが分かる。「行くぞ!」という声が聞こえてきそうなほど突っ走る。全曲通してひたすらに走り続けている本作は、バンドのエネルギーをそのまま何かに変換せずに押しだしている。だからいいのだ。聴くと昂ぶるのだ。一皮むけたという感じなのである。
 
 いわば素をそのまま出している。熱く、濃く、しかしユーモアを忘れずに。出す音の一切に迷いがない。全ての音が一体となったときのカタルシスは凄まじいものがあり、素を出すことに躊躇がなくなったことはアーティストとしての、表現者としての成長だと僕は思う。本作はウルフ・パレードにとってひとつの転機になるのではないだろうか。全てを出しつくした上で、この先どう出るのか。いや、先を考えるのは野暮かもしれない。彼らは今に全力を注いでいる。その姿は美しさすら感じさせる。

(田中喬史)

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books.jpg コンスタントに無難な良作を作っていくアーティスト。それに対し、駄作も発表するけれど、とんでもない傑作も生み出してしまうアーティスト。どちらが魅力的かと言われたら僕は迷うことなく後者と答える。が、しかし、00年にニューヨークで結成し、プレフューズ73とも関わりがあり、9月にはオール・トゥモローズ・パーティーズへの出演を控える2人組、ザ・ブックス。彼らは僕にとって前者であった。箱庭的なフォークトロニカを実に上品に作り、これからも無難に良作を発表していくのだろうなと思っていた。そこにきてこれだ。『The Way Out』。約5年振り、4作目となる本作に、無難なところはなく、大暴投覚悟の勢いがある。
 
 まるでiPodをシャッフルで聴いているようなヴァリエーション豊かな楽曲の数々。初期のフォー・テット的なサウンドが現れたかと思えばポエトリー・リーディングもある。ダンス・ビートを強調し、やりたい放題やらせてくれとばかりにサンプリングしまくった曲もある。その予兆は前作からも窺えたが、まさかここまで出してくるとは思ってもいなかった。DJシャドウ的かと言えば違う。プログレ的かとも一瞬思ったがそれも違う。アクフェンの『My Way』を彷彿させるところもあるが別物だ。などと思っていると綺麗な歌ものも混じっているから捉えどころがないのだが、逆にその捉えどころの無さが興奮を沸き起こす。アコースティックなサウンドにファンクやロックの要素をぶち込んでいるところなど、アコースティックにこだわってきた彼らにとって新境地と言えるだろう。
 
 例えば「I Didn't Know」や「A Cold Freezin' Night」はまさになんでもあり。ずたずたにカットアップされた女性や子供の声がファンキーなベースとヴィブラフォン、エレクトリック・ギター、チェロと絡み合い、やがて音は膨れ上がり、意識がひゅんと飛んでしまうトリップ感がある。「I Am Who I Am」の、ノイ! のビートとドリルンベースが混じったような低音は体にずっしりくるし、吹き飛ばれそうな勢いだ。
 
 この変化は、フォークトロニカと呼ばれる前作(ブライアン・イーノにも絶賛された)が、彼らにとってひとつの極点であり、彼ら自身が満足しきった作品だと感じたからではないだろうか。そうして満足感に浸らず、新たな音楽性を提示する姿勢は音楽家としての高い志しがあってこそ。ただ、どんなに破天荒な楽曲であろうと、彼らの核にあるアコースティック・サウンドが持つ温もりへの愛情が窺えるから、暴力的なところがないゆえ構えず聴ける。アルバム冒頭で語られる「新しい始まりへようこそ」という言葉どおり、ザ・ブックスが表現する新しいサウンドに飛び込んでほしい。


(田中喬史)

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kenseth_thibideau.jpg 彼のバンド参加遍歴(ツアー含む)を羅列していくと、ハワード・ハロー、プリンツ、ルマ・サキット、スリーピング・ピープル、タレンテル等のテンポラリー・レジデンス周辺や、ピンバック、スリー・マイル・パイロットと、実に多彩だ。そんなテンポラリー・レジデンスにとって不可欠な存在であるケンセス・シビデューの初ソロ名義のアルバムがリリースされた。


 レーベルもそうだが、彼の残した軌跡から、本盤もポスト・ロック、マス・ロックの系譜に属するものだろうと勝手に頭から決めてかかっていたのだが、以外にもローファイで抑揚の抑えられたインディーロックだった。フラットながらもグルーヴを感じさせるドラムの上で、ディレイで彩られたギター、サイケデリックでスペイシーなシンセ、囁き声が漂う。どことなくテンポラリー・レジデンスの音楽性を咀嚼した跡もあるが、ここにあるのは純粋培養された彼の本質だけである。


 反復というアルバム名を象徴するように、本盤は平面的な美的感覚を備えており、贅肉がなく、淡々としている。けれども決して歩みを止めないような頼もしさもある。バンドの脱退と加入とを繰り返した彼だからこそ辿り着けた境地のようにも受け取れた。

(楓屋)

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haruka_nakamura.jpg 静かな風に揺られ、小雨の冷たさを感じながら微妙に景色が移り変わる。聴いた途端、そんな心地になる奏でに心を奪われた。坂本龍一や高木正勝などに絶賛されている東京在住の日本人アーティスト、ハルカ・ナカムラ(haruka nakamura)。良質なアンビエント・サウンド、エレクトロニカをリリースしてきたレーベル、Kitchen.から約2年振りに発表したセカンド・アルバム『Twilight』、それは室内音楽的でいて、なおかつ手作り感覚の味がある。「陽が沈んでから夜が来るまでの淡く美しい、その時間へ捧げる」と本人が言うように、ピアノを中心とした演奏が眠りに落ちるほど自然に、聴き手の気持ちを夕日が沈む儚い瞬間の中に導いていくアンビエント・サウンドだ。


 鍵盤に水滴を丁寧に落としているようなピアノの奏で。残響音にも気持ちが込められたサックス。やさしいドラムの音色がリズムとしてではなく、ぽっかり空いた心の隙間を肯定するように鳴っている。瞬間的に演奏の表情が変わることはなく、季節が移り変わるほど、気付くか気付かない程度に表情が変わっていくから聴き手も微妙な感情の揺れを体感できるから面白い。ジャジーでありながらもクラシック的な香りがする演奏からエコーがかけられた女性ヴォーカルの、妖しく魅惑的な歌声は可愛らしくもエロティック。過度な主張や激動はないが、ピアノ、サックス、ドラム、ギター、そして歌声が穏やかに絡み合い、夕方から夜までの物語を紡ぎ出す。そのストーリーを貫いているがゆえ、演奏にぶれがなく、音の世界観に包まれてしまう。だがその世界観は哀しみの色を帯びているのだ。


 人は出会い、わずかに理解し合い、多く誤解し合い、無数に邪推しあう。無垢な美しさの中にも日常における違和感が存在し、「The Light」での歌声は清涼感に満ちているのに孤独も同時に紡ぎ出す。日常の喜びと同時に哀しさも含んでいるのだ。この音楽を聴くことは現実逃避には成りえない。本作はフィクションではないのだ。ありのままの生活を切り取った本作は胸に刺さるところもある。音楽に吸い寄せられ、音の中に身を置き、清々しさを感じ、また、涙しそうになりもした。
 前作は本作より装飾されていたが、装飾を脱いだ本作は、前作以上に親密で、裸の姿を押し出したと言っていい。それはとても孤独な音、そして姿だ。しかし音楽を聴くこととは孤独を慰めるためだけにあるのではない。時と場合によっては孤独だからほっとすることもある。音楽はもともと人々が団結するために生まれたが、その本来の意味から離れ、儚さと孤独を提示する本作を聴くと、孤独というひとりの時間が、とても尊く、必要なものだと感じられる。


 「陽が沈んでから夜が来るまでの淡く美しい、その時間へ捧げる」という、音による風景描写が心理描写に繋がった本作。それは感性豊かな者ではないと決してできない。嘘のない感受性を聴いてほしい。

(田中喬史)


*最初にアップされた原稿では、ハルカ・ナカムラを女性と誤解した部分がございましたので、訂正した原稿をあらためてアップさせていただきました。大変申し訳ありませんでした。【8月12日追記】

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hanson.jpg 1曲目の「Waiting For This」から最高にご機嫌でスウィンギンなポップ・ナンバー。まさに私たちも「これを待ち望んでいた」。サウンドはモータウンを基軸としているものの(フランク・ブラザーズのベーシストが半分の曲で参加)、かつてアメリカを嬌声の渦に巻き込んだデビューの頃の溌剌とした印象はぜんぜん失われていない。渋みを増すことはせず、ひたすら音楽的な技術と、自らのバンドが持つ天性のメロディ・センスに究極まで磨きをかけた結果、誰もがハンソンのことをテイラーも参加したティンテッド・ウィンドウズ以上に優れたポップ・バンドだと認めざるを得なくなった。大人になったのではない。彼らは本質的には何も変わっていない。そもそも彼らのサウンドは「若さ」と「アイドル性」を抜きにしてもきちんと語られるべきものだったのだ。すでに日本盤も発売されているし、彼らのサウンドの素晴らしさを再確認するにはうってつけのアルバム。最初ははまるかもしれないけれど、何度も聴いたら飽きるんじゃない、って? 彼らが歩んできたキャリアはそんなに薄っぺらいもんじゃないぜ。たしかにミッキーがドラムを叩いていたって不思議はない音だろう。だが、ハンソンはそんなに簡単に醒めてしまう夢ではない。

(長畑宏明)

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move_on_ten.jpg やはりオウテカはリスナーを愛している。だが同時にあまのじゃくだ。彼らの音楽を語る際、その複雑性ゆえに難しく捉えられること多々。僕もまた難しく捉えるひとりではあるけれど、今年発表された『Oversteps』同様、本作「Move Of Ten」EPも、リスナーを戸惑わせることなく00年代の作品より親しみやすい。つまり、よりポップなのだ。ミニマル・テクノもマントロニクスのようなリズムもカジュアルに着こなしているところがクール。迫ってくるのではなく音の全てが個別に耳に入ってくるシンプル性があり、それが一つひとつの音が持つ表情の豊かさを聴き手がはっきり感じ取れるものとして働いている。
 
 『Oversteps』に比べ、本作はビートが効いた楽曲が並ぶが、ダンス・ミュージックを意識しているオウテカなりの、人を踊らせるリズム、サウンドがある。徐々にビートの弾力を変化させるところや音の質感を変え、ファズを効かせたように歪ませるのも、聴き手を飽きさせたくない、驚きを常に与えたいというリスナーへの愛情として僕は受け取った。特にストリングスで不穏な空気を醸し出したかと思うと、次の瞬間、ぐっと絞られた電子音にスカッとし、協和音も不協和音も躍り出てくる。その瞬間的に移り変わる音色が聴き手の感情を揺さぶり、時に乱れさせ、清々しい音と危険性を感じる音を交互に、または同時に鳴らしてしまうのは彼らのひとつの特徴だ。本作でそれを押し出し、乱れ、踊ることの快楽を与えられることに興奮する。
 
 それはディファ有明で行われたライヴでも窺えた。スリリングでいて馴染みやすく、踊れる。彼らの核にあるものはダンス・ミュージックであると、ライヴを体験し、本作を聴くとより強く感じる。本作「Move Of Ten」EPは、『Oversteps』ほど音そのものの情報量が豊富だとは感じなかったが、ライヴ盤感覚で聴ける作品でもあると思う。
 
 それにしてもメロディを重視した『Oversteps』を発表した後でリズムを強調した本作を短いスパンで発表するところに「僕らはメロディ志向になったわけじゃないんだよ」というメッセージが透けて見える。メロディ、あるいはリズムといった側面だけではなく、あくまでも多面性のある音楽をやりたいしやっているんだ、というオウテカの意志があるのではないか。オウテカは『Oversteps』と「Move Of Ten」EPで、彼らが持つ多面性の中で、メロディとリズムという2面性を分かりやすく提示した。それはオウテカにとって音楽性を整理するという意味もあったのかもしれない。そうだとすれば「人間の脳を刺激したい」と言うオウテカだ。このまま終わるはずがない。むしろ創作意欲は脂ぎっている。まだまだ早いが彼らが次にどうでるのか楽しみだ。それまでの間、『Oversteps』とともに本作「Move Of Ten」EPを楽しもうじゃないか。無論、この作品そのものも格好良い。

(田中喬史)