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liveing_sisters.jpg 好きとか、思い入れとか、それ以上の好意を示す言葉あるとすれば、それは愛という漠然とした言葉になるのかもしれないなと思う。ザ・リヴィング・シスターズのファースト・アルバムは、古きアメリカン・ミュージックへの愛情に満ちている。まったくこの柔らかさといったらなんであろうか。綿毛に包まれているような心地の良さ。フォーク、カントリー、ジャズを愛しているといわんばかりの音楽性は懐古的と言えばそうなのだけど、ふわふわしたサウンドにすっとオルタナティヴな響きが入ってきて品の良いスパイスみたいに香る。

 ザ・バード&ザ・ビーのイナラ・ジョージ、ラヴェンダー・ダイアモンドのベッキー・スターク、そしてシンガー・ソングライターのエレニ・マンデルの女性3人によるグループ。彼女たちの『Love To Live』、それはシェルダン・ゴムバーグとの共同プロデュース。再生した途端、体に暖かい明かりを灯してくれるウィスパー・ヴォイスやコーラスには甘い解放感があり、サックスもギターもさりげなく朗らかで眠りの昏睡に似た感覚がある。ベッシー・スミスとナンシー・ウィルソンのカヴァー2曲を含む全10曲。気付けばディスクが回るのをやめている。

 彼女たちにはこの作品を作らなければならない理由があったと思える。アメリカン・ミュージックをルーツとする3人それぞれのリヴィング・シスターズ以外での音楽活動を、自分で肯定できることを目指し、つまりは過去を肯定できなければ現在を肯定することはできないわけで、どの楽曲も肯定という名の愛情に満ち溢れているものだから、ああ、ほんとうに、彼女たちはアメリカン・ミュージックをリスペクトしているのだなという気持ちが音を通して伝わってくる。それが心地いいのだ。

 セクシャル・ハラスメントのつもりはないけれど、歌声にどこか処女性を感じさせるところがあり、清楚というかイノセントな響きが感じられる。なおかつロマンティックで瑞々しい美しさに意識が埃を払うくらい簡単にさらわれてしまうよ。それは甘美なトリップ感。歌声だけでも素晴らしいのである。伴奏も素晴らしく、職人的な巧さがある。遠近感を意識したミックスや間の取り方も絶妙だ。いわば自らのルーツ・ミュージックへのオマージュ的作品として位置づけできるのだけど、茶目っ気あふれるサウンド・エフェクト。重なっていく音の層。凝ったアレンジ。そのどれもが新鮮性に満ちている。より高みへ登ろうとする意識があって現在の音楽シーンから外れてはいるものの、それがなによ、という気質も窺えて聴いていて嬉しくなる。ぜひこのメンツでセカンド・アルバムも発表してほしい。やっぱり音楽に愛って大切なんだなあ...。

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gutevolk.jpg 押しても引いてもびくともしない。小鳥である。光である。無垢である。あくまで西山豊乃なのであって、彼女のソロ・ユニット、グーテフォルク(Gutevolk)は、約3年振り、レーベル移籍第一弾の3作目となる『太陽のシャンデリア』においても小鳥のようであり、光のようであり、押そうが引こうがびくともしない個性が確立されていることを示す。やはり無垢なのだった。
 
 ウィスパー・ヴォイスとともに強すぎず弱すぎずの電子音が静かに跳ねて、ストリングスが気持ち良さそうに伸びていく。そこに鐘の音色やヴォイス・パフォーマンス、水の中で弾ける泡の音色をサンプリングし、刺のないメロディとともにゆったりと流れていく。もしクリスティンがいた頃のムームが2010年に作品を発表していたら、本作のような音楽になるのではと一瞬思った。
 
 細野晴臣や高木正勝、矢野顕子などから絶賛されている彼女の音楽はいわゆるフォークトロニカと言えるが、室内音楽的なファースト・アルバム、大胆なまでに電子音を強調したセカンド・アルバムに続き、『太陽のシャンデリア』では過去2作の良い部分を取り出し、余計な音を削ぎ落とし、必要な音だけ鳴らしているから耳にひっかかるものがない。次から次へと顔を出してくる音が西山豊乃の歌声に寄り添い無個性だった景色にひとつの集約点が生まれていくようだ。美しい記憶の断片を拾い集め、音にし、それは谷川俊太郎の詩のように美しい。さながらジャケットに描かれている木に小鳥が集まって音を奏でているみたいでもある。
 
 そんな音に包まれれば邪気なんてものは消えてしまうし、特に彼女のロリータ・ヴォイスと言っても差し支えのない歌声を聴いていると、その歌声の破綻の無さも手伝って、ゆっくりと風船がしぼんでいくように体の力が抜けていく。まるで全てを肯定されているような心地。それこそが彼女の真骨頂ではあるけれど、イージー・リスニング的にだけ聴けるものではなく、ほら、踊りましょうよ、という具合にややダンサブルなビートを交えている曲や、ビートをずらしているところ、ひねたアコースティック・ギターの音色すらあり、ちょっとした刺激を与えてくれる。それが面白くて楽しくて興味深くて耳をそばだててしまう。お釣りで一万円札が返ってきたときのような驚きを忍ばせているから何度も聴ける強度を持っている。
 
 そこにグーテフォルクの成長が窺えるから嬉しい。音楽に遊びを入れられる余裕が今の彼女にはあるのだ。チルアウト的な音楽だと捉えられそうだけど、そう捉えるリスナーに、ふふふとちいさく笑う彼女が音の奥にいるのが見えてきそう。「実はね」と。「実はけっこう複雑なことしてるのよ」と。そんな余裕もまた無垢だ。西山豊乃自身が「現時点の最高傑作」と呼ぶ本作。これはチルアウト的ミュージックの極点、あるいはカウンターになりうるかもしれない。この作品を聴いて受け身で癒されるだけじゃ何も起きないなと思いもした。面白いことやらなきゃ何かが起こる以前に何も響かないのだと。


(田中喬史)

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no_one_knows_about_persian_cats.jpg ポップミュージックの規制厳しいイラン。首都テヘランを舞台に若者たちの音楽への情熱と自由への希求を描く。実在の事件、場所、人物に基づいて、名作『亀も空を飛ぶ』のバフマン・ゴバディ監督が当局に無許可でゲリラ撮影を敢行した作品。

 ストーリー・ネガルと、そのボーイフレンドのアシュカンはともにミュージシャン。インディ・ロックを愛する彼らは、自由な音楽活動ができないテヘランを離れてロンドンで公演することを夢見る。そのために2人は危険をかえりみず、偽造パスポートを取得しようとする。2人は音楽のためなら何でもござれの便利屋ナデルを頼るのだが...。

 出演者のほとんどは実在のミュージシャンたち。主役の2人は、撮影が終了したわずか4時間後にイランを離れた。この物語は彼らの実際の経験に基づいている。コンサートもCD発売も許されていないミュージシャンを撮影するために、ゴバディ監督は、当局に無許可でゲリラ撮影を敢行。テヘランの市井の人々の逞しきユーモアと若者たちの音楽への情念...そして自由への溢れんばかりの痛切な想いを映画に込めて。ゴバディ監督も本作を最後にイランを離れた。と、以上公式サイトから参照。

 セルフドキュメンタリーのようなモキュメンタリーのような作品の印象を受けるのは実際のミュージシャンたちが簡単なプロットを元に即興で演技をしているのだけど、それは彼ら自身でもあり、彼らの言葉や思想となんら変わらないからだろう。 庵野秀明監督『式日』という作品で「監督」役を実際の映像作家である岩井俊二氏がそれを演じたようなことに似ている。小説のことは小説家にしかわからないと言うような、映画監督の事は映画監督に、ミュージシャンのことはミュージシャンにしかわからないのかもしれない。

 「ここではない何処かへ」行きたいという希望、ここでは息をするのも苦しい、音楽が好きで自由にやっていたい、だけどもそれを政府は許してはくれないという苦悩とすべての35ミリの機材は当局に帰属しそれらを使うには当局の許可が必要な映画監督の気持ちが重なっている。

 バフマン・ゴバディ監督がスタジオでアンダーグランドのミュージシャンと知り合う。しかし政府は彼らがまるで悪魔崇拝する危険な人間だと中傷して彼らのことが国民に知られないようにしている。
 
 監督はイランにいる本当の若者を撮ろうとした。実際にネガルとアシュカンは拘留されて釈放されたばかりで18日後にはイランを離れる予定だった。その短い間に撮影されたイラン映画史で初めて反体制的な若者に対する政府の厳しい対応を公然と批判した作品になっている、検閲されていないテヘラン、許可を得ていない撮影がそれを可能にし世界にイランにいる若者の姿を伝える事ができている。

 ミュージシャンたちの音楽と共に流されるテヘランの映像が、今まで見た事のない街の風景が色鮮やかに映し出されてくる。少しばかりPVを何本も見ているような感じにはなるのだが、ロック、フォーク・ロック、リズム&ブルース、ヘヴィメタル、ラップと多様な音楽が鳴り響く。

 現在イランで最も広く聴かれているラップミュージシャンのヒッチキャスと便利屋のナデルのやりとりを観ていてラッパーってのはどこにいても同じような事を言うんだなって思ったりした。社会問題を歌うラッパーって世界のどこにいてもなんだか意識的には似てるし、それがラップの根本なのかもしれないなあって思った。僕のイメージだとTHA BLUE HERBのMCのBOSS THE MCみたいな人だなって。

 ネガルとアシュカンがコンサートをするためにいろんなバンドに会ってメンバーを集めていく。その中の一人はストロークスのTシャツ着てるし、アシュカンは夢を語る時にアイスランドに行ってシガーロスを観るんだと言う。どれだけ政府や当局が何かを押さえつけようとしても彼らはネット等で国外の事を知っているしそれ故に自分たちの国の不自由さにムカつき抵抗しようとする。

 しかし、国内で音楽活動ができないのなら国外に出て行く彼らは音楽という翼で世界に羽ばたこうとする。映画を撮り終えて彼らは国外に出て行った。監督も現在はイランを離れている。

 しかし彼は去年の東京フィルメックスで来日予定だったがヴィザの発給が間に合わない理由で中止されている。そして本作が公開されるプロモーションのために来日しようとしたがパスポートの更新ないし査証欄増補が認められずに来日を拒まれた。現状においては彼はイラン国民として来日されている事自体を拒絶されている、それはイラン政府の意志でありそれに消極的ながら加担してしまっている日本政府の意志であるとのこと。イランの政治が現状のまま続く限りもはや国帰ることはできない。帰国すれば即逮捕され不当な扱いを受けることが明白に予測できるからだ。

 閉塞された国から飛び出していく事でしか伝えられないものがこの映画にはあり、現時点では戻る事ができない彼らが世界に伝えるのは自分たちと同じような若者がイランにはたくさんいて閉塞した中でも音楽活動し音楽を楽しんでいる人達がいる。それを阻もうとする政府があり、その現状が世界に伝えられていないということを彼らの音楽とテヘランの街の風景と疾走感がヴィヴィッドに映し出されている。

 だがネガルとアシュカンは中流階級というか裕福な家の出だと思うし、彼らはこの国から出て行くことができる。テヘランの若者を描いているが彼らのように自由に自らの意志でこの国を出て行くことができない若者達の方がたくさんいる。「ここではない何処かへ」行きたくても行けない若者はそこに留まり現状の政府に対して行動し政治を変えていくこと以外に方法はないのだろう。

 いつだって、そこから羽ばたいていく者とそこに留まる者がいる。選べる者と選べない者がいる。僕が気になるのは羽ばたいていった彼らではなくそこに留まりこれからもそこで生きていく多数の彼らの物語だったりするのだけど。それが観れるのは現時点では無理だろう。だからこそ今は出て行った人達が語ることで少しでも現状が変わるきっかけになるのならばこの作品が世界で観られる事に非常に意味がある。

(碇本学)

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gold_panda.jpg  『Companion』リリースに伴ってのインタヴューで名前の由来を聞かれたゴールド・パンダは「好きな物を2つくっつけたら、って彼女が言ったから」と、"インダストリアル・メタルバンドみたいだからやめた〈ピンク・ワーム〉"に次いで出てきた〈ゴールド〉と〈パンダ〉をそのまま採用したのだと返していた。ゴールドも動物名も現代のシーンにおいては頻出単語であるとの追撃に対しては「彼らとは音楽性が似てないから」と断って、「別にいいや」とあっけらかんと応える彼のことがわたしは、気になってしょうがない。



  「ドラムマシンのビートにオリエンタルなサウンドをミックスした音楽を今後も作り続けて行きたいね」(CINRA/ 16 Apl,10)

彼の住んでいたイースト・ロンドンはタワー・ハムレッツという場所は、インド、パキスタン、バングラディシュ系の人間が犇めくコミュニティのある、曰く子供は「モスクから流れる音楽を聴きながら育つ」ようなところで、インド人であった彼の祖母の影響で「サンライズ・ラジオ」というインドのラジオ・ステーションから流れてくる音楽によく耳を傾けていたという。そうなると彼が「Quitters  Raga」、或いはアルバム・リリース後にドロップされた「You」 EPに於いてエスニック対する傾倒が見られるのもさもありなん、である。



 彼のオフィシャルな肩書きは「UKはイースト・ロンドンのダブステップのプロデューサー/リミキサー」で、クリエイション・レコーズのスタッフでもあったマーク・ボーウェル、ディック・グリーンが00年に設立し、現在はハー・スペース・ホリデイ、エスパーズ、ビート・コーストらを従えるUKの名門インディ・レーベル、ウィチタ(Wichita)がマネジメントをとっている。レーベル・メイトであるシミアン・モバイル・ディスコやブロック・パーティー、またはリトル・ブーツのリミックス・ワークで先に、プロデューサーとしての彼の名前を耳にした方も多いかもしれない。ただし「ダブステップのプロデューサー」という括りは彼の目は懐疑的に映るようだ。確かに、彼の持ち合わせるジャジー・ヒップホップ、オピエイト(Opiate)然としたアブストラクトなビート、メロディックにシンコペイトしたリズムとそれに合わさる東洋的なエキゾチズムは、その「複雑」性からして、既存の「ダブステップ」なる概念とは素朴に重ねることが出来ない。例えば新気鋭のダブステップ勢として同列に語られることの多いパンクス・サウンドチェック、ヘッドマン、ラスコ、デッド・フェーダー等を見ていると一目瞭然だが、カラーの全く違う彼らの場合、「ダブステップ」は異なるジャンルをミックスしていくためのプラットフォームに過ぎないのかもしれない。

 ダブステップのセカンド・フェイズに位置付くポップなトラック・メイキング、メロディックでシンコペーションの強調された変則的なリズム、ミニマルで、センチメンタルなアプローチに、フォー・テット、サーレム(salem)的インディー・エレクトロ、クリス・クラーク、リチャード・D・ジェイムズの繊細なテクスチャ、或いは美しいアンビエント。ノー・フューチャー(NO FUTURE)一派としてテクノ・ユニットであるサブヘッド(subhead)の一人でもあった彼は、相方フィル・ウェルズの死をきっかけに、「自信はなかったけど、もう少し音楽をやってみようと思った」という。「音楽は僕の憂鬱な気分を揚げてくれるから、だから音楽を作ってるんだ(Hard To Explain/ 28 Feb,10)」。

 「チルアウト」や「センチメンタル」といったアティチュードを通底して持ちつつ09年後半以降、US,UKインディー界を湧かせている彼らについては、既に水面下での遣り取りはあったものの、それは言わば噴火寸前の活火山のようなもので、明らかな熱量を帯びておきながらも広く伝搬されることはなく、一部のインディ・ファンの間で沸騰していただけだった。それが『Companion』を始め10年代にリリースされたアルバム群によって愈よ、顕現化されてきたように思う。

 そもそもわたしは「ニュー・レイヴ」、「ニュー・エキセントリック」といった一連のムーヴメントには全く「乗れ」なかった。アフロ(ビート)への傾倒やら、シンセサイザーをフィーチャーしたハイトーンで無機質な音楽はどうも「祭り」の「喧噪」のようで、カラフルな衣装を身に纏って無邪気に踊(っていたと思われ)るキッズ達を傍観していたら、多文化主義の孕む強烈なリジェクトといえばイスラム系の女性が信仰を「露」にすることを「マス」に認可されなかったことが記憶に新しいが、アフロビート、若しくはハイライフを語るにつけ、その独特の「昏さ」ばかりが見えてきてしまって、過剰なセンチメンタリズムに浸ることの方が多かったからだ。宗教的・歴史的側面を引用するまでもなく例えば、「愛する人が欲しかったら、クラブに行けば良いかもね。でも君は踊ることが出来なくて倦んでしまうだろう。そして家に帰って、泣きたくなるんだよ」と歌ったモリッシー宜しく、「祭り」は楽しいばかりのものでは本質的にはない。

 先に挙げたムーヴメントを「パーティーの喧噪」と記述したが、だから「パーティー」の後に「チルアウト」というタームが来たのも当然の流れであるように感じるし、踊り疲れて捌けていく客の波を縫ってDJブースのセンターに付くわたしは俄然、元気になる。「音楽体験は本来、個人的なもの」なのだ。因みに、先に引用したスミスの「ハウ・スーン・イズ・ナウ?」ではこう続く-「今っていつだい?いつになったら僕は、人から愛されるっていうんだい?」。

 「そんな瞬間」は多分訪れないからして、「個人的な動機」を胸に「不可能」性に着いて踊るのは、私は悪くないと思っている。


(黒田千尋)

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chkchkchk.jpg この世に存在する数多くのライヴ・バンドを悩ませているのは、"アルバムを聴くより、ライヴの方がいい"という、何とも微妙なニュアンスの台詞だろう。褒め言葉のようにも聞こえるけど、受け取り方によっては"ライヴはいいけど、アルバムはいまいち"ってことだもんね。瞬間の熱量が重視されるライヴと違って、繰り返しのリスニングに耐えうる面白みのあるプロダクションや、ソングライティングの力量が問われる"作品性"は、多くのライヴ・バンドにとって、越えなければならないハードルなのである。

 パンク&ファンク&ダンスで時代をリードしてきた生粋のライヴ・バンドである!!!も、メンバーの脱退などを経て遂に"作品性"と向き合うことになった。そして本作は、ベルリンでのレコーディングによってミニマル・テクノからの影響を消化し、DFA人脈のエリック・ブルーチェックを共同プロデューサーに迎えてプロダクションを強化することによって、一定の成果を収めることに成功している。クールな「AM/FM」でスタートし、ストリングスを配した本作一ポップな「The Most Certain Sure」で勢いをつけると、そこから手を変え品を変え、じわじわとグルーヴを生み出していき、女声コーラスが華やかな「Even Judas Gave Jesus A Kiss」から、本編ラストの「The Hammer」で大爆発! というミックスCDを聴いているかのような流れもばっちりで、間違いなく、及第点を与えられる作品だ。

 あれ? ミックスCD? そう、このアルバム、明らかに"作品性"を追求したアルバムなのだが、曲順だけは現場=ライヴを意識したものになってしまっている。"作品性"を追求するのであれば、むしろこれまでのアルバムのように、最後は静かな曲で終わっていた方がよかったのかもしれない。まあ、空間を生かしたプロダクションにしてもリリックの面白みにしても、比較するならLCDサウンドシステムの方に一日の長があるように思うし、ソングライティングにしても、ほどほどにポップではあるが...。つまり、本作は!!!というライヴ・バンドが初めて"作品性"を重視して制作した意欲作ではあるものの、まだ"ライヴ>アルバム"という不等号の向きを変えるまでには至らなかった、ということになるのだろう。

 とはいえ、やはりフジでのライヴは楽しみでならない(今年は堂々初日ホワイト・ステージのトリを飾る)。"作品性"を重視するあまり、肝心のライヴ・バンドとしての魅力が損なわれてしまうケースも時々あるが、!!!に関してはその心配は無用だろう。「The Hammer」でステージを駆け回るニック・オファーと、それに熱狂するオーディエンスの姿が容易に想像できるというものだ。あ、あと『Strange Weather,Isn't It?』っていうこのタイトル、コロコロと変わりやすい苗場の天気にぴったりのタイトルだよね。ははは。

(金子厚武)

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sun_kill_moon.jpg 濃密な静寂を堪能できる60分である。レッド・ハウス・ペインターズのフロントマンであるマーク・コゼレクのアコースティック・ソロ・プロジェクト、サン・キル・ムーンの4thアルバム。

 モノクロの写真は往々にして、カラーにしても趣深いものであるのだが、モノクロだからこそ比類なく輝く変種的な写真も存在する。本作も文句なくそれであり、余計な装飾がまとわりついていたとしたら、この淡くて心もとない魅力は成り立たない。声とギターだけの編成による白黒のアルバムでなくてはならない。

 ナイロン弦のぽそぽそした音色で紡がれる幽玄なアルペジオは、人を不安にさせるようなコード感を伴い、マーク・コゼレクの声は以前にも増して無気力に浮遊している。非現実的で危うい音像。湧水のようにモノクロのノスタルジアが溢れだし、淡々と似たような曲が繰り返され、次第に私達は眩暈の一つでも起こしそうになる。美しくなんかないし、サン・キル・ムーンに美しさはいらない。隔絶されているし、溝が決して埋まらない。だから地味なアルバムで終わらない。傑作。

(楓屋)

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axel_ krygier.jpg アルゼンチン音響派としての日本でのブレイクはやはり、01年のフアナ・モリーナの『Segundo』になるだろう。大文字の「タンゴ」のイメージしかまだなかった国に流麗でスマートなエレクトロニカを鳴らすアーティストが次々現れている、ということで、ワールド・ミュージック・コーナーには山本精一氏やバッファロードーター辺りのアーティストの後押しと共にフェルナンド・カブサッキ、ガビー・ケルベル、モノ・フォンタナなどが犇めいていた。

 所謂、IDM的な流れが00年代に配信ツールの台頭と共に生成されてゆく磁場とそれはリンクしていたのかもしれないし、アルゼンチンという移民の国で生活してきたアーティストたちのレファレンスする音楽がクラシック、プログレ、ポスト・ロックというのも功を奏したのかもしれない。イタリア系、スペイン系を始めにして、ヨーロッパ系の移民が多くを占め、白人が人口の90%以上いるというのも大きいのだろう。そして、そこから自然と日本のとの親和性が生まれ、フアナ・モリーナはすっかり人気のアーティストになり、ROVOのメンバーとフェルナンド・カブサッキなどたちとのセッションが行なわれるなど、と「クール」な音楽の胎動があった。何より、南米タンゴやフォルクローレなどのトラディショナルな響きが後景化されており、そこが電子音と混ざって得も言われぬ郷愁(サウダージ)を醸し出すというのが日本のリスナーの体質にも合っていたのかもしれない。

 06年には、音楽評論家の土佐有明氏の編集の下に『トロピカリズモ・アルヘンティーノ(Tropicalismo Argentino)』という編集盤が出され、その推薦を青柳拓次氏、クラムボンのミト氏が寄せるといった具合に着実にその音楽は伝播していった。しかし、どうにも狭い中でのアーティストの青田刈りの様相も伺えるようになり、90年代初頭のワールド・ミュージックのブームの際の「兎に角、飛距離のあるものを紹介出来ればいい」という投げ槍さも出てきたのは否めなかったが、その中で、一足先にマドリードのHI-TOPより紹介されたアクセル・クリヒエールのアヴァンギャルドさは痛快だった。

 初日本盤化された05年のサード・アルバム『つぐみ(Zorzal)』の段階で、既にストレンジ・ポップにラウンジから伝承音楽までを跨ぐストロークの広さを見せたが、どうにもまだそこまでのバズは起きなかったが、今回、4年振りとなる新しいアルバムである『Pesebre』では才気が愈よ爆発している。ギター、ベース、アコーディオン、シンセ、クラリネット、ムーグ、ピアノなど数多の楽器を駆使しながら、ダブからエンニオ・モリコーネ的なラウンジ風の曲からタラフ・ドゥー・ハイドゥークスやファンファーレ・チォカリーア辺りのジプシー・ブラス的な曲、ふと挟み込まれる美しいポップ・ソングなど音楽的語彙の多さとその咀嚼する強靭な感性には唸らされる。そもそも、彼はルイス・ブニュエル、ジャン・コクトー、フランク・ザッパ、トーキング・ヘッズ、ボリス・ヴィアン、セルジュ・ゲンスブール、エルメート・パスコアールから坂本龍一、コーネリアスまでの影響を公言しているからして、こういったハイブリッドな内容になるのは自明の理だが、それにしても、原要素をデ・コンストラクトの所作が鮮やかで、今隆盛のデジタル・クンビアへの目配せもされており、グローバル・スタンダードのストレンジ・ポップが展開されている。もしかしたら、このまとまりのなさに気が散るかもしれないが、このまとまりのなさこそ、統一的な概念があるわけで、それは「余白(marge)」は「辺境(marche)」と同じ語であるということにも依拠する。ニーチェの「ハンマーを持って哲学する」という言葉を孫引くまでもなく、音楽とは「その鼓膜を破裂させるほどに鳴り響かせること」というメタファーも使ってもいいかもしれない。無論、その「鼓膜」は現代音楽の行き詰まり、閉塞の例示になる訳だが。

 要するに、これまで依存してきた音楽の文体をもう一度バラバラにして、もう一度新しく再構成しなければ、「出口」を探すことさえ、どうにもならないとしたら、アクセル・クリヒエールは「出口」などもはや信用していない「余白(marge)」を生きている。それは頼もしい。

(松浦達)

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effi_briest.jpg 2000年代のNYブルックリンは、アニマル・コレクティヴ、ギャング・ギャング・ダンス、ダーティー・プロジェクターズと、様々なバンドがアンダーグラウンドからメキメキと頭角を現し、大きく世界的な音楽シーンへと飛躍して、様々な音楽メディアでこの地域は取り上げられてきたし、正に豊作の年代であったと思っているのだけれど、2010年代に突入した現在においても、この土壌の快進撃はまだまだ陰りを見せていないようだ。クール&ビューティーかつ不思議系なオール・フィメール6人組バンド、エフィ・ブリーストのファースト・アルバムを聴いていると、そう思わずにはいられない。催眠的でポエトリーな静けさから魔術のように大きく歌い唱えるタイトル曲「Rhizomes」に始まり、スモーキーな靄の中で極上のサイケデリアを咲かせてみせる「Long Shadow」、トリッキーでリリカルな歌い回しとトランシーでいて鋭いキレも見せるギターとの掛け合いがすこぶるカッコいいデビュー・シングルともなった「Mirror Rim」と、もう病み付き系トラックが目白押し。サイケデリック、フリー・フォーク、エクスペリメンタル、トランス、ノー・ウェイヴなブレンド・サウンドを、クラウト・ロック、ポスト・パンクのリズミカルなフィルターでじっくりと抽出したかのような、極上サウンドの数々を創出している。ゆらゆらと落ち着いたリズムながらも緩急に富んだ展開と曲運びもいい。スーサイドのアラン・ヴェガ70歳を祝すピーチズとのスプリット企画盤や去年来日したテレパシー(Telepathe)とのスプリットもリリースされていたり、メンバーの中には同じくブルックリンのPhychic IllsやSkintのメンバーも在籍していたりと、これからの活動にも大きな期待が出来そうです。

(星野真人)

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rangers.jpg CDやレコードをレヴューを参考に聴いて、それがとてつもなく良い作品だった場合、そのレヴューを書いた人まで評価してしまいたいような気分になるから不思議だ。そういう意味では、このアルバムを取り上げることができるのは幸運だとしか言いようがない。

 とはいえ、本当のことを言うとあまり紹介したくない気持ちもある。というのも、このレコードを出している、<Olde English Spelling Bee>の作品はどれも入手がかなり難しいのだ。このレヴューを期にレコード店の入荷枚数が増えますように...。

 この記事を書くにあたって集めた資料によると、このレンジャーズ、テキサス出身、サン・フランシスコ在住のジョー・ナイトのオルター・イーゴだとあるのだが、バンドが路上で演奏している写真もあり、実態は詳しくはわからない。音を聞く限りでは一人で宅録しているようには思えない。

 このレーベルのものは総じてそうなのだが、一聴して孫コピーしたカセットテープではなかろうかと思うほど、音が悪いのが印象的だ。オープニング「Deerfield Village」は、今どき聴かない、スラップというよりは、かつてチョッパーと呼んでた雰囲気のベースのリフで始まり、歪ませまくったボーカルは、何を言ってるのか全く聞き取れない。こう書くとローファイ以降のアメリカのインディロックを思い浮かべるかも知れないが、それらよりは一時期のジェネシスや80年代のいわゆるエレクトロの方がサウンドのイメージは近い。
 
 全編通じてチープなシンセとリズムマシンだか生のドラムなんだかわからないほどしょぼい音のドラム、コンパクトとおぼしきエフェクターを過剰に使ったエレクトリック・ギター、メロディックにいくでもなく、ルートにとどまるでもないスラップベース、これらが文字通り混ざり合ったサウンドは非常に視覚的だ。それは、地球から月に人々が行き交うための透明のチューブが繋がっているような、子供が画用紙に描くような既視感のある未来。映画のエンドロールだけをずっと見続けているような感覚。どの曲もとにかく展開や起伏が少なく、1リフで1曲という感じのものも多く(コード進行がシンプルなものは少ないのがまた変わってる)、そのリフのループが作りだすカタルシスのない余韻だけの世界は妙にリアルだ。

 そして、ためらいつつもあえて言うのだが、このアルバムを聴いてデビッド・ボウイの『Low』やハルモニアなどの共作、またはイーノ・アンド・バーンの1枚目をやっていた頃のイーノの仕事を思い出した。もちろんあれほど緻密に練り上げたサウンドだとは思わないし、本当にためらいつつ言うのだけど、雰囲気は、ある。このアルバムがイーノの目に止まり、次のアルバムは共作なんてことになれば良いのに。

 それにしても、MySpace"影響を受けた音楽"の項目に、ナイル・ロジャース、Guitar On Heaven Or Las Vegas(コクトー・ツインズのアルバムのことだと思う)、ジョニー・マー、バーナード・バトラー、ミック・ロンソン、カルロス・アロマーとあるけれど、なるほどなあと思うものがひとつもないのが笑える。ジョニー・マーやバーナード・バトラーはもちろんだけど、特にナイル・ロジャースは間違ってもこの音楽をやらないだろう。
 
 そんなわけで、けなしているのか、ほめているのかわからない文章になってしまったが、このアルバムは文句なしの(私的)年間ベスト・ディスク候補。次のアルバムが待ち遠しい。

(田中智紀)

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the_medium_necks.jpg Sonic Plate傘下のレーベル<F.E.E.S>からソロ・デビューし、Org.やInternational Friendship Societyのバンド・メンバーとして活躍し、現在は今後ジャッキー・オー・マザーファッカーのレーベルからリリース予定の日米混合5人組バンドのHELLL(ヘル)のフロントを務めている飛田佐起代が、ビジュアル・イメージを担当する吉田苑子とスタートさせたユニット、ミディアム・ネックス(略してミディネク)。前作『Stars, Stars』より早2年半、3作目となる待望の新作が、遂に完成された。アコースティック・ギターと歌声というシンプルな曲構成ながら、柔らかな感触と憂いを帯びた情感ある深い音色のコンビネーション。その歌の合間に挿入されるどこかストレンジで不可思議なんだけど、まるで夢見心地のようにひたすら心地良い響きで魅せるクラシカルなピアノ・ソロ。今作ではそういった彼女たちの創出した唯一無比のサウンドによって、より一層の音の深みと音色の美しさを感じさせると共に、現実/非現実を行き交うように緩やかな音像を脳裏に浮かばせる。音を具現化したかのような画像と映像と共に演奏される彼女たちのライヴでは、より一層その音世界を堪能できること請け合い。早くその世界に飛び込みに行きたくて仕方ないところだ。

(星野真人)