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fujifabric.jpg ベンヤミンの複製技術に対する「哲学」は幸福の確約であると共に不幸の源泉である、と「否定弁証法」でアドルノは指摘した。つまり、文明の記録で同時に野蛮の記録でないものはないという中で、「救済」とは何なのか。現在に組み込まれた過去の人間の「苦悩の叫び」つまり「希望の声」を一瞬のうちに聴き取ることの可能性に賭けようとしたベンヤミンにはいささか商品至上社会への幻想に耽りながらも、瞬間的にそこからの覚醒を経験しようとする問題意識で今まで通りに進むこと自体が破局だというイロニーを含む。

 死ねば伝説、狂えばカリスマ、生きればただの人、なんて事は「ロック」という分野に付き纏う暗黙の呪詛のようで、オーディエンスやジャーナリズムは実質的な「音楽の死」を求めるのではなく、「音楽を形成する磁場の死」を積極的に希求して、過ぎたものへ「今の言葉」で加筆修整してゆく。としたならば、作品は「作品論」として語られず、作者論としてすり替えられてしまう危惧があるということならば、額面そのままの記号に脊髄反射出来ないクリティークとは何の意味があるのだろうか。

 初期の四季三部作、セカンドの『FAB FOX』以降、の彼等には僕自身は退行の気配しか感じ得なかったし、初期の情景描写の巧みさと片寄氏と組んだサウンド・ワークからすると、作品毎に「荒く」なっていく歌詞やアレンジメントをして、正当に評価するのが難しく、またイベントで観る度に選曲が「TAIFU」や「銀河」といった単純に揚がるものに固定されてしまっていたり、ワンマン・ライヴでもファンとの密室的な共犯性の中でふと放たれる「地平線を越えて」などのサイケデリアには魅せられる部分があったが、どうにも全体として彼等を捉えようとすると、J-の冠詞から懸命に逃げようとして、独特のエアポケットに陥落している気がしてならなかった。

 しかし、テレヴィジョンなどポスト・パンク的なものから60年代から70年代の大文字のロックやナンバーガールやくるりといったものに影響を受けているのは分かるが、どうにもその嚥下の仕方が捻じれていて、未消化な部分もあったものの、ボーカルの志村氏の奥田民生氏への敬愛含め、何よりユニコーン的な「真面目にふざけている」風情があると想えた近年で珍しい新進のバンドだっただけに、例えば、志村氏が影響を受けていたブラジル音楽やオルタナ・ミュージックを真っ当にアウトプットしても良かった気がしていた。

 セカンド以降の「サーファーキング」、ホーンを入れての「パッション・フルーツ」という茶化し系のシングルを踏まえてのストレートな「若者のすべて」は「よい曲」だったが、今更、ミスチルの桜井氏が歌ったり、藤井フミヤ氏が取り上げる意味はよく分からない、ベタな「ストレートさ」だと思う。あれは、青春期を振り返った故の青さが滲み出ている分、例えば、「赤黄色の金木犀」や「Birthday」にあったメタなリリシズムとは距離があった。

 サードでの『TEENAGER』という在り方も僕自身としては、彼等は「成熟」から始まって、よりラフになっていこうとしているとさえ感じた。そういった自家中毒状態に自覚的だったのか、彼等はストックホルムでの海外レコーディングを敢行する。そして、そこで出来あがったアルバムはどうもドラムのアタック感とデッドな音質と志村氏の「一人称の懊悩」が組み合わさった歪な様相になった。ただ、シングルとしての「Suger!!」のエレ・ポップの高揚感はタイアップ効果もあり、新たな代表曲になった。

 そんな折、昨年末にボーカルの志村氏の急逝の報が入って、フジファブリックというバンドを巡る状況が一変する。それは良くも悪くも「過剰」になった。彼等が出る予定だった昨年末の大阪のイベントでは、楽器が置かれ、ライヴ映像が流れるという処置が取られ、僕はその場所に行かなかったが、かなりの人が流れていっていた。また、くるりの岸田氏や奥田民生氏や気志團といった面々が彼(志村氏)の追悼を行なうように、曲を奏で、今年はベスト・アルバム、レア・トラック集、更には過去に志村氏が残していたトラックにメンバーが付加したニューアルバムが出ることになり、彼等主催の富士急でのイベントも錚錚たるメンツが集まった。死者を悪く言うつもりは僕は全くなく、フジファブリックというバンドはどんどん今後面白くなってゆく「兆し」は常に感じていただけに、残念な部分はあったのは事実だというのは明言しておく。

 但し、シビアに分析するに、五枚目のアルバムとしての『MUSIC』は僕はジェフ・バックリィーの『素描』のようなムードさえ感じさえしまった。「ロスト・アルバム」という気がしない、スケッチ集としては秀逸だし、残ったメンバーの懸命な気概が執念的に焼きつけられているのも感じるし、よくここまで様々なアレンジメントの幅を広げ、アイリッシュ・トラッド的なものから、シンプルなロックンロール、大胆な打ちこみ、ピアノ・バラッド、サイケデリックまでを消化したと思うし、正直、これまでのアルバムの中でも多種多様な曲が揃っているのは確かな力作だと思う。

 亡くなった志村氏の意志はもう慮ることは出来ないが、彼の遺したものに対しての誠実なオマージュと愛が捧げられているのも十二分に感得出来る。ただ、僕からすると、この作品を「正当」に評価する意味がよく分からない。ここから入るリスナーも居るだろうし、過去のファンもこれを聴くだろう。でも、ここには「終わり」がある訳でもなく、「始まり」さえもなく、作品としての傷痕が膿んでいるだけの物悲しさが浮いている郵便性がある。生き、あるいは死の中に「遺棄」する権力のもとで、もっとも剥奪された状態たる「単なる生」。しかし、それはまた、かならず非知の要素を含む、充溢する生の様態を名指すものでもあるとしたならば、その両義性を手放すことなくそこに立脚するとき、新しい何かが始まるパルスは僕は感じなかったのは寂しさもおぼえたが、よりダイレクトな彼等の想いがぶつけられたこのアルバムの生真面目さは「何か」を射抜くのかもしれない。心とか感受性とか不確定なものではなく。

(松浦達)

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twin_sister.jpg 最初、このアルバムを聴いたとき、なにか間違ったものをかけたのではないかと思ったのだった。確かにそれは輸入盤で、ニューヨークのバンドだったと記憶していた。デジパックのCDのケースを手に取り、クレジットを確認しようとするがほとんど情報はない。

 こんな風に驚いたのは、その音楽があたかも日本のポップスのように思えたからだ。具体的に言うと、コーネリアスの『FANTASMA』、砂原良徳の『CROSSOVER』辺りはすぐに思い浮かぶし、1曲目のリズムなどはノイ! っぽいのだけど、90年代に日本で消費されたそれの方がより近い気がする。

 このバンドについてググってみたのだが、たいして情報が得られず途方に暮れていた所、運良く中心人物のエリックとコンタクトがとれた。それによると、彼らはニューヨーク出身の20歳から26歳の5人組で、作曲は誰か一人が受け持っているというわけではなく、全員がいろんな楽器を持ち替えアレンジしていくトータス方式でレコーディングしているようだ。

 ノイ! もコーネリアスももちろん好きだ、というコメントの後に驚かされた。メンバー全員が矢野顕子の音楽に影響を受けているというのだ。意外な名前が出て来たと思ったが、言われてみるとなんかわかるような気がした。最近矢野さんに会えて嬉しかったとか、『ただいま』はすごいアルバムだ思うといった、矢野さんへの敬愛が綴られたあと、こう付け加えていた。「日本のポップ・ミュージックの多くは80'sやライヒ、ハウス・ミュージックの影響を受けているよね。」と。日本の音楽がどういったものの影響下にあるかまで正確に分析できているようだ。もしくは、アメリカ(やヨーロッパ)の音楽の変異体として日本の音楽を捉えているのかもしれない。

 とにかく本当に20歳のメンバーがいるのかと思うほど、聴いてきたもの、研究しているもののレンジの広さを感じさせるバンドだ。このアルバムを聴いて、他にはストロベリー・スウィッチブレイドや、キャンディ・フリップなんて名前も思い出した。

 アメリカのインディーズ・バンドには珍しく雑なところのない(失礼!)、丁寧にレイヤーされたドリーミーな音がすごく心地よい6曲だ。もう少し練っても良いかなあと思う所もなきにしもあらずだが、こういう音楽はちょっと足りないくらいがちょうどいいとも思えるし、これからフル・アルバムでどうなるかすごく楽しみだ。個人的2010年サマー・アンセムだと言ってるのだが、リリースされたのは4月でなんだかなあという気分にもなるのだった。推薦。

(田中智紀)

*フランツ・フェルディナンドでおなじみのDominoからデビューEP、「Vampires With Dreaming Kids」とこの「Color Your Life」のUKのリリースが決まった模様。現地発売日が9月6日で、CDとヴァイナルともに2枚組。それに伴って10月UKツアーも決定。来日公演が待ち望まれるところだ。【筆者追記】

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ceo.jpg 本作はタフ・アライアンス(The Tough Alliance)という、つい最近まで活動していたスウェーデンのポップ・デュオの片割れ、Eric Berglundのソロ・プロジェクト始動後最初のアルバムである。

 タフ・アライアンスは本当に愛すべきグループで、M83辺りを≪エレクトロ・シューゲイザー≫の先鋒と位置付けるなら、彼らの音楽性を言い表したジャンルはまさしく≪エレクトロ・ネオアコ≫。ワム! やギャングウェイ、スクリッティ・ポリッティに通じるポップ極まりない陽性の青臭いメロディと、80年代終盤~90年代初頭のマンチェスター・サウンドからの色濃い影響やトロピカルなムード(それこそ今のシーンの流行を先取りしたような!)に、アヴァランチーズのもつ現代性も兼ね備えたバレアリック・シンセ・サウンドがとても心地よい高揚感に満ち満ちていた。一方で自ら<Sincerely Yours>レーベルを立ち上げ、ジェイジェイ(JJ)やエール・フランス(Air France)といった自身の音楽性と共振する優れたグループも輩出し、ここ数年のインディ・シーンでもひと際異彩を放っていた。

 ユニークなのは音楽性だけではなく、楽曲の与えるイメージとしての線の細さに反した、己の幻想を貫くための思想的過激派な一面を兼ね備えているところにあった。「First Class Riot」という曲で、美しすぎる光景や人生における輝かしい瞬間について「今もまだ死んでない、そういったものは買うことができない、(そのことが)First Class Riot」と歌ったところや(俗にいう「青春ポップス」のなかでも自覚的でインテリ趣味な楽曲がもつ攻撃性を一言で言い表した、とても鋭いラインだと思う)、ライブにおいてはほとんどカラオケで、メンバーの二人は金属バットを振り回したりスニーカーを手にはめたりしてひたすら踊り騒いだというエピソードなど狂気スレスレの芯の太さを感じさせるし、それを聞くと少女たちが縄跳びをして戯れる光景を延々垂れ流すだけの「Silly Crimes」のPVも違った見方をすることが出来る。たとえば40代を超えたカジヒデキが今でもあのスタイルを継続することである種の凄みを帯び出しているように、ある一線を越えると悶々とした中二病妄想癖は遁世的でいたまま「反抗」へと転化し得る。

 で、最近もそういった路線で話題になったバンドがいた。そう、ザ・ドラムス。僕は彼らがタフ・アライアランスにシンパシーを抱いているという(当然といえば当然な)事実が以前から面白くてしょうがなくて、インタビューでそのことに触れたときのジョナサンの満面の笑みと饒舌っぷりも可愛らしく、今でもとても印象に残っている。

 しかし、気がつけばグループは解散し、そしてCEOである。「あるとき海に行くと嵐に見舞われ、途方もない孤独にさい悩まされていたら突然、啓示が訪れ、数千の天使が囁いたんだ。ceo、ceo、ceo...って。すると大波も怖くなくなった」そんな本人の実体験がCEOと名乗るきっかけになったそうだ。って、何ともコメントしづらい...。色々なインタビューに目を通した限り、彼はとても繊細で、理屈っぽくて、変な拘りと美学をたくさんもった人物のようだ。それぐらい緻密で傍目から見て面倒くさいエゴに満ちた人物でないと、先に挙げた「反抗」なんて到底なしえないのだろう。

 そんな彼のパーソナリティが反映されたのか、このアルバムにはタフ・アリアランス時代に比べて若干のアーティスト志向が目につくところはある。冒頭「All Around」で流れるストリングスは従来のダンス・ミュージックのアレンジメントというよりは室内楽的で、同様の演出は「Oh God, Oh Dear」にも用いられている。曲名やジャケットのアートワーク(タイトルもアートワークも自分が大好きな「白」を強調することから決定したとのこと)、オフィシャル・ページにおける少しキナ臭い声明文にも見られるように、過去よりも幾分スピリチュアルでシリアスに、そして一人になったぶん内省的な方向に傾いているのはたしかだ。解散したのもなんとなく頷ける。

 いずれにせよ、そういった要素もアルバム全体の統一感を損ねることはなく、ドリーミーで天真爛漫だった音楽性はそれほどは大きく変わっていない。抜群のフックをもった二曲目の「Illuminata」からテンションは上向きにシフトしだし、ネオアコ・マナーに則った出だしの手拍子も素敵な「Love And Do What You Will」や、4分半程度のリズムの反復が快楽的すぎるあまり永遠に続きそうな錯覚を引き起こす「White Magic」は、まるでアニマル・コレクティヴ『Merriweather Post Pavilion』の楽曲をセイント・エティエンヌがリミックスしたような、独特の清々しさとダイナミズムが漲っている(ザ・ドラムス同様、CEOも<Sincerely Yours>の面々も、当然のごとくセイント・エティエンヌをこよなく愛しているそうだ。そろそろ彼らの功績に見合った再評価の動きが出てきてほしい...)。バタバタしたトライバル・ビートに神々しいコーラスが重なる「No Mercy」もいい。楽曲中でところどころ鳴る「キュイーン」という音は日本刀を使っているそうだ。刃物の類で一番鳴りがよかったからとのこと。なんじゃそりゃ...。

 そして何より特筆すべきは、オフィシャルHPで先行リリースにシングルカットもされ、先述のインタビューでジョナサンも一日30回は聴いていたと告白していた「Come With Me」だろう。煌めくシンセ・サウンドにチルディッシュなサンプリング・ヴォイスを伴い、訴えかけるように「一緒においでよ」と連呼される。透明感漂うエレ・ポップ調の美しいこと...。トトロと変な仮面が一緒に出てくるおかしな味わいのモノトーン調PVもよかった。自身が子供のころに繰り返し歌ったというスウェーデン語の「Den Blomsterid Nu Kommer」でしおやかに締められるというのも後ろ向きで内向的な夢想家といった趣でアリだと思う(関係ないけど、同じくスウェーデンのロビンも近作を同様の構成で締めていたのも面白い)。

 ここまでハラハラするほど美しいアルバムの収録時間が28分だなんてイジワルだけど、その食い足りなさのおかげで何度も何度も聴きたくなる。昔より少し生真面目になったぶんメロディはより哀愁を帯びて、エンドレス・サマーなフィーリングも以前より高まりつつ、MGMTの近作がもっていたシニカルさともチルウェイヴ/グロファイ勢のアンニュイさとも違う、気高く瑞々しいポップ・サイケデリアがここには展開されている。

(小熊俊哉)

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rox.jpg エイミー・ワインハウスやアデル、ダフィといった、オールド・マナーのシンガーはUKでヒットを飛ばしている。やはりモッズの伝統がある国、ソウルやブルースといったブラック・ミュージックをルーツとしたサウンドはウケるのだろう。

 このロックスも、その流れを汲んだ2010年の注目株。毎年、その年のヒットを予測するBBC SOUD OF 2010にもノミネートしている。本名ロクサーヌ・タタエイという名の21歳は、ジャマイカ人とイラン人のハーフで、幼少のころからロンドンのミュージカル劇団に所属しステージに立ってきた実力派。待望のデビュー・アルバム『Memoir』も質の高い内容に仕上がっていた。そして、何より上記のシンガーたちより、最近ではコリーニ・ベイリー・レイなんかに近いような、記録や記憶より、耳の奥にずっと残る感じ、そんな印象を受けた。

 ジェイZやアリシア・キースを手がけたアル・シャックスがプロデュースし、ローリン・ヒルやメアリー・J・ブライジ、シャーデーなどをフェイヴァリットに挙げるセンスが前面に押し出されている。楽曲においては、シングルとなった「No Going Back」や「My Baby Left Me」といったキャッチーなトラックはあるものの、全体的にはダウンテンポのしっとりとしたメロディと歌声が際立つ。モータウンやソウル、レゲエなどをベースにしたサウンドもとても美しい。華々しくヒットチャートのトップを駆け上がることはなかったのが残念だが、このロックスはジワジワと人の心を捉えていくタイプのシンガーなのだろう。

 筆者は幸運にも、一夜限り行なわれた彼女の日本でのステージに立ち会うことが出来た。アコースティックのみのセットで、伸びやかで可憐な声にはしばし聞き惚れてしまった。失恋をテーマにしつつ、悲しみを提示するだけではない強いリリックのように、まだまだシーンに生き残って欲しいと思う。今後の期待を感じさせる逸材だ。

(角田仁志)

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exlovers.jpg すでにコアな音楽ファンの間では話題になっているエクスラヴァーズ。ちょっと前にそのウワサを聞きつけた筆者は、まずMySpaceでその音を確かめたのだが、トップに貼られていたデモ曲「Starlight, Starlight」のイントロを数秒試聴しただけで、ふっ飛ばされるような衝撃を受けた。つんのめるようなドラムのフィルに続く、シンコペーションの利いたA△9/AとD△7(-5)/Dの繰り返し(ネオアコ~ソフト・ロック黄金律!)。バート・バカラックばりに美しい男女混成ハーモニー。そして、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートがさらに加速度を上げたような演奏に、あっという間に虜になってしまったのだ。
 
 ピーター・スコット(ヴォーカル、ギター)とクリス(ギター)を中心に、イングランド南西部のコーンウォール周辺で結成された5人組バンド。本作は、そんな彼らの日本デビュー盤である。先にUKでリリースされた最新シングル「You Forget So Easily」に、ファースト・シングル「Just A Silhouette」のB面曲「Clouds」と、セカンド・シングル曲「Photobooth」、そして、冒頭に紹介したデモ曲「Starlight, Starlight」を追加した、ファンはもちろん彼らを初めて聴くとっても必須の内容だ。
 
 ピーターによる儚くも美しい歌声&メロと、そこに寄り添う紅一点ローレンスの控えめなハーモニーから、エリオット・スミス(それも『Either/Or』時代)を連想する人は多いはず。中でも、「New Year's Day」や「The Moon Has Spoken」、「Clouds」の歌い回しやスリリングなコード・チェンジ、悲しくも凛とした佇まいは、エリオット・スミスのそれを強烈に感じさせる。ピーターは10代の頃、アメリカン・ハードコアに夢中になっていたそうだが(腕全体に掘られたタトゥーが、華奢でナイーヴそうなルックスとは対照的)、キラキラとしたネオアコ風味のサウンドの奥に潜む暗い情念や衝動が、ハードコア・パンクを通過したフォーク・ミュージックを奏でるエリオット・スミス、あるいはロウやアイダらの音楽性と共鳴するのは、何ら不思議なことではないだろう。
 
 とにかく、彼らのソングライティング能力はアートスクールの木下理樹も「年間ベストに入る位」とtwitterで絶賛するほど。ただし本作を聴いた限りでは、メロディの"引き出し"がそれほど多くなさそうで、割と似たような曲が並んでしまったのは惜しい。そう言う意味では、おそらく最新音源であるデモ曲「Starlight, Starlight」のような突き抜けた曲を、今後彼らがどれだけ書けるかどうかが勝負になってくるのではないか。

(黒田隆憲)

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sokabe_summer.jpg 個人的に、夏になってくると、メルロ・ポンティ的な意味で「視」る人になる。それは薄着の女性や汗を掻いてはしゃぐ子供たちや含めて、どうも夏の粒子というものが可視化されると言おうか。「人の視覚能力は特定波長」に限定されており、赤外線・X線など見えない。でも、他の生物は色々で「周囲に磁場を持つ(魚類など)」「熱を感じ取る(蛇など)」といったように『光=波でかつ粒子』の物理学上の"光の特殊性"(重力などと並び4つの基本)にも関連し、「人間の皮膚にそれらを感知出来る器官・能力の可能性」が「視線を感じる」に結びつくと、パトスが夏の催いに掻き消える。

 Ototoyで7月15日まで無料DLを敢行していた曽我部恵一の「サマー・シンフォニー」は「視る」人の歌。だからこそ、タイトなビート感、青く締まったリリックが速射砲のように景色を切り取る。トーキョーNo.1ソウルセットかランタン・パレードかと思わせるようなメロウネスだが、ピンと張った空気で「夏」を誤差なく鮮やかに切り取る。今年のサニーデイ・サービスのリユニオンがあり、曽我部恵一氏自体の活動も益益、活性化する中、ソロ名義でふと届けられたこの曲の透き通り方はどうだろう。サニーデイ・サービスには「サマーソルジャー」という名曲が、ソロ名義でも「夏」があったが、それとは別位相で、今回の新曲は確実に夏を射抜く。

 過去の曽我部氏の「夏」とは「失われた青きものの象徴」でもあり、また、「限りなく純粋で青かった気持ちの原点」でもあるからで、彼等が野暮ったくそこらにいる大学生然と現れた時も、どういった距離感を置けばいいのか正直理解らないようにデコレイトしており、ラヴィン・スプーンフルもはっぴぃえんども大瀧詠一も山下達郎もカタログ化されていた90年代半ばの「失われた10年」の真ん中辺りで、昔の四畳半フォーク的世界の再現と脱構築をせしめようとする試行には無謀ささえも感じたし何を葬ろうとしているのか、また何を始めようとしているのか、正直、よく把握出来なかったし、既にフィッシュンマンズが鮮やかに「夏」「休み」は歌っていた筈だった。80年代のポスト・モダンの残映の中でエコーするビートに「細部にしか神は宿らないよね」という暗黙の了解で結ばれたサバービアのインテリ崩れの僕からしたら、例えば、今年ライヴで観た小沢健二の"狙ったインでアウトな感じ"とか「レイドバックよりラジカリズムだ」、と意気軒昂に思っていた浅愚な状態が今更、気化する。

 夏の気怠い空気の中、明け方5時過ぎ、始発を待ってドトール・コーヒーで必死にレポートを書く青年。カラオケボックスでとりあえず寝てから、スタジオ入りするつもりのバンド少年少女達。「総て嫌いなの」、と嘯く水商売の右耳に3つのピアスが光っている女の子。「ロックってあの"外れていく感覚"が堪らないんですよね。」という心優しき全身タトゥーのステディ・ボーイ。グレッチのあの重さが堪らなくて、という大学生の可愛い女の子。ファッションホテルの明滅。それらの要素群が「サマー・シンフォニー」の中で浮かんでは消える。光が見えるかい?

 BABY BABY You are the ONE

 昔、ある雑誌で曽我部氏は『BLUE』というアルバムの「朝日のあたる街」という曲目に関してのインタビューでこう言っていた。

「...この作品には、労働者階級、ワーキングクラスの人達の視点から見た歌しか入ってないけど、アッパークラスのお金を凄く儲けてる人達にとっても、やっぱり心境は一緒だと思う。海が見たい、そこに何か絶対的なものがあるんじゃないか、今の自分を変えてくれる何か、もしくは優しく自分を包み込んでくれる何かって。そういうふうに思ってるのが現状だと思う」

 僕もそれは同感の旨がある。

 アッパーもアッパーミドルもミドル・ミドルもロウアー・ミドル、ロウアーも今の時代、何かしらの空虚感を持っていて、それぞれにとっての「海」を観に行きたがっている。その「兆候」は感じる。フリッパーズがバブルの終焉間近に『海に行くつもりじゃなかった』と言っていた時代から10年以上が過ぎて、どうもそういう事になっているようだ。

 繰り返そう、「サマー・シンフォニー」に劇的な「何か」はない。簡素なビートと、芯のあるベースラインが太いグルーヴを作り上げ、その上に爽やかなアコースティック・ギターのコードストロークがかき鳴らされ、鍵盤は印象的なフレーズが並べられる。ポエトリー・リーディングのような、かのフィッシュマンズの問いかけのように彼のボーカリゼーションが新しいフェイズに入っているのも含めて、これは夏休みを終わらせる為の「シンフォニー」じゃないだけの曲だ。「空中キャンプ」の中で過ごしていた人にアイスクリームをお供に、無限の夏を確約する。その確約は共約不可能性を帯びるのだが。

(松浦達)

*12インチ・シングルは8月前半にリリース予定とのことですが、かなりのD.I.Y.リリースゆえ、このレヴューのアップ時現在まだ日程が確定していないようです。曽我部恵一オフィシャル・ページでご確認ください。【編集部追記】
http://d.hatena.ne.jp/sokabekeiichi_news/

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mi_ami.jpg このアルバムをCDショップで見かけて、「あ、ボブ・マーリーだ! 夏だね~」とか言って買ってしまったうっかり者も(世界に5人ぐらいは)いるかもしれない。聞いてみて「なにコレ!」って、腰を抜かす可能性は大。そんな人でも気に入ってくれたらいいのにな、と僕は思う。MI AMI(ミ・アミ)の2ndアルバム『スティール・ユア・フェイス』には、ジャケット・デザインも含めて、不思議な魅力がぎゅうぎゅうに詰まっているから。

 ミ・アミは、ワシントンD.C.のDischord Recordsに所属していたBLACK EYESのメンバーが中心となって結成された3人組。09年の1st『Watersports』は、<Touch and Go>傘下のQuarterstick Recordsからのリリース。しかしその後、<Touch and Go>は惜しくも活動を休止。どうなることやらと思っていたら、これまた名門レーベル<Thrill Jockey>に移籍して、しっかりアルバムを発表してくれた。

 裏ジャケットを見て、さらにびっくり。ジェリー・ガルシアの遠い目を見つめながら、肖像権は大丈夫なのかな?って、ちょっと心配になる。レゲエとフリー・ジャムの王様にサンドイッチされた全6曲。知的なパンク・スピリットを感じさせるコンセプトは最高にクールで、鳴っている音楽は最高に熱い。ダブ、ラテン、ファンクからフリー・ジャズまで、ハードコアのざらざらした感触をそのままに、踊り狂えとぶちまける。シンプルなカッティングのリフからピュンピュンピュ~ン系のエフェクター・サウンドまでが自由に飛び交うギター、歪みながら広がっていく空間を泳ぐようなベース・ライン、そしてトライバルでテクニカルなドラムが気持ちいい。踊れ! 踊れ! 踊れ!

 ハードコア~ポスト・ハードコアというと、アルバムをリリースするたびに、どんどんストイックになっていく印象がある。とんでもない熱量をある一点だけに集中させていく感じ。僕にとっては、フガジ、トータス、シェラックなどの印象が強いのかも。でも、ミ・アミはちょっと違う。まだ2枚目だけど、どんどん自由に無邪気になっているような気がする。今、いちばんライブが見たいバンド。「Latin Lover」なんて、エフェクターとコール&レスポンスできそうだし。このクオリティなら、ジャケットに拝借されたヒッピーの王様たちもきっと許してくれるはず。21世紀のパンクは、こんなに自由でカッコいい。

(犬飼一郎)

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bombay_bicycle_club.jpg これには驚いた。

 昨年6月に1st『I Had the Blues But I Shook Them Loose』をリリースしたばかりだというのに、早くも2ndアルバムを完成させたスピード。しかも今回はアコースティック・アルバムである。ボンベイ・バイシクル・クラブ恐るべし、と思うとともに、ファズ・ギターの轟音とUSインディ的ないびつさが前作では印象的だっただけに、どのような作品になるのか全く予想ができなかった。

 実際、アルバムを再生してみると、前作との差は明白だった。それが最も顕著に現れているのが、前作にも収録されていた「Dust On The Ground」だろう。以前のものとは違い、シンプルなサウンドで、メロディがむき出しになったこのトラックは牧歌的な緩やかさを感じさせる。しかも、アルバムではUKフォークの重鎮ジョン・マーティンの「Fairytale Lullaby」や、(ボーナス・トラックではあるが)ジョアンナ・ニューサム「Swansea」のカヴァーまで収録している。基本的にはアコギの絡み合い。更に、約半分の曲においてはドラムすら使われていない。つまりは本格的なフォークへのシフトチェンジというわけだ、これが非常にハマっていて、彼らの優れたソングライティング能力を見せ付ける内容になっている。

 全体的なプロダクションも前回と一変、アークティック・モンキーズのなどを手がけたジム・アビスにより作りこまれた前作と違い、今回はヴォーカルのジャック・ステイドマンとギターのジェイミー・マッコールの父によるプロデュース。しかも、地元ロンドンの教会でレコーディングという環境もあってか、アットホームな雰囲気だ。その肩の力が抜けた緩やかさが、ディスクを何度リピートしても聴ける充実振りに繋がっている。

 レイト・オブ・ザ・ピアやユック(YUCK 元ケイジャン・ダンス・パーティー)といった、ごく最近までティーンエイジャーだったバンドたちの才能のほとばしりぶりは驚くばかり。しかし、このロンドンの若き4人は同世代のバンドの中でも一歩進んだ成長をしていることを本作で証明して見せてくれた。

(角田仁志)

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milkymee.jpg 制約に束縛されることは、時と場合によっては快楽である。ジェフ・ベック、ウェス・モンゴメリーなど挙げればきりがないのだが、彼らは「ギターという楽器の束縛」の中で自分は一体なにが、どこまで出来るのか、というギターによる表現力をぎりぎりまで追求し、挑戦した。その追求した結果がテクニックであることも時としてあった。そしてテクニックの向上とは、楽器という束縛の中でもがき苦しむことと同時に、人間が持つ「挑戦する・したい」という欲求・快楽から生まれた。人間の欲求に際限は無いのだから、これからも、使われる楽器の束縛の中で人間の挑戦は続いていくのだろう。
 
 だが、もともと、なぜ楽器が生まれたのかというと、人間の頭の中で鳴っている音を実際に鳴らすためであった。「鳴らしたい音を鳴らす為に作られた楽器」が、今では「楽器でどんな音が鳴らせるのか」というふうに、逆になってしまっているわけである。それ自体は悪いことではないが、超絶的なテクニックを誇るアーティストを聴くたびに、楽器の誕生の意味をあらためて考えさせられる。
 
 スウェーデンを拠点に活動し、現在は日本在住のフランスの女性シンガーソングライター、ミルキーミーのセカンド・アルバムは見事なまでにギターという楽器の束縛をかわしている。ファースト・アルバムも同様で、楽器が誕生した意味の根源を提示する。
 
 アフロ・アメリカン音楽の要素と技巧を取り除いたアーニー・ディフランコと例えるのは安易だが、ミルキーミーが奏でるアコースティック・ギターの音色は実にシンプルで、ぱっと頭に浮かんだものをためらわず音にしている潔さがあるから演奏に嘘がない。大げさな様も微塵もない。これぞ演奏者の楽器との一体化と言いたくなる。彼女にとってギターとは純粋に頭の中で鳴っている音を具現化するものなのだ。そして最も聴き手の感情に響いてくる歌声が素晴らしい。繊細でいて大胆。哀感も楽しみの心地も含むその歌声は、そっと背中を撫でてくれるかのように響く。かと思えばパティ・スミスみたいな歌声も発するから良い。中にはPJハーヴェイ? なんて思う楽曲も含まれている。しかしそのどれもがやさしいのだ。自分の音楽スタイルを彼女自身が「雪とミルク」と表するように、雪のようにひんやりとしているが、部屋でホット・ミルクを飲んでいるような、ゆったりとした時間が再生すると溢れ出す。まるで時計の針の音のように生活に溶け込んでしまう音楽だ。
 
 本作をファースト・アルバムと比べてみるに、最も異なる点は使われている楽器の種類の多さと、様々な音楽要素を足しているところだろう。トランペットやヴィブラホンなどが使われているが、それもまた、楽器による束縛とは無関係に、ひょうひょうと鳴らされる。エレクトリック・ギターの音色だってとてもシンプル。だからこそ、どのような楽曲であれ歌声を邪魔せず嫌味にならない。然るにボサノヴァのようなジャケットそのままボサノヴァっぽい土臭さも感じさせる。上品なのではなく華がある。なにより彼女はあくまでもテクニックの限界に挑むのではなくギターをひとつのツールとしてしか見立てていない。それゆえ逆説的に限界が存在しない。挑戦を意識していないところに無垢がある。

(田中喬史)

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mia.jpg 新技術が登場すると世界の見え方が変わるのだろうか。メディアはメッセージで本当に成り得たのか、シャノン=ウィーバー・モデルを敷いて、所謂マクルーハン的な「メッセージ」の通俗的な解釈をしてみるに、メッセージには、既にある意味「運用」するだけではなく、新たに意味を創出する機能があり、メッセージは「線的」なものではないと言える。
少なからず「メディアはメッセージ」と考えると、宛先不明のメッセージが定式化できないという「分の悪さ」があり、ここには批判もなされてきたが、「受信者の状態変化」の在り方を
 
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 このように式化した際に、見えてくるのはメディアが変える「受信者」はおそらく「個」の集合体=社会であって、社会がメッセージを「受信」して変化せしめるということだ。もはや、今は「個」がメッセージをメディアにバイアスをかけることが出来る時代だからして、4月26日に彼女の「Born Free」のPVが突然、ドロップされたときに、コントロール制御出来ない世界の反応のカオスはマクルーハンが言う所の電子メディアは集団形式であり、文字文化以降の人間が利用する電子メディアは世界を収縮させることで、一つのムラを形成させる。そこには、あらゆることがあらゆる人に同時に起こる場所であり、あらゆることは起こった瞬間にそれを知り、参加することになるという文脈で言えば、LAの民兵グループが子供たちを集め、砂漠においてなぶり殺すという光景の一視聴者/参加者になることは造作もないことだった。僕個人としては、「Born Free」には意味はあったが、メッセージが無かった為に、有機的に機能しなかったのだろうと思うし、今更ながら肥大していたM.I.A.のイメージ戦略としても決して功を奏していたとは思えなかった。

 簡単に振り返ってみるに、M.I.A.とは「反逆者」とイメージに囚われ続けてきたきらいがある。マヤ・アルプラガサムの故郷のスリランカの内戦におけるシンハラ人とタミル人との衝突。タミルの血を引く彼女は父親が活動に身を投じる中で政府から追われ、また闘争の中で大勢の友人や親戚を亡くし、自らも転々と地を移り、11歳の頃、スリランカを出て、ロンドン南部の低所得者用公営住宅に住み、そこで、ヒップホップやダンスホールを学び、そこからアートスクールへ行き...と、バイオグラフィーには彼女の過酷な遍歴が詰め込まれている。多くの人もよく知っていることだろう。

 ただ、その来し方も勿論、大事なのだが、00年代の半ばのロンドンのクラブに行った事がある人なら周知だろうが、その時はダンスホール、レゲエ、グライム、バイレ・ファンキが重なり合うように流れており、それはグラウンド・ゼロの世界の中で新しい敵が仮想ではなく、明確に浮かびあがってきた狼煙かもしれなかったと言えた。対象はアメリカの新保守主義だったかもしれないし、グローバリゼーションという名の怪物だったかもしれないし、既にプレ状態でおかしくなりかけていた金融経済システムだったかもしれない。そのフロアーでM.I.A.は「地球市民」といった言葉を用いながら、いささか手荒い言葉を吐き、ファットなビート、それに反した凛としたルックスが合わさって、急速的に、「イコン」化していった。

 しかし、今の耳で05年の『ARULAR』を聴くと、如何せん雑だ。それは「猥雑」でもあるということなのだが、想ったより「こじんまり」としているという印象さえ受けた。ディプロ(Diplo)の「Bucky Done Gun」のイメージが強かっただけにケイヴメン辺りのものは少しソフィスティケイティッドされ過ぎている。ポップ・カルチャーの中で反戦を、平和を唱えることの意味はジョン・レノンの時代から延々と続けられている議題でもあり、宿命だが、彼女の場合は少しファスト過ぎた。

 このファーストから、PCを抱え、全世界を彷徨し、インドでは30人程のドラム奏者を集め、「Birdflu」を作り上げ、発表し、とスキゾに「行きあたりばったり」の中での砂金を探すようなレコーディングを続け、比例して、音楽シーンの中で彼女の存在はどんどん大きくなっていき、カバーを飾る事も増え、例えば、いつぞやのビョークの『Volta』、「チベット発言」的ヒップさよりも彼女のネクスト・アクションを待つ層が今回の新譜をどうジャッジするのか、僕には興味があった。07年の『Kala』の評価軸はある意味、ブレが無く、ファーストのローファイさを好んでいた人たちからはポップに鮮やかになった、とか、商業主義的な気配がより先立つようになった、とか、ボルチモア・ブレイクス、バイレ・ファンキといったゲットーミュージックの咀嚼の仕方が鮮やかになった、とか、ブレは無いからこそ、世界的な評価を得た。加え、このアルバムで名だたるプロデューサーを招聘し、グウェン・ステファニーとUSツアーを行ない、ティンバランド、ミッシー・エリオットと共演を行なうなどもあり、「セレブ」的な目配せを強烈に持つようにもなってきたからこそ、彼女の存在価値は「闘争」にあるのではなく、「逃走に近い何か」とアイロニカルに捉える事も出来た。

 さて、最新作『MAYA』に関しては僕は残念ながら、今までのように彼女に対する何らかの魅力を感得出来なくなった内容になった。ここにはダブ・ステップ以降の低音がきいた重さが通底しており、いつものスウィッチもディプロなども参加しており、エスニックなワールド・ミュージックが「展開」されているのだが、そこには強度がなく、いささか表層的だ。ラガ・マフィン、ディスコ、R&Bの消化の仕方も正直、僕には巧く手綱を握れているようなクオリティとは思えない。全体的にとっ散らかった印象なのはこれまで通りなのだが、どうにも、「整然と構築されたカオティックな渦」があり、その渦の目に立って、彼女自身が茫漠と虚空を眺めているかのような雰囲気さえある。何だか、エネルギーには充ち満ちているが、方向性が見えない寂しさがここにはあり、その寂しさはマクルーハンを使って説明できるかもしれない。

 ムラの条件が整えば整うほど、断絶や分裂、相違点が増す。地球ムラではあらゆる点において最大限の不調を確実にもたらす。統一感や安定感が地球ムラの特性では決してない。悪意やエンヴィーが増え、人たちの間から空間と時間が抜き取られてしまうとき、深いところで出会う世界は部族的でどんなナショナリズムよりも分裂的である。ムラの本質とは分裂(fission)であって、融合(fusion)ではない。とすると、彼女が掲げた理想や反抗は引き裂かれたまま、宙空に浮いてしまったのだろうか。

(松浦達)