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stars.jpg これはもう、ジャケ買いでしょう。ライトなホラー感のあるモノクロ写真。背後には薄っすらと人影が。でもバンド名はピンクだからポップ・センスを感じさせる。音の方も男女ツイン・ヴォーカルによるデュエットがロマンティックでいてポップ。5人組の彼らが繰り出すサウンドはヴァリエーション豊かだが、そのどれもがポップ感十分だ。アンドリュー・ホワイトマンがゲストとして参加。ブロークン・ソーシャル・シーンと共にカナダを拠点とするスターズが、自ら立ち上げたレーベルからの1作目『The Five Ghosts』、それはロマンチシズムをひょいっという具合に提示する。
 

 特に女性ヴォーカルの歌声がキュートでいてセクシー。ドット・アリソンとムームの元ヴォーカリスト、クリスティンを意識しているのか? と思えるような一人二役的な歌声が楽曲の雰囲気の幅を広げている。男女のヴォーカルを何重にも重ね幻想感を出したかと思えばシンプルに艶っぽい歌声を押し出す。さらにエコーを効かせてどんどん歌声を伸ばしていき、ぱたんと途中で途切れさせ、次の瞬間、おとなしかった歌声が軽やかにステップを踏み出すところにキュンときた。確信犯的なロリータ・ヴォイスはトミー・フェブラリー級だ。
 
 どちらかといえば、「ありそうでなかった」というよりは「ありそうで、やっぱりあった」というインディー・ポップスでとんでもなく目新しいわけではないが、そんなことはどうでもいいよというノリが良い。室内楽的なストリングスもアコースティック・ギターも、そっと触れ合う程度に添えられて、茶目っ気のある電子音もエレクトリック・ギターもピアノの音色もかわいらしく、つまりはアルバム全編がチャーミングなのである。しかし糸を切られた操り人形が意志を持ち、勝手に繰り広げる劇を観ているような奇妙な風景が目に浮かぶところもあるからたまらない。大げさで強引な例えを出せば、ビートルズのサージェント・ペパーズの世界をチャーミングにした感じ(とはいえ、なんとかリヴァイヴァルみたいなものでは全然ないよ)。凝っているけどお高くない。庶民的な朗らかさがあるというか、身近な暖かさがじんと伝わる。かなりの傑作だ。
 
 ただ、ボーナス・トラックは賛否両論だと思う。アルバム・リーフやオブ・モントリオールなど、「おお!」となる名前があるけど、妙にエレクトロニカっぽくしていて奏功しているとは言い難く、実験が実験の域を脱していない。ボーナス・トラックだと割り切って聴けばそれはそれでいいのかもしれないが、個人的には輸入盤の方が好みかな。

(田中喬史)

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yes_giantess.jpg 30年周期で巡ってくるタームというのはあるのだろうか、思えば、90年代には60年代のロウな音をディグするのがクールな要素因はあったし、00年代は70年代のラフさを好む傾向にあった。前者はベックにしろ、コーネリアスにしろ、サウンド・レファレンスの引き出しを多く持つ人間こそが、ブルーズやフォークへの目配せをしたのもあり、ポップ・システムのサイクルが構築されてから以後のスタイルや音には殆ど興味を向けなくなったというのもある。それを対象化する形で、後者側においてザ・ストロークスやザ・リバティーズは≪反≫ではなく、≪非≫を望んだら、ニューヨークの「なにもなさ」にサウンドがドロップインして、グラウンド・ゼロの荒野を鑑みた。見渡した時に、アート・ロック的なファクトリー的な無為なステーションが浮かび上がることになった。まるで、いつかのデヴィッド・ボウイのように。

 事実、ボウイの70年代で近年、最も再評価されたアルバムはベルリン三部作の『ロウ』だったりもするから不思議なもので、00年代後半から犇めくニューエキセントリックやブルックリン勢がまだまだ漸進的に80年代の「手前」で停まっていたと想えば、10年代に入ってのザ・ヴァンパイア・ウィークエンド、MGMT、イェーセイヤー(YEASAYER)、フォールズなどは見事に「80年代」的だった。サウンド・レイヤーの薄さは、今のソリッドなリスナーには目新しく響き渡ることになり、スクリッティ・ポリッティ、ソフト・セル的なハネは野暮ったくなくなり、ポリシックスは日本武道館を埋める代わりに、ニューウェーヴという言葉を使うにはリスキーな響きも存分に孕むようになった。

 反面、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手だったゴダールは新作をカンヌで発表しながら、「新しい波」という概念はどちらかというと、「Sleepyhead(眠れる頭)」のままで、「This Momentry(この刹那)」として回収されるようなナーディズムが輪郭線を結んだのは皮肉だが、周知の通りだろう。

 その輪郭線は今年一旦は、ボストンからの四人組のバンドYES GIANTESSの無邪気なポップネスに切り取られることになる。00年代の瀬戸際で現れた「逃走という闘争」を演じる青きシンセ・バンドのパッション・ピットのアダムの他に、エコー・アンド・ザ・バニーメンなどを手掛けたリアム・ホウ、ケイティ・ペリーのシンセ・ポップの軸を支えたスタースミスがプロデュースで参加したこともあってか、ビッグ・アレンジが揃った煌びやかさを、マイケル・ジャクソン亡き地平に、80年代の何処までも世界が繋がれた感覚をビートに乗せて、リプレゼントする。アーバン・ソウル、R&Bのリズムが軽快に撥ねながら、オプティミスティックなムードで麗しき「you」への愛、希求を綴る。

 シビアな見方をすれば、これが如何様にオンになる10年代の最初というのは僕自身は相当にキツいものを求められていると思うのだが、逆に解釈すると、ポップ・ミュージックにロマンティシズムを求めないでいる厄介な人種はまだまだ死滅しない、し得ないという証左でもあるというのは頼もしい。09年の「Tuff 'n Stuff」のシングルの時点で、大々的で古めかしいバンドの音だな、とまさか現在進行形の彼等のものとは思わなかったが、この度のファースト・フルの『SIREN』にて全体像を見渡すと、見事なまでに、80年代のマイケル、プリンス、ワム!、ニューオーダー、ペット・ショップ・ボーイズなどのバウンシーなユーフォリアが展開されていて、隙がないが、ストロークは広い。

 ユースはこれを「新しい」と言うのか、「ロマンティックで、最高だ(レトロフューチャーだ)」と言うのか、僕には分りかねる部分が多大にあるし、アレンジメントの80年代センスと比して、メロディーの冴えが気になる甘さもあるが故に、どうにもパースペクティヴの中でクラウドが手を上げている絵が明快に想起しにくいのは否めない。

 無邪気の裏には、権謀術数が張り巡らされているのは当たり前としても、彼等のこのメタな無邪気さはベタな周回遅れを意図しないだろうか。ホメオスタシスがどう機能するのか、アルバムの矛先に広がる景色を考えている間に、40分程の時間は蒸発する。そういう意味では成功作で、僕も「してやられた」のかもしれないが、どうだろう。

(松浦達)

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thieves_like_us.jpg 例えば色香、あるいはエロス、もしくは狂気、そしてエレガンス。その全てが、スウェーデン人とアメリカ人によるトリオ、シーヴス・ライク・アス(情報があまり見付からず、どこを拠点にしているのかイマイチ分からない...)のセカンド・アルバムに存在する。このバンドの多面性は不思議なことに思えるが、同時に必然だとも思える。耳元でささやかれる歌声、柔らかい電子音、気持ち良さそうに浮遊するその全てのサウンドが巧妙に溶け合って、聴き手をここではないどこかへ、それはきっと本作の世界へと眠りに落ちるように導き浸らせる。セックスに乙女のようなロマンチシズムを抱くティーンが、ドクロが漂うディズニーランドで無邪気に遊ぶ。そんな世界観を持つこのエレクトロ・ポップスは、優美とほんの少しの狂気を合わせ持つ。
 
 エレクトロニカを通過した視点で作られたエレクトロ・サウンドは時にニュー・オーダーやチャプターハウスを彷彿させる。だがきちんと「いま」の音になっている。エレガントであることを貫き、ギターも歌声もリズム・セクションも、暗闇にわずかな明かりを灯す程度に暖かく、すっと意識の糸を抜かれてしまう心地に満ちるトリップ感。それはひとつの色香の狂気。夢遊病者と化すであろう幻想的なエコーやノイジーなギター・サウンドをタイミングよく鳴らすセンス、熱気の一切を排除した音の全てはエロスという言葉がふさわしい。さながら村上春樹が表現する救いとしての性行為のように。
 
 音楽を聴く行為とは聴き手と音との同一化に似ている。同一化とは「同一ではないこと」を肯定して初めて生まれるのだ。本作『Again & Again』は人と音楽は別ものであることを肯定し、決して簡単に分かち合えないことを肯定する。そうして親密性の高い、色めいた音色を奏で、音と一体になりたいという欲求を聴き手に生じさせてしまう魅惑がある。性行為と同じように。
 
 エレクトロニカに近い本作をエレクトロニカと比べてみるに、アンビエント的なエレクトロニカには演奏者との会話は生じることがほとんどなく、聴き手に他者、または演奏者の妄想を強いる場合が時としてある。だがそれは、聴き手の自意識によって作られた偶像で、妄想によって他者を作り上げ、対比のかたちで自分という主体を守っていると言える。自意識に害の無いものを求める現代にあって、一部のアンビエント色を押し出すエレクトロニカは他者(音楽)との会話を排除したひとつの功罪という現代性を端的に表している。
 
 だがシーヴス・ライク・アスは会話を迫る。聴き手と音楽は別個の存在ということを前提として『Again & Again』を目の前に差し出し、聴き手と対面させ、同一化を欲する。それは場合によって、他者の介入を許さないアンビエント系のエレクトロニカを好むリスナーの視点で見れば、あまりにも美しい他者(本作)との対面であり、ある種の狂気だ。いや、もしかしたら優美である本作そのものが、優美なものが薄い現実世界の中にあって、狂気なのかもしれない。そうしてやがて訪れる音との同一化。本作はエレクトロニカではないが、一部のエレクトロニカのアキレス腱、そこへの問題提起に成り得ている。美しさとともに。
 
 美というその曖昧な観念への解答は、僕はまだ示せていない。おそらく答えなどないのだろう。だが雨が止むから晴れるのだ。涙が枯れるから笑顔になるのだ。この音楽が、僕には泣いているように思える。静かに、しとしとと雨が降るように。しかし、それでいい。笑顔より、静かな哀しみの方が美しく感じられるときがある。

(田中喬史) 

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rooney_eurika.jpg LA出身の「永遠の夏を歌うナイスな奴ら」ルーニーが3年ぶりのニュー・アルバムをリリースした。前作が5年振りだったのでなかなかのスロウ・ペースだ。欧米では根強いファンがついていて(日本人が大好きなサウンドだと思うのだが、不思議なことに熱心なファンには遭遇したことがない)、アーティストからも人気が高く、彼らはストロークスやトラヴィスともツアー経験がある。シュガー・レイのようなサーフ・ポップ(夕焼けを受けてキラキラと光る砂浜...)が魅力のルーニーだが、時間をかけているだけあって彼らのアルバムのソングライティングのレベルは最高峰と言っても過言ではないだろう。ファウンテインズ・オブ・ウェイン並みだ。ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」が2010年に制作されたとすれば、ルーニーのナンバーがそのサウンドトラックに名を連ねることは間違いない。私が彼らに深く入れ込んでいるのは、中学生のときに彼らのファースト・アルバムの虜になって、それ以来その感覚を忘れられずにいるからだ。ノスタルジアと言われればそれまでかもしれないが、何か特別な風景を思い出させてくれる音楽というものはとても愛おしく、いつまでも手放せないもの。前作は終始はち切れんばかりのハイ・テンションで次々にキラー・メロディが飛び出してくるような印象だったが、今作は少し落ち着いて後半はルーニーの新たな一面(AORのような)も見ることができる。こりゃまた素晴らしいサマー・アルバムを作ってくれた。また現実逃避してしまいそう。

(長畑宏明)

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Gifts_ From_ Enola.jpg 一昨年辺りから話題を集めるポスト・ロッキンなレーベル、The Mylene Sheath。07年に始動し始めてから早一年でCaspianや、筆者が必死にお薦めするBeware Of Safety、そして飛ぶ鳥を落とす勢いの残響レコードからも見染められたYou.May.Die.In.The.Desertらの音源をリリースしている。そしてここに紹介するGifts From Enolaもまた例に漏れず、破竹の快進撃を極めんとするヴァージニアの暴れん坊4人組なのである(You.May.Die.In.The.Desertとは以前にスプリット作もリリース済み)。

 大胆不敵(!)なバンド名に面喰ってしまうが、彼らの特徴→所謂武器となるサウンドの核はシンプルな爆音ロック。然しインスト系のバンドを紹介するにあたってよく引き合いに出されるモグワイやエクスプロージョン・イン・ザ・スカイ、はたまたシガー・ロスやゴッドスピードらとは全く異なる性質。そして何か革新的であるかと言えば、別段"新しい"といった代物でもない。但し、絶対的に新鮮なのだ。

 フガジが築いたエモの系譜を更に現代風=ポスト云々にアレンジする手法は、今年惜しくも解散したフロム・モニュメント・トゥ・マスィズにも共通項を見出せるが(曲中に流れる台詞のSEを挿入する部分など含め)、彼らの場合はモダンでありながらもハード・ロックな荒々しさと、ハードコア気質な「キレ」を兼ね備えた瞬発力と爆発力を上手く楽曲中に組み込んでいる。プログレッシヴな要素は抑え目に、へヴィなリフ・ワークでゴリゴリと押しまくる男臭いグルーヴが堪らなくアツい! 思わず握り拳を作りたくなるほどにエモ―ショナルなメロディとの相性もバッチリ。

 アルバムとして前二作を経て発表された自信漲るセルフ・タイトル作。前作『From Fathoms』から凡そ1年で制作され、このスピード発表まで扱ぎ付けたのだが、その期間の短さが物語るのは、鍛え上げられたタイトな演奏と沸き起こる制作意欲に他ならない。基本インスト系だが咆哮あり歌ありとアプローチも多彩なのは、あのパーティー・ハードな鼻血兄さんアンドリューW.K.とのツアーも果たし、力強くビルド・アップした経験も一役買っているのだろう。プログレよりも完全にマス・ロック寄りで小難しいことなど抜きにビシバシとフィジカルに感覚出来るカッコ良さったら...! アイルランドのAnd So I Watch You From Afarもそうだが、今後シーンのカギを握るのはこういった様々なジャンルの境界線上に居て、その垣根を打ち壊し、よりデフォルト出来る存在なのだろうと再認識させられた全5曲。

(田畑猛)

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hot_hot_heat__future_breeds.jpg そりゃそろそろ真っ当なのは避けたくなるよね。セカンド、サードととにかくポップを全面に打ち出した作風で、しかもそれが大受けしていたので、反動で今度はファーストの頃の「ヘンテコ」感が戻ってくるだろうな、という予感はしていた。アメリカのポップ番長、オーケー・ゴーは最新作でファンクとも取れる新たな領域に踏み出したが(そしてそれは見事に成功した)、カナダのポップ番長もまた3年のあいだにバンドの音楽性を一歩も二歩も先へ推し進めた。ふむ、たしかにこれは初めてホット・ホット・ヒートを聴く人にお勧めするようなアルバムではない。だが、少しでも彼らの音楽に興味を持ってきた人ならばその進歩をありありと感じることができるはずだ。一度正面切ってポップに取り組んだバンドが、再び自分のルーツに立ち返り(彼らの場合はやはりニューウェイヴ。そしてアヴァンギャルドというフレーズも欠かせない。)、一枚のアルバムを完成させるというのは並大抵の作業ではない。ましてや彼らは2000年代に「Goodnight Goodnight」という最高のポップ・アンセムを残しているだけに、あえて安住を嫌ったのはそれだけでも賞賛に値する。アルバムの「実際の」出来も文句なし。私が個人的にホット・ホット・ヒートを追いかけ続けてきたということを抜きにしても、いますぐ輸入盤をゲットしたほうが良い。

(長畑宏明)

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innocence_mission.jpg 大きなフードのついた服を着た横向きでモノクロの少女を、ヴィヴィッドな色合いの丸い葉をもった二本の木が両脇から挟んだ美しすぎるジャケット。2007年にリリースされたイノセンス・ミッションのアルバム『We Walked in Song』は当時、気がつけば音楽誌から個人ブログ、レコード店など至るところで目にした記憶がある。僕も思わずデザインに惹かれ手にとってしまい、スピーカーから流れた穏やかで清浄な音に感極まってしまった。そこから遡って聴いた2003年の『Befriended』にも強く胸を打たれたし、更に遡って1999年の『Birds of My Neighborhood』にも感動を...ちょっとクドイか。

 そして先ごろ、本作『My Room In The Trees』がリリースされた。同じ学校の出身で舞台劇の制作をきっかけに85年に結成されたペンシルヴァニアのフォーキー・トリオ、イノセンス・ミッションは、91年リリースの二枚目のアルバム『Umbrella』以降、(2004年にリリースされた、伝承曲やクラシカル・ナンバーをカバーした子守唄アルバム『Now the Day Is Over』を除けば)ほとんどの場合3~4年の均等な期間を開けて、大きく音楽性を変えることのないままリリースを続けている。

 このバンドとはだいぶ異なったアプローチながら、「静謐で美しい音楽性を職人的に続けてきた」という点で大きく共通するブルー・ナイルという英国、グラスゴーのバンドの「(ファースト・アルバムから数えて)5年→7年→8年」というリリース間隔(と、伝説的ともいえる寡作ぶり)もそうだが、両者とも商業ベースとしては自殺的ともいえるマイペースぶりながら、その生涯を捧げるかのように作風は貫き通され、遠方へ離れた友人から届く手紙の如く忘れかけていたときに新作が発表されるたび、変わらぬ姿を見せては安心させてくれる。ただでさえシーンの消化速度が目まぐるしい現代で、こういった人たちの存在には本当に励まされる。その良さが冒頭に書いたように話題となって広まり評価されるのは(それこそ、イノセンス・ミッションはかのジョニ・ミッチェルにまで見出され、共演も果たしている)本当に喜ばしいことだと思う。

 繰り返しになるが、今までもそうだったように、この新作においても彼らの特性である奥行きのあるサウンドは微塵も揺らいでない。遠くで鳴る脈拍のように暖かみのあるアップライト・ベースに、柔らかなタッチのピッキングで奏でられるアコースティック・ギター。そして、瑞々しい少女性を孕んだ、バンド(名)の目論むイノセンスなミッションを何度でも遂行しうる純真さをもったカレン・ペリスのヴォーカル。ときおり鳴るピアノやクリアーなエレクトリック・ギターの音色も明るみをもたせている。カレンと(ギターの)ドン夫妻の自宅でライブ録りされたというラフな録音もいい。

 ささやかなマイナー・チェンジとしては、本人たちも言及しているとおりでパンプ・オルガンの多用が挙げられるだろうか。「学校からの帰り道」がテーマだという本作は、歌詞において晴れの日と雨の日が曲のほとんど交互に訪れ、「雨」「レインコート」といった単語が頻出する。童心とちょっぴりの湿り気をもつ詩世界(よく見るとカバー・アートも曇り空だ。デザインは前作に引き続きカレン・ペイジが担当)のもたらす淡い憂愁を、アコーディオンに似たほのかな低音も違う形で表現している。

 幻想的な演奏はときに雨空を、ときに差し込む日差しを描写し、カレンはポジティブにもネガティブにも陥ることなく、感情的でありながらストーリーテラーとして一歩引いた客観性も保ちつつ、神への愛や幸せな月曜日について歌う。甘やかすことも説教くさくなることもせず、穏やかな物語はただそこに在り続ける。いつだってそうだったが、日常と非日常のあいだの、もっとも詩的な好奇心をくすぐるラインの上をイノセンス・ミッションの音は静かに流れていき、耳元と心に安心をもたらし、離れてもふとしたときに戻ってみたくなる。このアルバムの4曲目のタイトルは「Gentle The Rain At Home」。"家のなかにいれば雨もやさしく感じる"というのは、まさしく彼らの音楽についてうまく表しているような気がしないでもない。

(小熊俊哉)

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jam.jpg 困っちゃうんだよなホント。こんなに良いエレクトロ・ポップスを作られてしまうと、(エレクトロニカ・ファンの僕としては)エレクトロニカはもはや大衆音楽として働いていないのかな、なんて、思ってしまう。というのも、Chees Clubからデビュー7inchシングル「NO SURPRISE」をリリースし、絶賛されたイギリスのジェームズ・ユール(彼はジャケットのイラストそっくり)。親日家でもある彼が<Moshi Moshi Records>から発表した本作『Movement In A Storm』は、エレクトロニカだろうとテクノだろうと、ハウスだろうとトランスだろうと、結局のところ全部文字通りの意味でポップじゃないか! という具合に、ぱぱっと手品みたいな手さばきでポップな部分を選り抜く。そして誰もが楽しめるエレクトロ色満載のポピュラー・ミュージックにしてしまう。
 
 冒頭の「Give You Away」からして気持ちいい。4つ打ちを上品に響かせ、抑制されたジェームズの歌声と女性ヴォーカルのコーラス、そして破綻のないメロディが、ただのダンス・ミュージックではなく寝起きに聴いても心地いいであろうポップ・ソングとして息をしている。2曲目の「Crying For Hollywood」だって4つ打ちの上に乗るアコースティック・ギターの音色がソフトで良い。思わずほほが緩んでしまう。クラブではなく太陽の下で聴きたいエレクトロニック・ミュージックなのだ。
 
 しかしエレクトロニクス音のみで語れるアーティストではなく、彼のメロディはセンス抜群である。仮にハー・スペース・ホリデイが浮遊感を目指したとしたら、ジェームズ・ユールはたとえギター一本と歌声でも真っすぐ胸に響く甘美で地に足がついたメロディを奏でられるシンガーソングライターだ。ニック・ドレイクから多大な影響を受けた彼のメロディはゆったりと、しかし哀感を含んでいてたおやか。その様がもっとも窺える楽曲は4曲目の「Foreign shore」だろう。するりと染み込み、感情の温度を下げられてしまう演奏の素晴らしさ。彼のシンガーソングライターとしての誇りの高さを感じた。ジェームズ・ユールのMySpaceのジャンル名に「フォーク」という文字があるのも納得できる。
 
 それにしてもエレクトロニクス音の使い方が本当に巧い。これはテクノかエレクトロニカなのか、なんていう議論が起こらないほど自分のものにしてしまっている。良い意味でジャンルへのこだわりがないのだ。もしかしたらエレクトロニック・ミュージック界も、様々なジャンルを同列に見立てるアーサーラッセル的な、つまりはジャンルによる区別がさほど重要ではないところまで来たのかもしれない。それを「ムーヴメントは激動の中」というアルバム・タイトルが物語る。でもタイトルとは裏腹に、踊ってよし、鑑賞してよしのかわいいサウンド。ただしジャケット同様、お酒はあまり似合わないです。ビスケットかじりながら聴きたい感じ。そんなところもかわいい。

(田中喬史)

 

*日本盤は7月21日(水)に Imperialよりリリース予定。スペシャル・エディション版はデビュー・アルバム『ターニング・ダウン・ウォーター・フォー・エアー』をカップリングしたスペシャル・プライス盤となっている。【編集部追記】

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UNBUNNY.jpg  シアトルのSSWであるJarid del Deoによるプロジェクトであり、6年振りにして6枚目のオリジナル・アルバムである。 アコースティックギターの弾き語りを基盤に、フォーキーでアメリカンなロックを渋く歌い上げる。ポップというよりは、ニールヤングに憧れる少年がそのまま大人になってしまったような、ノスタルジーさが魅力的のアーティストだろう。 私は一聴して溜め息をもらした。あの時代のフィルターを見事に透過している。ミックスの云々では突き抜けられない質感と哀愁の境地に立っている。舞い上がる砂が目に入ってくるようなリアルな音像だ。そのようなごつごつした質感に辿り着いたのには、背後で鳴るギターソロであったり、コーラスであったり、ピアノであったりの要素も不可欠であっただろう。しかし彼らは自己主張をしない。良いメロディが練り上げられている以上、過多の主張は野暮なのだ。 アルバムのタイトルがそうであるように、本盤の哀愁は夜道の哀愁である。広大で暗然とした夜の荒野を俯き気味に歩いている。だが本当に暗い夜道になるほど、我々は改めて青白い月の光の優しさにはっとさせられるのだ。

(楓屋)

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korn.jpg 90年代半ばになり、モダン・ヘヴィネスというジャンルができあがり、代表格としてはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがいた。つまり、ヘビーロックのサウンドスケイプを参照点に、ラップ的に速射砲的なボーカルを乗せるスタイルと言えるだろうか。セカンドの頃のリンプ・ビズキット『Significant Other』はその優秀なモデルであり、最大公約数であり、マリリン・マンソンをして(揶揄込みで)「スポーツ・メタル」と言わしめるだけの軽やかさと徒花性を前景化させたが、当時、世界中で大型のフェスが台頭している中、確実に機能的に多くのクラウドを煽動させることが出来るサウンド・スタイルとしては発明だったのも確かだった。そこには、メタルもヘビーロックもヒップホップも平準的に煮込まれており、非の打ちどころのないサウンドスケイプを築き上げており、その代表格のバンド勢はそれぞれの色を強く打ち出した。例えば、冒頭のレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは硬のようなバンド・サウンドにザックの政治性の高いライムが乗るというシリアスさを提示し、311はレゲエやヒップホップの影響を上手く咀嚼したミクスチャー・ロックの反射神経の高さを表象するといったように。

 その中でも、異端だったのがKORNだろう。

 それは幼児期~少年期のいじめやトラウマ、死体置き場でのバイト体験をベースにした怨嗟にも満ちたジョナサンの"泣き喚く"ようなボーカル・スタイル(その後、実際にレディオヘッドの「Creep」をカバーしたりしたが)にも依拠するだろうし、どうにも凡百のヘヴィーロック勢とは違う不穏な不協和音が混ざるサウンドをして、ニルヴァーナやナイン・インチ・ネイルズ的な集合的無意識的なダークネスを担う分だけの巨大な存在になるべくしてなっていき、自ら「FOLLOW THE LEADER」と銘打ち、コアなファン以外にもポップなフィールドにも切り込んでいった。

 しかし、彼らを語る際の「闇」とは記号論にしか過ぎないものであり、それは猟奇殺人事件の犯人の心を語るときの卒業アルバムや、個人のナラティヴとその表現物を「ダイレクト」に結び付けるくらい、無為なものだ。例えば、デカルトは普遍的懐疑において、感覚的事物の確実性について疑うが、その懐疑のプロセスで「狂気の人」に触れる。そして、『第一省察』の中で次のように言う。「彼らは気が違っているのであって、もし私が彼らの行ないを真似たりするなら、私自身彼らに劣らず同じような扱いを受けるであろう」。それに対して、フーコーは『狂気の歴史』で、このデカルトの言説をこう解釈する。この懐疑の手口がどのような社会的な、イデオロギー的な意味をもつか、ということをベースに、私が、彼らと同じようだと言ってしまうと、私が非理性的な人間になるので、私は彼らと違う。デカルト自身は、その懐疑におおげさな社会的な意味をもたせているわけでないと思うものの、以後の歴史を見ると、倫理的な空間で大きな問題が起きてくるという訳だ。大きな問題とは、もっと敷衍して考えてみると、デカルト以前には、「モンテーニュ的な理性」というものがあった。それはモンテーニュの『エセー』で、「人間というのは、理性的であって、かつ非理性的だ」、といった記述に代表される。それに対して、考える精神である「私」は狂ってはない、とデカルトは断定する。それが所謂、「デカルト的な理性」の時代。それは、非理性の排除を実践する時代においてコーン的な世界観は大いに有効だったし、同一化出来る余地があったのは確かだ。

 しかし、フーコーは、デカルトの場合は、人間の中にある、もしくは人間そのものの本質を形成しているかもしれない非理性的なものに、狂気というレッテルを貼り、人間の中からそれを外に「追放」してしまう構造論に言及する。つまり、現実の政治的権力から見ると社会的に不都合な人たちを特定の施設の中に囲い込む、閉じ込めていくという実践的なプロセスが始まる一つの尺度がデカルトの掲げた理性である、と。となると、デカルトのような形而上学的ディスクールも歴史的ディスクールを離れて存在しえないことは自明になってくる中で、モダン・ヘヴィネス(近代の重さ)とは解体される。

 レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは解散、再結成の中で明らかに「エッジ的な何か」を失っていき、リンプ・ビズキットはどうにも空中分解した。メンバーを変えながら、生き延びたコーンは今回、ロス・ロビンソンと再び組んで、原点回帰を掲げ、プロトゥールスを使わない録音を敢行して、『Ⅲ』とアルバムタイトルに付すように、これが自分たちのサード・アルバムだという意味を含めたが、もはや「形式」だけが輪郭を結ぶ絶妙な重さが破綻なく、おさまった内容になっている。リンキン・パークやマイ・ケミカル・ロマンス辺りの音が既に提示されている今にこの音は或る人にはノスタルジーを、或る人には目新しさを発見するかもしれないが、このサヴァイヴの仕方をして成功例として括るには浅愚が過ぎるし、彼等の原点回帰の原点とは「あるようでなかった、幸せな90年代の景色」だったとしたならば、この作品が受容される磁場は如何に健康的なのか想像するに難しい。何故ならば、世界は此の音よりもっと先で荒んでいるからだ。

(松浦達)