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subarashiki_sekai.jpg 生きていればきっと、
 いつかいいことがある。 
 僕らの生きる
 優しくも悲しく、
 楽しくも切なく、
 そして強くはかないこの素晴らしい世界で...。


 浅野いにおという漫画家を知らなくても今年公開された宮﨑あおい主演『ソラニン』を知っている人は多いと思う。『ソラニン』はゼロ年代の初期のロスジェネ世代のモラトリアムを描いたものだった。
 
 この作品をリアルタイムで雑誌連載時から読んでいた僕には作中に出てくる彼らは僕自身の分身のようにリアリティのあるものだった。僕はバンドや音楽をしているわけではなかったけど、その流れる空気感の中で二十代の前半をゼロ年代を過ごした一人だったから。

 『ソラニン』の雑誌連載が終わった07年に「リーマン・ショック」が起こった。この世界的な大不況は僕らが二十代前半に味わえた、味わう事でなんとか現実に向き合う事から少しだけ逃げ出すこと可能だったある種の逃避ができないまでに世界の構造を変えてしまった。

 僕らの下の世代はもはやモラリアムを過ごす余裕すらも奪われてしまった。そういう意味で『ソラニン』という漫画での登場人物たちに憧れてしまっては困るし肯定できるわけではないと浅野いにお氏も雑誌インタビューで述べていたが、この作品は『ロストジェネレーション』と呼ばれる世代にかなり思い入れが強い作品となってしまった面がある。

 映画『ソラニン』で楽曲の『ソラニン』と『ムスタング』を提供したASIAN KUNG-FU GENERATIONの最新アルバム『マジックディスク』の中には『さよならロストジェネレイション』が収録されている。浅野いにおとボーカル・後藤正文が同時代を生きて似た体験をしているからこその映画への楽曲提供、雑誌での彼らの対談のある種の意思疎通や共闘感が窺えた。

 『さよならロストジェネレイション』を聴いた十代のアジカンファンには「ロスジェネって何?」「バブルって何?」という人もいるらしい。「ロスジェネ」の意味なんか知らなくてもいいけど、そのぐらいにかつてあったことはすぐに忘れられている。今の不景気の元凶や流れの根本すらも若い世代には共有されていないのかもしれない。

 そのキーワードとしての「ロスジェネ」と「ゼロ年代」という単語。浅野いにおは2000年に『ビッグコミックスペシャル増刊Manpuku!』で読み切り作品『普通の日』でデビューをした。
 その後月刊サンデーGENE-Xの第一回GX新人賞に「宇宙からコンニチハ」が入選し、翌年から同誌で『素晴らしい世界』が連載開始された、それが著者の初の単行本となる。それは二巻からなる連作短編集で一話完結だが、登場人物たちが微妙に繋がっている世界の話である。

  GX創刊10周年スペシャルエディションとしてその『素晴らしい世界』が完全版として発売された。コミック二巻と違うのは雑誌掲載時のまま掲載順に特別編集されている点と、コミケ会場限定版小冊子収録スピンオフやPR用に書き下ろされたショートストーリーが完全網羅されている点だ。

 僕はコミック一巻が店頭の新刊コーナーに置かれている時にその表紙(熊の着ぐるみの頭を被って走る絵のやつ)が気に入ってジャケ買いしたことから浅野いにおという作家を知り追いかけるようになったので雑誌掲載時の状態を知らなかった。今回のスペシャルエディションを読むとこうだったのかと思うところが多々あった。
 
 コミック二巻の最後に掲載されている『桜の季節』が一番最初に掲載されている、しかもコミック版よりも絵がまだヘタで微妙に違う。コミック二巻に掲載された『桜の季節』はラストプログラムとして載っているので見比べるのもいいと思う。

 『桜の季節』と言えば亡くなってしまった志村が在籍していたフジファブリックの名曲と同名タイトルではあるが、『素晴らしい世界』という作品は中村一義の作品からの影響を受けていると浅野氏が『QJ』でのインタビューで答えているように九十年代からゼロ年代にロックンロールをかき鳴らした、ポップな色彩をまき散らした日本のバンドたちの影響が見られる。

 スペシャルエディションに掲載されている順にタイトルを挙げると「桜の季節」「脱兎さん」「坂の多い街」「森のクマさん」「ワンダーフォーゲル」「白い星、黒い星」「サンデーピープル」「mini grammer」「Untitled」「シロップ」「バードウィーク」「雨のち晴れ」「砂の城」「おやすみなさい」「月になると」「素晴らしき世界」「あおぞら」「春風」「桜の季節」「それから」「花火」「デッド・スター・エンド」「愛のかたち」「HARRY STORY」と並んでいる。

 何個か思い出せる曲名とタイトルが一致する。その光景が、かつて過ぎ去っていった風景が、極めて僕らが過ごして通りすぎたモラトリアムな時期を救ってくれた、並走してくれた、慰めてくれた曲と同じ名前を持っている。そういう意味でも『素晴らしい世界』に流れる空気感は極めてゼロ年代的なものをもち、それらの楽曲を過ごして十代から二十代へ、学生から社会人となる過程を過ごしていた「ロスジェネ」世代には極めて身近な作品になりえる。
 
 ただ、身近な友人の中で浅野いにお作品が苦手な人を見るとそれらの楽曲に思い入れがない、好きではない人にはやはり苦手な作家となりやすいというのもこの十年でわかったことではある。浅野いにおが描く世界観はそれらの影響下から派生しているのでそれらに親近感を持つ人はその世界に違和感なく入り込める。『ソラニン』という作品もそういうものだったのでないかと思う。

 浅野いにお氏がイメージイラストを描いているTBSラジオ『文化系トークラジオ Life』という番組がある。この番組は06年から開始され現在まで続いている。番組名に「文化系」とつくようにサブカルチャーから社会時評をするトークが人気な番組だ。浅野いにおの本を絶対に見かける場所といえばサブカル好きには外せないスポット「ヴィレッジヴァンガード」だ。どの店舗にいっても浅野いにお作品は平積みされている。

 僕はそうやって出会ってしまうのがいいなって思う。ある日初めて聴いたラジオで、興味もないのに友達に付き合った本屋で、たまたま入ってしまったCD屋で、僕らには「未知との遭遇」が必要だ。その遭遇は僕らを知らない場所に連れて行くし、出会う事のなかった誰かを引き寄せる力を持っている。今まで知らなかった痛みを教えてくれる、あるいは忘れられない景色を、そしてふと思い出してしまう後ろ姿や匂いみたいなどうしようもない気持ちも、きっと。

 読み終わると家から飛び出して散歩したくなる。このどうしようもなく素晴らしい世界の色彩を確かめに、僕以外の誰かの生活があることを感じるために。この世界は時々は素晴らしいと、すれ違うあの人の人生がいつか、いやもうすでに僕の人生と関係しているのかもしれない、世界はそんな風に回っているんだと思うとなぜだか嬉しい。

(碇本学)

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thegeese 1.jpg ザ・ギース(THE GEESE)はコントのワークショップで知り合った高佐一慈と尾関高文の2人組のコント師。シティボーイズに憧れていたという通り(同じ事務所に入った)、シュールな設定とそれでいてベタなギャグも織り交ぜたネタが持ち味。本DVDは第6回単独ライブを収録したもの。

1本目の「テレパシー美容室」は、テレパシー能力を持った者同士が美容師と客として出会い、表向きの会話とテレパシーでの会話が同時になされる。2つの筋が交錯していく様はギースの持ち味が十二分に出ており、このライブへの力の入り様が感じられる。
「じゃない方OL」は、前回公演『Dr.バードと優しい機械』での「逆」(言葉の意味を逆に受け取ってしまう癖がある男のコント)のバリエーション。シュールな設定を噛み砕いて再構築しており、彼らのファン以外へも伝わりやすくなっている。
「CUT」は短い1シーンが演じられた後に「カット!」の台詞で新たなシーンに移り設定が上書きされていくもので、後半の畳み掛けと伏線の回収が見事で、力と技を存分に味わえる。
1番の大作はラスト(※)の「大人の階段」。中学生が、実在する"大人の階段"を一段ずつ上るにつれて実際に成長していくもの。段の高さによってキャラクターが変わっていく様が素晴らしい。

この公演は2010年4月に新宿シアターモリエールで8回に渡って行われた。若手芸人としては珍しい長さで、全回がソールドアウト。テレビでの知名度自体はまだ高くないが、現場では着実に人気が上がっていることが分かる。以前REVIEWで紹介した『東京コントメン』などを初めとしてライブ活動も積極的に行っているので、DVDやテレビで観て興味を持った方には、地理的な条件が合えば劇場に是非足を運んでいただきたい。

 

*ライブでは「BOOKOFF2010」というコントがラストだったが本作では未収録。諸般の事情でカットされたと思われるが、他と比べて格落ちの感が強いネタだったので却って良かったように考える。

(サイノマコト)

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  houhou_douu.jpg 新鋪美佳と福留麻里によるダンスデュオ、ほうほう堂。2人ともに身長155cm。

 この2人のダンスを観ていると、よろこび、という言葉が浮かんでくる。

 まずは振付。小柄な身体全体を使ってダイナミックに踊ったかと思えば、リズムに乗ってユーモラスな動きをする。仕草も含めたチャーミングさは凶悪ですらある。
屋外へ突然走り出たりといった自由な展開は観ている者へインパクトを与えるのだが、ただそれだけに止まらずストーリーをきちんと完結させるため、独りよがりのものではなく、外に向かって開かれている。
 また、劇場だけでなく、日常風景の中でも踊っていることも重要。例えばそれは喫茶店であったり、ビルの屋上であったり(観客は他の建物から観る!)、町なかにある大きなサボテンを仰いでみたり。彼女たちにとって、ダンスが非日常的なものではなく、生活と地続きであるという印象を受ける。
こういった全てのことが、内にある感情を自身の身体を通して、文字通り等身大で表現していることを、表現するよろこびの感情を伝えてくる。

 最近では、同じ振付を複数のDJのプレイで踊るという、「ほうほう堂 vs DJs!!」という企画を行っている。同じ動きなのに見え方が変わる刺激的な試み。次回は7/24、六本木SuperDeluxeでの「WOSK」にて。まずは、毎月更新されているサイトの映像を観ていただきたい。

 にかスープ&さやソースとのコラボレーションを通してご存じの方もいらっしゃると思う。最近でも『HEADZ 15 Anniversarry』(2010/05/28@O-nest)でテニスコーツとのコラボレーションが行われた。お互いが次にどんな手で来るのかという手合わせをその場で行いつつ観客の前で演じている緊張感と、それでいてゆるっとしたユーモアが同居しているもので、観ているほうも両方の空気をそのまま味わう素晴らしい舞台だった。「バイババビンバ」は元々優しく開放されている曲だが、この時の共演は祝祭感を纏っており、とても善い時間だった。

 

公式サイト
http://hoho-do.net/


(サイノマコト)

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hataraki_man.jpg 「オレは仕事しかない人生だった。そんなふうに思って死ぬのはごめんですね」と、登場人物のひとりが言う。それに対し、主人公の松方弘子はこう言う。「わたしは仕事したなーって思って死にたい」。どちらも正しいと僕には思える。いや、どちらが正しくて、間違いなのか、といったものはないのだろう。ただ、漫画『働きマン』の帯には大きくこう書かれている。

「僕らはみんな働くために生きている!」
 
 生きるため(生活のため)に働くのではなく、「働くために生きている」とは、かなり大胆な発言だが、この漫画で描かれているものは働くことに生きがいを感じる女性編集者の、まさに大胆この上ない仕事ぶりである。
 
 安野モヨコという漫画家は恋愛漫画を描いていたが、『働きマン』に恋愛事はあまり出てこない。ひたすらに、仕事、仕事、仕事である。週刊誌「JIDAI」の女性編集者である松方弘子は、一生懸命というより、死にもの狂いで、と書いた方が適切と思えるほど仕事に打ち込む。その結果、スクープを取るなど、雑誌に貢献している。自分が体験したものを他の誰でもない自分自身で判断し、ありのままを記事にする彼女の姿勢は素晴らしいし、「これは絶対に記事にするべき」という発言や行動もまた潔くて素晴らしい。そして何より松方弘子にとって、自分の仕事である原稿書きや編集が認められたときこそ、最高に快感を覚える瞬間なのだ。
 
 しかし、ときとして、主人公の過剰な必至さがあだとなり、自分を見失う場面がしばし見受けられる。そんな中、上司の励ましや、取材相手の言葉にハッとし、今まで以上に精進するなど、人との出会いにより、タイトルで言うところの「働きマン」(決めポーズはウルトラマン)としてさらに成長し、仕事を達成することで自分の存在価値を得ている。いわば取材、編集を通じた人間の成長を描いている漫画だ。
 
 数年前に転職を煽る広告がネットにおいても電車内の広告においても多く見られた。そして、いわゆる転職ブームなるものが起こった。それは「僕には、私には、もっと自分を活かせる職業があるはずだ」という空気であり、その空気は今もあると僕は感じる。自分がやりたい仕事をやれば、それが自らの存在を証明し、いわゆる生きがいという価値を得ることができるという自意識。しかし、安野モヨコは『働きマン』でそれを描かない。あくまで与えられた編集者・ライターという仕事の中で、登場人物自身が生きがい・やりがいを見付け出す様を描いている。
 
 主人公の松方弘子は編集者という仕事に満足はしていないが、だからといって他の職を探すことはしない。満足できないのは仕事のせいではなく、満足できるほど編集・ライターという仕事に打ち込んでいないからだ、ということに主人公が気付くのだ。これは他人事ではなく、僕にグサッと刺さった。
 
 理想の仕事を探し転職することは悪いことでも何でもない。しかし最も重要なのは、「どんな仕事をするのか」ではなく、「与えられた仕事の中でどのように生きるのか」である。人の為に職があるわけではない。職の為に人がいるのだ。天職という言葉があるが、もし天職という言葉を使うのならば、たとえどのような職であろうと、その職の中で自分の存在価値を見付けられた瞬間が、天職と感じられる時ではないだろうか。僕はそれを、帯に書かれていた「僕らはみんな働くために生きている!」に対する解答としたい。

(田中喬史)

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thelike.jpg パッとジャケットを見た限り、どこからどう見ても2010年のアルバムとは信じがたいデザイン。スウィンギン・ロンドン? モータウン? 即座に想起させられるのは麗しの60年代ポップス黄金時代。フランス・ギャルもビックリなメンバー4人のルックス偏差値のハイスコアっぷりも、彼女たちのとっている決めポーズも、どれもいちいち素晴らしい。出来ることならCDでなくアナログ盤で所有して部屋に飾りたくなる。

 しかし一方で、メンバー各々の衣裳に≪LIKE≫とゴシック体で書いてしまうセンス。これはとても2010年の気分を感じさせる。うまく言えないけど、たとえばOK GOの最近出したPV(「This Too Shall Pass」)がとても今っぽいというのと同列の意味で今の気分。

 どんなレコードも基本的にそうだが(例外もままあるが)、ジャケットは音を裏切らない。とはいえ大半は《ジャンル的には》裏切らないという程度の話でしかないなかで、見た目に対する期待を裏切らないどころか大いに上回るクオリティーの作品となるとイマドキ随分珍しい。ロネッツからダム・ダム・ガールズまでに通じる甘酸っぱい疾走感をもった、ジャケットの世界観そのままの60年代マナーなガレージ・ポップがアルバムのほぼ全編で展開されているが、特筆すべきは楽曲のテンションと完成度が異常なまでに高いこと。そして、先述のとおりで音のほうもこの手の意匠を貫きながら強く「今」を感じさせるところも目を惹く。

 プロデューサーがマーク・ロンソンというのも興味深さに拍車をかけている。広義の意味でのポップスに関して、過去から現代に至るまでの抜群の教養と応用能力をもつことで知られる人物だ。彼のもっとも有名なプロデュース・ワークであろうエイミー・ワインハウスの『Back To Black』で披露されたソウル~R&Bから多岐に渡るブラック・ミュージックの引用/咀嚼と現代的解釈に基づいたアプローチが、本作ではそのままガールズ・ポップに品を変えて応用されている。とろけそうなバブルガム・ポップ的コーラス・ワークを始め、ツボを押さえた匠の技が目を見張る。

 バンド側もしっかり彼の仕事に応えている。メロウでときおり歪まされる音色が白昼夢のようですらあるオルガンのフレーズや、モッズ・バンドやリバプール・サウンドからインスパイアされた(というか拝借スレスレ)であろうソウルフルなベース・ライン(楽曲でいえば特に「Narcissus In A Red Dress」辺りに顕著な)の存在感は格別だが、弾いている二人はどちらも新メンバー。間違いなくこの路線を貫くためのメンバーの入れ替えで、彼女たちは劇的なまでに活躍している。

 楽曲のもつ現代性をより引き立たせているのは彼女たちのもつ先天的なセンス。そもそも、このバンドの音楽性はかつてぜんぜん異なるものだった。バンビちゃんジャケが愛らしかった4年前のファースト・アルバム『Are You Thinking What I'm Thinking?』は、適度な攻撃性が心地よく、売れる要素としての人懐っこく大味な「ヌルさ」も併せもった(これは誉め言葉)メインストリーム向けのオルタナ・ロックで、まったくこんなにレイトバックしてなかった。そんな出自でもある彼女たちの紡ぐメロディ・ラインは、特にサビにおけるフックの捻り方において、60年代ポップを気取るにはどうにも垢ぬけすぎているが、何度聴き返しても飽きさせない享楽性を楽曲に孕ませている。収録曲全体でも随一の疾走感を誇る「Trouble In Paradise」辺りはもはや完全に、いい意味で「フツーのインディ・ロック」。うわべの模倣の完成度と隠せない地の部分の強固なまでの不一致、オールド・タイマーなノリと今っぽい気分の衝突が、楽曲にアンバランス且つワン・アンド・オンリーな推進力をもたせている(この辺は、アークティック・モンキーズの前座も含めて長年ツアーを回った成果もあるかもしれない。実際、アレンジの装飾を抜きにしても、前作と比べてサウンドがとてもタフだ)。

 そして、この手の志向を標榜するバンドの多くが陥りがちな内向的オタク性とも、最近のバンドでいえばザ・ドラムス辺りがもっている過去の音楽への病的なまでの郷愁と執着心とも本作は無縁だ。あくまで「ただ何となく好きだからノリでやってる」というスタンスが心地いい(別にオタク系バンドが悪いとは言わない。むしろ大好き...だけどね)。

 この辺の根の軽さは、彼女たちのセレブリティなバックグラウンドから起因する余裕から生じているのかもしれない。元々、オリジナル・メンバー三人は著名なミュージシャン/プロデューサーの娘たちで(シャーロット・フルームのみ前作リリース後に脱退。彼女はあのミッシェル・フルームの娘...)、本作に収録されたシングル曲「He's Not A Boy」のあまりに浮世離れしてスウィンギンなPVを撮影したのがコッポラ・ファミリーであるGia Coppolaで。名だたる大物バンドとツアーを回っていたり、先述のマーク・ロンソンとドラマーのテネシー・トーマスは過去に付き合っていたり。そのテネシーは「HOT FUZZ」「ショーン・オブ・ザ・デッド」で日本でも知られる映画監督、エドガー・ライトの新作「Scott Pilgrim vs. The World」にも女優として出演しているそうだ(これは素晴らしい。というか早く観たい!)。

 話が逸れたが、そういった今も昔もある程度の天真爛漫が許される環境にいたからこそ、リカちゃん人形的着せ替え気分で選んだ今回のモードがたまたまコレだった、というちょっとした趣味性でしかない確固たる芯の不在が逆に痛快でもあり(とはいえ、親が親だけに過去の音楽への聴き込み方もまた半端ないレベルだろう)、全く頭デッカチにならない風通しのよさを生む要因となっている一方、次回は次回でまったく違うことをしそうでありつつ、バンドが今回選んだ進路を突き進む為には容赦なくメンバーを入れ替え、適材適所でVIPを据え、見た目から演奏に至るまで選択したモードを徹底する意志の強さも逞しい。ユニークなバランス感覚をもったバンドだと思う。

 そういう意味で偏ったジャンル物の落し込み方として、ピペッツ(こちらもフロントマン全員総入れ替え後、初の新譜がもうすぐリリース!)やラッキー・ソウルにもたしかに近いが、それ以上に『エクスターミネーター』までのプライマル・スクリームのノリを少し思い出した。当たり前の話ではあるが、ここまで極端なコスチューム・プレイが誰にでも許されるわけがないのだ。にしても、フロントマンのZ・バーグ始め各メンバーはすっかりハマリすぎている。可愛い。超可愛い...。

 いずれにせよ、本作に関してはあまり小難しいことを考えず、出来るかぎりの爆音で聴き、音楽に合わせて踊りまくるのが正しい鑑賞法だろう。ほぼ全曲クラブ・ユースに耐えうるし、YouTubeで観た限りライブも物凄そうだ(どうか来日を...)。ポップスの旨みと軽みを今一度思い出させてくれる、本当の意味での感動作。

(小熊俊哉)

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SVIIB.jpg 2008年10月にリリースされたファースト・アルバム『Alpinisms』に衝撃を受けて以来、翌年明け深夜に代官山UNITで行なわれた初来日公演、サマー・ソニック2009での初日ソニック・ステージ1発目、そして、昨年暮れに英国マインヘッドで行なわれたAll Tomorrow's Partiesのスピンアウト的フェスNightmare Before Christmasの最終日ヘッドライナー(キュレーターであり、メイン・アクトでもあるマイ・ブラッディ・ヴァレンタインより後に登場!)と、ここ1年あまりの彼らの活躍を要所要所で目撃してきた筆者としては、個人的にも非常に思い入れの深いバンドである。元シークレット・マシーンズのベンジャミン・カーティスと、元オン! エアー! ライブラリーのアレハンドラ & クラウディアの双子姉妹による3人組ユニット、スクール・オブ・セヴン・ベルズ。セカンド・アルバムとなる本作は、そんな彼らのここまでの成長の跡がしっかりと刻まれた力作である。
 
  タイトルは、ブライアン・イーノが画家のピーター・シュミットと考案したカード・ゲームの一種「オブリーク・ストラテジーズ」に記された一節を借用したもの。「願望(情熱)から切り離せ」とは一瞬ネガティヴな印象を受けるフレーズだが、作業が煮詰まるたびにこの言葉を思い出しながら本作のレコーディングを行なっていたというベンジャミンにとっては、むしろポジティヴな意味合いとして捉えていたようだ。この、少々仏教的な響きが彼らのオリエンタルな要素に何かしらの影響を与えた...と考えるのはいささか深読みが過ぎるとしても、聴き手に圧倒的な多幸感を与えつつも、決して熱くならないクールな佇まいや楽曲の数々は、まさしく『ディスコネクト・フロム・デザイア』という言葉に象徴されていると言えよう。
 
 ポップかつ幻想的な(彼らの歌詞の大部分は、アレハンドラの見た夢を書き記したものが基になっているという)メロディとハーモニー、シンセサイザーとディストーション・ギターの融合、リズムマシンによるタイトかつトライバルなグルーヴ。そうした彼らの軸となるサウンド・プロダクションは、これまでの延長線上にあるものだが、本作は格段に「開いている」印象を受ける。どちらかと言えば閉じた箱庭的な印象の強かったファーストと比較すると、今作は1つ1つの音を、確信を持って鳴らしているように感じられるのだ。

 例えば、シンプルなリフやメロの反復がキャッチーで心地良い「Windstorm」(先行シングル)、疾走感あふれるエレクトリック・ビートと双子姉妹の美しくも妖しいハーモニーが絡み合う「Heart Is Strange」や「Dust Devil」、コクトー・ツインズ直系の耽美サウンドが胸にしみる「I L U」や「Dial」など、どの曲もライヴとフェスで鍛えた演奏力や表現力が力強い武器となっている。前作の「Half Asleep」のような、聴いた瞬間に心を鷲掴みにされて何処かへ連れ去られてしまうほどの、圧倒的な力を持つ楽曲は少ないかも知れないが、アルバム全体で聴いたときの「開放感」や「高揚感」は間違いなく本作に軍配が上がる。そういう意味でこの2つのアルバムは、MGMTのファーストとセカンドの関係にも似ているのではないだろうか(どちらのバンドも、セカンドの方が繰り返し聴き込む回数が増えそうだ)。
 
 一般的に、「ロック~ポピュラー・ミュージックのアルバムは、セカンドが勝負」と言われる。デビューまでに用意してきた様々なアイディアを一度に披露出来るファーストに比べると、ゼロから作り始めなければならないセカンドは、そのアーティストが持つ本質を露にするからだ。「ディスコネクト・フロム・デザイア」というキーワードを頼りに、本来の自分たちを見失わず渾身のアルバムを作り上げたスクール・オブ・セヴン・ベルズ。彼らは、その「勝負」で見事勝利を手にしたようだ。
 
 なお、日本盤にはボーナス・トラックを2曲収録。初回限定盤は、歌詞付タロットカード11枚が封入された、スペシャル・ボックス仕様になっているので要注目である。

(黒田隆憲)

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scissorsisters.jpg 予想通り、なんていうと聞こえが悪い。それは重々承知している。だが、シザー・シスターズと、ザ・キラーズ『Day & Age』を手がけたスチュアート・プライスがタッグを組む、といったら思うことはひとつ。セカンド『Ta-Dah』収録の「I Don't Feel Like Dancin'」で見せ付けた特大のアンセム力を目一杯、伸ばす。実際、その通りだった。だが、両者のハマりっぷりは想定の範囲を遥かに超えていた。

 「今夜はゴムが必要」(「Whole New Way」)なんて、卑猥さフルスロットルのリリックもシザーズならではで笑わせてくれる。それに、ペット・ショップ・ボーイズにビー・ジーズ、そしてフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドといったバンドのポップさに、ちょっとだけ『Low』期のボウイの実験性を取り入れたハイテンションには、こちらもノるしかない。キレッキレのハイトーンのヴォーカルに、80'sディスコ直系のグリッターなビートに比肩できるアクトはなかなかいないだろう。

 サンティゴールドが作曲に参加し極上のグルーヴを展開する「Running Out」や、スリリングにアルバムを締めくくる6分の大作「Invisible Light」など、一切捨て曲なしの豪華ぶり。だが何より、極めつけは先行シングルとなった「Fire With Fire」。はっきり言ってしまえば、シザー・シスターズ版「Human」(もちろんキラーズですよ)。前半の静かなイントロから一気にバーストするところといい、メロディラインといい、使い回しじゃん、というツッコミを入れたくなるのも分かる。とはいえ、いいものはいい。間違いなく2010年のアンセムの1つになることは確実だ。

 オリジナル・ドラマーのパディ・ブーンの脱退という悲しい出来事あり、一度作った作品をボツにされ新たに全て録り直すという苦労あり、の結果、よくぞここまでハジけることが出来たと思う。この作品が2010年最もエキサイティングなパーティー・アルバムの1つであることは間違いないし、紫色のキラめき120%の出来には快哉を叫ぶばかり。あえて言うなら、欠点はオシリどアップのジャケ写ぐらい、か。

(角田仁志)

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Feyz.jpg 完全に一皮剥けた! 突き抜けている! いきなりよくわからない手放しの賞賛から入ってしまったが、聴いているあいだ、ひたすら拳を握り締めたまま意味もなく何度もガッツポーズをとりたくなるような音源となんて、片っぱしからCDやレコードを聴き漁っていてもそうそう巡り会えるものでないのだから許してほしい。極彩色の散りばめられたジャケットが何より力強く表明しているエレクトロ・サウンドが、27分弱の収録時間において終始フルスロットルのまま、一瞬も弛緩することなく怒涛の勢いで迫ってくる。本当に好盤。まずはここで彼らに対して全面支持を表明しておきたい。

 既に雑誌時代のクッキーシーンでも取り上げてきているが、改めて紹介を。Paraele Stripesは福岡を中心に活動している二人組のエレクトロ・ユニット。爽やかであどけない顔立ちながら獰猛な攻撃性も内に秘めたアメリカ帰りのヴォーカル、MARS(イケメン)に、丸っこく大柄、しかも引き篭もり気質でゲーマーだという松下(ヲタ)の組み合わせもキャラが立っていて素敵だ。そもそも、MARSと松下なんて名前もそうそう共存しえないだろう。

 ルックスもそうだが、こと音楽性においても「エレクトロ≒気取ったオシャレ」という、00年代に確立された安易な図式とはちょっと距離をとった佇まいも個人的に好感を抱いている。耳馴染みよく聴こえるよう小手先の洗練を目指す代わりに、勢いと疾走感を重視した粗めのサウンド・プロダクションが際立ったオリジナリティーを見せ付けている。冒頭の「Prototype」にそれはもっとも顕著だ。イントロで聞かれるヴォコーダーを介したロボット・ボイスから、ニュー・オーダーとダフト・パンクを同時並列で想起させられるいなたいメロディーがソウルフルな英語詩ヴォーカルに乗って飛び出してくる。アッパーでノイジーなバック・サウンドも強烈だが、「アッアッアー」と力任せに挟まれるコーラス・ラインが何より涙腺を刺激する。この曲は(先にリリースされたシングル『De:Prototype』収録の別アレンジだが...)バンドのmyspaceで視聴可能なので是非とも聴いてみてほしい。最高のパーティー・チューン。

 この、限りなくシンプルにエモくてパワフルなサウンドはそれこそ、今となっては「デジ・ロック(笑)」とバカにされて一蹴されることの多いものの、最高にメロディアスで尖った楽曲に溢れていた90年代ダンス・ロックを、00年代内向の時代を経て熟成させ、2010年型にアップ・グレードしたようでもある。日本から欧米のダンス・シーンを一歩引いて見渡した批評眼も反映されているし、ブンブン・サテライツのような日本のバンドの影響も見られる(もっとも、アチラと比較すれば遥かに繊細な音楽性であることは、両者のバンド名を比較すれば一目瞭然だろう)。続く「In Reach」「Take Down」といった楽曲も勢いそのままに駆け抜けていく(「テイク・ダーーーウン、イェー!」なんてベタなフレーズの連呼は、<Kitsune>系バンドやフレンチ・エレクトロ勢は到底やりたがらないだろう。このベタさが最高なのに)。

 ここまでだと「時代錯誤な連中なのかな?」と思われかねなさそうで心配だが、「日本からのポスタル・サーヴィスへの回答」と謳われた(実際、明らかに色濃く影響を受けている)内省的ポップ・エレクトロニカ・アルバム『Phirst Tense』(こちらも秀逸な内容!)を2007年時点でリリースしていて、ときにはアコースティック・ライブも披露する(!)彼らはさすが引き出しも多い。楽曲でいえばメロウでスローなイントロから入る「518」辺りに過去の名残りも見え隠れするが、サビでの爆発は筋の通った現行の彼らのモードを再確認させて頼もしい。点滅するキュートな電子音と太いベース・ラインの印象的な「Love」、8-bit的な音色とサビの小慣れた転調が面白い「Musiq」、最終曲のパンキッシュ・エレクトロ「4th Night」と、飽きさせない趣向を凝らしながらもEP全体に統一感があり、自分たちに見合った音楽的文法を発見したことに対する悦びと幸せに満ちている。冒頭の「突きぬけている!」というのはつまり、そういうことだ。進むべき道を迷わず突き進んでいる人たちの作る音楽がつまらないわけがない。

 唯一、贅沢な不満を挙げるとすればライブでの鬼気迫った荒々しいテンションを更にもう一押し反映してほしかった...というところだが、これは録音が物足りないというより、それだけライブが凄すぎるという意味で。福岡のバンドなだけ東京や他地域のファンはなかなかお目にかかるのは難しそうなところはあるが、ライブでは音源を余裕で上回る、跳ねて暴れての演奏が繰り広げられる。リリース・ツアーも控えているようなので、このEPを繰り返し聴き込みながらその日まで想像を張り巡らせてほしい。


(小熊俊哉)

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polock.jpg  日本でも人気急上昇中のデロリアンも所属する、スペインのMushroom Pillowからのデビューとなったヴァレンシア発の5人組インディー・ロック・バンドのファースト・アルバム。プレイ・ボタンを押して1曲目の「High On Life」が流れた瞬間から、何だかドキドキが止まらない。太陽ギンギンの真夏のアスファルトの上をスイスイと自転車で走り抜けるような、爽やかな青春時代を呼び起こす、ちょっぴり切なくて甘酸っぱいあの気持ち。その何とも言えない気持ちに拍車をかけるかのように、「♪1、2、3、4、5~」と軽快な歌い出しでキラッキラと眩しいメロディが炸裂するキラー・トラック「Fireworks」が続く。程よくキレのあるバンド・アンサンブルと、フックの効いたダンサブルな曲展開も良い。その後もこれでもかと至極のポップネスをズラリと並べて、こちらはもうメロメロ。ずっと置いてきぼりで長らく忘れていた大切な何かを呼び起こしてくれる、そんなマジカルなグッド・メロディとグッド・ソングが詰まった、この夏にぴったりな1枚です。

 (星野真人)

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qururi.jpg ソシュールの概念としてラングとパロールというものがある。

 ラングは「言語構造」で、パロールは「言語現象」と訳すことが出来るが、簡単に説明すれば、言葉の、聴覚で聞く音列や目に見える文字列には、無数のパターニズム(ミームではなく)、様々なテクストが作ることができ、そのテクスト内には予め言い損ねたものや不完全な部分も含まれる。これらの実際の言語の表面現象をパロールと言い、その無数のパロールを生成している言語の本質としての言語能力がラングと表象出来る。ラングは或る程度、「一定した体系」を、保持して、ラングが無数の非限定的なパロールを生成する。だから、ラングというのは、概念であって、実体はない。ラングが実体として現れたものがパロールだとしたら、「くるり」と発語したとき、それは本当に「くるり」なのかそれぞれの記憶の中の何か指すのか、全くの記号を示唆するのか、分からないことになる。だから、実際にはパロールしか確認できず、そこからラングを仮定する作業しか出来ない。

 くるりというのは「バンドだが、バンドではない」のはそういう意味も含む。

 それは来し方を振り返れば、分かる。立命館大学でのサークル時代の形式からインディーズでのデビュー、「東京」での或る種、大文字の記号としての全国進出、ジム・オルークと組んでポスト・ロックを模索しながら、明らかにミレニアムの狂騒のモードをシニカルに切り取った『図鑑』、ダフト・パンク、アンダーワールドのユーフォリアに影響を受けて、急激にダンス×ロックのエクレクティズムに走った「ワンダーフォーゲル」から「ワールズエンド・スーパーノヴァ」の流れ。サークルの先輩だった大村達身氏を入れて、民俗音楽や辺境の音楽にインスパイアされながらも、どうにも散漫になった『The World Is Mine』。そして、ここで、実質、くるりは「終わる」。初期メンバーのドラムの森氏が抜けたのもあるのだが、長い沈黙があり、同世代的なシーンを彩ったスーパーカーやナンバーガールといったバンドの活動を停め、バンプ・オブ・チキンやアジアン・カンフー・ジェネレーションといったバンドのブレイクにパラダイムが容赦なく変わる中、03年に出された「How To Go」というシングルはとても象徴的なヘビーなリフを持った重厚なロック・チューンになった。そのままクリストファー・マグワイアのアタック感の強いドラムを入れての『アンテナ』におけるプログレ、セッション指向は明らかに孤高でもあったし、当時観たライヴでのジャムは時に、もう「くるり」という記号体を拒否するかのような密室感と共犯性もあり、辛くなることもあったが、それでも、彼等は(ロックン・)ロールしてゆくことを辞めず、60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンの3分間ロックに魅了された05年の『Nikki』においては、まさかの「Baby I Love You」という彼等にしてはレイドバック、大文字過ぎると言えるかもしれないシングルも含みつつ、セルアウト/バーンアウトの際どい境目を潜り抜けた。

 ベスト・アルバムでの総括を経て、愈よ岸田氏と佐藤氏だけの二人に正式メンバーになったしまった折、日本のロック・バンドとしては異例にして初のウィーン録音へ飛ぶ。07年のシーンの一端を射抜いたクラシックとロックのハイブリッド性、そして、もう「くるり」という記号が音楽を結び付けるのかもしれない、という純然と「音楽」だけが前に現出した『ワルツを踊れ』で、ハイブロウなブレイクスルーに成功する。勿論、このブレイクスルーは「内破」の文脈であり、J-POP、J-ROCKの持つ大雑把な荒さを対象化した上で、内側から蹴破ろうとする野蛮さがあった。

 何より、くるりが常に興味深いのは都度、一旦、「終わる」ことであり、それはレディオヘッドが次の一歩を進むために、寧ろ過去を否定するように、昨年のブラーが自分たちを清算するのにあれだけの時間が必要だったのと同じで、次を想うあまり、昔さえ相対化してしまう律義で危うい部分があり、そこが逆説的にいつも興味深く、その都度のモードがマニフェストになってしまうというエッジを孕んでしまうのだが、『ワルツを踊れ』とその関連のライヴ後は本当に、一歩でも進めるのか、もうここで何もかも終えてしまうのではないか、という感覚はあったし、僕自身、ここまで来たから、もうくるりは十二分に役割期待を果たしたという慰労の念さえ持っていた。案の定、その後のライヴでの新曲群は裸身のラフなものが多く、反動というよりは、もうシンプルにバンド・サウンドを鳴らすしかないという所まで追い詰められていたとも言える。実際、NYで録られたものの、洗練というよりはアーシーでダウン・トゥ・アース的な風情を持った09年の『魂のゆくえ』では、全くシーンへの目配せは無く、くるりの「くるり」自体への浄化作用だけが働いており、岸田氏と佐藤氏の「関係性」がフロートするようなものになっていたのは周知だろう。但し、キャリアも10年以上も越えてきており、自らイヴェントを主催しながら、都度のモード・チェンジにより、ファンを置いていったり、連れてきたりした傷が膿んでいた気配が露骨に表れていたのは辛かった。

 そして、僕は「くるり」を確認出来なくなった。

 それはパロールとラングを合わせてランガージュに「なる」、という文脈もあり、目に見えるパロールとしての彼等ではなくその奥に隠れた見えない本質であるラングを可視化する意味が敷けなくなった。そんな中、今年のB面集とその関連ライヴに対峙したが、何故かそこには清清しさが漂っていたのが妙に不思議だった。三人でラフにバンド形式で昔の曲(しかも、B面の曲)をやりながら、そこにノスタルジアは無いものの、何故か、98年の頃に観た京都の小さいライヴハウスでの無名時代の彼等と変わっていない音がふと頭に浮かんで、胸にくるものがあった。

 そのライヴでも披露された新曲にして、次のアルバムのリード・シングルとなるのが今回の「魔法のじゅうたん」だ。非常に既視感はあるが、アルペジオが美しい清冽な8ビートの切ないラヴソングになっており、BPM的には120台でメロディーはティーンエイジ・ファンクラブやマシュー・スウィート辺りの「ポップ」を参照にしながら、何となく現在進行形のザ・ドラムスやザ・ヴァンパイア・ウィークエンド辺りの軽快さが漂っているのが「らしい」曲になっている。歌詞は「君との距離」をモティーフしている切なさを孕むが、その「君」はくるりの場合は明確に恋人であったり、家族であったり、友達であったりするだろう小文字の具象性を帯びているのがはっきりと分かる。兎に角、最近の大文字の記号論としての余白を許さない「君」への想いへの対立項とした曖昧なままに、余白を残し「君のことたくさん知ってるつもりだった」のに、「こんなにわからなくなる」と歌う。また、今回初の両A面シングルとなる片方はユーミンと組んだブギー・チューン「シャツを洗えば」をくるり版で再構築している。

 過去にないくらいのポップな輝き方を持つ二曲が並ぶシングルになったが、B面集のタイトルからして『僕の住んでいた街』だった訳だから、ここには「無邪気さ」は全くなく、どうにもくるりでしかない構造を保つ為の一定の熱量のエントロピーが働いている。構造は一定なのだが、それが無限の現象を生成するという見方をするならば、来るべき新しいアルバムは大文字の社会や文化的な個々の現象背景を掬いあげるような「何か」を示唆するものではないのだろうか、期待出来ると思う。


(松浦達)