reviews

retweet

morningbenders.jpg 信じ込むこと、これは怖い。カリフォルニア出身の4ピース・バンド、モーニング・ベンダーズの本作を初めて聴いた時は、アニマル・コレクティヴっぽいな(あくまで「ぽい」だが)、という印象が強かったのだが、聴いていくうちに、ちょっと待てよ、と、なったのだった。彼らの根底にあるものは、メロディ・メイカーとしての素質であり、凝ったサウンド・エフェクトも、ヴォイス・パフォーマンス的な歌声も、軸ではない。サウンドの表面の見せかけに、騙されちゃあイケナイんだ。
 
 軽快なステップを踏んでいるメロディ・ラインを盛り上げるところではきっちり上げる。エレクトリック・ギターのリフだって格好いいじゃないか。室内楽的なストリングスを淡くすることの幻想の粋が効いている。いや、それだけではなく、サウンド全体を淡くし、それと対比するかたちでメロディの良さを際立たせている。不協和音も聴こえるが、それすらも霧のようにうっすらと忍ばせアクセントになっているから面白い。メロディ以外は全て曖昧に加工されていて、それはやわらかく、聴いていると生まれたばかりの暖かい空気をかき分けて歩を進めている心地が浮かんでくる。
 
 アルバム後半ではスリントやモグワイを思わせる音楽性を、やはりやさしく、やわらかく押し出し、安堵という興奮が静かに浮かび、暖かい轟音の中で眠れそうなほどの音のなかでいつしか我を忘れてしまう瞬間すらある。様々な音楽要素が見受けられるが、全面に押し出している曲は少ない。ブロークン・ベルズやグリズリー・ベアの前座を務めた彼ら。ジョイ・ディヴィジョンのカヴァーもやったのだから、きっと彼らには本作に収められていない領域があるはずだ。その領域とんでもないものだと、予想は付くが、あくまでも彼らは小出しに、これ見よがしに出すことはないであろうなと感じられ、音楽とともにその姿勢に潔さを感じるのだ。音楽シーンの中で際立った存在ではない。しかし、きらりと光るセンスに吸い寄せられる。

(田中喬史)

retweet

sonnets.jpg いや、これには、まったく、おっどろいたね、という感じのザ・ソネッツの『Western Harbour Blue』。(ここ日本にて1カ月以上先行で7月14日にリリースされる)。カジヒデキのコメントを引用すれば、「加速して世界中から現れる新世代のネオアコ・フォロワー。しかし彼らのスタカンなりっぷりには脱帽です! (中略)最高に気持ちいいです。」とのことで、いかにもカジくんが好きそうなアルバムだなと思うし、僕も好きだ。まさに夏に聴きたい爽やかなサウンド。清らかなメロディ。洋服セレクト・ショップで流れていてもおかしくないオシャレっぷり。あまりにもオシャレなサウンドとポップ過ぎるほどポップな音楽性に僕は驚いたのだった。(個人的に資料に書かれている「青春ネオアコ」という言葉の意味が全く分からないけれども)。
 
 五人組、スウェーデンで生まれ育ったこのバンド。ペイル・ファウンテンズやスタイル・カウンシル、ワム! などをルーツとし、室内楽的な響きをあくまでもポップに昇華。涼しげな歌声も気持ちが良い。ピアノもパーカッションも歩み寄るようにメロディに吸いついていくその様はメロディの大切さを語る。音の全ては丁寧に奏でられ、ラストの9曲目(国内盤はボーナス・トラック3曲収録)はまさにこれぞバラード。ドラマチックに歌い上げる。もちろんスポーティーな楽曲も聴きやすく、ストリングスが、すーっと伸びていき、コーラスも抜群。
 
 そんな本作は、絶対にCDウォークマンやiPodに入れて、散歩でもしながら聴けば、より気持ちいいことこの上なし。部屋で聴くより外で聴きたい作品なのだ。いや、外で聴くべき音楽なんじゃないかと思えるほどに、辺りの風景を瞬時に清々しくさせてしまうであろう音に溢れる。さらに言えば前述したように今の季節に丁度いいサッパリとした音楽性。実際に僕は部屋で聴いているより散歩しながら聴いた方が心地良かった。
 
 これって新たな音楽のカタチで、ポータブル・プレイヤーを持っていない方がめずらしいこのご時世にあって、本作はドライブしながら、散歩しながら、公園のベンチに座りながら聴いてほしいと言っている。間違いなく言っている。その意味では今日的な、あるいは近代的な音楽だと言えるだろうし、音楽の新しい聴き方ないし現代の音楽の聴取方法を明確に提示しているとも思える。彼等の音楽のテーマとなっているのは「何気ないの休日の始まり。でもちょっと高揚感のある爽やかな一日」とのこと。これには素直に頷ける。だからこの作品を持ち歩こう。常に持ち歩こう。そうすれば、僕らはいつも笑顔になれる。

(田中喬史)

retweet

art_school.jpg 今年で10周年を迎えたアートスクールが新たに提示する、今作のタイトルは「麻薬」あるいは「無感覚」を意味する『Anesthesia』。旧知の友であった志村正彦(フジファブリック)の死、共にツアーをまわり、度々共演していたスパルタ・ローカルズの解散、公私共に親交深かったポリシックスのメンバー脱退などの、木下を取り巻く様々な環境の変化を乗り越えて制作された今作は、全編を通して、今までにない濃密さをもった耽美さに満ちている。

 僕は、最初に今作を聴いた時、この耽美さにファクトリー・レコード周辺の古き良き80'sポスト・パンクあるいはザ・キュアーやバウハウスのような、これまた古き良きゴシック・ロックといったシーンやアーティストが描いたモノクロの世界を思い出した。木下のボーカリゼーションも、今までの絞り出すような、か細くも力強いそれではなく、ジョイ・ディヴィジョン的とも言える低音を活かした歌唱になっている。
 
 それらの特徴をふまえ、サウンド面は、まさしく木下自身も公言している通り、『Adore』期のスマッシング・パンプキンズを彷彿とさせる、バンド・サウンドとは一転した打ち込み主体のものになっている。これは木下自身が「バンドでセッションして作っていくことで濃度が薄くなってしまったものを、今はどうしても収めたくない」と言う思いによるものだ。また、そのプロダクションの上に、ニューゲイザー勢を通過したような酩酊感を伴った轟音ギターが重なることで、耽美さがより強靭なものになっている。
 
 ジャケットのアートワークも『Mellon Collie and the Infinite Sadness』期のスマッシング・パンプキンズのそれを思わせる儚くも物悲しい近世ヨーロッパの絵画のようで、作品の世界観がより伝わってくる。

 そのサウンドに乗せて木下が歌う詞は、「君を無くした僕」、「君に触れる事のできない僕」、そして「汚れて歪んだ世界をどうにか生き延びる君と僕」の姿だ。もちろん、熱心なアートスクールのファンは、これらは今までにも歌われてきた世界であることは分かるだろう。しかし、このアルバムで歌われている情景は、今までのそれよりも鮮明であり、濃い。「二人だけの世界か、あるいは死か」という、まさにザ・キュアーのロバート・スミスばりの切迫感をもって歌い上げているのだ。

 また、今作の各曲のタイトルもルシール・アザリロヴィック監督による、静謐な処女性を映した同名の映画を思わせる「Ecole」、そのルシールのパートナーであるギャスパー・ノエによる現在公開中のドラッグ・ムービー『Enter The Void』を思わせる「Into The Void」、デビュー当時のスマッシング・パンプキンズの同名曲を思わせる「Siva」など、相変わらず映画ジャンキー兼音楽オタクである木下による、ささやかなオマージュがみられるのも面白い。

 近年、試行錯誤を繰り返しながら色々なサウンド・アプローチに取り組んでいるアートスクールだが、今作は、アートスクール流の『マジックディスク』かも知れない。なぜなら、ここで歌われているのは、既に歌われた「羽根を焼かれた君と僕」の姿ではなく、どこに向かうか分からないけれど、お互いのことを完全に分かり合えないけれど、それでも手を繋いでどうにか歩き出そうとする「君と僕」の姿であるからだ。

 このアルバムで木下が示しているのは、ただの内省だけだろうか?

 「Waiting For The Light」のサビで木下はこう叫んでいる。「いったいどれくらい飛んで君に届くかなんて、分かるはずも無いけれど、逃げるつもりも無いさ」。

(青野圭祐)

retweet

thebitters.jpg ファックト・アップといえば、凄まじいステージ・アクションを見せる巨漢、ピンク・アイズがどうしてもすぐに浮かぶだろう。そのピンク・アイズのオタクぶりには尋常ならざるものがあるが(だって、日本のアンダーグラウンド・ハードコアまで熟知してるんですぜ!!)、ギタリストであるベン・クックも負けてはいなかった。ベンの趣向が全開に現れているのが、サイド・プロジェクトであるこのザ・ビターズだ。

 オルガンにドラム、シンセ、そしてサックスもこなす女性ヴォーカル、イーリン・フォーゲルをパートナーに迎えた2人組は、グランジ風のノイズを撒き散らし、クランプスを思わせるローファイなガレージ・ロックを繰り広げる。吐き捨てるような歌唱法といい、ささくれ立ったプロダクションといい、一歩間違えばただのゴミ、ともいわれかねない。

 だが、このバンドがブログメディアを中心にリスナーをひきつけているのはそのポップセンスにある。スウィートでフックの効いたメロディはポップだし、要所要所での男女ハーモニーはきっちりと息が合っている。特に、ハイライトとなる「Travelin' Girl」は激キャッチーな歌メロが印象的なナンバー。おそらく、初回ではジャンクすれすれのサウンドに耳を塞ぎたくなるかもしれないが、繰り返し聴くと新たな発見がある。そんな作品だ。

 シングルを大量生産してきて、今後もスプリットの予定がいくつもあるファックト・アップ。ベンさん、やりたいことをやりきったところで、この成果をファックト・アップへフィードバックしてくださいな。

(角田仁志)

retweet

billion voices.jpg 「初めに言葉があった...すぐ後からドラムと原始的なギターが続いた」そんなふうに聖書の言葉を引用しながら、自らの音楽を語ったのはルー・リード。そう言えば、七尾旅人もライブで「ワイルド・サイドを歩け」をカバーしていた。歌詞を日本語に置き換えたシンプルなアレンジ。オリジナルの印象的なベース・ラインよりも、登場人物たちに深い眼差しが向けられていた。その眼差しの向こうから、愛すべきオカマたちが言う。「坊や、ワイルド・サイドを歩きなさいヨ!」と。オカマたちの声がルー・リードの歌になり、七尾旅人に歌われて、また、オカマたちの声になる。「初めに言葉があった...」確かにそうかもしれない。その時、僕は愛すべきオカマたちの声を聞いた。

 そんなオカマたちの声に感化されてしまったようなサラリーマンが会社に辞表を叩きつける「I Wanna Be A Rock Star」で、このアルバムは幕を開ける。今は2010年。その姿をどこかで、誰かがYouTubeやUstreamで見ているかもしれない。その声は僕たちにも聞こえる。あるいは僕たちの声そのもの、なのかもしれない。10億の声がある。

 歌うことへの気づきとためらいが描かれる「One Voice(もしもわたしが声を出せたら)」、君の声をパソコンで探し続ける「検索少年」、ろくでもない風景がぶよぶよに肥大する「シャッター商店街のマイルスデイビス」と「BAD BAD SWING!」。前半は声をモチーフとした様々なイメージが描き出される。そして後半。「なんだかいい予感がするよ」からは、その声が今を語り始める。まるで夢からさめたように。そこには、暗がりに手を伸ばす男がいる。止めようもない時間の流れがある。過去と現在が交差する。そして、生命の誕生から未来へ。

 ジャケットデザインは偶然にもM.I.A.の新作と同じく、パソコンの動画画面がモチーフ。ウェブをフル活用したコミュニケーションや音楽制作への柔軟なスタンスなど、この2人のソロ・アーティストには共通する意識が感じられる。このプログレスバーが意味することは、たぶん「見る=自覚」と「動く=行動」ということ。まず、声を出してみよう。そして、誰かの声に耳をすまそう。

 初めに言葉があった...。すぐ後からフォークやブルース、R&B、そしてポップなエレクトロニカまでが続いてゆく。自由に。


(犬飼一郎 aka roro!)

retweet

heian_sento.jpg 平城京遷都から丁度1300年にあたる今年に向けて、古の都である奈良では様々なプロジェクトが推し進められており、その中の一環にオフィシャル・キャラクターの発案、その後の紛糾という問題があったのは周知だろう。

 鹿の角が生えたお坊さん、せんとくんがその姿を現したときは圧倒的に「違和」しか取り囲まなかった。「仏様を侮辱している」、「フォルムが気持ち悪い」、そんな意見が「前」に出され、裏では「別にこの可愛くなさがいいのでは」という諦念的な集合的無意識、つまり、「どうでもいい」が取り囲む中、ゆるキャラのブームの流れの中、僕は08年に彦根でのゆるキャラのフェスティバルに行ったことがあったが、とても無為でそれが故に、健康的だった。

 僕が、ゆるキャラに求めるのは「大いなる徒労」と「大の大人の知恵を尽くした結果の、ローファイさ」と「アシッドな郷土精神」という側面に集約される。捻って提出したつもりの造詣があまりにも歪だったり、シンプル・イズ・ベストでもなかったり、ザ・ビートルズもセックス・ピストルズも最初から対象化していたら、いつの間にかKISSへの周縁を巡ってしまうようになったり、とその迷走が面白い訳であって、あれだって、役所の方々、クリエイター、広告代理店など多くの人の知が集っての「結晶」であり、その後の導線付けも何かしらの意図も含んでいる。それが市場に出た際の、せんとくんは酷かった。たまたま、彦根の際にせんとくんが出て踊っているステージを見ていたら、何処かのTV局のアナウンサーがマイクを向けてきて「せんとくんのどこが好きですか?」と言われたのでは、「いや、好きではないです。」みたいな意見を返した。「好きで何かを見る」のはそういう簡単な行為ではないし、「良い」の反対が「良くない」だとしたら、「悪い」というのはもはや自意識固着の視野狭窄の中でのYES/NOになってしまうような気がして、僕はゆるキャラの「カウンター」というものはメインストリームが盤石でないといけないと思ってもいるし、「カワイイ」で全部片付く世界じゃない。そういう意味で言うと、誰も「メイン」じゃない中での、ゆるキャラたちのあまりにUSインディーロック的な脱臼精神には精励された気もしているのは確かだ。

 そういう意味で、多くの時間をここで過ごした記憶はあるものの、恩恵は然程感じない平城遷都1,300年祭に先頃に、足を運んできた。平城京跡は広大な空き地という感じで、近鉄の大和西大寺駅から団地を歩いて、すぐに主要会場に着くことができる。昔の都。

 「都」という事で、ふと想いを馳せてしまう。

 近代では民主主義というのは「民主国家」と密接的な連関を持っていた訳だけれども、国家の権限範囲と役割の分化次元を弁えないといけない、となると、「グローバリゼーション」ってのは諸国家の基準値を平準化し、均したというオプティミストが居たりして、でも、その際は「オルタナティヴィティ(二者択一性)」の中でのストラグルが前提だった言える。グローバル社会のポストとして「帝国」って置かれたのだけれども、「帝国」、ってのは、国境を無化するというより(認可する)、柔軟にして移動・行き来可能な国境しか認めない限界なき主権フォルムってことで、君主政治、貴族政治、民主政治という三列を「越境」する為に、現代における「帝国」は君主政体的であり、しかしながら、精緻に「帝国」は貴族政治と言えるのは、限定されたエリートやインテリがそれらを廻しているという証左が示している。ただ、諸国家権力の「中心性」への希求を脱構築する試みを図ろうとして、民主的な意見が、人民の代表が貴族性を後押ししているという意味では、帝国は民主的「でもある」。支配/被支配の構造のグループとしての国民国家群が、それぞれの民を何らかの形でリプレゼントしているか、その如何によって「権利範囲」、「役割測定」は為される。

 さて、となるとグローバル社会においての主権は脱中心、脱領域性に依拠する「べき」だというのが「帝国」になる。単一の支配論理の下で、一連の国家的、また超国家的な組織体から成って、それを「帝国」と名付けるのならば、こんな催しも脱構築されるべきなのか、ただの「催し」として嚥下すればいいのか、分からなかったが、会場を訪れてみると、ノスタルジーと歴史教科書の上で遊んでみようという催しに過ぎなかった。平日の雨催いの昼だったからか、間延びした雰囲気はより強く、空いていた。フードコートの混雑具合や、昔の着物を来た子供たちやどことなく緩いムードが漂っている。先ず、正門の朱雀門を行った。

 
 

朱雀門.jpg

  朱雀門

 そこから、僕は平城京歴史館と遣唐使船を観に行った。ここは整理券が必要だが、行った際は10分程待って貰えた。ちなみに、別途500円要る。復元された遣唐使船の後ろに歴史館がある。歴史館の中での見ものは遣唐使シアターという3面のワイドスクリーン、平城京VRシアターという5面のマルチスクリーンを使って、歴史を振り返るもので、なかなか迫力があった。

 

遣唐使船.jpg

  復元された遣唐使船

 その後、今回の催しでも大きい意味を孕む大極殿を観に行く。
この催しのために再現されたものでいわば目玉であり、「第一次大極殿」と称されている。第二次のものは、ここの近くを跡地としている。正面約44m、側面約20m、直径約70cmの紅柱が44本使われ、約9万7,000枚の屋根瓦が使われた平城京で最大の宮殿。

 
 

大極殿.jpg

  大極殿

 

 

大極殿内部.jpg

  大極殿の内部

 上海万博と比較する「べき」ではないし、比較対象にもならないこちらは記念事業だが、あくまで平城遷都の1,300年を祝うには全体的にローファイで程良い管理化の極まった社会の中での余白が設けられたぬるさがあった。ロックのフェスティヴァルにあるような檻の中で躍る、感じよりももっと隙だらけの「投企」が為されていたのが印象的だった。つまり、「世界の中に否応なしに投げ込まれていた者」が、不安を通してそれを自覚し、そこから新たに自分を捉えなおし、新たな生き方を始めるという流れが捻じれることで、死の自覚を通して、人間は自分を新たな可能性に向けて投げ込むことができる。人間は不安を通して被投性に直面させられるが、逆にこれにより、存在と自由の真の意味が得られるのであるとしたならば、この平和で穏やかなイヴェントにはタナトスの誘因が働いており、せんとくんがスクリーンを背景に踊る姿に微笑ましさを持てなかったのもあったのも事実だった。

(松浦達)

retweet

mystery_jets.jpg
 『NME』が勝手にネーミング付けをした「テムズ・ビート・シーン」は根付かなかったが、そこにはイメージの罠もあるとは思っている。

 例えば、ジル・ドゥルーズは、モーリス・ブランショを参照しつつ、ニーチェのアフォリズムの麗しさは、「外との関係」に由来するものだ、と述べた上で、「内部」という概念については、魂や意識の内部であろうと、本質や概念の内部であろうと、結局は、いつも哲学の原理となっており、哲学の様式をなすということは、外部との関係がそのなかでいつも疎外され、なんらかの内部によって、内部の中に解消されているということだとしたら、ニーチェの概念は反対に、思考やエクリチュールを外との直接の関係のうちに築いているとも言う。そもそも、美しい「何か」とは額縁に収められたその線が、よそからやって来るということであり、その線が額縁の枠内で始まるのではないということがわかり、そしてそう感じる瞬間を差し、強度の線は額縁の枠の外からやってくる、ということも含む。

 また、そういうコンテクストで言うならば、芸術とは外部の強度と「接続」されるものであり、芸術とは外部からやって来た強度に横断されてしまうものである。となると、テムズ・ビートの故郷と言えるイール・パイ・アイランド(-トゥイッケナム)というトポスは、多様な外部からの諸力がやってきて交錯し横切ってゆくような場所として機能しており、ボヘミアン的要素が強い訳で、芸術が横断し易い磁場を提供していたと言える。

 過去にしても、イール・パイ・アイランドは有名な場所で、様々なロック・レジェンドが訪れつつ、THE WHOがレコーディング・スタジオを作ったりしている。なお、テムズ・リバーの小島のイール・パイ・アイランドとロンドンを繋ぐ橋のロンドン側がトウィッケナムで、全くロンドン「ではない」ムードが漂う。当時では、解散したLARRIKIN LOVE、JAMIE T、THE HOLLOWAYS、MYSTERY JETSを始めとして一連の音に共通するものはトラディショナル・フォーク、スキッフル、ケルト・ミュージックへの憧憬であり、要はヒッピームーヴメントの共振という側面性「だけ」で言えば、近年のフリーフォークに近似値を描いていた。また、リリックは明確にワーキング・クラスとしてのシビアな吐露とデカダン的な文学要素の強い内容に終始し、「ストーリーテリング」の様相も強くあり、僕自身は、ここをシーンとして「名づけてしまう」ことには抵抗感があったものの、それぞれのサウンドスタイルも近いものの、スピリチュアリティ、アティチュードは「一貫」していたとは思ったし、ランボオ的な無為さを感じたが、周知のように、「シーン」としては隔絶した形を取った。

 そこでの生き残り組にして、ロマンティックにサイケなロックを求め続けているMYSTERY JETSのサードアルバム『Serotonin』がなかなか面白いことになっている。XTC、10cc、ELOなどの名前を挙げてもいいだろう極上のメロディー・センスとサイケデリアはセカンドより更に推し進められて、しかしながら、ネオアコやアノラック的なムードとは疎遠なのが面白く、今回、ラフ・トレードから出るという意味含めて、どうにも麗しいまでのオルタナティヴィティを発揮している。

 プロデューサーにビートルズやロキシー・ミュージックとも仕事をしてきたクリス・トーマスを選んだ時点で、僕にはジェームス・フォード、エロール・アルカンと渡ってきた彼等の迷走の気配も感じたのだが、これまでで一番、ボトムの落ちた音になっているのは功を奏したと言え、シンプルに締まっている。ファースト時点では、ブレイン・ハリソンの父親が混ざっていたのもあり、どうにもヒッピー的な雰囲気が漂っていたが、セカンドでは意識的に4人の音としてファーストの自分たちを対象化してみせた。ヒットした「Two Doors Down」の80年代のMTV全盛時代に流れていてもおかしくない、キラキラした旧さは、「新しかった」。

 そして、日常生活、恋愛から、うつ病や神経症などの精神疾患(無論全てではない)に至るまでの影響があるとされる「セロトニン」というキーワードをアルバム・タイトルに付与して、更にファンタジーを曳航させた。これをして三部作と称しているだけに、彼等が描いてきた軌跡を総括するような鮮やかな作品になった。次への橋渡しとしても、期待が出来る。いつの時代でもこういったロマンティックな音楽とは、「外部」を内部化しながら、内部から外部への横断を試みる。

retweet

admiral_radley.jpg
 アドミラル・ラドリーは、元グランダディのヴォーカル、ジェイソン・リトルとドラマーのアーロン・バーチ、アーリマートのアーロン・エスピノーザとアリアナ・マーレイというメンバーからなる新ユニット。06年に解散したものの、未だに根強い人気を誇るグランダディと、美麗なメロディーと繊細なアレンジで多くのファンを獲得しているアーリマート。この2組のメンバーが一緒にやっているというだけで、USインディー・ファンにとっては垂涎ものと言えるだろう。

 後期グランダディ〜ジェイソン・リトルのソロ作では、ゆるい空気感とグッド・メロディーが安定して全編に溢れていたが、時折単調に感じるところが無かったと言うと、嘘になるかもしれない(もちろん、いずれも素晴らしい作品であることは間違いないけれど)。その点、このアルバムには節々に良い意味での緊張感が感じられるし、バラエティに富んだ仕上がりになっている。ジェイソン節が炸裂しているオープニングの「I Heart California」、いやに若々しいノリの「Sunburn Kids」「I'm All Fucked On Beer」、疾走感のある「Ending Of Me」など、様々なタイプの楽曲が収められている。個人的にお気に入りなのは、アリアナがヴォーカルを取る「The Thread」。Lo-Fi室内楽といった趣きのこの曲には、このユニットの魅力が端的に現れている。

 過去にクッキーシーンのインタヴューで、ジェイソン本人が「グランダディの再結成は無い」と断言していたが、ファンの皆さんは寂しがらずにアドミラル・ラドリーの音楽に耳を傾けてほしい。そして、彼らの「今」の音楽を感じてほしい。

retweet

aptbs.jpg
 COALTAR OF THE DEEPERSのナラサキ氏がTwitter上で絶賛し、日本でもコアなリスナーの間で話題になりつつある、「ブルックリンで最もやかましいシューゲイザー/ガレージ・バンド」の異名を持つ3人組の通算2作目。ヴォーカル&ギターのオリヴァー・アッカーマンは、以前このサイトでも紹介したセレモニーのメンバーと共に、ヴァージニア州フレデリックスバーグでスカイウェイヴというバンドで活動していた人物。現在は、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズやTV・オン・ザ・レディオ、U2、ウィルコといった、錚々たるアーティストを顧客に持つペダル・エフェクター・ブランド「Death By Audio」の創設・経営に携わりながらこのバンドを率いている。

 セルフ・タイトルが付けられた前作(2007年)は、それまで会場で売られていた自主制作音源をマスタリングしただけの、言わば"寄せ集め"的な内容だった。しかし今作は、アッカーマンが所有するDeath By Audioの工房に併設されたスタジオにて一気にレコーディグが行なわれたという。そのためサウンドの統一感も前作とは比べ物にならないほどあるばかりか、本作こそが彼らにとって実質上のファースト・アルバムと言えるだろう。ちなみに本国では、デペッシュ・モードやアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、スロッビング・グリッスルらを輩出してきた老舗レーベル<Mute>からのリリースである。

 とにかく、様々な種類のフィードバック・ノイズや残響音、エフェクトされたギターが乱れ飛び、それが大きなうねりとなってスピーカーから押し寄せる。本作を聴けば、所謂シューゲイザーやノイズ・インダストリアル系のバンドが、単にバカでかい音を鳴らして稚拙な演奏を覆い隠しているだけではないということが分かるはずだ。音を歪ませることで増幅される倍音や、リヴァーブやエコーの残響で滲んだ音の輪郭。それらが幾層にも重なることによって、これまで聴いたことのないようなサウンドスケープを生み出していく。ア・プレイス・トゥ・ベリー・ストレンジャーズは、そうした手法を間違いなく自覚的に、しかも現存するバンドの中で最も過激に実行しているバンドであろう。

 日本盤には6曲のボーナス・トラックを追加。先行シングルのB面曲や、英国ブライトン出身の5人組バンド・ユニット、サウス・セントラルによるリミックスなどが収められているので要チェック。まるで「Death By Audioのショーケース」のような本作は、ペダル・エフェクター・ジャンキー必須である。

retweet

tallest_man_on_erath.jpg
 スウェーデン出身のSSW、クリスチャン・マットソンによるソロ・ユニット。主にアコースティック・ギターやバンジョー(一部の曲では鍵盤も)を使ったシンプルな弾き語りを中心に、枯れた味わいのフォーク・ソングを聴かせてくれている。ボブ・ディランを引き合いに語られることが多い彼だが、本人もディランからの多大な影響を公言しており、デイトロッター(様々なアーティストのライブ音源を公開しているアメリカのサイト)では、ディランの「I Want You」のカヴァーも披露している。

 もちろん、彼の音楽は単なるディランのモノマネにはとどまらず、歌詞やメロディー、歌声やギター・プレイなど楽曲の節々に、独特の工夫や味が見受けられる。どこか飄々とした雰囲気のディランに対し、マットソンの歌声は、よりダイレクトに聴き手の心を揺さぶる、切実さを孕んでいる。

 本作でめでたく日本デビューを果たしたザ・トーレスト・マン・オン・アース。ジョン・ヴァンダースライス、ボン・イヴェールらとのツアーや、SXSWへの出演を通じてアメリカでは既に高い知名度と人気を獲得しているが、日本でも大ブレイクを果たすか!? 「地上で最も背の高い男」から、今後も目が話せない。