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 アジアン・カンフー・ジェネレーションが主催するフェス「Nano-Mugen」や、去年に引き続き今年のFuji Rock Festivalへの出演も決まっている、PREDAWN(プリドーン)こと清水美和子。これまでにANDYMORIやQUATTRO、ECCYの作品に参加したり、自主制作によるCDR「10minutes With Predawn」をリリースしたり(下北沢Mona Recordsで異例の売上枚数を記録)と、すでに耳の早いオーディエンスの間では話題になっていた彼女による、本作はファースト・ミニ・アルバムである。

 クレジットを見ると、作詞・作曲はもちろん全ての楽器演奏からプロデュース、ミックスまでを彼女が1人でこなしているようだが、一聴してまず、あまりのクオリティの高さに圧倒された。アコースティック・ギターによる弾き語りを基軸としつつ、そこに彼女の1人多重コーラスやハーモニカ、トランペット、あるいはタンバリン、グロッケンシュピールといったパーカッション類が、極々控えめにオーヴァーダビングされている。その箱庭のようなパーソナルなサウンド・プロダクションは、シンプルだが豊かで奥行きを感じさせ(イラストレーター野田まさ子によるアート・ワークも、彼女の世界観を見事に表現している)、例えばポール・マッカートニーの『マッカートニー』や、細野晴臣の『Hosono House』を聴いたときのような(どちらも自宅スタジオに籠って作られた初のソロ・アルバム)、穏やかだがどこか孤独で切ない感覚に包まれる、と言っても決して大袈裟ではないのだ。

 どちらかと言えば線の細いインドア系のアーティストなのかと思いきや、ライヴでのパフォーマンスを観てさらに驚いた。少しハスキーでキュートなウィスパー・ヴォイスは、あるときは力強く、あるときは伸びやかに宙を舞い、聴き手の胸の奥までストレートに届く。「和製ノラ・ジョーンズ」と評されたりもしているというが、個人的にはザ・サンデイズのハリエット嬢やリンダ・ルイス、メアリー・ルー・ロードといったアーティストを思い出した。そう、いわゆる"ナチュラル""癒し系"などという言葉で評されるような今どきのシンガーとは一線を画す、"凄み"のようなものすら感じさせてくれたのである。

 日本人離れした、などというフレーズが今どき褒め言葉にもならないのは重々承知している。が、彼女ほど日本人離れしたワールド・スタンダードな才能を持つシンガー・ソングライターはそういない。今後の活躍も本当に楽しみだ。

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 ジョーボックスのJロビンズをエンジニアに迎えた前作「Turns Red EP」から早くも9ヶ月。作品毎に進化の一途を垣間見せているライトが、今度はシカゴの音響/ポスト・ロックの巨匠ジョン・マッケンタイア大先生を迎え、数々の名盤を生み出しているシカゴのSoma Studioで制作された新作ミニ・アルバムを完成させた。

 鋭角的でスリリング、立体的で切れのあるタイトなインストゥルメンタル・ロック、という従来の彼らのサウンド・イメージとは少し異なり、音響/エレクトロニカ的アプローチで幕を開ける1曲目のショート・トラック「Drops」が予期させるように、これまたバンドの新たなる一歩を感じ取れる作品に仕上がっている。素早い手さばきで目を見張るような目まぐるしい曲展開はグッと抑えられ、前作同様のシンセサイザーやアートワークにもなっているマラカスなどがバンド・サウンドに加わり、どっしり地に足の着いた、ジワジワと攻め上げていくメロウなスリルさを持った楽曲がずらりと並ぶ。不思議と聴けば聴くほどあっと言う間の全5曲。早くも今後のフルレングスでの作品に、より一層の期待がかかります。

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 Gラヴに見出され、ベン・ハーパーの<エンジョイ・レコーズ>第一弾アーティストとしてデビュー以来、サーフ・ミュージック・シーンを牽引し続けるジャック・ジョンソンの前作『スリープ・スルー・ザ・スタティック』よりおよそ一年半ぶりとなる5作目のオリジナル・アルバム。

 これまでに比べ、幾分開放感のある楽曲も目に付くが、本作でも変わらず緩やかでオーガニックなサウンドが心地良い。

 今でこそサーフ・ミュージックと言えばジャック・ジョンソンの名も多く挙がるであろうが、それまでは恐らく大半がベンチャーズに代表されるエレキ・インストをイメージしたはずだ。

 スポンサー契約を結ぶ程のサーファーであった彼が奏でるアコースティック・サウンドがサーフ・ミュージックと括られ、我々リスナーにとってもそれが共通言語となっていく感覚と過程。それは僕等にとてもフィットしたし、画期的とさえ感じられた。
 
 加えて、自らブラッシュファイアー・レコーズを立ち上げ、ドノヴァン・フランケンレイターのリリース/プロデュースを行った事は、意識的に芽吹いたばかりのこのシーンを本格化させる意図もあったのかもしれない。(意図はないにせよ少なくとも無自覚ではないはず。)

 こうして使い古されていたサーフ・ミュージックのイメージを刷新し、サーフ・ミュージックを若者の手に戻した立役者である事がジャック・ジョンソンが5作目にして尚、求心力を失わない所以であろう。

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 轟音サウンドも泣きのメロディも樽で丹念に熟成されたかのような深みを備え、コクのある、そして哀切すらも感じさせるギターが素晴らしい、2ndアルバムを完成させた千葉発クリーン・オブ・コア。3人組のプログレ・インストバンドなんだけど、ハードコアの匂いがしたり変拍子だったり、ポップだったり!!! 独自のグルーヴとシンセがカッコ良く絡み合い、唯一無二の世界を作り出している。また、ダンス・ミュージックのエッセンスをポスト・ハードコアなバンド・サウンドに落とし込み、メロディアスな部分を押し出していることで、一層多彩な音が聴けるようになっているのも、かっこいい。別にギターの音が小さいって訳じゃないけど、全体のイメージとしては低音が出てるロック。曲全体のエッジをリズムで出してて、シンセやギターはさりげなく、かつ効果的に存在感をアピールしている。タイトなビートと超高精細な音響の配置は間違いなく時代の最先端にある。凄い。

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 キャロル・キングの『つづれおり』のような「健全」なモノローグと寂寥を聴いた後に、ふと聴きたくなるローラ・ニーロとか、ハイファイでアタック感の強い音塊に囲まれている耳に流し込むようなフアナ・モリーナとか、真夜中の酒によく合うジョニ・ミッチェル、「蘇州夜曲」をジャジーに歌い上げるアン・サリー、憂鬱な時の混沌とした頭に染入るシャルロット・ゲンスブールに近い形で、彼女のミニアルバム『I Don't Belong Anywhere』を聴いている。

 今は、工藤鴎芽としてのソロでの活動を行なっているものの、MySpaceで、SEAGULL名義でやっていた彼女のことを見つけたのはほんの数ヶ月前のことだったと思う。「Kiss And Kill」という映像でギターを弾きながら、「何処にも居場所なんか無い」という事を体現するように、歌う姿に心打たれた。そこには悲痛と言えるよりは、まだ拙さの方が先立っていたが、それでも余りある強烈な世界への違和感が溢れていた。カート・コバーンは「ジェネレーションX」の中で名前を無くしたとしたならば、彼女はロスト・ジェネレーションの中で「世代」を喪っているかのように。
 
 現在、退歩として縁取られた懐古主義的なロックやキッドナップ的な名前だけのオルタナティヴが溢れつつ、バック・カタログを漁れども彷徨してしまうのがオチで、自分の歩幅を合わせて聴くことが出来る音楽や、所謂詰まるところの「尖った音楽」が少なくなっていくばかりの趨勢で、音楽的感性をベースにした同期性から「降りる/降りない自由」は勝手にしても、年齢を重ねれば重ねるほどに聴く音楽は、その実広がっていくようで完全に狭まっていくのは仕方ないことなのかもしれない。要は、経験則、知識から自分にとって必要か/必要ではないかの取捨選択が明確になるからで、数万曲のストックから瞬間的にその時に聴きたい曲を「選べる」環境にいながらも、再生頻度を探れば、ますます自分の聴く「音楽の幅」は狭まっていくのか、そして、その狭まった音楽の幅で更にピンポイントで、何が、「音楽なのかジャンクなのか」さえも曖昧に砂上の楼閣みたく消えてもゆく。それでも、個人は無限に音源をUPし続けて、「誰か、分からない誰も」がそれをスルーする。

 彼女の音楽性はとても幅広く、ローファイな質感を持っている。ベックを始めとした90年代的なオルタナティヴ性を「ロック」にメタ解釈したもの、IDMの音とギターの音色が浮遊的に交じり合う曲、ソニック・ユース的なグランジ的な曲、内省的なバラッド。音楽ジャンルは違えど、セックスを決して売りにしないエイミー・マンが醸すような孤独と知性や空気感がこの作品群にも通っていて、でも、最終的にはとても穏やかで優しく、「曖昧な温度」だけを残してくれる。だから、安心して「真摯」に向き合う事が叶えられる作品として、緩やかに気負わずアイデンティファイ出来る。孤独なベッド・ルームを覗き視ている様な背徳感と誰でもそのベッド・ルームから音楽を奏で出しているのだろうという安心感の鬩ぎ。如何にも今の時代の音だと思う。

 彼女の歌詞世界は所謂、汎的な女性アーティストに多い「大文字のラヴソング」は少なく、観念的な要素が多いが、それでも、「ラヴソング」としか言えない部分も孕んでいる。何故なら、ラヴソングにも色々な定義があるからだ。果たしてラヴソングとは一体、「何」から「何」へと放たれるものなのか。よく考え、そして、巷間に溢れる音楽の殆どを占めるラヴソングのベクトルとは一体、何を指し示そうとしているのか、考えてみればいい。

 また、このEPを聴いていると、どうしても頭を擡げてくるテーゼであり、日々と言ってもいいレベルで量産され、食傷気味とも言える数の「I Love You(及び、その変形型)」が意味化するより記号化されてしまうような速度の中で、切実な想いと熱のこもったラヴソングでさえ排除されてしまう気がする。だからこそ、少しだけ掘り下げてみたいと思う。

 「君と僕」の関係性を煎じ詰めると、究極的な意味でラヴソングへと「昇華し、抜けていく」とかの一般的でカジュアルな原則(個人的な事を突き詰めれば、普遍性に繋がる、というもの。)はどうだってよくて、僕なんて単純に、普通に経済を語るように政治を語るように社会を思うように未来を憂う様に、このテーマについて切実で押し迫った気持ちを抱えているし、そうあるべきだとも思うからして、ロックの役割とか時代的な参照点としての意味とかは二の次に、エヴァーグリーンな気配や影を「感じ取ろう」というアンテナで音楽に向き合う事がよくある。ラディカリズムや刹那的な衝動、を飛び越す絶対的な色褪せない熱としての、音楽という意味を越えた「質感」。それは、1970年代のスティーヴィー・ワンダーの『キー・オブ・ライフ』前後の諸作に感じるような、歴史的な文脈やカテゴリーを抜きに、触れた途端「名曲」の温度を感じとってしまう―そんな情動に近いとも言えるだろうか。

 「ラヴソング」とは、①♂→♀のミニマルなもの(または、その逆。)。②♀→♂→?という♂を仮想対象として設定し、普遍的なもの、汎的なものにアプローチしようとするもの(♂→♀→?という構造性が成り立ちにくい理由はここでは詳述する必要もないだろう。♂は「現象」で♀が「存在」だという免疫学的な観点を援用するまでもなく。)。③性別性を越えた記号的羅列としてのもの。に大雑把には括れると思うが、③の商業主義として芯の強さ、"形式主義故の「深さ」"とかはもはや論じる必要も無いだろうし、"浅さ/深さ"をメタ・レベルで「敢えて」述べる必然性も無いからここでは割愛するが、①に関してミニマリズムを極めたが故の反転としての、時代を捉える瞬間というのは今でも音楽の持つ偉大なカタルシスの一つであり、感動的なものだと思う。その登場人物やディティールは絞られ限定されている筈なのに、聴いた人がそれぞれのコンテクストを敷き、感情的同化をする、という-そこには様々芸術や娯楽が栄えようとも、音楽が放つ稀有なマジックがあるからだ。

どんな汚い世界でも愛しているんだから
(ワンダーウォール)

の矢印の先に、「君」は居ないかもしれないが、彼女は自分と対峙するほどに零れる感情に名前を付けようとする時に零れるジャンルに意味を付けるなら、「ラヴソング」にしか思えないのだ。彼女は「殆どラヴソングはない」と言うが、独りを意識するほど、「大文字の他者」が明滅する訳だから。

 工藤鴎芽の今回のEP『I Don't Belong Anywhere』は精緻なエクリチュールの差異はあれども、徹頭徹尾、自分への藻掻き、観念的懊悩に照準が定められているが故に、標的の見えないラヴソング集とも言える。危うく繊細な線を行き来する「大文字の言葉」が均衡さえ無視した歪な「枠外」へとブレイクスルーされてゆくような生々しい感情の表出を感じさせるものでもあり、僕はこのあまりに"本能的な揺らぎ"に関して一部のフィメール・アーティストにだけ感じる女性性ならではの凄みや過剰さと、♂の自分として「はじめから越えられない」何かを握っている確信を感応した

いつまで経っても消えない
切離された街灯の星と星
忘れることなんて容易い筈なのに
何もないこの庭で夢をみる
(無所属に尽き)

 ラヴソングという括りにおいては、お気軽でコンビニエントな内容で完結してしまうものばかりだけではなく、最終的には殆どが、愛の過程における絶望の鈍みもニヒリスリックな視界もありふれた退屈も「込み」で描かれるものも含まれざるを得ない、として、「孤独も含まれる」。ポジティヴで、オプティミスティックな指向性で、ずっとこのままの状態が続いていって、「煌びやかな未来」が待っていて、なんて視野狭窄的なヴィジョンは、どんな歌でも関係なく、荒唐無稽でしかないし、幻想に盲目的な希望を上塗りして、それぞれの傷を隠し合っても自分の内層を見て見ぬ振りしても現実は残酷に追い越していく。良いところ取りだけで成立し得るものなんか「なく」、ハッピー・エンドというのは「基本的に」有り得ない訳で、ずっと続いていく/続いていかざるを得ないライフタイムの中で、都度に打たれる楔をどのように意味付けして、自分なりの脈絡を見出していくのか、そこにこそ、リアリズムが純粋濾過した故のロマンティシズムの原型と呼べるものが顕現することがあるのではないかな、と個人的に思う。

 その中で、彼女の言葉や音楽への切実な対峙の仕方は、サーフィシャルな言葉群に埋もれて空虚に踊ってみるのもいいという処世術の一つかもしれないと言える。でも、切実な構えで本質的な深さと重さに目を向けてみるっていうのも存外、悪くないし、そこらに転がる態の良いキャッチコピーより自分を「癒して」くれるのかもしれない、と僕は考えもする。

 ありふれた日常に溢れる、ありふれた数多のシニシズムやニヒリズム、ペシミズムと生温い諦め、悪意が通奏低音になって、ユージュアルに生きている空気の中にも当たり前に混在してきているのを察しながら、自分は戦時下でサイレンに耳の鼓膜を破られるような気分を先取る感性で、ラヴ・ソングばかりを選りすぐって聴くときがある。それは、例えば、過去、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーンの一連の曲が、「政治的な意味ではなくラヴソングだと思っている」、なんてザックの言説に沿う場合もおおいにあったりする訳で、チェット・ベイカー、サラ・ヴォ-ン、Madeleine Peyrouxを聴くような耳で、工藤鴎芽を聴いてみると面白い。

 このアルバムは語弊を承知で言うならば、ベックの『メロウ・ゴールド』の気配を忍ばせつつ、初期スピッツの無為さが混ざっている。都会の影にひっそりと咲く「一輪の花」みたく可憐に逞しく響き渡る「都会(的生活)人の為の孤独な音楽」だと思う。そんな、「引き裂かれた」中で咲く花の美しさ。花は枯れるのを孕むから美しいのだ。その美しさはとても儚い。

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 日本人女性メンバーをフロントに据えた、イギリスはブリストルのポスト・ロック・バンドを皆さんに紹介したい。結成して未だ2年も経たない新人バンドであるが、この度ボーカルのYuka Kurihara嬢にとって7月には凱旋帰国となる来日ツアーも控えているのだ。

 <Lost Children>というシューゲイザー界隈では話題のネット・レーベルから音源が無料配信されているので是非御視聴戴きたい。M-1『Number 3』の冒頭からエコーがかったさざ波のような優しい歌声は、遥か彼方へと広がるサウンドへの期待を募らせる。1つの曲の中に序章〜数エピソードを交えフィナーレへと誘う長尺な楽曲が3曲。たゆたうトレモロとディレイの織り成す美しいギター・サウンドのレイヤーに連れられ徐々に昂揚し天へと突き抜ける高音のエンジェル・ボイス。この英語と日本語を交えたボーカルの魅力が確実にバンド・サウンドの魅力として成立させている。そして至福のアンビエントから一転して怒濤の美轟音バーストも交え、緩急がしっかりと表現されており、典型的な溜め〜爆発(静〜動)といった展開もだれる事なく幽玄な世界感からリスナーを現実に戻させない。

 近年のポスト・ロック勢の傾向として「轟音バーストに頼らない」オーラスの表現方法を試行錯誤している向きがあるのだが、彼らはその逆で「轟音バーストを如何に、よりオーラスとしての効果を発揮出来るのか」を追求したかのような、その他数多よりもハッキリとした静と動のコントラストを提示する事によって音楽として具現化しているのだ。シガー・ロスやエクスプロージョン・イン・ザ・スカイの愛好家なら堪らない恍惚の瞬間。ボレロのようなリズムを刻み、クラシカルなチェロの音色の装いも全体に重厚感と深みを与えて曲のストーリー性を引き立たせている。

 ST.VINCENTやBLUE ROSESとの共演が彼らの初のライブで、その人気に拍車がかかるUKロックの気鋭GRAMMATICSらとも対バンの経験を経ている点も興味深い。満を持して彼らが日本の地を踏みしめ、幻想的なサウンド・スケープで我々を現実から引き離してくれるに違いない。いや、引き離すというよりは非現実に吸い込まれるといった表現の方が似合う。柔らかで涼しげ、幽玄という言葉が正に当てはまるサウンドと、怒濤の轟音ギター・ノイズのコントラストを是非体感して戴きたい。

THIS IS MY NORMAL STATE + 34423 Japan Tour 2010
7/22(木)東京 下北沢 THREE
w/ SHEEPRINT, KANDAN , 王舟
7/23(金)愛知 名古屋 TIGHT ROPE
w/ 未定
7/25(日)大阪 北堀江 Club VIJON
w/ BONEVILLE OCCIDENT, SGT. ,KANINA ...
7/27(火)福岡 小倉 FUSE
w/ ANTHEM OF DYING DAY, WATLEEP ....
8/1(日)山口 Organ's Melody
w/ LITTLE PHRASE ...
8/2(月)京都 Whoopee's
w/ HOUSE, SOW , MIGS
8/5(木)東京 下北沢 ERA
w/ HIS WEDNESDAY, ANRIETTA , SUR

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 アシッド・フォーク調のバッキングに乗って、愛らしいカレン・Oの歌声が聴こえてきた瞬間、はっと息を飲んだ。オープニングを飾るヤー・ヤー・ヤーズによる「The Love I'm Searching For」、ムーグもディストーション・ギターもヴァイオリンも、印象的なコーラス・パートさえも大胆に削ぎ落としたこのアレンジからは、ヤー・ヤー・ヤーズの表現者としての優れた手腕を感じるとともに、世に出てから15年経った今も全く色褪せないレンタルズの楽曲の普遍的な魅力がひしひしと感じられた。

 トリビュート・アルバムには2つの楽しみ方がある。ひとつは「そのアーティストの影響を受けたアーティスト達による、それぞれの解釈での楽曲の再構築」を楽しむこと。そしてもうひとつは「カヴァー・バージョンを通しての、オリジナル・バージョンの魅力の再確認」という楽しみ方だ。このアルバムは、その両方を十二分に楽しめる作品になっている。例えばモーション・シティ・サウンドトラックのように原曲に忠実なアレンジで盛り上げてくれるバンドもいれば、コープランドのように楽曲の新しい側面を覗かせてくれるバンドもいる。

 参加アーティスト陣も豪華で、アッシュのような中堅どころからトーキョー・ポリス・クラブのような若手バンド、<ラフ・トレード>のコンピにも参加していたエジンバラのアバーフェルディや、<サブ・ポップ>のポップ・デュオ、ヘリオ・シークエンスまで、幅広い個性的なラインナップで聴き手を飽きさせない。

 ラストのアジアン・カンフー・ジェネレーションによる「Hello Hello」(レンタルズのレイチェル・へイデンがコーラスで参加!)や、ボーナス・トラックのレンタルズとアジカン後藤氏による「A Rose Is A Rose」の日本語バージョンはさすがの仕上がり。とにかくレンタルズ、そしてマット・シャープというアーティストへの愛がひしひしと感じられる、そんなトリビュート・アルバムだ。頭三曲がレンタルズのファースト・アルバム『レンタルズの逆襲』と同じ並びになっているところも、イイネ!

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 2008年に双葉社より刊行され、2009年度本屋大賞を受賞しベストセラーとなった湊かなえのデビュー作『告白』の映画サウンドトラックです。

 なんといっても特徴的なのが、これに収録されているアーティストの並びです。

 これが初の日本映画への楽曲提供となったレディオヘッドに、渋谷慶一朗、Boris、相対性理論のやくしまるえつこと永井聖一による共作曲に、AKB48、The xxなどなど、明らかに異様なこの顔ぶれ(笑)!

 秀逸なミステリィに必要不可欠なポイントとして挙げられるものの一つに、プロット(構想)の組み方の巧さがあると思います。プロットが生み出すテンポの緩急が、非常に重要だということです。そのテンポの緩急、受け手側の感情意識の流れを引き立てるように、そして物語の展開に呼応するように選曲されたサウンドトラックだと思います。

 AKB48が流れたと思いきや、レディオヘッドや渋谷慶一朗のクラシック要素を含んだ楽曲が流れるという、この不気味でシュールな感覚。この一見不自然で、違和感を感じるのだけれど、どこまでも現実的であるという部分が『告白』という作品とリンクしているように思います。

 サントラとして聞いても非常に面白いのですが、個人的には是非映画も見てほしいと思います。『下妻物語』『嫌われ松子の一生』などを手がけた中島哲也が脚本、監督を担当し、主演の松たか子の演技も非常に良いです。是非!

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 統一感のあるスタイリッシュなジャケットでお馴染みのドイツのレーベル、<Sonic Pieces>より、夏に向けての新作が届けられた。電子音がアコースティックギターの周りをたゆたうように泳ぐ音楽を届けているフランク・シュルゲ・ブラムと、Goldmundあたりよりもさらにクラシカルなピアノ・ソロアルバムで好評なナイルス・ファームによる共作。

 ポスト・クラシカルな雰囲気はなく、Mountainsあたりのエクスペリメンタルでフリーフォームなスタイルを築いている。内容が近似しているのは、どちらかといえばBLUMMのアルバムであろうか。五月雨系のアコースティックギターは伸び伸びと爪弾かれており、可愛らしいベルや、ピンポン玉が床を跳ねる音など、小さなものがひそひそと談笑するような、こまごました音が配置されている。それらが各々、フリーフォームでアブストラクトに自分のペースで静かに動きだす。そこに潤沢なピアノとギターとが基盤となることで、エクスペリメンタルでありつつも優しい子守唄のような温かみが生みだされている。

 全ての楽器や電子音が気持ちの良い音を鳴らしたいだけ鳴らしている。それらからメロディの欠片が抽出され、全体として大きなメロディが浮かび上がってくる。リビングにある雑貨だけで作れそうなプライベートな音楽だ。とても肌触りが良い。

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 例えば、『(500)日のサマー』で、主人公が聴いていた「There Is A Light」。また、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートやザ・ドラムスといったバンドの音楽性。そう、現在のUSにはザ・スミスの影があちこちに見られる。英国的なセンスが強く、活動していた時代には見向きもされなかったものの、今のUSインディのキーワードとして、ザ・スミスは大きなものになっている。

 さて、今回紹介するワイルド・ナッシングも明らかにスミスの系譜を受け継いだアクトだ。ジャック・テイタムという青年のソロ・プロジェクトなのだが、この青年、エイブ・ヴィゴダのサポートでギターを弾き、トロピカル・パンク・バンドのフェイスペイント(Facepaint)やジャック&ザ・ホエール名義でシンガー・ソングライターとしても活動する、という多彩な活動をしている青年だ。いや、それだけの活動ぶりと音楽ギークなところがなければこのデビュー・アルバム『Gemini』は生まれていないだろう。

 スミスを思わせるキャッチーなメロディに、マイブラ譲りのホワイト・ノイズ。それはまるで美しき白昼夢。ウォッシュト・アウトやリアル・エステイトなどUSインディ界を巻き込んだ夏ムードもGlo-Fi/Chillwaveのテイストも含みつつ、キラキラとした電子音とファルセットのヴォーカルとコーラス、そして軽快なギターのカッティングのサウンドがただただ耳の奥で光っては消えていく。淡い水彩画のような優しいタッチで、80年代のインディのエッセンスを凝縮し昇華させた良作だ。

 ケイト・ブッシュの「Cloudbusting」をカヴァーしたり、PVでは60年代の映画を引用したりと、通のツボをつくセンスも含め、このジャック君はモリッシーの遺伝子を受け継いでいるといえるだろう。僕には彼が、インディ界のオタク中のオタク、ブラッドフォード・コックスの「次」じゃないかと感じられてしょうがない。