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 矢継ぎ早に次ぐ矢継ぎ早、攻撃的な轟音ファンタジー!

 ひとたび音が轟き渡れば、普段意識しない血流の流れや、胸の鼓動が早まるのを感覚するほどに心身が研ぎ澄まされる。耳にすれば圧倒的に聳え立つウォール・サウンドと、不思議な世界観を紡ぐ言葉でありながらパーソナルに響く詩によって、ハイにもなるし、メロウにもなるが、その何れもが"それ(音楽を聴くという行為)"に追随するリアクションを取る以外に成す術がないのだ。

 茨城県出身の3人組(ナカヤマ/Vo&Gt、ハル/Ba、ホソヤ/Dr)というバイオ以外の詳しい情報は明確ではない。瞬時にインパクトを与えるドールの顔のアップが目を引くアートワークといい、ルドルフ・ウィトカウアー『アレゴリーとシンボル』にインスパイアされたと思われるが、フロントマンのナカヤマ氏のバンドの中核を担う絶対的な個性を誇るセンスは、ぎらつく野心も同時に感じさせる。とにもかくにもスメルズ・ライク・オリジナル・スピリット。そしてシンプルな楽器編成でありながら、緻密で高度に組合わさる業の応酬は、さながら少林寺の演武を開いた口が塞がらず眺めているかの様に、人間業ではないのでは?と、現実から非現実の扉を打ち鳴らされる轟音で押し開く。その力強さはハル嬢とホソヤ氏のバキバキとタイトでありながらしなやかに"うねる"柔と剛が入り混じるグルーヴも一因しているのは間違いない。

 加えてエモ、ポスト・ロック、オルタナなど90年代以降のロックを基調としているのも間違いない。メロディの美しさも特筆すべき点で、急上昇&急降下を繰り返す唯一無二のスリルを体感させ、落ちそうで落ちずに超低空でグライドする緊張感を伴った爽快感。自由奔放な日本語が踊るナカヤマ氏の伸びやかな歌も、安易に和のテイスト漂わせればよしといったものではない。全7曲を通して物語が出来上がり、我々は激しくも甘美な堂々巡りに迷い込む。時に美轟音に雪崩れ込む展開に身を委ねていると、ENVYらが切り開いたポスト・ロックとポスト・ハードコアの境界線を貫いた新境地に、新たに揺れ動かぬ普遍性=ポップを携えて見事に時代を出し抜いた彼らの自信に満ちた笑顔が脳裏に浮かぶ。

 ライブを観た者なら分かるのだが、ただ歌っている訳ではない。ただ叩いている訳ではない。ただ鳴らしている訳ではないのだ。全てのサウンドを踊るように演奏している。結果、全てのサウンドが踊るように灼熱を放った。踊るとは、全身全霊で体現する事なのだ。そして掻き鳴らされる、そのサウンドも全身全霊で踊っている。そんなサウンドを耳にした我々もまた、全身全霊で踊る他ない。

 エモーションなんて言葉は後日談に使えばいい。後日談を当分語れぬ程の感動が現在を進行するポスト・ロック世代が求めるポスト・ポスト・ロック。彼らはとっくに先へ行っていて、不肖達をずっと先で待っている。俺たち=今の時代なのであれば、時代はもうこれ以上彼らを待たせてはいけない!

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 ドゥルーズ=ガタリはリゾームという概念によって体系的な形態から外れたものであってもそれは混沌ではなく多様体という別の秩序によって成立していることを示した。要は、伝統的な知や組織体の態は、ツリー式とみることができ、それは、物事を幹、枝、さらに小さい枝へというように、そして、また、このツリーから外れた知は混沌としたものとして扱ってきた。

 しかし、これに対し「リゾーム(地下茎)」とは幹や枝といったものはなく、これは、中心を持たず多様な流れが縦横無尽に横断し交差し連結しているからして、このリゾーム的な形態は決して混沌ではなく、言語もリゾームであると言えることになる。つまり、リゾームは、ツリー型の反対に位置する多様体というもう一つの秩序だった組織や知のあり方であるとしてリゾーム的なあり方を復権させようとせしめる。

 リゾーム/ツリーの二項対立は、スキゾ/パラノ、脱コード化/再コード化、分子的状態/モル的集合、遊牧性/定住性、平滑空間/条里空間といった様な二項対立の図式として表れてくる訳だが、この対概念は仕切りではっきりとした区切り(横断線や逃走線)がある訳ではなく、グラデーションのように互いに浸透し合っている。

 このような秩序を持ちつつ、「他と連結してゆくリゾーム」をベイトソンの用語を用いて「プラトー」と呼ぶが、プラトー的な佇まいを常に保持してマイペースに遊牧する日本のバンドにsleepy.abがいる。

 北海道、札幌在住のスタンスを崩さずに、全国のフェスにイベントに積極的に参加しては、その一瞬で空気を下げるような、凍度と優しさを持ったサウンドで着実にリスナーを確保していた彼等の、オリジナルとしては、本当に満を持しての2年8ヶ月振りのアルバム、にしてメジャーへの移籍での昨年の『Paratroop』が想ったより巷間に影響を与えることが出来なかったのは、セッション的で攻撃的な部分を押し出しすぎたあまり、彼等特有の浮遊感や寂寥やリリシズム、センチメントが霞んでしまい、キャッチーな「メロウ」などはパワープレイされたものの、どうにも過渡期的な作品だったからかもしれない。

 そもそも、今、sleepy. abは歴史が長いバンドで前身バンドの形式を含めれば、10年を越えている。シューゲイジングさえ出来ずに、自分の不眠症を治す為に自分で音楽を紡ぎ始めたボーカルの成山氏のぶれなさはそのままに、今は「黙示録」的な大文字の世界観はグッと減り、抽象的ながら、深みのある言葉が増えていった。とはいえ、相変わらず、水槽の中の揺蕩う、光のようなサウンド・テクスチャーが展開されつつも、これまでに無いラウドな様相も閉じ込めて、更に、独自の彼等の持つ物悲しいトリッピーな浮遊感も充溢しているような展開になってきた中、今回の彼等初となるシングル「君と背景」はこれまでにない「拓け方」と「光」が溢れている。それでいて、SIGUR ROS、KYTE辺りの浮遊感、初期のCOLDPLAYのような透明感、また、柔らかく組まれたサウンドスケイプはまるで『空中キャンプ』以降のフィッシュマンズのような、メロディーの繊細さはスピッツ的というと、過大評価が過ぎるだろうか。ただ、ここには昨今の所謂、「J-」ものが持つ過剰な郵便性や過度な振り切りがなく、あくまで「宙空を揺らせるだけのサウンド」が鳴っている。

 想えば、セカンドの頃の「メロディ」が彼等の中でも分岐点になった曲で、それによって大きく彼等の存在性は注目されるようになったが、あれは要はRADIOHEADの「High And Dry」のようなもので、抒情的なギターロックを繊細に奏でようとするとき、それまで「自己内」で完結していたものが、ふと他者性を見つけてしまった、そんな類いの曲であった。でも、RADIOHEADは今や、その曲を殆どライヴではしないが、彼等は必ず「メロディ」は演奏する。それは、sleepy. abという主体が多分、(Something Like A) sleepy. abを客体化出来ていない証左だったのかもしれないが、確かめるように、「メロディ」を演奏する時、確実にその場が皆にシェアされているようなアトモスフィアが発現した。反射鏡のように帰ってくる光を自分が受け止めるように。しかし、今回で言えば、「メロディ」的なものを越えようとした「メロウ」を更に新しい形で改変して、今回の「君と背景」は確実に彼等の名刺的なアンセムに交代するかもしれない。「メロウ」は自覚的に「緩やかなる、全体性の消失」を歌っているからこそ、強かった。今回は「君」が「散る」様に繋がりと光を示唆する。但し、それはポジティヴなラブソングめいたものではない。漸く、彼等が「彼等の出す音像」に十二分に意識的になった事を感じさせる手応えがある。「喪失と再生」、なんか他のバンドが幾らでも歌ってくれる。

単純な生活を
簡単につないでく
不安をめくった先の未来を
君はずっと選べない
(君と背景)

 例えば、BUMP OF CHICKNENの新曲は何故、あんなにぬるくなってしまったのか、RADWIMPSはそこまで「君」にセカイを反射させるのか。彼等が言葉数を増やして、君を描くのに比して、sleepy. abはどんどん「行間の多さ」が増える。「ねむろ」と言っていた彼等の緩やかな意思が丁寧に編み込まれている事が感じ取れるがしかし、此処には実は、僕も君もいないのだ。歌詞内の「君」は記号として「君」であって、別に君で何でもいい訳で、それは人間じゃない何か、かもしれない。そして、「想う僕」だって恣意的だ。青く想えるような曲でも、人生を見据えているような前向きな曲でも、何処かぼんやりと空疎な感じが付き纏い、決して楽観的でも前向きでもない。それが良い。

 透明的で気怠い成山氏のあの独特の声と、それを支える確固とした柔らかなバンドサウンド。得も言われぬ希望的な、何かを待備させるが、精緻には、ただ、それは「希望、ではない」のだ。

 絞られた歌詞、ミドル・テンポのリズム、4分程の音の揺らぎ。前作含めて過去から追いかけてきた人も、新規参入者も拒まない茫漠とした「空間」がここにはあって、椅子はあるが、誰が座るのかどうかも分からない。ただ、確実にこのシングルによって、全く独自のポジションを確立したと言える。不眠症は癒えなくても、君は描けるのだ、背景として。

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 軽快に跳ね回るメロディに、複雑な展開をするメロディ、ファルセットのヴォーカルと整ったハーモニー――アート・ポップ×プログレと表現されるその音楽性は、膨大な情報量とキャッチーさを同居させている。しかも、韻を踏んだり、ダブル・ミーニングを込めてみたりしたりした歌詞にはヴァンパイア・ウィークエンドもかくやの知性の高さとユーモアを感じるし...この「Schoolin'」という曲を形容するのに僕はほとほと悩んでしまう。それほど、オリジナリティがあるのだ。

 ビートルズやスミス、それにレディオヘッドやクラフトワークにスティーヴ・ライヒといった実験的なアーティスト、更にはマイケル・ジャクソンやRケリー、ビヨンセといったメインストリームまでを並列する影響源には驚くが、楽曲を聴くとなるほど、納得してしまう。このマンチェスターの4ピース、エヴリシング・エヴリシングはそんなバンドだ。

 これまでに4枚のシングルをリリースしただけのニュー・カマーだが、本国UKでの話題は凄いことになっている。毎年、その年のヒットを予測するBBC SOUND OF 2010にノミネート。また、参加したバンドはほぼ特大のブレイクをしていくNMEレーダー・ツアーではヘッドライナー、今後絶対無視できない存在であることは明白だ。

 1stアルバム『Man Alive』は秋のリリース予定。だが、その前に彼らを知るのに最適な日本企画盤EPがこの作品だ。冒頭に上げた最新シングル「Schoolin'」を筆頭に、『Kid A』時のレディオヘッドを思わせる「Making Some New Sense」やフューチャーヘッズばりに突っ走る「DNA Damp」など粒ぞろいの楽曲を収録。デルフィックやハーツ(Hurts)と並び、マンチェスターの新世代を担うこのバンド、サマソニのステージは絶対見ておいたほうがいい。
(角田仁志)

*日本盤は7月7日リリース予定。【編集部追記】

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 スクリャービンの音楽に対する神秘主義に依拠した思想にこういったものがある。「音楽とは単なる娯楽ではなく、世界の背後に存在する神の智恵の表れであり、だからこそ、これを使って人々を法悦の境地へ導き、神との合一を経験させ、通常の人間を超越した存在へと解脱させることができる」。何とも、昨今のスピリチュアリズム界隈の気配とリンクしてくるものさえ感じるが、実際に生まれた彼の作品における交響曲第4番「法悦の詩」での調性の超越や交響曲第5番「プロメテウス--火の詩」では、鍵盤操作に応じて7色の光をスクリーンや合唱団員の白い衣装に映し出す「発光ピアノ」を考案するなど果敢なトライアルをしたのも事実で、加えて、とても光彩豊かな音を放っていた。特にスケールの大きさ故に、未完に終わった「神秘劇」では、さらに踊りやお香も加える構想でもあった。

 スクリャービンを参照にするまでもなく、スペクタクル、神秘主義とスケールの混ぜ合わせた大文字の音楽への希求を目指したバンドには枚挙にいとまがないが、ブリット・ポップと言われるムーヴメントの中で華麗に現れたクーラ・シェイカーはその一つだろう。

 ここで、ブリット・ポップについて補足説明をするに、狭義として93年~96年に起こったブリティッシュ・ビート懐古主義的なムーヴメント(でも、確かに95年8月のブラー「カントリー・ハウス」対オアシス「ロール・ウィズ・イット」シングル同時発売とかUKの公共放送でも流れていたので、やっぱり「社会現象」なんだろう。)を指す。

 とはいえ、ブリット・ポップを「音楽面」としてだけ捉えるのは浅愚というもので、アート・カルチャー側からのルネッサンスの様相もあった訳でもある。ただ、日本のバブルの時のように「何も残らなかった」現象性の高さ(その裏で秀逸な作品もあまた出たが)について、僕は蜃気楼のようなものを感じてもしまう。

 作品的には、94年のオアシス『Difinitely Maybe』、ブラー『Palk Life』、95年のパルプ『Different Class』、ザ・ブー・ラドリーズ『Wake Up!』、96年のザ・ブルートーンズ『Expecting To Fly』辺り、その他、ジーン(GENE)やシェッド・セヴン(SHED SEVEN)とかスリーパー(SLEEPER)などが犇き合っていたが、その狂騒の中で、燦然と96年のクーラ・シェイカーの『K』があった。クリスピアン・ミルズのスマートなルックス、アロンザのベースやインド文化や仏教のエッセンスを程良く入れながらも、シンプルなギターロックを鳴らす様など、全てが眩いまでに、格好良いロック・バンドとしての基準を整えていた。ディープ・パープルの「Hush」のカバーも手堅かったが、クリスピアンの神秘主義への傾倒、物議を醸した幾つもの発言、そして、バンド総体の不調和、セカンド・アルバムで膨大な制作費を投じた結果に辿り着いた表層的なサイケデリアの頃には、ブリット・ポップは完全に終焉を迎えており、彼等自身の役目も終える事となった顛末は周知だろう。

 その後、クリスピアンは3ピース・バンドで簡素なロックンロールを鳴らすザ・ジーヴァスを結成したり、他メンバーもバンド活動を行なうようになり、元々構成されていたクーラ・シェイカーとしての4人は離散することになった。

 しかし、まさかの06年の再始動、その年のフジロックでの鮮やかなパフォーマンス、レイドバックはしたものの、バンド名義としての手触りがしっかり感じられる07年のサード・アルバム『Strangefolk』は軽やかだった。セッションを楽しむような通気性の良さだけが刻印され、バンドとしての上昇気流も闇雲なヴァイヴも、もうそこにはなく、オーガニックで有機的な音楽を続けて行く、という意志に満ちていた。そのフェイズは更に推し進められ、今回の新作『Pilgrim's Progress』にも継承されている。ただ、これが決して悪くないのだ。「Hey Dude」、「Tattva」はおろか、ドライヴするロックという要素因さえないのに。

 このアルバムを聴いていると、70年代初頭のブリティッシュ・フォーク・トラッドのムード、また、フェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパン、ペンタングル、リンディスファーン、インクレディブル・ストリング・バンド、ドノヴァン、などの音が自然と想い浮かぶ。そこに、シタールやタブラといったインド風のまろやかなサウンドが加えられ、全体的に力が抜けており、エッジはない。ふと気付けば口ずさんでしまうような伝承歌のような可愛いらしいメロディーが並び、楽器にしてもチェロ、サントゥール、パイプオルガンやマンドリンなど多数を使いながら、基軸はアコースティック。かといって、ザ・コーラル辺りがふとみせるディープなサイケデリアもなく張り詰め方もなく、森の中で輪を囲んで楽しくセッションをしているような内容を喚起せしめる。実際、ベルギーのアルデンヌ・フォレストの中に建てたスタジオで余計な情報を遮断して、これらの音を一から固めていったのだという。

 ロック・バンドには、色んな転がり方がある。ずっとエッジを尖らせ、ラジカルに方向性を進めていくものもいいし、形態を変えながら、それでも、初期衝動を忘れないでゆくのもいい。但し、彼等のように、「緩やかに円熟してゆく」というのも一つの正解なのだと思う。遠景にモリコーネの影が視え、ジョージ・ハリスンの笑顔が浮かぶ。こんなに誰も非難せず、「仲間を要求する」音楽には久し振りに会った。

 ちなみに、スクリャービンの話に戻ると、彼は若い頃には後年の作品からは想像が付かないほどロマンティックな美しいピアノ曲を書き、一時は"ロシアのショパン"と呼ばれていた。逆に、クリスピアン・ミルズの書く曲がここに来て、もっとも美的な閃きが高いようなものになっているのも非常に興味深い。柔らかい質感にも芯が通った佳作だ。

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 安全なロックってどうなのよ! なんて感じながら、良くも悪くも当たり障りのない、このロック・ミュージックを聴いていて思うわけです。が、しかし、同時に、「これ、かっこいいじゃないか」と、思ってしまうのも確かで、全然好きじゃないよ、こんな音楽、などと毒づきながらも、なぜだろう、どうしよう、聴いちゃうんです。悔しいけど。

 ザ・ストロークスやベックと比べられているらしいけど、なるほど、確かに初めて聴いたときはストロークスに似ている、であるとか、ベックの『Modern Guilt』っぽいところもあるよなあ、と、僕も思った。けれども、ストロークスほど遺脱したロックではないし、ここ数年のベックほど作り込んでいない。ニューヨーク出身、ダーウィン・スミスのソロ・プロジェクト、ダーウィン・ディーズの『Darwin Deez』、これは良い。

 何が良いって平和的。高らかに不満をぶちまけるわけでも皮肉を発するわけでもなく、終始和やかに奏でられる音の全ては決して敵を作らないやさしさに満ちている。いわばこの音楽は無敵である。敵を作らなければ無敵なのです。ロックがカウンター・カルチャーである時代は終わったのです。なんてことを思わされ、気持ちが広々としたまま一気に聴ける本作。実にグッドじゃないですか。そもそもがシンガー・ソングライターである彼の紡ぐメロディは繊細で、ぶっきらぼうなところはなく、あくまで丁寧。エレクトロニック音やギター・サウンド、渋みのある歌声もやはり丁寧。時々見せるファルセットもまたしかり。アルバム全体の表情は豊かとは言えないけれど、1+1を4や5にするのではなく、1+1を2にすることの足し算の正当性をきっちりやり続けている真面目さがあって、良い意味で優等生的な音楽になっている。かつ、シンプルなロック&ロールへの敬意がうかがえるサウンドは清々しい心地に溢れ、だから聴いてしまうのだった。やはり、これは、良いのである。

 ただ、だからこそシンプル性で勝負してほしかったなと思ったのも事実。歌声にエコーを効かせ、大胆にハンド・クラップをサンプリングし、遠近感を巧く使ったミックスも功を奏しているけれど、それはアニマル・コレクティヴや他のバンドにも共通するもので、他のアーティストと比べた場合、埋没してしまう可能性も孕んでいる。今後は自分のアイデンティティは何なのかを探り、それを深く追求することが課題になるのではなかろうか。しかしそれを差し引いても良い出来。ダーウィン・スミスによるギター一本の弾き語りも聴いてみたくなった。きっと素晴らしいに違いない。とにもかくにも、まずは本作を堪能しようじゃないか。一曲目だけ聴いてストロークス・フォロワーなどと言う輩がいようものなら、ドロップキックをお見舞いさせて頂きます。

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 NYの不良達がロックンロールを燃料に縦横無尽と転がっている。4ピース・バンド、エレクトリック・ティックル・マシーンの記念すべきデビュー・アルバムからは、ヘッドフォンやスピーカーからはみ出すような熱気や奔放さが伝わる。骨太にギターが掻き鳴らされ、トーマス・オリビエが飛び跳ねるような声を張り上げるロックンロールもあれば、古き良き時代を継承した、サイケデリックでメロウなメロディラインが響く楽曲も垣間見える。吐き捨てるようなロックというよりは、馬鹿騒ぎに近いか。

 アルバムを通して聴いた後の気持ちよく汗をかいたような爽快感は、全力疾走後の余韻に酷似している。ボーナス・トラックのガス欠っぷりがまさに象徴的でたまらない。テンポ的には早い曲は多くないのだが、その勢いと躍動さから、どの曲も爆走しているような錯覚を体感する。その律儀で不器用なまでのストレートさを武器にして、どこまで飛躍できるか、これから非常に楽しみである。それはすなわち本作がアルバムとしての完成度が高いだけでなく、今後の更なる進化を期待せざるを得ないアルバムにもなっているということであろう。

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 シカゴを拠点に活動する宅録系シューゲイザー・バンド、パンダ・ライオット。本作は、2007年に自主レーベルPanda Riotからリリースされたファースト・アルバム『She Dares All Things』から、およそ3年振りの新音源(5曲入りミニ・アルバム)である。元々は2005年、マルチ・プレーヤーのブライアンとレベッカ(ヴォーカル)により結成されたユニットで、今作からはジャスティン(ベース)とメリッサ(パーカッション)も加入し男2女2のバンド編成となった。とは言え、基本的なサウンド・プロダクションに大きな変化なし。アルバム・クレジットを見ると、相変わらずシカゴの自宅スタジオにて録音からミックスまで、全てを本人たちが手がけているようだ。

 彼女たちの特徴は、なんといっても清廉で無垢な楽曲にある。ハーモナイザーで加工したと思しきレベッカの声が、ポップで耽美的、かつオリエンタルな風味も散りばめられたメロディに乗って、ふわふわと天上を舞う。さらにエンジェリックなコーラスが幾層にもレイヤーされていく、この世のものとも思えぬような多幸感は、コクトー・ツインズやラッシュ、最近ではスクール・オブ・セヴン・ベルズ辺りを彷彿させるものだ。タイトなリズム・マシンと流麗なシンセ、ファズやコーラス、リヴァース・リヴァーブなど様々なペダル・エフェクターを組み合わせた、ノイジーなグライド・ギターの組み合わせも心地良い。この辺りのサウンド・センスは、先に挙げたスクール・オブ・セヴン・ベルズはもちろん、M83やマップスらとの共通点も見出せるはずだ。

 捨て曲なしの名盤だが、中でも最終トラック「16 Seconds」は白眉。トレモロ・アームによって歪められた、たった3〜4コードの上でコロコロと展開していくメロディが聴き手を白昼夢へと誘う。

 昨今、絶賛リヴァイヴァル中のネオアコにも通じる清涼感あふれるサウンドは、うだるような暑さが続く、これからの季節にピッタリだ。

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 こんなこと、レビューで書くのはあまりにも当たり前すぎるし、何だか言い訳じみて聞こえてしまうのだが、やっぱりバンドは見た目じゃない。例えばザ・ドラムスの格好があまりクールじゃなかったとすれば「もったいない」と思うかもしれないが(実際は激クール)、バンド・オブ・ホーゼズの場合、彼らのような「冴えないアメリカン」がやっているからこそ信用できるということもあるのだ。音楽的には前作とほとんど同じ牧歌的なフォーク・ロックだが、それらは一層深い深い悲しみを湛えていて人々の心に染み込んでいく。「Is There A Ghost?」という大アンセムが一際光っていた前作と比べ、全体の楽曲のクオリティも格段に進歩している。「良いけど印象に残らない」という声を完全に払拭した傑作だ。ふむ、やはり音楽がパソコンやiPodで聴かれる時代になろうとも、みんな温もりを求めているんだね。「角の立っていないフリート・フォクシーズ」では失礼になってしまうか。「アメリカのコールドプレイ」ではどうだろう。これは決して揶揄なのではなく、(私がコールドプレイの大ファンであるという事実も踏まえながら)最大限の賛辞として彼らに送りたい。
(長畑宏明)

*日本盤は7月7日リリース予定。【編集部追記】

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 紛らわしいので最初に説明しておこう。このリッシーというアーティストは、昨年デビューEP『Self-Taught Learner』が話題を呼んだNYのモデル兼SSWとは一切関係ない。

 本名はリッシー・モーラス、カリフォルニアのSSWだ。だが、同じくSSWといっても、音楽性は全然別。こちらはカントリーやフォークなどとロックのヴァイブをあわせたサウンドが特徴的だ。

 デビューEP『Why You Runnin』は、バンド・オブ・ホーセズのベーシストであるビリー・レイノルズがプロデュース。スティーヴィー・ニックスやシェリル・クロウを引き合いに出される、たくましさと麗しさを兼ね備えたサウンドにブロガーが反応、話題を巻き起こしてきた(特に、レディ・ガガ「Bad Romance」のカヴァーは必見!)。そして、この1stアルバム『Catching A Tiger』が到着した。トム・ウェイツやキングス・オブ・レオンを手がけたジャクワイア・キングがプロデュースし、全体的にはワイルドでトラディショナルな彼女の魅力が光る出来になっている。シングルとなった「In Sleep」では、広大で岩がちなLAの大自然が眼前に広がるようだし、ゴスペルの要素を取り込んだ「Bully」では彼女の力強く澄んだ歌声を聴くことができる。気高く、美しい作品だ。

 00年代にはニーコ・ケースやジェニー・ルイスがいた。そして、始まったばかりの10年代、僕らを魅了するアメリカーナの候補はこのリッシーだろう。ピアノ1本で広大な自然について歌いあげる、ラストの「In Mississippi」を聴くにつけ、豊かな金髪と青く澄んだ瞳のこのSSWに僕は期待してしまうのだ。

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 ポートランドを拠点に活動する6人組。<サブ・ポップ>移籍第一弾リリースで、彼らの名を世に広く知らしめることとなった前作『Furr』では、カントリーからハード・ロックまで飲み込んだサイケデリック・ロックを聴かせてくれたが、昨年リリースされた「Black River Killer」EPでは少し落ち着いた...例えばウィルコの近作のような手触りの、メロディの引き立った曲が多く見受けられた。

 そして5枚目のフル・アルバムとなる本作では、「Black River Killer」EPの路線を更に深めた、まさに独特のブリッツェン・トラッパー・サウンドを確立したと言えるのではないだろうか。前作で顕著だった雑多なポップ感覚は減衰し、よりルーツに寄り渋みを増したアレンジが印象的だ。ひたすら美しいメロディーとコーラス・ワークはフリート・フォクシーズにも通じるところがあり、彼らのファンにも聴いてみていただきたい。

 M8「The Tree」では、<ラフ・トレード>から作品をリリースしている女性SSWのアリーラ・ダイアンをフィーチャー。美しい歌声で作品に華を添えている。エフタークラングやホース・フェザーズとの活動で知られるヘザー・ウッズ・ブロデリックとピーター・ブロデリックの姉弟がストリングス・アレンジを担当。プロデュースは、ブライト・アイズやM.ウォードとの仕事で知られるマイク・コイケンドールとグレッグ・ウィリアムズが手がけている。
(山本徹)

*日本盤は7月7日リリース予定。【編集部追記】