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 「男は度胸、女は愛嬌」なんてことわざがあるけれど、カリフォルニアの4人組ガールズ・バンド、ダム・ダム・ガールズは「女は愛嬌? 何それ?」とツンとする。「ワタシ誰にも媚びる気ないし」と。黙って私たちの音楽聴きなさいよ的スタンス。いいねえ、クールだ。彼女たちのデビュー作を聴いていると、そんなツンとした表情が目に浮かぶ。中途半端な感情移入などしようものなら「あんたホントに分かってんの?」なんて一言も飛び出してきそう。ヤー・ヤー・ヤーズのニック・ジナーが参加。プロデューサーはリチャード・ゴッテラーの『I Will Be』。

 女性にとってカワイイがほめ言葉である日本にあって、彼女たちはかわいくない。欧米の女性にとってほめ言葉であるセクシーもまたダム・ダム・ガールズには似合わない。かといって彼女たちに魅力がないわけではなく、いわゆるツンデレだ。ぜひツンデレ好きの男性諸君に聴いて頂きたい。それはさておき。ジーザス&メリーチェインのファースト・アルバムを絶対に意識しているであろう本作(意識していないと言おうものなら嘘だと思う)。ジザメリのファーストは甘いメロディという、フィード・バック・ノイズを中和する要素があると思えるが、ダム・ダム・ガールズにはまるでそっぽを向いて歌っているような、ぶっきらぼうなところがあり、熱も抑制されている。メロディは甘美といえば甘美だけれど、それ以上にこのバンド、ツンツンしているのである。

 要は先に記したツンデレを感じるのだが、ツンデレとは「こんなそっけないワタシだけど実は受け入れてほしいのよ」という最上級の愛情表現である。それを感じるからこそ、ジザメリのファーストを暗いトーンにし、ガレージっぽくし、なおかつキルズのブルース・フィーリングを取り入れたような本作のダークな楽曲のどれもに顔を深く突っ込めば、そこにはオノ・ヨーコのアートでジョン・レノンが見たような「YES」の文字が浮かび上がる。

 婚活だとか女子力だとか、はたまたキュート・メイクだとかモテ・ファッションだとか、そういったものはこの作品にはないのです。装飾美なんてものもこの作品にはないのです。4人の女性が、ひねくれた、でも純粋な愛を奏でているだけなのです。シンプルに作られた本作は、何百通の長文ラヴ・レターより、「愛してる」という、そのたったの一言がとても素敵で、胸に響くものだということを語っているのです。ただし彼女たちはそっぽを向いているけれど。そんなところにツンデレ的かわいさをやっぱり感じてしまうんだな。歴史に残るような作品ではないけれど、かなりの快作。いや、改削作。

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 先日、オッカーヴィル・リヴァーとの共同名義でニュー・アルバム『True Love Cast Out All Evil』をリリースした(当サイトでも紹介されている)、ロッキー・エリクソン率いるサーティーンス・フロア・エレヴェイターズ(13th Floor Elevators)のトリビュート・アルバム。発売元は、いわゆる「シューゲイザー」系のイヴェントなどをロンドンで定期的に行なっている<Sonic Cathedral>で、これまでにもKYTEやスクール・オブ・セヴン・ベルズ、M83などニューゲイザー系のバンドや元ライドのマーク・ガードナーらが参加した『Cathedral Classics Volume One』のような良質コンピレーション・アルバムをはじめ、昨今話題の新人バンド、ザ・タンバリンズ、YETI LANEなどのカタログをリリースしている期待の新鋭レーベルである。

 参加アーティストの豪華さについては、リリース前からNMEなどで取り上げられ話題になっていた。例えば冒頭曲は、エリクソン本人がザ・ブラック・エンジェルズを率いてセルフ・カヴァーした「Roller Coaster」。他にも、エクスペリメンタルなガレージ・バンド、オール・ザ・セインツによる「Don't Fall Down」のローファイなカヴァーや、ブルックリンを拠点に活動し、MUTEから傑作セカンド・アルバム『Exploding Head』を昨年リリースしたダーク系シューゲイザー・バンド、ア・プレイス・トゥ・ベリー・ストレンジャーズによるフィードバック・ノイズまみれのインダストリアルな「Tried To Hide」、ニューヨーク在住のシンガー・ソングライターCheval Sombreによる、アコースティックな「You Don't Love Me Yet」(彼を以前プロデュースしたこともあるソニック・ブームとの共演)、そして、元デス・イン・ヴェガスのリチャード・フィアレスによる新バンド、ブラック・アシッドがフライング・ソーサー・アタックばりの轟音で埋め尽くした8分越えの大作「Unforced Peace」(圧巻!)等々、一筋縄ではいかない楽曲が並んでいる。

 そんな中、個人的に最も印象に残ったのは、フランス人シンガーCharlotte Marionneauの1人ユニット、Le Volume Courbeによる「I Love The Living You」のカヴァー。エリクソンが1999年に発表した、アシッド・フォークの名盤『Never Say Goodbye』(ブラック・アシッドが料理した「Unforced Peace」も収録)のこの曲を、彼女の恋人であるケヴィン・シールズと共に披露した。ここでのケヴィンはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインで聴かせる轟音ギターは横に置き、ざっくりとしたアコギのストロークとメロディカの演奏に徹しており、そのシンプルなアレンジがシャルロットの少し掠れたロリータ・ヴォイスを引き立たせている。プライマル・スクリームやポール・ウェラーとの仕事で知られるブレンダン・リンチによる、控えめなミックスも秀逸だ。

 ともかく、本トリビュートはエリクソンの持つソング・ライティング能力に光を当てたばかりでなく、本家サイケデリックとシューゲイザーを結びつけた、Sonic Cathedralらしい非常にユニークな内容に仕上がっている。

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 近代においての歴史的な視線は声を常に、「声」の方へと、イデオロギーの方へと、呼び寄せてしまう。声は「物質としての声」であることを剥奪される事になり、一個の根源からの「声」へと還流してしまう。音楽という分野は、抽象的な何かを孕むからこそ、その経験を幻惑的で個的な体験へと転化する。いわば無媒介な根源の到来の場を提示する。例えば、それはジェフ・バックリィーやエリオット・スミス、アントニーの「声」にふと出会ってしまった感覚を想起すれば早いように、声には総てが宿り、またある種、何もかもが無い。

 しかし、「声としての音楽」を考察する際には、政治という領域を辿る懊悩が付き纏うのは周知だろう。ルソーは「言語起源論」の中で、声について語る際、それは政治という言説を形成するものに他ならないと言った。「声」の、また、音楽の体験はそれが個的なものであるにも関わらず、根源への参入の場でもあるが故に、共感の構造の内に共同体を形成させる。近代では、声の共有化の内に、換言すれば音楽の権能の内に機能する。芸術の非政治主義が政治主義そのものに転化する近代のパラドキシカルな構造を此処に可視出来る。

 98年という「近代」に、コール・ポーター、ジュディ・ガーランド、エディット・ピアフ、ランディー・ニューマンなどのポップ・ミュージックのレジェンドからモーツァルト、ヴェルディ、ワーグナーといったオペラの影響を折衷させる力技を試みた時から、ルーファス・ウェインライトは「声の政治性」に自覚的であり、また、ゲイであることの意味を包み隠さない真摯な表現を挑み、その後、必然的に『Want』二部作で豪奢なサウンド・ワークを極め、オペラとロックのダイナミズムを折衷させたパフォーマンスを行なうようになったのは周知だろう。ただ、僕はその過剰になってゆく彼の佇まいとオーバープロデュースとも言えなくもないクラシカルな重みにしんどさをおぼえてきてしまっていたのも事実だ。例えば、セカンドの『Poses』のようなささやかな小品のようなアルバムをまた作ってくれないか、という気になることも多くなっていた。

 6枚目となる今回のアルバム『All Days Are Nights:Songs For Lulu』は全編ピアノの弾き語りで大袈裟なアレンジもなく、全体的に悲痛なトーンで貫かれており、モティーフになったのはシェイクスピアの詩集『ソネット集』であり、昨年のベルリンで上演したロバー・ウィルソン監督の演劇『ソネット』の為に書いた曲の中からも選ばれている。そして、歌詞の内容は闘病の結果、この世を去った彼の母親への想い、妹でアーティストでもあるマーサ・ウェインライトへの呼びかけ、プライベートなものに終始しており、彼の美しい声も伸びやかというよりは、抑え込むように切々とした翳りがある。また、アルバムのタイトルに入っている「ルル」とはドイツ映画『パンドラの箱』でのルイーズ・ブルックスが演じた踊り子の名前であり、彼独特の美意識は徹頭徹尾、ここでも敷かれている。

 これは彼のモノローグにして自己浄化の為のアルバムだと思うが、ニック・ドレイクの諸作をふと想わせる儚さと剥き身の優しい悲しみが充溢していて、ふと涙腺が緩みそうになる瞬間が多々訪れる。ルーファス・ウェインライトという人は完璧主義者というイメージを個人的に持っており、それが故に、入り込めない壁も感じられたのだが、このアルバムから彼の「声」がしっかりと聞こえてくる。

 現代の音楽の地平で、あえて唯物論的に闘うとするならば、そこで発せられる声は、声である訳にはいかない。声は根源であれ、何であれの指示物たることを辞め、「声自体」としてあらねばならないとしたら、「全ての声は既に発せられてしまった」という事実に対峙しないといけなくなる。それは即ち、「新たな声の発見の禁忌」であると言い換えられるが、新たな声はそこに「新しさ」という属性が付与されているが故に、声を放逐してしまう。つまり、新しい声の探求とは、声という象徴性のもとに再び観念化し、寧ろのこと、声の統括能力を補正する機能を担うものになってくる。このアルバムでの彼の孤独で純粋で無垢な声は、まさに政治的でもある。

 このアルバムの閉ざされ方への否定が滞留する内においてのみ、客体は主体の軛(くびき)を逃れ、声は自らを開示するとしたならば、初めてルーファス・ウェインライトは重い観念の鎧を脱ぎ捨て、裸身になれたのかもしれない。

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 ロンドンのパンクスは、盗品や中古のギターを手にした。NYのキッズは、捨てられていたテクニクスのターンテーブルを持って帰った。ジャマイカでは、巨大スピーカーをセットした移動式ディスコがサウンド・システムと呼ばれるようになった。ひらめきと大胆な行動力。いつの時代も、そこから新しいサウンドが生まれる。そして、コンゴのコノノNo.1には自動車やラジオの廃品があった。自動車やラジオの廃品って!

 コンゴの伝統音楽に根ざす強烈なアフロ・グルーヴ。そのサウンドの核になっているリケンベと呼ばれる親指ピアノ(カリンバ)は、自動車やラジオの廃品から手作りされている。パーカッションも自動車のホイールキャップだという。リケンベにはちゃんとストラップがあって、見た目もかなりカッコいい。リケンベをアンプにつないで歪ませるなんて最高でしょ。ミニマルとも言えるシンプルなリフを、踊るためだけにデカい音で鳴らす。しかも大人数で。

 1stアルバム『コンゴトロニクス』から5年。なにやら物騒なタイトルの2ndアルバムが完成した。もはや作曲という概念すら軽く吹き飛ばす、ありったけのグルーヴに身をまかせよう。あえてリケンベを封印してパーカッションでぐいぐい引っぱる3曲目の「Thin Legs」や果敢にもアンプラグドに挑戦したラストの「Nakobala Lisusu Te」など新機軸も確かにある。ギターとベースが加わって曲の輪郭がはっきりした。でも、基本はやっぱりリケンベとパーカッション。そして雄大なコーラス。このアルバムを手に入れたら、ヘッドホンでも部屋でもクラブでも、とにかく大きな音で聴こう。きっと体を動かさずにはいられないはず。

 ビョークがアグレッシブな姿勢を見せた『Volta』。コノノNo.1は、その冒頭を飾る「Earth Intruders」に客演している。それは彼らの音楽が最高のダンス・ミュージックなのはもちろん、レベル・ミュージックとしての存在意義も孕んでいるからだと思う。自動車の廃品を拾い集めてまでも鳴らす必然があった音楽。ダンス・ミュージックとしてのポジティブな輝き。パンクやレゲエ、そしてヒップ・ホップと同じ生命力が躍動している。1969年以来、不安定な国内情勢や内紛でメンバーを失いながらも今、ここで鳴らされているという事実が熱い。グルーヴも力強さも不変だ。いろんな意味で奇跡のダンス・ミュージック。最高!

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 Ars Electronica 2006でのHonorary Mentionの受賞をはじめ、SUNN O)))、大友良英、山本精一など国内外のツワモノとのガチンコ共演、円盤ジャンボリーへの参戦など、東京、岐阜、新潟とメンバーがそれぞれ離れた場所に居つつもゆっくりと着実な歩みを進める3人組のフリーセッション型ノイズ・ユニットのみみづ(MIMIZ)が、初となるプレスCDをリリース。

 今作は、2008年の夏に行われた岐阜と新潟でのライヴ・セッションの模様を収録した全2曲。ギター、ミキサー、躍動的なアラブ打楽器のレクやハンド・ドラムなどを駆使して綿密に創り上げられていくノイズ、アンビエント、ドローン、エレクトロ、エクスペリメンタルな音像を、PCでリアルタイムに分解/再構築し、創り上げられていく。明確なメロディがあるわけではないが、それが心地良かったり、はたまた高揚させられたりと、発せられる音の数々につい食い入ってしまう。その独創的に創出される様は、宇宙や未来、と言うよりもこの世の次元とは全く違う、「異次元空間」という言葉が一番しっくりくる。ゆっくり、激しく、うねって、どよめく。ひとつの曲に様々な展開を見せる彼らのセッションを、目を閉じて聴くと、そんな別世界へと誘われるようだ。

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 聴きやすく、ポップだが、実のところ問題作と言える。あるいはアーティストの意図から離れ、リスナーの音への意識改革作とでも言うべき作品になっている。このエレクトロニック・ミュージックをスルーするのは勿体ない。

 個人的にオウテカが音楽の未来を背負っているかいないか、ということや、エイフェックス・ツインはテクノの神と呼ばれるということに興味がなくなり(先に挙げたアーティストの音楽は大好きだし、功績も理解しているけれども)、そんなときに見付けたこの作品は面白く興味深くあるのだ。ムームのリミックスを手掛けたことでも知られるアイスランドのアーティスト、ラックスピンの『I Wonder If This Is The Place』。

 まるでエイフェックス・ツインの『Selected Ambient Works 85-92』や初期オウテカ、スクエアプッシャーなどの音楽性をサンプルと見立て、取り込んでいるかのようなリミックス中心のこの音楽は、もはや先のアーティストの音楽性はスタンダード化し、素材として自由に使ってもかまわないものだと言っているかのよう。ドリルン・ベースもミニマルな奏でも、いまはもう大衆的な音楽性であり、珍しくないことを雄弁に語っている。

 過去の作品を聴けばラックスピンが敬意を払いつつ他のアーティストの音楽性を取り込んでいることは想像に難くない。だが、それこそエイフェックス・ツインをフリー・ダウンロードしているような本作が、実際にn5MDのサイトでフリー・ダウンロードできるということに皮肉を感じるし、このユニットの、敬意を払いつつも神格化されているアーティストを神格化しない姿勢が、本作そのものを「神格化の否定」という批評として成り立たせている。

 そうして涼しげで爽やかな、なおかつ甘美で透明な美しさを閉じ込めた音色を前面に押し出し、聴き手を魅了する『I Wonder If This Is The Place』。それは、オウテカ、エイフェックス・ツインの音楽性を大衆化、または娯楽化を促進させているという意味においても大きな意義を持ち、なおかつポピュラー・ミュージックとして十分、息をしている。

 無論、本作は単なる模倣に終始しない。やわらかなエレクトロニック音が耳にするすると入り、風船が尻もちをついたような豊かな弾力が攻撃性の一切を取り除く。とてもリスナー・フレンドリーな音楽として聴ける。それもまた、ビッグネームの音楽性は難解なものではなく、とても親しみやすいものだということを示し、やはり興味深い音楽だ。前述したようにフリー・ダウンロードできるのでぜひ聴かれたい。音に酔うことができる作品にもかかわらず考えさせられるものがある。

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 元々、07年に、人づてに「(自分が出た大学)のバンドの中でクールな新しい音を鳴らしているのが居る」というのを聞いて、関心を持ち、MySpaceでチェックしてみたら、そこには幾つかの音源と、如何にもなヴィジュアル・コンセプトが設定されていた。簡単に言えば、15世紀から16世紀にかけての、ルネサンス前の中世建築やアートに中指を立てたアントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリのような高貴さ、と「ゴート風」な全体像と言えるだろうか。それは、当時、全員が同じ大学で出会ったという事実から、「クラーク記念館」的なドイツ・ネオ・ゴシック様式に魅せられた「よくある学生」という感じもした。翌年に、ライヴを観たことがあるが、演奏は拙いものの、低温火傷を起こさせるようなパフォーマンスで細身のスーツ姿の四人の佇まい、バウハウスをラルク的な希釈的な解釈じゃなく、しっかりと鳴らしている感じには好感を持てた。それは、セカンド前のザ・ホラーズ辺りとも共振もしていたし、スーサイド、ジョイ・ディヴィジョンやインターポールの匂いを強烈に感じもしたし、歌詞世界はザ・キュアーのロバート・スミスではないか、と思った。同時に、漸く、堂々と胸を張って、こんな暗い音をスタイリッシュに鳴らす事が出来る日本のバンドが出てきた事に、シーンの変化の胎動も察知出来た。それは、当時のニューエキセントリック・シーンの盛り上がりの中で、ミドル・クラスの子たちが「敢えて音楽をやる」意味解釈が自分の中で再定義出来てきていたという背景もあった。

 この日本で所謂、ゴシック系の音を鳴らすのは実際的に難しい。ともすれば、すぐヴィジュアル系、耽美系と侵食し合ってしまうし、また、デモーニッシュなものが「現前」しているアメリカとかUKでは成立しても、そういった「デモーニッシュな何か」を持ち得ていない、この国だと「ただ暗いだけ」の音楽だけで片付けられる可能性もあるのは実際に海外のそういう人たちと話せば分かる。それは、ナイン・インチ・ネイルズやレディオヘッドのライヴに足を運んで、確実に少なくない数でいる「黒の誘惑」に魅せられた集団や、彼等の文脈で、意味が付与されているバンドの音の回収のされ方とも繋がってくる。勿論のこと、それは、各々の信条、生き様、宗教性にも連関してくるので僕は良いと思うが、日本という独特な国で基本的に、成立しにくいのはカタルシスが「別方向にある」という快楽指数の問題だけに依拠する。「神」は寧ろ、「八百万」なのだから。

 インターポールのストイシズムの美学とかは日本では「受けにくい」のはサマーソニックという大きいイベントのライヴで観ていても思ったし、大文字の「理解り易さ」を受容する磁場がマスを設定しているのだ、とも別解出来る。パワー・コードやヴァース・コーラス・ヴァースのカタルシスが仕掛ける感情のタイプキャスティングには勝てないということだろうか。

 でも、だからこそ、僕は彼等に期待していた。それは、「上品な翳り」があって、スタイリッシュでメロディーも締まったバンドとして。アンサンブルも引き締まっていて、それでいて何処と無く厭世感が漂っているというデビュー期のザ・ストロークスに似たような温度のニヒリズムと熱さに対して。

 局地的にバズが起こった08年のデビューEPの「Moralist S.S.」は、興味深かった。特に、表題曲の持つキャッチーさと、思索的な歌詞、そして、感情の襞の内側を潜行、内破していくかのようなエッジ。インタビューに依ると、フロントマンのKENTの意図で「S.S.」は大江健三郎の「日常生活の冒険」の斎木斎吉から取ったと聞いた時、そのベタさに苦笑いしてしまった。ベタさ、というのは、僕は大江健三郎というチョイスではなくて、「個人的な体験」でも「万延元年のフットボール」でもなく、「日常生活の冒険」というのが「らしい」な、という文脈だ。71年の作品で、或る程度、彼がオブセッシヴに性的なモティーフに駆られていた時期のもので、斎木斎吉は模範的なモラリストとして生きる事を予め設定されている。18歳でナセル義勇軍に志願したのを始めに、「当時の現代」を旅とタナトスをベースにサヴァイヴしていく青年像が彼の盟友であった伊丹十三氏を参照に描かれるという、大江作品群の中では比較的、地味で、評価的に決して高いものではない。それにKENTが敢えてインスパイアされたという捻じれ方に僕は逆説的な「出口なき、時代を生きる典型的な若者像」を可視化出来た。
その後、東京に居を移したり、メンバーの変遷がある中の混沌とした様相、09年のファースト・フルアルバムの『Part of Grace』の「幅の狭さ」、「音楽的な語彙の少なさ」もあり、自然と僕は期待より不安の要素が大きくなりつつあったのは否めない中で、届いた今回のEPはとても吃驚した。

 「Meru(メール)」というタイトルはサンスクリット語で言う須弥山という意味であり、インド宗教の世界観の名中で、その世界の中心にそびえ立つ山を指す。サンスクリット語とは、古代インドの有識者を対象にした 「人為語」であり、ヴェーダ語から発展し、紀元前4世紀頃パーニニによって文法が体系付けられたものであり、パーニニによって完成されたサンスクリットは、その後二回補修されただけで、二千数百年経った今も変化していないという独特の言語であり、そこから更に意味深い「Meru」という単語を孫引いてくる辺り、新しいモードに入っている事が如実に分かる。そして、KENTの意図に沿って、6曲のそれぞれにストーリーが付加されており、コンセプチュアルなものではないと言っているが、6曲を通してこそ、見えてくる世界観もある。

 例えば、リード曲の「devaloka」を通底するテーマは「無常への恐れ~仏教的世界観との出会い」といったものだが、流れるコードは耽美的なものであり、メロディーも思索に潜る雰囲気といい、それまでの彼等の延長線上にある曲と言っていいだろう。「Moralist S.S.」に続くピンポイント・アンセムとして、今後も要所で活躍すること紛う事ない。そして、この曲だけでも明確に分かるのが、リズムの重厚さへの意識的な変化だ。ニューウェーヴ的な翳りを纏い、金属的でエッジのきいたギターで駆け抜けるような繊細さからの脱却。それは、デビュー期から比較対象に挙げられていたザ・ホラーズが「Sea Within The Sea」でクラウト・ロックへの目配せを入れて、パースペクティヴを拡げた鮮やかさも彷彿させる、と言えるかもしれない。でも、僕は、彼等の変遷は、東洋的な、和的な変遷があるという気がしている。「Devaloka」や「Decline Together」に関しては、これは私的な感想だが、世界的に今も活躍するBUCK-TICKの95年の名盤『Six/Nine』の持つスマートな重さ、を思い出した。今井寿氏は彼らを評価していたと聞くが、BUCK-TICKという孤高の暗みを描いてきたバンドと、現代になって「共振」してくるのは非常に示唆深い。

 3曲目の「A Life As Something Transient」では冒頭からダヴィーなサウンドスケイプの中、BPMをグッと落として歌う部分には、『K』~『Peasants、Pigs And Astronauts』の際のクーラ・シェイカーのようなムードも一瞬感じたが、そういったスピリチュアルなムードを払拭するように、テンポを変え、鋭角的なギターで切り込む展開はとてもスリリングで、今のバンドの良い温度感が伝わって興味深いし、今の彼らにはまだ「Shower Your Love」は必要ない故に、納得できる。

 細かく列記していくことも出来るが、何よりも先に、今回のEPと、これまでと大きな違いは、METALMOUSEを共同プロデューサーに参加していることもあるのか、音響空間的な幅が出ているのに尽きる。これまでの彼等は優等生的に、真摯にバウハウスやジョイ・ディヴィジョン的なモティーフを輻射することに命を賭けていた所があった。しかし、それが逆に形式主義的になってしまう所は垣間見えたのも事実だ。僕は真面目な話、ポーティス・ヘッドのジェフ・バーロウと彼等が組めば面白いことになるのに、と思っていた時期があった。今作はそんな勝手な自分の思惑を跳ね除けるように、別の角度から応えるように、新しいリリーズ・アンド・リメインズ像を提供してきた。世界というシリアスな難物に対峙するとき、方法論を変えるのも、スピリチュアルに潜るのも一つの手としたならば、このEPで得た手応えをベースに更に彼等は先を描ける筈だろう。

最後に、2部構成の「Tara」における、オーウェン・パレットが築き上げたような壮大なサウンド・タペストリーには心底、僕は感動したし、その冒険心に拍手を送りたい。

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 今、アジカンは過渡期にある。

 いや、自らの置かれた状況の中に、何らかのアンチテーゼを見つけ、それらを止揚させることによって、常に新しい自分たちのスタンスを更新し、確立していっているこのバンドの場合、過渡期でない時の方がむしろ少ないのかも知れない。しかし、それでも僕はもう一度、今のアジカンは過渡期にあると言いたい。もちろん肯定的な意味で、だ。

 このアルバムの先行シングルとして、明らかに今までとは異なる実験的なアプローチの「新世紀のラブソング」、漫画・映画の同名作品とのコラボレーションであり、初めて後藤以外の人間による作詞の曲「ソラニン」、彼らのキャリア史上初のホーンセクションを大々的にフィーチャーした「迷子犬と雨のビート」の3枚がリリースされていた。

 これらのシングルで共通しているのは、言うまでも無く、どの曲も今までのアジカンとは違うスタイルを意図的に取り込んでいることだ。それらの楽曲を聴いて、僕は、ニュー・アルバムは、期待するのと同時に、少しとっつきにくいような、実験性に満ちたアルバムになるのでは、と少し不安になっていた部分も正直、あった。

 しかし、アルバムを一度聴いただけで、それはただの杞憂であることが、すぐに分かった。

 確かに、今までとは違うアプローチで鳴らされた曲も多い。しかし、例えば、陽性のアップビートで歓喜を鳴らす「迷子犬と雨のビート」も、どこか空虚なセックス・ソングを思わせるセクシャルなゆるやかさを持った「架空生物のブルース」も、タイトル通りのダンス・チューンの「ラストダンスは悲しみを乗せて」も、ブルックリンのインディ・ポップ・シーンを凝縮したようなシンセが鳴り響く軽快な「マイクロフォン」も、どの曲も全てがアジカン新機軸の斬新さを持ちながら、見事にギター・ロックあるいはパワー・ポップと言った地点に着地しているのだ。

 そう。思い返せば、アジカンはアーティストとしての表現欲を剥き出しにするあまり、リスナーを「置いてけぼり」にするような事は一度もした事などなかった。

 詞世界の面も触れておきたい。

 このアルバムの歌詞は、どれも完全に外に、社会に、今この瞬間の世界に向いている。内省はもう既に、しきった。自分が何者でもなくて、何も持ち得ないことも分かった。だからこそ、これから始めるのだ。痛みを背負ってでも、他者に、世界にコミットしていくのだ。そう言った、現実を見据えながらも陽性な、後藤正文の意志が、強く表れている。

 特筆すべきは、やはり「新世紀のラブソング」で始まり、表題曲の「マジックディスク」へと開かれていく流れだろう。「新世紀のラブソング」は、既にゼロ年代のムードに終わりを宣言する曲である。それは時代へのリセット・ボタンでは決してなく、コンティニュー・ボタンである。続く「マジックディスク」は音楽がハード・ディスクに、ダウンロード制に移行していく現代に呼応した、時代を象徴した曲である。これらの流れでこれまでの旧時代・旧体制に終わりを突きつけて、現実を恐れず見つめているのだ。

 「さよならロストジェネレーション」もまた、何も無い地平を嘆くのではなく、それを受け止めた上で、内省によって自ら築き上げた檻を出て、世界と向き合おうと歌う。これこそが後藤正文自らの世代の閉塞によるアンサー・ソングだ。「イエス」にいたっては、安直な共感も、孤独のバイブルも僕らにはいらない、とまで歌っている。

 内省の時代、自分探しの時代、ゼロ年代は長らくそうだった。それはそれで、悪い時代と言うわけではない。しかし、もうそれは終わりだ。確かに、自己を見つめることほど、大切で主体的なことはない。しかし、それによって自らを閉じ込めてしまっては、本末転倒だ。これからは痛みを背負った「個」でありながら、「個」のまま社会にコミットしていく時なのだ。そして、「そう、いつか君と出会おう」。

 アジカンはまたこのアルバムを出すことによって、過渡期を越えて、新たなアンチテーゼを自らの中に見つけ、更新されるだろう。この実験的ポップ・センスが向かう先を期待せずにいられようか。

 まだまだ10年代がどうなっていくかなんて、誰一人分からない。

 しかし、この先の見えない無秩序な社会に「個」のまま関わっていこう。『マジックディスク』を携えて。このアルバムは、それを乗り切るための、僕たちの羅針盤なのだ。

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 昨今のSATCを巡る熱狂というのは奔放な女性(女の子ではなく)の人生を生きる事が出来ない女の子(女性ではなく)の生物的なフラストレーションが歪な形で爆発したというコンテクストを敷けばいいと思うが、勿論、そこには「男」は介在しないのが面白い。そもそも、韓流ブームにしても、婚活ブームにしても、実はそこに「実在の男」は存在しなくて、彼女たちが描く「在るとしての、男」が幻像的に揺らめくだけであって、人間しか残らないという考えを援用した上で、ハイデガー的な解釈論が必要になる。

 けれども、凡庸な男性/女性への彼岸の目だけでは掴めない。寧ろ、その男性の「生の事実」だって、ふだんは茫漠としたままになっているか(生の朦朧性)、あるいはそこに埋没した耽落(Verfallen)のままにあるというのが現代の陥落でもあって、死や否定や負といった回路をいったん媒介にして、「現存在」(Dasein)という新概念として、次に投入する必然性が女性側に求められているとしたならば、今とは、リトル・ブーツにしても、ラ・ルーにしても、女性の感度は弱くなっていると言わざるを得ないのだ。現在のリリーアレンだってそうだろう。何故なら、朦朧と存前する男性に翻弄されているのは逆説的に女性側だからだ。

 そういう意味で言うと、2006年から熱狂的に男性/同性からも愛され、ファッション・アイコンとしての存在も大きくなっていたアフィの存在とは「在る、女性」そのままだった。

 MySpaceで発見されたという意味ではリリーアレンには近い部分があるのだが、彼女の場合はもう少しクラブ寄りでスタイリッシュさがあり、サブカルチャー的な雰囲気を忍ばせていた。ミルウェイズ、セバスチャン、フェッズといったフレンチ・ハウスのブレインが彼女を固めたという意味もよりクールな度合いを強めていったのも大きいだろう。

 素晴らしいEPを発表しながら、また、それらが全てクラブでパワースピンされるという状況にありながら、フルアルバムに関してはなかなか出る気配が無かったが、今回満を持して、『SEX DREAMS AND DENIM JEANS』という彼女らしいタイトルの作品が届けられた。これまでのシングルも勿論、全部入っており(特に「Pop The Glock」はポップさとキュートさを併せ持ったエレ・ポップの名曲)、リード・シングルのファレルとの「ADD SUV」も3曲目に入っており、他にもスージー・アンド・ザ・バンシーズの「香港庭園」のカバーなど、ファーストにして彼女のポテンシャルがいかんなく発揮されたものになっている。いかんなく発揮されたということは、つまりは、もう曲の表情はバラバラで、エレ・ポップもあれば、マッシヴなダンス・チューンもあれば、ヒップホップまでスキゾなこの数年間の実験結果を詰め込んだというものになっているということだ。それなのに、ポップ・ミュージックを聴く時のような軽やかさが全体を通底しており、散漫な印象は全く感応出来ない。

 今や、「一定方向のコース」を懸命に走り続けるパラノ型の資本主義的人間類型は、デッドエンドを迎えるしかない。そのあとに来るべき、アフィとは、ありとあらゆる方向に逃げ散っていくスキゾ・ガールとしたならば、ハードな管理下で懸命に自分の存在を捉えさせないようにする絶滅危惧種とも言える、「女の子」なのかもしれない。そしてまた、制度的な〈大文字の他者〉はもとから〈象徴界〉の次元であったとして、〈大文字の他者〉を脱構築することは象徴交換のヒエラルキーなきゲームを可能とするのではなく、〈象徴界〉それ自体を無化してしまうことだとしたならば、その結果として〈想像界〉的なアイデンティティに沈み込む「居直った子供」が現れるのは当然なのだ。アフィの居直りと逃げ方は多くの人を救う可能性を秘めている。レディー・ガガのような振り切り方じゃなくても、こういった形でちゃんと「女の子」はスマートに時代を泳いでみせるのだ。今年のダンスフロアーで彼女の声を聞かない日はないのではないだろうか。キュートで好戦的な快作。

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 ...えーと、このジャケットを見てもらえれば、あとはもう何も語る必要もない気もする。パロジャケ考現学を標榜した『すべてのレコジャケはバナナにあこがれる。』(安田謙一+市川誠・著)は僕も大好きな一冊だが、いつか改訂版を出される暁にはぜひともカラー・ページにて本作を紹介してほしい。『ミート・ザ・ビートルズ』に対する『ミート・ザ・レジデンツ』、ノイバウテンをパロったときのライアーズetc....に匹敵する、いい加減ながら適切で、悪意を漲らせつつそれに勝る愛情をもった引用。かつてレイプマン時代に「Kim Gordon's Panties」という曲を作って本人たちに大目玉をくらったアルビニ先生も、まさか10数年後にこんな素敵すぎるパロディの矛先となる羽目になるとは思わなかっただろう。ロック・ファンならアルビニ関連作品のベストは何かを議論すればそれだけで一晩過ごせそうだが、今後はこのジャケットも立派な候補になるかもしれない。もちろん本人は直接関わってないけど。

 <Important>というノイズ/アヴァン系のレーベル(それこそ、日本のメルツバウやアシッド・マザー・テンプル、灰野敬二といった方々までフォローしている)からリリースされた本作。ジャンルとしてはグリッチ・アンビエンドとなるのだろうか。ハーシュノイズで表現されたときにセンチメンタル、ときに無軌道なメロディと、シナプスが枝分かれを繰り返す様を顕微鏡で覗くような崩壊寸前のリズムによって構成された音楽は、耳に痛く突き刺さる瞬間も多分にあるが、包容感のある温かみも垣間見せ、捉えどころがないというのもそうだし、人間らしいといえばどこまでも人間らしい。かつて辣腕を振るい無茶苦茶の代名詞として、レーベルやシーンを横断しつつ溢れんばかりの悪意を振りまいた彼は、一方で恥ずかしすぎるほどセンシティヴな一面を時折覗かせた(僕はそんな彼の一面がとても大好きだ。キャリアで一枚挙げるなら迷わず『P.S. I Love You』を選ぶ)。

 不思議といえば不思議な、音のもつウォームな触感については、「このアルバムの曲は全てアナログ音源(アナログ・シンセ、AM/FMラジオ、マイク)によるものをコンピューターで構成し、2トラックのアナログ・テープでミックスとマスタリングを施した」という、ライナーノーツにある記述がそのまま要因を説明しているだろう。かつて元ネタとなったアルバムの裏ジャケで「Fuck Digital」を標榜したアルビニ先生の精神は、きちんとこういった形でリスペクトされている。単なるウケ狙いのパロディではなかったわけだ。

 意識が遠のきそうな教会音楽的低音のドローンからシンプルなメロディの萌芽が現れ出す「Dim Ego Prelude」で幕を開け、「Mild Pureed Ego」では連続的な進行のノイズが脳を揺さぶる。「Lou Reed Gimped」なんていう曲もある。このスタイルでこの曲名なら連想するのはもちろん例のアレだが、インダストリアルなノイズの狭間でサンプリングされた声が分裂神経症気味に鳴る様は、メタル・マシーンというよりはもう少し生物的な響きをもっている。15分以上に及ぶ「Periled Emu God」はノイズの音波に浸ることを許さない、漂流物が目まぐるしく通り抜けていくような展開が面白い。「Deep lid Morgue」は警報及びその被害報告が延々鳴り続くような鋭い騒音の連続で、最後の「Die Rumpled Ego」では悪夢的な金属音が讃美歌のような神々しさも兼ね備えている。変な音楽だ。

 面白いのは、今まで挙げたものも含めた収録曲のすべての意味深げなタイトルが、すべてKid606の本名「Miguel De Pedro」のアナグラムによるものだということ。彼がそうしたことで何を表現したかったのか、また、彼が自分の名前を並べ替えて全曲分のタイトルを搾り出す作業にどれくらいの時間を費やしたかまではわかりかねるが、ひとまずこのアルバムがジャケットの見た目より遥かに大真面目で、パーソナルな表現の顕われであることはそこからなんとなく検討がつく。たぶん彼の今回の試みはうまくいっていると思う。繰り返し聴けばチルアウトとしての効用も生まれそうな人懐っこさもここにはあるし。移り変わりの激しすぎるエレクトロニック・ミュージックのシーンにおいて、彼の放つ悪意は変わらず孤高なままで、何よりそのことに一番安堵した。