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 UKロック・シーンで最も気難しい男と呼ばれるマーク・E・スミス率いるザ・フォールがドミノに移籍してのアルバム。バズコックスを中心としたマンチェスター・パンク・シーンの一端を担いつつも音楽的にはポスト・パンクと言えるものをすでに体現していたということもあり、近年のポスト・パンク的バンドから尊敬される存在となったが、日本では相変わらずの立ち位置であると思う。聴く人は止められない。出たら買う、そんなかんじ。誰々が尊敬しているから聴け、みたいな言い方をよくされるバンドでもあるが、それでも手を出す人はそんなに多くないのかな、と思うが、こうして連続して日本盤も出るわけなので、それなりの広がりはあったのか。

 いつもどおりだがいつもどおりではないという感じで細かいところを言えば様々な変化はあるが、一聴して、フォールなんだ、これは。厭味な言い方をすれば、フォールによるフォールらしさの再現と言えなくもないが、それが唯一の存在であって誰も真似できないというところに大きな意味がある。フォールとは労働者による芸術の爆発であり、マーク・E・スミスはその体現者である、ということを今更ながら強く意識させる、いつになく粗野で生々しい録音。これがバンドである、と言わんばかりの音。タイトなバンド・サウンドにマーク・E・スミスの吐き捨てるようにぶっきらぼうなヴォーカル。90年代初頭にフォールは一度だけ来日しているのだが、そのときの、シンプルでクールで淡々としているのだけど段々と観ている方が熱くなってしまうような感覚を思い出した。つまり、いつもどおり「聴くべき」アルバム、だということだ。

 通して聴いていて、最後の方でふと聴き憶えのあるメロディー(?)にブチあたった。おお、これはワンダ・ジャクソンの「ファンネル・オブ・ラヴ」じゃないか。クランプス経由で知った人も多いと思われる妖しい魅力を持った曲なんだけど、ここではかなりアレンジされていて、唄い方もかなり崩しているが、「ファンネル・オブ・ラヴ」に間違いない。以前、彼らはキンクスの「ヴィクトリア」をかなりストレートにカヴァーしてたこともあったけど、今回、どういうつもりでこの曲を持ってきたのか、興味が湧く。

 前作は2007年だったし、同時にマウス・オン・マーズとのユニット、ヴォン・スーデンフェッドやゴリラズへのゲスト参加などもあったから、いいペースでの新作と言えるのではないか。フォールが新作を出したというと、なんか不思議な安堵感があるな。フォールの新作が出ないという時がいつかくるのだろうけど...。

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 6月2日に残響レコードより発売されたルミナス・オレンジの新作『Songs of Innocence』。ルミナス・オレンジの中心人物である竹内氏と、ベースに河野岳人(LAGITAGIDA , ex-マヒルノ、他)、ドラムに西浦謙助(相対性理論、進行方向別通行区分、他)、アヒトイナザワ(VOLA&THE ORIENTAL MACHINE)クリストファー・マグワイヤ(ex-くるり)、ギターに柳川勝哉(CAUCUS)をサポートミュージシャンとして迎えている今作。

 僭越ながら本当に大名盤であることに疑いの余地無し。

 「Sea Of Lights」や「Untold」などのソリッドで、フィードバックや轟音の持つ圧倒感と、リズムの持つ説得力と格好良さに綺麗な旋律が融合した曲や、「Autumn Song」や「Violet」などの、透明感のある竹内氏の歌声と、タイトなリズムに様々な打ち込みの音色とギターの紡ぐ浮遊感の隙間から印象的に響く日本語の歌詞(個人的にこの歌詞が凄い好き)の曲など、バリエーション豊富であっという間に引き込まれてしまうアルバム。

 唐突だけれど、ルミナス・オレンジを紹介する場面でよく出てくる言葉が「シューゲイザー」という単語だと思う。自分はシューゲイザーというジャンルが好きでノイズやフィードバックの幻想感にいつも憧れるのだけれど、このアルバムを聞いて、誰かに伝えるときに、シューゲイザーの大本命!みたいな紹介はしたくないなと思ったのです。それはこのアルバムがシューゲイザーか否か!といったそういうったつまらない矮小な問題ということでは全然なくて、ルミナス・オレンジをそういった意味を限定してしまう言葉で表現してしまうということは、表現の手法だけに焦点を当てているだけで、その本質を捉えて表現できていないように僕は思えてしまうからということ。ではどう表現するのかと言われれば、僕はオルタナティブという広義な意味合いをもった表現を使いたいと思う。オルタナティブって何だ?っていう話になるけれど、僕がここで言いたいのは、オルタナティブな音楽に潜んでいる危うさや焦燥感といった心の負の部分に共鳴する要素と、それらと同時に背中合わせで存在している無邪気さや純粋さのような要素が、このアルバムでは並列して存在し、そして素晴らしく表現されているということ。そしてまたそれらの要素が、竹内氏の持つオリジナリティ溢れるコード感や楽曲の展開、メロディラインなどのセンスが、素晴らしいサポートミュージシャン達と融和し、演奏力や完成度といったさまざまな面において説得力を持ち、圧倒的な強度と完成度で表現されているのだ。

 そしてなにより普遍的な魅力を持った音楽だと僕は思う。

 ジャンルやキャリア、流れとかそういったことに捕われずにっていう表現自体がもう既に捕われているのかもしれないし、定型文だし、押し付けがましいけれど、それでも僕は、この「今」のルミナス・オレンジの音楽と、個として還元された自分とが対峙したときに感じた切なさや感動を共感したいと思うのです。

 是非、聞いて欲しい一枚。

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 最初に彼らの音楽を耳にした時は、70年代の幻のサイケ・バンドの発掘音源か何かと勘違いしてしまったが、彼らは歴とした現代のバンドで、このアルバムは2010年リリースの作品。アヴィ・バッファローは、カリフォルニア州ロングビーチを拠点に活動する男女4人組で、驚くことにリーダーのアヴィドーはまだティーンエイジャーだそうだ。

 キラキラとしたギターの音色が印象的な、緩くレイドバックしたサウンドは、サブ・ポップの先輩バンドであるビーチウッド・スパークスやオール・ナイト・レディオを思い起こさせる。そして、その上に乗るアヴィドーの中性的なハイトーン・ヴォイスがアヴィ・バッファローの音楽の個性を決定付けている。まずはシングルにもなっている2曲目の「What's In It For?」を聴いてみて欲しい。胸を締め付けるようなメランコリックなメロディーは、一度聴いたら忘れられない。

 先述のビーチウッド・スパークスの『Once We Were Trees』と、オール・ナイト・レディオの『Spirit Stereo Frequency』は、ともに<サブ・ポップ>の00年代を代表する大名盤だが、このアルバムはその系譜を継いで、これからの10年を代表する一枚となるだろう。

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 『存在』というタイトルに違わず、巨大な存在感を感じる、そんな作品だ。

 60年代のブリディッシュ・ロックのブルース臭さと、アーケイド・ファイアばりのコーラス・ワークとシンフォニックなサウンド――アルバムをプレイすると耳に流れ込んでくるその音楽は、壮大なスケールで広がっていく。時にはシタールを加えたり、轟音でうなるギターを鳴らしたりしてサイケデリアを演出する。その一方でフォークやカントリーの要素も濃厚に取り入れることで、メロディは深みを増している。また、ゴスペルの崇高さを備えた「Chemistry」、ベックの「Loser」を思わせるようなビートとヴォーカルの「Silver」など、強烈な個性を放つ曲が並ぶ。そして全体的に漂う、プライマル・スクリーム風の「ヤバさ」。自然とアルバムを繰り返し聴いてしまうのは、何よりきっそこに魅了されてしまったためだろう。

 このデトロイト・ソーシャル・クラブはUK北部、ニュー・カッスルでスタジオ・エンジニア兼プロデューサーをしていたデヴィッド・バーン(David Burn)のスタジオ・プロジェクトとしてスタートしたもの。友人ミュージシャンを集め、6人のメンバーで活動を始めてから、そのライヴが評判を呼びNMEヤクラシュ・マガジンなどの媒体で取り上げられてきた。その後、オアシスやプライマル・スクリーム、レイザーライトなどとツアーを行い、UK国内でのバズを高めていったバンドだ。

 僕はこのアルバムを聴くたび、デトロイト・ソーシャル・クラブにはこのまま巨大なスタジアム・バンドになってほしいと願って止まない。オアシスが解散して約半年。大文字の「ロック」を鳴らすバンドがいなくなったUKでは、後任の可能性がありそうなのは3組だけ。アークティック・モンキーズとカサビアン、そしてミューズだ。だが、そのレースに、このバンドも加わり、ロックを求める人々を熱くして欲しい、そう思う。フジ・ロックでの初来日公演では、その器の大きさをぜひ確かめてみたい。

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 07年だったか、クラブでディプロに影響を受けたという日本人のDJで踊っていた時に、クドゥルを知った。クドゥルとは、主にドラムン・ベース、ダブ・ステップからの影響を受け、アフリカのアンゴラから発生して、アンゴラ系の移民によってポルトガルに伝来したハイブリッドでラフなダンス・ミュージック。ブラカ・ソム・システマの野卑な音を想い出せば早いかもしれないが、そのクドゥルとバイレ・ファンキを混ぜ合わせて、トライバルに煮込んだ「Soobax」という曲がとても印象に残り、後で誰の曲かを彼に確認してみたら、ソマリアのラッパーのケイナーン(K'NAAN)というアーティストだという事を知った。ソマリ語と英語が行き来するライムに躍動感のあるバックトラックが鳴り、PVにはソマリアのモガディシオのストリートを行く彼の姿とそれを取り囲み踊る街の人たちが奔放に映っていた。

 ソマリアという国は91年以降、内戦が激化する中で無政府状態が続いており、治安も良くなく、世界最貧国の一つでもある。また、ソマリランドとプントランドが面するアデン湾は海賊行為の多発海域としても名が通っている場所であり、国際問題としても槍玉に挙げられる事が多い。そこで、78年に生まれたケイナーンは12歳の時、内戦の激化前に民間旅行機でニューヨークに逃亡し、その後、カナダのトロントに移住し、そこをベースにラッパーとしての活動を進めた。英語はそこで独学で習得したと言う。

 彼の名前が本格的に浮上したのは06年の『The Dusty Foot Philosopher』であり、07年リリースのコンピレーション『Urban Africa Club』だった。後者に関しては『ツオツィ』という映画に曲提供をしていたゾラ等に混ざって、彼の名前がクレジットされており、そのライムの巧みさとバックトラックの猥雑さに注目がいった人も多いと思う。そこから徐々に世界中に「発見」されていき、A&Mが目を付け、メジャー配給としての09年の『Troubadour』でブレイクすることになった。但し、このアルバムにはメジャー配給ゆえの規制が掛かったのか、ストリートやゲットーミュージックに根差したシビアさは抑えられ、エドワード・サイード的なオリエンタリズム的な要素因を含むようになってしまうことになった点は否めないものの、ソマリアの現実を切り取り、世界へ伝えたという側面は評価すべきだろう。「T.I.A.」という曲にはボブ・マーリィーの「Simmer Down」がサンプリングされていたり、一部、タフ・ゴング・スタジオで録られていたり、「グライム以降」の生命力が溢れた曲もあったり、モス・デフやマルーン5のアダム・レヴィーンが参加した曲などグローバル対応になっているものの、強烈にレベルの気配が充ち満ちており、彼の確たる意志が貫かれている。アフリカのリズム、エチオピア音楽のサンプルの仕方もなかなか巧妙だ。

 ただ、ここで先述した「グライム以降」という表現には注意が要るかもしれない。グライムとは00年代のUKのガラージの流れを組んだ音楽形態とも言えるが思想形態とも言えるからだ。サウンド・テクスチャーとしてはテンポを落とした低音を強くしたダウンビートにラップが乗るものを一般的には指すが、ディジー・ラスカルや初期のM.I.A.の音を想い出せばいい。そこから、インスト面が強くなる事でダブ・ステップに繋がってくる訳だが、ルーツ的には90年代の初期のレイヴから派生したという考えもあり、僕も06年くらいにグライムやダブ・ステップのパーティーに行った時には、2ステップやジャングルも混ざっていた記憶があるから、その論に賛同出来る部分がある。当時は、蛍光色の服に身を飾ったお洒落なニューレイヴと差異化されて、Tシャツ一枚で「ただ踊る為に、踊りに来る」トラッシュな人たちが溢れていて、その切実なまでの音楽に対しての希求の熱量が心地良かった。異性を口説く訳でもなく、ファッション的にクラヴィングを気取る訳でもなく、ただウィークエンドで溜まった鬱積した感情を昇華する場所にグライムやダブ・ステップの低音は効果的に響いており、スクワット・パーティーすれすれの清冽なヴァイヴがあった。SkreamやDigital MystikzやBurialや、ふと混ざるマッシヴ・アタックのマッド・プロフェッサーがリミックスしたアルバム『No Protection』からの曲など独特の禍々しい麗しさが通底していた。そこではクールとは程遠いが、優美なダンスをアフォードされている人たちの姿はまるで、自分が辿り着けなかったウェアハウス的なユーフォリアも包含していた。その波を受けた形で、クドゥルとバイレ・ファンキのバイタリティと猥雑さを取り込んだのがケイナーンの音楽であり思想という訳だ。

 しかし、それが皮肉にも今年の南アフリカのW杯の某グローバル企業のオフィシャルのキャンペーン・ソングに搾取される形になってしまったのは何とも言いようがないところがあるが、ケイナーン自身が見据える視線にはいつかのボブ・マーリィーに似た透き通ったものはあるのは確かでもあり、「ONE LOVE」へ向けての祈念がある。今夏のサマーソニックで初めて日本に来るが、必ず素晴らしいパフォーマンスをしてくれる事だろうと思う。彼は時代の要請としてワールドワイドに「なった」のではなく、なる「べき」方向を選ばざるを得なかったという意味で、ソマリアの現状やゲットーミュージックの強度をこれからも伝道していくに違いない。ここには掛け声だけのラブ・アンド・ピースはない。

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 00年代のアーティストで「レディ・ガガより先にレディ・ガガをしていた」といえば、まずはローシーン・マーフィー(ガガの特徴といえるファッションに多大なインスピレーションというか、元ネタを提供している)。そして、スウェーデンのポップ・アイコン、ロビンの名前が挙げられるだろう。

 元々はスローでソウル・マナーな、いわゆる「90年代ポップス」で一度チャートを席巻したアイドルだった(デビューも早い。最初のアルバムは95年リリース。当時彼女は16歳!)彼女は00年代初めに一度自分の方向性を見失いかけたが、2004年にエレクトロに急接近。同じくスウェーデンを代表するエレクトロ・デュオ、The Knife(日本じゃ無視されすぎ...)の音楽性に大きく影響を受けた彼女は、自身による自身のためだけのレーベル<Konichiwa>(「こんにちは」のミススペル)を立ち上げ、大きくアーティスト指向を強めたセルフ・タイトルのアルバム『Robyn』を2005年に発表。2007年にワールドワイド・リリースされたアルバムは結果的に6曲もシングル・カットされるほどの超ポップな特大充実作となり、なかでも「With Every Heartbeat」はイギリスのチャートで1位に輝いた。華麗な転身による大逆転セールスの一方で「リアル・インディー・アーティスト」としても、ピッチフォークを始め多くの海外インディー系メディアの支持も集めた(意図的にメジャーを離れるアーティストが増えている、昨今の潮流の先駆けといえるかもしれない)。

 マドンナのヨーロッパ・ツアーの前座に起用、フィッシャースプーナーやロイクソップといったエレクトロ・シーンの大御所とのコラボ(特にロイクソップの去年のアルバム『Junior』に収録された「The Girl And The Robot」は涙が出るほどポップな名曲...)、何よりエネルギッシュ極まりない、リズムを強調しまくったライブ・パフォーマンスで盛んに話題を集めまくった彼女の次の一手は、「既に年内中にEP3枚をリリースする準備が整っている」と本人が豪語する、『Body Talk』シリーズ(最近はこういう三部作、四部作...ってのが多いですね。シングル曲DLがスタンダードな時代に対するアーティスト側のコンセプチュアルな抵抗。あるいは、リリース費用の問題もあるのかも。このミニ・アルバムも、CDのレーベル面をわざわざCD-RWをそっくり模したデザインにして、チープさを強調している)。彼女の創作意欲はここ極まれり。本作はその第一弾である。

 エレクトロ化以降の彼女の音楽性は《チャーミングでおバカ》と《トゥーマッチなほどシリアス》の対極する二つのバランスがとにかく素晴らしいのだが(前作でいえば前者の代表曲が「Konichiwa Bitches」、後者は「With Every Heartbeat」だろう。特に「Konichiwa Bitches」のPVは彼女の世界観を知るうえでも必見。僕は初めて見たとき泣きました)、今作でもそのバランスは過不足なく保たれている。感情をもった女アンドロイドについてチャーミングに歌った「Fembot」は、ついに待望のアルバムもリリースされたUffieが代わりに歌っても何の違和感もなさそうな、軽快なライミングの心地いいポップ・チューン。「私はあなたに全てを捧げた。だけどあなたは違う女を家に連れ帰った。(それでも)私は踊り続ける。」というサビの印象的すぎるフレーズが図太く攻撃的なブリープ・サウンドに載せて歌われる先行シングル「Dancing On My Own」は、そのまま彼女らしい独立独歩な姿勢を貫くことの所信表明のようでもある。それこそ、アルバム冒頭曲のタイトル「Don't Fucking Tell Me What To Do」が、彼女のすべてを言い表しているといえるだろう。

 前作でも好タッグを組んだスウェーデンのKlas Ahlund、Kleerupの他に、ディプロ、ロイクソップといった強力なプロデュース・チームに支えられた楽曲は、以降も今年31歳を迎える彼女だからこそ成立しうる、成功する/したことの難しさを歌った「Cry When You Get Older」、ダンスホール・レゲエにモロな影響を受けた(まんまな曲名の)「Dancehall Queen」、"退屈だからこの街から連れ出して。新しい音、クソ不真面目な音を聴かせて"とのたまう、これまた挑戦的なトライバル・チューン「None Of Dem」と、多様な趣向を凝らしつつ「Body Talk」の名に恥じない曲が続き、かと思えば一転してピアノとストリングスをバックに、悲しい愛について感傷的に歌いあげる「Hang With Me」、そしてスウェーデンの伝承曲であり、彼女がかねてから得意としたメロウなカバー「Jag Vet En Dejlig Rosa
(I Know A Rose So Fair)」で30分のミニ・アルバムはあっという間に幕を閉じる。

 あまりに充実しまくりな前作に比べるとさすがに半歩落ちるところはあるが、年内にこのクオリティー(あるいはそれ以上のものが...と期待したい!)のレコードがもう2枚出ることが決定的だとすれば、それはもはや驚異だ。ここまで読んでいただければおわかりのとおりのボンクラ気質のせいか、カイリー・ミノーグのようなエロ要素が希薄すぎるからか(ロビンは今年で31歳だから仕方ない...ボーイッシュなのもハマってるし...と言い訳もできるけど、42歳で今度出た新曲の、あのPVを出せてしまうカイリーが異常すぎる)どうにも日本ではウケが悪いが、いやいや。ボンクラだからこそ最高です。あくまでアイドル的スタンスのままインディー/DIY精神を発露しまくる、真に信用できる人だなー、と。

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 そう、「感情のバロメーター振り切っちまえ」だろ? ブルックリンにて結成された男女2人組のデビュー作『Treats』、それはノン・ブレーキ、アクセル深く踏みっぱなしの、ギターを全面に押し出したエレクトロ・ポップ・ミュージック。M.I.Aが立ち上げたレーベルから発表されたこともあってか、音楽性はM.I.Aに通じるが、しかし、この荒削りな音楽性は凄まじい。乱雑とキュートな様が入り混じったサウンドが絶え間なく打ち鳴らされ、吐息は絶え絶え、体温上昇、エレクトロニック・ビートは腹にくるほど力強く、理性なんていうややこしいものは、ブレイカーが落ちたみたいにストンと消えて、ああ、そうだよ、最高じゃないか。

 噛みついてくるノイジーなギター・サウンドの連続とそのリフ、叩きつけられるビート、そこに絡まるヴォーカルが生み出す音に燃えるんだ。グッとくるどころか、カッとなる。だからいい。音の全てに、完全に、迷いがない。端的に言って、耳をつんざく。曲ごとに歌い方を変えるヴォーカルがアルバム全体の表情を豊かにし、みだらに歌ったかと思えばウィスパー・ヴォイスや絶妙なコーラス、ヴォイス・パフォーマンスを魅せもするが、荒々しい電子音、ビート、ギターが乱雑性を醸し出し、本来の正当なバランスなどあったもんじゃない。決して素通りできない音の洪水が続く30分。いわば、音が、キレている。本作は他人事じゃあ済まないんだ。しかしこの聴き終えたときの清々しさは何であろう。

 いつの間にか僕らは社会性の中にあって、本能的欲求を閉じ込めざるをえなくなった。だからして作り笑いや愛想笑いなど、本能的なものすらコントロールするようになってしまったかに思える。バイアグラをかじり、睡眠剤を飲む行為も本能をコントロールしているという意味では本質的に同義だ。無論、それらは悪いことではない。しかし忘れてはいないだろうか。人間とは社会によって突き動かされるのではなく、感情によって突き動かされるべきであることを。

 この作品はそれを思い起こさせる。音がややチープであろうと、バランスがおかしかろうと、乱雑性を持つ『Treats』は、感情の一切を吐き出しているからこそ、僕らを打ち、聴き手の感情を引きずり出し、放心に似た清々しい気持ちに溢れるのだ。これほど勢いのあるデビュー作らしい音楽は中々ないだろう。一度バンジー・ジャンプでもしてみようじゃないか。そんな具合に聴いてみるのも悪くない。リアルを感じられるから。一回でいい。聴いてほしい。

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 東京を拠点に活動を続ける4人組、ザ・マンマルズ。彼等の1stミニ・アルバムとなるのが本作『Instant Classics』だ。

 キングス・オブ・レオンやザ・ストロークスを想起させるブルージィーなロックンロール・サウンドを武器に、数多のライヴで着実に力を付けてきた生粋のライヴ・バンドである。

 ライヴ・バンドというと音源にその魅力をパックしきれていない場合も少なくはないが、本作には叩き上げてきた現在のバンドの到達点が実に見事にパッケージされている。ドライヴするビートにリーディング調のヴォーカルを乗せた「(It's So Easy To) Leave You Alone」や、印象的なリフを持つアンセミックなビッグ・ナンバー「Escalator」といったライヴでの人気楽曲の完成度も特筆ものだが、「Down Town」、「You've Gotta Believe Her」でのモータウンやスタックスのクラシック・ナンバーを踏襲した彼等のルーツとも言えるソウル・ミュージックへの目配せも見落とせない。

 MODS MAYDAY 30周年への出演や、久保憲司氏によるアーティスト写真などトピックには事欠かない彼等だが、このリリースの先に何を見せてくれるのか今から楽しみで仕方がない。

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 オルタナ・カントリーの静謐なる先駆者でもあり、25年間に渡ってオリジナル・メンバーのまま活動を続けているカウボーイ・ジャンキーズ。彼らのみならずカナダ・ロック史をも代表する『The Trinity Session』(超低予算で教会を借り、マイクを一本だけ立てて14時間足らずで録音。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「Sweet Jane」の美しすぎるカバーも含むこのアルバムは、ピッチフォークの80年代トップ100アルバムにもリスト入りしている)を、ライアン・アダムス、ナタリー・マーチャントといった面々も交えて再演し、映像作品化もされた2007年の『Trinity Revisited』以降、久々となる新作は「Nomad(=流浪者) Series」と銘打たれた4部作の第一弾。

 バンドのギタリストであり、メインのソングライターでもあるMichael Timminsと彼の家族が三カ月に渡って中国の靖江市に滞在した日々からインスパイアされた、異なる世界で育ち、永遠に結ばれない男女の物語を歌ったコンセプト・アルバム、タイトルもずばり『Renmin Park(=人民公園)』...という設定もかなり目を引く、キャリアを通じてもかなりの異色作といえる。(海外のレビューではソフィア・コッポラの映画『ロスト・イン・トランスレーション』となぞらえて評価されているようだが、たしかにテーマは相通じているのかもしれない)

 本作では琵琶や二胡といった楽器が用いられるなど、バンド自身がかなり中国の音楽に接近している。かなり賛否あるだろうが、元々ゴシックでアンビエンタルなルーツ・ミュージック解釈を提示し続けてきた彼らの世界観と中国音楽の相性は抜群で、たとえば冒頭三曲目の"Sir Francis bacon At The Net"では、シリアルな中国/香港映画のスコアで多く用いられるような旋律でディストーション・ギターが唸りまくり、近年発掘ぶりが目覚ましいアジアン・アシッド・フォークの雰囲気そのもの。また、Michael自身がフィールド・レコーディングして中国から持ち帰った音素材がアルバム全編で効果的に 用いられており、サイケデリック/オリエンタルな演出に貢献している。もちろん、本来の持ち味である洗練された風通しのいい楽曲も多く収録されており、アルバム全体の粒がかなり揃っている。ホープ・サンドヴァル~ベス・ギボンズの系譜に連なるだろうMargo Timminsの冷ややかでアンニュイな歌声にも相変わらずウットリさせられる。

 また、中国ロック界の大御所ふたり、许巍(Xu Wei)と左小诅咒(Zuoxiao Zuzhou)のゲスト参加と、本人たちの楽曲の英詩訳カバー(それぞれ、「My Fall(我的秋天)」「I Cannot Sit Sadly By Your Side(我不能悲傷地坐在你身旁)」)も披露されている。カバーの出来も秀逸だが、リンク先を参照のとおりオリジナルも抜群にかっこよく(特に许巍は欧米のオルタナ・ロックの影響をモロに受けており、とても聴きやすい)、中国ロック・シーンのエデュテイメントとしても機能しているといえるだろう。

 バンド自身も相当熱を入れている様子の「Nomad Series」では来年11月までに残り三枚のアルバム・リリースを予定しているそうだが、次作『Demons』は、バンド自身とも交流が深く、先述の 『Trinity Revisited』にも参加し、昨年のクリスマスに亡くなったシンガー・ソングライター、Vic Chesnuttに捧げる彼の楽曲のカバー集になるとのこと。生前の彼も参加した『Dark Night Of The Soul』もまもなく発売の見通しだが、それと併せて今後のカウボーイ・ジャンキーズの活動も目が離せない。

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 1994年4月、アメリカのシアトルで27歳で自らの頭をショットガンでぶち抜いてその人生の終始を打ったアーティストがいた。そう「ニルヴァーナ」のカート・コバーンだ。彼の死によりグランジも終わり、新しいムーブメントや若者にとっての「神」であるかのような次世代の新しい指針が必要になった。何かの終わりは新しい何かの始まりでしかないのはいつの世もそうであるように。

 同じく4月、ノエルとリアムのギャラガー兄弟を軸にしたバンド「オアシス」は時代を作り上げたかつての少年、若者のカリスマになってしまったカートが神への供儀として捧げられ、失われた世界で「スーパーソニック」としてデビューを果たす。

 カリスマ自体が時代を作るわけではなく、カリスマは磁石のようなもので、彼らに惹かれるファンや支持者はある種の砂(鉄)として強力な磁場に吸い寄せられていく。その砂の流れが時代と言ってもいいのかもしれない。だからこそ時代の流れができあがった後に新しい磁場が発生すると砂はまた次なる時代の流れに向かっていく。役割を終えたものは自然と回収されるかのように神の元へ帰っていく。

 マイケル・ジャクソンの死による彼の再評価はこの新しいディケイドにポップな散乱銃による色とりどりなものが溢れる前兆として最後に咲き誇ったように僕には思えた。

 「オアシス」は三枚目のシングルとして「ニルヴァーナ」の「I Hate Myself and I Want to Die(自分が嫌いだし死にたい)」への反発として「Live Forever(永遠に生きる)」と歌った。この1994年にデビューアルバム『Definitely Maybe』を発売し英国初登場一位を記録し彼らの歴史が始まった。

 そしてそのデビューから16年の歳月が経った今、2010年に発売された『Time Flies』という彼らの歴代シングルを網羅している作品がリリースされた。バンドのリーダーでありソングライティングをメインで務めていたギャラガー兄弟の兄・ノエルの脱退によってオアシスという時代は終わり実質的にこの作品が最後の「オアシス」作品となるだろう。

 彼らが第一線でロックンロールバンドとして活動していた16年という歳月の中であまりにも大きく世界の流れが変わってしまった。その中でも彼らは言いたい事をいい、暴れてたりケンカをしたりと様々な問題を起こし、ロックンロールの最後の生き様を見せていたように僕には思える。そしてその限界が訪れたのが2010年だったということだろうか。彼らは、リアムやノエルはこれからも音楽を続けて行くだろうし、ビッグマウスは健在だろうが、彼らのようなバンドはもう現れないだろうと収録されている曲を聴きながら思う。

 洋楽ロック不振は海外バンドを呼ぶフェスのラインナップを見てもわかるように客を以前のようには集 められない、昔だったら考えられない日本のアーティストを呼ぶ事でなんとか集客を増やそうと努力しているのがわかる。音楽業界自体の落ち込みと若者の洋楽離れがそれにさらに拍車をかけている。

 そう意味でもオアシスというバンドのように日本でも売れるロックバンドというものはこれから少なくなっていくし、彼らの楽曲のように僕らですら口ずさめるようなロックが出てくるのかは疑問だ。

 彼らがこうやってビッグバンドとしての「オアシス」に区切りをつけて終焉したことで次世代のロックが、新しいムーブメントがゼロ年代終わり頃から萌芽しつつ、それらが今のテン年代に入り一気に実ろうとしている事と符号させる。

 しかし、彼らが残した楽曲はこうやって残る。いつしか彼ら自体が「Champagne Supernova」のようになってしまったなと思っていただけにこうやってきちんと終止符を打ったことは嬉しいような哀しいような複雑な気持ちになる。

  ノエルの脱退で浮かんだのは旧約聖書『創世記』に登場するカインとアベルの兄弟の話だった。彼ら兄弟が神ヤハウェに各自の収穫物を捧げた。兄・カインは農耕で取れた収穫物を、弟・アベルは羊を放牧し肥えた羊を。神はアベルの供物には目を留めたがカインの供物は無視(シカト)した。カインはそのことによる嫉妬でアベルを殺してしまったが、アベルの血は神に向かってこのことを訴えた。神ヤハウェはカインにアベルの行方を問うと「私は永遠に弟の監視者なのですか?」と答えた。

 ノエルはリアムを殺さずにすんだ。でも彼らの「オアシス」を殺すことで互いを生かすことを選んだ。そして「オアシス」は完全に僕らの、ファンのものとしてこの16年のロックンロールの記憶として残った。