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 例えばザ・ストロークスやフランツ・フェルディナンドがそうだったように、その年、時代のトレンドを象徴するアルバム...ザ・ドラムスのセルフ・タイトル・デビュー作はきっとそう評される作品になるだろう。

 今年、インディ・ロックのブライテスト・ホープといえばこのNYブルックリンの4ピースであることに異論を唱える人はいないはず。サーファー・ブラッドやベスト・コーストといったローファイ・バンドたちと作り上げてきた「夏ムード」の中心。NMEやクラッシュといったUKのメディアにおいても、USのピッチフォークにおいても、期待の新人リストのトップを総ナメ。ここ日本でも、アルバムのリリース一週間後に予定されたDUO MUSIC EXCHANGEでの初来日公演がソールド・アウトしてしまったことからも、驚くほどの人気の高さがわかるというものだ。

 すべての始まりは昨年の夏、ネットにアップされた3分足らずの1曲、「Let's Go Surfing」だった。話題は一気に広まっていき、世界中のリスナーのハートを掴んでしまった。シンプルなフレーズをリフレインするギターや軽快な口笛とハンドクラップが心地よい。まぶたの裏に浮かぶサウンドスケープは真っ青な空と海の、夏。だが、それはまだ始まりに過ぎなかった。なぜなら、続く3枚のシングルとEP『Summertime!』でもしっかりと、類まれなるセンスを証明したのだから。

 そして、待望のセルフ・タイトル・デビュー・アルバムが到着。事前の大きな期待にたがわない名盤といえるだろう。

 もちろん、代表曲「Let's Go Surfing」をはじめ、「Best Friend」「Forever And Ever Amen」といったシングル曲を配した、みんなが求めていたザ・ドラムスがのサウンドがある。フロントマンのジョナサン・ピアースはモリッシーばりに歌い上げ、ビーチ・ボーイズ譲りのコーラスワークがフックを作り上げる。ローファイなギターでドライヴするポップは本当に気持ちがいい。

 だが、それだけではなく、これまでの楽曲では見られなかった姿も浮かび上がってくる。「It Will All End Of Tears」では、ジョイ・ディヴィジョン「Love Will Tear Us Apart」を思わせるようなポスト・パンク風のビートが刻まれているし、「I'll Never Drop My Sword」では悲しみを帯びたヴォーカルが印象的だ。また、さんさんと降り注ぐ太陽が輝く海を思わせたシングル曲に対し、「Down By The Water」はまるで夜の海。ぐっとテンポを落とし、センチメンタルな雰囲気がぐっとムードを盛り上げる。これらの楽曲により、ローファイ・バンドとは一線を画すソングライティング能力があることを見せてくれる。「夏」ムード一色になりつつある2010年USインディにおいて、間違いなくシーンを象徴するアルバムだ。

 そもそも、フロントマンのジョナサン・ピアースとギターのジェイコブ・グラハムは幼少からの親友同士。かつてはゴート・エクスプロージョン(Goat Explosion)というシンセ・ポップ・バンドを一緒に組んでいたが解散。続いて、ジョナサンはエルクランド(Elkland)、ジェイコブはホース・シューズ(Horse Shoes)というバンドを組むも、それぞれ徒花として消えてしまう。その後結成されたのがザ・ドラムスというわけだ。3度目の正直とでも言うべきか、このバンドには一切嘘がない。正直だ。ビーチ・ボーイズにニュー・オーダー、ザ・スミス、オレンジ・ジュース、それにフィル・スペクターなど、彼らがリスペクトしてやまないレジェンドたちの影響を隠すことなく表現、モダナイズした楽曲を作ってきた。きっと、ジョナサンとジェイコブの堅い友情がこの奇跡のようなアルバムを生んだのだろう。アルバムの1曲目が、お互いが死んだときのことを想定し絆を確かめあうという内容の「Best Friend」で始まっているのも、きっとそのためだろう。

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「伝説」だからいいなんて、まったく思わない。60年代にはレッド・クレイオラと並ぶ「テキサス・サイケデリック」の両雄などと称されていたサーティーンス・フロア・エレヴェイターズ(13th Floor Elevators)の中心人物ロッキー・エリクソン。

 レッド・クレイオラのメイヨ・トンプソンは、70年代末~80年代初頭のUKポスト・パンク/ニュー・ウェイヴ期に同地で裏方としてもアーティストとしても一時代を築き、90年代後半以降いわゆる「シカゴ系」のひとりとしてみたび盛りあがっていた。それに比べ、サーティーンス・フロア・エレヴェイターズのロッキー・エリクソンは、イマイチ地味ではあった。もちろん90年代のいわゆる「ローファイ」期にカルト的な人気を高め、スペースメン・スリー(もしくはソニック・ブーム)からマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(ケヴィン・シールズ)をへて現在にいたるノイズ派にも根強い支持を得てはいる。

 たとえば最近、いわゆる「シューゲイザー」系のUKレーベル、ソニック・キャシードラル(Sonic Cathedral)から、ケヴィン・シールズも参加したロッキー・エリクソン・トリビュート・アルバム『The Psychedelic Sounds Of The Sonic Cathedral』がリリースされている。このタイトルは、60年代サイケデリックの定盤と評されるサーティーンス・フロア・エレヴェイターズの傑作ファースト・アルバム『The Psychedelic Sounds Of The 13th Floor Elevators』をもじったもの。ポスト・パンク以降とのつながりで言えば、傑作セカンド『Easter Everywhere』もでかいと思う(ニック・ロウやザ・ポップ・グループを出していたワーナー傘下レイダー・レーベルから、後者の『Y』と同じ79年に再発)。

『The Psychedelic Sounds Of The 13th Floor Elevators』収録曲からバンド名をとったファイアー・エンジンズというポスト・パンク期スコティッシュ・バンドのサウンド自体は、どちらかといえば『Easter Everywhere』のほうに近い気がする。彼らの直後の世代にあたるスコティッシュ・バンド、プライマル・スクリームは『Easter Everywhere』冒頭収録曲「Slip Inside Your House」をカヴァーしていた。ちなみにレイダーは同年、レッド・クレイオラの新譜もリリースしていた。そのころはラフ・トレードのプロデューサーとしても大忙しだったメイヨ・トンプソンが、87年のプライマル・スクリームのファースト・アルバムをプロデュースしているのも、おもしろい。プライマルのボビーとか、アラン・マッギーって、「ポスト・ポスト・パンク派」って感じですな(ぼくと同世代。共感できる:笑)。

 閑話休題...というか、マジな話、ロッキー・エリクソンによる、このニュー・アルバムを聴くときには、今つらつらと述べてきたようなことはすべて忘れたほうがいい、ような気がする。というわけで、冒頭のフレーズに戻る。

 ここで聴ける、滋味にあふれた、そしてUS南部の大地とかを思わせるうたそのものが、あまりに感動的なのだ。オッカーヴィル・リヴァーとの組みあわせも、まさにずっぱまりと言えるだろう。

 最初アルバムをかけると、あまりに劣悪な音塊が飛びだしてくる。ああ、サイケですか? ローファイですか? みたいに、ちょっと鼻白んだのだが(いや、そういった音楽は、もちろん好きですよ。だけど、あまりにロッキー・エリクソンのパブリック・イメージそのまま、って感じで...)、2曲目からは、もう正統派ど真ん中。カントリーやR&Bからちょっとエキゾチックなノリまでを感じさせるサウンドは、ジョー・ヘンリーやニーコ・ケース、トム・ウェイツからドクター・ドッグまでを擁するアンタイ・レコーズにふさわしい見事さ。『True Love Cast Out All Evil(真実の愛は、悪しきものを追い払ってくれる)』というフレーズが、ニュー・オーリンズっぽいノリで、素直に頭に飛びこんでくる。

 ラスト・ナンバーでは、ふたたび劣悪な音質になるのだが、それこそ南部の埃っぽい町のAMラジオから聞こえてくるようで、まったく不自然さはない。この曲のフレーズの一部が「Waltzing Matilda」を思わせるところが、たとえばポーグスのセカンドのラストや映画『渚にて』を想起させ、泣ける。「God Is Everywhere」。普通だったら、宗教がかって好きじゃない...みたいに感じるであろう曲名も、心にしみる。

 オッカーヴィル・リヴァーも、いい仕事をした。ロッキー・エリクソンと彼らや、アンタイとか、UKのライセンシーであるケミカル・アンダーグラウンドとの出会いの素晴らしさも、この曲名のフレーズと響きわたって、ああ、とりあえず生きててよかった、なんて思ったりする。

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 エピステーメーは、ミシェル・フーコーの概念の一つだが、ある時代の社会や人々の生産する知識の在り方を特定付け、影響を与える、知の「枠組」のようなものであり、『言葉と物』での「エピステーメー」における、人の思考はそれが持つ思考体系、メタ的な知識構造に従順になるという構造主義的な見解を示しつつ、ある時代の社会を支配するエピステーメーから開放されるには「エピステーメー」の破壊でしか解決しないという描写があるが、そういう意味で言うと、ポスト・パンクに影響を受けたバンドが犇めいていたニュー・エキセントリックと呼ばれるムーヴメントに属していたバンドがセカンド・フェイズにあたってニュー・ウェーヴ的な意匠へよりギアを変える中、そのニュー・エキセントリック勢が放っていた無邪気な破壊衝動を更に知的に分析する巧妙なテクニックと熱を帯びたバンドにイタリアのディドが居る。

 既に早耳のリスナーの中では、ニュー・エキセントリック勢からの影響以外にも、そのビート感をしてザ・ラプチャーやレディオ4、LCDサウンドシステム、初期クラクソンズの影も見受ける事が出来ると言われているし、実際、サウンドの構築の仕方は70年代のオリジナルのポスト・パンクの香りと攻撃的な脱力性があるクールな格好の悪さは新しく何かを感じさせるし、歌詞の中では「世界が灰色に見える」、「僕らのジャンルって何なのか考えさせて」、「パーティーのためだったら雨だって止められる」といったナイーヴで繊細なものが散りばめられるのにも、今の温度がある。パフォーマンスに関しても如何にもな、アート的な佇まいでセンスが切れたものを見せてくれる。例えば、最初の頃の7インチのシングルにもジーズ・ニュー・ピューリタンズのリミックスを入れるなどぬかりが無い部分があり、確実に射抜くべき対象にブレはなく、その「ポスト-」性は同世代者への安易なコミュニティー意識や共振さえも厭うように、だからこそ、時代遅れとも言えるDFA以降の生音×ディスコ・ビートのスタイルを積極的に援用するのだ。

 デヴィッド・ボウイの「チャイナ・ガール」を想わせるようなチープさとザ・ラプチャーの「ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ」的なフロアー対応までいかない「藻掻き」が彼等の若さと誠実さと経験値の少なさだが、まだ今の段階では命取りになるようなものではなく、チャーミングささえも感じさせる。何にしても、「今」のバンドという気配が充溢しており、後ろも前も見ていないところは頼もしい。

 作品としては、真面目なバンドが現在進行形で影響を受けてきたものをそのまま嚥下して、適切な閾値でアウトプットしたというもので、バリエーションも豊かで鋭角的な曲からバウンシーな曲、ヴァンパイア・ウィークエンドのような玩具箱を引っ繰り返したような可愛らしさを持った曲など、現時点での引き出しの多さも言う事は無く、僕自身としては、ホット・ホット・ヒートやブロック・パーティー辺りに並べたい独特のギクシャクしたムードと、実験を優先している部分には好感を持っている。世界的にどれだけ波及していく音かどうかは正直なところ未知数だが、ディドがやろうとしているトライアルは決して無謀なものではなく、また時代への批評装置として有機的に機能するだろう可能性を秘めている。

 ジグムント・バウマンの言葉でいえば、今、生きている近代社会の特徴を「リキッド・モダニティ(液状化する社会)」と称することができる。その中で、ヴィジョンは、ソリッド(固体)ではなくリキッド(流体)になってしまう。それは「私たちが生きる近代は、全ての流体がそうであるように」、あらゆる想念は長い時間、同じ形にとどまらないからだと言える。バウマンの文脈で、あらゆる要求は、その要求に応えようとする提供者に犠牲を求め、提供者は犠牲の見返りとして幸福を感じることが出来る。しかし、幸福の追求が消費社会と結びついた現代では、マネーが仕掛ける構造の犠牲の意味になってしまい、表現も回収されてしまう事になったのは周知だろう。

 だから、ディドは明確なヴィジョンなど持たずにリキッドなサウンドスタイルを選ぶように「なってしまった」とも解析出来る。ハイパーグローバリズムが名付けたシステムの中での「最良の被害者」としての側面もダイレクトに見られるのにはいささか悲しくもあるが、必ず内破の導線を敷いてくれることを期待出来る、始めの一歩として基点はぶれていないところは応援したい。

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 グループ・イノウ(group_inou)を最初に観たのは代官山UNITでのスペシャ烈伝でのライブだったと思う、その時の印象が強くてそれ以来新譜が出れば聴いている。その日に「COMING OUT」「MAYBE」の二曲で完全にやられた。

 最高にカッコ良くてリズムが早くてこんなにヒップホップでまったく聴いたこともない曲で乗れまくっている自分に驚いた。そしてライムがアイロニーをすかさず入れている辺りもとてもキャッチーに響いた。

 ライブ中にMCのcpがステージから降りていて僕の前方二メートルもないくらいの場所に立っていた女性の真ん前に立ってずっと目を見て「君の彼氏は絶対に浮気してるさ」とひたすら連発していた。あまりにも現実味のない光景とそのライムが示すものの皮肉で僕はあまりにも面白くてずっと笑ってしまったのを今でも印象深く覚えている。

 前々作『FAN』収録「COMING OUT」「MAYBE」や前作『ESCORT』収録「RIP」は電光石火のごとくリズムとライムが聴く者の中にある感情を動かす言葉の強さとポップを兼ね備えていた。グループ・イノウの特徴の一つはそれらが挙げられると思う。

 最新作『_』はどうだろうか、アルバムタイトルは3曲目「STATE」の歌詞にある「俺たち なんだか 記号 ずっと前からアンダーバー」から取られているはずだ。

 このアルバムは全体的に非常にポップだ。「COMING OUT」「MAYBE」「RIP」のように一気に持って行くタイプの曲はオープニングナンバー「ZYANOSE」。

 全曲9曲はどの曲も粒ぞろいで前の二枚のアルバムよりもアルバムとしての完成度や強度は比較的に高いものになっている。

 5曲目「HALF」上での「全ては システマティックになってく 答えろ 試されていること分かるだろ?」は脳内リフレインを始めて僕はその言葉の意味を考えてしまう。グループ・イノウのライムはニッチというか心や感情の隙間に入り込んでくる。柔軟さと強さがある。

 なぜだろう、ここまで染みてくるのは、そして聴くものの中に入り込んでいろんなことを考えさせてしまうのは。そのライムが乗っかっているリズムや音はポップで体はそれに反応して乗れるし、ライブならばダンスして暴れて揺れるのには持ってこいだ。ライムの歌詞だけならば非常にシニカルなのに音に乗ると反比例するようにポップに聴こえてくる。そして聴こえて届くとシニカルなライムが強く響いてくる。

 彼らのライムの中には「光景」「景色」が何回も出てくる。今現在の「景色」や「光景」はやがて消えて行くし姿を変えて行く、だからこその「景色」や「光景」の変化に苛立つしそれを見ていた誰かのことを思い出したりする。だけどもその変化の中でしか僕らは生きていけない。

 「永遠」とは「一瞬」の中にしか存在していない。僕らは永遠の中に生きている、一瞬の連続だ。永久凍土に閉じ込められたマンモスは氷が砕ければマンモスもろとも崩壊する。

 グループ・イノウの音楽は「一瞬」を生きている、僕らと共に時間を進んでいくサウンドトラックになる。

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 彼らのファースト・アルバムのインパクトは、とても大きかった。「ラジオから流れてきて気持ちいいポップ・ミュージック」という意味で。最初の頃は、ラジオでかかるのを聴くたび、何度も(ぼくが大好きな)70年代の(ちょっとAORがかった)曲かと勘違いしてしまった。その後ザ・フィーリングス、そしてスカウティング・フォー・ガールズへとつづく道を切り開いたというか、この3バンドは、ぼくの中で非常に大きな存在となっている(ちなみに、あとで知ったのだが、この3バンド、関わったプロデューサーも共通していたりする)。キーンの場合セカンドでちょっと「悩み入った自省ロック」に傾いて残念だったものの、サードでふたたび(メランコリックではあっても、あくまで)「ポップ」方面に...。意味がありそうでなさそうでありそうな、『Perfect Symmetry』という素敵なタイトルがそれを象徴している。ファースト・アルバムのタイトルは『Hopes And Fears』。セカンドで"Fears"に流れたとしたら、サード以降、とくにこの8曲入りミニ・アルバムでは、むしろ"Hopes"なベクトルが目立っているというか...。

「夜行列車」という表題からして(いい意味で)ポップ・クリシェっぽい。ぼくなどが聴くと、たとえばオーケストラル・マヌーバーズ・イン・ザ・ダーク(Orchestral Manoeuvres in the Dark:通称OMD)など、80年代のエレクトロニック・ポップに通じる部分も感じる...というか、単に「けっこうOMD寄り」なのかな? キャッチーすぎるフレーズが耳に残るライトなポップ性とか、ちょっと「青い」感じとか...。ちなみにOMDは、1980年にファクトリーからマーティン・ハネット・プロデュースのシングルでデビューしたのち、モノクローム・セットもアルバム・デビューを飾ったヴァージン傘下ディンディスクと契約、さらにヴァージン本体に移籍して「エノラゲイの悲劇」「ロコモーション」(注:カヴァーではない。タイトルだけ頂戴したオリジナル)「イフ・ユー・リーヴ」など、素晴らしいヒット曲を連発したバンドだ...といったところで、キーンの話に戻ろう。ここにおける彼らの音世界も、もちろん「後ろ向き」なものではまったくない。音の感触や、細かいリズムのセンスなど、バリバリ今っぽい。

 3曲目と7曲目にはケイナーン(K'naan)、5曲目にはティガラー(Tigarah)という、かなり若さを感じさせるラッパー/シンガーがフィーチャーされている。ググってみた。前者はカナダ国籍ソマリア生まれの黒人男性ポエット/ラッパー/シンガー・ソングライター/マルチ・インストゥルメンタリスト、後者は日本国籍LA在住の黄色人女性プログラマー/グライム・シンガー・ソングライター。ティガラーのヴォーカルを聴きながら、これは絶対日本人ではないと思っていたため(いい意味で)意外だった。彼女がいわゆるバイレファンキに影響を受けていたということを知り、なるほど、と思った。でもって、ここまで(わざとらしく)隠していた(笑)のだが、5曲目「Ishin Denshin (You've Got To Help Yourself)」とは、OMD...ではなく(笑)YMO...イエロー・マジック・オーケストラ「以心電信(You've Got To Help Yourself)」のカヴァー!

 はっきり言っておくが、これはリリース当時から「クール」な曲ではまったくなかった。「君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)」が『ザ・ベストテン』クラスのヒットとなり(彼らが実際に出演したかどうかは憶えていない:笑)、その前の『Technodelic』がアヴァンギャルド性を最大限に発揮した超名作アルバムだっただけに、マニアはかなりひいていた(ところで、正直こういう類の「マニア」ノリって、ぼくは苦手です...)。そのうえNHKのキャンペーンとかでも使われていた、最高にポジティヴな歌詞を持つ曲。「虚飾をすてて、素直になろうよ」「誰かのために生きることが、自分のためになるんだよ」みたいな...(だけど歌詞をよくよく聴くと、一抹の皮肉みたいなものがスパイスのようにふりかけられてて、また、いい)。

 YMOの全レパートリーで一番好きかもと思うこの曲(日本語詞)が、いい意味で日本人とは思えないアクセントによって、キーンのミニ・アルバムで歌われる。アレンジもナイスだし。なんか涙が出るほどうれしい。全8曲の流れや、それぞれの曲の、ポップ・ミュージックとしてのクオリティも素晴らしい。最高、ですね。

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 霞立つ森を通り抜ける開放感。しぶきを上げる激流が過ぎた後に残る静寂。川の上流から下流まで流され大海へ辿り着き、そこで待ち構える広大な平穏。雲の切れ間から刹那的に零れる曙光。流麗なギターの音色から想起される寓話は限りない。今まで聴いたことのない、神秘的なソロギター集である。『Parables』とは、おとぎ話・寓話という意味だが、それは、本作が彼の指先だけで紡がれる物語であることへの暗喩であろう。

 本作はRFというエレクトロニカ・アーティストとして、ジョアンナ・ニューサム・バンドのメンバーとして、ザ・トイズやトリオ・モプムのギタリストとして、幅広く活動を繰り広げているライアン・フランチェスコーニによる本人名義での処女作である。そしてその処女作は大胆にも、アコースティックギター一本による、清廉で身を浄化するようなソロギター集となっている。既存の参加アルバムの色合いからは大きく変貌を遂げているが、彼の音楽性の源流、基盤であるブルガリアン・トラッド・フォークが今作の象徴となっているということは、より本作が等身大のライアン・フランチェスコーニを描写した記念すべき作品であるということを証明している。

 彼は、この種のアーティストにありがちな、どこかノスタルジーなコードを響かせることに酔っているだけの二流ギタリストではない。ギター雑誌の表紙に抜擢されても遜色のない、一流のギタリストである。清冽な雨のアルペジオは唯一無二であり、時間を忘れるほどに美しい。

 本作は4月1日にリリースされたアルバムなのだが、おそらく私にとって2010年の最名盤になりうる作品であったため、6月現在、恐縮ではあるが、レビューを書かせていただいた(ジャケットも秀逸!)。

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 元Qアンド・ノットUのドラマーであるジョン・デイヴィスが、ジョージー・ジェイムズというユニットを結成し、アルバム『Places』で突き抜けたポップ・ソングを聴かせてくれた時は新鮮な驚きを感じた。アルバム一枚を残してジョージー・ジェイムズは解散してしまったが、そのメンバーだった女性シンガー、ローラ・バーヘンが新たに立ち上げたユニットが、このTHE MYNABIRDSだ。

 アズール・レイやO+Sのメンバーとして知られるオレンダ・フィンクがゲスト・ヴォーカルとして参加し、 トム・ナトゥ(ジーズ・ユナイテッド・ステイツ)、ネイト・ウォルコット(ブライト・アイズ)といったサドル・クリーク周辺の腕利きミュージシャンが脇を固める。そして、ソロ・ミュージシャンとしても高い評価を受け、先日リリースされたダミアン・ジュラードの最新作などでもその手腕を振るっているリチャード・スウィフトがプロデュースを担当。

 ジョージー・ジェイムズの作品でも垣間見られた60年代ポップス〜R&Bへの愛が、よりストレートな形で表出した楽曲が並ぶ。ボビー・ジェントリーを思わせるローラのハスキー・ヴォイスを、あなたもじっくりと堪能して欲しい。

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 批評家であり思想家である東浩紀氏の処女小説『クォンタム・ファミリーズ』(以下『QF』)は09年の年末に、そうゼロ年代の最後にこの世にドロップされ、このテン年代(by 佐々木敦)の最初の年2010に第23回三島由紀夫賞を受賞した小説だ。

 例えば、批評家・思想家としての東浩紀を知らなくてもこの作品は存分に魅惑的だし、ある意味では世代間で分断されてしまっているジャンルとしてのSF、今やあらゆるカルチャーは世代間において分断されてしまっているように思える。その分断の中SFというジャンルが若い世代にもまた広がる可能性を秘めている小説であり文学である。

 ゼロ年代最後の年に若くして三作の長編を残して亡くなってしまったSF小説家の伊藤計劃がいた。『QF』と彼の処女作である『虐殺器官』は新しい時代のSFのスタンダードとして後世に語られる作品だろう。

 僕らが今、生きているこの世界は9.11以後の世界でテロリズムと言う言葉がもはや一般化し、グローバリゼーションという新しい宗教が完全に物事の根本を変えてしまった世界だ。そこで生活する僕たちにとって、物語は何を教えてくれるのだろうかという問いに対してこの二作のSF小説は想像することの萌芽を読者に与えてくれる。

 82年に死去したアメリカのSF作家であるフィリップ・K・ディック(代表作は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『高い城の男』『ユービック』等)が81年に発表した『ヴァリス』という作品と85年に村上春樹が出版した『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という二作が『QF』の中で大きな役割を果たしている。

 主人公である葦船往人はこの二作品と村上春樹が以前に書いた短編について作品の中で言及し、それらがキーとして作品に関わってくる。上記の二作品を読んでいるとこの物語はさらに奥行きを増す。

 あらすじ・2035年から届いたメールがすべての始まりだった。モニタの彼方には、まったく異なる世界の、まったく異なるわたしの人生があるのだ。高度情報化社会、アリゾナの砂漠、量子計算科学、35歳問題、幼い娘、ショッピングモール、そして世界の終わり。壊れた家族の絆を取り戻すため、並行世界を遡る量子家族の物語。

 例えば『35歳問題』は作中においては『ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。そして、その両者のバランスは、おそらくは三十五歳あたりで逆転するのだその閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。』と物語の序盤で書かれている。

 この問題が並行世界と結びついているのは言うまでもなく、誰もが思い描いてしまう《かもしれなかった》世界の物語の根本として提示されている。

 物語は往人がいた世界、娘の風子の世界、息子の理樹の世界が繋がり、往人は存在しなかった幼い娘の風子がいる世界へ人生がリセットされるかのように移動する。妻の友梨花や風子の世界で彼女が作りだした最初は単なるソフトウェアだった汐子と物語は繋がって行き、彼ら家族の物語が少しずつ集まり寄り添いながら展開していく。並行世界で出会うことのなかった彼らが互いに出会う時に物語が収束し始め世界の謎が少しずつ解かれていく。

 並行世界がひとつの世界に集まる時に家族は何をするのか、どこに向かうのか。そして物語を操っていたのは一体誰なのか、誰の思惑が反映していたのか、そして最後の第二部の後の物語外2が何を意味するのか、世界の終わりとは何なのか、ハードボイルドとは何か、読み終わっても全ての物語がキレイにわかるようにはできいないのかもしれない。それは読者によってどう受け止めるかが違ってくるタイプの小説だからだ。

 この『QF』から新しいSFの流れが始まるだろう。新しい何かを感じさせてくれる作品には過去の作品からのオマージュや影響がありながら現在と未来を見据えてた表現がある。だからこそこの作品がテン年代最初の『三島由紀夫賞』を受賞したことは新しい希望がこの作品の中にあると思う。

 東浩紀は明確な意志で小説家として物語る事を決意した作家だとこの『QF』は教えてくれる。

「ゲームのプレイヤーはそれがゲームであることを忘れたときにもっとも強くなれる」

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 今やグラスゴー・バンドではヴェテラン組となったティーンエイジ・ファンクラブの、2005年の前作『Man-Made』以来5年ぶり、通算8作目のオリジナル・アルバムとなる新作『Shadows』。その前作と同じく自身のレーベルPeMaからのリリースとなる作品は、メンバーのノーマン・ブレイクが「今までの作品とは違う綿密なアレンジが実現できた」と語るように、セルフ・プロデュースで自分たちが満足いくまでじっくりと作られたサウンドが印象的だ。とはいえ彼らの持ち味である温かいメロディーとさわやかなハーモニーはもちろん健在。前述のノーマン、ジェラルド・ラヴ、レイモンド・マッギンリーの3人のソング・ライターが仲良く4曲ずつ(日本盤はボーナス・トラックを2曲収録)というここ数作でのフォーマットも変わらず、それぞれが今までのキャリアでも最良の曲を書いていて、完成度の高いアルバムとなっている。

 昨年のサマーソニックでのインタヴューではアルバム・タイトルについて「ダウンビートな曲が多かったり、歌詞も少しダークな内容だったりするから」と語っていたノーマン。確かに轟音ギターや性急なリズムは影を潜めているし、歌詞にも「Past」や「Dark」といった単語が繰り返し出てくるが、それは年齢的にも40歳を越え多くの人生経験を経た彼らの優しさに満ちたまなざしであり、決して後ろ向きなことではないだろう。先行シングルとなった「Baby Lee」や、サマーソニックでも披露されていた「Sometimes I Don't Need To Believe In Anything」と「The Fall」、ゲスト参加のエイロス・チャイルドのピアノと彼らのアルバムには常連のジョン・マッカスカーのストリングスが美しい「Dark Clouds」、これぞギター・ポップ!という「When I Still Have Thee」からラストのバラード「Today Never Ends」まで、すでにクラッシックに響く収録曲からはしなやかさと力強さが感じられ、結果アルバム全体としてこれまでの彼らのどの作品以上に前向きな希望を感じされてくれている。

 派手なサウンドもギミックもないけれど、彼らの曲がこんなにも心の琴線に触れるのは、そこに音楽への愛情と歌心があるからに違いない。タイトルである「影」がひとときも体から離れないように、そっと寄り添い僕らの心を満たしてくれる永遠のポップ・アルバム。往年のリスナーから、この作品で彼らのことを初めて知る人まで、一人でも多くのポップ・ミュージック・ファンに聞いて欲しい。

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 2004年の結成以来、超絶なライヴ・パフォーマンスで着実にファンを増やし続けてきた、カナダはトロントを拠点に活動するホーリー・ファック。本作は、前作『LP』からおよそ3年振りのサード・アルバムである。

 バンドの中心となるのは、キーボード&エレクトロニクスを担当するブライアン・ボーチャートとグラハム・ウォルス。昨年のフジ・ロック・フェスティヴァルにおける彼らのライヴを目撃した人ならご存知のように、ステージではこの2人がフロントで向かい合い、テーブル状のスタンドに並べられた小型キーボードやエフェクター、グルーヴマシンなどを巧みに操りながら演奏を進めていく。いわゆるラップトップや、最初からプログラムされたオケなどは一切使わず、リアルタイムで鳴らされるブレイクビーツやアルペジエイター(シンセ等に内蔵された、アルペジオを自動的に作り演奏する機能)に生のドラム&ベースを融合させていくパフォーマンスは圧巻の一言だ。彼らはレコーディングもライヴ同様、リアルタイム演奏による「1発録り」をデビュー当時から貫いてきた。ライヴの勢いをそのまま封じ込めるサウンドは、もちろん今作でも健在だ。

 冒頭曲「1MD」は意外にもドラムレスのアンビエント・ソング。ボーズ・オブ・カナダやブラック・モス・スーパー・レインボー辺りを彷彿させるシンセの音色が次第に重なり合いながら、まるで洪水のように押し寄せる様はシューゲイジング・サウンドにも通じるものがある。続く「Red Lights」は、ゴリゴリのファンキーなベースがザ・ポップ・グループの「Thief of Fire」を思わせるダンサンブルなナンバー。この曲といい、先行シングル・カットされた「Latin America」や、ヒップホップ・ビートが腰にくる「Lucky」といい、これまで以上にリズムに重きを置いた楽曲が目立つ。これまでライヴのサポート・メンバーだったドラムのマット・シュルツが、正式メンバーとして加わった頃も大きいかも知れない。1つ1つの楽器の分離も良く、エレクトロニカ色が強く荒々しい音像だったファースト『Holy Fuck』、バンドを「塊」として捉えたような音像のセカンド『LP』に比べると、まるで霧が晴れたように「奥行き」を感じさせるサウンドスケープだ。

 もちろん、前作収録の「Lovely Allen」で展開した多幸感あふれるサウンドも、「Silva & Grimes」や「Stilettos」といった曲の中で、よりパワーアップした形で引き継がれている。疾走するリズム、フワフワと揺らめくパッド・シンセ。その間を行き来しつつ、次第に高みへと駆け上がっていくヒプノティックなシーケンス音は目眩がするほど気持ち良い。

 傑作『LP』さえをも、軽く超える作品を作ってしまったホーリー・ファック。彼らの勢いは、未だとどまることを知らないようだ。