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ハリネコ.jpg

 大友良英も関わる『音遊びの会』という取り組みがある。知的障害者とその家族、音楽療法家や様々なアーティストが集まり、即興演奏を通して新しい表現を開拓する試みだ。そのメンバーである原山つぐみが、2013年に神戸でスタインウェイ・リレーという順番にグランド・ピアノを演奏していくイベントに出演したのを観た。故・佐久間正英や早川義夫、モーマスにDODDODO(ドッドド)といった顔ぶれに挟まれて。極めて直感的なプレイ、というか瞬発的な叩き方、感情が染み出してくるようなパフォーマンスだった。


 既成の常識にとらわれないゆえに素晴らしい表現をするアーティストがいる。彼らこそ新しい普遍的なポップスを作る可能性がある。札幌出身のSSW沙知を中心としたプロジェクト、ハリネコもそのひとつだろう。勢いと艶のある彼女の歌がまず心臓をわしづかみする。さっぱりとした色気と生命力あふれる声。時にギリギリな響き、喘ぎ、あるいは切実な祈りを思わせる。ギター、シンセサイザー、ベース、チェロ、ドラムからなる彼女を支える演奏はシアトリカルというか、歌舞伎、浄瑠璃のような日本古来の伝統芸能、舞いと演奏が一体になったパフォーマンスを想起させる。次々と展開していき、とりとめがないようで整合性がある。収まる所に収まる。また、沙知の声はもちろん大人の女性のそれだが、歌いまわし、声色の端々に年端もいかない少女が見え隠れする。全体として大人の豊満な女性の質量ではなく、中性的で軽やかな響きとなる。演劇をイメージさせると書いたが、ある少女の波乱に満ちた成長を描く物語に聞こえてくる。


 ここまで書いて、ハリネコの音楽から冒頭に書いた原山つぐみの演奏を思い出した理由が分かった。その日の演奏中、妨害する街頭の騒音にさらされた彼女はその場を立ち去りたい衝動を必死にこらえているように見えた。何度も中断しながらも、しかし演奏を途中でやめなかった。つらさの尺度は人それぞれ、泣きたい、叫びたいくらいの苦しさを乗り越えて表現する。彼女の演奏が終わると観衆は一際大きい拍手を送っていた。そのとき微笑んでいた彼女が沙知のなかに居る少女とだぶったのだ。拍手する観衆は彼女にとってのバンド・メンバー。北の都から出てきた少女は東京で7人の小人ならぬ精鋭ミュージシャン達と巡り会う。誰の人生においても困難を乗り越えるためには仲間の存在は欠かせない。アバンギャルドなようでスタンダードな安心できるものにちゃんと行き着くのは、多彩なメンバーが彼女を支えているからなのだろう。



森豊和

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#INTERNETGHETTO #RUSSIA.jpg

 「Someone's Missing」という曲で、《ここにあるのは成長中のカルチャー 死体の奥深く さまざまな時代がまじりあい その源へ》と歌ったのは、確かMGMTだったか。今から4年前、2010年のことだ。もう少し時を遡って、2002年。LCDサウンドシステムことジェームズ・マーフィーは、「Losing My Edge」のなかで、インターネットが一般化して以降、誰もがさまざまな時代の音楽や文化に触れることができる現在を予言するような "神の視点" を歌った。《1968年ケルンで最初のカンのコンサートを観た》《パラダイス・ガラージのDJブースにラリー・レヴァンとともに俺はそこにいた》といった具合に(ちなみにジェームズは1970年生まれ)。この歌は、音楽マニアによるうんちくとレコード・コレクションの自慢に聞こえるが、その豊富な知識がもはや特権ではないことも告げていた。知識は "占有" ではなく "共有" されるものと認知され、多くの者がネット上に資料をアーカイヴとして次々とアップする、いわば "記憶の外部化" が進んでいるのだから、それも致し方ないというもの。そして、この流れが行き着いた地点こそ、《Ninja Tune》などから多くの作品をリリースしているミスター・スクラフが筆者に語ってくれた、「昔に比べて細分化されたから、自分の音楽史というか履歴が他の人とかぶることが少なくなったかもしれない。みんなインターネットを介して、個々の音楽文化を築き上げている」(※1)という現況だ。


 そんな現況がもたらした興味深い作品が、『#INTERNETGHETTO #RUSSIA』である。本作はロシアの《Hyperboloid》というレーベルによって企画されたコンピレーション・アルバム。ジューク、ダブステップ、ラガ、トラップ、EDM、ジャングルなどが混在した内容で、フロア映えするトラックが多く収められている。ちなみに、本作のメガミックスがアップされているサウンドクラウドのタグには、"techno trap" "tropical bass" "webpunk" といったジャンル名がある。このあたりは、単一タグで括れない表現が当たりまえになった現在だからこそであり、面白くはあるが、決して珍しいものではない。筆者からすると、《R&S》が2011年にリリースし、テクノ、IDM、ダブステップ、ヒップポップが交雑したコンピ『IOTDX』のアップデート版にも聞こえるが、アルバム・タイトルに "GHETTO" があることからもわかるように、『IOTDX』と比べたら本作は享楽的で、汗臭さが漂う。それゆえアゲアゲなグルーヴが際立っている。


 また、そんなグルーヴがアルバム全体を支配しているのも興味深い。コンピレーションともなれば、色彩豊かな雑多感を少なからず醸すものだが、本作はそうした雑多感を残しつつも、刹那的でアッパーなレイヴ感、それからハドソン・モホーク『Butter』以降のツルッとしたアーティフィシャルなシンセ・サウンドという2点が全曲に通低している。ゆえに本作は雑多感よりも統一性を強く感じさせ、言ってしまえば、とあるアーティストによるオリジナル・アルバムと紹介されて聴いたとしても、何ら違和感がない。


 先に引用したミスター・スクラフの発言には筆者も同意できるし、レヴューやライナーノーツといった場を借りて何度も繰り返し書いてきたことでもある。だが、本作の統一性は、みんなが同じ方向に傾いた画一的な熱狂や連帯とは違う、いわば新しい帰納的な連帯の形、それこそ「個々の音楽文化を築き上げ」た先を示しているように見える。音自体の面白さはもちろんのこと、人と人の繋がり方に新たな視点を提示したという点でも、本作は多くの人の興味と好奇心を促す作品だ。



(近藤真弥)



【編集部注】『#Internetghetto #Russia』は《Hyperboloid》のバンドキャンプからダウンロードできます。



※1 : ミュージック・マガジン2014年6月号掲載 ミスター・スクラフのインタヴューより引用。

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Chromeo-White-Woman.jpg

 2014年も、すでに半分すぎてしまった。今年前半の、ぼくの最高の「愛聴アルバム」は、テンプルズサム・スミス、それは結構揺るぎないとして、もちろんほかにも素晴らしいものがたくさんあった。ちょっと俯瞰的に、比較論もまじえれば、こんな言い方もできる。


 2014年の「インディー・ロック」トップ・アルバムがフォスター・ザ・ピープルだったとすれば、彼らクローミオによるこの『White Women』こそ、まぎれもない「インディー・ポップ」トップ・アルバムだと。


 まあ、どちらもiTunesにつっこんだとき(Gracenoteをつうじて)表示された「ジャンル」は「インディー・ロック」だが(笑)。というか、彼ら...カナダのクローミオに関しては、ちょっと意外だ。00年代のポスト・パンク/ディスコ・ リヴァイヴァル・ブーム期に世に出た男性ふたり組ユニット。今調べてみたら、前作にあたる2010年のサード・アルバムのジャンル表記は(「ヒップホップ」ではなく:笑)「ラップ」だったし。


 もともと彼らの名前を耳にしはじめたころ、LCDサウンドシステムのジェームズも「注目してる」と言ってたから「エレクトロニカ/ダンス」でもおかしくない(ただ、同じく今ぼくのiTunesライブラリを確認してみたら、LCDのファーストとセカンドは「オルタナティヴ&パンク」だった。自動的に出てきたものなのか? それとも、ぼくが勝手に変えたんだっけ? 今となっては記憶がないぞ...:笑)。


 そういった「ざっくりした」話は、ちょっと置いといて、ぼくのなかにおける彼らの位置づけに関して言えば、ほぼ同じころ好きになりはじめたオーストラリアのカット・コピーや、フランスの(かつてのダフト・パンクフェニックス→)ブレイクボットあたりと近い。「ギターやベースやドラムスと同じようなものとして、それが使われはじめたころ」、つまり70年代末~80年代っぽいエレクトロニック感覚を継承しつつ、なによりエヴァーグリーンなポップ・エッセンスが、むちゃくちゃ気持ちいい。


 そんな意味で、この『White Women』、彼らの最高傑作だ。ヨーロッパ盤は名門パーロフォンから出てるだけあるというか。全盛期のプリンスに勝るとも劣らない完成度。ぼくはプリンスの80年代の作品を今もときどき聴く。やはり「当時のサウンドだな」と感じつつ。あくまで「アーカイヴ」として楽しんでいる。それに比べると、こっちは、もちろん「今の音」そのものだし、「とにかく楽しい」という意味ではプリンスより、もっと「普通のヒット曲」寄りかもしれない。


 そう、このアルバムは、本当に、ちょっとどはずれなくらいに楽しい。楽しすぎる。だから、ぼくは「精神的にはめをはずしたい、思いっきり逃避したい」とき、これを聴いている。


 だからこそ「インディー・ポップ」なのだ。フォスター・ザ・ピープルの新作セカンドも素晴らしかった。しかし、そこには「社会のなかにおける自分の位置づけ」に対する苦悩がすけてみえた。もちろん、いい意味で、エンターテインメントに徹しつつ。ピンク・フロイドの『Animals』や『The Wall』と、ためをはるくらいの深さで。それゆえ「ロック」だと思った。


 そして、ぼくは疑心暗鬼に陥ってしまった。フォスターのセカンド、噂によるとファーストに比べてあまり好きじゃないという人も多い、すごく賛否両論...らしい。えっ、なんで? もしかして、あれなのかな? 「インディー・ミュージック」ファンって、「社会」というファクターが音楽に入ってくると、拒否反応を示してしまうことも多い...ってこと?


 はあ...。正直に言おう。ぼくは長年クッキーシーンというメディアをやりつづけていた。だけど、その「イメージ」も含め、自分自身がそれを「完全にコントロール」できるわけではない...ってことも長年やっていて痛感した。とりわけつらかったのが、「雑誌」時代の後期...00年代末ごろ。そういった意味での「インディー・ファン」が読者に多くなってしまったのではないか? という...。


「政治? 社会? 知らないよ。選挙? 関係ない。われこそセカイの中心...みたいな(笑)」。


 やめてくれ...。素晴らしいポップ・ミュージック/ロックには「逃避」的側面がある。それは、たしかなこと。だけど、これは違うだろう。そんなふうに「閉じこもって」ばかりいたら、「逃避」をとおりこし、そのうちやがて「死」がやってくる。きみのわきに、しのびよってくる。それは、今の日本の社会に暮らしていれば、わかるはず...じゃないか?


 英語版ウィキペディアによれば、彼らは自らのことを「人類の文化の曙以来、はじめて『成功』した、アラブ人とユダヤ人のパートナーシップのたまもの」と称している。この音楽を聴き、ユーチューブでそのヴィデオを鑑賞したとき、『White Women』というアルバム・タイトルから、なにより強く伝わってくるのは「あー、きれーな白人ねーちゃんと遊びまくりてー、あわよくば結婚してーよー!」という、やむにやまれぬ感覚(笑)だが、その裏にある「批評性」は、上記の自己認識からして、もう明白だろう。


 さらに、アートワークに使われている車を見たとき、今さらながら気づいた。ずっと「クロームという金属名と(ジュリエットに対する)ロミオという人名の合成語」かと思っていたバンド名の、もうひとつの意味...ニュアンスに...。そっか「Chromeo」というつづりは、なんか「シボレー・カマロ(Chevrolet Camaro)」にも似てるぞ!


 今回、彼らがアートワークに使ったカマロは、80年代後半~90年代初頭の古いもの。ちょうどウルトラマンティガの(世界平和機構TPC傘下で最初は「武器」を持っていなかった)防衛隊GUTSの使用車(黄色いシャーロック)として使われたのと、ほぼ同じ年式。ちなみに、それより新しい年式の黄色いカマロは、トランスフォーマー実写版で複主人公たるバンブルビーにトランスフォームする。


 すごく「男の子」っぽい車だし、もうひとつ言っておけば、カマロはシボレーのラインのなかで、わりと低価格帯に属する比較的「庶民的な」スポーツカーだ。80年代初頭のプリンスに「Little Red Corvette」という大ヒット曲がある。スポーツカーに仮託して《あなた(のちんぽは「Little Red Rooster」ならぬ)赤い小さなコルヴェット...(いくの)速すぎ(フラストレーションたまっちゃう)!》と歌われたそのコルベットは、GM(ジェネラル・モーターズ社)全盛期におけるシボレーのフラッグシップたる高級車だった。でもって、クローミオは白い(古いし、たぶんそれほど速くもない)カマロ。こんなところにも、クローミオの「特質」が、よく現れているではないか...!


 最後に、ひとつ意地悪な? ことを言っておこう。


 このアルバムには、さまざまな人たちがゲストとして参加している。(LCDサウンドシステムの、わりと「パンクな面」を支えていた者のひとり)パット・マホニーや、(そういう名前のユニットがあることは知ってたけれど、ぼくも聴いたことがない)フールズ・ゴールドの人たち。そして、これが「でかい」んだが、ヴァンパイア・ウィークエンドのエズラや、トロ・イ・モワまで! ただし、彼らのフィーチャーのされ方は、決して「インディー・ミュージック」を「知的シェルター」として捉えている人たちが喜ぶような形ではない。むしろ「下世話なポップ・ミュージックの典型シンガー」として、そんなタイプの「インディー・ファン」たちが眉をひそめるか、もしくは「はあ? 関係ないよ、ぼくには...」などと言ってしまいそうな役割を与えつつ。その典型が、トロ・イくんをフィーチャーした「Come Alive」のヴィデオだろう。彼自身すごく「楽しんでいる」ように、ぼくには見えるのだが(笑)。


 ぼくは「最高!」と思った。さて、あなたは、どんなふうに感じるだろう?



(伊藤英嗣)

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 奇しくも日本政府が集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更を決定した201471日、新メンバー加入後としては初となるPANIC SMILE(パニック・スマイル)の作品が店頭に並んだ。カヴァー・アートには医学書からとられたような臓器の模型や化学構造式、顕微鏡の視野等が白黒でコラージュされている。フロント・アートに映る七三分けの男性は、おそらく人体模型なのだろうが、三つ折りジャケットを広げた下部にあるデモを想起させる群衆の写真と相まって、このご時世、否が応にもヒトラーを連想させる。


 本作のタイトル『INFORMED CONSENT』とは、正しい情報を伝えられたうえでの合意を意味する、主に医療現場で用いられる概念。自分たちに降りかかる運命について我々は知る権利がある。しかしインフォームド・コンセントは訴訟社会であるアメリカで、訴えられるリスクを減らすための医師の自衛手段として広まった側面がある。現在の社会情勢においてますます皮肉に聞こえてくる用語だ。医師は騙そうとして難解な話をするわけではないが、政治家は意図的に本質を外した答弁をする場合がある。表題曲「INFORMED CONSENT」は、インターネットで能動的に情報を得ているようで知らないうちに誘導され操られ、放射能という十字架を背負わされるさまを歌っているとも解釈できる。英詞の「NUCLEAR POWER DAYS」ではもっと露骨に原発や核戦争の恐怖を叫ぶ。「DEVIL'S MONEY FLOW」は一聴、経済について歌っているようで、漁船、国境といった単語を混ぜ込み、裏にある政治的意図を暗示する。何より《こっちに選ぶ権利がない》のが問題だと。


 歌詞カードには男性がUFOに吸い込まれていく漫画が描かれている。大きな力に操られ踊らされる男性。恐怖体験であるが、ビュルルーン、パワワーといった気の抜けた効果音でなんだか喜劇的だ。そのUFOに乗る宇宙人はロールシャッハ・テストの図形に似せた風貌をしている。つまり宇宙人もPANICSMILEの音楽も無意識に由来することを示唆しているのかもしれない。不動のヴォーカル吉田肇に、保田憲一がベースからギターへ転向、新たなリズム隊としてドラムに松石ゲル、ベースはDJミステイクという新メンバーで紡がれるバンド・アンサンブルは、緻密さが自然にほぐれ、かつてないほど開放的でユーモアも見え隠れする。それこそ歌詞カードの漫画みたいに明快で、その辺のJ-POPより爽やかだと錯覚してしまうほどだ。変拍子でどんどん展開していくプログレッシヴ・ロックのような小難しい曲ばかりなのに難解に聴こえない。1曲目の「WESTERN DEVELOPMENT2」で吉田は《とりあえず反旗を振っている 敵タナトスは馬鹿でかい》と歌うが、彼がデビュー後21年間保ち続けてきた闇雲な焦燥感、そのテンションにジャストな時代がやっと訪れたのかもしれない。ラストの「CIDER GIRL」では《ツイートをしたって絶対一人》と歌いながらも、不安な闇の彼方に一筋の希望を探す。優しい女性コーラスも添えられて、彼らにしては驚くほどストレートな90`sオルタナティヴ・ギター・ロックだ。盟友NUNBER GIRL(ナンバー・ガール)とともに博多の街を熱くした吉田の若き衝動は今なお続いている。



森豊和

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 激しい高揚感と、全てが過ぎ去ったあとの静けさが同居する。平沼喜多郎の叩くドラムに加えて、ギター/ヴォーカル/プログラミングの松村勇弥は今回ベースも自ら演奏している。よりヴォーカルを前面に出すプロダクションも施した。エレクトロ・ミュージックの様々な方法論を折衷しているが、もともと彼らの表現の芯にはギター・ロックのスピリットがある。それが生演奏の比重を増すことでさらに強調されている。


 かつてどこにもなかった国と名付けられた3曲目「Never Ever Land」やシングル・カットされた5曲目「Superneutral」ではその傾向が特に顕著だ。マッドチェスターからブリット・ポップの夢を2014年の日本で再現する。ストーン・ローゼスのようにポスト・パンク、サイケデリック・ロックをダンス・ミュージックに落とし込む手法に、オアシスが体現した単純で(だからこそ無敵な)カタルシスを注入する。かと思えば2曲目「I.D.」はLCDサウンドシステムが紐解いたニュー・ウェイヴ・ディスコの歴史をもう一度俯瞰する試みだ。4曲目「Experience Auras」はミニマルな冒頭から徐々に高まっていくダンス・ナンバー。ブリアルワンオートリックス・ポイント・ネヴァー等を愛聴する松村の嗜好が垣間見える。


 アルバムの構成は一本の映画のようだ。そのストーリーは歌詞やタイトルからも推測できる。例えばオープニング・ナンバー「Instant Dupe」は、すぐ騙される間抜け、カモの意味。6曲目の激しいダンス・ロック・ナンバー「Escape Line」は逃げ口上を意味する。続いて複雑な感情の揺れをイメージさせる「Counterfeit Rainbow」はまがいものの虹。DVD収録のVJ田嶋紘大が制作したMVではダイヤの指輪が粉々になるアニメーションが描かれ、《I'll make something wondrous(素晴らしい何かを成し遂げたい)》と歌われる。ジューク以降の流れを意識したかのような9曲目「Civilization」は文明化、ナイン・インチ・ネイルズのようなインダストリアル・ロックを彼らの感性で高速化させた10曲目「Manifold」は機械の枝分かれした排気管を意味するが、すると「Counterfeit Rainbow」のMVでは、工業化された物質文明をダイヤの指輪に例えたのかもしれない。それをまがいものの虹だとして粉々にする。アニメーションではその瞬間、真の美しい虹が現れるように見える。それこそが彼らの音楽なのかもしれない。


 ハムレットの悲劇のヒロインの名を冠した8曲目「Ophelia」は甘いシティー・ポップ・チューン。そして11曲目「Lust For Love」は彼らなりのインディーR&Bで最後にできた曲、今最もやりたいことの結晶だという。一方でラストの「Melt With You」ではアンダーワールドが体現した、しだいに加速度を増し、天上まで登りつめていくムードが2014年型にアップ・デートされている、9分近いこの曲は彼らの真骨頂。全体を通して伝わってくるのは揺るぎ無い信念。高機能なダンス・ミュージックとしてのテクノ、ハウス、アンビエントを越えて彼らが目指すのは、より多くの人に届くポップ・ミュージックだ。



森豊和

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 音楽も含めた "表現" は、ひとつの時限爆弾になり得る。発表当時はなんとなく流していた部分が、突如として心に突き刺さる棘となってしまう。例えば、《この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ》と言葉を紡ぐザ・ストリーツの「Empty Cans」が、10年の時を経てより深く私たちの心に問いかけてくるように。良くも悪くも、"表現" とは時代ごとにさまざまな解釈をあてがわれ、含意も変わる。それを良しとしない者も少なからずいるだろうが、場合によっては希望という名の可能性に繋がるのだから、一概に悪いとは言えない。表現とは "切り口" であって、"答え" ではないのだから。 "答え" は "切り口" を受け取った私たちがそれぞれ導きだすものだ。決して誰かが教えてくれるものじゃない。


 坂本慎太郎は、実に多くの "切り口" を残してきた。明確な政治的主張をするわけではないが、ゆらゆら帝国時代に生み出した「ソフトに死んでいる」なんて、"今" に相応しい言葉を歌っている。


《いっけんやわらかい すごくなまあたたかい おわらない にげられない わすれたふりはもう やめよう よう よう よう よう》

(「ソフトに死んでいる」)


 とはいえ、ソロ・アルバムとしては2枚目の本作『ナマで踊ろう』は、文字通りの直球勝負。右傾化(というより筆者は "幼稚化" だと思うが)が著しいと言われる現在の日本に対する痛烈なメッセージ性を持ち、諸星大二郎や楳図かずおの漫画に通じる、SF的な寓話性を備えている。それは例えるなら、小さいころ両親に読み聞かせてもらった絵本のようなものだ。布団に入り、うとうとしながら聞いていたそのお話は、実は風刺や社会的教訓が込められたものであったという。このような側面が本作にはある。


 しかもそれは、歌詞だけではなく音にも通底するものだ。本作の初回盤にはアルバムのインスト・ヴァージョンが同梱されているのだが、そこで聴けるひとつひとつの音も "言葉" として伝わってくる。みんなで聴くより、ひとり部屋で寝転びながら聴いていたいトリッピーなサウンドスケープには、本作のコンセプトを築きあげることに腐心する坂本慎太郎の姿、それからファンク、ディスコ、ソウル、イージーリスニングなど彩度ある音楽的背景もうかがえる。もちろんコンセプトも重要ではあるが、本作はひとつの心地良い音世界を示してくれるという点でも、素晴らしい作品だ。


 ちなみに、クッキーシーンを中心に活躍する音楽ライターの近藤真弥、つまり筆者は、某誌で書いた本作のレヴューで次のように述べている。


「まるで地中から這い出てきたゾンビが演奏しているような音楽」(※1)


 これはおそらく、キノコ雲と骸骨というこれまたわかりやすいジャケット、それから「この世はもっと素敵なはず」で歌われる、《見た目は日本人 同じ日本語 だけどもなぜか 言葉が通じない》という諦念が入り混じった一節に影響されたからだろう。これについては今も変わらず抱いている印象だ。本作の1曲目「未来の子守唄」にしても、"未来の人間" というよりは、"未来の死者" が歌っているように聞こえてしまう。言ってしまえば本作は、未来の人々からすれば "過去" である私たちに向けられた、一種の恨み節なのかもしれない。とは言っても、繰り返しになってしまうが、"答え" は "切り口" を受け取った私たちがそれぞれ導きだすものだ。そういった意味で本作は、"切り口" としての余白を残しており、聴き手を完全に突き放す作品ではない。このあたりに坂本慎太郎という男の優しさ、そして皆が同じ方向へ傾く画一的な熱狂とは別の連帯を求める意思を見いだしてしまうのは、筆者だけだろうか?



(近藤真弥)




※1 : ミュージック・マガジン2014年7月号のクロス・レヴューにおける坂本慎太郎『ナマで踊ろう』評より。

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吉田ヨウヘイ.jpg

 草原を突き抜ける風のようなフルート、揺りかごのようにスイングするサックス。幼き日に駆け回った田舎の野山を思い出す。ジャズ、ファンクのリズム、コード進行にやわらかなメロディーが乗る和風ポストロック。ダーティー・プロジェクターズからの影響を公言し、聴く者を包み込むように鳴らされるギターと心和ませる管楽器と女性コーラス。豊饒な音楽だ。


 「新世界」を夢見て、はるか地平を見渡すために背伸びする、少年のような吉田ヨウヘイの声も魅力的だ。多彩な楽器隊や工夫を凝らしたアレンジに耳を奪われがちだが、総体として表現しようとしていることは、唄の表情にこそ端的に表れている。青年期も半ばを過ぎて少年の頃を振り返り、失われた情景や大切だった人間関係を想う歌詞が中心だが、2曲目の「ブールヴァード」では運転中のトラブルに、5曲目「12番ホーム」では列車のトラブルに例えるといった風で、日常の情景描写に心象風景を託している。そして3曲目の「アワーミュージック」では、人は時期が来れば諦めなければいけないことがたくさんある。それが大人になることだと歌われる。しかしその時期がないこともあると彼らは続ける。決して諦められないこともある。それが彼らにとっての音楽であり、信条なのだろう。


 話はそれるが、子ども向けの名作は、実は大人も楽しめる深い何かを隠している。ジブリ映画『となりのトトロ』は冥界からの使者であるという解釈もできるし、『千と千尋の神隠し』は精神分析で言えば子どもの発達過程を表すと同時に社会の暗部のカリカチュア。吉田ヨウヘイgroupのアルバムも同じで、やさしい音色なのに突き刺すような響きも含まれる。子どもの頃の懐かしく淡い感動を思い出させるが、そのなかにはお化けを怖がるような気持ちも含まれている。アルバムを通して聴いていて、不意に背筋が凍る瞬間を何度か体験した。自ら手放した大切なものについて歌う8曲目「ロストハウス」は特にそうで、苦しいほど胸が締めつけられた。岡田拓郎(森は生きている)がペダル・スティールを、三船雅也(ROTH BART BARON)がバンジョーを弾くこの曲は本作の核心だろう。ネガティヴな気持ちも包み隠さず歌われるからこそあたたかい音色が生きる。そして最終曲「錯覚が続いている」では本作中、最も牧歌的なメロディーが鳴らされ、大久保淳也(森は生きている)のトランペットが厳かに旅の始まりを告げるようだ



森豊和

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 1990年代に流行った "渋谷系" といえば、フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴが代表的存在とされ、自ら「全員平成生まれの遅れてきた渋谷系宅録ユニット」と称しているOK?NO!!、それからOK?NO!!のメンバーであるreddam(リダム)など、いまでも多くのフォロワーを生み出しているムーヴメントだ。とはいえ、いまでも明確な定義はなく、"渋谷系" と呼ばれていた音楽に通じる匂いがあれば "渋谷系っぽい" と言われているのが、現状だと思う。強いて "渋谷系" に欠かせない側面を言うと、多様な音楽的背景が感じられること、くらいだろうか。


 そういった意味では、sunachu(すなちゅ)とtakahiro(たかひろ)による男女ユニットCaro Kissa(カーロキッサ)のアルバム『Door』も、 "渋谷系っぽい" と言えるかもしれない。本作は、親しみやすいメロディーと平易な言葉で紡がれた歌詞を特色とし、モータウン、ファンク、ブルースの匂いを醸す多様な音楽性が魅力だ。


 加えて、ニューミュージックの色がまだ濃かった1990年代初頭あたりのJ-POP、いわば普遍的なポップスを感じさせるのも本作の面白さである。いま "J-POP" と呼ばれている音楽のほとんどは、複雑なアレンジや忙しない転調が繰り返される過剰なプロダクションを特徴としている。だが、本作のJ-POP感は、そうした現在の "J-POP" に対するオルタナティヴ性を孕むものだ。例えが悪いのを承知で言えば、ブックオフの280円コーナーでよく見かける、1998年をピークとするCDバブル期に制作された作品のような音。念のために言っておくと、筆者はこの例えをポジティヴな意味合いで使っている。値段と内容がイーブンではないのは言うまでもなく、しかもCD不況と言われる前に作られた作品だけあって、売れた売れないに関わらずそれなりの制作費を元手に作られており、ゆえに音が良かったりするのだから。もっと言えば、レア・グルーヴというものがあるように、リリース当時は見向きもされなかった作品が、時を経て多くの人たちに聴かれている光景は文字通り "希望" と言えるはず。筆者は本作に、そうした時代の面白さも見いだしている。


 もしかすると、本作を聴いて "懐かしい" と思う聴き手はいるかもしれないし、あるいは、"これなら過去に聴いたことがある" と一刀両断する者もいるだろう。しかし、秀逸なメロディーと言葉でもって、"かつてのJ-POP" を2010年代に蘇らせた『Door』が、なぜ "今" 生まれたのか? このことについてはいろいろ想像ができるはずだ。そういえば、"渋谷系" が出てきた当時、同時期に流行っていた "ビート・ロック" なる縦ノリの音楽があって、"渋谷系" にはそうした時代の潮流に対する反骨精神があった。この状況、現在にも当てはまりません? 


 というわけで、あとはあなた自身の耳で確かめてください。



(近藤真弥)




【編集部注】『Door』は《Positive Records》のバンドキャンプからダウンロードできます。

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 やはり、やつらは「本物」...D.I.Y.ロック・バンドの鑑のような存在だった。この春、たてつづけにリリースされた(リリース・ギャップはわずか数ヶ月...。あいかわらず好き勝手流...だし、そのギャップの短さはイーノ&ハイド以上...というか彼らがGBVを真似た...のかしら?:笑)2枚のニュー・アルバム『Motivational Jumpsuit』と『Cool Planet』を聴いて、まじでそう思った。


 がさつだけど緻密。クールだけど熱い、そして「激しい」けれどスーパー・ポップというGBVならではの世界は、キャリアや年齢を重ねても、まったく衰えていないどころか、まずます磨きがかかっている。


 ある程度年期の入ったインディー/オルタナティヴ・ミュージック・ファンの方であればご存知と思うけれど、彼らがワールドワイド・ブレイクを果たしたのは90年代初頭。グランジ・ブームとシンクロしたUSにおける「その手の音楽」の盛りあがりのなか、当時は一介の新進レーベルにすぎなかったマタドールを、ペイヴメントや(UKの)ティーンエイジ・ファンクラブと並んで(レーベル本国USでは彼ら以上に?)盛りあげた。日本では、ベックや(これまた)ペイヴメントと並んで「ローファイ」ブームの旗頭となっていた。そんな「タグ」、今となってはまったく「有効」ではないだろう。ただし、「D.I.Y.だから、どうしてもハイファイ(Hi-Fi)志向は無理」という意味では、彼らは本当にそんなノリを今も貫いている...と、むしろ感心してしまう。


 『Motivational Jumpsuit』も『Cool Planet』も、20曲以上入って、時間は40分前後。だらだらと50分以上1枚のアルバムにつきあわされる必要もない。まあ、それはそれで、もちろん「あり」なんだけど、GBVの「今を生きる」疾走感には似合わない。おおげさに言ってしまえば、ポスト・パンク時代...70年代後半にワイアーがデビュー・アルバム『Pink Flag』(オリジナルは全21曲入りでトータル約35分という潔さ)でやらかした「極端さ」を、今も継承している。そのたとえ無理があるだろう、って? いや全然そんなことないよ。先述のとおり、彼らの名前が「世界にとどろきわたった」のは90年代だけど、もともと結成は80年代初頭。それも、ペル・ウブやディーヴォと同じ、オハイオ州で。


 とりあえず、彼らのことを知っている方も知らない方も、できれば2枚とも聴いてみてほしい。比較するなら『Motivational Jumpsuit』のほうが、よりストレートにガレージ・ロックンロールっぽく、『Cool Planet』のほうがストレンジ・ポップ度が高い。たとえば、彼らは00年代なかばに一旦解散する前...90年代末にはクリエイション・レコーズからUK盤を出したこともある、という情報にピンと来た(彼らのことを知らなかった)方には『Cool Planet』のほうがお薦め...かもしれない。


 10年代初頭の再結成以降、彼らは本国USでは「自らの名前を冠したレーベル」から、UKではファイアー・レコーズ(わお!...とジジイは言う:笑)から作品をリリースしている。そんな形も、今という時代にふさわしい。まあ、本国におけるウェブ・メディアでのプロモーションは手薄になっちゃうから、それらを基準に音楽を聴いてる方には「誰それ? あそこで褒められてなかったじゃん」って感じかもだけど(いや、実際に褒められてるかそうじゃないかは「あそこ」をまったく見てないので知りませんが:汗&笑)、まあ、騙されたと思って、一度アルバムを聴いてみてほしい。できれば、歌詞など「言葉」の使い方にも、是非着目しつつ!



(伊藤英嗣)

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 アンディー・バトラー率いるハーキュリーズ&ラヴ・アフェアのファースト・アルバム『Hercules And Love Affair』が発表されてから、6年近く経った。このアルバムは、妖艶で甘美なサウンドをまとったハウス・ミュージックでありながら、ザ・ラプチャーLCDサウンドシステムなどを中心とした、2000年代前半のディスコ・パンク・ブームを牽引したレーベル《DFA》からのリリース。このインパクトは、当時をリアルタイムで過ごした筆者からすると、相当デカイものだった。


 『Hercules And Love Affair』が面白かったのは、ハウス・ミュージックの持つエロティシズムを2000年代に蘇らせたこと。ハウスという形式を用いるだけでなく、ハウスが主にゲイから支持された音楽であり、ハウスの創始者フランキー・ナックルズや、フランキーの友人ラリー・レヴァンがDJを務めたニューヨークのクラブ《Paradise Garage》といった起源にまで及ぶ愛情がほとばしっていた。いわばハウス・ミュージックの精神を受け継いでいたのだ。そんな『Hercules And Love Affair』は、エドゥアール=アンリ・アヴリルなどが有名な芸術のジャンル "エロティカ" を連想させる作品でもあった。


 おまけに、ヘラクレス(Hercules : 英語形はハーキュリーズ)という言葉がグループ名に入っているのも暗喩的だった。ヘラクレスといえば、古代ギリシャ時代の伝承などによって作られたギリシャ神話の登場人物として知られるが、その古代ギリシャ時代の哲学者プラトンは著作『饗宴』で、もともと性は "男男" "男女" "女女" の3種類あったと書いている。さらにプラトンの師匠ソクラテスは、アルキビアデスという名の美男子と恋人関係だったのは有名な話。言ってしまえば古代ギリシャ時代は、"同性愛" と深く結びついていた。


 また、古代ギリシャの要素は、「僕は人々の踊ることができる公共の場を作りたい。人々がいる場所で踊ることが重要なんだ」というかつてアンディーがガーディアン誌で語った持論に関しても重要なものだ。古代ギリシャ時代のアテナイ(アテネの古名)に住む人々は、スタジアムや寺院、劇場、さらにこれらを繋ぐ公共空間が豊かになれば、良質な都市空間が生まれることを知っていた。それゆえアテナイは民主主義発祥の地として幾度も言及され、哲学、芸術、学問の中心となり、ヨーロッパ全土に絶大な影響力を及ぼした。こうしたアテナイの優れた都市機能は、先述したアンディーの持論に少なからず影響をあたえている。ゆえにハーキュリーズ&ラヴ・アフェアは、世界中にある多くの都市が殺伐とした消費主義の苗床、いわば単一目的化していくなか、異なる文化や要素が混合し響きあう "多様性の容れ物" としての可能性を持つに至った


 このように、アンディー・バトラーはハウス・ミュージックの伝承者であると同時に、ひとりの思想家とも言える存在だ。『Hercules And Love Affair』にしても、サウンドそのものが革新的だったかといえばそうじゃない。多くの人がハウスの精神を忘れていた時期に颯爽と現れ、その精神をみたびインディー・ミュージックの文脈に接続したことで、ハーキュリーズ&ラヴ・アフェアは "衝撃" となった。そうした伝承者としての側面は、本作『The Feast Of The Broken Heart』でも健在、いや、より強くなっている。前作『Blue Songs』でも、ハウス・クラシックとして知られるスターリング・ヴォイド「It's Alright」のバラッド・カヴァーに挑戦するなど伝承的側面をうかがわせたが、本作ではそういったメランコリーな雰囲気はどこへやら。ひたすら享楽的で、踊らせることだけに焦点を絞ったハウス・ミュージックの快楽で埋めつくされている。トリッピーなアシッド・ハウス「5:43 To Freedom」、そして粗い質感が印象的なシカゴ・ハウス「Liberty」といった具合に、フロアで映えるダンス・ミュージックとしての機能性を追求したトラックが目立つのも特徴だ。このあたりは、2012年にリリースしたミックス『DJ-Kicks』で、幾多のハウス・クラシックを振りかえった影響が少なからずあるだろう。


 2014年3月31日、フランキー・ナックルズが59歳の若さでこの世を去った。それでもハウス・ミュージックは鳴り止まない。「It's Alright」でも歌われたように、《今から3千年も経とうとも 音楽はつづいているだろう 時間を超越した波長に乗って》ということだ。本作には音楽という文化の自由さとロマンが刻まれている。



(近藤真弥)