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 ブライアン・イーノが78年に創った『Music for Airports』はなだらかな漣のようなサウンド・レイヤーが醸す美しさを静かに付与し、当時では不明瞭とも言えたアンビエントという概念を定着させただけでなく、空港内で機能する音楽が決してラウンジ的なものばかりではない、ある種の弛緩への緊張を要求されるものだということをリプレゼントしたが、実際には空港利用者には批判を受け、タイトル通り、空港内で定着するには至らなかった。結局は、フュージョンとかイージーリスニングとか流れるように柔らかく人の耳に極力、残るようで残らない音楽があの喧騒の中には「馴染む」という事なのかもしれない。

 それでも、僕は空港に行った時に、そういった音楽よりも(嫌いではないが)、イーノのアンビエント作品が聴きたくなってしまうのは何故なのだろうか。それは、一つ言うならば、多くの言語や様々な人が行き交う場所からこそ、耳が鋭敏化してしまい、その耳に流し込むには逆に精緻に隙間を組み立てた音楽こそが安穏をもたらすから、とも置き換えられる。百貨店で流れるオルゴールのような音楽に辟易した人も居ると思うが、実は、喧騒には緊張で対応しないと、不快に感じてしまう要素因もあるのだ。

 06年に日本語書が出た、Peter Morvilleの「アンビエント・ファインダビリティ」という本はイーノのアンビエントからインスパイアーされた書で、見つけやすい環境とWEB社会の進化性を多角的に分析した本だったが、世の中のアンビエント化とfindabilityを結びつけ、アークテクトを描こうとする力技が過度に働いたが故に、散漫になってしまった。とはいえ、その後のハイエンドな仮想社会を可視するには良い見取り図を提示したかもしれないが、今現在、アンビエントという言葉を再定義するのは広義におけるイージーリスニング的な感覚から言葉を置く事は出来ず、混沌から行間を見出す導線付けを必要とする、と言えるならば、MySpace以降に散見されるエレクトロニカ、IDM紛いの設計図だけが綺麗に描かれて、その中身が空疎なアンビエント的な音楽とは実は、自閉の末に中毒状態になっている性質も感得出来るだけでもある。つまり、表現することの郵便的誤配を怖れる以前に、郵便的であることに関してさえ、無自覚な気味の悪さを孕んでいるケースの少なくない数の兆候化を示している。それは、そういった音楽のロールモデルとして必ず挙げられる、ポスト・エイフェックス・ツイン『アンビエント・ワークス』下の、クラークがふと見せる穏やかな表情、そして、近年のオウテカが何処までも沈み込むように見せる内省的な美しさに、近付く為の試行に見えて、ただの退行である。

 その「退行への対抗」として、UKインテリジェンス・テクノの始祖的存在でもあり、Plaidと暖簾を分け、今はSomaをベースに置くTHE BLACK DOGが3年間で200時間の空港でのフィールド・レコーディングを含み、ダブステップや最新鋭のビート・センスを混ぜ、冒頭に挙げたイーノの名盤のアップデイトをはかった『Music For Real Airports』が面白い。タイトル通りを想い聴くと、肩透かしを合うくらい、基本ビートレスでかなりドープなシリアスな内容になっており、空港でのレコーディングされた音も破片的に浮かびあがるだけで、かなり挑戦的な姿勢を貫いている。この作品が流れる空港こそ、想像さえ出来ないが、でも、今や空港とは誰かの移動の為のトランジションではなく、数多の人たちの不穏の折衷点でもあり、あらゆる恐怖が渦巻く明確なメタファーであるとしたならば、例えば、アドルノ言ったような、以下のようなレトリックが当てはまる。

 つまり、この音楽は、「音楽について語っているだけ」に過ぎず、しかしながら、対位法的な問いがもはや宙空化する「葛藤」を明顕しているような世界の状態性を均質化せしめる。生の硬直性が、不気味とも言える規範の抑圧からの避難を許すと人々が信じている領域を反照しているならば、音楽の中での生とは今や、こんなに混乱したものに「なる」ということだ。人々への音楽への約束が果たされるのは、彼らが期待するものを拒否することによってのみなのである訳で、空港やイーノをモティーフとしながら、異形のこういった音を作らないといけなかったUKインテリジェンス・テクノの旗手の20年のキャリアの積み重ねの果てのヘビーな心境を考えると複雑な想いにもなるが、これが「空港」という場所を経由して次へと繋がる一歩とするならば、この作品が提示するシリアスさは決して時代とずれていない。次の時代もクリアーにしない。ただひたすらに宙ぶらりんな現在形のクライシスを投げ掛ける。その投げ掛けられたクライシスにビートは必要なかったという訳で、だからといって、アンビエントといった概念もメタ的に回避するとしたら、この作品が本当に求められる場所は何処なのか。タイトルの"Music For Real Airports"の意味が錯綜する。

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 去年の2月、ナイン・インチ・ネイルズとしての活動を停止させると発表したトレント・レズナー。「ウェイヴ・グッドバイ」と称されたフェアウェル・ツアーも盛況に終わり(ツアーの一環として、サマー・ソニック09にも出演したのが記憶に新しい)、とうとう隠居生活に入る...わけでは決してなく、塚本晋也監督の映画『鉄男 The Bullet Men』のエンディング・テーマとして曲を提供したり、ナイン・インチ・ネイルズとしてのライブ映像を公開したりするなど、水面下で積極的に活動していました。そこで突如、発表されたのがこの新ユニット、ハゥ・トゥ・デストロイ・エンジェルズ。

 英国のインダストリアル・バンドであるコイルのシングルから名前を拝借したこのバンドのメンバーは、先述のトレント・レズナー、その妻となった元ウェスト・インディアン・ガールのマリクィーン・マーンディグ、古くから『With Teeth』、『Year Zero』、最新作である『The Slip』などの作品のプロデューサーとして長くトレント・レズナーと関わってきたアティカス・ロスの3人。プロジェクトの構想自体はナイン・インチ・ネイルズが活動を停止する前からあったようで、「(新プロジェクトの)関係者の一人と結婚している」と公言していましたし、トレント自体、長いあいだ女性ボーカリストと仕事がしたいと言っていたので、ついにそれが実現した形になるようです。

 さて、サウンドの方は乾ききった電子音、ところどころで突如として残虐に放たれるノイズ、この世の不条理を暴き出したかのような無機質なインダストリアル・マテリアル...と、明らかにナイン・インチ・ネイルズのそれを踏襲したものになっています。これは、トレントがFacebookでの質問に答えたところによると、「ハゥ・トゥ・デストロイ・エンジェルズとしてのセッションの、最初期のものをあえて公開したいと思った」ところであるから、とのこと。そう言った意味で、今の段階では、バンドのイニシアティブを取っているのはトレントと認識しても間違いではないでしょう。とは言え、ボーカルに関しては、トレントは「Parasite」といった曲で、所々でコーラスをしているくらいで、そのほとんどをマリクィーンが歌っています。やはり、これはフロントマンとしての役割は、妻に任せると言う形でしょう。ここでのマリクィーンのボーカリゼーションも、インダストリアルなリズムに乗りながらも、単語を淡々と歌い上げるスタイルで無機質な触感をさらに増していて、冷たく不気味に感じさせることに一役かっています。

 バンドの世界観としても、ナイン・インチ・ネイルズを脱ぎ捨てて、殊更にハッピーになっている...と言うものでもありません。既に公開されている、アルバム始まりの「The Space in Between」のPV。ホテルのような建物の一室で、トレントが血を流して死に絶えていて、マリクィーンも同じくベッドにもたれて、血を流しながら淡々と無表情で歌詞を歌いながら、出火が起こり、マリクィーンを、部屋全体を燃やしていくという相変わらずの痛快な悪趣味で、やはりこれも、往年のナイン・インチ・ネイルズのそれを思わせます。

 現時点では先述のように、どうしてもトレント主体のバンドと思ってしまいそうですが、それは、このEPが「初期の賜物」であるからで、今現在、彼らはフル・アルバムとしてのリリースのため作曲、プロダクションに励んでいるのでマリクィーンのオリジナリティがもっと発揮されることも考えられますし、個人的にもコラボレーションとしての作品を期待したいところです。そして、「フル・アルバムが発表されたあかつきには、2011年頃にツアーもしてみたい」とトレントも意欲的な姿勢を見せているので、まだまだ目が離せません。

 ちなみに、この作品、通常版は無料で配信されており、有料版(2ドル)では、よりハイクオリティな音源と「The Space in Between」HD音源もついてくるとのこと。まずは何はともあれ、そのサウンドを世界観をご堪能あれ。

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 セルフ・タイトル、セルフ・プロデュースでの堂々たる復帰。この音、この魅惑的な声。1曲目「Between The Lines」のギターを一発聴いただけでストーン・テンプル・パイロッツ(以下STP)だとわかる。本当に様々なことがあったけれど、やっと「おかえり!」と言える。

 2008年、それぞれ別々に活動していたメンバー達が、なんとSTPとして再集結することが発表された。これには正直驚いた。なんせヴォーカル、スコットの度重なる薬物問題で、解散する数年前からメンバー間には亀裂が入った状態で、当時は逮捕、リハビリ、脱走、暴力といった悪いニュースばかりが続き、何度もツアーが中止になり、これではバンドが崩壊しても仕方ないと思わざるを得ない状況だった。そんな中でも良い作品を作ってくれていたけれど、これほど悪い状況が重なればもう修復は無理だろう...と思っていた。しかも再結成ライブから今作発表までは約2年を要しており、その間ひやひやしたファンも多かったことと思う。けれどこうして無事に届けられた新作は、9年の歳月を軽々と飛び越え、再び戻ることがわかっていたかのように、堂々と誇らしげな音を鳴らしている。

 このところ90年代のグランジ/オルタナティヴを代表するバンド達が次々とカムバックして、当時どっぷりだった私には嬉しい状況となりつつあるわけだけど、やはりグランジ/オルタナティヴというと、そもそも音楽性で括られたのではないということもあり、90年代という時代の空気感を色濃く映し出したジャンルというイメージが強い。再結成にはつきものの心配事ではあるが、グランジ/オルタナティヴには特に、やはり90年代の匂いがついてまわるのだろうか? 今の音を出せるのだろうか? という懸念があるのは確かだ。USオルタナの代表として挙げられるSTPも、少なからず当時の時代の波に影響を受けていただろう。

 しかしこのアルバムを聴く限り、彼らにはもはや時代感など関係ない。むしろブルースやカントリーの要素がこれまでよりも更に強くなり、影響を受けたというビートルズやレッド・ツェッペリンを思わせる60〜70'sの空気も漂っている。それは回帰や方向性の変化ではなく、自分達の中に根差した音楽を、ジャンルや時代に捉われることなく、ただただ自由に表現しているだけなのだと思う。様々な問題や衝突、空白期間を乗り越えて、結局は(いい意味で)収まるところに収まって、今とても自由になったのではないか。そして、同じく再結成したオルタナ勢のスマッシング・パンプキンズやホールがヴォーカル以外総入れ替えになったのと違い、STPはオリジナル・メンバーで戻ってきたということが何より大きいだろう。この作品から、自信に満ち開放感溢れる音を感じるのは、自分達の根底に流れる音楽を素直に表現すること、この4人でしか出来ないことを存分にやったからに違いない。

 元々幅広く独特の音楽性を持つバンドだが、今作ではますます広がりを見せていて、印象的なギターリフで「これぞSTP」と思わせる楽曲郡から、解散中の活動からの影響であろうハードロック色の強い「Fast As I Can」、スコットの歌声とピアノが美しく絡み合う「Maver」、ボサノヴァ調の「Samba Nova」へと繋がっていき、聴き終わる頃にはまるで別の作品かと錯覚するほどだ。その流れは、時が止まった9年前からそれぞれの経験を持ち寄った今現在に辿り着く時系列のようで、彼らが別々に生きてきた日々を音楽という形で表現しているようにも思える。アメリカン・ロックの豪快さ・軽快さと幻想的で繊細な美しいメロディ、猥雑さと突き抜けるような透明感、そんな正反対とも思える様々な要素をスコットの七色の歌声によって混ぜ合わせ、くるくると表情を変えながら、しっかりと「今」の音を鳴らしている。

 バンドとは不思議なものだ。あんなに人間関係が壊れていたはずなのに、ひとたび音を出せばそのバンドの音になるのだから。悪いニュースを耳にして、この人はいつ死んでもおかしくないと思った事もあったけれど、こんな風に同じ音を出せるのも生きていればこそ。こうして再びバンドに命が吹き込まれ、自由に音楽を奏でている彼らに会えたことを、純粋に嬉しく思っている。

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 オリジナル・アルバムとしては、およそ3年半ぶりの新作。彼女にとって本作は、2つの重要な意味を持つ。1つは、キャリア20年(1990年に嶺川貴子とのユニットFancy Face Groovy Nameでレコード・デビュー)にして、初の作曲・編曲に挑戦していること。そしてもう1つは周知の通り、結婚、妊娠、出産という、女性にとって非常に特別な時期に作られたということである。

 収録曲の半分以上が彼女の作曲によるもの。「月刊サウンドデザイナー」7月号でのインタビューによれば、作業は主にGarage Band(アップル社が開発した初心者向けの音楽制作ソフトウェア)を用いて行なわれ、驚くべきことにほぼ全てのアレンジまでデモの段階で作り上げてしまったという。前作に引き続きレコーディングに深く携わった大友良英とジム・オルークは、「ちょっとしたメロディの欠片を彼女が1つでも作ってくれば、後はアレンジで幾らでも何とか出来る」というふうに考えていたが、いざスタジオに持ち込まれた彼女のデータには、ギターやピアノ、リズムの細かいフレーズまで書き込まれていたそうだ。これには流石の2人も舌を巻いたことだろう。おそらく、今まで数多くのレコーディング現場や曲作りの瞬間に立ち会ってきた彼女の中では、すでに「曲を作るための準備が整っていた」のだ。

 レコーディングにメインで参加したのは、カリィ、大友(ギター)、オルーク(ベース、キーボード)に加え、山本達久(ドラム、パーカッション)、山本精一(ギター)の5人。ほぼ固定メンバーによってレコーディングされたことにより、まるでライヴ・レコーディング・アルバムのような統一感がある。2003年の『Trapeziste』辺りから徐々に現代音楽やフリー・ジャズ的アプローチを取り入れていった彼女だが、これまでの作品は曲により菊地成孔や小山田圭吾、ヤン冨田などコラボする相手を変えた、カラフルでヴァラエティ豊かなサウンドだった。それのに比べると本作は一見地味に感じるかも知れない。しかし、聴き込めば聴き込むほど各曲に散りばめられた音響的なアイディアや、アレンジの仕掛けに驚かされる。この辺り、全てのミックスを自宅のプライヴェート・スタジオにて手がけたオルークの手腕による部分も大きいはずだ。

 それにしても、なんて伸びやかで開放的な声なのだろう。「偶然のアクシデントや、演奏のミスでさえ積極的に取り入れていく現代音楽やフリー・ジャズに触れることで、曲を作ることへの気構えがなくなっていった」カリィだが、そうした心境の変化はヴォーカル・スタイルにも如実に現れている。決めごとの多いロック〜ポップ・ミュージックの世界から解き放たれ、自由に音と戯れる彼女の声には「強さ」や「逞しさ」さえ感じるほどだ。

 本アルバムで彼女が作曲に取り組む気持ちになったのは、やはり結婚や妊娠、出産が大きく影響しているのではないか。そう安易に予想したのだが、実は今の夫と出会ったのは、曲を作り始めた後だったそうだ。「曲を作ってみようと思うようになったことが、結婚や出産という環境へ自分を導いたのかもしれない」とカヒミは言う。「生きること」と「表現活動」が密接に結びついている彼女こそ、真のアーティストと呼べる存在ではないだろうか。

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 ここまでやってくれると逆に気持ちいいですホント。最初はキワモノ的なヒップ・ホップだなと思いながら聴いていたけれども、にゃはとポジティヴに笑える瞬間に溢れている。それはエイベックスとのメジャー契約を破棄したECDこと石田義則のラップが「今日の残高」や「しがないバイト暮らし」「CD自分で作って売ってる」など、歌詞は深刻だが、貧乏な自分の自虐をスキップしているような声でひょうひょうと飛び越えていく姿が爽快であって、ある意味、達観していると思えるからだ。正直サウンド・プロダクションはチープに思えるものの、その分、ラップがすこーんと耳に飛び込んでくる。

 とにもかくにも、これ以上ないほど等身大の貧乏な自分を発する石田。少し前に流行った「負け組」「勝ち組」という言葉が死語と化した今、いわゆる勝ち組がもう枕を高くして眠れないことは皆さんご存知でしょう。その言葉に対するカウンターも何気ない語気で「マネーは紙だ。口に入れても腹は膨らまねえ」と石田は何食わぬ顔で発するものだから痛快で、これまた、にゃはと頬が緩むのだった。

 しかし思うのは、「共感」にも2種類あるということだ。おそらく「マネーは紙だ。口に入れても腹は膨らまねえ」といった旨のソーシャル・カウンター的な言葉は聴き手の共感を生むと思えるが、それは誰もが共感できる言葉に過ぎないとも言えるわけで、僕としては「誰も気付いていないが、否応なしに共感させてしまうもの」を発してほしいと思う。つまり石田義則にしか見えていない心情を、風景を、共感させてしまうレベルにまで引き上げて、高らかと発してほしいと思うのだ。

 アルバム後半では文学的なラップも聴けるが、いや、そんなお高いものじゃなくて、貧乏な自分をさらけ出している石田の目には、僕らには見えていないものが映っているはずで、一杯の酒がどう見えているのか、金とは何か、もっと言えば人生とは何か。それを彼の独自の視点で斬ってほしい。

 本作は決して駄作ではない。かといって、とんでもない傑作でもない。しかし本作を聴く限り、彼なら説教臭さなど微塵も感じさせず、ひょうひょうと、そして重みを宿して世を斬り、リスナーが発見を感じる「今まで気付いていなかったが共感させられるラップ」をやってのけてしまえると思う。にゃはと頬を緩ませるほどのユーモアを交えて。

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 三月に三枚目のフルアルバム『Toparch』を発表したMiyauchi Yuri氏は、実は同時期に『本日の音楽集』というアルバムをHP上で無料配布していた。「新作アルバムにまつわるリリースブログを開催したは良いものの、ブログのネタが浮かばないので、曲を公開した」というのがアルバム制作に至る経緯なのだという。前作は、窓辺から環境音を拾い集め、そのアンビエンスからメロディをインプロヴァイズしていった----といえばスタイリッシュに聴こえるが、徐々に「環境音とインプロヴァイズ」という当初のコンセプトは霧散し、最終的にはまるで彼の日記のようなアルバムに変貌していた。結果、そのラフさが人懐っこく、『Toparch』と同じくらい聴きこんでしまったことは大声では言えない。

 今回の『ほんじつのおんがく集 2』は少しコンセプトを変容させて臨んでいる。ミュージシャンでも素人でも誰でもいい「おんがく家」に録音してもらった音を用いて曲を作るという、一種のコラボアルバムになっている。録音された音は、子供の声でも環境音でもメロディでも何でもいい(詳しくは彼のHPを拝見した方が良いかもしれない)。

 そんなバックグラウンドが起因しているのかもしれないが、今作には親近感を抱くというか、私達との距離がない。すぐ傍でギターが爪弾かられている。風がそよいでいる。子供が笑っている。温度が伝わってくる。そしてパーソナルなのに自己完結しておらず団欒としている。

 私はこの日記のようなアルバムが好きだ。本作は、音楽なのか音の欠片が散りばめられただけなのか分からないし、時間も労力も大きく費やされているわけでもない。それでもこのアルバムには「なくてもいいけど、あったらすごくいい」という彼の理念が豊かに実っている。ごちゃごちゃと情報を堆積させただけの音楽が胡散臭く聴こえてくる。晴れた昼間や夕暮れに是非。

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 音がひょっこりと現れる。こてん、と尻もちをついて、ころころ転がる。時にはちいさな雲みたいにゆらゆら揺れる。キセルの音楽はいつだって人懐こくて、手を伸ばせば触れられそうなほど身近にある。約2年半ぶりのアルバム『凪』もまた、警戒心の無い小動物みたいに聴き手にとことこ寄ってきて、音との遊びに誘ってくる。このフォーク・ミュージックは辻村豪文と辻村友晴の兄弟ユニット、キセルにしか作れない。

 ほのぼのとした『凪』を再生した途端にジャケット同様の涼しげな草原が目を閉じれば瞼の裏に浮かんでくる。カーテンを開ければその風景が目の前に現れるんじゃないかと思ってしまえるほどに。ゆっくりと歩いているような速度の楽曲のメロディは和やか。ゆるやかな曲線を描いているようなメロディに肩の力が抜けた歌声が乗っていて、メロディと歌声に沿ったアコースティック・ギターのサウンドがふわっとヴォーカルの上で広がり、浮かんでは消えていく。まるでキセルの二人が草原にすとん、と腰を下ろして太陽と一緒に歌っているみたいだ。

 本作は過去の作品と比べると、かなり音数が減り、ほとんど装飾されていない。「穏やか」という意味を持つアルバム・タイトル『凪』がそのまま反映されている。思えばキセルの作品のタイトルは音楽性を表していた。ファースト・アルバム『夢』で夢の世界をさまよい、セカンド・アルバム『近未来』で未来を想像し、続く『窓に地球』で未来を描いた。そんな彼らが『旅』を終え、『Magic Hour』の体験を経て、ひとまわりも、ふたまわりも成長した。そうして行き着いたところがリズム・パターンの多彩であっても、あくまでシンプルに聴かせるフォーク・ミュージック『凪』だったことは、高田渡を愛するキセルらしい。彼らは様々な要素を取り入れることが音楽性の高さに繋がる風潮があるシーンの中で、装飾に頼らない音楽の大切さを訴えている。

 手作り感覚の、輪郭がはっきりとした音の一つひとつと漂うような歌声の相性の良さが、音数を少なくしたことでより強く表れ、特に、ひゅーん、ぽろろん、という何気ないサウンド・エフェクトが、ベース音を強調した3曲目「夜の名前」で効いている。なおかつベース音には程よく湿った土を踏むような弾力があって気持ちがいい。わずかにサイケデリックな辻村友晴作曲のインスト「見上げる亀」を中盤に挟み、哀感ただよう「星のない夜に」への流れは曲名どおり夜の到来を告げ、続く「夕凪」では人との別れを歌う。曲順もよく練られていて、聴き手を飽きさせず気付けばディスクが回るのをやめている。

 弾き語りに近い本作の中にいるキセルの二人には隠すものなど何もない。天気の話でもするような調子で音を奏でる。過去の作品よりも自由に、平和に、なにより分かるか分からないほど静かに感情を込めて。その姿勢がごく自然に出会いの喜びや別れの哀しみを音に宿らせ、キセルの核にあるシンガー・ソングライターとしての気質をより浮かび上がらせている。そして二人の人間性まで伝わってくるのだ。もしフォーク・ミュージックが人間性を映す鏡だとしたら、キセルは一音に自分を宿せるまでに成長した。もうキセルは『夢』の中にはいない。『近未来』にもいない。生活の中にいる。それが、彼らが選んだ場所なのだ。かわいらしくて素敵な、でもほんの少し哀感を含む音楽。劇的な感動はないけれど、誰もがやさしい気持ちになれる。誰もがほほ笑む。だから聴きたくなる。だから聴いてほしいなと思う。

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 ザ・ビートルズ『White Album』とジェイZ『The Black Album』をマッシュ・アップした、デンジャー・マウスの『The Grey Album』、それに、ヴァンパイア・ウィークエンドやジ・アーキテクチャー・オブ・ヘルシンキの楽曲に新たな命を吹き込んだザ・ヴェリー・ベストのミックス・テープなど、すぐれたDJの作品は、楽曲の新たな側面や新鮮な驚きを僕らに提示してくれる。

 そして、またユニークなミックス・テープがここに。ディプロとスウィッチによるユニット=メジャー・レイザーの『Guns Don't Kill People...Lazers Do』と、ラ・ルーのセルフ・タイトル・デビュー・アルバムをマッシュ・アップ(そして一部の曲ではゲストMCをフィーチャーした)し作られた『Lazerproof』だ。

 まず、ジャケット画像を見てほしい。メジャー・レイザーの画像にラ・ルーが取り込まれている。だが、エリー・ジャクソンはその画像に十分マッチしているばかりか、特徴的な髪型が見るものに強いインパクトを与えることだろう。実際の楽曲のイメージをこのジャケ写のとおり。リミックスというメジャー・レイザーの土俵上にありながら、ラ・ルーの個性は一切失われていないのだ。

 例えば、ラ・ルーのNo.1ヒット曲「In For The Kill」を使った「Independent Kill」と「In 4 The Kill Pon De Skream」の2曲を聴いてみるとよく分かる。トラックはほぼ原曲そのままでヴォーカルのパートをまるまる、ヒューストンのラッパーであるキャンディ・レッド(Candi Redd)が担当している。一方後者では、一部ビートを入れ替えてはあるものの、同曲のスクリーム・リミックス版をほぼそのまま使用。ラストのスリリングな展開はそのままだ。きっと、ラ・ルーの歌メロの良さやファルセットの歌声はそれだけ魅力的だということだろう。

 だが、もちろんメジャー・レイザーだって負けていない。「Colourless Artibella」や「Cover My Eyes」は完全にレゲエのトラックとして生まれ変わらせているし、「Bulletproof」はよりドラマティックなトラックになっている。特に、アルバム後半では『Guns Don't Kill People..Lazers Do』でみられた猥雑なダンスホール・レゲエのビートでトラックを陽気に彩っている。まったく先を予想させない、変幻自在のビートには脱帽するしかない。これだけのクオリティを見せ付けられると、M.I.A.をはじめとする、ディプロとスウィッチによる今後のプロダクション・ワークに期待が高まるばかりだ。

 こんなにクオリティの高いミックステープがフリー・ダウンロードだとは驚きだ。ゲストMCもアマンダ・ブランクやラスコ、グッチ・メインなど豪華な顔ぶれが揃っているし、スルーしてしまったら後悔すること必至だろう。

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 マーティン・スコセッシ監督のライヴ・ドキュメンタリー『Shine A Light』では、3人のゲストがストーンズと共演している。バディ・ガイはブルース・ナンバー「Champagne & Reefer」で貫禄を見せつけ、クリスティーナ・アギレラは楽しげに「Live With Me」をミックとデュエット。そして、ブルースを21世紀に継承するジャック・ホワイトは「Loving Cup」をいつになく緊張気味に歌う。「俺は不器用だから、ろくにギターも弾けない(I'm Stumbling And I Know I Play A Bad Guitar)」という歌詞に合わせた演出なら、すごいのに。

 『メイン・ストリートのならず者』には、その映画のタイトルにもなった「Shine A Light」とジャックの課題曲「Loving Cup」が収録されている。オリジナルは、ウォーホールがデザインしたジャケットがカッコいい『Sticky Fingers』に続くアルバムとして1972年に発売。このアルバムのジャケットにも注目しよう。ビートニクの時代からアメリカを撮り続けてきた写真家ロバート・フランクによる「追放された者たち」のポートレイトが最高にいかがわしくてぴったりだ。税金対策のために母国イギリスから「逃れた」ストーンズが、ピアニストとホーン・セクションを引き連れてメイン・ストリートに立った。ブルース、カントリー、ゴスペルそしてサイケデリックまでも飲み込んだ「流れ者たち」の音楽を鳴らすために。「ならず者」もカッコいいタイトルだけど、「放浪者」というイメージで聴くと印象が変わる。これは音楽のロード・ムービーだから。

 そして、この音楽のロード・ムービーには続編があった。リマスターされて、なんとCD1枚分11曲のボーナス・トラックを追加して登場! DISC1のオリジナル・アルバムはルーズな印象をそのままに、解像度がぐんとアップした。キースのリフに絡むミック・テイラーのスライド、そしてギター・ソロの繊細さが素晴らしい。「Sweet Virginia」のブルース・ハープは、ミックの息づかいまで聞こえそう。こもった感じを残しながらも、太さが増したビル・ワイマンのベース・ラインとチャーリー・ワッツのドラムを追っかけてるだけで18曲なんて、あっと言う間だ。

 そして、未発表曲とアウト・テイクで構成されたDISC2も聞きどころ満載。「Pass The Wine(Sophia Loren)」はラフでファンキー。壮大なバラード「Following The River」にはストリングス・アレンジでベックの親父デヴィッド・キャンベルが参加。「So Divine(Aladdin Story)」のイントロはまるで「Paint It Black」みたい。どの曲も完成度が高い。それもそのはずで、クレジットにはなんとドン・ウォズの名前がある。つまり、これは未発表曲を最新技術でアレンジし直したもの。発表するからには、歴史的価値よりもクオリティを重視する。そんなストーンズ(たぶん、ミック)の転がり続ける石ころっぷりは不変。要するに新曲じゃん!

 「ロックの名盤」だとか「ストーンズの最高傑作」だとか言われているこのアルバム。まだ聴いたことがないなら、自分の耳と心で確かめるべき。2枚組で3800円はちょっと高いけれど、その価値は充分にある。リマスタリングされた最新の音質から聴けるなんて、最高だと思う。未発表曲も新曲だと思って聴けば、余計な予備知識なんていらない。ただ楽しめばいい。

 ストーンズはこのアルバムの後、『山羊の頭のスープ』を煮込むためにジャマイカへ飛ぶ。ロバート・フランクはなぜかニュー・オーダーの「Run」のPVを監督している。放浪者たちの旅は楽しそうだ。

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「なんという上演か。世界がそこに含まれている」。

 マラルメの言葉を借りなくても、1988年から10年以上もの歳月をかけて撮った『映画史』という作品には世界が「含まれている」。たった4時間半程の中に、チャップリン、ヒトラー、ロッセリーニなどの亡影が交錯して、ゴダールの子供時代の顔がぼんやり浮かび、ストラヴィンスキー、バルトークといった交響曲が、断続的に切り入れられる。開扉と回避。相対と総体。緻密な網の目から零れ落ちる映像が沈黙する瞬間さえ、歴史が映り込んでいる。戦後、既に撮られ尽くされてきた様々な映画に対してのメタ認知を行なうべく、ヌーヴェル・ヴァーグ期の映画監督たちは紆余曲折して、実験・試行して、その後、彼等はそれぞれの道を往くようになったのは周知だろうが、ゴダールは一番の「被害者」でもあったのはあまり知られていない。

「被害者」という表現に関しては、69年『東風』辺りからのジガ・ヴェルドフ集団期の何作かを想い出すと早いかもしれない。50年代末期から60年代の半ばにあった軽やかさはそこに全く無く、息苦しささえ漂う自家中毒的な状況がそのままに転がっていた。また、結局、お蔵入りした『勝利まで』という作品などはアジテート映画を創ろうとしてパレスチナまで行き、しかも、そのパレスチナでフィルムにおさめた戦士たちは全員、殺されてしまうというトラジェディーも生み出すという悲惨な結果さえも「巻き込んだ」。その戦士の一人一人の「死」と対峙する中で、1976年の『ヒア&ゼア』が現前化した。そのヒアが、何でゼアが何なのか、ここで語るまでもないが、ここで大事だったのは「&」なのは確かだ。左的なロマン主義へ純然と埋没する自分を高次でアウフヘーヴェンすべく、メディアの可能性的な溝を埋める為に「間」を置いた。その「間」を突き詰めた『映画史』はだからこそ、悲痛ではないし、その後のゴダールの完全なる復活の狼煙を立てるには余りある評価を付加した。ナチス・ドイツ-ユダヤ人、イスラエル-パレスチナ人の断線を執拗に彼は追い続け、映像に刻印して、20世紀を「なかったこと」には絶対しない。そこに鏤められる幾つものモティーフ、セルフ・パロディーはゴダール自身のスティグマをどう治癒するかどうかではなく、どう膿ませるかどうかの実験でもあったと言える。「1968年のレフト・アローン」という言葉が醸した「アローン」は結局、その字義通り、彼を一人にさせた。ただ、独りにはならなかったという訳だ。

 だから、2004年には『アワーミュージック』という傑作を上梓したのだ。「アワー」にはゴダールは含まれており、世界も含まれていた。ダンテの新曲をモティーフにしながら、「女の子」を撮りまくるというクールネス。セクシャルな映画であり、映画館で観た僕はゴダールのカタルシスのポイントがロマンティシズムとエロティシズム以外の何物でもないことを確信したという意味は大きかった。

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 クエンティン・タランティーノの一時期のプロダクションの名前は「A Band Apart」と言い、これはつまり、ゴダールの64年の「はなればなれに」(原題:Bande A Part)を英語読みした訳だが、兎に角、ゴダールを語るには映画内・内文脈の葉脈を考えると、眩暈を起こしそうになるくらい、複層的に入り乱れている。

「複層的にしてズレてゆくフィルム片」という概念で輻射してもいいと思うくらい、ゴダールほど、アフォリズムとスキゾ的なクールさと思考停止に塗れて、それでいて、しっかり評価された上で、神棚にも祀られない監督も珍しい。ゴダール節とも言えるシーン内で急に音楽が盛り上がり、突然で途切れたり、全く俳優陣と関係ない部分で船酔いのように揺れる効果音など、それはカット・アンド・ペーストが当たり前になったモダン以前に彼は行なっていて、初期の短編などは、彼は自宅のバッハやヴェートーヴェンのレコードを援用して勝手にカットアップを行なっている節がある。54年~58年の短編(『コンクリート作戦』、『コケティッシュな女』、『男の子の名前はみんなパトリッシュ』、『シャルロットのジュール』、『水の話』)に関しては音楽以外にもアイデア一発で創られており、習作の域は全く出ていないものの、何故かその後の奔放無頼な活躍を期待させる萌芽はある。その後に、すぐ例のヌーヴェル・ヴァーグの決定打と言える『勝手にしやがれ』が来る訳で、ゴダールは自分で自分を試していたのではないか、とさえ僕は邪推してしまう。つまり、ゴダールとはゴダール自身をメタ対象化するのが巧い映画監督なので、自分がどう撮るかよりも、如何に映像に自分が撮られるかを意識しているところはあり、結果的に彼のフィルムというのはいつも批評的になってしまうのはシビアな意味で言うと、他の映画監督と比して「中に入り込めない」からだとも言える。だから、1959年の『勝手にしやがれ』のあのジャン=ポール・ヴェルモンドとジーン・セバーグとの冗長なベッドでの会話シーンなどは意図ではなく、投企だろう。あれによって、ストーリー全体の間延びした感じに「退屈」というスパイスを加味する事が出来て、歴史の中でも燦然と輝く物憂い温度感を全体に焼き付けた。ジャンプカット、即興演出、瞬時の映像のアドリヴの際立ち。

『小さな兵隊』以後のアンナ・カレーナ期の作品はただ、女として彼女を押し出そうという明確な意味があったが故に、作品のレベルとしては傑出してはこないが、ミシェル・ルグランと組んだ1961年の『女は女である』はカオティックな美と破綻したストーリー、自棄気味な音楽の絡み合い方が高度に結晶化されており、大きなハーヴェストだった。1965年の『気狂いピエロ』は別格としても、そこから自家中毒の捻じれをもたらしていく方向性を進まざるを得なかったのは先に書いた通りだろう。モダンをブレイクスルーする為にはポストを置けなかった。だから、彼はモダンを遡及した。遡及していった結果、『新ドイツ零年』、『映画史』、『アワーミュージック』という作品をものにして、2010年の新作がなんと『ソシアリスム』というタイトルだ。

 この『ソシアリスム』は果たして、老境に差しかかったゴダールにとってどのような意味を持つのか、考えて身構えると、それに応じた充実した重みを与えてくれる訳では無く、ゴダールの被害者性が表象される内容になっていると察せられる。今のゴダールに対峙することは、モダンをどう越えるか、モダンの前で立ち止まるか、ポストモダン側からモダンを見返すか、なんていった、幾つかの事項を脱化してくるストレートな映画へのパッションと今のヨーロッパを巡る懐疑の想いが幾重にも重ねられたものになっているに違いない。ゴダールはおそらく、全部忘れないのだ。そして、観る側はいつもゴダールを忘失してしまう。その「間」の点で、ゴダールはまだ生き続けるのだと思う。ForeverとはFor everと分けられる。ゴダールもいつも「瞬間という永遠」でフィルムを廻し続けているのだ。この作品をして、ゴダールは漸く大衆的な映画監督としての椅子に座る事が出来るのではないだろうか。彼の前に神棚なんて元々無かったのを皆が気付きだしているタイドと呼応した上での、老境の彼のアンコール的に見えた本編としての本当の意味を想い知らしめるだろう。