reviews

retweet

11_northern_portrait_cover.jpg
 本年度上半期、情けない男NO.1認定でございます。何なのこの情けないヴォーカルは! きらめくギター・サウンドは! まるで透明度の高い地下水脈を眺めているようだ。いまにも消え去りそうなファルセット。触れれば割れてしまいそうなガラスの歌声。哀感たっぷりのメロディ。言ってしまえばザ・スミスみたいな音楽なのだけど、だからといって素通りしてしまうのはもったいない。このバンドは弱々しい。だが、強気である。

 僕らは好むと好まざるにかかわらず、弱さを感じる音楽に惹かれてしまうところがある。実際、エリオット・スミスを代表に、弱々しさや情けなさが自然と滲み出てしまい、それが良さだと捉えられているアーティストは多い。しかし弱々しくもデンマーク出身の5ピース・バンド、ノーザン・ポートレイトのデビュー・アルバム『Criminal Art Lovers』は、開き直っていると言ってもいいんじゃないか。「俺たち弱々しいんだよ!」という逆ギレに似た男気を僕は感じてしまったのだった。もはや男気という言葉が仁義の世界でしか使われなくなってしまった時代にあって、情けなさというものを男気として押し出すこのバンドから僕は少しおかしな新世代感を覚えるのである。

 それが良い方向に働いているというのも、これまたおかしな話ではあるけれど、実際、サウンドの弱々しさが力強いというパラドックスがあり、「情けない音楽を作ろうとしている気迫」という男気を感じる。その気迫が生むサウンド・アンサンブルが絶妙で、繊細な美しさを持ち、するすると胸に沁みこむ音楽であるにもかかわらず、逆にスカッとするところもあるから不思議だ。本作の音が流れれば、曇り空など吹き飛んで、晴天と化すであろう。憂鬱などというものも吹き飛んで、瞬時に笑顔になるであろう。その爽やかなギターや決して肩がこらないリズム隊の清々しさといったら木漏れ日に文字通り力強い光を感じたときの気持ちになんだか似ている。

 男として生まれたからには堂々と生きたいものである。『Criminal Art Lovers』がまさにそうなのだ。ノーザン・ポートレイトは泣き出しそうな歌声で、情けなさを確信犯的に武器にする。ためらいなく武器にする。弱々しさを音楽性として捉えているそのさまの、開き直っている感じは堂々としていて新鮮だ。「情けなくて何が悪いんだ」とこのバンドは言っている。その強気な姿勢をこれからも貫き通せ。それが彼らの生きざまだ。ただ、ともすればザ・スミスそのまんまだと捉えられそうな音楽性は、もうちょっと薄くした方がいいと僕は思うよ。

retweet

12_damien_jurado_cover.jpg
 地味ながらもいつも素敵な歌を届けてくれるシアトルのシンガー・ソングライター、ダミアン・ジュラード。最新作となる本作は、本国でのレーベル・メイトでもあるポップ職人、リチャード・スウィフトとの共同作業により制作された。これまでもケン・ストリングフェロー(ポウジーズ他)やデイヴィッド・バザン(元ペドロ・ザ・ライオン)などとのコラボレーションにより、様々な魅力を引き出してきたダミアンだが、本作でも新鮮な一面を覗かせている。

 ニール・ヤング直系の素朴なアコギの弾き語りを基調に、フィル・スペクター風のウォール・オブ・サウンド的なアレンジを大胆に導入し、フリート・フォクシーズやボン・イヴェールにも通じる美しいコーラス・ワークが効果的に挿入され、これまでの彼の作品の中でも最も洗練された手触りのサウンドに仕上がっている。

 マグリノリア・エレクトリック・カンパニー〜ソングス:オハイア、マーク・コズレック(レッド・ハウス・ペインターズ、サン・キル・ムーン)、ヘイデンといったアコースティックなSSWもののファンのみならず、普遍性を持ったポップ・ミュージックとして多くの人の耳に触れてほしい一枚。

retweet

13_growing_pumps_cover.jpg
 音響、アンビエント、ミニマル・テクノ、ドローンなどあらゆる音楽ジャンルの垣根を自由自在に行き来し、エクスペリメンタルでフィーチャリスティックなサウンドを構築するブルックリンのユニット、グロウイング(Growing)が、早くも8枚目となるアルバムをリリース。しばらくデュオで活動していましたが、2009年の初来日ライヴではI.U.D.(ギャング・ギャング・ダンスのリジーとのユニット)やボアドラムとしても活躍する女性メンバーのセイディ・ラスカも加わって新生トリオとなって登場。デュオ当時の清涼的なアンビエンスやギターとエフェクターを駆使して生み出されるグルーヴとカラフルな音色にプラスして、ミニマルなリズム・マシーンとエフェクト・ヴォイスが効果的に入り混じり、更にとんでもないサウンドの極地へと到達して魅せてくれました。トリオ編成となって初のアルバムとなる今作は正に待望、そして期待通りの逸品。無数のエフェクトを駆使してサウンドを構築していくそのライヴ感と、更に強靭に磨き上げられたグルーヴィーなリズム・ワークで、もう完全ノックアウト。リズムを強くしたことによって、全体的にグロウイング史上最もポップな作品となり、もう病み付き系です。要ご注意を!

retweet

14_TheHundredInTheHands_cover.jpg 洋服を選ぶセンスというものがあるように、今はもう、情報を選ぶセンスを持っていなければならないのだなと思う。音楽にも同様に言えて、いわゆる、おもちゃ箱をひっくり返したような音楽にしても、その箱に「何が入っているのか」が重要なわけなのだ。思うに、なんでも詰め込めばいいってもんじゃあない。そこにおいてNYはブルックリンの男女2人からなるユニット、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズの顔見せ的EP「This Desert」がWarpから発表されたのだが、いや、これ、すげえ、いいじゃねえか、と、なってしまったのだった。ほんとうに、センスが良いものしか詰め込んでいない。

 一口に言ってしまえばエレクトロ・ポップスで、もうひとつ言うならばブロードキャストのビートを強くしたような作品なのだけど、澄ました顔で風を切って歩くようなスマートなその音楽性は、選びに選び抜いた高級ブランドのスーツやら時計を身にまとっているみたいな、とでも言うか、エレクトロニック音も、ダブも、高級感を感じさせる部分のみを抽出し、取り入れ、エコーを効かせ、つまりはエレガント・ポップスここにあり、なのである。エレノアが時々歌うウィスパー・ヴォイスも確信犯的なエレガンスがあり、悔しいほどスタイリッシュ。ギター・リフはソリッドだが、あくまで聴きやすく熱を抑制している。アナタちょっと格好付け過ぎでしょうよ、というところもあるがそれがいい。

 そもそもNYはヴェルヴェット・アンダーグラウンドやテレヴィジョンなど、アートの匂いがするバンドを生みだした場所でもある。中でもアート文化が盛んなブルックリンにあって、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズはアートの匂いがするもののみ、自らの審美眼で選び、取り入れ、たちまち泥臭さなど微塵も感じさせないアーティスティックな佇まいの音楽を作ってしまう。同じくWarpのナイス・ナイスの新譜がおもちゃ箱になんでもかんでも詰め込んだ音楽だとしたら、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズはバッグに香水やら趣味のいい財布を入れてる感じ。タイム感も抜群で、最近の流行の、あるいは話題のものを取り入れる。他のバンドを横目でにやりと笑いながら、さりげなく胸ポケットからサングラスを取りだす感じなんである。実際にサングラスかけてるし。

 とはいえ、秋に発表されるアルバムではメンバーのジェイソンいわく「僕たちの全体像が見える作品になっているはずだよ」とのこと。要はこのEPは彼らのひとつの側面に過ぎないわけだ。しかし、ここまで格好付けているからには、アルバムでは田村正和ばりに気取ってほしい(嫌味ではなくて)。さて、アルバムではどんなオシャレ・サウンドを詰め込んでくれるのか楽しみだ。スマートな音楽に違いはないのだから(嫌味じゃなくて)。

 ただ、ひとつふたつ言いたいのは、流行を追うだけのユニットには、なってほしくないし、ベックのセカンド・アルバムがそうであったようにダサおしゃれな一面も見てみたい。というか見たくてしようがない。しかしそれすらも難なくやってのけてしまうんじゃないかというエリート気質すら窺える。こんな良質なのに聴いていると悔しくなってくる音楽なんて中々ないよ。

retweet

15_shinda_bokuno_kanojo_cover.jpg
 まず、この変わったバンド名に驚き、引いてしまう人もいるかも知れない。恥ずかしながら筆者自身が実はそうで、名前は知っていたがしばらく彼らのことを敬遠してしまっていた。しかしジャパニーズ・シューゲイザー界隈での評価はすこぶる高く、その存在は気になる一方で、あるとき本作を偶然手にしてからというもの、今はことあるごとに聞き返してしまうほど中毒的にハマっている。

 死んだ僕の彼女、あるいはmy dead girlfriend(大阪のシューゲイザー系レーベルに所属するboyfriend's deadとは別)という名で活躍している彼らは、男3女2で構成されたバンドである。08年にNATURAL HI-TECHからリリースされた、少女スキップとのスプリット・アルバム「Sweet Days And Her Last Kiss」には、cruyff in the bedroomのハタユウスケ(ヴォーカル&ギター)がプロデュースを手がけた4曲が収録されているが、本作は、そんな彼らのファースト・ミニ・アルバムだ。

"イシュタム"と発音するアルバム・タイトルは、マヤ神話に登場する同名の「自殺を司る女神」から取ったものだろう。だとすれば、「死んだ僕の彼女」が「どのような死を遂げたのか」も否応なく想像出来てしまう。しかも本作の歌詞を見てみると、「腐乱した君の死体 最後の夜だとしても 一緒にいれてよかった」("WATASHI NO AISHITA MANATSU NO SHINIGAMI")、「汚れた 水の中 浮かんだ 右足」「浮かぶ死体 つまずいた」("12GATSU, POOLSIDE, UKABU SHITAI")など、不穏でグロテスク、一縷の救いも希望もないようなフレーズが並んでいる。

 だが、ひとたびアルバムを再生してみると、拍子抜けするぐらい穏やかで暖かなサウンドが流れ出す。ざらついたコード・バッキングとキラキラしたアルペジオが、ゆったりとしたリズムの上で混じり合う様子は、まるで春の木漏れ日のように心地良い。シューゲイザーだけでなく、ギャラクシー500やマジー・スターら、ヴェルヴェッツ直系のサイケデリアからの影響も強く感じさせる。男女混成ヴォーカルによって甘く囁くように歌われるメロディも、一度聴いたら病みつきになるほどポップだ。

 絶望的な歌詞と、夢見るようなメロディ。しかしこの組み合わせが実は曲者で、油断しているとまるで体に毒が回っていくように聴き手の希望を奪いさる。気付けば黄泉の淵で1人呆然と立ち尽くす自分がいる。永遠と続く死の世界で流れ続けているのは、きっとこんな音楽なのかもしれない。

 レコーディングとミックスを手がけたのは、元スパイラル・ライフの石田ショーキチ。彼らの類い稀なるポップ・センスを見事に引き出している。

retweet

16_matt_pond_pa_cover.jpg
 USインディー・ファンの間ではすっかりお馴染みの、マット・ポンドPAの最新作。地元フィラデルフィア(=PA)を離れ、ブルックリンに越してから4枚目のアルバムとなる(時間が経つのは早い...しみじみ)。前作『ラスト・ライト』が、明るめのアップ・テンポな楽曲が多い比較的ロック寄りな作品だった(その中にもニーコ・ケイスとのデュエット曲「Taught To Look Away」のような、美しいバラードもあったが)のに対し、本作はメランコリックな響きを増した、どちらかというと初期の彼らの雰囲気に近い作品になっているように感じられる。相変わらずマット・ポンドの今にも泣き出しそうな歌声は味わい深く、彼らのサウンドの象徴となっているストリングスは、華やかに楽曲を彩っている。「代わり映えがない」「新しい刺激がない」と言われると否定は出来ないが、彼らの奏でるメロディーの美しさはひたすら聴き手の心に沁みるし、彼らの音楽を愛する理由はそれだけで充分だろう。

retweet

17_disappears_lux_cover.jpg
 90デイ・メン(90 Day Men)、ザ・ポニーズ(The Ponys)のブライアン・ケイスを中心に結成された、同郷シカゴのボース(Boas)のメンバーも含むニュー・バンドのデビュー・アルバム。孤高に鳴り響く耽美的な世界観を見せていた90デイ・メンの影はほとんどなく、今作で聴けるのは全編を通してサイケデリックでシューゲなリヴァーヴの効いたギター&ヴォーカルと共に、勢いに満ちたガレージ・ロック~クラウト・ロックで捻じれながら最後まで突っ走る、紛れもないロックンロール・サウンド。前述のバンドやドローンやエクスペリメンタルなKrankyのレーベル・イメージとはかけ離れているものの、これはこれでメチャクチャカッコいい! 重厚なドラミングとレイヤードされたスモーキーなサウンド、そしてクールな熱量を爆発させたその音の佇まいに、ただただ痺れまくりです。音源でこれだけの重厚感とドライヴ感ってことは、間違いなくライヴはやばそう。来日を熱望せずにはいられません!

retweet

18_quruli_cover.jpg
 まず最初にアルバム・タイトル『僕の住んでいた街』がすごくいいなって思った。くるりは京都で結成されたバンドで現在は岸田繁と佐藤征史の二人がメンバーであり、メンバーが増えたり減ったり、サポート・メンバーも様変わりしている。日本だけには留まらずグラスゴーやマサチューセッツ、パリ、ウィーンなど海外でもレコーディングしている。

 このアルバム・タイトル『僕の住んでいた街』がバンドを結成してから14年の歳月を思わせる。いろんな人と出会い別れ、いろんな街に行って滞在し去り、また新しい街へ、時には昔住んでいた街にまた向かってみたりと今現在自分たちがここにいる理由やその過程があり、収録されている曲たちにも様々な景色がある。

 シングルのカップリングを集めた二枚組のアルバムで、一枚目の一曲目「東京レレレのレ」のみが新曲として入っている。この曲は盆踊り的なリズムでくるりらしい、なんだかくるりって天の邪鬼な事をするんだけどどこかしたらポップで時折ロックになったりとギアチェンジしていくバンドだなと前から聴いていて感じる事が多い。

 二曲目以降はシングルに収録された年代順に収録されている。流れで聴いていくとシングルやアルバムのリード曲ではないだけにさらに自由度が高い感覚を受ける。それは違う言い方だと冒険しているかもしれないし、リード曲にはならないがその分バンドの色が濃くなっている部分もある。

 アルバムやベストにも収録されている曲もたくさんあるが、それらだけを聴いていた人にもぜひ聴いてみてほしい。表に対しての裏というのではなく同じ時期に作られてもベクトルや意識が違うとこんなにも違うものができているんだと感じれるし、それ故にこのくるりというバンドの奥行きや音楽に貪欲な事に気付いてさらに好きになれるアルバムだ。

 個人的にはライブに行くといつも期待してしまう「すけべな女の子」や「The Veranda」「pray」「ガロン」「サンデーモーニング」「りんご飴」など好きだった曲以外にも今まで聴けてなかった曲がシングルで聴かないでも聴けるというのはいい機会だ。

「The Veranda」

 外の空気はきれいだろう
 梅の花びらしか 季節の到来教えてくれなかった

 春になったら変わるだろって
 言った通りになるのかな
 君からの便りもなく 一つの季節は過ぎてって
 しかめっ面したとき
 ちょっと思い出してまた消えた

 二枚とも17曲入りで収録できるギリギリまで曲が入っている。彼らのいろんな想いや時間が溶け込んでいる。このアルバムからくるりを聴き始めてもいいだろうし、今までアルバムでしか聴いてなかった人にもくるりの音楽の自由さを感じられるものになっている。

retweet


19_DinosaurFeathers_cover.jpg ここ数年、こと音楽に関して世界中でもっとも熱気に溢れた都市が(少なくともインディー・ロックのファンにとっては)ブルックリンであることに全く異論はないが、それにしたってここまで目まぐるしい速さで流行がアップデートされると、いくらネットがあっても、現地に居を構えないと情報を追えないよ...と、弱音を吐きたくなるほど新陳代謝が活発な状態が継続されている。いいことだと思う。

 とはいえ、露骨すぎるアニマル・コレクティブのフォロワーみたいなのには個人的にはあまり興味が湧かなくて、そういう連中も一括りにされるネオ・サイケデリック勢のムーブメントのなかでも、極端にトロピカルに純化したバンド/ユニットを去年くらいから特に面白がって聴いている。そろそろ気候も夏めいてきて、そういう音楽がいとおしくなる時期にまた差し掛かってきた。

 その流れでも、たとえば去年話題になったレモネードは随分アッパーだし(デロレアンも彼らの曲をリミックス)、この5月に国内盤もリリースされるタンラインズ(tanline=日焼け跡の意。この単語を入力して検索するとイイ画像がたくさん出てくる)の"Pokemon Dancehall"とも評される緩くチャラいビートは、もはやイージー・リスニング的ともいえるほどトロピカルに特化している。

 一方で、少し前に頭角を現し、僕にとってもアイドルの一人であるメアリー・ピアソンを擁するハイ・プレイシズは、最新作『High Places Vs Mankind』で、空気よりも軽かった(当時、他の誰よりもトロピカルな音質を具現化していた)ビートを捨て、シューゲイズな音とトライバル要素の醸し出す、ひんやりした冷たい空気の満ちている作品を提示してきた。これまたブームになっているネオン・インディアン、ウォッシュド・アウトら"Glo-fi"(オフビート・トランス+シンセ・サウンドによるアンビエント)のシーンにも共振する内容ともいえるが、また一方でそのGlo-fiも既に時代遅れで、今はWitch House(Gothic Chillwaveなどとも)だとする動きも。トロピカル→ゴスは80年代のニューウェーヴをそのままなぞっているような流れではあるが、やっぱりあまりにも消費が速すぎてもう、何が何やら。

 このように、昼食のバイキングで皿に好きなものを盛って口に運ぶような感覚でその日聴くものを選 べそうなほど「ムーブメントのなかのムーブメント」は入り乱れている状態だが、そんななかで自分が繰り返し愛聴しているのがDinosaur Feathers。やはりブルックリン在住の3人組である。

 何が素晴らしいか。まずは手っ取り早く彼らのMySpaceで「Family Waves」という曲を視聴してみてほしい。イントロのちゃかぽこした音の鳴りから牧歌的なコーラス、そして目が覚めるような気持ちよすぎる転調と、ひねくれポップ好きにもきっと響くものがあるだろう、興奮必至の楽しすぎる4分間。

 その他の楽曲も陽に当たりながら思い思いに過ごす気怠げな人々の光景が印象的なジャケット同様にピースフルでありながらどこか突き抜ける瞬間の連続で、オーストラリアの素敵なバンド、アーキテクチャー・イン・ヘルシンキ(この人たちも<キツネ>のコンピに収録されたりしてるのに、なかなか日本で話題になってくれない...)や、<K>レーベル所属のバンド、レイク(昨年リリースされた『Let's Build A Roof』は傑作!!)にもどこか相通ずる、のどかな世界観とそれに相反するひねくれ具合の両方を見せてくれる。

 曲名に「Vendela Vida」(アメリカの作家。日本でも『行く先は晴れやかに あるいは、うろ覚えの詩が世界を救う』などの著作が訳されている)と冠したりもしているが、音からはスノッブ臭は皆無。奇跡的なバランスを保たれている(こういうセンスの気配りは、ヴァンパイア・ウィークエンド以降のマナー......、なのかな?)。ここまで挙がってきた名詞にひとつでも引っかかりを覚える方には是が非でも推しておきたい。

 このアルバムは今年の3月初頭に既に発売されていたが、セルフリリースなこともあって届くべきリスナーの耳にまでなかなか行き届かなかった印象がある。とはいえ、そういう事情なので残念ながら国内での入手はいささか手間取るかもしれない(Amazonなどでは入手不可)。iTunes Storeでも購入可能だが、フィジカルで入手するなら彼らのmyspaceあるいはホームページ経由での注文が一番早いかと。全曲視聴も可能。

 さらに、アルバムに先駆けて昨年リリースされた4曲入りEPは現時点でもフリーダウンロード可能なので、気になる方はまずはここで彼らの音を試してみてほしい。

retweet

 上海に万博視察含め行ってきたので、その簡単な紀行を纏めてみます。

5月22日(土)

 日本も既に蒸し暑さを帯びる中、昼過ぎに関西国際空港へ。

 空港内の入りの寂しさは毎回の事ながら、特にお盆や正月やGW等を除いてのオフ・シーズンの閑散具合は心配にもなる。行き交う外国語は中国語かロシア語が多く、何をもって「景気」が良いとか悪いとか抜きにしても、こうした場所に来ると、明らかに「景気の良い国の景気の良い人たち」のパトスをダイレクトに見受ける事が出来る。

 今回、通称・上海万博は実は国際博覧会であって、万国博覧会ではない。万博は直近だと、ドイツのハノーヴァー万博以来開かれていない。その後に条約が改定され、旧一般博が登録博、旧特別博が認定博になった。「General Category」という意味では、登録博も変わらず、一般博だと、1970年の大阪、1992年のセビージャ(スペイン)、2000年のハノーヴァーと不定期開催だったのが、5年ごとになった。次回は2015年のイタリアのミラノで行なわれる予定だ。ちなみに、愛・地球博も上海も登録博になる。今回、僕自身の目的はそんなに大きいものは無く、バブルの様相を呈していた中国経済の臨界点、リミッター・ラインを、北京五輪、上海万博という大きな催しの中で示すのではないかという些かペシミスティックな興味に尽きた。不動産バブル、ITバブルの中での変節における人たちの蠢きとはどのようなものか、経済格差が極まってゆく過程で疎外されてしまうものは何か。

 チケットが取りやすかったのもあり、JALに搭乗。サービスは良好。

 機内のポップ・ミュージックのプログラムではザ・バード・アンド・ビー、ミュージック・ゴー・ミュージック、シー.・アンド・ヒム、エリカ・バドゥ、カーキ・キング、ニュー・ヤング・ポニークラブなどという締まったメンツ。メニューは魚のムニエル、サラダなどで、途中アナウンスで現地は曇り24度位との情報が入る。

 2時間程のフライト。夕暮れ時に上海浦東空港に着くと、曇天、斜めから景色を切り取るように強烈に雨が降る。定西路のホテルに入り、今回、万博の日本館で働かれている方にアポイントメントを取り、近くのレストランに食事に行き、色々と話を聞く。天候に左右されるのは大きいが、人気なのは中国館、日本館、日本産業館、フランス館辺りだそうだ。それぞれテーマの打ち出し方と体験型の形式が受けているみたく、特に、中国館に関しては予約整理券を取っても、なかなか中に入れないような混雑状況が続き、日本館も4~5時間待ちも普通にあるとのこと。今日に行こうと思っていた上海環球金融センター(492メートルの超高層ビル)も曇天で景観が良くないみたく辞めて、少し彼のマンションに寄る。今回の万博に際して、会社からあてがわれたマンションだが、なかなか立派な作りで広く、五人がシェアしている。夜になると、肌寒さと中国独自の「原色」のネオンが混じり、風情があった。活相のレベルが日進月歩で高くなっている。

5月23日(日)

 9時頃到着を目的に、地下鉄で中山公園駅から人民広場駅、そして、浦西地区の最寄駅まで、4元。駅に降りると、既に上海万博に行く人たちの息吹が凄い。

 入場料は160元(1元が約15円)という決して安くない値段であり、相変わらず凄まじい所得格差のある国でもあり、敷居の高さはある故に、結論から言うと、客層は、二日行って通して感じたのは、ニューリッチ層や不動産で利鞘を稼いだ層や品の良い家族たちの姿が多く、やはり学生の姿はかなり少なかったということだ。夏休み位になれば、修学旅行等で増えるのだろうが、日本人も殆ど会う事無く、また異国人もアメリカ人が多かった。そこから、ゲートを潜り、浦西地区に。兎に角、広く、地図の感覚で行くよりも一つ一つを歩くのはかなりな体力が要る。しかも、突貫工事のような部分もあり、導線付けも儘なっていないところもあった。

shanghi_Pic01.jpg

上海万博の入場券

 最初に、60分待ちだったが、上汽GM自動車館に並んだ。上汽GM自動車館のテーマは2030年の自動車社会。大気汚染、電気自動車、色んなテーマの映像モティーフをウォーキングで観た後、シアターに入り、振動する自動車のシート形式の物に座り、覆い囲むようなスクリーンと呼応して、非常に高精度なストーリー(ラブ・ストーリー的な体裁は取っていた)を見せてくれ、なかなか楽しめた。ただ、3D形式だともっと迫力がありそうだったと思う。その後、スクリーンが落ち、パフォーマーの諸氏が近未来型自動車を操り、派手に演舞してくれた。ちなみに、今回、日本の一部ニュースで言われているような、予約券を巡っての暴動的なものは僕が見受ける分には無く、皆、しっかり列を護り、時間を厳守して、規律を保っていた部分には民度の向上を感じた。

 その後、韓国総合企業館(サムスン主体)、日本企業館と回った。

 前者は20分待ちで直ぐに入る事が出来たが、催しは非常によくある企業打ち出しもの。タッチパネルで触ってみたり出来るものの、結局、サムスンがこういうイノヴェイティヴなものをやっていて、技術力を持っている、というだけの展示。

 後者は1時間半待ちだったが、複数の企業のプレゼンが連鎖したものだった。ただ、個人的に面白かったのが、最初に為される総合的なプレゼンにおいて、ねぶた祭、舞妓さん、ガールズ・コレクションなど今の「大文字」の日本のイメージが重なる中で、都度、流れたのが相対性理論の「LOVEずっきゅん」だということで、これは明らかに広告代理店か何かの作為性を感じたが、今の日本の「クールネス」が定義出来る限界効用性も垣間見えた。帝人、テルモ、大塚製薬、ユニチャーム、日本郵政、トステム、INAX、キッコーマンといった各企業の催しに関しては過不足なく、非常に日本的で、逆に言うと面白みが無かった。それぞれ部屋を移り、10分程のプレゼン的な映像やアニメなどを見せてくれる。テルモは映像に3Dを使っていた点以外、然程魅かれるものはない、ステロタイプな企業イメージの更新を狙ったものだった。

 浦西ゾーンの路を歩く分には非常に空いている感じさえするが、パビリオンの混み方は凄く、石油館など3時間を超す待ち時間だったり、また基本、飲料等の持ち込みが出来ず、フードコートではビールが25元したりするのに、それなりに人が入っている。

 様々なモニュメントの展示されたテーマ館を巡り、日本から上海に初出店となる、はなまるうどんに行った。はなまるうどんのオーナーに聞くと、上海は初めてらしいが、その後、何処かの中国内の土地への展開を考えていると言っていた。「健康志向とジャパニーズ・フード・イズ・クール」の影響もあるのか、納豆、おくら、卵を混ぜたうどんが流行っていた。

 今日の視察はこれくらいにして会場を後にした。

 その後、南京西路の新光酒家という上海蟹の店へ行き、季節外れだが、茹で上海蟹を食した。紹興酒が毒消しになるとかで、合わせて食べるとなかなか美味しかった。

 そして、東方明珠塔(TV塔)へ向かい、高層から上海を見降ろした際に、蜂の巣のようなマンション群や高層ビルの乱立にこの街の不動産バブルに対しての論考を体系的に纏めたいとさえ想うくらい、ネオンの眩さと煌めきに眩暈を憶えた。上海の夜の先の深みには何か得体の知れない欲望や寂寥が渦巻いている気がしたのかもしれない。

shanghi_Pic02.jpg

東方明珠塔の展望台からの黄浦江を見降ろした景色

5月24日(月)

 朝から晴天。30度を越えるとか。TVでは万博500万人突破とのニュース。今日は浦東地区へ。9時くらいに着いたが、入口時点からかなり盛況。荷物チェックも厳重。やはり、こちらに主要パビリオンである中国館などがあるからか、昨日の雰囲気とはまた違った巨大な熱がある。耀華路駅を降り、ゲートを潜ると、明らかに今までと次元が違う大きさとスケールの中国館が目に入る。入りたいが、予約券も含めて本日分は全てないみたく、団体客含めてもう既に長い行列が出来ていた。

shanghi_Pic03.jpg

中国館

 日本館も行くが、4時間待ちということで諦める。早く電子予約券のシステムを取って欲しいものだ。サウジアラビア館に至っては5時間40分待ちという凄まじさ。こうなると、各国館を細々と廻るべきか、と思い、バスに乗ってCゾーンへ。イギリス館は40分待ちだったが、印象としてはカルチャーの表象をする訳でも視角に訴えかけるものでもなく、外観と比して、インスパイアーされるものは少なかった。外観自体は大量の触角の先にカラー光源があり、風向きなどで細かく変化をするのが面白かった。その後、昼食を食べ、スイス館へ。情報では屋上に庭園があり、ゴンドラがあり、遊園地のようになっているというのもあり、2時間程待ってみるが、ゴンドラが故障との事で、結局、展示物を巡るだけで終わった。映像もスイスの風景を写したもので大したものではなかった。

 万博内を行き来する無料バスに乗り、再び日本館の近くに。今回、少し話題になった北朝鮮館に行ってみる。報道通り簡素な作り。夕暮れ時になってきたので、もう空いている所も出てきて、イラン館、カタール館、パキスタン館と廻る。個人的にパキスタン館のロータスフォード(16世紀の建築)を復元した作り、自分達の国の文化の打ち出しの仕方には好感を持つことが出来た。

shanghi_Pic04.jpg

日本館の様子

 今回、上海万博の「現場」に行ってみて思ったことは、中国という国の繁栄の強度と、また、比して、北京五輪と同じく「底上げ」されている強引な力技の部分も目立つという事だった。確かに、現地の方の民度や倫理観は上がっているし、かなりムードもアグレッシヴだ。富裕層の台頭もダイレクトに感じる事が出来たが、それは別文脈で言うと、金融経済と実体経済との乖離も感じさえした。つまり、金融経済上で成り立っている薄氷の要素因がある中、平易な例で言えば、160元の万博入場券、20元の寿司の人気と、10元そこらでお腹いっぱい食べられる街の庶民的なお店の差異が露顕してきた際にどういった民衆感情は喚起されるのだろうか。TVプログラムの万博に「無関係」な人たちはどうでもいい事と捉えているのか、今後はそういった深奥に切り込みたい。

 最後に。僕にはどうしても、上海万博に関してはあまり肯定的な意見を持つ事が出来ないのはそこにはロマンティシズムとか繁栄の象徴が代象されていたのではなく、貼り子細工の不気味なハイパーキャピタリズムの行く先を観たような気がしたからだ。無邪気にマスコット・キャラクターと戯れる子供、持参のバナナや林檎を食しながら、嬉々と行列を並ぶ現地の方。皆、懸命に働いて、中国という巨大な国の栄華をリフトアップして、その象徴的な万博の在り方を享受しているのかもしれないが、14億人という人口の罠が仕掛ける経済システムはそんなにフラットなものではない。

 会場から観る事も出来る蜂の巣のようなマンションに灯る生活者の影、今から建設されるだろう高層ビル、商業ビルなどの乱立の仕方は或る種、異様とも言えたし、また、そういったものは上向きの景気曲線と近似する筈なのだが、僕にはメガロマニアックな暴走都市のイメージを抱かせる事も行く度に増えてきた。莫大な量のエネルギーが渦巻いているのだが、何処か空疎でフィクショナルなのだ。万博以前/以後という短期的フェイズではなく、中長期的なスタンスで捉えていきたい。何度か調査を続けていこうと思っている。

参考
上海万博HP