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 困ったな。こりゃ傑作だ。もともと内輪ノリのパーティー・ミュージックとして作られたこの音楽を、傑作と言ってしまうのは少々ためらうのだけど、アバやカーペンターズを思わせるメロディにキュンときてしまうからしようがない。

 笑顔のようなやさしい音色。音でゆっくりマッサージされているような奏で。そこに美人女性ヴォーカリスト、ガラ・ベルの破綻のない歌声が乗っている。これが気持ちいい。カリフォルニアを拠点とする男2人女1人の3ピースバンド、ミュージック・ゴー・ミュージックのデビュー作『Expressions』を聴いていると、朗らで和やかで体がぽかぽかしてくるよ。この人懐っこさはメンバーいわく「自分達の本当に親しい友人達に聴かせるため」に作られた音楽だからこそ醸し出されるのかもしれないが、親しい友人じゃなくても、お、いいじゃん、という具合に、鼓膜をやさしく揺らしてくれる。ファッション誌で紹介されていてもおかしくないオシャレ感もある。

 こう書くと、「なんだよ、単なるスウィートなポップスかよ」と思われるかもしれないが、侮るなかれ。ただのポップスだと信じ込むこと、これは怖い。70年代を意識しているという彼らは、ファンクからハード・ロック、プログレッシヴ・ロックなど、数々の要素を難なく取り込んでいる。とはいえ、それ自体はめずらしくない。取り込み方が面白いのだ。センス良く、ぱっぱと洋服を着こなすようなステップの軽さでもって様々な音楽要素を我が物にし、さあどうですかという表情でファッション・ショウのモデルが歩いているみたいな、良い意味でスノビズムを楽しんでいるところがある。気取っているけどそれを上手く隠す術を持っているものだから、まったく、にくい。

 冷静な判断力に基づいた客観的な視点で様々なジャンルをサンプルと見立て、音楽の適材適所に配置するそのセンスはユーモアがあり、ポップ感に溢れ、DJ的なサンプリング能力に恐ろしいほど長けている。そんな確信犯じみたところは最近流行りのエレクトロ・ポップスや、サイケデリック・ポップスには無いもので実に新鮮なのである。ジャンルの融合ではなく、様々なジャンルの音を自分達の音楽に切り貼りする。そこに職人的な気質すら見えるのだ。

 手のひらにすっぽり収まって、持ち歩けそうな、とってもポップなポップ・ミュージックなのに、その実、計算された音楽性に背筋を正され、スピーカーと睨み合いながら聴いても面白い。何度聴いても飽きがこない。聴き手にリピート・ボタンを繰り返し押させてしまう本作は、夜を通り越して朝まで聴いてしまう。参ったな。やはり傑作だ。

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 サリンジャーの哲学とは青さを「青」のまま定義せずに、彼岸の視点からユースフルな遣り切れなさを筆致した点に尽きると思う。かの『ライ麦畑でつかまえて』にしても、実は通底するキーワードはまがまがしさ(phony)だ。既存のヒーロー崇拝主義に対して冷水を浴びせ、アンチを唱える事で、また一種の神秘性を自分のナラティヴに持たせることに対しても懐疑的な視点を持ち、意味ありげなアフォリズムめいた独白をカットアップさせ、クールに「見せかける」所作は発表当時よりも現代社会のシステム構成論が堅固になっていくにつれ、より響くようになったが、主人公コールフィールドのヴァルネラヴィリティとは結局、何をサルベージして、何を突き放したのか、見定めないと、サリンジャーの仕掛けた単層的な罠に自意識側が飼い慣らされたままになってしまう。

 だから、勘違いされているきらいがあるが、90年代後半に風のように現れて熱狂を攫ったベル・アンド・セバスチャンはサリンジャー的なイコンでは決してなく、98年の「This is Just A Modern Rock Song」という批評的で挑戦的なタイトルの曲内で歌われる「ぼくはドストエフスキーほど悲愴でもないし マークトウェインほど賢くも無い」という真面目なシニシズムを額面通り受け止めるべきであって、そこに余計な青さを付加する必要性など無かった。つまり、R.E.M.が標榜するヴァルネラヴィリティとは、知的体力の強靭さを奪回せしめるように、参照点や教科書はそう簡単ではなく、一元的である筈がない。

 前置きが長くなったが、憂鬱の、未成熟の、多義的な、「青さ」を確保し続けてきたプロジェクトとして、時に、過剰になってしまうサウンドの振れ方をして、アンクルは常に反射鏡的な存在だったし、僕はその「浮き方」をいつもストリート・カルチャーに収斂させることなく、良質な一音楽として語れない(語らない)評論磁場にも少しだけ辟易もしていた。

 アンクルとは、つまり平易に言えば、大人が懸命にふざける、という所作であり、自分の足許を見られてはいけないというスタイリッシュな逃避意識が逆説的に「シーン」内で括られ、「名札」を付けられてしまうアイロニー的な装置化をどう軽やかに越境してゆくかを考え続けたジェームズ・ラヴェルの切実な内面と嗜好性に準拠した大人の実験工房なのだ。

 アブストラクト・ヒップホップを地表化させる為に、Mo'Waxレーベルを立ち上げ、常に話題になった客演アーティストのフックアップと、ベック以降のセンスをゴリラズ的なエクスペリメンタル性で煮込んだ音像は常に先鋭性を持ちながらも、異端であり、時に、ストイック過ぎるきらいもあったが、いつも刺激的だった。98年の『サイエンス・フィクション』でのリチャード・アシュクロフトやトム・ヨーク、マイクD等の招聘を掻き消す(寧ろ、拒絶する)ような、非・意味的な在り方は、マッシヴ・アタック『メザニーン』やレディオヘッド『OK Computer』的な深く重い音がデフォルトになっていた当時のシーンには、多大なる影響を与えた。DJシャドウとのタッグを離れての03年の『Never Never Land』はオーガニックでメロウな滋味深いものになったが、そこで客演していたクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オムのモードに引っ張られたのか、07年の『War Stories』ではストーナーロックへと舵を切り、不穏でダークで分裂的な様相を極め、初期にあったストリート・カルチャーに目配せをしていたプロジェクト性は実質的に、記号化しており、ジェームズ・ラヴェルの個人的な関心に準拠した展開を見せていった。そのアンクルの展開は自然とストリートの音楽がグライムやダブ・ステップといった音楽の流れと結びつき、エッジを極めるのと比して、シーンとの接合点がぼやけていき、センスが先走る孤高のプロジェクトと化していった点は否めない。

 今回、デビューから12年目にして、通算4作目になる『Where Did The Night Fall』は清冽でサイケリデリックでクオリティの高い内容で、アンクルが築き上げてきたサウンド・ワークの集大成とも言える洗練を持つが、どうにも「90年代的な音」になった。それは、マッシヴ・アタックの佇まいと同じく、世界は別に変わらないから、スタイルを変える必要もない、という大人の諦念と寛容が彼岸的な観点から切り取られているとも換言出来る。アートワークはウォーレン・デュ・プリーズとニック・ソーントン・ジョーンズが担当しているが、これはトマト×アンダーワールド的な感じも思わせるし、10年代的なゴリラズのヴァーチャル的な凄味を持ったハイエンドなワークを越えるものではなく、サウンドもダヴィーで多国籍な音楽の上澄みを掬いあげているが、フライング・ロータス辺りのビートが提出されている今、どうにも野暮ったさが残る。そう、ウェルメイドなのだが、どうにも居心地の悪い作品になっている。3D、デーモン・アルバーン、ボビー・ギレスピー辺りの亡霊がちらつく磨き抜かれたサウンドスケイプはだがしかし、アンクルが試みてきたオリジナリティも確かに明滅するという理由を相対化はしない。

 10年代に入り、混沌としてきた今に、この作品を積極的に敢えて評価する意味は僕には正直、あるのかどうか分からないし、そんな意味など考えなければ、存分に「クール」なアルバムとして楽しめるし、今現在のロンドンの持つ多次元文化主義的な雰囲気を持っているのも含めれば、個人的には好きな音が集まっていると言えるのだが、どうにも批評し辛いのは、簡単にサイケだとかアフロだとか言うには切実な、phonyがあるからだ。

「ここは高みではなく、淵だ」ということを示す圧倒的な整合性は遂にここまで来たし、まだまだ往くだろうという確信が伝わってくる充実したものになった。その過程であり、結実では無い。

 ジェームズ・ラヴェルという人が、90年代の幸せだった(だろう)カルチャーの生き証人でもあり、00年代をどうにかサヴァイヴしてきた重みを強烈に感じさせる作品として、意義は深い。

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 本当に終わりなのか!?

 LCDサウンドシステムとしては最後の作品になるとアナウンスされているこの『This Is Happening』を聴いて以来、僕の頭からその疑問が消えない。それくらい、素晴らしいアルバムだからだ。

 ディーヴォ風のコミカルでポップなサウンドから、コーラスでは天駆けるようなキーボードがインする「Drunk Girls」は「North American Scam」に負けずとも劣らない充実したシングルだ。他にも、タイトなコンガとイーノの実験性がぶつかりヒートアップする「Pow Pow」、ファンキーなベース・ラインにのせてアイロニカルにヒットについて歌う「You Wanted A Hit」など、ミニマルなビートのループで構成された9曲にはグルーヴ感が息づく。間違いなく、これらの曲はフロアで人々を踊らせることになるだろう。

 そして、印象的なのはジェイムスのヴォーカルだ。メロウに歌い上げる「Dance Yrself Clean」や、ハイテンションでまくしたてる「Drunk Girls」、ボウイばりにセクシーに歌い上げる「I Can Change」など、広いレンジの表現力をみせる。現在40歳にしてのこのパワーに驚かされるばかりだ。だからこそ、この作品は「通過点」に過ぎないのではないか、と思えてしょうがない。

 そもそも、21世紀最初のディケイドは、ジェイムス・マーフィーの功績の上に成り立っている。DFAとしてザ・ラプチャーやレディオ4、最近ではロックンロール・リヴァイヴァリストのフリー・エナジーを輩出した。DJやプロデューサーとしての活躍もある。そして、2002年にLCDサウンドシステムとしてシングル「Losing My Edge」でのデビュー以来、2004年の『LCD Soundsystem』、2008年の『Sound Of Silver』など作品は高く評価され、ダンス・ミュージックのドップ・クリエイターとして君臨し続けた。今ではありふれたものになった、ディスコ・パンクやダンス・ロックもLCD抜きに語ることなんか出来ないじゃないか。

『This Is Happening』はLCDがオリジネイターとしてまだまだ革新的であることを十二分に示す作品だし、本誌のインタビューにおいてジェイムスはLCDとしての活動を終えることに感傷的な表情を一切表していない。これからフジを含むワールド・ツアーに出て精力的にライヴを行う予定なわけだが、ツアーが終わる一年半後が早くも気になる。初めて自分自身の写真を使用したジャケットでの前のめりのファイティング・ポーズに、期待が募るばかりだ。まだまだ彼にはダンス・ミュージックを牽引していける力があるのだから。

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 初めてトロントを離れ、シカゴでレコーディングを行なった約5年ぶりとなるニュー・アルバム。主要メンバーに加え、ゲスト・アーティストとしてリサ・ロブシンガーやジェイソン・コレットなど12人招き、プロデューサーにトータスのジョン・マッケンタイアを迎えた。これらから「新しいことに挑戦する」というブロークン・ソーシャル・シーンの本作にかける気合が窺える。

 シューゲイザー・テイストでドラマチックに展開する曲があれば、弾き語りに近くとも、どんどん音数を増やし、ソフトなサイケデリック感を醸し出す曲あり、はたまた打ち込みと浮遊感のある女性ヴォーカルが際立った曲ありと、ヴァラエティに富んでいる。室内楽的な響きすらある曲も収録されているのだ。しかも、どの曲も全く隙がなくクオリティが抜群に高い。これには感心し、驚きもした。ただ、難を言えば、ヴァラエティの豊かさゆえに焦点が見付からず、掴みどころがないと思ってしまったのも事実。それでも通して聴かせてしまう。その所以は、ずばりメロディの良さにある。

 なめらかな曲線を思わせるメロディが、突如、折れ線グラフのようにぎこちないが、しかし茶目っ気に溢れた味のあるメロディに移り変わり、良い意味で次の展開が分からないそのメロディ・メイクのセンスが音楽と聴き手の距離を近づける。ヴァラエティ豊かで凝った音響を構築する本作は、どんな種類の楽曲であってもポップに聴かせてしまうという意味で、ブロークン・ソーシャル・シーンのメロディ・メイカーとしての素質を浮き上がらせている。勢いがあった前作でファンになったリスナーは、その勢いが薄れたことで少々残念に思われるかもしれないが、ブロークン・ソーシャル・シーンは良くも悪くもリスナーを裏切る音楽を創作するアーティストであると僕は思う。

 かつてジョニ・ミッチェルが「リスナーに否定されるかもしれないけど、音楽家は常に変化する勇気を持つべきだ」と言ったように、ブロークン・ソーシャル・シーンもまた、変化する勇気を持っている。変化したいからこそ環境を変え、シカゴでのレコーディングを決行したのだろう。この音楽から「僕らにはまだ先があるんだよ」という声が聞こえる。「ここで終わらせるつもりはさらさらないんだ」と言っている。彼らの作品は常に野心的だ。でも、とびきりポップ。大人の遊び心と野心を持ったポピュラー・ミュージックなのである。

編集部より:日本盤は5月26日(水)リリース予定。

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 2008年に昼下がりのフジロックで見たジェイミー・リデルのパフォーマンスには本当に驚かされたものだ。(おそらく)本人の資質以上に、過剰なほどエンターテイナー然としたパワフルなソウル・アルバム『Jim』の世界観そのままに、締まりのきいたバック・バンドの演奏に合わせて感情豊かに歌いあげたかと思うと、ラップトップをいじくりだしてバンドの演奏や自らの声を取り込み分解・再構築し、電子音とともにループさせながら放出。小気味いい音の刻みは観客を熱狂させた。<ワープ>の誇る鬼才がどういったセンスの持ち主なのかをショーケース的にも魅せる、圧巻のステージング。この人は何でも出来てしまうんだな、と関心させられた。

 テクノ畑からR&B的な歌ものに転向し異色の道を歩んできた彼は、この2年で更なる変化を迫られたようだ。大きかったのはパリからNYへの転居、そしてベックが最近熱心に取り組んでいるRecord Clubのレコーディングへの参加。その光景はベック自身のホームページで観ることが出来るが、たった一日でクラシックな名盤を丸ごと再現するこの企画は、ジェイミーに限らず参加しているどのミュージシャンもそのセッションを心底楽しんでいる様子が印象的だ。その経験がよほどのインスピレーションを生んだのだろう。彼はそのとき組んだミュージシャンと共に自分の変化を表現することを選んだ。

 既に各メディアで報じられているように、本作『Compass』においてはベックやジェイミー作品の常連メンバーであるチリー・ゴンザレス(むしろ、本当はこの人こそがもっと語られるべきだと僕は思うけど)の他に、レスリー・ファイスト、ウィルコのパット・サンソーンといったRecord Club人脈でもある豪華ミュージシャンの参加が話題となっているが、サウンドの肝となっているのはドラムのジェイムス・ガドゾン(かつてクインシー・ジョーンズのバンドにも参加、過去にはマイケル・ジャクソンやマーヴィン・ゲイともプレイ)と、ベースのダン・ラスチャイルド(シェリル・クロウやMIKA等のライブで演奏)が主に担っているボトム・ラインだろう。

 前作『Jim』が軽快で晴れやかなソウル・サウンドなら、本作の前半に収録された楽曲はねちっこくディープなファンク的要素が滲み出ている。太く柔軟な音の出せるリズム隊とブレイク・ビーツに支えられ、奇抜でハイファイなエレクトロ・サウンドと卓越した生楽器の演奏が飛び出し、そして表現力を増したジェイミーの歌声がもつ存在感は、さながら過去のレジェンド・シンガーのそれに匹敵するようですらある。白眉はやはり、ジャクソン・ファイヴへの露骨なリスペクト精神みなぎる「Enough's Enough」だろう。イントロのひしゃげたキーボードの音色はある種のノスタルジーを喚起させ、ファイストとニッカ・コスタによるコーラスは楽曲にチャーミングな幅をもたせている。最高にファニーな一曲だ。

 アルバムの後半における暗く静謐で、ときにフォーキーなナンバーからは、これまた本作の制作に参加しているグリズリー・ベアーの面々からの影響が色濃く反映されている。既に<ワープ>の20周年BOXにおいてもジェイミーは彼らの「Little Brother」をリミックスしてその愛を表明していたが、ここまで影響を受けるとは正直、意外だった。前作までのファンは、あまりにも赤裸々な彼の姿を前にして、ここで一度面喰ってしまうかもしれない。

 2年間のあいだに彼に訪れた最たる変化が「愛する女性との別れ」であることは容易に検討がつく。この、人間の制作意欲を最も駆り立てる普遍的なテーマは、作中の歌詞においてところどころ匂わせられている。たとえば、先行シングルでもあるエレクトロ・ソウル「The Ring」では"She is just a dream, he is just a dreamer"と身も蓋もないフレーズが何度もリフレインされる。日本国内のメディアの一部は「最高のエンターテイメント」といった賛辞をところどころ寄せているようだが、本作はそういった単純明快な類のものでなく、(青臭い表現を許してもらえば)深く悲しい困難と対峙したジェイミーが、自らの心が次に赴くべき行き先への道しるべとなる「コンパス」を探し求めるあいだの葛藤を複雑なサウンドで描いている。娯楽として楽しむにはやや重苦しくプライベートな作品だ。

 そういう流れがあるにせよ、僕個人としては(クレジットはジェイミー本人になっているが、実質上の)ベックのシリアスすぎるプロデュースは、先にリリースされたシャルロット・ゲンズブールのアルバム『IRM』に引き続き、少し生真面目すぎる気がしないでもない。シャルロットの作品でも彼女及び彼女の父親であるセルジュ(特にベックが無人島レコードと位置付ける名盤『メロディ・ネルソンの物語』)への偏愛ぶりは過剰なほど伝わってきたが、もう少しポップに消化・発露できたのではないかという不満は残った。ここ最近のベックの活動で、かつて「何でも出来てしまった」頃の彼が溢れんばかりにもっていたユーモア・センスがいささか減退傾向にあるのは正直、寂しく思う部分もある。

 とはいえ、ジェイミーの真摯な姿勢には心から拍手を送りたい。一か月の短いスパンでほとんどの楽曲が収録されたとは俄かには信じがたい、緻密でダイナミック、そして彼にしか表現できないハイブリッドな音世界がここでは展開され、さらに今後のさらなる成長をも予感させる。一曲目の「Completely Exposed」で彼は自らの心を(その曲名どおり)完全に曝け出すことを決心し、最終曲の「You See My Light」で愛という名の光明をもう一度見つけなおしてアルバムは幕を閉じる。強い既視感を覚える成長物語ではあるが、だからこそなんとも素敵じゃないか。

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 マンハッタン・ラヴ・スーサイズの主宰レーベル、Squirrelに所属するメルボルン出身の3人組サンデイ・リーズをはじめ、「マイブラ・ミーツ・グランダディ」と評されたこともあるシドニー出身のアイズ・オブ・スペース、チェロを含む6人編成のポストロック・バンド、ラウラなど、オーストラリアには"シューゲイザーの遺伝子"を受け継ぐ良質なバンドが多く存在する。07年にシドニーで結成された、このザ・ブラック・ライダーもその1つだ。彼らは元モーニング・アフター・ガールズの中心メンバー、エイミー・ナッシュとスコット・ヴォン・ライパーによる2人組で、08年からブラック・レベル・モーターサイクル・クラブやザ・レヴォネッツ、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカー等と共に精力的にライヴを行なっていた。日本でも、今年の初め頃からMySpaceの音源がシューゲイザー好きの間でたびたび話題に上がっていたが、今作は、そんな彼らの記念すべきデビュー・アルバムである。

 逆回転ギターのヒプノティックなループに導かれてスタートする冒頭曲「To Never Know You」から、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの気違いじみたインスト曲「Glider」を連想させるイントロがたまらなくカッコ良い「Let It Go」までは、いわゆる"シューゲイザー・マナー"に則ったギター・サイケデリアを鳴らし、その手のファンを喜ばす。が、以降はさらにディープな世界へ。シャッフル・ビートとオルガンがサイケデリックに絡み合う「Grass」や、ザクザクとかき鳴らされるアコギが印象的な「Gone Without Feeling」などは、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカー辺りのブルーズ・ロックを彷彿させるし、スプリング・リヴァーブにどっぷり浸かったような「The Greatest Fall」や、ひび割れたヴォーカルと口笛が妖し気な「Sweet Come Down」などは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやギャラクシー500、あるいは久しぶりの新作『Through the Devil Softly』を昨年リリースしたホープ・サンドヴァル&ザ・ウォーム・インヴェンションズなどに近い感触もある。最近よくあるニューゲイザー系のバンドの1つ、などと油断していると、あっという間に異次元へと連れ去られてしまう危険な作品なのだ。

 なお、本作にはブラック・レベル・モーターサイクル・クラブのレア・シャピロとピーター・ヘイズ、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカーのリッキー・マイミー、元スワーヴドライヴァーのグラハム・ボナーら豪華メンツが参加し、全面的にバックアップ。新人バンドとは思えぬ力作に仕上がった。

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 正直に言って、デッド・ウェザーの1stアルバム『Horehound』は熱心に聞き込んだお気に入りの1枚というわけではなかった。ホワイト・ストライプス、ラカンターズに続いて登場したジャック・ホワイトの第3のバンド。ザ・キルズのアリソン、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのディーン・ファーティタ、ラカンターズからはリトル・ジャックが参加。またしてもスーパー・バンドと言えるメンツが揃った。さて、ここまで豪華なメンバーでどんな音を鳴らすのだろう?ジャックがドラムを叩き、アリソンのヴォーカルが叫ぶ。ブルースを基調としたカッコいい曲が揃ったアルバムだったけれど、そこには想像を超える発見が少なかった。3つめのバンドを結成してまでも鳴らしたい必然性が、あまり感じられなかった。

 だけど、そんな印象もライブを体験した後では、大きく変わる。「ジャックがドラムを叩く姿を見てみたい」という下世話な好奇心も手伝って、僕はZepp東京に向かった。3月31日、デッド・ウェザー一夜限りの来日公演。真夜中の水の底のような暗闇と青のライティングに浮かび上がる凶暴なノイズとブルース。自由なジャムやメンバーのパート・チェンジを繰り返しながら、一瞬も目をそらすことのできない熱い演奏が続く。ジャックは、手数こそ多いが、おかずは少なめで叩きまくる。そのドラムは、ギターと同じように吠えまくっていた。ヒップ・ホップ、クラウト・ロックという言葉さえもアタマをよぎる壮絶なグルーヴ。「第3のバンド」という思いは、2時間後に完全に吹っ飛ばされていた。

 ステージの青いライティングは海。そして、臆病者たちの色。『Sea Of Cowards』と名付けられたこの新作を聞きながらそう思った。アルバムは、来日公演でもプレイされた「Blue Blood Blues」から始まる。シンセサイザーとキレのあるスネアのイントロに導かれて、中盤で一気に爆発する「The Difference Between Us」やブルースとクラウト・ロックが合体した「I'm Mad」、そしてアリソンとジャックのヴォーカルが二重人格のように絡み合う「Die By The Drop」など、ライブでのグルーヴをそのまま封じ込めたナンバーが並ぶ。ディーンのギターとリトル・ジャックのベース・ラインは前作よりも存在感を増し、アリソンのヴォーカルと同調する。

 鋭角な言葉と一体になったリフの嵐。死の天候の中で、仮面を被った4人の臆病者たちが進む海。そこに放り込まれた僕たちは、ジャックの思い通りにブルースに翻弄される。その姿はたぶん、踊っているようにしか見えないだろう。

編集部より:日本盤は5月26日(水)リリース予定。

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 先日、友人のバンドのライブを見に行った。「ホワイト・ストライプスと同じステージに立ったよ」。汗を拭いながら冗談っぽくそんなことを言う彼の後ろには、薄暗い小さなステージが見えた。新宿URGA。ジャックとメグが日本で初めてライブをしたステージは、僕たちにこんなにも近かったんだ。もちろん、僕はその瞬間には立ち会っていない。でも、そのステージに上がる2人の姿が一瞬、見えたような気がした。そこには何ひとつ違和感がなかった。

 2007年の『Icky Thump』発表とその後のツアー以来、活動を停止しているホワイト・ストライプス。みんなが知っているとおり、ジャックはラカンターズやデッド・ウェザーとしてサイド・プロジェクトとは言えないほどの名作アルバムを作り上げ、ライブ活動も休みなく続けている。メグの不在がこんなにも長く続くとは思っていなかった。間もなく発売されるデッド・ウェザーのアルバムはもちろん楽しみだけど、ホワイト・ストライプスの活動再開がいちばんうれしい知らせになるんだろうな。ホワイト・ストライプスにとって初めてのライブ・アルバムとなる『Under Great White Northern Lights』を聞いて、僕はそう思った。そしてドキュメンタリーに描かれているジャックとメグの姿に涙がこぼれた。

 このライブ・アルバムとドキュメンタリーには、結成10周年を記念した2007年のカナダ・ツアーの様子が克明に刻みこまれている。ジャックとメグの間合いだけで成り立つスリリングで圧倒的な熱量の演奏。時に暴走するかに思えるジャックの演奏にも、メグはプリミティヴなビートでしっかり応えている。崩れ落ちる寸前、爆音の中で確かめ合う2人の眼差し。そして2人だけのブルースは成立している。

 ドキュメンタリーでは、ジャックとメグの「眼差し」そのものと言える関係が描き出されている。小さな町でのシークレット・ギグ、何気ない会話を交わす2人のオフ・ショット、旅先での様々な出会いなどから、ホワイト・ストライプスが音楽に立ち向かう姿が明確になる。もはや姉弟というギミック、恋愛という関係性すら超越してしまったブルースが結びつけた運命。それは呪縛かもしれない。だからこそ2人が離ればなれにならないためには、お互いの存在を確認する「眼差し」が大切なんだということ。

 ジャック・ホワイトがロックの歴史に永遠に名を残すことは、間違いない。そのジャックの才能に見出され、圧倒されながらも、音楽そのものに「選ばれてしまった」とも言えるメグの姿が愛おしく、切ない。やっぱりメグがいないとホワイト・ストライプスじゃないから。お互いの運命に寄り添うような2人だけのラスト・シーンがとても美しい。

 日本の小さなライブ・ハウスで、まだそれほど有名じゃないホワイト・ストライプスのギグが始まる。自信満々のジャックに手を引かれて、ステージに上がるメグ。そして、視線を交わしながらブルースを鳴らし始めた2人。いつかきっと、そんな感じで戻って来てくれるはず。もう一度、ホワイト・ストライプスの音楽が鳴り響く日を待っている。

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 まさか、これほどまでの完成度だとは!

 デロレアンは2000年代初頭から活動を開始した、スベインはバスク地方の4ピースだ。これまでに『Delorean』(2004年)と『Into The Plateau』(2007年)という2枚のアルバムをリリースしているが、その内容は当時の80'sリヴァイヴァルのシンセ・ポップ・バンドが雨後の筍のように現れた中において、決して突出した内容とはいえなかった。

 しかし、昨年リリースされた3曲(とボーナス・トラック)入りの「Ayrton Senna」EPで彼らはまるで別バンドになったかのように大きく変わった。90年代のハウスやテクノとニュー・オーダー風のシンセ・ポップを下敷きに、ファンキーなベースやストーン・ローゼスを思わせるようなギター、女性コーラスなどを組み合わせた楽曲。それは完璧なダンス・ミュージックだった。その幾重にも層を成す音のレイヤーの重ねぶりは、カット・コピーの『In Ghost Colors』を思わせる充実ぶりなのだから。しかも、このころからザ・ビッグ・ピンクやレモネードなどの楽曲をリミックスし発表、その完成度の高さも追い風になり、徐々にネットメディアやブログを通じて彼らの名前が広まっていった。

 そして、ついに届けられた3枚目のアルバムが『Subiza』だ。昨年の夏にレコーディングされたこのアルバムはもちろん、「Ayrton Senna」EPの延長上といえる音楽性。だが、そのレイヤーの数と複雑さは更に増している。例えるなら、アニマル・コレクティヴの『Merriweather Post Pavillion』。だが、アニコレが密室的でサイケデリックなのに対し、デロレアンは開放的でエキゾチック、まるで地中海の海辺の風景をそっくりそのまま切り取ったかのようで、ただただ美しい。

 ダブステップのビートを配した「Stay Close」でアルバムは幕を開け、続いてオールドスクール・ヒップ・ホップ風の「Real Love」、レイヴの高揚感をたたえた「Infinite Desert」など、トラックごとにビートやサウンドは様々な表情をみせる。だが、シンセやギター、キーボードに加え、ハンドクラップやサンプリングされた子供の声などのマテリアルを配したサウンドは一貫してイノセントでポップだし、シンガーのエクヒ・ロペテギ(Ekhi Lopetegi)の澄んだ歌声がとても心地よい。そう、バリアレック・リヴァイヴァルやインディー・ダンス...といったカテゴリーの枠には決して収まらない、広大なスケールのダンス・ミュージックが『Subiza』には広がっている。

 もうすぐ夏が来る。だが、こんなに心躍る夏のサウンド・トラックを手に出来た今年の僕たちはとてもラッキーだ。

編集部より:日本盤は6月23日(水)リリース予定。

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「不安も苦悩もないけれど、何かが足りない」。そんな思いに、ふと駆られたら「360°Sounds」EPを聴こう。イルリメは日々の中で忘れていた種の楽しみの心地や、すっと胸がすく気持ちを、粘土をこねるように音にして、ひょいっと僕らの前に差し出してくれる。そして聴くと思い出した気持ちになる。音に込められた豊かな心地を僕は忘れていたんだ、と。

 ジャンルで言えばヒップ・ホップなわけだけど、それはあまり関係ない。ファンク、エレクトロニカ、テクノ、ジャズなど様々なジャンルの音楽性を持つイルリメが、最終的にヒップ・ホップというカタチに落ち着いているだけで、重要なのは谷川俊太郎の詩のように石ころだろうと愛だろうと、かわいらしく、でもそれらのありのままの姿を提示するところにある。ジャンルなんて関係ない、という言いは時として陳腐なものになりがちだけど、いや、やっぱり関係ないんだと、本作を聴いていると思えてしまう。

 人気曲「トリミング」を再録。「とらべるびいつ」はYSIGのモーリス氏が参加。「Hello Mellow」はキリヒトの「君にメロメロ」をサンプリングした楽曲。それらを含むEP、全5曲。爽やかな声質の、韻を踏むことを過剰に意識しないリズミカルなライムがメロディアス。雪が溶けるように耳にすうっと入ってくるサウンドは心地が良くて、強すぎず弱すぎずのビートが高ぶった感情の温度を静かに下げてくれる。ここには怒りや哀しみを思わせるサウンドの一切がない。だから寝間着で聴いてもいいようなリラックスした音楽であるとともに、聴き手は高度な音楽性をも同時にリラックスしたまま聴けるのだ。

 この音楽は傍観者の視点で客観的に眺めるよりも、音の中に身を置いた方がずっと楽しい。本作をiPodに入れて外を歩けば、いままでどこかに置き忘れていた、あるいは見過ごしていた楽しみに気付けるんじゃないか。そんなふうに思えるほど360°の視界が開けてくる。そしてまた、本盤は個人の気持ちをふわりと浮かせることにおいても重要な意味を持つようになった今日的な音楽だと僕は思う。もちろん悪い意味じゃない。ヒップ・ホップだからといって毛嫌いしている方にこそ聴いてほしい。本盤は、ヒップ・ホップはアメリカ黒人音楽だとか、ジャパニーズ・ヒップホップは邪道だとか、そういうことは全然関係ないんだと思えるポップ感に溢れる。