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 マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、チャプターハウスが再結成に沸くなか、当時のシーンのなかで後続(特にエレクトロ方面)に与えた影響、という意味では恐らく最も大きいスロウダイヴの編集盤。コクトー・ツインズから耽美さを薄め輪郭を曖昧にして、幻想を生み出す1st『Just For A Day』、メロディが際立ち甘美さが増した2nd『Soulvaki』、エレクトロ方面に大幅に移行した3rd『Pygmalion』、そしてシングル3枚、EP2枚から。
 
 音源を振り返り感じさせられることがある。乱暴に言うと、バンド・サウンドでいうところの、彼らの音楽に影響を受けたシガー・ロスを筆頭とする(シガー・ロスを筆頭としてしまうのも語弊があるが、あくまで音の感じとして...)いわゆる音響系とも呼ばれたバンド群は、"荘厳さ"を伴ったり、"壮大さ"を纏ってい る印象がある。洗練されたイメージ。
 
 しかし実は彼らは違う。ぜひ初期のシングル3枚、そして前述の『Just For A Day』のジャケットを見て欲しい。まさにそんなイメージ。霧で覆われた洞窟から抜け出せないでいる音。現実と幻のあいだにあるような、まるで三途の川で流れているかの感覚は、1曲目から最後まで一貫しているといえる。そんな世界を覗きたくて、この音源に手を伸ばす。浸る、というより、覗く、漂う。
 
 90'sオリジナル・シューゲイザーの再評価がされて久しいが(90年代後半から2000年前後にはどのCDライナーノーツを見ても、そんな言葉は死語として避けられるか、否定的な文脈で語られていたように思える)、当時の市場の規模は小さく、普遍的に語られるべきバンドなんて実際ほんの一握りだと思っている。そんななかでも、現在のシーンを考えても最も知られて欲しいバンドだと思っている。

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 ミシガン州のカラマズーを拠点に活動するクラッシュ・シティ・セインツは、ジョシュア・ガーマンとクリス・ワーハマキの2人のギタリストに、レコーディングやライヴ時のメンバーで、紅一点女性ヴォーカルであるエイプリル・モリス、マット・マッサッチ、ネイサン・ガーマン(ジョシュアの弟)の3人を加えた5人組。本作は、彼らが07年にリリースしたシングル「Returner」の全収録曲と、08年のファースト・アルバム『The People Were Even Stranger』からチョイスした8曲に、書き下ろしの新曲「Broke」を加えて新たにマスタリングし、クインス・レコードよりリリースされた世界デビュー作である。

 米国には初期リリーズを筆頭に、轟音番長スコット・コルツの1人ユニットであるアストロブライト、先日奇跡の来日を果たしたフリーティング・ジョイズ、もうすぐファースト・アルバム『COLOUR TRIP』をリリース予定のリンゴ・デススターなど、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(MBV)の影響をダイレクトに受け、それを何の衒いもなくアウトプットするバンドが数多く存在する。「僕らはケヴィン・シールズへのリスペクトを、一度たりとも忘れたことはない」と公言するクラッシュ・シティ・セインツも、その一つと言えるだろう。「『Isn't Anything』に対する返答」と自負する「Every Face Is A Mirror」をはじめ、『Loveless』移行期のケヴィンが書きそうな切ないメロが印象的な「Council Of Elders」、さらにはMBVの「Only Shallow」を思わせるリフと、コルム・オコーサク(MBVのドラマー)ばりの機関銃ドラムが効いた「Returner」など、「どんだけ好きやねん!」と思わず突っ込みたくなるような、ぶっちゃけて言えば"まんまMBV"な楽曲がズラリと並んでいる。それでも憎めないどころか、たまらなく愛しい気持ちになってしまうのは、先に挙げたバンドと同様、そこにはMBVへの"狂おしいほどの愛"が込められているからだろう。ちなみに本作の中で重要な要素となっているのが、紅一点エイプリル・モリスのヴォーカル。MBVのビリンダ・ブッチャーというよりは、カーヴのトニ・ハリディやコクトー・ツインズのエリザベス・フレイザーにも通じる耽美で妖艶な歌声が魅力だ。

 シングルやアルバム収録曲、書き下ろし曲の寄せ集めなので、アルバムとしてのトータル性が希薄なのは正直否めない。しかし、彼らのソングライティング能力の高さを知るにはマストな一枚と言えるだろう。今後が楽しみのバンドだ。

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 ほとんどの音楽は、聴く前から大体どのような音なのか、なんとなく分かっているものが多いと思えるが、もし、破滅覚悟の気持ちで、そして暗闇に身を投げる度胸でもって未知の音楽体験をしたいと思う人がいるならば、僕は迷わずこの作品を薦めたい。本作もまた、破滅する覚悟を持つアーティストの音楽だ(クッキーシーン読者にそういう音楽を求めている方が多いか分からないけれども...)。  

 聴けばたちまちのうちに心揺さぶられ、飲み込まれ、放心寸前の心地が胸の深くから湧いてくる。唯一無二のビート・メイカーかつ西海岸アンダーグラウンド・シーンきってのプロデューサー、マッドリブが別名義で創りだした『Slave Riot』、それはまさに、今まで以上に緊迫の色が濃いインストゥルメンタル・ミュージック。重心を低く保った重量感のあるグルーヴにはまり、四方八方から聴こえてくるパーカッションが思考の弛緩を誘う。ファンキーなベース音や妖しげなサックスとストリングスが鼓膜に飛び込み、その魅惑的な音の全てが辺りの重力を歪ませる。一瞬でも気を許せば夢遊病者と化すであろうサウンドに痺れる53分。一気に聴かせる。

 これはちょっとBGMとしては聴けないな、という感じであり、面と向かって一対一で聴くべき音楽だ。決して歌心に溢れているとは言えないが、「え?」っとなったり「お?」っとなったり、はたまた「ん?」っとなったりと、奇妙キテレツな音色に溢れているものだから突発的な新鮮性に驚き、ざわめき、聴いているうちにもっともっと音が欲しくなる。中毒性がある音楽とはこのことかよと驚愕した。クールでいて危険な香りがエキサイティングであり、狂乱、乱雑、それらが醸し出す不謹慎とも言える快楽に焦がされる。しかも耳を近づければスウィング感が十分あるのだ。

 マッドリブはイエスタデイズ・ニュー・クインテット名義でクラブ・ジャズ的な音楽も、ジャジーなヒップ・ホップも発表しているが、この作品でフリーに突入し、自由という名の束縛の中で自分は一体どれだけできるのかと賭けに出た。それが伝わるからなおさら痺れる。僕は乱れろと言いたい。マッドリブの過度期にあたるであろう本作で乱れなさいと。そうして訪れるは狂乱の渦に焼かれる快感。痺れが止まらない。

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「貴方が殺した自由の歌が僕の頭に響く」
「貴方が殺した自由の歌は貴方の心に響いていますか?」
「貴方が殺した命の歌が僕の頭に響く」
 
 これらは「虹色の戦争」の歌詞の一部分で初めて聞いた時からこの歌詞の部分のインパクトがすごくて頭の中で巡る、巡る、めぐる、廻る、メグル、巡って脳内リフレインした。

「貴方が殺した自由の歌が僕の頭に響く」「貴方が殺した自由の歌は貴方の心に響いていますか?」「貴方が殺した命の歌が僕の頭に響く」って巡る。

「世界の終わり」の『EARTH』のアルバムのジャケットはバンド名「世界の終わり」をローマ字表記したもので「SEKAI NO OWARI」とある。

SEKAI
NO
OWARI

 で「NO WAR」って部分が虹色でデザインされていて、それがメッセージだったと気付いたのは買ってしばらくしてだった。すごいネーミング。

「世界の終わり」のイメージって最終戦争とか、大事な人が奪われたりいなくなったりこの世界が崩壊して彩りを失うことを意味するのに、ローマ字にして虹色で「NO WAR」が隠されている。この精神は何だろうかと僕は思った。それによりさらに彼らに興味を持った。何度も繰り返してアルバムを聴いた。

 世界を終わらさないための「NO WAR」であるのが本当の意味での彼らのバンド名なのか、意図的なダブルネーミングか。だとするとこのバンドはかなりひねくれててアイロニーもたっぷりだ。期待値が上がってくる、どこまで行くのか。

 どこまで本気で世界を変えようとしているのか、戦おうとしているのか、ポップなメロディにそれに反するような歌詞や言葉がそれらに乗って聞き手の中で巡り、その意味を考えてしまう。

 ツイン・ギターにピアノにDJという四人編成でそのDJはピエロのお面を被っている。しかも名前は「LOVE」で二代目だそうだ。メンバーのインタヴューを読むとヴォーカル・ギターの深瀬慧は中学もほとんど行かず、その後に二年間アメリカに留学するつもりが二週間でパニックになり、その後精神病院に入り退院し音楽を始めている。

 その後、プロ・ミュージシャンになるよりもライブハウスを作るよう方が簡単だとバンド結成よりも前にライブハウスを作り活動を始めた。そこに集まったメンバーが今の四人であり、深瀬の学歴もなく、将来に対しての不安や夢も希望もない状態、そして「死にたくない」というもの、それらの危機的な絶望的な状態からの「生きる」という理由を探し、もう一度歩き出すために考えに考えた末の決断がライブハウスを作りバンドを始めることだった。

 ライブハウス「EARTH」にはスタッフが15人いるらしい。彼らはひとつのコミュニティである。「世界の終わり」というクリエイティブカンパニーでもある。

 同じ意志を持ったコミュニティとして世界と向き合おうとしているような感じがする。この感覚はとても正しいのでないかと思う。グローバリゼーションが破壊したある意味での経済活動やインタネーットの普及で変わってしまったクリエイティブの表現の中で僕ら個人は戦うものが多すぎるし、孤独だ。

 その孤独を武器に世界に自らを表明する創造的表現をしていくのか、あるいは集団としてカンパニーという仲間と共に世界に向かい合うかという選択ぐらいしかないのかもしれない。

 大きなレコード会社だとかを抜いてしまい、自分たちのカンパニーで今までだったらレコード会社がしていたことを自らの手でやり、活動していくというのが「テン年代」(by 佐々木敦)のスタンダードな音楽活動になるのかもしれない。

 それがスタンダードになるのなら彼らの鳴らす豊潤な音楽と刹那的にも思える歌詞の相互作用により多くの支持を得ていくバンドになるだろう。このアルバム『EARTH』はその「世界の始まり」になるはずだ。極めて「テン年代」的な、このディケイドを代表するバンドになる可能性が高いと思う。彼らがこの先どう展開していくのかが楽しみだ。

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「ガールズ」や「ドラムス」など検索し難いバンド名が流行中(?)の昨今だが、このバンドもちょっと検索し難い。彼らの名はマーチング・バンド。スウェーデンのリンシェーピン出身の、エリックとジェイコブという2人の青年によるユニットだ。本作は、各方面で絶賛されたファースト・アルバム『スパーク・ラージ』に続く2ndアルバムで、エド・ハーコートやカメラ・オブスキュラ、コンクリーツの作品で知られるヤリ・ハーパライネンがプロデュースを手がけている。美麗なピアノで幕を開ける「ANOTHER DAY」から、ほとんど産業ロック(?)なギター・ソロがフューチャーされた「OKEY」まで、前作よりもアレンジの振れ幅が広がり、聴き手を飽きさせない構成になっている。もちろん彼らの持ち前のキラキラした美メロは健在で、二人のヴォーカルのハーモニーもバッチリ。同郷のローニー・ディア辺りにも通じる、丁寧に作り込まれた楽曲群は、インディー・ポップ・ファンのハートを鷲掴みにして離さないだろう。

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「書を捨てよ、町へ出よう」とはいったもんで、引き籠ってばかりじゃあ頭でっかちになるばかり。おまけに人との会話も億劫になってしまうから困ったもので、「書を捨てよ、町へ出よう」に賛成だ。町へ出て、色々なことを体験した方が良い音楽作れそうだし。ところがどっこい、数学博士でもあるダン・スナイスことカリブーは、まさに部屋に閉じ籠る音楽オタクなのだった。

 オタク属性特有の「できれば分かってほしいけど、分かってもらえなくてもかまわない」という、音のこだわりをもってして、もともとは純粋と言えるエレクトロニカを奏でていたが、作品を発表するたびに音楽性は変化し、それはエレクトロニカ・シューゲイザーであったりサイケデリック・ロックと表してもいい作品だったりした。そのどれもに彼の音マニアとしてのこだわりとシューゲイザーへの愛が刻印されていた。

 本作『Swim』はダンス・ミュージックではあるものの、それは表面上だけで彼の音マニアとしてのこだわりは絶対的なまでに貫かれている。しかしダンス・ミュージックという非常に分かりやすい要素を取り入れたことで、彼の「分かってもらえなくてもかまわない」というオタク的スタンスは崩壊し、リスナーの「うん、分かる、分かる」という共鳴を生んだ。と同時に、同じオタク属性の、音マニアからも支持を受ける結果となった。もしリスナーを強引にクラバーと機材オタクに別けたとしても、本作はその両極端のリスナーを同時に包容してしまうほどに作り込まれた音とダンサブルな音に溢れる。そこにこの音楽の魅力がある。

 同じく音マニアのフォー・テットと比べてみるに、両者の違いはジャズをルーツに持つフォー・テットが豊かな演奏技術に裏打ちされた音楽性を押し出す中、カリブーは部屋に引き籠り、うんしょ、うんしょと、脳内世界を具現化しようとしている感じである。いわば、仮にフォー・テットが体育会系ならばカリブーは理系である(実際に数学博士なわけだが)。ひょろひょろで肌は青白く、太陽は僕の敵という感じの、絶対クラブに行かなそうな音楽オタクが脳内で奏でるダンス・ミュージックがここにある。それはピンク・フロイドの1stのように甘美であり、わずかに狂気の香りがする。

編集部補足:日本盤は6月16日(水)リリース予定。

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 今作はノルウェー出身の新世代シューゲイザー・バンド(ニューゲイザーではなく)、セレナ・マニーシュの4AD移籍後、初のアルバム。

 最初にアルバム全体を通して聴いた時に、前作との作風の変化に驚きました。端的に言うと、セルフ・タイトルを冠した前作よりも、はるかに耽美的で閉鎖的。

 もともと、シューゲイザーからの影響を公言していたけれど、それを執拗に押し出すのではなく、あくまでサウンドの一要素として取り入れていた彼ら。中心人物でありギタリストのエミール・ニコライセンと、その妹でありベーシストのヒルマ・ニコライセンは音楽家一家に生まれたこともあり、ロック以外の音楽からも影響を受けており、その雑多なバック・グラウンドをヴァイオリンやオルガンのパートもいるこのバンドで鳴らすことによりカオス的になり、それが結果的にシューゲイザー・サウンドとして成り立った、と言った感じでした。デビュー・フル・アルバムである前作を聴いた感触としては、シューゲイザーと同時に80'sポスト・パンクやゴス周辺のようなカラーを前面に打ち出しているな、と思いました。

 このアルバムは、その前作から垣間見えていた、そういった要素をより色濃く表したアルバムと言えましょう。もちろん、あえてジャンル区分をするのなら、やはりシューゲイザーとなるとは思いますが、その一方でザ・ホラーズにも決して引けを取らないような耽美的なサウンドに仕上がっています。確かに、前作の雰囲気からこう言ったサウンドになることは、少しながら予測はできたとは思いますが、自分のような多くのリスナーはやはり困惑してしまうのでは、と心配してしまうところでもあります。これはやはり耽美派の総本山とも言える4ADに移籍したこともたぶんに影響しているのでしょう。

 厚い雲がたれこめて、雷鳴が鳴り始め時のような不穏なこのアルバム幕開けを飾るインスト曲「Ayisha Abyss」。その嵐が去った後に、まだ降り止まぬ雨の中を駆け抜けて行くような「I Just Want To See Your Face」。やはりこの始まりの二曲の展開が、アルバム全体を表すカラーであり、自分達のスタンスを今一度示しているかのようです。中盤の「Melody For Jaana」や「Blow Yr Brains In The Morning Rain」の酩酊感は隣国、デンマークのザ・レヴォネッツもたじろぐほどで、「Honeyjinx」はソニック・ユースの「Shoot」を彷彿とさせます。

 書けば書くほど、カオスさが浮かび上がる今作。アルバム全体を通して聴くと、前作よりまとまった印象を受けますが、かといってリスナーに歩み寄った、聴きやすいサウンドかと言えば、そうではなく、あくまで今の自分達のスタンスを突きつける色合いが濃いように思います。今作の歪つなまでの酩酊した耽美さも良いですが、前作ではシューゲイザーやポスト・パンク的ながらポップ・ソングをところどころに散りばめていた彼らなだけに、次作は再びそう言ったサウンドも思い返してくれると嬉しいな、と感じたり。

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 2009年にリリースされたアルバムも素晴らしかった、イッツ・ア・ミュージカル(It's A Musical)や、ボビー・ベイビー(Bobby Baby)名義でも活動しているスウェーデン人女性ヴォーカリストエリノア・ブリクシ(Ellinor Blixt)と、いわゆるエレクトロニカ・アーティスト、F.S.ブルム(Blumm)というドイツ人ベテラン・ギタリストによるデュオ、ボビー・アンド・ブルム名義まさかの2作目。続編が出るとは思わなかった。

 良質なインディー・ポップを量産しているMorr Musicの諸作の中でも異色といえるほど、リラックスしたムードに溢れた良盤だ。決して生演奏だけにこだわった作品ではないのだけど、部分的には室内楽と言ってもいいような、落ち着いたエレガントな雰囲気にあふれている。

 F.S.ブルムのエレクトロニカ系のプロダクションは、リバース再生などが所々にちりばめられているがかなり抑えめな印象だ。フェンダー系のギターの音もノン・エフェクトじゃないかというほど生々しいクリーン・トーンで録られている。

 エリノアのヴォーカルのかすんだ質感もすごく良い。イッツ・ア・ミュージカルの時の様な張った唄い方も良いのだけど、このアルバムでの深呼吸の様なリラックスした唄い方の方が彼女の本来の持ち味だと思う。

 流す程度に聴いていたら、「Seascape」の最後、ベースの余韻がフェード・アウトせずに、10秒以上しっかり収められているのを、じーっと聴いてしまった。一度に鳴っている音数も少ないので、ひとつひとつの音に自然と意識が向くのだろう。「Take A Sip(NO.2)」後半の、16分音符5個取りのシーケンス・パターンも、ポリリズムを強調するでもなく、音量抑えめでそれだけが際立たないよう注意深くに配置されている。エレクトロニカ的と思える箇所はほとんどなく、アルバム通じてライヴ・バンドのようなナチュラルさだ。全編通じてチェレスタの音がすごくきれいに録られているのが印象的なのだが、これって本物なんだろうか。実物を見たことがないんだけど。

 このアルバムを入手したのは、4月半ば、異様に雨の多い春だったのだけど、ある日、部屋で鳴るこのアルバムをBGMにベランダに出てぼんやり三軒茶屋の景色を眺め、この曇った空のちょっとけだるい感じと相まった、ナチュラルでリラックスした雰囲気に浸っていた。しばらくすると、iTunesが別のアルバムを再生し我に返った。以来、何人かの友人に聴かせたところ、晴れてる日に緑道を散歩するときにこういうのを聴きたいだの、自転車に乗ってちょっと遠出してみたくなるだの、喫茶店で死ぬほど聴いたボサノバなんかがかかるよりこういうのがかかると良いのに、などという感想を僕にはずかしげもなく語ってみせた。なんか木漏れ日っぽい音楽だよね、と言った人もいた。いい歳こいた人間を、こういう感情に駆り立てるのだとしたら、これほど危険な音楽はない。

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 いとうせいこう氏がヒップホップ黎明の時期に発表した「Mess/Age」という曲は知っている人も多いだろうが、それは70年代の後半にNYで誕生して、USで80年代以降に台頭したヒップホップの持つ内在的なややこしさ、切実さ(例えば、人種差別の壁や経済格差の問題)を形式的に、ラングとパロールの対立軸を脱構築して、問題性から日常的抽象性にスライドさせた意義として大きかった。

 社会的に共有される言語上のコードと、個人的側面の言語運用の解析をした結果、日本ではゲットー的な何かとは、「仮想化」されるべきものでしかない部分もあり、ハードな表現するには、どうにも「大文字の他者(Grand Autre)」が許さなかった。としたならば、小沢健二&スチャダラパーの「今夜はブギーバック」やフィッシュマンズ「Baby Blue」の「何も言ってなさ」が現在進行形でずっと残り続ける意味は容易に解析出来るだろう。

 つまり、日本という磁場で「何かを言う」には「何も言わない」周到な自意識の回避が付き纏うということである。集団的な自意識をポスト・コロニアル化してくる大きな言葉や物語に当惑している時間よりも先に、積極的に「Mess=混乱」「Age=世代」として切り分けるしかない導線の上での綱渡りを試行する為には積極的に「黙る事も雄弁」であり、ラカン的に、どうやっても言葉では現実そのものは語れないが、同時に、人は言語を用いないと現実を切り取れないからだ。人が言葉と出会う事は、「不可能なもの」だ。

 98年にデビューしたSpangle call Lilli lineが10年以上に渡って創り上げた音像には美しさと静寂が同居していて、エレクトロニカとバンド・サウンドの有機的な組み合わせとポスト・ロック性、は軽佻浮薄な日本の音楽シーンの中でエコーのように現前し続け、その雄弁な沈黙の行間から滲み出る意味はとても批評的だった。また、例えば、僕のような、シカゴ音響派勢で言うトータス『Tnt』、ザ・シー・アンド・ケイク『Oui』、サム・プレコップ(Sam Prekop)『Sam Prekop』、タウン・アンド・カントリー『It All Has to Do with It』辺りの質感を愛する者にとっては、彼等のセンスの良さと、声の小ささにはいつも胸躍らされたし、日本では貴重な存在だという認識を持っていた。

 12年目に入った今年、その沈黙がどんどん大きな声にアンプリファイドされていっている事を感じる。先ず、相対性理論の永井氏をプロデューサーに迎えてのシングル「dreamer」のポップさと麗しさは今までにない開け方があり、それまで門外漢だった人たちも多く巻き込んだ。ちなみに、僕は相対性理論というバンドも小声の素晴らしさを持つバンドという印象があり、そこに鏡像性を持ち込むか、「対象a」的に捉えるかしかない部分があり、オタクやサブカル文脈で回収される意味が分からない所があるのだが、今回、永井氏とSpangle call Lilli lineの化学反応がとても良い形で、健康的な奥行きの深さをもたらすことになったのは、素直に嬉しかった。そして、セカンド・アルバム『Nanae』以来、8年振りに組んだ益子樹氏と組んだ新作の『View』はとてもユーフォリックで祝祭的な輝きを放っている。アッパーで派手な幕開けを示す「eye」、カントリー調のリラックスした「Shower Beige」。その他、これまでの彼等の持ち味が存分に発揮された曲が陽的に提示されているが、いつも通りの浮遊性とポップ感に、今回は大人の成熟、色気が加わっているのは大きい。今までに比べ、ボーカルの大坪女史のキーを抑えた歌唱が効いているのかもしれないが、全体に独特の艶美さがある。そこに、益子氏が意図しただろうストリングスが大胆に絡んでくる快楽は大きい。ともすれば、アルバム・リーフ、カイト(Kyte)の新作との共振さえ感じるこのドリーミーなムードはなかなか稀有なサウンド・センスを持っていると思うし、これだけポップに開けながらも、やはり限りなく小声な佇まいも素晴らしい。

 6月にはtoeの美濃氏と組んだアルバム『forest at the head of a river』が早速リリースされる。その前に、リキッド・ルームでのライヴがあるが、そこで当面のライヴ活動自体の中止を宣言しているので、とても自覚的な形でのこのリリース・ラッシュと作品の方向性の舵取りを決めたのだろうが、この充実振りを看過するのは勿体ないと言える。

『View』には劇的に世の中を変える大袈裟な仕掛けもこれみよがしなフェイクもないし、大きな意味は無く、彼等の来し方をずっと愛してきた人にはささやかなプレゼントのような作品かもしれない。ただ、3D映像用の眼鏡のような現実を仄かに浮かび上がらせるスペクタクルがある。そのスペクタクルは巷間に溢れるダイナミズムの力学を忌避する類のものであるのは言うまでもないだろう。

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 シカゴ音響派でこそないが、ボニー"プリンス"ビリーことウィル・オールダムといえば、あの界隈における仙人のようなSSWである。外見も仙人さながらなのだが、フォークやカントリーから半身ぐらい乖離した(脱線しすぎるとかえって胡散臭くなる。その塩梅が素晴らしい)独特の孤高感と距離感がまた仙人的なのだ。悟りや真理に指先で触れたかのような神秘さまで孕んでいる。
 
 ここ数作において、曲に明るみが増したり、トータスとカヴァーアルバムをドロップしたりなど、彼のサウンド・スケープには静かな変容が伺える。今作もまたカイロ・ギャング(事実上エメット・ケリー)とのコラボレーションという名目(オリジナル盤のアーティスト表記はBonnie 'Prince' Billy & The Cairo Gang)ではあるが、エメットは既に二枚のアルバムに参加している。極端に言えば「なにも今更そんな名義で出さなくても、エメットがいるのは当然というか...」という心境で新譜に臨んだのだが、確かに違う。コラボ名義でドロップする意義が大いにある。
 
 今作では、ほっこりする暖かさが見え隠れしている。彼らの談笑がどこからか聴こえる。ボニー特有の内省的な姿勢は健在しているが、彼らの間でその厭世を相互理解したような、一種の温もりがある。「仲間しか知らない秘密基地」の共有意識に似ている気がする。
 
 実は歪んだギターがそれなりの割合を占めている。やはりクリーンな音色の方が美しさを想起させるのが常なのだが、どうしてかボニーの楽曲は、ロジックを跳躍して美しく響くことがある。元々私達自身が歪んでいるから、なにかとシンクロする部分でもあるのだろうか。なんにせよ、言語化できない神秘性が潜んでいる。