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 絵本の表紙のような、物語の始まりを感じさせるハンドメイドなジャケットがまず眼を引く。ノスタルジアが湧き上がるこの作品につけられたタイトルは『風向計』。収録曲からは『かいじゅうたちのいるところ』を思わせるようなノスタルジアが広がり、南風がそよいでくるようだった。

 このフリーランス・ホエールズ(Freelance Whales)は、2008年に結成した、NY・クイーンズを拠点とするニュー・カマー。NYの路上や駅でのバスキングを繰り返して実力をつけてきた5人組だ。ネットにアップされた楽曲がブロガーに注目され、ピッチフォークやNMEなどで取り上げられて話題を集めてきた。そんな彼らがリリースしたデビュー・アルバムがこの『Weathervanes』だ。

 アルバムを貫くのは、オーガニックで土着的なサウンドと人肌の温もりあるエレクトロの融合。言いかえれば、スフィアン・スティーヴンス+ポスタル・サーヴイスといったところだ。バンジョーにグロッケンシュピール、ハーモニウム、ギター、チェロ、ドラムなどによる素朴なサウンドに、シンセサイザーやテルミンによる電子音を加えている。シンプルなメロディと豊かなコーラスで構成されたシングル曲「Generator 1st Floor」でアルバムは幕を開ける。その後、パッション・ピットの「Sleepyhead」を思わせる「Starring」や、スフィアン・スティーヴンスのアルバムに収録されていてもおかしくないような「Broken Horse」など、ヴァラエティ豊かな楽曲が並んでいるが、そのどれもがトウィーなセンスとセピア色の郷愁をたたえている。リード・ヴォーカルのユダ・デイドン(Judah Dadone)はファルセットの優しい歌声を聴かせてくれるし、男女混声のコーラスはとても和やかだ。だからきっと、13曲45分を聴き終えるころには、あなたの表情も優しくなっていることだろう。

 そういえば、彼らが所属しているのはレ・サヴィ・ファヴのメンバーが運営するレーベル=フレンチキス・レコーズ。パッション・ピットやドードースといった、ポップネスとダンサブルな要素を兼ね備え、インディ・リスナーの注目となったバンドがいるところだ。このフリーランス・ホエールズも続くことができるか? アルバムを聴きながら見守ろうじゃないか。

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「情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴を持っている。情熱の根源には、たいてい、汚れた、完全でない、確かならざる自己が存在する。だから、情熱的な態度というものは、外から刺激に対する反応であるよりも、むしろ内面的不満の発散なのである。」(エリック・ホッファー『魂の錬金術』)

 旧くはブライアン・ウィルソンが表象していたようなパラノイアじみたポップへの意識の深さ、または、70年代のトッド・ラングレンの見せていた無菌室的なポップ、CTI界隈のスムースな音像、日本で言うならば、はっぴぃえんど、大瀧詠一、山下達郎、高野寛、青山陽一など各諸氏、初期のキリンジ辺りが体現するロマンティックながらも、どうにも聴き手側の勝手な同一化を拒む透徹とした佇まい、「YOU&I」を描きながら、それをメタ認知で筆致しつつ、緩やかに完璧に固められたサウンド・ワークの背景に潜む創り手の凄まじい情念に触れてしまった様な人は多い事と察する。僕自身、高度に構築された「ポップ」というのに或る種、畏敬と畏怖を同時に感じてしまうのは、スッと耳を流れていくように思えて、良いステレオ・システムやライヴで聴くと、その楽器のバランス、アレンジの緻密さにアーティスト側の過激なラジカリズム(急進性)を垣間見えるからだ。下手な大文字の「ロック」よりも業の深さが滲み出ているとでも言えるだろうか。そういえば、かのエリック・クラプトンがジョアン・ジルベルトのコンサートを観に行った際、彼の「正確で複雑なリズム感覚」にインスパイアされた、という逸話などもそこには付加出来るかもしれない。クラプトンのあのリズムのジャスト感というのも時に凄いものがある。

 今や結果的に、田中拡邦氏のソロ・プロジェクトとなってしまったが、彼がファースト・アルバム『Mamalaid Rag』時のインタビューで、ボサ・ノヴァと言えば、アストラッド・ジルベルトを挙げていて、サンタナのAOR方面への傾斜期の『Festival』というアルバムの「Give Me Love」への愛を語り、アレンジメントの例として、ギル・エヴァンスの名を挙げていたのも非常に面白かった。それは、とても、「旧き良き、アメリカ」へのオマージュと共に、一本筋の通った美意識が貫かれている頼もしさを明確に受け止める事が出来たからなのもあるし、その純然たる覚悟に感銘を受けたというのもある。

 思えば、初期の彼等のライヴを観た際に、たまたま同席した40代の女性が「彼等を聴くと、もう死語かもしれないけど、シティー・ミュージックって言葉を想い出すのよね。」と言っていたが、僕は少し違う角度から、彼等の音楽には「仮想化された都市へのアーバン・ブルーズの捧げ方の麗しさ」と「"白い"ブルーズへ向けたノスタルジアの現代的な再現」を忖度していた。特に、インスト曲内で、ジャム的になだれ込む演奏は、CCRの影さえちらついた。

 しかし、周知かもしれないが、ママレイド・ラグの道程とは、とても困難を極め続けた。02年のメジャー・デビュー当時からの老成した佇まいの音と、その音楽性の純度の高さ、プロフェッショナリズムと比して、セールス的な評価とのアンバランスさと、田中氏の凄まじい職人気質と音質への拘り、コントロール・フリーク振りが時に、玄人、好事家筋の審美眼内で回収されてしまうきらいもあり、どうにも凡庸なイージー・リスニング的な括りの中で語られてしまう事も多い存在であったとも言える。03年の5曲入りの「きみの瞳の中に」(ここに収録された「泣きたい気持ち」は今でも、"60年代の3分間ポップ"の躍動感を閉じ込めた、屈指の名曲だと思う)、タイアップもついた04年のシングル「そばにいたい」辺りでは一瞬、シーンで地表化する気配も見えたが、「完全なる手触りの音」を求める為にマイクの立て方、8トラックのアナログ・レコーダーを取り入れ、レコーディングの模索を試みる中で頓挫した結果(その一瞬の成果は05年のシングルの「街灯/ふたりで目覚めたら」で味わえる)、スタジオ・ワークに戻り、作った06年のセカンド・アルバム『Mamalaid Rag2』は決して、悪くないものの、既発曲の多さに埋もれてしまった感もあり、不完全燃焼的なムードと、今後の展開を予期せしめるような物悲しさも備えていた。そして、バンド形式から田中氏のソロ・プロジェクトとなり、稀なライヴと客演等がありながらも、本体の音信が途絶えつつある中で、08年にレコーディングに入り、シングルとして、「Ophelia」、「空に飛ぶ想い」、「すてきなダンス」という完成度の高い音源を次々と発表した。

 そんな中、今年に入って、満を持しての4年振りの『Spring Mist』が届けられた。良い意味で本当に変わっていない、田中氏のポップ・マエストロ振りが発揮されながら、今までで一番、軽やかで爽快感に溢れた内容になっている。02年のメジャーでの最初のミニ・アルバムが「春雨道中」という象徴的なタイトルだったからして、また紆余曲折を経て、「春(Spring)」に戻ってきたというのも手応えも感じる事が出来るし、自らの過去を既にある種、対象化して、新しい道を進もうという多種多様なサウンドへの試みも詰まっていて、言うことが無い。ジェームス・テイラーやジャクソン・ブラウン辺りを彷彿させるフォーキーでトラッドなウォームな肌触りの曲から、これまでの流れを継承したジョン・メイオール&ザ・ブルーズブレイカーズ、レオン・ラッセル、エリック・クラプトン辺りを現代的な解釈にした曲、ナイアガラ・サウンド的な曲、宅録的な様相を持った曲、ストリングスが絡んだ流麗なバラッド、ザ・ホリーズ、初期のザ・ビートルズ、ポール・マッカートニー&ウイングス辺りを参照にしたビート感溢れた曲など、これまで以上にバリエーションに富んだ内容ながら、全体を通した一貫性はムラが無く、通気性が良い。このアルバムには、潔癖症的なまでに音楽への確かな情熱に裏付けられた美学が充溢している。

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 様々なイメージの断片が交錯しつつ、どうしようもなくポップ。京都出身だが現在は東京で活動している小野暁のサード・アルバムは、彼が経てきた様々な体験が理想的な形で結実した作品となった。

 ほぼ彼ひとりによる多重録音ファースト・アルバムにつづいて、ライヴ・バンドを率いてレコーディングされた2007年の前作は『The Days Of Perky Pat』と題されていた。フィリップ・K・ディックの短編から引用された言葉。「小説の内容との関係性を強く感じてつけたというより、言葉が想起させる非現実的な日常といったイメージに強く惹かれた部分が大きいと思います」と彼は語っていた。実際、表面的に「フィリップ・K・ディック的な音楽」というより、彼の世界の奥底にある「泣きたくなってしまうほどの暖かい人間性」に通じる部分があると感じた。

 そのときおこなわれたインタヴューで彼は、とくに影響を受けたソングライターとして、プリファブ・スプラウトのパディー・マクアルーンとXTCのアンディー・パートリッジを挙げていた。一方、テニスコーツの準メンバーとして、さらにはマヘル・シャラル・ハッシュ・バズへの参加歴でも知られていた。『The Days Of Perky Pat』にはセカンド・ロイヤルのレーベル・メイト、ルーファスやコレット、そして(BMXバンディッツの一員として来日した際に共演したことが縁となり)パールフィッシャーズのメンバーも参加していた。こういった様々な要素がようやくまとまりかけていたのが前作だったとすれば、今回の『Tales From Cross Valley』ではプロデューサーにデヴィッド・ノートンを迎えることで、その多面的な魅力が自然にまじりあい、過不足なく表現されている。

 スコットランドはグラスゴーで活動を開始、ロンドンをへて、現在は東京をベースに活動しているデヴィッド・ノートン(David Naughton)は、ティーンエイジ・ファンクラブ、ベル・アンド・セバスチャン、モハーヴィ・スリー(Mojave 3)、ライラック・タイムのスティーヴン&ニック・ダフィー、そして最近ではセカンド・ロイヤル期待のニュー・フェイス、ザ・ニュー・ハウスといった人たちと関わってきた。『Tales From Cross Valley』では彼自身がベースをはじめとする様々な楽器を手がけ、ニック・ダフィーやメトロ・オルガンなど彼ゆかりの人たちも参加している。京都のユニット、ナイト・テラー(Night Teller)をフィーチャーし、彼らがヴォーカルをとっている曲さえあるのだが(ソングライターでありヴォーカリストである個人名を冠したユニットとしては異例...)それさえ難なく溶けこんでいる。

 牧歌的とも都会的とも言いきれない、人なつっこいんだけど、不思議なひっかかりのある世界。楽しい、でもどこかに悲しみをたたえている。ちなみに彼はモンティ・パイソン/ニール・イネスの大ファンで、ラトルズのカヴァーをライヴでずっとやっていたらしい。ちょっとクセのあるヴォーカルも、なんとなくその系譜。オシャレというより、洒落ている。そこが好き。

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 数々のエレクトロニック・ミュージシャンがメロディ志向や生楽器の大胆な投入、またはダンス・ビートの強調へ向かう中、そんなことはおかまいなしと突き進むオウテカ。音を徹底的なまでに研ぎ澄ませ、繊細でいて複雑な一つひとつの音が持つ情報量に圧倒される本作『Oversteps』は、まったく、ほんとうに、作り込まれた一音が尋常じゃない。それだけでオウテカは聴き手を自陣に一気に引き入れる。もうその時点で勝負ありだ。

 初期の傑作『Amber』や、かなりIDM的な『Incunabula』と比べられることが多い本作であるが、とぎれとぎれのポップ性を散りばめ、精密な構築美と、乱暴とも言える破壊美。その両極端の美しさを同時に鳴らしてしまう点は、いやはや、耳を刺激し、昏睡と覚醒をも同時に誘う音の強度が増したことと相まって、過去最高なんじゃないかと叫びたくなる。しかも隙あらば背中を狙って叩きのめしにくるような緊張感があるからたまらない。ランダムなビートが渦巻くこの音楽に顔をうずめてしまえば理性など吹っ飛ぶよ。とにかく、最高潮に興奮する。すなわち、カッコいい。

 しかしこのふてぶてしさといったらなんだ。カリブーや、同レーベルWarp所属のクラークなどがダンス・ビートを強調した作品を発表する中にあって、オウテカは『Oversteps』を目の前にしたリスナーに向かって不敵に笑ってみせる。踊るのか? それとも鑑賞するのか?

 すなわち、音楽が与える人間の原初的欲求と、近代の「鑑賞する」という概念欲求を同時に煽る音を鳴らしている。しかもそれをリスナーが選択できる余地を与えるかのごとく、ノン・ビートの楽曲を交えるという、巧妙なトラップを設けているからエスプリが効いているというか、にくいというか...。

 とはいえ、べらぼうに難しい音楽ではない。紛れもなく美しく、ポップであり、聴き終えたときの清々しさといったら過去の作品にはなかったものだ。「暗すぎる」「冷たすぎる」と批評された00年代の作品を、爽快で、清々しくある本作で痛快に払拭し、光を一点に込めたような音が次々と溢れる音楽性が大胆なまでに開花した。『Incunabula』や『Amber』よりもイノセントな匂いたっぷりに。それはおそらく、音が持つ最も美しい奏でを抽出し、なおかつ楽曲にスペースを残し、様々な音を泳がせるという意味で、無意識的にマイルス・デイヴィスの『Kind Of Blue』にも通じる美をも獲得した結果だろう。

 『Oversteps』は彼らの次なる一歩の記録である。それは実に鮮やかだ。オウテカを敬遠している方にも薦めたい。素晴らしいよ。

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 宇宙? 夜空? それとも誰かの心の闇? ピンクのトゲトゲの球体が宙に浮いている。よく見ると小さな窓が開いていて、中から光がこぼれている。ザ・シンズのジェームス・マーサーとデンジャー・マウスのユニット、ブロークン・ベルズの初めてのアルバムは、そんなジャケットが象徴するように浮遊感あふれる美しい歌がたくさん詰まっている。

 このアルバムを入手してからすぐ、 YouTubeでライブの映像を見た。僕はデンジャー・マウスが動いている姿を初めて見て、とてもビックリした。ドラムを叩いてる! 考えてみれば当たり前のことかも知れない。いくつもの名作アルバムでトラック・メーカーを努めてきたんだもの。ドラムが叩けて当然でしょう。でも、やっぱり僕には新鮮だった。ジェームス・マーサーとデンジャー・マウスにとって、ブロークン・ベルズは「コラボ」や「ユニット」というお互いの線引きをはっきりさせた関係性ではなく、ひとつのバンドなんだという印象を持った。2人の音楽性を有機的に絡め合わせること。だから、こんなにも親密でソフトな歌がいくつも生まれたんだと思う。ナールズ・バークレイやゴリラズの『Demon Days』、ベックの『Modern Guilt』のような斬新なビートのアプローチは控えめ。ジェームス・マーサーが紡ぐ極上のメロディに寄り添うようなサウンド・アレンジが心地良い。

 ロックの歴史は数多くの優れたメロディ・メーカーによって作られてきた。その歴史はこれからも変わらずに続くだろう。そして、いつの時代も耳を傾けさえすれば、素敵な歌が聞こえてくるはずだ。数年前、ヒップ・ホップからやって来たデンジャー・マウスは、「ジャンルなんて関係ねーよ」と僕たちに教えてくれた。ロックだろうとヒップ・ホップだろうと、そこにある言葉とビートが基本。白も黒も混ぜてみろと。そこから、ほんのちょっと歴史は動いたのかもしれない。

 もうみんなが知っている。デンジャー・マウスは美しいメロディをもっとキラキラさせる魔法を持っている。ちょうど、ピンクのトゲトゲの球体からこぼれる光のように。

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 10'sを牽引する可能性を秘めているオールディ・ワールディ(沼田壮平)によるファースト・フル・アルバム。邦楽の匂いが完全に剥落しており、けれどオルタナティヴの教科書をなぞっただけのような洋楽志向もない。日本人にとっての新たなパラダイムにもなり得るアルバムかもしれない。

 中性的な声と荒々しいギターと優しいメロディの共生。転じて涼やかなポップ・ソング。そして他の日本人アーティストと比べて、とにかく一聴した時の情報量が膨大だ。重厚なコーラスもアコギのじゃりっとした音も、それらは虚飾になることなく楽曲を彩色させており、どこから切っても世界基準に準拠した質感のそれである。

 日本のロックはといえば、左右に配置された二本のギターとドラムとベースとヴォーカルだけで楽曲が構成されており、良くも悪くも余計な音がない。それは既に日本独自の方法論と化しつつある。オールディ・ワールディは、その格式から逃れようとしている数少ないアーティストの一人と言えるだろう。アレンジの卓越さにしろ、情報量にしろ、両者の間には歴然とした差があると思うのだが、シンプルさを好む日本人に必ずしも享受されるわけではないようだ。勿論、音楽が情報量の多さや派手さを基盤としたものでないことは認知しているつもりだが。

 この新作も前作と同様に、ロック、ポップ、フォーク、ヒップホップと無造作に楽曲が揃っており、彼の多様な側面を覗かせる。統一感がないといえばそれまでだが、それは溢れて止まらない個性の洪水を汲み取るには、ロックやポップという一つの器だけでは足りないからである。事実、ビルト・トゥ・スピルを彷彿させるような13曲目を聴き終わった後に得られるカタルシスは凄まじい。

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 ブログのコメントに書かれた一言で人は自殺してしまうし、悩みを口に出せずに飲み込んでしまうこともある。無防備なままでは生きていけない、なんて言われても、つい頷いてしまうことがあるかもしれない。決して、人間は、強くない。僕もそうだ。不安や怯えやわだかまりが、常に亡霊のように付きまとう。でも、前作も欧米で高い評価を得たグラスゴー出身のギター・バンド、フライトゥンド・ラビットの通算3作目となる『The Winter of Mixed Drinks』を聴いたその瞬間、僕は震えるほど嬉しくなった。本作を聴くことは、音楽性の高さと同時に、偽りの無さを、音に宿った体温を、なによりもやさしさを肌に触れ合わせるほど親密に感じることなのだから。

 聴いていると音が寄り添ってくるようだ。前作同様、ザ・ナショナルや、シガー・ロスのヴォーカリスト、ヨンシーなどのプロデューサーでもあるピーター・ケイティスがプロデュースを務めたことで、地に足が付いた落ち着きの、その一息つけるような音の余白が奏功している。余白を埋めるシューゲイザー風味のギター・サウンドや弦楽器によるストリングスの優雅なオーケストラ・アレンジの中で、スコット・ハチスンの、ほんの少しひねくれていて、でも程良く苦みが効いた声で歌われるうたの全ては丁寧に言葉を選びながら和やかに発せられ、絡まった気持ちの糸をほどいてくれる。それが嬉しくて清々しくて気持ちが良くて、感情の不安定な揺れはするすると抜け落ちて消えてしまう。

 特に「The Wrestle」や「Skip The Youth」においては、ポップにして哀感を含んだグラスゴーらしい胸の深くに染み込むメロディ、それとともに歌声やコーラス、ストリングス、アコースティック・ギター、新メンバーとして加わったゴードン・スキーンのマンドリンやキーボードなど、数々の音が幾重にも重なり、ちいさく渦を巻き始め、それは次第に大きくなり、やがて高くへ解き放たれたその刹那、希望と言っても差し支えのない光に満ちたサウンドに包まれて、放心、昏睡、あるいは心酔。甘美な音と心地が溢れ出す。

 攻撃的な音の一切がない本作は、打ちつけられるようなビートを奏でても、フィード・バック・ノイズを奏でても、どれを取っても無防備だ。触れれば壊れそうなほどに無防備なのだ。しかし、いや、だからこそなのか、僕は、そしておそらく誰しもが、この音楽が鳴っている間は警戒心など丸めて窓から投げ捨てて、あけすけになることを許される、そんな音の中に身を置いてしまう。

 そうして気付く。無防備でいることは強さなのだと。全てを抱擁してしまうやさしさなのだと。僕はその強さに、涙をこらえた。『The Winter of Mixed Drinks』は僕らの弱さを肯定する。武装しても、敵を作るだけなんだ。

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 本作『Port Entropy』はトクマルシューゴの最新作にして、これまでのキャリアの一つの集大成であり、現時点での紛れもない最高傑作である。正直、感動した。圧倒された。

 たとえば。彼と同時代を生きるバンドであるダーティ・プロジェクターズもキャリアの初期をひとりぼっちの、ややコミュニーケーション不全的なローファイ・ポップからスタートさせたが、『Rise Above』にて女性シンガーと強靭なバンド・メンバーを従えるスタイルに転向、絶妙な配置をすることでストレンジなソウル・ミュージック像を提示し、そのスタイルを次作の『Bitte Orca』で完成させた。

 しかし、トクマルはライブにおいては(もちろん、私生活などにおいてもそうだろうが)多くの仲間に支えられつつも、ことアルバム制作においては「ひとりぼっち」に拘り貫いたまま、以前からの彼のスタイルである箱庭型トイ・ポップを洗練に洗練を重ね、理想的な形で提示している。ある種絵本的な、純度の高い音の妄想空間がここでは広がっている。

 これまでどおりのプライベートな音像でありながら実にリスナー・フレンドリーな肌触りであり(こちらの慣れもあるのかもしれないが)、Ele-Kingのサイトに掲載されている岩崎一敬氏の本作へのレビューにおける「初期の作品で描かれていた風景は、どちらかと言えばトクマルの脳内を覗いているような感覚があった。新作は彼がCDの中に箱庭をつくった、そんな感じだ」という一節は実にこの作品についてよく言い表している。手招きにつられて部屋に入って、そのまま居座っても笑って許してくれそうな居心地のよさというか。

 先にリリースされたEPにて既に発表されていた「Rum Hee」は、彼が前作アルバム収録の冒頭曲「Parachute」以上に「真っ当な」ポップ・ソングを書けるようになったことを証明した、印象的なフレーズのリフレインとリズム・パートのダイナミズムが心地いいナンバー。「River Low」や「Drive-Thru」といった曲では手癖ともいえる小慣れたメロディとともに彼の十八番的なトイ・ポップが展開されている。以前の作品ではやや線の細さも目立ったが、本作は「Straw」のような音圧の太さの目立つ楽曲も収録されていている。

 にしても、多種多様の音が鳴っている。先日、彼が特集され話題になったNHK「トップランナー」番組中でも披露された、観客も交えた非楽器による即興演奏には観ていて圧倒されたが、あのとき見せた鮮やかな手つきでもって膨大な数の楽器・非楽器が演奏、録音された様子が目に浮かぶようだ。

 カラフルな音色の有機的な配合とその整頓具合、近年のブルックリン勢にも通じるひねくれた感覚・曲進行、そして自身の夢から着想を得ることが多いという風変わりな歌詞、爽やかな歌声。アルバムは一寸の隙もなく、37分弱という収録時間も繰り返し聴き返すのにちょうどいい。彼の音楽が既に広く世界中の賞賛と支持を集めているのは周知の通りだが、それらがまったく過大評価ではないことはこの作品に耳を傾ければ簡単に理解できる。

 ただ、贅沢をいえば。この作品は傑作であるが、想定外の作品かというとそうでもない。

 先日、本人がパーソナリティーを務めたUstreamでのプロモーション番組において、(何ともミスマッチで愉快なゲストであった)ロマンポルシェ。の掟ポルシェ氏が彼の音楽性について「Charaみたいな」と、ポロっとこぼしていたのが僕にはとても印象的であった。

「Charaみたいな音楽」の良し悪しも、実際にトクマルシューゴの音楽がそういう音楽なのかどうかもここで論ずるするつもりはもちろんないが(僕はそこまでとは思いませんよ!)、彼の幼馴染にしてライブにおけるバンド・メンバーでもある盟友、シャンソンシゲル氏のデザインした本作のジャケットにせよ、過去の作品と比べてもやや安全な「オシャレ」に迎合しすぎている気がしないでもない。

 もしそうだとして、音楽が広く聞かれるための選択としてそれももちろん間違いではない。しかし、iTunes Store上で既に公開されている彼の選曲したプレイリストや、本人が日頃から言及している、敬愛する音楽家やバンドの名前を眺めてから本作を聞き返すと、どうも本人の資質や志向性とは別の安全すぎる方向に進み、リスナーからもやや無難な消費のされ方をしているように映る。

 もっと露骨に書けば「たまには毒も吐いてよ、トクマルさん!」というか。前にも"草食系男子コンピ"『Sweet Voices - Gentle Boyfriends』に楽曲が収録されたりもしていたが、なんかそういうのだけじゃなくて! スマートな姿勢だけでなく、もっと感情や皮肉も露わにしたシンガー・ソング・ライターとしてのトクマルシューゴだって見たい。そういう性格ではないのかもしれないけど、結構似合うだろうし面白いと思うんですが。

 それに比べると最近活動を再開した、彼と彼の幼馴染によるバンド、ゲラーズの風通しのよさとメンバー間の緩いノリのほうに僕はどうしてもシンパシーを抱く。先日観たライブにおいても、楽器の弦はすぐに切れ、MCもグダグダで、演奏も勢い任せであったが、そのぶん「何が起こるかわからない」空気がフロアに満ちていた。その危なっかしい刺激こそが、音楽のもたらす感動と直結しているようにも思う。

 それこそ、彼のようなコントロール・フリークの箱庭型ポップ職人であれば(だいぶ例えは古くてすいませんが)、過去にはトッド・ラングレン『魔法使いは真実のスーパースター』(敢えて邦題で)や、XTCの『Big Express』のような、過剰にアイディアを詰め込みすぎてリスナーを突き放すような歪すぎる怪作も世に放たれている。本来は優れたメロディ・メイカーでもある彼らが放った、ああいった狂気の沙汰のようなスリリングなポップ・ミュージックも、彼なら涼しげな表情のまま平然と作り上げてしまいそうで、才能が図抜けているだけにどうしてもそういう方向にも期待してしまう。

 繰り返すが、本作は彼の現時点での最高傑作であり、一寸の隙もない充実した音楽作品である。彼の現行のスタイルは完成間近で、円熟期すら迎えつつある。トクマルシューゴはそのルックスもあって、小沢健二以来の、日本の音楽シーンにおける待望の「王子様」だと言い出す人も出てくるだろう。王子様なら多少のご乱心を見せてもファンは笑って支持してくれるのではないか。ひとまず足場が固まったなら、次はポップ・ジーニアスの壊れた姿も一ファンとして見てみたい。

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 ブルックリン・シーンと呼ばれるものの成熟と岐路を指し示していたのが、何よりも09年のアニマル・コレクティヴの躍進と世界的な高評価だったと僕は思う。Tv On The Radio、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー然り、どうにも「始点」自体が捻じれたバンドが推し進めていった方向性の中で、結実した深みをして、ジャッジする瞬間にピークは過ぎる訳で、ダニエル・カーネマンの言説に沿うまでもなく、そもそも体験の記憶は(集合的な)「主観」によって変えられる。例えば、苦痛の大きさが10として、時間が、5分経過し、終了時の苦痛の大きさが8の場合、仮に苦痛の量を58とする。苦痛の大きさが10で、時間が10分の経過で、終了時の苦痛の大きさが3だった場合、仮に苦痛の量を103とする。苦痛の時間が長く、全体の苦痛の量が大きくても、最後が3だった場合、最後の苦痛が98だった場合より、「より、ベターな記憶」が残る。

 ならば、集合的無意識の誤作動がブルックリンを取り巻く磁場に確実にあった筈で、それは決して他の音楽シーンが退屈で面白くなかった訳では無く、昨年のアニマル・コレクティヴが「My Girls」で描いたサイケデリアの曲線が例えば、コーチェラや苗場に虹を架けるような美しさを持ってして、09年のサウンドスケイプは「本当」に描けるのだろうかという疑義に繋がる。要は、もうブルックリンは熟していた。

 ブルックリンという都市は、経済的に人口区分するならば、区内の労働者人口は44%であり、その他は区外、つまりはマンハッタン等に出る。また、移民の流入率の高い都市でもあり、混在した文化要素が流入するメルティング・ポットでもあり、音楽にも自然と雑成分が高くなるからこそ、面白いバンドが出てくる背景がある。

 そういう文脈で言えば、イェーセイヤーはブルックリン的な混沌と人種の多様性を象徴するバンドであり、ピーク・エンドを弁えたスタンスを持っている。初期構成としてはヴォーカリスト、マルチ・インストゥルメンタリスト、ソング・ライター、聖歌隊という奇妙な構成を保っていたサイケデリックなバンドだった。07年の『All Hour Cymbals』はじわじわと草の根的に世界に伝播していき、その熱量の高いパフォーマンスは多くの人を魅了したのは周知だろう。既に、昨年の時点でPV含め、局地的なバズを起こしていたリード・トラックの「Ambling Alp」では、フレンドリー・ファイアーズ「Paris」以降の感覚論で、野卑なダンス×パーカッシヴな躍動感をリプレゼントしていた。

 今回の、満を持してのセカンド・アルバム『Odd Blood』は明快に「ポップ」な振り切れを為している。ファーストの頃のミステリアスでレイジーなムードは後退したが、その分、アレンジがソフィスティケイティッドされ、3分前後から5分程の曲まで「間延びのしない」タイトな内容になっている。これは或る意味で、MGMTの話題のセカンド『Congratulations』とサウンドの洗練のされ方が似ているのもあり、参照点が違うだけの"失われた双子作"とも言えるかもしれない。MGMTがアノラックやネオアコやブライアン・イーノに目配せしつつ、ソニック・ブームを招く「旧さ」と並行して、彼等は今回、メンバーの変遷を経て、ティアーズ・フォー・フィアーズやピーター・ガブリエルの仕事で有名なジェリー・マロッタのホーム・スタジオを三ヶ月借りたなどのエピソードを踏まえるに、こちらも「旧さ」で言えば、ニュー・ウェイヴの影響が強く、バネやリズムはア・トライヴ・コールド・クエストやデ・ラ・ソウルの「それ」を彷彿とさせる。このサウンド・ワークの明快さが吉と出ているのは特に「O.N.E.」かもしれない。ディスコ・ビートを援用しながら、バウンシーにクラウドを鼓舞させるコンパクトなキラーチューンになっている。ブッシュ政権下でのヒッピーイズムの申し子たちが、オバマ政権下で唱えるサイケデリアはどうにも煌煌とした鮮やかさがある分だけ、資本主義を「意識」してしまったという歯切れの悪さも含んだ、非常にウェルメイドな作品になった。今年のフジロックで満を持して、彼等はパフォーマンスを行なうが、どういったものを見せるのか、個人的に興味をそそられる。00年代のUSインディー・シーンを牽引してきたLCDサウンドシステムが自発的に役割を終える中、何らかのバトンの方向は彼等の近くを廻るかもしれない。

編集部注:日本盤は5月19日(水)にBeatよりリリース予定。

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 何かに名前をつけるとそこに意味が生まれてその名前による因果が始まる。名前とはそのものを解放し呪縛する。そして名前はひとつだけではない、例えば親から付けられた名前は変わらないが(法律的には変える事は可能だがほとんどの人はしない)、その人と対する人との関係性で愛称は変わるし、呼び名も変わる。

 古川日出男著『MUSIC』の冒頭は「その猫にはまだ名前がない。いずれは名前が付けられる。その雄猫にはスタバと。しかし、いまはまだ名前がはない」と始まる。夏目漱石著『我輩は猫である』の冒頭は「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ」と始まる。

 前者は名付けられるが、小説は猫の視点だけで語られてはいない。後者は名付けられないままに、その我輩と自ら名乗る猫が語り手として小説を語る。

『我輩は猫である』は有名な「猫小説」である。ならば『MUSIC』は「猫小説」であるか否か。もちろん「猫小説」だ。

『MUSIC』の前史には三島賞受賞作品『LOVE』という作品がある。もちろんこの『LOVE』も「猫小説」であり、対となるのは直木賞候補になった「ベルカ、吠えないのか?」という著者の作品で犬たちの系譜の小説で第二次世界大戦から冷戦終了までを犬の視線でその一族史で語る「犬小説」だった。

『LOVE』は目黒川が流れ東京湾に注ぐ流域の目黒区、品川区、港区が舞台となっている。僕は以前目黒川の始まりである国道246で区切られた世田谷区と目黒区の目黒川の始りから東京湾まで歩いた事がある。天王洲アイルまで、その後そのまま東京タワーまで歩いていった。東京タワーに歩いていったのは僕の理由があったからだったが。

 僕は歩きながら小説の中に出てきた品川駅が港区にある事を確かめたり、国立自然教育園に立ち寄ったりした。歩いて僕が感じたのはここはかつて海だったんだという事。

「LOVE」=「愛」は明治維新以降に英語が入ってきてその訳として「愛=あい」という言葉が当てられ定着した言葉。だから「愛」という漢字は存在していたが「愛=あい」という意味ではなかった。

 首都・東京は海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語。だからきっと「LOVE」なんだと僕は思った。その続編にもなり、数名の同一人物のその後が描かれているのが『MUSIC』だ。

『LOVE』の文庫のあとがきに古川さん本人が『LOVE』『ゴッドスター』『MUSIC』は同じ系譜にあると書いている。『LOVE』が新潮文庫から発売されたことでこの三作は新潮社から刊行されている。

 古川日出男新潮三部作とも言えるかもしれないが、僕はこの三作の舞台がさきほど書いたようには海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語である共通から「古川湾岸三部作」と名付けたいと思う。

 ただし新作『MUSIC』は東京と京都という二都が舞台になりさらにスケールを拡げている。京都には僕が目指した東京タワーではなく京都タワーが存在している。もちろんシンボルは物語の中で重要な意味を持つ。

 作者の古川日出男氏は「朗読ギグ」やイベント等で自身の作品を朗読している。彼の作品の特徴は声に出して読むことで文体が、単語がさらに強化される「小説」である。そこには何があるのか? そうリズムがある。

 文体のリズムがあり、声を出して読むことでそれは「音楽」にもなりえる言葉の強さがある。古川さんと「朗読ギグ」をしたZAZEN BOYSの向井秀徳さんが作る音楽のように言葉とリズムがせめぎ合い新しい音楽と文学を創造する。そして作品を読んでいくと古川さんの小説と向井さんの音楽が共鳴していることに気付く。彼らは共犯者なのだと僕は読みながら感じて嬉しくなった。

『MUSIC』はスタバだけの物語ではなくスタバと邂逅する人物たちの物語でもある。彼らはもちろんスタバと邂逅するし(一人はスタバと名付ける名付け親だ)、そして物語の主軸になるスタバが「MUSIC」を鳴らし、ニャつがどしどしと蹴って歩いて横断して連鎖させて地面という譜面に音符を書きなぐる、もちろんその肉球で。

 スタバと邂逅する人物たちも彼らも彼らの行動や思惑で音符を、そして各自の物語が、音符が鳴り響いて音楽が生まれて「小説」になる。この作品はそういう小説であり音楽だ。ハーメルンの笛吹きのような猫笛で数十匹の猫を引き連れていっていても、物語の始まりにはスタバがいる。そうこれは現在進行形の僕らの時代の「猫小説」なのだ。

 物語の最後は畳み掛けるように終結していく。様々なピースが、音符がそこに集結して一気に鳴らす。文体のリズムは音楽だとも思うし、そういうことを意図的に書いているのが古川さんの小説の特徴だ。ジャンルのクロスオーバーみたいだ。

 古川さんらしいというかお得意でもある言葉遊びみたいな単語の使い方やルビ。それが物語の展開にしてもそこから起因している所が大きいし、だからやっぱり読みながら、読み終わって思うのは古川文学は、古川さんは小説を「マジメにふざけて」やっているということだ。

 そこには覚悟とか自信とか自分にしか出来ない事をやろうという明確な意志がないと無理だからだ。新しい何かを生み出そうとする明確な意志だ。それが「マジメにふざける」ことができる本質というかコアだ、そう核だ。だからこそ僕は惹き付けられる。

 あなたが今現在最高にエッジが効いてて、音楽が鳴り響き、笑っちゃうぐらいにふざけている小説が読みたいのならこの『MUSIC』がある。

 笑ってしまうぐらいにカッコいいのか、カッコいいから笑ってしまうのか、どっちなのかわからないけどそれは新しい時代を作る最先端を疾走するエッジの効いた音楽も小説も一緒だと思う。

 古川日出男作品を読むと無性に歩きたくなる。僕らの人生に「物語」が溢れていることを教えてくれる、あるいは再認識させてくれる。そこには著者が歩いて見たその景色の肌触りが小説を通して僕らに伝わってくるから。

 僕らは歩いて生き、生きて歩いていく。