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 冬だった。僕はコートの襟を立て、首をすくめ、西荻窪駅の改札口を出た。駅前は会社帰りのサラリーマンや女子高生、買い物帰りの主婦で溢れている。彼らや彼女達のしゃべり声、電車の音が嫌に耳についた僕はCDウォークマンのイヤホンを耳に突っ込もうとバッグに手を入れた。その瞬間、かすかではあるが、バイオリンの音色が聞こえてきた。

 どこかの店がラジオでも流しているのかなと思ったが、駅の路地を出るとバイオリンを持ったひとりの白人男性が立っていた。年は三十代半ばに見える。すらりと背が高く、高級そうな黒い紳士服を着用し、顔は端正だ。彼の仕草、振舞いは、まるでクラシックのコンサート会場から飛び出てきたようだった。演奏を一通り終えると彼は丁寧にお辞儀をし、周りに集まった人々に文字が書かれている青い紙を手渡していた。集まっていた人々と言ってもわずか5人程度だが。

 紙には「ヤレック・ポヴィフロフスキ」と書かれている。名前のようだ。僕は全く知らない。経歴も書かれていて、首席で有名な音楽大学を卒業し、権威ある賞も取って、かなりのエリートなのだが、「音楽をコンサートホールに閉じ込めてはいけない」という持論から様々な国を転々とし、路上で演奏をしているとのことだ。笑顔を忘れず、聴き入っている人々に愛想良く振舞う彼の紳士的な佇まいに好感を持った僕は足を止め、しばらく演奏に耳を傾けた。

 新宿駅を出た辺りでロック・バンドやどこかの国の民族音楽を演奏する人たちを目にするが、たったひとりでバイオリンを弾く人は見たことがなかった。外で演奏するということは、当然騒音も入ってくる。車の音。電車の音。人のしゃべり声。決して音が大きいとは言えないバイオリンを外で弾くことは、周りの雑音によって音がかき消される可能性が高いわけで、ある種、自殺行為のように思えた。それゆえ、ジョン・ケイジのように雑音をも音楽として捉え、自分の音楽に取り込むような演奏をするのか、もしくは即興演奏をするのかな、と思ったのだが、全くそのような素振りは無く、有名なクラシックの楽曲を楽譜どおりに演奏していた。三分か二分に一度の割合で、ガタンゴトンと電車の音が不器用に聞こえて来る。その度、バイオリンの音はかき消される。全くと言っていいほど聴こえない。僕は外でバイオリンを弾く意味を解せなかった。

 そこで一通り演奏が終わったとき、僕は片言の英語で尋ねてみたのだ。「なぜ外で演奏するんですか?」と。きっと皮肉に聞こえたのだろう。彼の表情は一変した。文字通り全身のジェスチャーを交え、「何を言っているんだ! どこで演奏したっていいじゃないか。僕はただ、みんなに聴かせたいだけなんだ!」。そう説明してくれた。いや、訴えたと書いた方がベターかもしれない。僕は英語が苦手であるから意訳ではある。ただ、彼の表情は真剣だった。

 そうなのだ。元々音楽は生活に密着したカタチで存在し、鼻歌や口笛や、それこそ人がなんとなくリズムに乗って膝を叩く音が音楽であったりした。音楽評論家の小泉文夫氏は代表的な例として「わらべうた」を挙げている。どこで演奏したって、どんな音を奏でていたっていいのである。つまり、「音楽=CD」「音楽=コンサート会場で聴くもの」という概念は音楽を商業または芸術として捉えて初めて出てきたものなのだ。音楽はCDやライヴだけではない。小波の音を音楽として聴く人がいるし、東南アジアにはにわとりの声を音楽として聴く人が存在する。僕らは、いや、もしかしたら僕だけかもしれないが、音楽はCDに収録されているもの。ライヴ会場で演奏されるもの。そんなふうに音楽を物凄く限定された世界に押し込めてはいないだろうか。

 もちろん音楽が芸術、そして商業として捉えられたことで発展してきた部分は大きい。CDもレコードもラジオもなかったら、僕らはここまで音楽に夢中になることはなかったかもしれない。だが、発展したがゆえに、芸術や商業として捉えられるようになったがゆえに、リスナーに優劣を付ける風潮があるのも事実だ。なんだか、それが、哀しいのだ。

 ヤレック・ポヴィフロフスキ。彼が西荻窪駅前で奏でたバイオリンの音色は人々の心に届かなかったかもしれない。無視して通り過ぎた人も多くいただろう。それでも彼は今も世界のどこかでバイオリンを弾いている。「音楽をコンサート会場に閉じ込めてはいけない」「音楽とは自由だ」という意思を込めて。

 だが、その演奏に聴き入っていた僕の右手には、見事にパッケージングされたCDという名の商業音楽が、「NO MUSIC NO LIFE」と書かれた黄色く眩しい袋とともにあった。

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 曽我部恵一の00年代の活動は目まぐるしく、そして、一つの日本の音楽界でのメルクマールだったと言っても過言ではない。インディー・レーベルのローズ・レコードの立ち上げ、主宰、新進アーティストの発掘、自らもソロ、バンド形式で多数のライヴ活動をこなしながら、縦横無尽にインディペンデントな形でただ、音楽を少しでも多くの人たちへ届けようという意志だけに支えられているかの様な佇まいで駆け抜けながら、日記で見せる父親としての穏やかな佇まい、全てがとても魅力的だった。

 ただ、僕にはその魅力的過ぎる部分を些か引いて見てしまう事も多かったのは確かだ。何故ならば、フェスで曽我部恵一BANDとしてファストなアレンジで汗を掻きながら、髪を振り乱し、「青春狂走曲」をシャウトして、コール・アンド・レスポンスする場に乗れなくなっている自分のシニシズムと単なる年齢がいったという問題もあったのかもしれないし、単純に彼の生真面目さを対象化してしまう自分の在り方を恥じていたのかもしれない。それでも、まだサニーデイ・サービス解散後のソロとしても模索していた時期の梅田のタワー・レコードのインストアのライヴで来られた時にちらっと話した際のその温和な語り口と笑顔にも救われ、拙いながらも、以前、ローズ・レコード所属のランタン・パレードのレビューもロッキング・オン・ジャパンという雑誌に書いた事があったり、ほぼ彼を巡る関係の音源は集めていたこの10年程だったが、そこまで「聴き込む」熱心なリスナーではなかったし、積極的にライヴに足を運ぶ類の人間ではなかった。

 ただ、今回、サニーデイ・サービスが8年振りに08年のライジングサン・ロック・フェスティバルで再結成ライヴを行ない、作品としては10年振りとなるアルバムを出すというアナウンスを聞いた時、何だか胸がざわめいた。

 今のサニーデイ・サービス。40歳を前にした「若者たち」が描く青い世界観というのは想像出来なかったのもあるし、だからこそ、極力、映像も現場も含めて、今回のサニーデイ・サービスを巡る場所を迂回しようとした。「フジロック・フェスティバルの演奏が最高だったよ」、「新曲、良いよ」と、それでも、色んな声は聞こえてきていたが、アルバムを聴いてから、ちゃんとジャッジしようと思った。

 そもそも、僕の個人的な体験と照応するならば、サニーデイ・サービスというバンドに触れたのは94年の『コズミック・ヒッピーEP』だった。渋谷系文脈で、大阪のHMVでふと買ったのだったが、正直、フリッパーズ以降の温度を継承した大学生的なバンドのアマチュア的なムードが充満していて、それはその頃の日本の音楽界隈のバブルさと比例して、僕には「誰でも音楽が出来る時代なのだな」という印象論をもたらせてくれるもの以外、特別なものはなかった。その評価が変わってくるのは95年の『若者たち』以降のとても透徹としたプロフェッショナリズムに裏付けされた作品群だった。また、ライヴで観る彼等の相変わらずヘロヘロでローファイで、その「らしさ」と70年代的なフォーク文脈を再解釈して現在進行形でどんどん舵を切っていく様には、興奮も感動もしたし、「自分語り」だらけの音楽が溢れる中で、決してそれをしない「風景描写の巧みさ」にも皮膚感覚が合った。

 90年代の彼等の活動と僕の青春時代は重なっていて、大学受験の時は97年の彼岸的な『愛と笑いの夜』を聴いていたし、大学に入って鬱屈していた時は98年の『24時』のドロドロとした雰囲気に同一化出来たし、99年の『MUGEN』は大学を辞めるかどうか悩んでいた頃の大学図書館でよく聴いていた。周囲がオウムやドラゴン・アッシュや小林よしのり辺りの「大文字」に感性が回収されていく中、僕も抗う事は出来なかったが、サニーデイ・サービスの「小文字」にはいつも助けられた。「あることは、つまり、ないんだよ」、という徹底した透徹とした音像とメロウネスと混沌。そして、バレアリックに打ち込みを入れた00年の『LOVE ALBUM』という記号を投げかけるように、その流れで解散してしまった。

 余計な話になった。但し、そんな文脈で、ある種、「サニーデイ・サービス」という記号に私的にはオブセッシヴなものがあるので、新作も最初は封を切るのが怖かった。「今更、どんな音鳴らすのだろう」という懐疑の念と「90年代が甦るのは嫌だな」というトラウマ的な感情の相克。でも、一曲目のカウントを数える声と、その後に響くもたつくリズムと相変わらずセンチメンタル過ぎる歌詞、曽我部氏のメロウネスを極めた声を聴いた時、不覚にも泣いてしまった。「今のサニーデイ・サービス」がそこにあって、ちゃんと歳がいっていて、でも、全く変わってなくて、ラヴィン・スピーンフルやバッファロー・スプリングフィールドやニール・ヤング、勿論、はっぴぃえんども含めてフォーキーなサウンドを鳴らすバンドやアーティストを参照ベースにしながら、アナログな音質でコンパクトに10曲が纏められている。一発録音的なノリもあって、ウェルメイドな作品ではないし、曲によってはクオリティのムラがあるのは確かだ。

 でも、サニーデイ・サービス内でしか見せない曽我部氏の「情景描写の巧みさ」や丸山氏のアタックが弱めのドラム、田中氏のベースラインは何とも言えない透明度がある。その生々しさが僕は堪らなくなってしまって、思わず過去のサニーデイ・サービスのアルバムを聴き返すような日々を送る事になった。このアルバムは出来るだけ多くの大人に、そして、多くのユースに聴いて欲しいと素直に思った。前者は「もう音楽なんて」と生活に追われている中で、ふとこの音が日常を優しく持ち上げてくれるかもしれないよ、というささやかな祈念と、後者はソカバン系譜で知っていたとしても、曽我部氏のこういった優美な面はあるんだよ、というのを知ると、セカイ系やら絶望的な何か、を回避出来るかもしれない、という個人的な想いがある。

 本日は晴天なり。

 でも、晴れの日に傘を差していても全然いいんだ、本当は。

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 ティム・バートン×ジョニー・デップ×不思議の国のアリス、ときたらヒットしないわけがない! という話題の映画『アリス・イン・ワンダーランド』のインスパイア・アルバム。

 映画からインスピレーションを得て全アーティストが新曲を提供したもので、一見若者に人気があるイマドキのバンドばかり...に見えるのだが、なんといっても目玉は9曲目、ザ・キュアーのロバート・スミス! 彼がカバーした「Very Good Advice」はディズニー映画『不思議の国のアリス』のテーマソングで、なんとも彼らしいファンタジックな仕上がり。ロバート・スミスという名前があるだけで、アリスの世界がより一層美しく妖艶に思えてくるから不思議だ。そしてこの顔ぶれに意外なもう1組がフランツ・フェルディナンド。フランツとティム・バートンという未知数の組み合わせから生み出されたのはダーク・ファンタジーの世界。イマジネーションを掻き立て、物語へと誘っていく表現力はさすが。モーション・シティ・サウンドトラックの参加は映画やコミック好きを公言しているだけあって大いに納得。活動休止中であるフォール・アウト・ボーイのピート・ウエンツ+昨年活動を再開したブリンク182のマーク・ホッパスといったコンピレーションならではの取り合わせや、オール・アメリカン・リジェクツの「The Poison」のようなしっとりと聴かせる良作があったりと、若者向けと敬遠するにはもったいない内容。もちろん、今のシーンで活躍しているバンドを知りたいという人には、言うまでもなくオススメです。

 意外にもミドル~スローテンポの楽曲が多く、その辺から映画のイメージも湧いてくる。それぞれにとっての「ワンダーランド」が綴られた歌詞も、まるで短編集を読むようで面白い。

 このオムニバスとは別に、劇中で使われているダニー・エルフマンの楽曲は『アリス・イン・ワンダーランド オリジナル・サウンドトラック』として発売中。

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 5曲入り約15分の前々作『シフォン主義』、9曲入り約33分の前作『ハイファイ新書』につづいて、今回は11曲入り約40分。こういった言い方自体古いような気もするが、「初のフル・アルバム」みたいな表現も可能だろう。実際それだけの充実作となった。

 ローファイなバンド・サウンドの『シフォン主義』が話題になりはじめたころ初めて見たライヴで、リズム隊の生みだすしなやかなリズムに感銘を受けた。それゆえ『ハイファイ新書』における「歪んだAOR」的サウンドも自然な成長に思えた。そして今回、ある種の違和感やスポンティニアス性を内包したままのソフィスティケーションはさらに進み、最も魅力的だったときの歌謡曲がこの10年代にまだ(普通に)棲息していたかのような錯覚さえ覚える。

 やくしまるえつこのヴォーカルも、ずいぶん印象が変わった。まだ子どもっぽさを感じさせた1作目の衝撃から、よりアニメ度(そんな言葉あるのか?)の強まった2作目をへて、これまでになく人間っぽい。エキセントリック「ではない」、通常の会話に近い部分の発声方法が、新鮮な衝撃。以前とは明らかにレベルが異なる。一抹の「二次元性」もしくは、ある種のアンドロイドっぽさとそれの併存ぶりは、アリソン・スタットン(ヤング・マーブル・ジャイアンツ~ ウィークエンド。ぼくの最も好きな女性ヴォーカリスト)さえ想起させる。

 数ヶ月前に、ツイッターを始めて以来、もともと曖昧な部分もあると感じていた「機械と人間の境界線」が、ぼくの中で、またさらにぼやけてきた。この新しいコミュニケーション・ツールは、普段の生活の中にも無数に存在しているシンクロニシティを顕在化させる。そういった状況に、このアルバム・タイトルは (そして、それが象徴する内容も)よく似合う。

 資本主義ではなく『シフォン主義』を唱える相対性理論というバンドのファースト・(ミニ・)アルバム冒頭曲は(ウルトラ警備隊ではなく)「スマトラ警備隊」。長めのイントロのあと「やってきた恐竜、街破壊」とか、女子が歌いだす。おそろしく今っぽい、そしてSF的な体験だった。未来が見てみたい、と思った。そこで抱いた期待を裏切らないどころか、さらなる驚きが、この新作にはある。

 前作も前々作も、実はデータのみで所有していた。『ハイファイ新書』を聴いて、意外に早く限界が来るかも? などと醒めた見方になってしまった部分もあり(すみません...)今回どうしようか迷った。でも、このアートワークを事前に見て、思わずCDを買ってしまった (個人的な話で申し訳ないのだが、これ、うんこ次郎先生のマンガにしんくろにしてぃーん! みたいな...。ちなみに、うんこ次郎先生とは、初期クッキーシーンに連載してくれていた人です)。そうしたら、あまりに良くて、つい前2作もCDで買い直してしまった。また、もう少し未来をのぞいてみたい、そんな気分で。

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雨の中、傘を差さずに踊る人間が居たっていい。それが自由というものだ。(ロジャー・スミス)
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 今回の新作に際してのインタビューで、彼がセオ・パリッシュ、ドナ・サマー、ジョージ・デュークへの愛慕の念を示していたのが僕は一番、興味深かった。というのも、兎に角、シリアスなイメージが常に纏っていたフライング・ロータスの存在を今、再解釈するのに良い文脈かもしれないと思ったからだ。

「ディスコ」の起源は第二次世界大戦にまで遡らないといけない。

 戦争の激化に伴い、バンド演奏の生演奏が不可能となったフランスのナイトクラブで、しかたなく演奏の変わりにレコードを掛けて踊るようになったのが発祥と言われている。そもそも、「ディスコ」という言葉もフランス語のdiscotheque(レコード置き場)の短縮形であり、生演奏の代替物として発生したディスコも、生演奏よりも曲を「客に合わせて再生できる」というメリットが受けて、第二次世界大戦後のパリに「ラ・ディスコティーク」というクラブが開店したことでフランスに新しいディスコというカルチャーが定着する。

 そして、生バンドの代わりにスピンされるレコードの価値が本格的に世界的なブレークの契機になるのは60年代のアメリカのゲイ・シーンである。ヒスパニック、黒人層、移民達のマイノリティの磁場が熱狂的に支持をするが、その背景には彼等のアンテナの鋭度が流行曲、大衆歌を越えて、世界中の音楽、特にブラック・ミュージックのソウル、ファンク、のバネの強さに反応して、ダンスの機能性と共振した結果、ユース・カルチャーと根付いていき、クールでファッショナブルな場所として様々なディスコ・クラブを産む。有名なものではパラダイス・ガラージ、フラミンゴ、ギャラリーだろうか。特に、パラダイス・ガラージにおけるDJのラリー・レヴァンの影響力は大きかった。単純にレコードをスピンさせて、原曲で踊らせるという形式からオリジナルなテイストを組み込むこと、二枚のレコードを繋げてミックスして流す所作、クラブ向けの12cmのヴァイナルといったものも広まっていくことになる。そして、60年代の、まだ黒人差別やゲイ・カルチャーへの偏見が根強かったアメリカにおいて、カウンター・カルチャーとして有為に機能した。

 70年代に入り、伝説の番組『SOUL TRAIN』をして、トライヴや垣根を越えて、アメリカでブームが起きる。このディスコ・ブームと呼ばれるものは元々のディスコが内包していた強度を漂白して、商業化への波へと舵を切る事になり、各国に輸入されたものはこの時のブームの要素が強く、マイノリティやゲイ・カルチャーへの目配せというよりは、もう少し「表層」的な部分も含意していた。
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 そして、表層から深層、深層から実相、実相から空洞へ。

「空洞」の中に、際限なく多種多様な文化的産物から派生したドローン音が響く現代で、こういった文化的背景を踏まえて、フライング・ロータスことスティーヴン・エリスンの2年振りの新作『Cosmogramma』(Cosmo+Gramma、宇宙+原理)への解析をすると面白い。この作品が表象する、こんがらがった「小宇宙的世界観」はサン・ラー、ファラオ・サンダース、ジョン・コルトレーン辺りの「それ」(例えば、コルトレーンで言えば、『LOVE SUPREME』的)なものでもあるが、これは希釈化されたビート・ミュージックの「カウンターへの、カウンター」が「内在化されている」という意味では仄かな深度がある。精神的な「何か」を希求する為の意志的なビートとアタック感、そこで脊髄反射されるクールなモダンネスとスキゾ性。スティーヴ・ブラナー、レベッカ・ラフ、ミゲル・アットウッド・フォーガソンと多くの面で組みながら、ヒップホップ、電子ノイズ、グリッチ音、テクノ、ゴスペル風コーラス、ダブ・ステップ、ガラージ、エレクトロニカがハイブリッドに撹拌され、マッシュアップされた上で、「46分のボードリヤール以後の、ナラティヴ」としても捉えても良いだろう中で繰り広げられるマッシヴな音像は「均質と差異」を行き来しながら、微妙にサウンド・レイヤーをずれていく構造を更に対象化していく。
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 この音像の混沌たる「美意識」が示す、「気高きマイノリティをスイングさせる」強度は時代を越えて、ラリー・レヴァンのスピンしたレコード群に混じりながら、確実にフロアを上気せしめるかもしれない。J・ディラ、エイフェックス・ツイン、インドープサイキックス、今回のトム・ヨーク客演などの「外部」要素は越えて、この作品は「内部」に潜航していきながら、「内部の<内部性>」から外部的な道筋に快楽をセットインする。そういう意味では、マルチチュード的な佇まいもある。
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 想うに、ビート・ミュージック系のハイエンドな音に触れるということは「現実の退路を断たれる」意味さえも孕む気がする。(エレクトロ・)ビートの先にアルコール、ドラッグやささやかなこの瞬間の永続性を願う祈念や等が待備せしめる瞬間、クラウドの総てが万能になるの「ではなく」、観念の肥大にダンスが、ステップが追いついていかないもどかしさ、とそこにカットインされる「大文字のセンチメント」が前景化するのが常だからだ。そこが今におけるダフト・パンク、ジャスティス的なものの「デッドエンド感」やWARP勢にしても時折、ちらつく悪しき選民主義もサジェストしたとも言える。WARPという事で言えば、新世代的なビート・メイカーのクラークやハドソン・モホークが畳みかける判り易い変拍子、歪みは個々の生体リズムに仮託(マップ)されて、「不自由」な刻みでヘドニズムを感応することができる導線は敷いたが、複層性は無かったように。

 そんな中で、フライング・ロータスとはコルトレーンの甥という出自もあるのか、この(非自覚的だろう)「浅さ」を逆手に取ったドープさの先に見える、「終わりの中での、始まり」への意識をビートに乗せて、その位相をスライドさせるのが巧みだ。しかも、それがオーディエンスの自意識の「ソト」でちゃんと響くようにセッション的に乱雑に音を「畳みかける」ので、音像への同一化の余地を許さない代わりに、音楽の「音」自体への耳の反応を鋭角化させる。
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 ほんの少し前、ポスト・パンクやニューレイヴで酔っていた輝かしい都市生活者、キッズ達のパーティーはクールなブランド服で固められたある種の護られたユニティが出来ていた。並行して、ダブ・ステップやグライムのクラブには「完全に世から離れている」トラッシュ達の咆哮と欲動を感知する事が出来たが、すぐさま「離散」した。だからこそ、今、本当の「外れし者たち」や「メトロポリタン主義者」とは「ディスコ」や「ダンス」にさえ繋がっていないのではないか、と思いさえする。
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 ラリー・レヴァンがソウルやファンクのブラック・ミュージックに並べて、日本の歌謡曲をスピンしたような位相としてスーパーフラット的に、「現代のラリー・レヴァン」が居るとしたならば、皿に真っ先に乗せるレコードはこのフライング・ロータスの新作ではないか、というのは穿った妄想ではないかもしれない。この作品には徹底的な記号的なラジカリズムへの求心的で皮肉な視点と古のスピリチュアル・ジャズへのオマージュ、90年代以降のIDM、エレクトロニカ文化、更には西海岸アンダーグラウンド・ヒップホップへの明確なポスト性がある。

 この作品は決して「郵便的」ではない。IDチェックや管理下の五月蠅い閉ざされたドアを開こうとする真摯な外れし者たちが46分程で、脳内でインナー・トリップする為の入構証のアウラがある。既に戦時下の世界で、2010年代最初の、ハーヴェストと反抗のステイトメント。LAからコスモス、そして、内的宇宙、素粒子レベルに還流して、ウロボロスの蛇のように何もかもが「消失」する点(ヴァニシング・ポイント)の上に、この作品の「真価」が可視化出来る。

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 かつての盟友、ブライアン・イーノとの「再開」を経て作られた感動的なゴスペル・アルバム『Everything That Happens Will Happen Today』、及びトーキング・ヘッズ時代の名曲も含むイーノとの共作曲の数々を斬新な演出とともに披露した一連のライブ・ツアー(昨年の来日公演も鳥肌モノでした)を始め、各所に出ずっぱりな客演なども込みで近年充実した活動を続けているデヴィッド・バーン。

 そんな彼が新たに届けてくれたのは、数年間に渡って構想の練られ続けてきた渾身の力作コンセプト・アルバム。物語の主役はフィリピンで20年に及ぶ独裁を続けたフェルディナンド・マルコス大統領の夫人で、自らも政治介入して辣腕を振るった一方、「3000足の靴」を始め、かのビートルズをブチ切れさせた逸話などその立場を活かした贅沢でやりたい放題なエピソードの数々を誇る悪名高き美女、イメルダ・マルコス。

 ディスコでのナイトクラビングも愛してやまなかった彼女の栄光とその落日までに至る半生と、当時のフィリピンにおけるクラブ・カルチャーの強烈なバイブスに着眼したバーンは、その魅力と妖気をいつもながらの特異な探究心とロマンティシズムでもって追求。数回のライブにおいて試行錯誤を重ねられ熟成したダンス・ミュージックは、現代性と懐古趣味の両方を併せ持ちながらもどこにもなかった音触りで、これまたバーンのキャリアの代名詞ともいえる「フェイク」に満ちている。

 音作りのパートナーはBPA名義の近作でもチャーミングなユーモアを撒き散らしていたファットボーイ・スリムことノーマン・クック。彼の手による洒落と抑制の利いたビートと、気品溢れるガーシュイン風のストリングスを軸に、ディスク2枚組90分に及ぶ物語は進行していく。

「音源ダウンロードが全盛の時代において、どうやったらリスナーにアルバムという記録形態の価値を認められるか腐心した」と述懐するバーンは、物語の担い手としてそれぞれ異なるシンガーを一曲毎に適材適所で配置。

 フローレンス&ザ・マシーンのフローレンス・ウェルチにセイント・ヴィンセントといった若手インディー・シーンの看板娘に、グライム・シーンのヒロインであるサンティゴールド、あのレディ・ガガの奇抜なファッションの元ネタと一部で噂されている元モロコのローシーン・マーフィーや、ゼロ7との共演でも有名なシーア・ファーラーといったかっ飛んだポップセンスを誇る才女たち、B-52'sのケイト・ピアーソンや元10,000マニアックスのナタリー・マーチャント、シンディ・ローパー、トーリ・エイモスといったロック界の生きる伝説から、最近ではエイミー・ワインハウスのバックヴォーカルも務めたシャロン・ジョーンズ、フレンチ・ポップを代表する歌い手カミーユなど、錚々たるメンバーが集結してそれぞれの個性を発揮。バーン自身もお馴染みの伸びやかなヘタウマ声を披露。

 こういったトピックに事欠かない作品でありながら、結果的にはバーンのコンポーサーとしての腕前が話題負けすることのない強度をこのアルバムにもたらしている。長年のインチキ・エスノポップ路線がひとつの結実を果たした2001年作の『Look Into The Eyeball』(余談だが、このアルバムでメキシコの国民的ロックバンド、カフェ・タクーバのルベンと共演している事実は、単独ライブやサマソニでの驚異的なパフォーマンスで日本でも彼らが知られるところとなった今こそ再評価されるべき)辺りから安定して高品質のポップスを作り続けてきたバーンのペンは今作でも冴えわたり、AOR的でもありながら刺激に満ちた独特のバランスを生んでいる。

 ちなみに、アルバム・タイトルの『Here Lies Love』は80歳を迎えますます意気軒高なイメルダ夫人が墓碑銘にと望んでいるフレーズとのこと。数奇な人生を歩んだ彼女の悪びれない美意識がそのエピソードに集約されているようでもあるし、そのフレーズをそのままタイトルに採用してしまうバーンの表現の軸はヘッズ時代から微塵もブレていない。

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 昨年9月、2005年の解散から3年半を経て再始動したゲット・アップ・キッズ(以下TGUK)に会うべく、私は彼らのUSツアーへと向かった。そこでは新曲が演奏され、この活動再開は一時的なものかどうかという懸念は、その瞬間きれいに吹っ飛んだ。その時演奏された「Kieth Case」を含む全4曲入りのEPが、遂に! 6年ぶりに! TGUKの新作としてリリースされる!

 そのツアーで聴いた印象は、4作目『Guilt Show』の雰囲気と近いな、というもので、後に他の収録曲を聴いてもやはり同じことを思った。そしてそれは正しい、と。『Guilt Show』は解散前の最後のオリジナル・アルバムで、つまりは前作にあたる。その前作の延長にある音を出しているということは、今の時代に合わせたものでも、みんなが聴きたいであろうイメージに沿ったものでもなく、彼らの人としての成長と音がリンクしている証であり、それはとても正しい形だと私は思う。TGUKというバンドはいつでも彼ら自身を音楽に投影して来たのであり、5人の密な関わりがなければ保てない絶妙なバランスで成り立っている。3年半の空白期間は、彼らの生活や人生と、音楽、バンドが密であるが故に少しだけ休息が必要だったのであって、仲違いでも音楽性の相違でもない。そして休息はもう終わったのだ!

 新たにレーベルを立ち上げ、12インチ、CDともに限定リリース(itunesでも配信中)というところからも、自分達の望むやり方で活動していこうという意思が感じられ、これからますます等身大の彼らを見せてくれるだろうこと、再び彼らと共に年を重ねていけることが、私は楽しみでたまらない。このEPは、そんな嬉しい再会の1枚。

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 音楽だろうが演劇だろうが、最先端のものは現場で表れる。お笑いに関してもそれは例外ではない。いくつかの主要なお笑い番組が終わり、ブームが終わりつつある(もしくは終わった)と喧伝される今こそ、お笑い好きで行ける環境にある人はライブに足を運んでみてはいかがだろう。テレビにほとんど出ていなくても、自分の信じる面白さを日々観客にぶつけている芸人が沢山いる。

 東京コントメンはシティボーイズ擁するASH&Dという事務所のライブ。新宿の地下にある小劇場で、隔月にひっそりと行われている。ライブ名が表す通り、出演陣は全てコント師。司会がいてそのナビゲーションによって演者がネタを演じるのではなく、ムロツヨシという役者が狂言回しとなっているため、観客の空気が素に戻る時間がない。また、観客もコントを観るという姿勢で臨んでいるために、独特の雰囲気がある。東京のコントは、演じ始めてから設定が明らかになるまでの時間帯が重要なので、コント好きにはその醍醐味が十分に味わえるライブ。お勧めです。

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 例えるならレディオヘッドのヴォーカル、トム・ヨークのソロのように、このアルバムはヴォーカルの音量が大きく、強くフィーチャーされている。シガー・ロスのヴォーカル、ヨンシー・バーギッソンは、別のサイド・プロジェクト"ヨンシー&アレックス"でのフル・アルバム・リリースを経て、遂に満を持してのソロ・デビューと相成った。その作品はシガー・ロスの最新アルバム『残響』でのオープニングのように壮大であり、ポップであり、美しい。むしろ筆者としては『残響』以上にお薦めしたい。何せその世界はリード・シングル「ゴー・ドゥー」だけに留まらない。どの曲も繊細なエレクトロ・サウンドとバンド・サウンドが見事に入り交じって異国のヴィジョンを映し出す。

 聴くほどに思い描かれるアイスランドの自然溢れる景色は、シガー・ロスに決して劣ってなどいない。これが奇跡と呼べるサウンドスケープの歌と光だ。

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 2007年のデビュー・アルバム『Oracular Spectacular』で大きな盛りあがりを見せた彼らだが、次作ではそのセールス・ポテンシャルを無視した「わけのわからない」ものを作るつもり...というアナウンスが昨年流れていた。プロデュースを手がけるのは、アンダーグラウンドにその名をとどろかせるソニック・ブームという情報を聞いたとき、こいつらマジだよ、と...。そしてカヴァー・アートは、モロ、E.A.R.(Experimental Audio Research。ソニック・ブームのユニット)じゃん...と思ったら、そのシングルを手がけたこともある人が、そのままやってるらしい。これは、さぞ、ぐしゃぐしゃな音楽になってるに違いないと、おそるおそる聴いてみたところ、驚いた! これは、もう、むちゃくちゃポップじゃないですか!

 もちろんヘンな音はたくさん入ってるし、ヒット・チャート・シングルを聞き流すだけという人がそう感じるかどうかはよくわからないのだが、そうではないものを普通に聴いてる耳であれば、躁病的かつドリーミーな世界に横たわるポップ性に、まずはうっとりしてしまうはず。

 ロック・スター、ロック・ヒーローに対して痛切な皮肉をかませつつ、彼ら自身がそれになってしまいそう...そんなアンビバレンツな魅力が『Oracular Spectacular』には、あった。しかし、この『Congratulations』では、それが徹底的に排除されているような印象さえ受ける。パワフルかつ骨太ととらえられかねない要素を避け、わざと軟弱であろうとしているかのごとき、確信犯的ふにゃふにゃぶり。

 最初に聴いたとき頭に浮かんだのは、今や日本ではいくぶん形骸化してしまった印象もある、ギター・ポップとかインディー・ポップという言葉。90年代後半のエレファント6系とかも思い出した(そういえば、エレファント6系と日本でシンクロしていたコーネリアスの最初のUSツアーは、フレーミング・リップスが企画したものだったけど、その前半にはソニック・ブームも出演していたんだっけ...)。だから、フリッパーズ・ギターを思い出すという意見にも納得がいったのだが、いや、それ以上に、プライマル・スクリームの『Sonic Flower Groove』! あくまで、ノリとして。

 レコード・デビュー前は、PILやスロビング・グリッスルなどに通じるノイジーな音楽をやっていたプライマル・スクリームだが、クリエイションからレコード・デビューしたときには(わざと軟弱であろうとしているかのごとき)ドリーミーなポップ・バンドに変容を遂げていた。その集大成が『Sonic Flower Groove』。MGMTの人も好きらしい(そしてベル・アンド・セバスチャンのスチュワートも好きだった)フェルトのキーボード奏者も、5人目のメンバー的に参加していた。プロデューサーがサイケデリックの大御所メイヨ・トンプソンだったことも、『Congratulations』におけるソニック・ブームの起用と、妙にかぶってしまう。

 こう考えると、「Song For Dan Treacy」という曲の存在にも合点がいく。プライマル・スクリームの音楽仲間であったアラン・マッギーがクリエイション・レコーズを始めたとき、なにより憧れていたのはダン・トレイシー、そして彼率いるテレヴィジョン・パーソナリティーズだった。

 ネオ・モッズの始祖のひとつ(どちらかとえば、そこから派生したザ・タイムスの方がそれっぽいけど)でもあり、ポスト・パンク・インディーを代表する存在(「Part Time Punks」は本当に名曲!)。「I Know Where Syd Barrett Lives」という曲も当時話題になっていた(ダンは、どうやら本当にストーカー的にシド・バレットの住所を調べていたらしい。ピンク・フロイドの前座に起用されたとき聴衆の前でそれを披露して、翌日からツアーを追いだされたという...)。ワーム!というインディー・レーベルを主宰し、話題になりかけた頃、ワム!がデビューすることになった。ダンは彼らのレーベルだかマネジメントだかに大金をもらって、レーベルの名前を変えた。それはそれでよかったのだが、そのお金で大量にドラッグを入手、それ以来ひどい中毒になってしまった(と、テレヴィジョン・パーソナリティーズのオリジナル・メンバーであり、ザ・タイムスを始めたエドワード・ボールに聞いた)。そして、なにより、オレンジ・ジュースと並ぶD.I.Y.ポップのゴッドファーザーとして、現在も多くの人たちに敬愛されている。

 こういった文脈で、このアルバムをとらえないのは、明らかに片手落ちではないか?

「Brian Eno」という曲もたしかに入っている。それも「アンビエント・ミュージック」を提唱する以前、ロキシー・ミュージック在籍時から70年代なかば頃までの彼が得意としていた狂騒的ポップ・センスを思い出せば、なんの不自然さもない。「Siberian Breaks」というタイトルで長い曲をやっているところは、イエスの「Siberian Khatru」を思い出す...というのはウソ...ともあながち言い切れないが、それより、やはりビーチ・ボーイズだろう。幻の『Smile』がもし完成していたら...。いや、サーフィンは終わった(Surf's Up)。プライマル・スクリームが、シングルB面で故デニス・ウィルソンの曲をカヴァーしていた、などということが、またもや頭をよぎる。

 収録曲中、最もソニック・ブームのイメージに近い「Lady Dada's  Nightmare」は、レディ・ガガを意識した曲だという噂も聞いた。彼ら、意外に(?)レディ・ガガも嫌いではなさそうだが(ちなみに、ぼくは嫌いじゃない)、彼女に「勝とう」などとは、夢にも思っていないだろう。どうして、彼女と競わなくちゃいけないの? まったく違う場所にいるのに(笑)。

 変な逆エリート意識とか、選民主義ではない。そうなってしまう、もしくは、そうせざるをえない(それしかできない)のだ。

 クッキーシーンのモットーは、always pop and alternative。「オルタナティヴを目的化している」などと、見当外れの後ろ指をさされることも少なくない。そんなとき、ぼくはこう思う。ああ、この人はけっきょく「大きな物語」しか認めないんだな、と。そして、ロック的な「大きな物語」を、まずはあえて回避したようなこのアルバムに、限りないシンパシーを覚える。