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シャムキャッツ『AFTER HOURS』.jpg

 エイドリアン・トミネという作家がいる。日系アメリカ人である彼は、グラフィック・ノヴェルと呼ばれる作品をいくつも発表し、過去にはウィーザーのツアー・ポスターも手掛けるなど、音楽ファンにも馴染みのある名前だろう。彼の真骨頂は、淡々とストーリーを進めながら、テンポの良い会話によって読者が共感できる日常的風景を描き出すところにある。一読しただけではすべてを理解できないが、ゆえに読者は好奇心をくすぐられ、何度も読んでしまう。


 そんなトミネの作品と類似する雰囲気が、シャムキャッツの最新作『AFTER HOURS』にも漂う(そういえば、ジャケのデザインもトミネのタッチを想起させる)。前作『たからじま』が衝動にまかせた作品だったのに対し、本作は彼らの成熟を窺える内容だ。アズテック・カメラやオレンジ・ジュースといった、いわゆる "ネオ・アコースティック" の要素を醸し出すサウンドが印象的。アルバムが進むにつれてサイケデリックな色合いが表れるのも面白い。アレンジのヴァリエーションも豊富で、テンションの押し引きも巧み。なんだが、人生経験を積んだ大人相手に会話しているような気分にさせられる。そういった意味で本作は、ストレートな部分が影を潜め、シニカルで鳥瞰的な視点が以前にも増して目立つ作品とも言える。だが、そうした作風が感情の機微を描写することに繋がっているのだから、ここは素直に拍手喝采すべきだろう。


 歌詞のほうも秀逸だ。ドライバーの若者、裁判官、そしてカップルなどなど、本作には多くの登場人物が存在し、それぞれ違った物語を持ちながらも、その数だけドラマがあるという事実に思わずホロリとしてしまう。こうした昂りを得られるのは、『AFTER HOURS』からの先行シングル「MODELS」を経て本作がリリースされたことも大きな要因だ。というのも、このシングルには「MODELS」の他に、3.11以降の日本をユーモアたっぷりに歌う「象さん」、そして人の持つ陰陽をすべて受け入れるかのような「どっちでもE」が収められているからだ。もちろん、本作は独立した作品として楽しめるクオリティーを備えるが、「象さん」と「どっちでもE」を通過したうえで本作に入り込んでみると、より多彩な世界観が目の前に現れる。それこそ "After Hours" 、いわば "その後" を生きる私たちと共振する世界。


 また、「象さん」を事前に発表したのは、彼らにとって大事なことをうやむやにしないよう細心の注意をはらったからではないか? 本作は "音楽の力" を確かに宿しているが、時としてその力は人を盲目にし、向かい合うべき問題を曖昧にする。そうした危険性に陥ることを避けるため、《あの地震後浦安は 人が寄り付かぬ土地になり》《放射能浴びまくり 代々巨大化を繰り返し》といったフレーズが登場する「象さん」を彼らは作り上げたのかもしれない。このあたりはシャムキャッツの成長とクレバーさを感じさせる。さらにこのクレバーさは、どこにでもありそうなカップルの日常や生活を描くだけで "今" を表すことができるという姿勢にも行き着いている。言ってみれば、分かりやすい政治的スローガンを盛り込まなくても、目の前の風景を歌えば自然と "今" が浮かび上がってくるという気づき。だからこそ本作は、音楽的であると同時にどこか映画的であり、もっと言えばドキュメンタリーのようでもある。それゆえ繰り返し聴きたくなる味わい深さを持つ。


 聴いて楽しめる作品はたくさんある。しかし聴いて励まされる作品はそうそうない。だが、そうそうない作品こそが "傑作" と呼ばれるのだ。『AFTER HOURS』は、そう呼ばれるに相応しいアルバムである



(近藤真弥)

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Metronomy love letter.jpg

 はるか過去に書かれた未来小説、あるいは全てが終わった後の静けさ。メトロノミー4枚目のアルバムである本作から私が受けた印象だ。


 2000年代後半、クラクソンズとの交流からニュー・レイヴの文脈で注目された彼らは、しかし当時のシーンから背を向け、80年代的なシンプルなアナログ・センセの音色を用いて極上のソウル・アルバム『Nights Out』を作り上げた。次作3作目『English Riviera』では70年代ウエスト・コースト・サウンド志向を加え、本作でも60年代ガールズ・ポップ風から、雅楽、教会音楽を思わせるような曲まで様々だ。最新技術を用いて時代を遡っていく、まるでタイムマシンのようなユニット。ニュー・レイヴが「ニュー」でなくなり、当時のアクトの多くが精彩を失い苦境に立たされている今、むしろ彼らの音は洗練され、存在感を増している。


 表題曲「Love letters」は、2台のシンセサイザーとベース、ドラム。それに女性コーラス隊とともに演奏される。フロント・マンであるジョセフ・マウントは痛切な表情で絞り出すように歌う。繰り返されるフレーズは「僕はラヴ・レターを書き続ける」。決して届くことのない、読まれることのない手紙。それでも彼は強迫的に歌い続ける。記憶のなかで生きる、誰よりも素敵な君へ向けて。


 リード・シングル「I'm Aquarius(みずがめ座)」や終盤の「Reservoir(貯水池)」など、水に関連した曲が多いが、後半の1曲「The Most Immaculate Haircut」はその流れのなかでも一際、興味深い。曲の中盤、間奏がフェイド・アウトして、単調な虫の音や何かが水に飛び込む音がする。官能的なファルセットのヴォーカルと相まって、性的なイメージを喚起する。


 そういった強烈なインパクトを残す曲がある一方で、全体を通して聴くと、昼寝に最適というか、皿洗いのBGMになるというか、つまり邪魔にならない。かつて栄華を誇った王国、その宮殿の廃墟で流れているような音楽。その王国の名前は、かつてオブザーヴァー紙が提唱した、ニュー・エキセントリックというやつかもしれない。


 思えばメトロノミーはデビュー当初から一貫して、同様のフィーリングの音を鳴らしていた。簡素でスマート。一音一音のアナログな響きを大切にしながら、少しずつ過去に学び、伝統的な衣装を身に着けていく。時代の残骸から離れ、一歩一歩着実に進んでいく。逆説的だが、過去への旅は、時に未来へとつながるのだ。




(森豊和)



【編集部注】『Love Letters』の国内盤は3月26日リリース予定です。

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石橋英子『car and freezer』.jpg

 異国人同士でも片言で分かり合えることがある。言葉の交換が成立していなかったとしても、音楽を介して深い共通理解が生じることがある。


 本作はジム・オルークの手による録音だが、2ヶ月前には彼と山本達久、そして石橋の3人による即興ユニット、カフカ鼾としても作品を発表している。笛の音のようなジムのシンセ・サウンドと、手数を抑えた和太鼓のような山本のドラミングが、石橋の弾くピアノと溶け合い、緊張感と共に不思議なカタルシスを生み出す。日本の古い神事で演奏される音楽のよう。


 本作『car and freezer』は変わって歌モノだ。本人による英詞で歌った盤と前野健太による別解釈の日本語詞を歌った盤の2枚から成る。前野による日本語詞に触発されてか、呟くようで一転、跳ねるように伸びやかに歌われるヴォーカルは今までになく自由だ。演奏ともども堅苦しい音楽理論から解き放たれている。そして二通りの歌詞があることで、なおさら演奏全体から意味を感じ取るよう我々に仕向ける。


 目の前の人間が語っていることが全て本当であるはずがない。誰だって意図的に嘘をつくし無意識に隠蔽することもある。音楽は嘘をつかない。どんなに美辞麗句を並べて歌い演奏しても、奏者に本当の気持ちがなかったら、白々しく平坦でむなしいだけだ。その点、この作品はとても誠実で胸に迫るものがある。ピアノやストリングス、管楽器から匂うジャズやクラシックの素養、元PANICSMILE(パニックスマイル)のドラマーである彼女のノー・ウェイヴなリズム感覚、決して大衆的な感覚ではない。分かりやすさを追求して化学調味料漬けのファスト・フードみたいな音楽でもない。しかし、ある一人の女性の物語、彼女の周囲の人々の息遣い、それをリアルに伝えるという意味で超弩級にポップだ。


 気持ちを単純化して歌詞は同じフレーズの使いまわし、一聴での分かりやすさを追求してアレンジはどぎついマスカラみたい、それじゃ何も伝わらない。前衛とは、他の誰でもない、この世界でただ一人の、自らのアイデンティティーを確認するための最も誠実な在り方の一つだ。石橋英子の音楽から、私はしばしば少女の瞳を想起する。強い意思を宿したそれは、しっかりと我々を見据える。少女は異世界を彷徨っている。年端もいかない子どもたちにとって日常はすべて冒険だ。石橋の音楽はそのことを我々に思い出させる。そしてこのアルバムを聴き終える頃には、少女はこの世界で居場所を見出す。



(森豊和)

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fruity.jpg

 kush in the air,kush in the air,kush in the air...


 FRUITY(フルーティー)の作る曲は、スカしてて、利口で、生意気で、器用で、口を開けば嫌味ばかりで、人を馬鹿にしてて、カッコつけてて、ドライで、冷淡で、横柄で、自信たっぷりで、シニカルで、尻尾をつかませなくて、不遜な態度をキメ込んでて、洒落てて、計算高くて、斜に構えてて、髪は七三に分かれてて...。そんな聴こえをしてる。


 実はFRUITYのサウンドクラウドにあがってる「No War」に歌をつけてみようと思ったことがあったんだけど、全然うまくいかなかった。その後、正式にリミックス用にいろいろデータをもらったんだけど、どの曲も聴いた瞬間にオレが歌詞をのせたりできるような余地が全くないってことが分かったよマイメーン。音数が少なくて派手な感じがないくせに、隙がなくて揚げ足を取りづらい造りっていうか。とにかく "嫌なヤツ" が作ってる音楽ってことは確かだぜ。


 FRUITYと話してたら「そいつの作ってる音楽がヤバいかどうかよりも、そいつのコミュニティーがヤバいかどうかが大事」って話題になって、Weezy(ウィージー)やBoogieMann(ブギーマン)擁する《SHINKARON》のことも話してた。


 そもそもシカゴ・ハウスやジュークを好んで聴くようになったのもジュークのパーティーに行くようになったからで。そこに行くとだいたいいつも同じヤツらがムサ苦しくたまってて、飽きもせずシカゴ産のフットワークで盛り上がってる。そこにはそのコミュニティー独自のアンセムや情報が渦巻いてて、メインストリームの流行には左右されない興奮があるんだよ。


 若い女の子が華奢で汚れを知らない綺麗な指で針を落とす「French Kiss」に猛烈にシラけながら、やっぱあれをフラストレーションなく回してくれるのは30過ぎたおっさんか、女ならグローカル・プッシーズか、とボンヤリ考えながらペイズリーパークスのライヴが始まるのを待ってたのはもう随分前のことだ。そんなヤツばっかだからジュークのパーティーにはジャンキーとおっさんしか来ないわけなんだけど。


 そんなわけで、『LET DA MUSIK TALK』はコミュニティー・ミュージックだ。これをヤバがってるヤツはクラブのデカいスピーカーでジュークを聴いた経験が幾度となくあるだろうし、Battle TrainやHigh&LowやShin-jukeに足を運んでるヤツらだ。「Everynight(FRUITY Remix)」の48秒のところのブレイク直後にフロアが歓喜する瞬間を想像できるヤツらだ。「Sex On Da B****」や「No War」を聴きながら、夜を迎える強烈な期待と、どうしようもなく哀愁を感じてしまうヤツらだ。


 『LET DA MUSIK TALK』はジュークに興味を持って最初に聴くようなビギナー向けの音源じゃない。テクノと呼ぶには快楽性に欠け、ヒップホップと呼ぶにはエンタメ性に欠ける、こんなにも華麗でフィジカルを求めるジュークの面白さをお前らは楽しむことができないだろ?


 去年来日したRPブーが「シカゴでは失われたものが日本のシーンには存在している」と語ったとされているけど、それを最も体現してたのがRPブー来日時のShin-jukeでのFRUITYのプレイだったわけ。FRUITYがフットワーク・クラシックスを繋いでいくなか、熱狂とともにできあがったサークルの内側で観客が次々とフットワークをキメていくあの光景は、2012年にトラックスマン来日したときにはまだ存在していなかったものだし、これは日本のジューク・シーンが過去のシカゴを模倣しつつドメスティックな発展を遂げてる確かな証拠さ。


 シカゴには夕闇が訪れた頃、日本ではまた新たな夜が始まる。『LET DA MUSIK TALK』はそれを知らせる確かな一枚で、今夜もオレたちはこれを聴きながらバビロンを徘徊するんだよ。



(浅見北斗)

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NATURE DANGER GANG『THE BEST OF NDG NONSTOP MEGAMIX』.jpg

 以前クッキーシーンでもレヴューしたLes ANARCHO(レ・アナーコ)「OKANE WO MOYASOU」を筆頭に、現在の《オモチレコード》は面白い作品を数多くカタログに並べている。こうした《オモチレコード》周辺の音楽やイヴェントに触れると、かつてのナゴム周辺もこんな感じだったのだろうかと想ったりもする。もちろん、88年生まれの筆者は、親にナゴム関連の作品を聴かせられた後追いだから、あくまで想像に過ぎないのだが・・・。ただ、そんな想像をさせるくらいに、現在の《オモチレコード》周辺は面白いというのは本当の話。


 さて、そんな《オモチレコード》が新たに放った刺客こそ、『THE BEST OF NDG NONSTOP MEGAMIX』を発表したNATURE DANGER GANG(ネイチャー・デンジャー・ギャング)である。2013年に結成されたばかりで、今もっとも面白いバンドのひとつ。バンド、と書いてはみたものの、ライヴによって参加メンバーが異なり、正式な構成はいまだハッキリしていない。それでも、瞬く間に観客を驚かせ、熱狂の渦に巻き込むということに変わりはない。全盛期のとんねるずがそうしたように、NATURE DANGER GANGもまた、"演者と受け手(聴き手)"という枠組みを破壊する。珍しいもの観たさで彼らのライヴに行くスカした表情の観客も、彼らの音楽を前にすればその表情を崩すはめになる。ピクリともせずに、終始腕組みしてるだけのインテリ気取りなど吹き飛ばしてしまえ!、と言わんばかりの膨大なエネルギーを彼らは抱えているのだから。


 とはいえ、ただのキワモノバンドではないのもNATURE DANGER GANGの面白いところ。彼らの音楽は実に多くの要素で彩られており、ジュークなどのベース・ミュージックや90年代初頭のレイヴ、それからパンクの精神も窺える。これらが持つ享楽的側面だけを抽出し溶解させた結果、NATURE DANGER GANGのハチャメチャな音楽は生まれる。


 その音楽は、いわゆる"スカム"と呼ばれるものかもしれないが、NATURE DANGER GANGの音楽には "スカム" にありがちな排他的雰囲気がまったくない。本当の意味で、誰もがコミットでき誰もが楽しめる音楽を彼らは鳴らしている。そこに打算的な思惑を持ち込まないのも実に愉快。理性では到底たどり着けない音楽というのは確かに存在するのだ。



(近藤真弥)

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Rainer Veil「New Brutalism」.jpeg

 チルウェイヴは過剰なリヴァーブで埋め尽くされたサウンドスケープを描き、《Telefuture》などを中心とした80'sエレ・ポップ色が強いシンセウェイヴの潮流は、ソニーのビデオデッキの名を掲げたベータマックスがそうだったように、人が持つノスタルジックな感情を抽出しそれをロマンティックなディスコに変換した。


 一方で、ロマンティシズムを排除していったのが、昨今のインダストリアル・ブームだ。アンディー・ストット『Luxury Problems』などはロマンとリアリズムが入り雑じっていたものの、このアルバム以降に生まれたインダストリアルと呼ばれる作品のほとんどは、無機質でリアリスティックな方向性を見せてきた。パーク『The Power And The Glory』のように、現実世界に対する明確なリアクションを示すインダストリアル作品も生まれるなど、現実を反映する度合いは徐々に高まっている。


 そんななか、ライナー・ヴェールの「New Brutalism」というEPが世に解き放たれた。既にお気づきかもしれないが、タイトルは1950年代に現れた建築形式ニュー・ブルータリズム(New Brutalism)が元ネタである。この形式には、素材をできる限りそのまま生かそうという理念があり、荒々しい自然さを残そうと試みた潮流だ。いわば、テクノロジーの発展により、私たちが望めばどこまでも "洗練" を極めることができる現代とは真逆に位置すると言え、そうしたニュー・ブルータリズムをEPのタイトルに掲げるあたり、現代に対するライナー・ヴェールなりの反抗心が窺えるようで興味深い。


 《Modern Love》からのリリースということもあり、おそらく"インダストリアル"として捉える者もいそうだが、それだけではない多くの要素で本作は彩られている。シンプルなビートの上に乗るサウンドは、cv313やディープコードといった《Echospace》周辺のダブ・テクノを感じさせ、さらに音像で訴求力を獲得しようと試みていることからもわかるように、アンビエントの要素も色濃く滲んでいる。とはいえ、低音の鳴らし方はベース・ミュージックそのもので、最近レコード・ショップでよく見かけるフレーズを使って表せば、「New Brutalism」の音楽は "アンビエント・ベース" になるだろうか。そういった意味で本作は、インダストリアルという音楽を拡張する作品だと言える。



(近藤真弥)



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Jazz The New Chapterロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平.jpg

 本書は密度の高い論考やインタヴュー、さらには300枚を超えるディスクレヴューによって、現代ジャズを様々な視点からプレゼンテーションしたものになっている。現代ジャズの旗手であるロバート・グラスパーとその周辺、老舗《Blue Note》の現在、ジャズとビート・ミュージックの関係性、ワールド・ミュージックという視点から見たジャズなど、その切り口は多様だ。


 しかし、こういった紹介は本書の一側面しか捉えていない、というところからこの書評を始めることにする。なぜなら本書は、現代ジャズのプレゼンテーションと同じくらい、いやそれ以上に過去への眼差しと現在に至る道筋の確認に満ちており、それが本書を特別なものにしているからだ。


 まず、本書の執筆人に、2人のベテランジャズ評論家が参加している点に注目したい。村井康司と中山康樹だ。村井康司はモダン・ジャズ崩壊後のジャズについて精緻な分析をおこなった『ジャズの明日へ―コテンポラリー・ジャズの歴史―』(近著には『JAZZ 100の扉』がある)の著者であり、中山康樹はマイルス・デイヴィスの研究本をはじめとした、ジャズについての本をいくつも執筆している。両者とも日本におけるジャズ批評を形作ってきたジャズ評論家である。本書では、そんな彼らが現代ジャズについてどのような思いを抱いているかを語らせることによって、旧来のジャズとの接続/切断を試みる。こういった試みが『Jazz The New Chapter~ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平』の面白さであり、日本におけるジャズ批評の上に本書があることを強調しているようにも見える。


 取り上げるアーティストについてもジャズの歴史への目配せがそこかしこに窺える。その代表が、大御所ケニー・ギャレットへのインタヴューだ。ケニー・ギャレットのバンドは、クリス・デイヴ、ジャマイア・ウィリアムスなど現代ジャズの最重要ドラマーが排出してきた。その理由についてケニー・ギャレットはインタヴュー中でこう説明する。


「マイルスもアート・ブレイキーもウディ・ショウも私が成長するのを忍耐強く我慢してくれた。だから、自分も今そういうリーダーでありたいと思っている。」


 このような先達がいるからこそ、現代ジャズの土壌は豊かなものになったのだ。ケニー・ギャレットの他にもカート・ローゼンウィンケル、ブラッド・メルドー、ブライアン・ブレイド、ニコラス・ペイトンなど、現在に至るまでの道のりを華やかに彩ってきた(そして今も彩り続けている)先人たちにも少なくないページ数が割かれている。


 そして、何といっても柳樂光隆、原雅明、吉本秀純による密度の高い論考の数々が本書の主軸になっていることは言うまでもないし、そのテクストの中には幾重にもジャズの歴史が折り重なっている。例えば、柳樂光隆の「JAZZ MEETS FOLK / COUNTRY / INDIE-ROCK / BRAZILIAN MUSIC」は、ゼロ年代以降のジャズ・シーンを、非ブラック・ミュージックとしてのジャズという視点で俯瞰しようという試みだ。ジャンル越境的な論考になっており、自分が関心を持っているジャンルとジャズを接続させる手がかりにもなるだろう。原雅明「ジャズmeetsヒップホップを巡る変遷と更新」を読めば、ジャズとヒップホップがどのような影響を相互に与えてきたのかが非常によくわかり、ハービー・ハンコック、J・ディラ、ロバート・グラスパーといったアーティストをヒントに、ジャズmeetsヒップホップの歴史をたどってゆくものになっている。吉本秀純「ワールド・ジャズの新しい勢力地図」は、ジャズとワールド・ミュージックの歴史についての俯瞰的な論考になっており、アメリカのジャズに軸を置いている本書の中で、読み手の意識を世界全体へと拡張させる。ジャズの遺伝子が地域や歴史を超えてばら蒔かれ、受け継がれているということがこれらの論考を読むことで納得できる。


 『Jazz The New Chapter~ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平』は、語られず、または語られていたとしても断片的な形でしかなかった、現在にまで繋がる「ジャズの歴史」をまとめたものだ。柳樂光隆による冒頭の一文、「僕がジャズを聴き始めた90年代、ジャズはヒップホップのサブ・ジャンルだった」が示すように、ジャズはヒップホップをはじめとした様々な音楽の中にその遺伝子を植え付けた。今、その遺伝子は、歴史が育んだ豊穣な土壌でいくつもの大輪の花を咲かせている。その花の名前はジャズかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかし花が咲いていることは間違いないのだから、それをレポートしないわけにはいかない。このムックはそんな想いで作られたのではないだろうか。



(八木皓平)

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Perc『The Power And The Glory』.jpg

 ヴァチカン・シャドウは『Remember Your Black Day』でアメリカ同時多発テロをテーマにし、サミュエル・ケーリッジは『A Fallen Empire』のジャケットに第一次世界大戦の写真を使用するなど、ここ最近のインダストリアル・テクノには政治的側面を滲ませた作品が多い。もちろんそのなかに、ロンドン出身のパークによる『The Power And The Glory』も含まれるだろう。


 まず、5曲目の「David & George」。このタイトルにある名はそれぞれ、イギリスの首相デーヴィッド・キャメロン(David)と、同国の財務大臣ジョージ・オズボーン(George)を指しているそうだ。肝心の内容は、ノイジーかつ暴力的なサウンドと不気味な笑い声が響き渡るというもの。エリザベス2世とも遠縁にあたる上流階級出身のキャメロンに向けられた皮肉か? あるいは構造的財政赤字の解消を公約に掲げながら未だ実現できていないオズボーンをおちょくっているのか・・・。国民に多くの "痛み"と"負担" を求め、失業率上昇や賃金の減少を招いた暗黒のサッチャー時代と似たようなことが今のイギリスで起きている? なんて想像もしてしまう(キャメロンはサッチャーと同じく保守党)。


 さらに、アルバム・タイトルの『The Power And The Glory』。この暗喩的なタイトルは、作家グレアム・グリーンが1940年に上梓した小説と同名なのだ。1991年に亡くなるまで共産主義を貫いたグレアムは、『静かなアメリカ人』を書き上げたせいでアメリカに入国拒否されたりと、強い反骨精神を持ちつづけた男。本作は明確な政治的主張をおこなっているわけではないが、そう思わせる要素はいくつも散りばめられており、これまでリリースしてきた作品群と比べたら極めて"政治的"と言えるだろう。言ってしまえば本作は、インダストリアル・テクノにレベル・ミュージックとしての役割をあたえている。


 とはいえ、パークはダンス・ミュージックの快楽も忘れていない。中毒性の高いリズム・ワークが印象的な「Galloper」、それから初期のジェフ・ミルズに通じるハード・ミニマル「Dumpster」は、クラウドが踊り狂う光景を容易に想像できるトラックだ。


 こうした両義性を抱える本作は、政治とは距離を置きたい逃避願望が見え隠れしながらも、現実という名の圧倒的存在を無視できないことに対する失望が表出している。



(近藤真弥)

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 主に関西のインディーズ・バンドに関する批評を纏めた電子書籍『現代関西音楽帖』が先ごろフリーでリリースされた。岡村詩野監修のもと約1年かけて編集されたもので、1年前の段階ではほぼ無名だったバンドが現在は大きく注目されているケースも見られ、シーンの動向の早さに驚きを覚えた。その筆頭が京都は綾部市で2012年に結成された5人組ロック・バンドHAPPYだ。


 SSWの入江陽は「恋愛の終わりに気づいていないふりをする二人」について歌う自作曲「めきしこ」を、「原発に対する我々の態度の暗喩ではないか」と、EP-4佐藤薫に問われ驚いたという。時に批評によって、本人も気づいていなかった無意識の着想に気づかされるものらしいが、例えばSEKAI NO OWARIのように、歌詞以前にバンド名で物議を醸すケースもある。対してHAPPYはバンド名が期せずして、そんな暗い世相に対する強烈な批評となっているのが面白い。 


 そしてEPのタイトル「Sun」は、テンプルズのアルバム『Sun Structures』と被り、2バンドとも6070年代のサイケデリック・ロックの影響を受けている。しかし往時の雰囲気をより忠実に再現するテンプルズに対して、HAPPYはシンセ2台を駆使して、むしろポスト・パンク期のバンドに近いアプローチに思える。一曲目「Lift This Weight」は、重低音シンセにあたたかく親しみやすいメロディーと英詞ヴォーカルが乗るダンス・ナンバーで、続く「Win Key Gun」はBPMを落とし壮大な物語の始まりを予感させる。ハッピーというバンド名と爽やかなコーラスとは裏腹に、どこかダウナーな部分がメロディーの切れ間に見え隠れするあたりは、80年代のR.E.M.を思い出す。キーボード込みの編成でアフロ・ファンクの要素が感じられるという点では、名古屋のsukidadramas(スキダドラマズ)とも似ている。


 つらつらと書いてきたが、こういった連想が時代のムードを感じ取るヒントになればいいのだが。しかし一方で、HAPPYのメンバーがこれを読んだら「そんなこと考えもしなかった! 」と言う気もする。時代の流れを変えるようなアーティストとは得てしてそういうもので、無意識のうちに時代と共振する。



(森豊和)

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 永遠の未完成。ポシティヴな意味で、私がそう形容したくなる日本のロック・バンドが2組いる。ART-SCHOOLmothercoatだ。損得も恥も外聞も関係ない。ただ自らの頭の中にある何かを再現する。漫画のヒーローでもあるまいし、そういった衝動は、現実世界では必ずしもかっこいいものではない。輝くような笑顔があれば、後悔の滲み出る表情もある。それら全部ひっくるめて私であり貴方であり彼らだ。


 ART-SCHOOLの第1期メンバーでのラスト・ライヴ、2003年の新宿リキッドルーム。その日の終演後、ロビーでBase Ball Bearのドラマー堀之内大介に会った。汗だくになった彼はすごくいい表情で笑っていた。一方、mothercoatの初期メンバーでのラスト・ライヴ。2006年の新宿MARZのフロアでは、UNISON SQUARE GARDENのベーシスト田淵智也が暴れ回っていた。その日も演奏された「ガリレオ」という曲はmothercoatのライヴ定番曲だが、UNISON SQUARE GARDENにも「ガリレオのショーケース」という曲がある。曲自体が似ているわけではないが、社会への違和感、周囲との不調和が主題であること、様々な音楽要素を折衷しているという点では共通する。


 話を戻して、両日とも素晴らしいパフォーマンスだった。一度完成されたスタイルを壊し、というよりメンバー脱退のため解体を余儀なくされ、その後も不死鳥のように燃え跡からの再生を繰り返してきた2組。90年代オルタナティヴ・ロックからの影響が共通項にあり、より王道を行くART-SCHOOLに比して、mothercoatはニュー・ウェイヴ、ファンク、エレクトロニカ、フォーク、様々なキーワードが雑多に浮かぶ。乱雑につぎはぎされたようで実は整合性のあるトラックと、自由に跳ね回り韻を踏むヴォーカルは、ヒップホップの影響下にあるし、組曲的な展開を見せるナンバーは10年代のプログレッシヴ・ロックとでも呼びたくなる。


 本EPのタイトル・トラック「trickster」はギターの新メンバー加入後初の新曲であり、先述の要素がほとんど詰まっている。尖ったギター・リフとは対照的に大きくうねり反復するリズム隊、牧歌的な女性コーラスで始まり、呟くような男性ヴォーカルが加わる。知らず知らずの内に脳裏に浸食してくる、気付くと口ずさんでいる、不思議な中毒性がある。また、タイトルのトリックスターとは、神話や物語世界において、善悪どちらにも属さず世界の秩序をかき回し破壊するが、結果的に新たな価値観を創出するきっかけとなる存在を指す。それはロック・ミュージシャンの果たすべき役割の一つであるし、孤独なガリレオ・ガリレイの姿にも重なりはしないか? 


 「それでも地球は回っている」という名言ではないが、日本列島を何度も縦断し、過去にたびたびUSUKツアーを行い、20143月には、アメリカ合衆国テキサス州オースティンにて開催されるSXSWJapan Nite」に出演する。ライヴ、録音、音源流通、おまけに家庭菜園。すべて自給自足を掲げ、何物にも縛られず、お世辞も綺麗ごともなしに我が道を行く。メジャーもマイナーもポップもアヴァンギャルドも区別ない。良い悪いの問題ではなく、おそらく日本で最もインディペンデントなミュージシャン集団。それがmothercoatだ。



(森豊和)