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KING MIDAS SOUND : FENNESZ『Edition 1』.jpg

 ザ・バグとしても有名なケヴィン・マーティン、詩人のロジャー・ロビンソン、在英日本人キキ・ヒトミの3人による、キング・ミダス・サウンド。そんな彼ら彼女らが、坂本龍一との共演などでも知られる、クリスチャン・フェネスとコラボレーションしたアルバムを発表。『Edition 1』と名付けられたそれは、『Mezzanine』(1998)までのマッシヴ・アタックや初期のポーティスヘッドを想起させる、耽美的かつダークなサウンドスケープを描いた良作になっている。


 『Edition 1』は、これまでフェネスが残してきた、サンプル・ネタやギター・トラックといった未発表の素材を、キング・ミダス・サウンドが使用し制作された。ゆえに本作は、キング・ミダス・サウンドの音楽的嗜好が色濃く反映されているように感じる。たとえば、リフレインされるベース・ラインが印象的な「On My Mind」と、先行公開された「Waves」の2曲。共に清涼なアンビエンス・サウンドを漂わせる曲だが、曲全体にまとわりつくミステリアスな雰囲気は、キング・ミダス・サウンドの作品群でよく見かける要素だ。特に、『Dummy』(1994)期のポーティスヘッドを連想させる「On My Mind」は、キング・ミダス・サウンド流ポップ・ソングとも言える作風。


 また、「Loving Or Leaving」という曲も、キング・ミダス・サウンドの音楽的嗜好が強く出ている。この曲でのヘヴィーな低音、ダビーなディレイとリヴァーブの使い方、そしてトラップの要素を取りいれたビートは、フェネスの作品群ではあまり見られないものだ。このように本作は、キング・ミダス・サウンドがイニシアチブを握っていると思われる。


 正直、コラボレーションによって生じる突発的な化学反応という点から見ると、本作は及第点以下だろう。しかし、ここではないどこかへ聴き手を飛ばし、一種の精神拡張をもたらしてくれるという点においては、最高のアルバムである。ひとつひとつの音が、心の奥深くにじんわりと潜りこんでくる感覚は、至上の快楽そのもの。この快楽は、ヘッドフォンでひとり聴くだけでも味わえるが、できるだけ大音量で流し〝浴びる〟ように聴いたほうが、より深く味わえる。それこそ、クラブのサウンドシステムなどが、本作の音像をもっとも明確に伝えてくれるはずだ。このあたりは、やはりキング・ミダス・サウンドはクラブ・カルチャーの歴史が生みだしたグループなのだなと実感させてくれる。



(近藤真弥)

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Disclosure  Caracal.jpg

 ガイとハワードのローレンス兄弟によるディスクロージャーが、サム・スミスをヴォーカルに迎えたシングル「Latch」(2012)で注目されてから約3年。この3年の間でふたりは、ポップ・スターへの階段を駆けあがった。ファースト・アルバム『Settle』(2013)は本国イギリスでチャート1位を獲得し、その後メアリー・J. ブライジとも共演した。


 また、Moshi Moshi(モシ・モシ)から発表されたデビュー・シングル、「Offline Dexterity」(2010)の頃から追いかけている筆者としては、ふたりの音楽性が変化したことにも注目したい。実を言うと、「The Face EP」(2012)までのふたりは、UKガラージが基調にあるサウンドを鳴らしていた。しかし、「Latch」以降のふたりは、ハウスやR&B色を前面に出してきた。そのおかげで、ふたりの音楽はポップ・ソングとしての訴求力を獲得し、世界的な人気を得ることにも繋がった。クラブだけでウケるプロダクションではなく、より幅広い層に届く順応性こそ、ふたりが選んだ道なのだ。


 セカンド・アルバム『Caracal』は、その道を突きつめた〝深化〟の作品である。まず、本作に参加したヴォーカリストを見てみよう。ザ・ウィークエンド、サム・スミス、グレゴリー・ポーター、ライオン・ベイブ、クワブス、ロード、ミゲル、ナオ、ジョーダン・ラケイ。すでにスターの地位を得ている者から、ここ最近注目を集める若手まで、豪華な顔ぶれだ。


 さらにサウンド。一聴して耳を引くのは、前作以上にR&Bの要素が色濃く出ていること。前作も、しっとりとした艶やかさが漂うサウンドで、さながらベテラン・アーティストのような作風だったが、本作はその老練さがより顕在化している。グレゴリー・ポーターが歌う3曲目「Holding On」以降は、Nervous(ナーバス)やEmotive(エモーティヴ)あたりを想起させる、いわゆるNYハウスのエッセンスを取りいれた軽快な曲もあるが、アルバム全体の作風は非常に落ちついており、踊らせるよりも聴かせる内容となっている。プロダクションも、ヴォーカルを強調したものが目立ち、〝歌〟を意識しているのは明らか。


 そんな本作、人によっては物足りなさを感じる作品だと思う。たとえば、前作の成功で得た勢いをそのままに、チャレンジングなアルバムを作るべきだったという意見。あるいは、ゲストに頼った保守的な作品だと思う者もいるだろう。しかし筆者は、本作を大歓迎したい。確かに、前作との明確な違いは見られず、目新しさもない。だが、どこまでもロマンティックで、最初の音が鳴り響いた瞬間、目の前の景色をガラリと変えてしまうポップ・ソングが詰まった本作は、不当な評価にさらされるべきではない。グッド・メロディーに、グッド・サウンド。言ってしまえば本作はそれだけだが、そのふたつだけで極上のポップ・ソング集を生みだせるという事実には、驚愕するばかりだ。


 そもそも、本作を高く評価できない者たちは、いまだ〝古い/新しい〟という時代錯誤な価値基準にとらわれているにすぎない。もはや、〝古い音楽〟など存在しないのだ。あるのは、自分がまだ聴いたことのない音楽だけ。このことに多くの人はもう気づいている。そして、その〝多くの人〟に、ディスクロージャーが含まれるのは言うまでもない。



(近藤真弥)

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Chvrches『Every Open Eye』.jpg

 〝スコットランド〟と聞いて思い浮かべるもの。ハドソン・モホーク、ベル・アンド・セバスチャン、エドウィン・コリンズ、セルティック、スコッチ。ロバート・バーンズも忘れてはいけない。彼をモチーフにしたカクテルは筆者の大好物だ(そのカクテルの名はズバリ、〝ロバート・バーンズ〟)


 しかし、筆者が真っ先に思い浮かべるのは、アニー・レノックスという女性である。デイヴ・スチュワートと結成したユニット、ユーリズミックスで一世を風靡し、現在はソロで活躍するシンガー・ソングライターだ。アニーは音楽活動の一方で、オックスファムの親善大使を務めるなど、社会活動にも長年取りくみ、積極的に発言をしてきた。そのなかでも、筆者がとりわけ秀逸だと思うのは、国際女性デー100周年を迎えるにあたって発表したステートメントだ(※1)。書きだしは、次のような一節。


 「私は、驚き、失望し、怒りを覚える。人類が月に行き、この星に住む誰とも瞬時にインターネットでつながる時代になっても、男女間の平等が実現していないという事実に。」


 この一節は見ての通り、怒りを表明している。だが、読みすすめていくと、希望にあふれる力強い言葉が多くなっていくのが、このステートメントの素晴らしいところ。特に、以下の言葉は多くの人に響くはずだ。


 「あなたが女性であっても男性であっても、この問題と無関係ではない。しかしだからこそ、あなたは解決を生みだす力にもなれる。」


 アニーと同じスコットランド出身で、チャーチズのヴォーカルを務めるローレン・メイベリーは、英ガーディアン紙に『私はネット上での女性蔑視を受け入れません』と題された文章を寄稿している(※2)。おそらく、このようなローレンの側面を知らない人も少なくないだろう。だがローレンは、スコットランドを拠点とし、イヴェント、パーティー、Zine(ジン)の発行などをおこなうフェミニスト集団、TYCIの創立に関わったりと、音楽以外の活動も積極的におこなっている。これらの活動は言うなれば、切実な叫びを〝些事〟だと恣意的に決めつけられ、抑圧されることに対する抵抗だ。ちなみに、TYCIのZineには、創刊号から現在まで〝Edited〟にローレンの名がクレジットされている。ローレンの言葉には、どこかジャーナリスティックな匂いがすると常々思っていたが、こうした活動の影響も少なからずあるのだろう(ちなみにローレンは法律/ジャーナリズムの修士号を持っている)。それにしても、同じところから同じ問題意識を持ったポップ・スターが輩出されるというのも、偶然にしては出来すぎている...。


 さて、そんなローレンの活動は、チャーチズの歌詞にも反映されている。チャーチズの歌詞は、人生にまつわる見逃されがちな機微を丁寧に掬いとり、それを親しみやすい極上のホップ・ソングに昇華したものだからだ。さらに、〝これはこうだ!〟と安易に断言するのではなく、〝これはこうなのかもしれない〟という問いかけに近いニュアンスを持つ言葉が多いのも、チャーチズの歌詞の特徴。これはおそらく、チャーチズにとって聴き手は、信頼すべき存在だからこそできる芸当なのだろう。こうした姿勢から生みだされた歌詞は、知的な興奮を聴き手にもたらし、過度な感情表現に頼らずとも、理性と誠実さで他者を魅了できることを教えてくれる。これを見事に実現しているのが、チャーチズの素晴らしいところだ。


 サウンドの変化にも言及しておきたい。ローレン、それからイアン・クック、マーティン・ドハーティのメンバー全員が80年代エレ・ポップを好むだけあって、本作にもその要素は多分に含まれている。とはいえ、前作『The Bones Of What You Believe』はヒップホップやR&Bの影響が顕著だったのに対し、本作はテクノやハウスの要素が色濃く表れている。たとえば、トランシーで煌びやかなシンセ・ワークを基調に、巧みな音の抜き差しで起伏を作りあげていくさまは、オービタルを想起させる。たくさんのヴィンテージ・シンセを使用していることも、この想起を助長する。また、音に注意深く耳を傾けると、ひとつひとつの音が丹念に磨きぬかれているのもわかるはずだ。もともと、プロダクション技術は優れているチャーチズだが、本作では〝深化〟したサウンドを堪能できる。大きな変化はないが、ヴォーカルや音がよりクリアになり、清涼感あるローレンの歌声が今まで以上に映えている。このあたりは、主に音フェチの方々が興奮するポイントだろう。


 最後に、本作のジャケットについても一言。だいぶ前にツイッターでも言ったが、どことなく、ニュー・オーダー『Power, Corruption & Lies』(1983)のジャケットを連想させるのが面白い。というのも、このタイトル、日本語ではこう訳せるからだ。


 「権力、腐敗、そして嘘」


 もしかすると本作のジャケットは、〝ブロークン・ブリテン〟と言われて久しいイギリスの惨状に対する当てつけではないか(スコットランドはイギリスの構成国)。いや、もっと言えば、これはイギリスだけに向けたものではないかもしれない。権力の腐敗や嘘は、世界中の至るところにあるのだから。チャーチズは、世界中の人たちにコミュニケートしている。チャーチズにとって聴き手は、従わせるものではなく、共に手を繋いで歩んでいく存在なのだ。




(近藤真弥)




※1 : 原文はこちらです。https://www.oxfam.org.au/media/2011/03/annie-lennox-opinion-piece-for-international-womens-day-2011/



※2 : Hostessの公式サイトに日本語訳もあります。http://digitalconvenience.net/?p=4607

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New Order『Music Complete』.jpg

 ニュー・オーダーが、前作『Waiting For The Sirens' Call』以来約10年ぶりとなるアルバムをリリースした。『Music Complete』と名づけられたそれは、ダニエル・ミラー主宰のMute(ミュート)移籍後、初のアルバムとしても話題になった。本作と前作における一番の違いは、ピーター・フックが脱退し、ジリアン・ギルバートが復帰したことだろう。2012年にリリースされたライヴ・アルバム、『Live At Bestival 2012』のレヴューでも書いたが、筆者はピーターがいないニュー・オーダーに対して、複雑な感情を抱いている。喧嘩別れのような形で脱退してしまったこと、そしてその傷痕は、いまだ両者にまざまざと刻まれていること。これらの事実がもたらす感傷は、10年ぶりにアルバムをリリースという嬉しいニュースが届いても、筆者の心から消え去ることはなかった。どうして運命は、バーナード・サムナー、ピーター・フック、スティーヴン・モリス、ジリアン・ギルバートの4人を揃えないのか? いくらなんでも、惨すぎるではないか...。


 本作を聴いて驚かされたのは、ギター・サウンドが著しく後退している点だ。全体的にエレクトロニック・サウンドが際立ち、ロック・アルバムというよりはダンス・ミュージック・アルバムと言える作風に仕上がっている。「Unlearn This Hatred」以外は、すべて5分以上あるのも興味深かった。3分どころか2分台のポップ・ソングも珍しくなくなった現在において、全11曲中10曲が5分以上という内容。言うなれば本作は、純粋なポップス・アルバムではない。過去のディスコグラフィーでいえば、『Technique』(1989)が一番近いのかもしれないが、筆者はニュー・オーダーの作品群ではなく、スティーヴン・モリスとジリアン・ギルバートによるジ・アザー・トゥー、それからバーナード・サムナーとジョニー・マーによるエレクトロニックのサウンドを想起した。ただ、トム・ローランズ(ケミカル・ブラザーズ)をプロデューサーに迎えた「Singularity」は、攻撃的でロックなニュー・オーダーを堪能できるものになっている。


 ゲスト陣も非常に豪華で、エリー・ジャクソン(ラ・ルー)、ブランドン・フラワーズ(ザ・キラーズ)、イギー・ポップなどが参加している。だが、筆者の目をもっとも引いたのは、「Nothing But A Fool」にバッキング・コーラスで参加しているデニース・ジョンソンだ。というのもデニース、プライマル・スクリームの大名曲「Don't Fight It, Feel It」(1991)でヴォーカルを務めたシンガーなのだ。細かすぎる着目と言われればその通りだが、先のトム・ローランズやエリー・ジャクソンも含め、本作はイギリスのポップ・ミュージック史に名を残す者たちが集まって作られたという意味でも、面白い作品だ。


 しかしそれゆえ、ピーターの不在がより目立ってしまうのも事実である。ニュー・オーダーに影響を受けたアーティストが何人も集まり、さらにイギー・ポップのような生きる伝説まで参加しているにも関わらず、ピーターがいないというのは、さすがに寂しい。正直に言ってしまえば、本作のニュー・オーダーは、ニュー・オーダーであってニュー・オーダーではない。たとえ原理主義的すぎると言われても、筆者はその確信を崩すことはない。バンドとは不思議なもので、このメンバーでなければ成立しない、あるい特別な魔法が生まれないというケースは多々ある。そのうちのひとつに、ニュー・オーダーも含まれるのは言うまでもない。



(近藤真弥)

柴田聡子『柴田聡子』(P-Vine)

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柴田聡子『柴田聡子』.jpg

 柴田聡子の最新アルバム、『柴田聡子』。本作は、さまざまな人たちを描く多彩な作品に仕上がっている。柴田聡子は、2010年から活動を始めたシンガー・ソングライター。これまでに、『しばたさとこ島』(2012)、『いじわる大全集』(2014)という2枚のアルバムを発表しているが、ライヴ盤や7インチ・シングル、さらにGofishトリオと柴田聡子としてもリリースをするなど、多作なアーティストだ。


 前作『いじわる大全集』は、全編弾きがたりのセルフ・レコーディングだったが、本作は初のバンド編成で作られた作品。山本精一をプロデューサーに迎え、一楽誉志幸、須藤俊明、西滝太というゲスト・ミュージシャンが参加している。本作での柴田聡子は、メロディーに寄りそう歌い方を披露するなど、これまであまり見られなかった側面を見せてくれる。とはいえ、間奏が少ない曲が多いのは、やっぱソロで活動してきたシンガー・ソングライターだよなと感じる。


 ポップスとしての親しみやすいメロディーが際立つのは、作品全体の舵取りを山本精一に託し、柴田聡子は歌に集中したからだと思う。その親しみやすいメロディーが顕著に表れるのは、先行でMVが公開された「ニューポニーテール」だろう。この曲の譜割り、NHK Eテレの子ども番組で子どもたちが歌っていてもおかしくないほど、歌いやすい。歌詞の内容は、小さじ2杯くらいの毒と狂気をまぜたピリ辛味だが...。


 歌詞といえば、本作に登場する人物はみな、どこかひとりぼっちな雰囲気を漂わせている。全13曲、そのすべてがほんのり寂しさを滲ませ、風が吹けば飛んでいってしまいそうな、か細さを見いだせる。消えいるように〈オリンピックなんてなくなればいいのにね〉と呟かれる「ぼくめつ」などは、どたばた続きの2020年東京オリンピックに関することを想像させ、本作のなかでは唯一明確な〝反抗〟を感じさせる曲だ。それでも、その呟きが右から左に流れるなかで(より具体的に言えば、パンニングを操作して右から左に流している)、どこかの街の風景を描写したような歌詞が歌われるという構成は、呟きが雑踏のなかに紛れてしまう哀しさを醸しており、切なくなってしまう。


 だからといって、本作にネガティヴな印象を抱くわけではない。むしろ、バラバラな風景や言葉を並べることで見えてくる多彩さに、感動させられる。ひとつひとつの風景や言葉は、多くの人にとっては些細なことかもしれない。だが、そんな些細なことがたくさんあり、その後ろにはたくさんの人々が生きているという事実に、筆者は心を揺さぶられてしまう。こうした感動をもたらしてくれるのは、お世辞にも穏やかとは言えない今の日本で生活するなかで忘れがちな、活き活きとした〝小さい声の集まり〟である。このような集まりを浮かびあがらせる本作は、多くの人に優しさと勇気をあたえるだろう。


 幸せへと続く道は、案外近くにあるものだ。よくよく考えれば当たりまえかもしれないが、そんな当たりまえで忘れがちなことを、本作は想いださせてくれる。希望は常に、あなたの隣で待っている。



(近藤真弥)

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ステレオフォニックス.jpg

 今年41歳になるヴォーカルのケリーは、子供の頃に住んでいた南ウェールズにある小さな炭鉱村、つまり自身のルーツに立ち返るためにこのアルバムに『Keep The Village Alive』というタイトルをつけた。そして、サウンドは自然とシンプルで強いものになり、それはたとえば新曲で8ビートのロックンロールを披露した同郷のフラテリスと共鳴している。1曲目の「C'est La Vie」のヴィデオを初めて観た時に、これは何事かと思った。パーティーで男2人が散々暴れまわった挙句、女友達は愛想を尽かして部屋から出て行くのだけど、それにも構わず彼らはダンスしつづけ、最後はバンドと戯れてエンディング...という、時代錯誤感すら漂うこの映像。そして、まるでジ・エネミーが2007年に〈僕は現実逃避したい〉と歌っていた時と同じ勢いで、ステレオフォニックスは〈人生なんてこんなもんだ〉というフレーズを言い放つ。仮に、わずかなコードだけで突き進むこの曲をビーディー・アイが手にしていたとしたら、解散の憂き目に合わずに済んだかもしれないと思うほど、瑞々しい輝きを放っている。


 もう1曲、近年ヘヴィーなバラッドが目立っていた彼らの個性からは意外だったライトなタッチの「I Wanna Get Lost With You」。〝僕と君〟という小さな物語に優しく寄り添ったこのメロディーは、これからも時々振り返りたくなるに違いない。こちらも冴えない男女二人が恋に落ちていく過程を撮ったノスタルジックな風合いのヴィデオが用意されている。他の楽曲にも言えることだけど、特にテーマが重要なわけではなく、そこにあるのは音楽のみ。意味にまみれた2015年にこの作品をドロップするとは、何というか、さすがステレオフォニックス、という気がする。


 時代との接点を模索することではなく、自分達が〝どこから来て、どこへ帰っていくのか〟を掘り下げること。他人の言葉に翻弄されず、潔く自分の道を選びとること。デビューから20年近く経ったいま、彼らは最も確信めいたサウンドを手にしている。それはステレオフォニックスというバンドがサヴァイヴした証拠に他ならない。だが、このレコードを古参のファンだけが耳にしているのは勿体無い。このプロセスはアイデンティティーを上書きすることがアイデンティティーになっている20代の僕たちにも、フェイクじゃない勇気をあたえてくれるから。その入口になるために、たとえば、彼らのライヴでもハイライトに欠かせない名曲「Dakota」を今年Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)が日本語でカヴァーしたように、今作の「I Wanna Get Lost With You」も誰かカヴァーして欲しい。今ならAwesome City Club(オーサム・シティー・クラブ)かYkiki Beat(ワイキキ・ビート)のヴァージョンが聴いてみたいな...。



(長畑宏明)

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Tomo Akikawabaya『The Invitation Of The Dead』.jpg

 嬉しいことに、筆者のレコード・コレクションは、多くの音楽愛好家から譲りうけたレコードによって、実に多彩なものとなっている。特に印象的なレコード・コレクションは、親戚のおじさまからいただいたコレクションだ。このおじさま、吉祥寺マイナーという、日本のアンダーグラウンド・シーンを語るうえで欠かせないライヴ・ハウスにも通っていたお方。当然、彼のレコード・コレクションも、日本のアンダーグラウンド・シーンに名を残すバンドの作品で埋めつくされていた。リビドー、ピンキー・ピクニック、サラスヴァティ、PTA's、黒色エレジー、幻覚マイム、ロシアバレエ団、ノン・バンドなどなど。8割くらいが70年代後半から80年代の間に作られた作品で、ポスト・パンクやニュー・ウェイヴと呼ばれる音が多かった。


 そのなかでも、とりわけよく聴いたのは、Tomo Akikawabaya(トモ・アキカワバヤ)の作品群だ。ほとんどの作品で、妖艶な雰囲気に包まれた女性をジャケットにフィーチャーしているのが面白かった。なんとなく、ロキシー・ミュージックの『Roxy Music』(1972)や『Siren』(1975)のアートワークに近いセンスを感じたからだ。とはいえ、グラマラスなブライアン・フェリーのヴォーカルと比べると、Tomo Akikawabayaの歌声はどこかぶっきらぼうだが。強いて類例をあげれば、初期のデイヴ・ガーン(デペッシュ・モード)である。また、起伏がほとんどない、淡々としたエレ・ポップなサウンドにも惹かれた。シンプルすぎる淡白なビートに、心地よい冷たさを帯びたシンセ、そのすべてが筆者の耳に馴染んでいった。隙間だらけのサウンドスケープ、そして不備が目立つプロダクションは、お世辞にも褒められたものではない。だが、そうした不完全さが妖気を漂わせるゴシックな作風に繋がっているのだから、興味深い。ジャンルで言えば、ポスト・パンク、ニュー・ウェイヴ、ミニマル・シンセということになるだろうか。


 このような興味深い体験をしたのは、いまからちょうど10年前のことだが、そんな過去の想い出を呼びおこすニュースが飛びこんできた。なんと、ここ数年カルト・ニュー・ウェイヴのリイシューで注目を集めているレーベルMinimal Wave(ミニマル・ウェイヴ)から、Tomo Akikawabayaの作品が再発されたのだ。これまでも、〝どこで見つけてきた?〟と言いたくなる作品をたくさんリイシューしてきたMinimal Waveだが、とうとう日本産の作品に手を伸ばしたというわけだ。レーベル主宰のヴェロニカ・ヴァシカ、筋金入りのディガーだなと、あらためて実感させられるニュースだった。


 このたび再発された『The Invitation Of The Dead』は、Tomo Akikawabayaが過去に発表したアルバム『The Castle』(1984)と、シングル「Anju」(1985)をコンパイルしたもの。サウンドは、先にも書いたとおり。正直、ネット上に〝正しいミックスのやり方〟みたいな情報が横溢し、誰もがそれなりのプロダクションを施せる現在においては、粗だらけに聞こえるはずだ。しかし、テクノロジーの発展により均質化される前のサウンドは、聴き手の感性を拡張する〝ナニカ〟であふれていると思う。実は、のちのV系とも接続できる云々...の話もしたいところだが、そうすると本題からかけ離れてしまうので、今回はこのくらいにしておこう。まずは、現在に蘇ったTomo Akikawabayaの音世界を楽しんでもらいたい。



(近藤真弥)

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helena-hauf-discreet-desires.jpg

 ポスト・パンクの進化は止まらない。前作『A Tape』から約7ヶ月、ヘレナ・ハウフの最新アルバム『Discreet Desires』を聴いていると、そう思わざるをえない。ここ数年、Minimal Wave(ミニマル・ウェイヴ)などを中心としたカルト・ニュー・ウェイヴのリイシュー・ブーム、トレヴァー・ジャクソン監修のコンピ『Metal Dance Industrial / Post-Punk / EBM Classics & Rarities 80-88』『Metal Dance 2 Industrial New Wave Ebm Classics & Rarities 79-88』のリリース、さらに、ポスト・パンクの代表的なバンド、ザ・ポップ・グループが35年ぶりの新作を発表するなど、ふたたび〝ポスト・パンク〟という言葉を目にする機会が多くなった。


 そのなかで興味深いのは、ポスト・パンクを語るうえで欠かせないジャンル、EBM(エレクトロニック・ボディー・ミュージック)再評価が進んでいること。たとえば、昨年リリースされたI.B.M.『Eat My Fuck』は、Modern Love(モダン・ラヴ)などが中心となったポスト・インダストリアル・ブーム以降の流れと共振しつつも、マシーナリーなビートを強調した作風はEBMそのものだった。そして、ファンキンイーヴンの別名義セント・ジュリアンによるシングル「A16」は、EBMが再注目されている流れとベース・ミュージックの接続という面白い試みをおこなっている。こちらも見逃せない動きだ。


 といったところで、肝心の『Discreet Desires』だが、本作はヘレナのポスト・パンクな側面がいままで以上に表れた作品である。前作のメインであったアシッディーな音色も、サイボトロン的なエレクトロ・ビートが映える「Funeral Morality」以外では使われていない。また、音の抜き差しで踊らせる手腕も素晴らしく、空間を活用したプロダクションも秀逸。この点も前作にはなかった部分だ。


 特筆したい曲は、巨大な金属がぶつかりあったような音を響かせる「Tripartite Pact」や、ざらついた質感のビートが際立つ「Spur」。特に、ヴィンス・クラーク在籍時のデペッシュ・モードに通じるシンセ・フレーズが飛びだす「Spur」は、EBMに対する愛情が素直に表現されていて、微笑ましい気持ちになってしまう。また、クラップとリムショットを多用したリズムが印象的な「L'Homme Mort」のように、シカゴ・ハウスのビート感覚を打ちだした曲が多いのも本作の特徴だ。シカゴ・ハウスの要素を効果的に用いることで、本作は〝EBMの焼きなおし〟という不名誉から見事に抜けだしている。


 このように、さまざまな要素が細切れにされて交わる本作の内容は、雑多性が前提となった2010年代のポップ・ミュージックそのものだが、ヘレナはそこに、歴史的文脈への配慮というエッセンスを注ぎこむ。長年ポップ・ミュージックと付きあってきた者ならば、本作に過去の音楽へ向けられた敬意を見いだせるはずだ。サイボトロン、リエゾン・ダンジェルーズ、初期のデペッシュ・モードなどに向けられた敬意を。




(近藤真弥)

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 ザ・ストロークスのサウンドにおいて重要な位置を占めるギタリストの、なんと7年ぶりとなるサード・ソロ・アルバム。昨年リリースされたリード・シンガー、ジュリアン・カサブランカスのセカンド・ソロと、見事に好対照をなしている。表裏一体というか、やっぱどちらも同じバンドの一部なんだと思わせてくれる。もちろん、いい意味で。


 まずはオープニング・ナンバーのタイトルに驚いた。なにせ「Born Slippy」。ある程度以上の年齢で特定の趣味を持った音楽ファンであれば、アンダーワールドというユニットのヒット曲を思いださざるをえない。映画『トレインスポッティング』にも使われた、おそらく彼らのレパートリーで最も有名な曲のひとつだ。


 カヴァーかも? あれをどんなふうに処理してるのか?と思ったが、違った(笑)。オリジナル曲だった。ただし、その「釣り」の持つ意味みたいなものがアルバムを聴きすすめるにしたがって、なんとなく伝わってきた。つまり、全体的に彼らのルーツでもある音楽との共通項を感じさせるのだ。エレクトロニックなダンス・ミュージック・ユニットというイメージの強いアンダーワールドだが、80年代には「ちょっと電気入った」感じのロック・バンドだった。ひらたくいって、このアルバム、ジュリアンの過去2枚のソロ・アルバムそしてザ・ストロークスの(今のところ)最新アルバムなみに、いわゆるニュー・ウェイヴっぽい。


 昨年のジュリアン・カサブランカス+ザ・ヴォイズ『Tyranny』がオルタナティヴもしくはポスト・パンクもしくはノー・ウェイヴ色が濃かったのに比べ、アルバート・ハモンド・ジュニア『Momentary Masters』は(そういった香りを漂わせつつ)もっとポップ。だから、もしなんらかの音楽用語でこれを表現するのなら、やはりニュー・ウェイヴというのが最も近いのかも。


 そんなふうに感じつつ、実に気持ちよく聴いていたところ、全10曲中6曲、アナログ盤であればちょうどB面トップで、ぶったまげた。80年代初頭のチェリー・レッド・レコーズにも通じるアコースティック/エレクトロニック・サウンドにのせて歌われるのは...思わず曲名を再確認してしまった。たしかにそうだ。初期ボブ・ディランの「くよくよするなよ(Don't Think Twice, It's Alright)」ではないか...。たぶん、こういった驚きを聴き手にもたらしたいのだろう。ディスク・ケース裏にはわざわざ短く「Don't Think Twice」と表記されている(ネタバレ、すみません...)。


 60年代前半のディランといえば、プロテスト・フォークの旗手という印象がいまだに強いかもしれない。それは、もちろん「間違い」ではない。ただし、ひとつはっきり言っておけば、彼は「普段の生活のなかで感受性鋭くキャッチしたセンスを、適確すぎてびびるほどの言葉で歌っていた」。それだけのこと。この曲は、まさにその(いわゆるプロテスト・フォークではないという意味の)好例。極めてリアルな失恋歌だ。この歌の主人公は、ある意味未練たらたらな状態で、それでも恋人に別れを告げねばならない自分に向けて<くよくよするなよ/これでいい>と歌っている。


 それはそれで、なんとも身を切られるような世界。ただし、ある種のクールさが漂っている。昔からいろんなひとたちに歌われてきた曲だが、ちょっと意外なところでは高橋幸宏もカヴァーしてた。うん、そうだね、だからそう言うわけではないけれど、このアルバム全体に漂う「ちょっと変わった、かなり独自のニュー・ウェイヴ感」は、なんとなく「80年代の幸宏」っぽい? いや、そうでもない? それよりさらにキャッチーなガレージ/パーソナル・コンピューター感がある。だから、やはりもっと「今」の音楽。


 そして、ここで彼がディランをカヴァーしたことに関してもうひとつ感慨深いのが、やはり父親アルバート・ハモンドという存在に対するバランス感覚みたいなもの。ジブラルタル出身の両親のもと、ロンドンで生まれた父は若いころから音楽活動をつづけていたが、70年代にアメリカに移住してから、シンガーそしてソングライターとして破格の成功を収めた。自ら歌った「カリフォルニアの青い空」にしても、カーペンターズに提供した「青春の輝き」にしても、どちらかといえばプロのポップ職人というイメージ。実際それらは、日本の歌謡曲~Jポップの世界でも重宝される形で当時からわが国でも広く受けいれられてきた(だから、ここでもイレギュラー的に邦題で表記してみた。この原稿のために今回あらためて調べてわかったのだが、70年代後半に日本でもヒットしたレオ・セイヤーの曲も書いてたんだ...。80年代には結構ビッグ・イン・ジャパンっぽい「おとなのポップ・ソングライター」的な側面もあった。なるほど、だから自分もとりわけ記憶に残っているのかな)。


 上記のような父親を持つ彼。これも今回初めて知ったのだが、なんと彼の父は2000年に大英帝国勲章までもらっているらしい。音楽業界に対する貢献により、ってことだろう。とすれば、彼としては微妙な気分だったかもしれない。なぜなら、ザ・ストロークスがラフ・トレードからのシングル「The Modern Age」でようやくレコード・デビューを飾ったのは2001年1月のことだったから。


 そんな親の影から(べつに、そのひとに対する個人的愛情を否定するわけではなく)脱すること。セカンド・アルバムという超初期、まるで青さのかたまりのような時期のディランの、それも(00年代に出た)最新ベスト・アルバムには入っていない(だけど、ディラン・ファンなら、ほとんどのひとが愛している)曲をやる。これ以上見事な「オルタナティヴ行為」があるだろうか? そして、あらためて冒頭のオリジナル曲のタイトルに感動する(「おれは生まれながらのできそこない」みたいな。そんな感覚は「くよくよするなよ」にも、もちろん入ってるわけで...)。


 とまあ、その2曲に関する話が多くなってしまい申し訳ないのだが、アルバム全体の内容も、素晴らしいですよ。ファースト・ソロ、セカンド・ソロ以上に見事な「現在の世界のスケッチ」になっていると思います。



(伊藤英嗣)

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ELYSIA CRAMPTON『American Drift』.jpg

 去年7月、フォルティーDLことドリュー・ラストマンインタヴューをする機会があった。そのときは実にさまざまな話をしたが、なかでもE+Eというアーティストの話で盛りあがったときのことは、今でも鮮明に覚えている。さらに、ドリューが主宰するレーベル、Blueberry(ブルーベリー)でE+Eと契約したいという裏話も聞き、ここまで音楽の嗜好が合うアーティストにはそう簡単に巡りあえないなと思ったものだ。このインタヴューから約1年後、E+Eがエリシア・クランプトン名義で素晴らしいレコードを発表してくれた。しかも、Blueberryから! ドリューはエリシアと無事契約できたというわけだ。本当に本当に、おめでとう。


 さて、そのレコードとは、『American Drift』と名づけられたアルバム。エリシアの音楽はサンプリングが基調にあり、ドリーミーで解放的なシンセ・サウンドを特徴としているが、それは本作にも引きつがれている。ひとつのサンプル・ネタを執拗に繰りかえし、その周りをさまざまな音が矢継ぎ早に飛び交うという手法も健在。それゆえ、これまでエリシアの音楽を熱心に追いかけてきた者からすれば、〝進化〟というより〝深化〟に聞こえるかもしれない。クドゥーロ、トラップ、アンビエントなど数多くの要素を細切れにして撹拌させた作風も、エリシアの十八番。それでも、本作をキッカケにエリシアの音に触れた者からすれば、〝衝撃〟になるはずだ。


 圧巻は、約10分に及ぶ「Wing」である。執拗に繰りかえされるアコースティック・ギターのサンプルを軸に、つぎつぎとSEが飛びだしてくる。そのSEを挟むタイミングがこれまた絶妙で、聴き手を陶酔に導くアグレッシヴなグルーヴを生みだす。それは言うなれば、恍惚と妖艶に満ちた愛しき激情。


 そして、『American Drift』というタイトルについても特筆しておきたい。このタイトル、日本語では〝アメリカの流れ〟と訳せるが、そうしたタイトルを掲げた作品で、銃の装填音や軍隊の掛け声にも聞こえるヴォイス・サンプリングを多用しているのは、どうにも意味深長だ。もちろん、筆者の考えすぎである可能性も否定できないが、本作は〝トランスジェンダーとして生きるエリシアから見たアメリカ〟という捉え方も可能だと思う。だからこそ本作は、キラキラとした高揚感を持ちながらも、同時にダークで殺伐とした空気が漂っているのではないか。と、筆者は解釈したが、あなたの心にはどう映っただろう?



(近藤真弥)