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CLNK『Black Ecstasy』.jpg

 ここ数年、ルーマニアのダンス・ミュージック・シーンが盛り上がっている。ペトレ・インスピレスク、ラレッシュ、ラドゥーといったルーマニア勢のトラックが世界中のフロアで鳴り響き、"ルーマニアン・ミニマル"なんてタームも生まれた。特にペトレ・インスピレスクは、ロンドンにある有名クラブ《Fabric》のDJミックス・シリーズ『Fabric』に起用されるなど、文字通り世界トップクラスのDJ/プロデューサーに登り詰めている。


 そのルーマニアが生んだ新たな注目株、それがCNLKだ。モンゴメリー・クランクという名でも知られる男が本作『Black Ecstasy』で示したのは、ベース・ミュージックを基調にアンビエント、テクノ、ドローン、アシッド・ハウスを切り刻んで溶解させたサウンド。ダンス・ミュージックのドラッギーな要素を抽出し純化させた音像が際立ち、一度足を踏み入れたら最後、永遠に眠りから覚めないのではと思わせる酩酊感が終始貫かれている。


 さらに注目すべきは、本作がドイツのレーベル《Error Broadcast》からリリースされたということ。ドイツといえば、世界的な名声を得ている《Ostgut Ton》、それからプリンス・オブ・デンマーク『The Body』のリリースも話題になったカルト・レーベル《Forum》があったりと、いわゆるテクノ大国として知られているが、近年はテック・ベース寄りの作品をリリースする《Dystopian》が注目されるなど、ベース・ミュージックの潮流も出来つつあり、その潮流における中心のひとつが《Error Broadcast》である。そんなレーベルがルーマニア産の、しかもベース・ミュージックの作品をリリースしたことは、2014年のダンス・ミュージック・シーンに興味深い流れをもたらすかもしれない。




(近藤真弥)

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 ブラッド・オレンジことデヴ・ハインズが以前やっていた(やはりワン・パーソン・ユニット)ライトスピード・チャンピオンは、本当に大好きだった。ソフト・サイケデリック/フォーク・ロック的なアレンジもさることながら、とにかく身もだえするほどいい"うた"をやる。サウンドのレトロな感触もあいまって、聴いた瞬間「名盤!」と思える...そして実際に聴きこんでしまう2枚のアルバムを残して、彼はまた新しい仮面(ステージ・ネーム)をまとうことにした。


 これは、ブラッド・オレンジと改名して2作目のアルバム。ライトスピード・チャンピオン時代には(先ほど言ったことと表裏一体をなしているのだが)"素晴らしいんだけど濃すぎる"と感じられる面もあった。"日常的に聴きながすには、情報量が多すぎて胃にもたれる"というか。ところが、ブラッド・オレンジは、そのあたりの"残念さ"をうまくクリアしている。


 ライトスピード・チャンピオンとしてのラスト・ミニ・アルバム(もしくはEP。リード・トラックはビーチ・ボーイズ「Till I Die」のカヴァー)「Bye Bye」で既にその傾向はあったものの、ブラッド・オレンジと名乗るようになってから、アレンジがぐっとエレクトロニック/ダブっぽくなった。


 それが、ますますいい味を出している。ほかのアーティストに例えるなら...そう...プリンスとカルチャー・クラブのギャップを埋める存在がヒップホップ/インディーR&Bノリでバック・トゥ・ザ・フューチャー! みたいな?


 ライトスピード・チャンピオン時代は、「こいつ、おかしいんじゃねえ?」と思えるくらいの頻度でブログを更新することで有名だった。最近もそれをやっているのかどうかはわからないけれど、彼は今もかつてと同じくらい...いや、それ以上に「時の人」たちから注目されているようだ。それもあって、ファッショナブルと評されることも少なくない。だけど、このカヴァー・アートは...「お洒落」の対極(笑)! そんな、アンバランスなバランス感覚も、素晴らしい。




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Burial「Rival Dealer」.jpg
 映画『Vanishing Point』(1971年)の主人公コワルスキーはある日、仕事で白のダッジ・チャレンジャーを陸送していたが、その際にスピード違反をして警官に止まるよう警告されてしまう。しかし彼は警告を無視し、ハイウェイを疾走し続けた。その姿にラジオDJのスーパー・ソウルは感化され、多くの人たちがコワルスキーに対して応援の意を示すようになる。それでもコワルスキーは孤独だった。疾走を続ける彼には誰も近づけず、ゆえに彼を理解する者もいなかった。


 筆者はブリアルの作品を聴くたびに、コワルスキーのことを想い出してしまう。例えば、インタヴューをほとんど受けずライヴも一切やらないというブリアルの寡黙さに、これまた寡黙なコワルスキーをだふらせてしまったり。それに孤独なところも相通ずる。なんとなく、ブリアルとコワルスキーは似ていると思う。


 意外に思われるかもしれないが、ブリアルはポスト・ダブステップを代表するアーティストでありながら、DJライクではないプロダクションが際立つ作品を多数生み出し、クラブ・シーンとは一定の距離を置いてきた。その距離感を維持することでブリアルは様々なレッテルや解釈から逃れ、だからこそ "ダブステップ" という言葉が過去になっても、ブリアルの作品は孤高の輝きと存在感を放っている。


 そんなブリアルの最新EPである本作「Rival Dealer」は、ブリアルをもってしても "時代" や "潮流" から逃れることは難しいという事実を私たちに突きつけている。まず1曲目の「Rival Dealer」は、躍動感あふれるジャングル・ビート、ハード・ミニマルに通じる4つ打ち、そして静謐なアンビエントなどで構成された組曲だが、ブリアルにしては珍しく迎合的なのが気になる。


 2013年はジャングル復興が大きな話題のひとつだった。スペシャル・リクエスト『Soul Music』がジャングル復興の象徴として受け入れられ、さらにDJラシャドが『Double Cup』でジュークにジャングルを溶け込ませたことからもわかるように、その盛り上がりは強い影響力を持っていた。また今年は、イギリスのハード・ミニマル新世代シフテッドとヴェントレスによるレーベル《Avian》が注目を浴び、そしてクラウズはジャングル、ハード・ミニマル、インダストリアルが交雑したアルバム『Ghost Systems Rave』を発表するなど、ハード・ミニマル復権の気運が窺える年でもあった。こうした動きに「Rival Dealer」は接近している。


 80sエレ・ポップで聴けそうなビートが刻まれる2曲目「Hiders」、それから長大なダウンテンポ・トラックに仕上がった3曲目「Come Down To Us」も、シーンや潮流を横目に独自のサウンドを築き上げようとする気概は薄い。全3曲とも良質なトラックであることは確かだが、長年ブリアルの作品に接してきたリスナーのなかには違和感を抱く者もいるはずだ。本作におけるブリアルは、流行に馴染むことで私たちの予想を上回り、裏切っている。


 そういった意味で本作は、"予想を上回る"という点ではこれまで通りだ。しかしその方法については賛否両論を呼ぶ可能性がある。もっと言えば、ブリアルはアンダーグラウンドにこだわるのをやめ、レッテルやジャンルだけでなく、自身にまとわりつくイメージからも逃れようと試みているのではないか? ということ。このままブリアルは逃げ続けるのか、それとも・・・。


 ちなみにコワルスキーは、彼を止めるために警察が設置したバリケードに最高速で突っ込み、その命を散らせた。



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 ニューヨークはブルックリンのバンド、ソルト・カテドラル。SXSW、Northside Festivalなどに出演して注目を集める彼らが契約したレーベルは、rega、Sawagi、チーナが所属している《SOPHORI FIELD COMPANY》。このデビューEPが世界初流通となる。


 ブルックリンといえば、アニマル・コレクティヴやMGMTなど、一筋縄ではいかない個性溢れる音作りとアートワークを際立たせるバンドが多い印象だが、まさしく彼らもそんな感じ。実験的なアプローチで色々な音楽の要素を再結合させて、新しいものを作っていくブルックリンのアーティスト達。彼らのDIY精神、異人種メンバーといった多様性がそれらに大きく作用しているのだろう。


 ソルト・カテドラルは透明感と力強さを兼ね備え、胸をときめくメロディーを奏でる2人組だ(ライブやレコーディングでは、+3人だそう)。初めて聴いた時は、淡々と始まってサビで浮かび上がってくるフワフワとした感覚にクラクラさせられた。2回目は音の重なりと旋律の美しさ、そして意外にもエモーショナルな感じが嬉しくなった。3回目はメロディーと言葉の絶妙な絡み具合に虜になってしまった。


 ポップ感を重視した輝きのあるサウンドの上に浮遊感のあるヴォーカルが転がっていく楽曲が特徴的で、今作には一聴すれば鼻歌ができそうなキュートなメロディーと、全体に漂う精緻なアレンジを併せ持つ全5曲が収められている。ポップとロックとエレクトロの境界線上で実験と発見を繰り返していることもあり、ファンタジックでスケールの大きな物語風の仕上がりになっている。また、フリアナの歌声は時々濡れて時々乾き、微細に姿を変えていく。クリアなその歌声は、グルーヴと共に澄み切った冬の空と同化してどこまでも広がる。そして、そんな彼女の伸びやかなヴォーカルと共に、ヴィジョンを限定しない曖昧さが魅力である彼らの楽曲だが、研ぎ澄まされた感覚と同時に、フラットでリラックスした感触があるのも凄くかっこいい。


 ムームに通じるヨーロピアン風味や、オーガニック、フォークロアといった要素の巧みな導入にも舌を巻くが、そこから生じたものを高潔で生々しく、しかも華やかに聴かせる彼らは才気走っている。ポップ・フィールドに大波を立てること間違いなし。


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 本当に面白い時代になったものだ......と書き始めるのはクッキーシーンでは二度目のことで、Youtubeの関連動画を駆け巡るような、音楽史観をかき混ぜる作品がメジャー/インディー問わず現れたり、ネットでシーンが可視化された分、日々音楽がアップデートされる様子を目に見えて感じていると、最早SNSで情報を簡単に共有できる時代に1000字以上というルールでここに書く意味とはいったい何だろうと思わされる。正直なところ、自分の知っている限りの蘊蓄を垂れ流したいという拙い邪念を取っ払ってしまえば、「読まなくていいからこのアルバムを聴いてくれ!」だけで済ませたい思いである。そんな無力感に抗うために今、この原稿を書いている。


 シギー・ジュニアは88~90年生まれのメンバーによって構成される5人組バンドである。『Shiggy Jr. is not a child』は、友達の家でホームパーティーをした楽しい記憶を蘇らせてくれる、夢見心地の25分間だ。先日渋谷でのライヴを拝見したが、実際に「パジャマでパーティー」というのはバンドとしてのテーマであるようだ。都会で暮らす若者が、「なんとなく集まって楽しいことしよう」という素朴でカジュアルな気持ちをそのまま音楽にしたような、そんな楽しさに溢れた居心地の良い風景であった。90年代渋谷系を通った人なら舌を巻かざるを得ないバンド・アンサンブル、そしてそれが土岐麻子擁したシンバルズを思い出させるためか、昨今の「萌え声系」バンドとの接続も感じ取れる歌唱も魅力的である。


 しかしシギー・ジュニアは、そういった「日本音楽史」的な先人達を引用されて語られながらも、そこに「コピペ感」をまったく感じさせないのが良い。たとえば同時期にリリースされた禁断の多数決のアルバム、『アラビアの禁断の多数決』とは対照的だ。彼らはほぼ全曲に渡って「海外からの輸入」を確信犯的に行い、それをJ-POPとして昇華している。彼らは現代を知っている。あらゆるサウンドが試されたロックバンドの土壌において真新しい革新的な音楽など作ろうものなら、一曲の完成にいったい何ヶ月かかるだろう。だとしたら、たとえそれがコピーだとしても、ポップスとしての機能が保証されているのであれば、楽曲を量産できるスタイルや技術を身に付けた方がよいのではないか。それを禁断の多数決は採用した。


 シギー・ジュニアが面白くまた不思議なところはその点である。確かにジュディ・アンド・マリーやシンバルズを引き合いに出したくなる気持ちも分からなくはない。が、シギー・ジュニアの鳴らすメロディーやコミカルなアレンジ、爽快感あふれる青春ロックには良い意味で歴史性が帯びていない。Youtubeの世の中であっても、ごく単純に「楽しさ」だとか「憧れ」や「寂しさ」からインスピレーションを受けたオリジナリティーを忘れていない。シーンとやらを横目で見ながら、といういやらしさもまったくない。Shiggy Jr. is not a child("シギー・ジュニアは誰かの子供じゃない")とはそういうことだ。ただ、タワレコで「2013年最後のシティポップ革命」とフレコミされていたのには少し考え込んでしまった。J-POP史における洗練されたアーバン・メロウな楽曲の系譜、すなわちシティー・ポップの範疇がこれほどまでに広くなったのは、ここ1~2年の話ではある。シティー・ポップと聞いて思い浮かべる今年のアルバムと言えば、一十三十一『Surfbank Social Club』や土岐麻子『HEARTBREAKIN'』、(((さらうんど)))『New Age』であるが、こういった70年代から80年代にかけての、都会の生活を心から楽しんでる風のカーステレオ・ミュージックへのストレートなオマージュ作品に対し、今インディーズで鳴らされている「シティー・ポップ」と括られがちな音楽はやはり、それらとは一線を画す距離感がある。森は生きているがシティー・ポップに括られている、と聞いたときも驚いてしまった。("森"は"シティー"にないでしょ!)


 個人的な話をすると、最近は住所不定無職の新作『Gold Future Basic,』を聴いて、ポップ・ミュージックとは誰のためにあるのかを考えていた。筆者は『Gold Future Basic,』を間違いなく傑作だと思っている。が、あの作品に私の考える「ポップ」を見出すことはできなかった。特定の人達だけに向けられた表現に思えてしまった。勿論、彼女らはそれを意図していないだろうが、前提を共有できる人だけに向けた音楽という、閉じた構造をそこに見てしまった。


 「ポップ・ミュージックとは誰のためにあるのか?」という命題にシギー・ジュニアは、「Saturday night to Sunday morning」のミュージック・ヴィデオで「それはすべての人のためにある」と回答している。典型的な日本家屋の和室にミラーボールを飾り、着飾らない格好で踊る。お泊まり会というテーマも日本の多くの若者が経験することだろう。だからこそ曲が終わってしまうのが寂しいのである。この楽しい時間がずっと続けばいいのにと感じさせてくれる。こんな事を褒めるのは変かもしれないが、30分弱というこのアルバムの尺は本当にちょうどいい。さくっと聴けて、さくっと幸せになれる、そして最後の「ばいばい」でほどよく現実に戻させてくれるのだ。


 昔と比べれば、遥かに便利になった現代でも何か物足りなさを感じる毎日に僅かでもポップを見出そうとする人々のささやかな日常の光景、あるいは分断されたポップ・カルチャーの先にあるほんの小さな希望のミラーボール。それこそ歴史を知らなくたって良い。知っていても楽しめる。そんな、誰にでも届く作品をシギー・ジュニアは作った。



(荻原梓)

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 複雑なアレンジ、忙しない転調、言葉が多すぎる歌詞。これらを揃えた音楽、強いて形容すれば "過剰な音楽"とでも言えばいいのか、最近いろんなアルバムなりEPを聴いていると、そういう作品に出逢うことが多くなった。"熱いなあ"とか、"情報量すげえ"とか、それはそれで興味深いと思うこともよくある。


 しかし、そればかりではさすがに疲れる。これまた強いて形容するならば、"退屈を楽しむような音楽"も必要だ。平凡な日常における小さな一幕を切りとり、そこにほんの少しユーモアを注いだ音楽。例を挙げると、フィッシュマンズ『空中キャンプ』のような・・・。このアルバムは、目の前に広がる日常を拡張し、退屈の面白さを教えてくれる。そして、《目的は何もしないでいること》(※1)と歌いながらも、そう歌えてしまうささやかな芯の強さもある。こうした作品に出逢うと、今まで以上に他者を好きになれたり、些細な出来事で笑える視野の広さを得られるのだから、ほんと不思議なものだ。


 may.eのセカンド・アルバム『私生活』も、そんな作品のひとつだと言える。may.eは、今年5月にファースト・アルバム『Mattiola』をリリースし、日本のインディー・ミュージック・シーンで話題を集めた女性シンガーソングライター。彼女の歌は平易な言葉で紡がれているが、そうして描かれる世界観は喜怒哀楽に収まらない感情豊かなもので、懐かしさと新鮮な空気が同居している。慎ましさと強さを滲ませる歌声も魅力のひとつ。その歌声は、先日おこなわれたTOKIO通信というイベントでライヴを披露した際も輝いていた。


 また、歌詞が全編英語で書かれていた『Mattiola』とは違い、『私生活』の歌詞は全編日本語である。それゆえ荒井由美に通じる巧みな言葉選びと語感の心地よさが際立っている。『Mattiola』と『私生活』、それぞれ異なる魅力を持つが、彼女の才能が明確に浮かび上がるという点だけを見れば、『私生活』のほうが勝ると思う。


 そして『私生活』を聴いて目につくのは、仄かに漂う退廃的雰囲気だ。それは『Mattiola』のドリーミーな音像とは違い、いささかトリッピーなものに筆者は見える。感情移入できる日常の匂いを醸す一方で、その日常から滑り落ちそうな危うさもちらつくのだ。それが顕著に表れているのは、2曲目の「おちた生活」。「おちた生活」のサウンドスケープに身を任せていると、意識が解体され惚けてしまうような気持ちよさに襲われる。


 『私生活』は基本的に、良いメロディーと良い曲、そして美しい語感を持つ言葉があるという、いわば真っ当なポップ・ソング集だ。とはいえ、よくよく聴き入ってみると、日常に潜む非日常、それこそ「日常を拡張」するための扉があることに気づく。感情の機微や他人の仕草といった、一見意味がないことをいつもとは違う角度から捉える視点、と言っていいかもしれない。そういった視点が『私生活』にはたくさんある。ゆえにこの作品を聴くと、目の前の景色がガラリと変わるのだ。



(近藤真弥)




※1 : フィッシュマンズ『空中キャンプ』に収録の「すばらしくて NICE CHOICE」の歌詞より引用。



【編集部注】『私生活』のデジタル版はこちらからダウンロードできます。

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 プラスチックスのメンバーとして知られる立花ハジメのアルバム『Monaco』は、保証書が付いてくるという斬新な作品である。2012年のオヴァル『Ovaldna』のように、ライナーノーツをデータとして収録する試みだけなら以前にも存在したが、そもそもCDで出さずにUSBというフォーマットでリリースしたのは面白い。収録されているのはアルバム音源(新録+プラスチックスの77年のライヴ)、フォント2種、デラウェアのサマタマサト氏によるデジタル・ライナーノーツの3つ。


 1976年に結成されたプラスチックスは、79年に《Rough Trade》から発表したシングル「Copy / Robot」を経て、80年にファースト・アルバムをリリース。同年ニュー・ヨークでB-52ズやトーキング・ヘッズのサポート・アクトをおこなったのち、81年のトーキング・ヘッズ来日公演では二度目の前座を務めている。トーキング・ヘッズが79年に初来日したときは、プラスチックスがツアー・パンフレットやポスターのデザインを担当。B-52ズのジャパン・ツアーのパンフレットもデザインしており、プラスチックスはデザイナー集団としても活躍していたようだ。それらのアート作品は本作のデータ内にも使用されている。


 ポリティカルで限定的だったパンクが音楽性や表現など本当の意味で自由になったポスト・パンク/ニュー・ウェイヴという時代に、プラスチックスはテクノポップとして鮮烈にデビューし、そして81年にあっという間に解散したわけである。彼らがアートで表現し伝えたかったもの/伝わってきたものは、何かに対するメッセージよりもスタイルであり生き方だった。その先駆的な試みによって、時代を先取りした彼らは後進に多くの影響を与えた。このアルバムに収録されている「Max's Kansas City」という曲の歌詞には、当時ニュー・ヨークで活躍した多くのロック・バンドの名前が出てくる。それらをどこか昨日のことのように話している気がして、この作品自体が自主制作で好きなことをやっているだろうと思うからこそ、昔のライヴ音源であったりデザインであったりというこれまでの活動を含めて収めた自身の半生を網羅する作品になっていると思う。


 ところで、アルバムのタイトルになっている"Monaco"というのは、フォント=書体の名前の一つ。いわゆるビットマップ・フォントで、付属された六角形のパズルアートのようなものもビットマップを彷彿とさせる。筆者は90年代半ば頃からマックを使用しているが、英語フォントは都市名が使われていて(漢字Talkが出てきて日本語もOsakaやKyotoが使われるようになったと記憶している)、この『Monaco』のアートワークに使用されている文字が、"Monaco Family"という今回収録されているフォントである。マックの初期デフォルト・フォントを"リミックス"したMonaco Punk、Geneva Punk、San Francisco Punk、New York Punk、London Punk、Chicago Punk、Los Angeles Punk、Athens Punk、京都パンク、大阪パンクというフォントのなかから、最終的にMonacoのリミックス・フォントをMonaco Familyとして発表することにしたのだそうだ。


 音のほうは、パンキッシュな鋭いギターとダンサブルで明るいポップな要素が違和感なく同居している。流行を取り入れているわけではないが、むしろ音に時代性を込めないことでタイムレスな作品に仕上がったのかもしれない。プラスチックスのサウンドは、このアルバムに収録されたライヴ音源からもわかるように、初期の録音はパンク色が非常に強く、一般的にテクノポップと称されるものとはだいぶ異なっている。もっと時代の空気感や、当時活動していた他のバンドとの関係性も見えやすい。そんなふうに時代背景とともに歩んできた音楽というものを、ここまで独創的に切り取れることに大変感服するし、だからこそこの『Monaco』でもフォーク・ミュージックの弾き語りカヴァーを4つ打ちにしてしまったり、普通では考えにくいことが起こっているのだ。


 誰もやらないことを誰よりも早くやるということが、常にグラフィック・デザイナーとして、ミュージシャンとして、本人の言葉を借りれば"レールを敷いている"、つまりあとから皆が真似してくれるように道を作るという氏のやり方であり考え方である。"スタイルを作るのが仕事だ"と以前インタヴューで語っていたことがあるのだが、それはプラスチックスのライヴでテレビを積み上げて映像を取り入れることでもあり、CDではなくデータをアート作品として販売することでもあり、一貫して昔から変わっていない価値観なのだろう。だから、USBというリリース形態でも、或いは音楽的な部分でも、誰かがそれを受け継いで次に繋いでいってくれればいいと思う。



(吉川裕里子)



【編集部注】『Monaco』はオフィシャル・サイト内のオンライン・ストア にて購入できます。


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 休日に聴くレコードって言われたら、どんなものを思い浮かべるんだろう。暖かい日差し、ぽかぽかとした気温、ゆっくりと流れる時間に乗せて鳴るような、そんなレコードがいい。ポニーのヒサミツ『休日のレコード』は、そんな理想の休日の音を気ままに、ゆるやかに奏でてくれる。


 ポニーのヒサミツは、シャムキャッツの夏目知幸が参加する"夏目知幸とポテトたち"で活動をしており、2008年にソロ活動を始めた。2012年には「分相応」というCD-Rも発売している。今作『休日のレコード』は彼の中に根付いたカントリーの香ばしいにおいを感じる、極上のアコースティック・ポップだ。


 今作は歌もの9曲とインスト6曲の全15曲で構成されている。アルバム全体にのんきで気怠い空気が蔓延していて、アコースティック・ギターやバンジョー、マンドリンが印象的に用いられている。どの曲をとっても、別の世界に連れていってしまうような超越的なことを歌っているわけではなく、あくまで日常に根付いた感情に寄り添い奏でる。ありのままの生活をありのままの音で、決してきばらず、決して背伸びせず、今日のことをぼんやりと考えている、そんな曲たちが収録されている。


 コーラスとヴォーカルの柔らかな絡みが心地よい「続きを聞かせて」では、出会ったばかりの君が知りたいけど全然わからないから話の続きをどんどん聞いてしまうし、「明日は休み」は休みの前日に明日のことを考えていると、まだ休日でもないのにふわふわと浮かれてしまう時のようなのんびりとしたリズムとメロディーが特徴的。小気味よいリズムに身を任せたくなる「休日」は、やることがないけどとりあえず靴を履いて外に出てみたり、夜になって今日一日を思い出してみたらなんだか嬉しくなってしまうという、なんてことない平凡な休日を描いている。他にも、あこがれの君に話しかけたいけど勇気がなくて話しかけられない「あのこのゆくえ」など、自分の半径5メートル以内の世界が歌の中で広がる。


 ドラマみたいに特別なことが起きるわけでもない日常に、それでも嬉しくなってしまうのは、自分で小さな幸せを日々見つけているからなんじゃないか。それは決して大仰なものではなくて、外がカラッと晴れていることだとか、ジャケ買いしたレコードがすごくよかっただとか、そんなレベルのものだ。自分の欲求に沿ってやったことがもしくだらないことだとしても、自分にとって意味があったら、それは素晴らしい日常だ。


 ちょっとだけ嬉しいことが続いて、毎日が進む。『休日のレコード』は、そんなささやかな日々にのんびり気ままに寄り添ってくれるだろう。



(竹島絵奈)

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 ロゴスのデビュー・アルバム『Cold Mission』についてまず目がいくのは、アルバム・タイトルだろう。往年のダンス・ミュージック・ファンはお気づきだと思うが、ドラムンベースの発展に多大な貢献を果たしたユニット、4ヒーローの別名義と同じなのだ。実際アルバム・タイトルには、4ヒーローへ向けたオマージュが込められているそうだ。


 ロゴスはロンドンを拠点に活動するアーティスト。これまでに「Medicate」「Kowloon EP」といった作品を発表してベース・ミュージック・シーンに受け入れられたものの、決して多作というわけではなく、正直目立つ存在ではなかった。それにしても大層な名前を掲げたものだ。そもそも"ロゴス"は、古典ギリシャ語で"理論" "思想" "意味"など、様々な含意を持つ言葉。ストア哲学や論理学をかじった者ならよく見かけたのではと思う。


 そんな言葉をアーティスト名にしたせい、かは知らないが、本作の音楽性は実に多彩である。ざっと思いつくだけでも、グライム、ドローン、インダストリアル、テクノ、ジャングルなどなど。そして、これらの要素が撹拌され生まれたのは、《Night Slugs》や《Fade To Mind》周辺のサウンドに通じるメタリックで硬質なベース・ミュージックだ。


 とはいえ、それらのサウンドと比較すれば、本作はいささか急進的に聞こえる。例えば《Night Slugs》からリリースされたジャム・シティーの『Classical Curves』は、ありえないタイミングで音が鳴る実験的ビートを打ち出していたが、同時にビートの反復性もかろうじて維持されており、ゆえに没入できる分かりやすさもあった。しかし本作のビートはお世辞にも聴き手に優しいとは言えない。むしろ聴き手にどこでリズムを取るのか選ばせる、言ってみれば能動性と想像力に依拠している。


 だが、そこが本作の面白い点なのだ。オープニング曲の「Ex 101」を例にしてみよう。この曲はチープなシンセ・サウンドで幕を開けるが、突如キックが鳴り響き、かと思えばリムショットの連打が交わるなど、とても忙しない曲。一定の間隔で刻まれるのはざらついたハイハットのみで、ほとんどの音はランダムに現れては消えるという有りさま。これではさすがに踊れないと思うところだが、注意深く聴きいってみると、確かに踊れるリズムを見いだせる。そういった意味でこの曲は、ブライアン・イーノが提唱したアンビエント・ミュージックの定義をベース・ミュージックの文脈で解釈している。


 こうした「Ex 101」のような曲で本作は占められ、それゆえ『Cold Mission』は聴き手の解釈、もっと言えば誤読を促す内容になっている。そのような作品から1曲でもダンスフロアでプレイされたらどうなるだろう。それぞれ自分のダンスを踊りはじめ、多様性あふれる新たな共有の形、普遍性、一般性が現れるかもしれない。様々な価値観、様々な人種が集いひとつの熱狂を生み出す。そんな可能性に本作は手を伸ばしている。


 ちなみに本作は、ロゴスいわく「海賊放送で流れていたグライムを懐かしむ気持ち」がコンセプトだそうだ。ダフト・パンクが『Random Access Memories』で70年代のソウルやディスコへの愛情を示せば、カット・コピーは『Free Your Mind』でセカンド・サマー・オブ・ラヴに対する憧憬を鳴らすなど、いわば過去を用いて未来を切り開こうとする動きが多いなか、ロゴスも同様の道を選んだということか。もしかすると、看過できないほどにノスタルジックの波は広がっているのかもしれない。もちろんそれをどう捉えるかはあなた次第だが、筆者はもう少し深く考えてみようと思う。



(近藤真弥)

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 不安や孤独で一杯だった幼い頃の僕に、成長した現在の僕が手を貸してそっと包み込む。「大丈夫だよ、お前はきっとなんとかやっていけるから」。現在の僕は幼い僕にそう呼びかける。


 京都、大阪在住、オルタナティヴ・ギター・ロック・バンドbedの新作を聴いてそんなイメージが浮かんだ。ファースト・アルバムを名古屋の《iscollagecollective》から発表し、2011年の7インチを同じく名古屋の《STIFF SLACK》からリリースしていることや、LOSTAGEやOGRE YOU ASSHOLE、bloodthirsty butchersらとの交流から、ある程度彼らの音楽性は想像できるかもしれない。ゆらゆら繰り返されるギター・リフは心地よいゆりかごのようで、芯には熱がみなぎっている。


 粒ぞろいの曲が並ぶこのレコードをかけて縁側に寝転ぶ。時間の流れが変わる。例えば5曲目「ピリオド」のコーラスでなんだか泣きそうになってしまう。子どもの頃、親が共働きで、不定期に祖父母の家に預けられ、友達もろくにおらず、一人で蝉のぬけがらを集めていた夏の日を想い出す。続く6曲目「言い訳」になぜかほっこりする。架空の二人が挨拶をかけ合うような不思議な歌詞。


 Bedの歌は我々を派手に鼓舞したりはしない。その代わり、忘れていた「怯えた自分」を見つける手助けをする。彼のあやし方を教えてくれる。後悔も、それを打ち消すために口にした言い訳も含めて、過去から現在まで一貫して自分は自分。そこからやっていく、間違いを一つ一つ訂正していくしかない。彼らの音楽を聴いていると、そう語り合っている気になってくる。


 話は少し変わる。bedのインタヴュー、レヴュー等をまとめたメンバー公認の電子書籍が発行されており、そのなかでタワーレコード京都店の堀田慎平はこう書いている。「今作では派手な展開やアレンジがあるわけではないし、シャウトも控えめ。言うなれば常に平熱で続いていくアルバムだ。(中略)人は平熱のときが一番心地良いものだ。高熱にうなされてばかりではいられない」。


 全くその通りだし、私はこのレヴューを読んで、躁うつ病への精神療法を思い出した。例えば激しいハード・ロックを聴くのが楽しいのと同じように、躁状態の人が徹夜で仕事をしたりクラブ通いをするのは病みつきになるのかもしれない。躁うつ病の人は少し気分がハイ(躁)な状態を正常だと考える傾向がある。だから正常の状態を調子が悪いと勘違いして、「自分はうつではないか」と精神科を受診することがある。まさに平熱の心地よさに慣れる必要があるのだ。最終曲「僕ら」でbedはこう歌う。《僕らは僕らでやってる それなりに楽しくやってる》。そういうことなのだ。



(森豊和)