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汚染水.jpg

 「やっぱ自分の踊り方で踊ればいいんだよ」。マシンガン・ラップに切れ味のいいビート、最高に踊れるファンク・チューンで、私は何度リピートしたか分からない。


 彼の思想や今までの経歴とかはどうでもいい。現在の曽我部恵一は飛ばしている。アルバム『超越的漫画』からわずか1ヶ月のインターバルで突如リリースされた本7インチは、可愛らしいジャケットに踊れるビート、言ってみればそれだけ、そしてその即効性はポップ・アート、ポップ・ミュージックが持つ最大の武器だ。ずぶずぶしたダブに、一聴、意味のない対語の羅列のようなラップは、我々のハート(心臓)を的確に打ち、ビート(鼓動)を加速させる。


 B面が小沢健二「痛快ウキウキ通り」のカヴァーというのもたまらない。リヴァーブをかけた懐古的なガレージ・ファンク仕様のサウンドは、この曲がヒットした90年代がもう帰ってこない事実を我々に突きつける。モノクロ映画、あるいはドラマの回想シーンのよう。たまらなくメロウでせつない気持ちにさせる。


 A面に話をもどせば、小気味いい言葉の乱舞のなか、汚染水という言葉は巧妙に処理され耳に残らない。私は《君の汚染水を》というサビの歌詞を「君のセンスいいよ」と空耳したくらいで(笑)、サウンドそのものが脳に突き刺さる。汚染水とはこの曲を聴いている君のことで、曽我部はそれを受け入れると歌っているが、別に歌詞を聴き取らなくとも、曲全体のフィーリングとして伝わってくる。攻撃的でシニカルで、しかしどうしようもなくラヴ・ソングだ。ほとんど誰も賛同してくれないだろうけど別にいい。OTOTOYのインタヴューで曽我部自身もこう語っている。「たとえば、《与党も野党も政治家も芸術家も被害者も加害者も部外者もバカばっかり》と俺が歌ったときに、みんながその通りだと思わなくたって、俺はぜんぜんいいんだ」。


 最後に一つ付け加える。ミュージック・マガジン2013年11月号のインタヴューで、曽我部はじゃがたらのヴォーカリスト江戸アケミについて言及している。彼の台詞が書かれた、三軒茶屋のレコード店フジヤマの看板を最近よく見に行っていたという。冒頭に書いた台詞がそれで、そして全てだ。



(森豊和)

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音速ライン.jpg
 優れたポップ・ミュージック...というか、ぼくが好きなタイプのそれには、「出会いと別れ」の要素が同時に入っている。だから、悲しいんだか楽しいんだかよくわからない...みたいな。


 ぼくと音速ラインとの出会いは結構古くて、00年代前半なかばごろまでさかのぼる。実はそれから...00年代後半は少しごぶさたしていた。当時彼らがいろいろヒット曲を出していることは知っていたし、そういう曲はもちろん普通に聴いていたけれど、忙しさにかまけて「アルバムをちゃんと聴く」ことはできずにいた。でも、この新作のタイトルを見て、たまげた。「おお! これは...!」みたいな。


 素晴らしいと思った。上記のような理由から、いわゆる「彼らの従来のイメージ」と比べてどうこうはできない。それが口惜しい。でも、基本的に(かなりマニアックな)洋楽ファンでありつつ、日本語の素晴らしい歌も聴きたい...と常に思っている自分のような者に、ずっぱまり。これはたしかなことだ。


 今この時点でどうなのかは寡聞にして知らないけれど、少なくとも00年代の末ごろまで、中心人物の藤井(男性)は出身県でもある福島に住んでいた。もちろん、人気者になったあとも。いや、むしろ、がんがんヒットをとばすようになってから、そうなったんだったかな? とにかく、そんな「ちょっと変わった形の、地方出身者としてのこだわり」みたいなものが、彼らの音楽には常にはりついているような気がしていた。本人が意識しているかどうかは別として。


 つまり「ジャンル的なものの越境の仕方」が、いい意味で、ベタなのだ。このアルバム・タイトルについて、セルフ・ライナーノーツで中心人物藤井は「昔、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインが本気で好きだったし、実際、内気だった。でも、今はライヴで『しゃべりすぎ、MC多すぎ』みたいに言われる。不思議だよね(笑)」といった意味のことを書いている。「彼らの世代」で「こういう音楽をやっているミュージシャン」のコメントとして、なんというか、100回くらい「いいね!」したくなってしまった。


 彼らが「シューゲイザー」かどうかなどという議論をする気はさらさらないと断ったうえで言っておけば、このアルバムには強烈にライドを思わせる部分もティーンエイジ・ファンクラブを思わせる部分もある。アルバムも終わりに近づいた10曲目の「Bye Bye Blackbird」というタイトルからは、ちょっとストーン・ローゼズを思いだしたものの、アレンジや曲調自体は、むしろいわゆる「渋谷系」に近い? しかし、この直前の2曲...「東京」「ゆうれい」を聴いてぼくは、むしろ「従来の、いわゆる『東京的なもの』に対する強い批評性」を感じた。そのあとに、これ...? だけど曲名でも「バイバイ」と言ってるしな...という...!


 はっきりしないといえば、はっきりしない(笑)。だけど、ぼくは、この「はっきりしなさ加減」から、吉田拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を思いだしてしまった(わざわざリンクした理由? 実は、このアルバム・タイトルおよび藤井のコメントを見た時点で、咄嗟にこれが頭に浮かんでしまっていたので...。すみません:汗)。


 このアルバムにおける彼らの音楽を表現するには、初期スピッツとかをひきあいに出すべきなのかしら? とか思いつつ、まあ、音速ライン、00年代後半には、吉田拓郎トリビュート・アルバムに参加したこともあった。ちなみに、彼らは当時ほかにも、ブルー・ハーツ、ニルヴァーナ、そしてレディオヘッド・トリビュート・アルバムにも参加していたけどね!


 この文章の最初で「出会い」に関してはっきり言えなかったのは、かつて00年代前半、クッキーシーンが編集部の住所を(新宿に移る前、まだ渋谷にあった時期に)公開していたころ、彼らはそこにデモ・テープを送ってくれていたから。そんな縁もあって、ぼくは06年のセカンド・アルバム『100景』のライナーノーツを担当した。今となっては、なにを書いたか忘れてしまったけれど(どんな「思い」をこめたかは、もちろん今もはっきり憶えている)、そのアルバム、とくに愛知の自宅に戻って車に乗っているとき、本当によく聴いた。大好きだった。


 本作のオープニング曲のタイトルは「G.B.V.」。瞬時に、あのバンド(もともとザ・ストロークスも、彼らのフロント・アクトでその名が知れわたったことが最初の一歩だった)の略称? と思ってしまった。それこそ(そのバンドがクッキーシーンに頻出していた)90年代や00年代前半のことを思いだして。


 ガイデッド・バイ・ヴォイシズ(声に導かれて)。いい言葉じゃない? もちろん、彼らがその略称のつもりで、この言葉を使ったのかどうかは、よくわからない。


 そしてラスト曲「彼女といえば」。最初に聴いたときは、普通に「なんか悲しい、でもどこかポジティブなラヴ・ソング」として耳に飛びこんできた。だけど、次に聴いたときは「そういった昔のマニアックな音楽に対して、猛烈に感謝しつつ、次のステップに進むために、とりあえずの別れを告げている歌」にも聞こえた。まあ、どっちでもいい...というか(ぼくにとっては)後者ともとれてしまうだけに、なんとなく胸が痛む。だけど、もしそうだとしたら、それは彼らの「強さ」を意味する...と評することも可能だ。


 『100景』ほど、ぼく自身何度も何度も聴きまくるかどうか、それはまだわからない。だけど、少なくともこう言える。きっとまた、折にふれて聴きなおすだろう。そんな予感に満ちている。


 グレイト!





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RECONDITE『Hinterland』.jpg

 昨年リリースしたアルバム『On Acid』ではアシッド・サウンドを追求し、かと思えば、今年ダブステップ以降のベース・ミュージックとベルリン・テクノが交わるEP「EC10」を発表するなど、実に幅広い音楽性を持つレコンダイト。音楽活動を始める前は理学療法士として働いていたが、スーパーピッチャーのミックスCDを聴いたことがキッカケで音楽制作にのめり込んだらしい。


 そんな彼が作り上げる音楽は、作品ごとに違いはあるものの、基本的には曖昧ながらも不思議と惹きつけられるメロディーが常に存在している。豊かで広がりのあるサウンドスケープも特徴のひとつで、ヘッドホンで聴いていると、的確なパンニングと磨き上げられた音粒のクオリティーに驚かされる。DJ活動は一切しないというテクノ・シーンでは珍しいタイプだが、多くのDJがスピンするだけあってフロアで映える曲も多い。


 そうした彼の音楽にある魅力は、本作『Hinterland』でも健在だ。フィールド・レコーディングした音を加工して使用する手法はミュージック・コンクレートに通じ、ひややかながらも温もりあるサウンドに4つ打ちのビートが絡むさまは、優美かつ官能的だ。腰を振らせる肉感性はないものの、そのかわり心を飛ばすマインド・ミュージックとしてのダンス・ミュージック、言ってみれば"チル"なトラック群が本作には収められている。


 また、ストイックな抑制美も印象的。音の抜き差しによって起伏を作りだす巧みなプロダクションは、聴き手を徐々に高ぶらせながらも完全には昇天させず、それはさながら心地よい愛撫をずっと楽しんでいるかのようだ。先に"官能的"と書いたが、本作には健全な彼のライフスタイルからは想像できない粘着質な狂気が宿っている。そしてその狂気は、聴き手の心を少しずつ解きほぐし、五感を支配する。


 普段の生活で溜まった欲求を音楽にして発散するアーティストは多いが、あまり酒を飲まずドラッグもやらないというレコンダイトも、そのひとりなのは間違いない。ただ、レコンダイトが他の多勢と異なるのは、自身と作品の間にかなりの差異があるということ。例えば、多くの辛い経験を持つパッション・ピットマイケル・アンジェラコスが、自身の作品では強迫的にハッピーなポップ・ソングを鳴らすように、作品とパーソナリティーは必ずしも一致するわけではない。


 音楽を作る理由は人それぞれだが、もしかするとレコンダイトやマイケルにとって"音楽を作る"という行為は、一種のセラピーなのかもしれない。それゆえレコンダイトやマイケルの音楽には、多くの感情にまみれながらも力強いピュアな側面がある。いわば正直なのだ。


 表現者には、多くの人の前で自らを曝け出すことが求められ、ゆえに正直さが必要となる。そういった意味でレコンダイトは真の表現者だ。彼の音楽を前にすれば、生半可な自己顕示欲を見せつけるだけの音楽など跪くのみ。



(近藤真弥)



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FU-MU POP EYE SNOB.jpg

 とにかくすごいユニットだ! 二人で複数の楽器とループ・システムを使い分け、あっと驚く音の磁場を作り上げる。名古屋在住の石井健太と中溝悦雄によるツイン・ヴォーカル・ユニットFU-MU。彼らはファンク、ジャズ、ヒップホップ、エレクトロニカ、様々な要素を組み合わせたトラックに、90's J-POPばりにキャッチーで郷愁さえ誘うコーラスを乗せる。打ち込みを一切使わないリアル・タイム・サンプリングによる即興性の高いライヴ・パフォーマンスは独特だ。緻密でパワフルな演奏、アート方面に向かいがちなところを、ギリギリ踏みとどまっている肉体性、そして最終的なポップさといったら! 


 例えば「models」を聴いてみてほしい。不敵にもMr. Childrenに影響を受けたと自ら公言する甘いコーラスが、弾けるようにうねるファンク・ビートに乗るさまは、聴く者にいびつな多幸感をもたらす。サンプリングによる音の重なりが立体感を生み、時に風の匂い、小川のせせらぎ 小鳥の声を幻出させる。アルバムを通して一本の映画を観ているような、違った大陸に住む人々の生活の息吹が伝わってくるような、そんな感覚を与える。かつて伊藤英嗣はフレーミング・リップスを「どうしてこんなポップなバンドがバカ売れしないんだろうと思うと同時に、なぜここまでアバンギャルドな音楽で続けられるんだろうとも思う。彼らの音楽には明らかに二面性がある」(※1)と評した。FU-MUにも私はまったく同じ言葉を捧げたい。


 「とてもごちゃごちゃしてまとまりがないかもしれない。おもちゃ箱をひっくり返したようなって表現があるけれど、僕らの場合は楽器箱って感じでしょうか。伝えたい気持ちはシンプルに曲のタイトルのままです。皮肉を言いながらも、でもわかる人には聴いてもらいたいし、やはり人とつながりたい」。そう石井は語る。同じく名古屋で活動していたOGRE YOU ASSHOLE出戸学の発言を思い出した。彼はインディー時代に「僕らの音楽なんて誰にも分からないと思う。自分達だけでいいものを作っているだけ。お客さんに伝わったらすごいよね」(※2)と語っており、実際、当時のライヴで出戸に感想を告げると戸惑ったような、少しはにかんだ表情をしたもので、FU-MUの2人もやはりそんな感じだ。彼らの音楽は名古屋のみならず、日本中見渡しても珍しく流行から外れているように思う。しかしSTUDIO VOICEで「シーンの鬼っ子」と評されたように、現在の音楽シーンを大きく変える可能性を秘めたアクトだ。実際、そんな彼らにも徐々に仲間が増えつつある。盟友のFREE CITY NOISE、ダモ鈴木との共演にも誘ったドロロニカ、彼らを慕うsukida dramas、一緒にツアーするPOP-OFFICEなど、狭い名古屋のシーンで異端同士が惹かれ合い集まっていくのかもしれない。


 彼らは元々、ソニック・ユースに影響を受けた4人組バンドを組んでいた。そこから1人、また1人メンバーが抜け、それでも続けようとした時、今の音楽性が生まれたという。彼らは「欠落」から始まっている。不完全であること、逆境を逆手にとって生き延びるための音楽。私はそう解釈したし、あながち間違いではないはずだ。そしてFU-MUの音楽が時代の求める音の飢え、欠落とリンクする時が来ることを私は確信している。



(森豊和)



※1 : 伊藤英嗣著『ネクスト・ジェネレーション―ロック&ポップ・ディスクガイド1980‐1998』より引用。


※2 :『Rockin'on JAPAN 2008年11月号』インタヴューより引用。


【編集部注】文中におけるメンバーの発言は、執筆者がおこなったメール・インタヴューからの抜粋です。

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hysteric picnic.jpg

 不思議だ。ニュー・ウェイヴ/ネオ・サイケ直系の生々しいサウンドは、なぜか明治大正期のピカレスク・ロマンの香りがするし、乱れ飛ぶノイズの隙間からはユーモアやペーソスが漂う。5曲通して聴いて脳裏に浮かんだのは宇宙旅行の妄想から死後の世界、果ては永劫回帰。そう、彼は何にでもなれるのだ! ガーディアンの記事を読んで驚いた。この音楽は「ディストピアでの孤独」と評されている。似たようなことを考えるものだ。


 サヴェージズとの親交でさらに注目度が増したBo Ningen、2014年2月にフル・アルバムをリリースするテンプルズ等、国内外でサイケデリック・バンドの台頭著しい昨今、本稿の主役Hysteric Picnicも注目すべきニュー・アクトだ。彼らは2011年結成、リズム・マシーンを操るヤマシタシゲキとヴォーカルのオオウチソウからなるデュオである。二人ともギター、シンセサイザーを使いこなし、パソコンではなく、わざわざカセット・テープを頭出ししてライヴのオケに使う。リード・トラック「Cult Pops」のメロディーは童歌の「かごめかごめ」を連想するし、「潮騒」という曲は流麗な単音ギターがまるで三味線のよう。ダーク・ウェイヴを日本人が今の感性で解釈したミニマルな楽曲に、クールだがどこかユーモアを感じさせるシャウトが絡まる。曲が始まった瞬間から他のバンドとは違う奇妙な響きを醸し出す。


 曲に含まれるユーモアについて指摘するとオオウチは私にこう語った。「結成当初からユーモアは重要なキーワードでした。日本語の歌詞にしたのもユーモアが入る余地を残したかったからです」。一方、「眩暈」という曲では地の底から響くうめき声のようなギターが耳をつんざく。めまいで倒れた男の苦痛がダイレクトに伝わってくる。実際、「生々しい緊張感を出すために、ほとんど録音し直さず、ミキシングも偶然を重視した」と話してくれた。彼らは結成当初ニューヨークのライヴ・ハウスやバーで即興演奏を繰り広げていたという。そういえば2013年秋に七尾旅人がニューヨークでライヴをした際に、「日本で受ける曲はそのままの形で演奏しても受けない。日本では客を集めづらい地味な弾き語りや尖った即興の方が受ける」と語ったが、同じことを彼らも肌で感じていたのだろう。またオオウチは現在もソロで海外レーベルからリリースしている(最近ではデンマークの《Metaphysical Circuits》というレーベルのコンピに参加)。


 ところで、『Unknown Pleasures』 のライナーでピーター・フックはこう語っている。「イアンが全てのリフを見つけ出したんだ」。イアン・カーティスは他のメンバーがセッションで無意識に演奏した埋もれがちなアイデアの断片を、素晴らしい耳で選び取って曲に生かしたという。2013年の今、遠い異国、日本に住む若者の感性でHysteric Picnicはその美学を継承する。ジョイ・ディヴィジョンの魂は何度でもよみがえる。



(森豊和)

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CUT COPY『Free Your Mind』.jpg
 パソコンを使ってきた人であれば誰でも知っていることだが、テキスト・データ(もしくは音声データもしくは画像データ)のある部分を選択してコマンドXを入力すれば、そこが消え、メモリーに保存される。これが「カット」だ。でもって、次にコマンドVを押せば、先ほど消えた部分が、あら不思議。カーソルを置いた部分に現れる。これを「ペースト」と呼ぶ。選択部分を消さずにそのまま残しておいて「ペースト」用に保存したければ、コマンドCを押せばいい。パソコン用語で「コピー」というのは、これを指す。


 今や日本では「コピペ」という短縮形がひとり歩きしてしまっている感もあるけれど、それがパソコン用語の「コピー・アンド・ペースト」からきていることは言うまでもない。


 彼らカット・コピーは、2001年にオーストラリアのメルボルンで結成されたエレクトロニック・バンドだ。当時は、まだまだパソコンやインターネット文化が新鮮だった(ちなみに、1997年にクッキーシーンを雑誌として創刊したころは、まだすべての原稿をファックスで受けとり、それをタイピングしてMacにつっこんでいた。00年代に入って、ようやく半分以上のライターさんがメールで原稿送ってくれるようになった。ぼくも最初はiTunesじゃなくMDで付録CDの選曲やってたし...)。90年代にハードディスク・レコーダーが廉価一般化し、いわゆるサンプリングが身近になった。それも、つまりはハードディスク上で(パソコンと同じように)データをやりとりするもの。カット・アンド・ペーストもしくはコピー・アンド・ペーストもお手のもの。このバンド名を見て、素晴らしいエレクトロニック・ポップに酔いつつ、当時ふと思ったのは「あれ? カット・ペーストとかコピー・ペーストじゃなくて、カット・コピーなんだ。ふーん...」という...。


 2004年にファースト・アルバム『Bright Like Neon Love』を発表してから約10年、待望のニュー・アルバムがリリースされた。前作『Zonoscope』から2年半ぶり、通算4作目となる。そのすべての発売元となってきたモデュラー・レコーズともども、オーストラリアのオルタナティヴ・エレクトロニック・ポップの屋台骨を支えつづけ完全にその顔役となったカット・コピーだが、その音楽に内在する新鮮さはまったく失われていないどころか、フレッシュそのもの。気持ちいいことこのうえない。


 タイトルとアートワーク(文字の色づかい)が、とてもサイケデリック。ラスト・ナンバーは「Mantra」だし...。音楽的にもそんな要素に充ち満ちているのだが、よりユーフォリック。60年代のサマー・オブ・ラヴというより、80年代後半のセカンド・サマー・オブ・ラヴ~90年代初頭のいわゆるUKインディー・ダンスを思わせる部分を、うまくとりいれている。


 全14曲中10曲目は「Meet Me In A House Of Love」。冒頭の「Intro」につづくタイトル曲「Free Your Mind」が結構『Screamadelica』っぽいこともあって、思わず80年代後半にクリエイション・レコーズからデビューしたハウス・オブ・ラヴというバンド名なんかも頭に浮かんだが、彼らはかなりオールドスクールなギター・バンド。それより、こっちだよ! とばかり思いだしたのが、80年代なかばにウォズ(ノット・ウォズ)が出したシングルの曲名「Spy In The House Of Love」。ぼくが「ハウス・ミュージック」という用語を最初に知ったのは、今野雄二さんによるこれの解説をとおしてだった。実は、もともと50年代に出版された小説に『A Spy In The House Of Love』というものがあり、60年代のザ・ドアーズの曲「The Spy」でも《I'm a spy in the house of love》などと歌われているのだが...。


 カット・コピーの、どこかムーディーかつポップな音楽を聴きながら、こんな妄想がどこまでも広がっていく。引用の引用、そのまた引用...。しかし、それらは無限のイマジネーションとクリエイティヴィティに裏打ちされている。


 それで、最初の話に戻る。ぼくが90年代前半にMacを使いはじめたのは、あくまでDTPのため。でもって、それで原稿を書く際に「コピー・アンド・ペースト」はほとんど使わなかった。文章の順序を変えたり推敲する際「カット・アンド・ペースト」はがんがんに使うけれど...。いや、こんな原稿書きが「クリエイティヴな作業」かどうかはよくわからない(笑)。例を変えよう。


 たとえば小説を書くときや、音楽なら生演奏の編集をするときのことを想像してみてほしい。まさか小説で既存の文章をまるごと引用することは(本人作の未発表原稿などをひっぱってくる場合を除いて)ないだろうし、ノリを重視する生演奏の編集にもそれは使わないだろう。ドラム・ループを作ったり、打ち込みのパートをコピーしたり、既成の曲をサンプリングする場合以外は。


 こんなふうに、つらつら考えていると、00年代前半に初めて見たときはスルーしてしまったカット・コピーというバンド名にも、なんかすごく深いものを感じてしまう...というのも、もちろんぼくの妄想(笑)。


 まあ、それもいいでしょ? 彼らも『Free Your Mind』と言ってるわけだし。そして、このアルバム、最高!





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gift.jpg

 やめておけばいいのに、平賀さち枝をフォークの文脈で聴くことなんて。ジャンルに意味がないとまでは言わないが、もはや続々と登場してくる新世代のアーティストの音楽を聴く際に、既存の文脈で聴くことはほとんど効力がなくなった。音楽が持つ自由度を狭めてしまうからだ。


 思えばいつからか、「これはロックだ、ジャズだ、フォークだ」といった議論が生まれなくなった。15年ほど前は音楽を特定のジャンルで囲い、ジャンルの文脈で聴く(というか聴きたがる)聴取スタンスは確かにあった。しかしそれは、「自分の価値観にねじ込んで楽しむ」というリスナーの欲求からなる定義付けであったし、ジャンルや歴史の文脈に沿って楽しめない音楽を"ポストロック"という言葉で回避する向きすらあった。だがいまは、多くのリスナーが「定義せずとも楽しめる感覚」を当然のように持っている。音楽を楽しむための定義付けはほとんど機能しないと誰もが気付いているのだろう。


 それらはアーティスト・サイドにも言える。昆虫キッズソニックアタックブラスターはロック・バンドを自称しているものの、既存のロックの文脈で聴こうとしてもその文脈からするすると抜け出し、未知の音世界を見せてくれる。平賀さち枝も同様だ。ファースト・フル・アルバム『さっちゃん』は繊細でフォーキーかつシンプルなスタイルだったが、瞬間的に昂ぶる歌声と朴訥としたギターの鳴りが共立し、アンビバレンスな側面があった。続いて発表されたミニ・アルバム「23歳」は、即興演奏と絡み合いながらもごく自然に、素直に歌をリスナーに届けることができるアーティストだと証明した作品だった。心理描写的な音と素直な歌詞が鮮やかに平賀さち枝の等身大の姿を映し出す。それは聴き手の前にリアリティーとして現れた。


 これはダブルA面ニュー・シングルである本作「ギフト/いつもふたりで」にも言える。ゲストに気心の知れたoono yuuki、シャンソンシゲル、池上加奈恵、中川理沙、林宏敏らを招き、前作、前々作同様に等身大、それでいて音響に工夫を凝らしたサウンドの数々はスマートであると同時に、良い意味でミーハーになった。ジャケットに映る彼女の姿がそれを端的に表している。例えるならば、それまで古着で高円寺を散歩していた女の子が、本作ではオシャレをして原宿の街を歩いているイメージ、とでも言うか。


 ほんのりエコーを効かせた歌声にギター、キーボード、コーラスが触れる程度に沿い合う様はなんとも甘美。ハーモニーとともに小気味よくステップを踏んでいるようなリズムの鮮やかさに喜びの心地が宿っている。しかも日本人である僕らでもエキゾチシズムを感じる"和"のような歌声は、過去の作品同様に本作でも変わらない。EGO-WRAPPIN'の癖の強いそれとは違い、縁のある地域の方言を聞いている感覚に近いのだ。その親しみやすさは他の女性ヴォーカリストとは異なる点であり彼女の魅力だ。冒頭曲「ギフト」が、千葉テレビ『ハピはぴモーニング~ハピモ~』やFMぐんま『KAMINARI RECORDS』の11月度エンディング・テーマ曲になったのも、彼女の音楽に多面性と親近感があってこそ。


 過去の作品との最も大きな違いは、滑らかに洗練された音の鳴りが全曲貫かれているところだが、サウンド全体を見渡すと"洗練の美"というよりは、平賀さち枝の幼げな歌声と楽器の音色との対比がより浮かび上がっている。良い意味でオトナの音ではなく、とても無邪気。煌めいていて力強くもある音の数々はもともとバンド志向だった彼女が理想のバンド・スタイルを手に入れた結果だろう。


 思えば平賀さち枝は、等身大であることを大切にしながら、作品を発表するたびに新機軸を打ち出してきた。しかしそれは、彼女が歩んでいる道とはあらかじめ用意されていたわけではなく、苦難によって見つけた道を歩いているわけでもなく、平賀さち枝が歩いた場所に道が生まれるという、とても自然なものだった。本作でもそれは変わらず、カラフルで自然に流れるサウンドは、知らない道が生まれる瞬間とは彼女自身が音を鳴らした時なのだという、平賀さち枝自身が素直に音を信じているがゆえの可能性である。「楽しい音楽にしたかった」と本人が言うように、笑顔で歌っている姿が目に浮かぶ本作を聴くと、何らかの枠で音楽を束縛することなく、聴き手もアーティストも一緒になって、自由にめいっぱい音楽を楽しむことが何よりも音楽の可能性を広げているのだと実感できる。「単純に、音楽を楽しめる」と書けば、ややもすれば陳腐な言いだと思われるのだろう。だが僕はそれが音楽において、いま最も求められていることだと思う。


 そう、この音楽は過去の作品以上に軽やかなスウィングで聴き手の気持ちを弾ませる。シンプルに言って、楽しいし面白い。そういった音とともに平賀さち枝はこう歌う。


 《はじまって溶けてゆく恋も 強がって崩れてく嘘も 光に投げた時 唄えば風の中》

 (ギフト)


 彼女はいつだって音楽を偽らない。本作で鳴っているのは楽しさと喜びの心地そのものである。



(田中喬史)

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Gargle & Bosques de mi Mente .jpeg
 美しい鐘の音が響く。古きヨーロッパの街並みを思わせるバイオリンの調べと、荒涼とした空気感を漂わせるギター、儚くも温かいピアノ、重厚に鳴り響くパーカッション。ボスケス・デ・ミ・メンテはスペインのコンテンポラリー・ピアニストで、日本のポストロック・デュオ、Gargleのアルバムに参加したことから今回コラボレーション・アルバムを発表するに至った。


 本作で彼らはストリングスを多用しているが、これは東京音楽大学の知り合いに演奏してもらったそうだ。通常ロックにおけるストリングス・プレイヤーというのはロックへの理解が何より必要になり、演奏技術の面はどうしても二の次になってしまうところがあるため、このような完璧な演奏を聴くことはなかなか難しい。日本でエレクトリック・ヴァイオリンの第一人者である勝井祐二氏が評価されている理由も、演奏力とロックやテクノへの理解を兼ね備えているからだろう。


 基本的にはバッハやショパンからの影響があるのだと思う。前衛的な現代音楽というよりは、正統なモダン・クラシックの系譜が感じられる。そこにサティやラヴェルのような孤独なピアノが垣間見えることで、直球のクラシック音楽から外れた面白さが見えてくる。マイナー・コードの物憂げな曲調のなかで、ふとしたメジャー・コードにハッとさせられる瞬間が多々あり、コンテンポラリーとポストロックの化学反応がこのようなものになるとは大変興味深い結果だが、実験的すぎずクラシック然としすぎてもいないところは聴きやすく感じるかもしれない。


 ピアノと弦は、筆者が十数年クラシックを学んできたなかでも特に重要な位置を占めている二つである。故にクラシックでない音楽においても、ロックで言えばゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーであったり、テクノで言えばワールズ・エンド・ガールフレンドであったりという人たちに惹かれる傾向があり、そういった音楽を聴いているリスナーにとっても、モダン・クラシック以外にもアンビエント、実験音楽、電子音楽といった要素が見られる《Fluttery》のリリースは好まれるのではないかと思っている。ゴッドスピードが初めて受けたとされているインタヴュー(確か地元のファンジンだった)で、当時最新作であった「Slow Riot For New Zero Canada EP」についてバッハの影響を語ったり、他にもグレツキからの影響を公言したりしているところは、本作にも通じる部分だろう。


 今でこそトゥーチェロズのようなクラシック界の異端児が注目されているけれど、大きな括りのジャンルをクロスオーヴァーさせる彼らのようなアーティストはまだまだ面白いことをしてくれそうだ。



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ARCADE FIRE『Reflektor』.jpg
 冒頭にタイトル曲をもってくるところからして、見事な直球勝負だ。アーケイド・ファイアーというバンドのイメージがみんなにとってどんなものかは知らないけれど、ぼくにとっては...マーくん(楽天)みたいなもの。アーケイド・ファイアーのライヴ、一度しか見たことがないけれど、その印象からしても、小器用さより情熱やパワーが勝っているタイプというか。


 そんな彼らの魅力が全開となった4作目。マーくんは(日本シリーズなどを除く「シーズン中の公式戦」においては)連勝記録をのばしている。このアルバムも前作につづいてインディー・レーベル、《Merge》からのリリースにも関わらず全米チャートのトップに立った(ちなみにデビュー作は123位、2作目は2位だった。本国カナダでは最初23位のあと、3作連続で1位)。


 珍しくチャートの話題から入ったのは、彼らは決して「マイナーなバンド」ではないということを示したかったから。実際このアルバムは70年代や80年代、90年代や00年代のいわゆる「名盤」に勝るとも劣らない、今を代表する傑作だと思う。それぞれの時代の優れたロックが(大きく見れば結局のところ)そうであったように、「メインストリームに対するオルタナティヴ」でありつつ。


 今回の勝因のひとつは、ジェームズ・マーフィー(LCDサウンドシステム)をプロデューサーに迎えたことだろう。先行公開されていた1曲目「Reflektor」を聴いたとき「はあっ!? こいつは『Remain In Light』かっ!?」と感じたけれど、それはジェームズの名前(およびLCDサウンドシステムとして発表されたいくつかの曲)のイメージにもひきずられていたからだった...と告白しよう。


 50年代のポピュラー・ヒット曲や60年代のサイケデリック/ガレージ・ロック、70年代のソフト・ロックやダブ、そしてもちろん80年代のポスト・パンクやハードコア・パンク、そして90年代以降のオルタナティヴ・ロックなど、ぼくが大好きな様々な音楽の要素が、CD2枚にわたって、まるで祝祭のごとく展開されている。それはもちろんバンドの力であり、プロデューサーの手腕でもある。ウィキペディアには「LCDサウンドシステムって、ぼくにとってはニュー・オーダーやザ・B52ズのようなものだった」という中心人物ウィン・バトラーの発言が載っている。おいおい、そりゃおおげさだろう(笑)とは思ったものの、よく考えてみれば彼らはカナダのバンドだし、たぶんジェームズよりも若い。なんとなく納得しつつ、そうか、プロデューサーに対する(いい意味での)尊敬の念がバンドにあったんだな、ということはわかる。そんな関係性が大吉と出た。


 『Reflektor』はCD2枚組の大作だ。重くない? と少し不安に思いながらリッピングしてみたところ、それぞれが40分以下。安心しつつ、かつて『Radio Cookie Scene』というオムニバス(付録)CDを隔月でひーこら言いながら何10枚も作っていた自分は、ふと気づいた。


 ちょっと待て、トータル80分以下であればCD1枚に収まるじゃん! だけど、何度もかけて愛聴盤となった今、納得した。これだけの内容を小休止なしで聴いたら、なかなか全体像も把握できないし、それまでに諦めちゃう(疲れちゃう)かも。70年代のプログレッシヴ・ロックだって(アナログLPの収録限界である)30分以内に小休止が入ったからこそ、なんとか(ぼくのようなせっかちな者にも)全力で集中できたわけだし。


 CD2枚組? ある程度「成功」してるからできることでしょ? 関係ないね...とか、ネガティヴな方向に捉えてしまう人は、聴かないほうがいいかもしれない(今のところ、輸入盤は2枚組でも普通に安い...1枚ものと変わらない値段だということは、一応言っておきますが...)。アーケイド・ファイアーの音楽には、状況をマイナスに捉えるのではなく、ぎりぎりのラインで前向きにつきすすんでいく希望の光がどこかに差している。最初に言った「直球勝負」とは、そういう意味でもある。




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 信用できる耳を持つ知人が噂しているバンドは、聴いてみたくなるのが人情だと思う。私は知人のバンド・マンに会うと決まって「いま気になるアーティストは誰?」とたずねる。去年の秋、名古屋のニュー・ウェイヴ・バンドCRUNCHのメンバーがこう答えた。「サイケデリック期のビートルズ、シド・バレット在籍時のピンク・フロイド、あるいはゾンビーズの『Odessey & Oracle』を連想するバンドなんです」。聴かないわけにはいかない。調べたらチャーリー・ボイヤー・アンド・ザ・ヴォイヤーズに続く《Heavenly》からの新人バンド、テンプルズのことだった。


 彼らは、ギター/ヴォーカルとベース、ドラム、キーボードの4人編成。本国イギリスではサード・シングルまでリリースされているが、2013年11月末の初来日に合わせて5曲入りEPが届けられた。内容は最初の2枚に収録された4曲にサード・シングルのB面曲を合わせたもの。「Penny Lane」の頃のビートルズを現代の感性で解釈し、恋人との甘い一夜を夢想するShelter Song。そしてどこか場末のスナックで飲む孤独な一夜を思わせるPrismは、ママが仕事で疲れた客に子守唄代わりに歌う曲みたいだ。このファースト・シングルをジョニー・マーが賞賛し話題になった後、続いて録音されたのが残る3曲。スケールのでかい音響空間を描き、ノエル・ギャラガーに銀河系の未来がかかった音とまで言わしめたColours To Lifeから、過酷な行軍をイメージさせる曲調のAnkhへ。最後の「Jewel Of Mine Eye」では、ノスタルジックなメロディーに乗って我々は異端者だと歌う。


 リヴァーブが効いてモヤっとしたサウンドは、オーストラリアのサイケデリック・バンド、テーム・インパラと比肩され、テンプルズ自身、自らの音楽をネオ・サイケデリックと称している。我々日本人にも耳なじみがいいメロディー、私が思うに60~70年代のグループ・サウンズに似ているのだ。当時の海外ガレージ、サイケデリック・サウンドを輸入して独自解釈した音。もちろんテンプルズがそんなもの聴いているはずがない・・・、いや待てよ、日本の古い歌謡曲、ロックの一部は海外で珍重されているケースがある。遠い異国へ流れ着いた日本のレコードから彼らが着想を得ていたとしても不思議はない、むしろロマンチックだ。そして、万が一その妄想が正しければ、テンプルズのサウンドは日本でこそ、さらなる喝采を浴びる可能性があるのだ。



(森豊和)