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 3枚目のフル・アルバムにして、初の全国流通盤となる工藤鴎芽『Blur & Fudge』は、フィルム・ノワール的でありながらも好戦性にあふれている。


 1曲目の「Biology」では、木霊する叫び声とノイジーな音の塊に襲われる。そこから、ギターの鳴りが印象的な「世界は 世界は」への繋がりが彼女自身の内面鏡像をあらわにさせる。筆者としては、サロン・ミュージックをここで想い出しながら、80年代に隆盛した"サイバーパンク"という言葉が脳裏をよぎった。サイバーパンクとは、80年代のSF作品、ひとつのムーヴメントといえるが、社会において個人や集団がより大規模なネットワークに取り込まれてゆく状況、過程描写が典型的なものといえ、さらにそのネットワーク構造への反発が個としてなされ、どこかしらそういった二項軸をメタ化した特殊な内容のものが多かった。


 有名なところでは大友克洋『AKIRA』、リドリー・スコット『ブレードランナー』などがあり、現代は別種の意味でネットワーク化が人間をID管理化させていこうとし、また、疎外的に置くようにもなっている。共通倫理が護られているなかでは何も起こらないとしても、その「共通」はもう共通ではなく、誰かの強制に隷属しているだけではないのか、ということ。


 工藤鴎芽は予め、現代社会の規則性から疎外された場所で実存的な歌を作ってきた。3曲目には彼女が「大切な曲」と評する「花のにおい」がアルバム・ヴァージョンとして収められている。


《ずっと続いてゆく 不安が欲しい 夢の中まで 私の中まで 甘く漂いながら》

(「花の匂い」)


 続いてゆく不安、という安心。例えば、世間的に安定的な仕事を得て、家庭を持ち、生活をおくっている人たちはみんな安心なのかといえば、それぞれに葛藤や不安は根源的にある。小さいころから見ていた夢が「現実」になったら、現実はひたすら続く。その現実はもう夢ではない。この「花のにおい」には彼女の哲学、生きざまが凝縮されている。


 ギター・ノイズで埋め尽くされた4曲目の「ブラー」は、《One,Two》と外部へ向けてか、自身の内部への確認なのか、マイク・チェック的な呟きが何度も繰り返される曲。声が聞こえるか、サウンドのバランスはどうか、ではなく、この轟音のなかで何かしら問いかけをしようとすることそのものが大きいのかもしれず、強弱をつけた《One,Two》の声も突然、4分ほどすると消えてしまう。反転して、5曲目「ファッジ」は軽やかなピアノのリズム、スキャット、弦の入り方などが耳に残る佳曲だ。


 本作は、歌ものとインストゥルメンタル的なものの配置が的確に為されている。厳かな「Interlude」を挟み、昨年のEPでは1分11秒ヴァージョンとして発表されていた「梔子」(3.33Ver.)へつながる。EPの際はサイケデリックで歌詞もよく聴き取れない様相だった曲が、とても美しい旋律で奏でられる。優しく穏やかなヴォーカルに乗る"あなた"への想いがか細い糸の上でバランスを取るように。


《白い花の咲く季節になれば いつも想い出す事がある》

(「梔子」)


 電子音が混じった軽妙なギター・ロック「メトロ」から、胸打つバラッド「Technology」と、後半は冒頭に書いたフィルム・ノワールのような、という表現を迂回する。


《芝生を踏む裸足のまま夢中になって この世の中の果てはまだ知らなくてもいい 喜びとは途切れ途切れやってくる 手の中に今はないけれど》

(「Technology」)


 英語詩の10曲目「ルーシー」はバンド時代から演奏してきた曲であり、彼女の悲痛なほどの咆哮から過去の彼女の回帰を辿り、主体はブラー(曖昧)になってゆく。そのブラーに、アンドとして、ファッジというお菓子を連結させることで、曖昧/甘味の間に忍ばせるのはこれまでどおりの毒や虚無、不安なのだが、本編を締める11曲目の「虹」でこう歌うのが意趣深い。


《そのまま時が過ぎて そのまま時が過ぎて そのまますいこまれていったよ そのまますいこまれていったよ 虹に溶けた 話はまだ少し 幻 わかってても》

「虹」


 過去のキャリアを鑑みても好戦的な内容だが、そうした作品を初めての全国流通盤としたのは彼女の矜持なのかもしれない。



(松浦達)

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 歪んだ過去、不条理な世界を一刀両断する音、目の前の君を笑顔に変える魔法。それがUNISON SQUARE GARDENだ。作家の伊坂幸太郎は、「人の悪意やリスクのない暴力に対する強い嫌悪感がある」と語り、レイプやペット殺しといった弱者を狙った犯罪に対する制裁をたびたび小説に描く。このバンドでほぼ全ての作詞作曲をこなすベース田淵智也の信念とも似ている。彼は常にあらゆることに怒っていて、だからこそ笑顔を絶やさない。


 本作は漫画家ヤスダスズヒト原作のTVアニメ『夜桜四重奏~ハナノウタ~』の主題歌である。あの世とこの世の間に存在する桜新町で次々と起きる奇怪な事件を、特殊能力を持つ主人公たちが解決していく物語。ギター斎藤宏介、ドラム鈴木貴雄にベース田淵の3人による演奏風景は同時発売のライヴDVDで確認できるが、彼らのたたずまい、そして歌う内容はそのまま本アニメの主人公たちと重なる。表題曲「桜のあと(all quartets lead to the ?)」変拍子を重ねる目まぐるしい展開に、言葉をマシンガンのように叩きこむキメを多用する。しかしキャッチーなメロディーは自然耳になじむ。タイトルの英詩を繰り返すコーラスは子どもでもすぐに覚えそうだ。彼らは現代のロック・フォーマットを踏襲しつつも、同時にロック以前のポップスの在り方を取り戻そうとしている。ハード・ロック、ニュー・ウェイヴ、ポスト・パンク、様々な要素がつまっているようで、その実、ジャンルが枝分かれする前の大衆音楽へ帰納法的に立ち返っていく。音楽とは本来、難しくも堅苦しくもない、大人も子どもも手を叩いてはしゃぎ踊れるものだから。


 また、田淵は「マンガから生まれた言葉を音楽に乗せることなら誰にも負けない」と語り、声優への楽曲提供を積極的に行っている。『夜桜四重奏キャラクターソングベスト&オリジナルサウンドトラック「桜新町の鳴らし方。」』 においては、キャラクター・ソングの全作詞作曲までこなしている。彼らの音楽は日本のギター・ロックの先達だけでなく、アニメ・ソングからの影響も大きいようだ(アニメ・ソングだって馬鹿にできない。例えばアニメ『うる星やつら』の一連の主題歌は1級のニュー・ウェイヴ、シティー・ポップスとして聴くことも可能だ)。彼らは時代の最先端を行っているわけでも特別変わったことをしているわけでもない。彼らが他のギター・バンドと一線を画したのは、ありふれた素材から本質を抜き取った田淵の楽曲があり、3人それぞれが「これなら俺は誰にも負けない」という強固な意志を持って当たり前のことを黙々とこなし、ライヴに訪れるオーディエンス一人一人への敬意を忘れなかったからだと思う。往々にして当たり前のことこそ忘れがちで、だから私も何度も後悔して生きている。彼らの音楽からはそういった後悔の味も感じられる。



(森豊和)



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 People In The Boxのニューアルバム『Weather Report』は、彼らがまさに次のフェーズに入ったことを確信させる一枚だ。サウンド面でのアプローチはアコースティック・アレンジを散りばめた前作『Ave Materia』に近い。アコースティック・ギターが印象的に用いられ、People In The Boxの特徴とされる変拍子や急展開といった要素は薄くなっている。他方、耳に馴染みやすいながらも細部にノイズ、水音、民族楽器などの実験的要素を盛り込んでおり、表現の幅を広げたように思える。


 歌詞に着目してみると、これも『Ave Materia』以降の言葉という印象を抱く。そもそも従来のPeople In The Boxの歌詞はパラレル・ワールドの中で展開される物語であり、首尾一貫したコンセプチュアルな作品が多かった。あくまでそれらは現実世界に訴えかけたり、ましてや聴き手に希望やら勇気やらを与えるような応援歌でもなく、People In The Boxが紡ぐ世界の中でのみ始まり、終わっていく、または続いていく物語であった。もちろん聴き手によってはそれらの隠喩を取り去って前述したような解釈を加える人もいるかもしれないが、一見してそういった意図を積極的に示すようなスタンスを、以前のPeople In The Boxは持っていなかった。


 しかし、前作『Ave Materia』は違った。今まで奥深くに隠れていた波多野裕文の意思/主張がはっきりと発現された、彼らにとって分岐点となる決定的な一枚になった。開かれた意思が感じられつつも自らの全てを曝け出すという行為に至ったのではなく、相互的に歩み寄っていこうとしたのが前作『Ave Materia』だとしたら、とにかくやりたいことをやり、自らの全てを曝け出したらどういう化学反応が起きるのか実験したのが『Weather Report』だろう。これまでの「閉じた世界のPeople In The Box」とは全く別の、「開かれた世界のPeople In The Box」。


《水彩画に描いた曇り空を ベランダのホースでもって 洗い落としてみれば そこにはなにがある? ただのぬれた紙がある》(「空地」)


 水彩画の曇り空を洗い流しても、太陽は出てこない。その奥に隠された太陽を伝えたいから、彼らは最初からキャンバスに太陽を描くことを選んだ。彼らの変化することに対する躊躇の無さには毎回驚かされる。


 今作は70分超え21トラックの意欲的大作。加えて21トラックは分割されておらず、全て1トラックに収められている。曲単位で買うのが当たり前となっている配信世代へのアンチテーゼか、はたまた21トラック全てこの流れで聴いてひとつの作品だというアルバムの形態にこだわった結果なのか。そのどちらとも受け取ることはできるが、やりたいことを詰め込んで好き勝手やっているというだけでなく、それらに正しい形を与えること。そこに作り手としての責任を込めたのだと解釈したい。70分21トラックに一番相応しい形は1トラックにまとめることだと判断したのだろう。僕らも自由にやったから、お茶でも淹れながら肩肘張らず自由に聴いてくれ。察するにそんなところだろうか。


 ジャケットに描かれているように、彼らは開きかけた目の中に入り込んだ光を受け入れ、新しい世界への扉に手をかけた。変化し続けるPeople In The Boxの音楽は、これからも我々の期待をいい意味で裏切り、驚かせてくれることだろう。



(竹島絵奈)

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 名古屋のロック・バンドiGOの新作は全5曲たった15分。彼らの持ち味であるギャング・オブ・フォー直系の躁的な狂騒は今作ではさほど目立たない。妙にどっしりとしている。ドラム吹原靖紀の安定したプレイだけではない。それは本作のテーマに由来する。流木の写真を用いたアルバム・ジャケットが暗示するように、この作品で歌われているのは「3.11後の世界を生き抜くこと」。みっともなくとも大切な誰かを守るために生き続けること。その決意が重心の低いビートを生んでいる。


 5曲のタイトルを並べるとアルバムの描く具体的なストーリーが頭に浮かぶ。冒頭の「反動」「青春」はライヴ映えしそうなストレートなパンク・ロック。3曲目、ファンキーな間奏のギター・リフがしぶとい生命力を見せる力強いミドル・チューン「誰も死にたくはない」では、ヴォーカル/ギターの茜谷有紀の絶叫が胸に染みる。続く「日本」というバラード・ナンバー、夜の浜辺で主人公は世界の終わりの前兆を偶然見つける。夜明け前に必死で彼は砂に隠すけれど、本当に埋もれていたのは自分達自身だったと知る。栄のセントラルパークとテレビ塔が歌詞に登場する「UNDER THE RAINBOW」は一周回って原点に戻ったようなダンス・ナンバー。静と動が交差するアンサンブル、「王様は裸だ」と泣きながら叫んで突進する。今の世界において、戦うために「逃げる」こと、続けるために「あきらめる」ことほど大切なことはあるだろうか。茜谷はそう私たちに問いかけているようだ。


 iGOの所属する《ONE BY ONE》の柴山順次は、レーベル所属バンドを架空のヒーローに例えて話す。茜谷は『キン肉マン』の主人公、キン肉スグルだと。スグルは作中の設定によれば、親に捨てられ大人になるまで一人で成長したエイリアン(異邦人)である。拠り所がない存在、国籍も無いはず。それなのに日本を守るヒーローとして戦っていた。しかし子ども達にさえ馬鹿にされ、ついにはアメリカから来たテリーマンに国家公認ヒーローの座を奪われ、国外追放だと告げられる。折りしもそのとき東京を怪獣が襲う。しかしテリーマンは金がなければ戦えないと、救いを求める子どもをあざ笑う。スグルはテリーマンを殴り、子どもの親を助けに怪獣に立ち向かっていく。「姿を見せたら国防軍に攻撃されるぞ! 」と警告するテリーマンにスグルは言い捨てる。「大和魂が守ってくれるさ」(『キン肉マン』ジャンプ・コミックス第1巻「アメリカからきた男の巻」より)。子どもの頃は疑問だった。ドジでダメだろうと日本人のために必死で戦うキン肉マンがなぜ国防軍に攻撃されるのか。今は不思議だとは思わない。『キン肉マン』の作者であるゆでたまごは当時の日米関係を皮肉ったのだろうが、今の社会はより複雑だ。震災後の復興がスムーズに進まないなか、汚染水はブロックされたとされ、経済再生のために五輪誘致が優先される状況を連想する。今、現実に起こっている風景なのだ。


 iGOの音楽は一聴、何の変哲もないパンク・ロックだ。しかし見事な緩急や感情を含んだ演奏と歌唱に心を揺さぶられる。ライヴでは、鋭いギター・カッティングとは対照的な野田昌吾のゆるいMCに爆笑し腹がよじれることも重要なポイントだ。



(森豊和)


 


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 《Better than the best oh yes Better than the best enough stress/最高よりもいいもの、そう、最高よりもいいもの、ストレスは十分だ》(ジ・オーブ「From A Distance」より引用)


 アレックス・パターソンは、筆者が生まれた1988年にジミー・コーティーとジ・オーブを結成した。現在に至るまで何度かパートナーを変えながらも、アンビエント、レゲエ、ハウス、ヒップホップなどが基調にあるトリッピーなサウンドスケープを生み出しつづけ、大規模な音楽フェスから小箱のクラブまで、どんな場所でパフォーマンスをやるにしても、私たちをここではないどこかへ飛ばしてくれた。


 かつてはキリング・ジョークのローディーを務め、1987年までスクウォッター(廃ビルなどを不法占拠して生活する人のこと)を続けたアレックスの人生はそれなりにハードだったと想像できる。もちろんマーガレット・サッチャーによる国営企業の民営化、さらには富裕層を優遇する政策などによって失業者が増加した頃の暗いイギリスも目にしてきただろう。そんなアレックスがジ・オーブとしてセカンド・アルバム『U.F.Orb』を全英アルバム・チャート1位へ送り込むまでになれたのは、1988~1990年をピークとするセカンド・サマー・オブ・ラヴによるところが大きい。1989年、ロンドンのクラブ《Heaven》で始めたチル・アウト・パーティー《Land Of Oz》が評判を呼び、そして同年、甘美な音像を纏った「A Huge Ever Growing Pulsating Brain That Rules From The Centre Of The Ultraworld」がリリースされ、ジ・オーブはセカンド・サマー・オブ・ラヴの波に乗った。さらに翌年の11月には「Little Fluffy Clouds」を発表。テクノ・クラシックとして知られるこの曲は、セカンド・サマー・オブ・ラヴの高揚感をサウンドで見事に表現していた。


 こうした歴史の一端を『History Of The Future』は教えてくれる。ジ・オーブの活動25周年を記念して作られたこの4枚組のボックス・セットには、数多くのシングルやリミックスに加えてレア・トラック、ライヴ映像が収められ、セカンド・サマー・オブ・ラヴの一側面を記録した作品としての高い価値を誇っているが、同時にセカンド・サマー・オブ・ラヴは逃避のためではなく、生き抜くためのムーヴメントであったことも伝えている。当時注目を集めたバンド、例えばストーン・ローゼズは今頃になって再結成したが、それでもイアン・ブラウンは相変わらずのカリスマ性を発揮し、808ステイトはメンバー全員若干肥えたものの、精力的にライヴ活動を続けている。そう、セカンド・サマー・オブ・ラヴを体験した者は、紆余曲折あれどみんなタフに生きているのだ。そうした者たちがもし、逃避のためだけに快楽主義を貪っていたとしたら、とっくの昔にオーヴァードーズでくたばるか、そうでなければ"過去"として葬り去られていたはずだ。でもそうなっていないのは、戦うため、生きるために踊り、快楽を求めたからに他ならない。アレックスが"トリップ"をやめなかったのも同様だろう。現実を超越するのは常に想像力なのだ。


 現在の日本では景気が悪いせいか、"閉塞感"なんて言葉をよく耳にする。そんな状況なのだから突飛な表現や独創性が多く出てきてもいいはずだが、現実はほとんどの者が保守的になり、沈むのが目に見えている泥船にしがみつくような状況だ。思考もなければ想像もない、まあ何とも無味乾燥だこと。


 もしあなたが現況に嫌気が差しているとしたら、ぜひ『History Of The Future』をオススメしたい。本作(そして本作に至るまでのジ・オーブの歩み)にはハードな今を生き抜くためのヒントがたくさん詰まっている。筆者も「ストレスは十分だ」。



(近藤真弥)

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 シリアのみならず、中東地域には注視せざるを得ない多くのニュースが近年はよぎるが、音楽面を考えてみると、アラビアン・ポップスやアラビック・ラウンジなどは日本でも少しずつ認知されてはいるものの、まだまだ一般的なイメージとしてはパーカッションの響きや単旋律、7音音階、中立音程といった理論的なターム等がかろうじて知られているくらいかもしれない。また、西洋音楽に援用された形での大まかなエッセンスやベリーダンスに包含された形でのダブケという踊りは知っている程度だろうか。


 ダブケとは、ヨルダン、シリア、レバノンなどにみられるトラディショナルなライン・ダンスであり、その語源はシリア語で"足を踏み鳴らす"ことに依拠する。レストランやステージで互いに腕を組み、手を繋ぎ、軽やかにステップを踏み、歌い踊るもの。何らかの形で、ダブケはライヴ・パフォーマンスでもよく見受けられるのもあり、形式として伝わっていると感じられる。


 そのダブケを、現代の音楽に新しく組成させたオマール・ソウレイマンのアルバムである『Wenu Wenu』は、稀薄化される訳ではない伝統の強度をリプレゼントする。彼の名前は、ビョークの『Biophilia』から派生した"Crystalline Series"というリミックス・ワークで初めて知った人もいれば、トム・ヨークは自身のツイッターでも今作について「Dope !」と称賛を寄せているので、そこから追った人もいると思う。


 ただ、その奇妙なサウンドに目をつけたのは、多岐に渡るワールド・ミュージックを紹介するシアトルのレーベル《Sublime Frequencies》で、そこからのリリースも含め、シリアのダンス・ミュージックを刷新しダブケを世界に伝播させた彼のキャリアは目覚ましかった。当初はBPMを早くした奇矯なサウンド・メイク自体を愉しむ節があったものの、着実にライヴを重ね、作品のみならず、ワールド・ミュージック系のフェスではトリを務めるなど、多くのイベントで姿を見ることができた。


 但し、少し懸念だったのが、舞踏自体が結婚式など祝いの席のためのエンドレス、反復を是としているのもあり、ダイレクトに現場で受け取るトランシーさとは別種の、こうして録音されたサウンドは単調になりやすい向きがある。今作も、ニューヨークのブルックリンでフォーテットと制作を進めているという情報があった時点でそれは浮かんだが、結果としては曲数を絞り、オマール自身の従来の音楽性を洗練させたコンパクトな内容がひとまずは吉と出ている。


 耳に残るサイケデリックなシンセの音色が前面に押し出されながら、昨今のジャングル・リヴァイヴァルの機運ともシンクするように、踊るための音楽として世界中で愛聴されそうだが、録音作品としての意味も当然うかがえる。「Nahy」でのスペーシーなエレクトロ・チューンや、R&B調のうえで彼の歌声が朗々と響く「Mawal Jawar」、そしてリリックもサウンドと反語的にと言おうか、失恋や叙情的なものが散見され面白い。



(松浦達)

 

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 今となれば、名古屋周辺のアンダーグラウンドと区切られる訳ではない幅広いアーティストを集めた、《Knew Noise Recordings》からのコンピレーション『Ripple』の意義は大きかった。


 そこにも参加していたPOP-OFFICEの「Epicureanism」に関しては、筆者はテレヴィジョン『Marquee Moon』、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド『White Light / White Heat』をリファレンスに出したが、ファースト・フル・アルバムとなるこの『Portraits In Sea』では、POP-OFFICEとしての美意識が貫かれたがゆえの輝きに耳を奪われる。


 少し紹介を入れると、POP-OFFICEは名古屋を拠点に活動し、Ryuhei Shimada(ベース/ヴォーカル/シンセ)、Yuki Nakane(ギター)、Hiroyuki Kato(ドラム)からなる3人組バンド。余計な装飾もないソリッドなサウンドはじわじわと評価を高めていたが、ようやくとも言えるこの『Portraits In Sea』は、名古屋のみならず全国的に名が知られていく契機になると思う。


 初期のライドを思わせる冒頭の「Something Black」では、《冷たい言葉と美しい花で彩る この夜を》という歌詞に見受けられるデカダンスと仄かなメランコリアが漂うが、そういった宙ぶらりんな状態は後半に向かうにつれ、ギター・ノイズとディレイにより茫漠と掻き消される。一転、ストレートなギター・ロック「Good Morning」では、やはり若さを感じるが、3分以内で疾走するその様は後先を考えない今のための熱量がある。何度も繰り返される《I Could Be The Sunday Morning》というフレーズも印象深い。


 そして勢いだけではなく、余白やタメを活かした曲に彼らの真骨頂を感じるところもある。例えば「Young Town」における反復されるギター、僅かな歌詞、ハミング、モグワイを想起させる緻密な盛り上がりといい、少ない音数でも飽きさせない構成力は見事だ。そういった構成力を結実させたのが「Whales」。10分ほどの大作だが、サイケデリックな浮遊感を保ち、Shimadaのこもったヴォーカリゼーションもそこに色を加えている。ライヴではインプロヴィゼーション含め、更に化けていきそうな感じも受けるが、5分前後からの展開はギャラクシー500やスペースメン3をふと思い出してしまった。


 青さと達観は矛盾せず鬩ぎ合い、成熟と拙速は過不足なく補填し合う。本作はそんな当然を混乱とともに往く。



(松浦達)

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 立教大学の音楽サークルで知り合ったというハルカ(ヴォーカル/ギター)とミユキ(キーボード/コーラス)によるユニット、ハルカトミユキ。インディーズ時代に発表した2枚のミニ・アルバム、「虚言者が夜明けを告げる。僕たちが、いつまでも黙っていると思うな。」「真夜中の言葉は青い毒になり、鈍る世界にヒヤリと刺さる。」は、友人に勧められて聴いてはいたんだけど、いまいちコミットできなかったというのが正直なところ。


 メロディーは親しみやすく、譜割りも気持ちいい完成度の高いホップスが収められていたのは確かだ。筆者からするとエコー・アンド・ザ・バニーメンの姿勢を想起させる反同調圧力的歌詞も、興味深いものとして耳に馴染んだ。それでもハルカトミユキの音楽を聴くと身構えてしまうのは、端的に言うと聴いていて楽しめないから。例えばふたりが仲良くなったキッカケであるニルヴァーナは、イライラを吐き出す激しさがありながらも、それをエンターテイメントにする才能があった。怒りの塊みたいなザック・デ・ラ・ロッチャ(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)でさえ、ライヴ中は笑みを浮かべるのだ。セックス・ピストルズやザ・クラッシュもそう。どんなに攻撃的であろうとも、そこには必ず"楽しさ"があった。でなければ、自分の伝えたいことを伝える前に聴衆がいなくなってしまうから。インディーズ時代のハルカトミユキは無闇に食ってかかる印象が強く、その"楽しさ"が欠けているように思えた。


 しかし、メジャー・デビュー・アルバムとなる本作『シアノタイプ』には"楽しさ"がある。従来のグッド・メロディー、アレンジの多彩さ、言葉選びのセンスという魅力を損なうことなく、鋭さのなかにもリラックスした雰囲気が漂っている。ゆえに風通しも良く、多くの人に受け入れられるための契機としては素晴らしい内容だ。「マネキン」のギター・サウンドはマイ・ブラッディー・ヴァレンタインを想い出させ、モータウン・ビートが軽快に駆け抜けていく「Hate you」、そしてニュー・オーダーに通じるサウンドが印象的な「伝言ゲーム」など、今まで以上に遊んでいると言おうか、自由奔放な音作りが光っている。「7nonsense」のような実験的トラックもあり、音楽的彩度はかなり高い。


 とはいえ従来の毒は健在だ。「Hate you」は男にとって"脇腹にグサっ!"な歌詞だし・・・。それはともかく、『シアノタイプ』は素直に"良いアルバム"だと言える作品です。



(近藤真弥)

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 昨今のJ-POPの体たらくを見るにつけ、ああこれは衰退してるのではなく転換期なのか、と思うようになってきた。かつて歌謡曲と呼ばれたそれは、エレクトロニック・ミュージックやR&Bを吸収する過程でJ-POPへと変容していったように、それから20年以上醸造された「J-POP」ーー乃至そこから生じるイメージの総体は、この変革期を経て石化した標本のようになるだろう。近年盛り上がる夏フェス系イベントで鳴らされるJ-ROCKや多くのジャンルを侵蝕しているアイドル文化、そしてインターネットにおけるヴォーカロイド文化など、これらJ-POP以降の分化したポップネスの新しい形態(消費構造も含む)はテン年代的ポピュラー音楽の在り方を的確に示しているが、しかし、ここで敢えて筆者が一石を投じたいシーンを挙げるとすれば、それは東京のインディーズ・シーンと、そのシーンに共鳴して各地方から発せられる音楽である。


 2011年にcero『WORLD RECORD』を聴いた時、これは僕たち(西東京/郊外)の音楽だ! と喜んだのを覚えている。西東京というのは新宿や渋谷などと一緒に「トーキョー」と括られるにはあまりにも違い過ぎる空気があって、時間の進むスピードは遅いし、都心へ行こうと思えば簡単にアクセスできることに甘んじた都会の劣化コピー感たるや・・・という。あのアルバムで東京のインディー・シーンが途端に注目された感もあるが、ceroをはじめ、今注目されている東京のインディーズ・バンドの多くがやっていることは何かと言えば、それはキリンジの自身による歌詞についての言及が解り易い。端的に言えば、"何かが起こりそうで何も起きない整然とした住宅街、どこへ行っても同じ模様のアスファルトと信号機の連続・・・目眩のするようなそれら郊外の憂鬱を視点を変えて美しく魅せることはできないか"という試みである。ceroであれば《普通の会話を愛している》(「大停電の夜に」)という一節が印象的であり、今年絶賛で迎えられた森は生きているのファースト・アルバムも《夕暮れ時に聴こえてくるあのチャイムは》(「帰り道」)のような歌詞が、普段我々が住むこの味気なく整備された日常を色鮮やかに照らしてくれる。


 さて。fula(ふら)は4人組のバンド、東京の西(地図上は中央より東)の吉祥寺をメインに活動する。彼らの初の全国流通盤「safari !」は、ざっくりと二つの視座をリスナーに与えている。一つは、冒頭で触れたJ-ROCKサウンド的な立ち位置から掘り下げるようにして出会うポップ・ミュージックの風景である。つまり、ミスター・チルドレンを思い出させるこのアルバムジャケットや、スペシャル・アザーズやバンド・アパートを彷彿させる軽やかなジャム演奏をベースとしたポップネスの最新形という見方。もう一つは、現行のインディーズにおいて、密かに、けれどもダイナミックに胎動している「東京インディー」なるシーンから眺めたポップネスの将来であり、日本語ロックの歴史に2013年の考察を与えたcero以降の音楽という見方だ。筆者はこの二つを同じものとして捉えていない。それどころか、この二つはまったく別の道を辿るものだと思っていた。しかし「safari !」で鳴らされているのは、紛れもなくこの二つの展望が溶け合ってゆく過程である。


 「orion coffee」や「tropical5」の跳ねるリズムに呼吸を合わせるようにして鳴らされるきらびやかなギターとメロディーのアンサンブルや、「Can't Go」の分厚くうねるベースを基調にサイケデリックなジャム演奏が繰り広げられる様子は、このバンドの真骨頂と言えるだろう。そこでトリッピーなムードを感じたかと思えば、繊細で巧みな演奏に舌を巻く「Grizzly」といった具合に、どの曲もフルカラーで彩られており、なんとも美しい。


 《僕の淹れる苦いコーヒーに冬の星座が反射した》


 「Orion Coffee」で彼らはこう歌う。多くのバンドが新たな視線を以て世界を美しく見せようとしているなか、fulaは世界を本当に美しいと思わせてくれる。



(荻原梓)




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 ミュージック・コンクレートが誕生してから60年以上も経つ。フランスの作曲家ピエール・シェフェールによって生み出されたこのジャンルは、都市にあふれる騒音や自然界の音などを録り、それらを加工することで音楽を作り上げるというもの。こうしたミュージック・コンクレートの手法は多くのジャンルで応用されており、そのなかにはテクノやヒップホップといった音楽も含まれる。今でもミュージック・コンクレートの影響は至るところで見られ、さらにはテクノロジーの進化もあり、誰もがミュージック・コンクレートに触れられるようになった。例えばスマートフォンのレコーダーアプリで適当に音を録り、その音をフリーのDAWソフトに移してから曲にする、なんてことも一種のミュージック・コンクレートである。そんな現在なのだから、グライムスローレル・ヘイローといったポスト・インターネット世代が多くの記号で彩られた音楽を鳴らすのは必然だったのかもしれない。


 ロサンゼルスを拠点に活動する男女2人組の18+も、そうしたポスト・インターネット世代だと言える。それはサウンドにも表れており、彼らが過去にリリースした『M1xtape』『Mixta2e』というふたつのミックス・テープは、ヒップホップ、R&B、ダブステップ、ドローンなどがミニマルなサウンドスケープのなかで交わる内容となっている。元ネタも興味深いものが多く、テトリスのBGMとしても有名なロシア民謡「コロブチカ」のメロディーを引用した「Whistle」(『M1xtape』に収録)は、彼らの奔放な遊び心が滲み出ている。


 本作でもその遊び心は健在で、「Crow」ではカラスの鳴き声に合わせて歌を紡ぎ、「Deadbody」はプッシャー・T「Nosetalgia」におけるケンドリック・ラマーのパートが連呼される小品、そして「Fecund」の最後で奏でられるフレーズは、なんと高橋洋子の「残酷な天使のテーゼ」、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のオープニング曲である。


 ビートも今まで以上に贅肉が削ぎ落とされ、シンプルの極地に達したトラック群が収められている。それゆえ2人の歌声が際立ち、その歌声も甘美、妖艶、優しさなど、さまざまな表情を見せる。聴き手を微睡みにいざなうスロウなグルーヴはポーティスヘッドやマッシヴ・アタックに通じるもので、ドラッギーな中毒性を孕んでいる。


 こういった具合に本作は、音楽のみならずそれ以外の要素もネタにしており、ゆえに多角的考察ができる作品となっている。とはいえ、特定の要素を突出させるわけでもなく、あらゆる要素をフラットな状態で示すだけなのが少し厄介だ。ジャケットにも2人の(と思われる)白いシルエットという高い匿名性を持つデザインが選ばれ、"主張"や"個"を抑制している。


 アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』のなかで草薙素子は、「すべてが同じ色に染まっていく」と、情報の並列化によって"個"が失われることを危惧した。しかし一方で草薙は、「私は情報の並列化の果てに個を取り戻すためのひとつの可能性」を「好奇心」に見いだしている。もしかすると本作は、その「好奇心」が聴き手によってもたらされることを望んでいるのではないか? だからこそ18+は匿名性を維持し、聴き手の主観的能動性を促すような振る舞いを続ける。だとすると、ジャケットの白いシルエットに収まるべきは聴き手の想像力なのかもしれない。この想像力によって本作に情報が、考察が、解釈が次々と付随され、それでようやく"ひとつのポップ・ミュージック"になるという在り方。


 インターネットが一般化して以降のポップ・ミュージックにとって、音楽そのもの以外の外縁的要素は極めて重要だと、ミステリアスな本作は私たちに訴えかけている。



(近藤真弥)



【編集部注】『MIXTAP3』は18+のサイトからダウンロードできます。