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LOVE LOVE LOVE「アンサーソング」.jpg

 ライブ会場限定で販売している3曲入りシングル。ナイーヴでひねった内容をホップにしているのが良い。音符の間を滑らかな曲線で繋いでいくような独特の歌唱法と優しく伸びる声がどことなく、はっぴいえんどを彷彿させる。極めてナチュラル、それでいてブルーな旋律。そんな寺井孝太の歌声に、リスナーの心は締めつけられながらも洗われていく。


 タイトル曲である「アンサーソング」。LOVE LOVE LOVEは今年で結成10年なのだが、その節目にソングライターである寺井が改めて音楽と自分、というテーマで作った1曲だ。それはたぶん、音楽と彼自身が一心同体だという所信表明。クールじゃないし派手さもないが(むしろ地味・・・)、切なくなるくらいに熱い。レイドバックした演奏の中に激しい感情をたぎらせているのは、《でも君を忘れたくない 君はいつだって僕のもの 夢見ているんだ 夢見ているんだ 君との夢 それアンサー 果てるまで僕のアンサーなんです》という歌詞からも伺える。弱々しく女々しい軟弱ポップス(褒め言葉!!)だが、楽器の音を必要最低限に抑えてメロディーを際立たせ、ひたすら優しいヴォーカルを聴かせる戦略(だと本人たちは思ってないと思うが・・・)は大正解。今の彼らが感じていることをそのままメロディーに乗せている。素直で飾らない彼らの思いは、聴く人の素に寄り添い、励まし、元気を与え、そして自然と笑顔を生む。そんな曲だ。


 そして、1曲目に収められている「一生傷」。この演歌のようなタイトル、そして普段はベース/ヴォーカルである寺井がピアノで弾き語っている、異色の1曲。意図的と思えるほどに未整理な手ざわり、解消不能な痛みにのたうちまわるような空気感は彼らなりの原点再確認、ある種のリセットなのではないかと解釈したくなる。アコースティックでありながら、お腹にズシンとくるこの重さはどうだ。少し頼りないヴォーカルが淋しさを漂わせながらも、時折力のある言葉で真実をついてくる。曲のなかの不思議なドラマ性の高さが聴く者の耳を捕らえて離さない。弾き語りという、放っておけばどこまでも内へと入り込んでいける道具を使いながら、絶対に溺れない、という寺井自身の壮絶な戦いのような曲だ。静かな激情が確かにある、美しき世界。


 本物っぽい雰囲気より、感動するメロディーを。その考え方は最近のシンガー・ソングライターよりも、往年の作曲家に近いかも知れない。一部のマニアを喜ばせるものではなく、老若男女に届く歌心を追求するLOVE LOVE LOVE。その志の高さが変わらないからこそ、彼らはどんな時でも努力し続けているのだし、その努力があったからこそ、今作は彼ららしい傑作に仕上がっている。



(粂田直子)

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low-pass.jpgのサムネール画像

 本作は東京のMIRROR、京都のLOW-PASS、2組のスプリット7インチである。両者とも国内外問わず数多くのバンドと共演を重ねるメロディアスで軽快なインストゥルメンタル・ポスト・ロック・バンドだ。彼らの音楽は歌が無くてもギターの一音やドラムの一打だけで感情は表現できることを教えてくれる。


 まずMIRRORについて述べる。ジャケット・イラストは公園で遊ぶ少年だが、1曲目「FAAF」はブランコを揺らす少年の身体感覚を2本のギターと小刻みなドラムで表しているかのよう。続く「Awkward」は、グローブジャングルを回す少年のイメージが思い浮かぶ曲。ミラー・ボールにも通じるその回転はタイトル通りぎこちない。少年が大人になる過程で出会う様々なドラマを奏でているのかもしれない。LOW-PASSも同じく2曲収録しているが、MIRRORからバトンを受け取って、公園で遊ぶ少年のその後、思春期の物語を綴っていると私は解釈した。積乱雲を意味する「cumulonimbus」は、薄暗がりのなかから徐々に光が差し、世界が明るく照らされていく光景が思い浮かぶ。2曲目「chapter square」では、ファンキーに歌うリード・ベースとアクロバティックに高鳴るギターが絡み合い、自在に拍子を変え展開するドラムがアクセントを添える。その様は、3つの楽器がそれぞれに別の曲を演奏し、それらが組み合わさって1つの曲になっているかのよう。ありったけの感情を詰め込むには有効な手段だ。結果として数分間のポップ・ソングで、思春期の様々な葛藤が表現されているように感じさせる。


 本作は国内外のエモ~ポスト・ロック・アクトをリリースするレーベル《STIFFSLACK》から。名古屋栄にバー併設の実店舗を構える同レーベルは、《Polyvinyl》等海外レーベルのヴァイナルをCDとして国内流通させる一方で、7インチのリリースにも積極的だ。例えば、cinema staffの兄貴分にあたるClimb the mindのCDと7インチ、そしてOGRE YOU ASSHOLEの出戸学も尊敬するSICK OF RECORDERの復活作となった7インチをリリースしている。LOW-PASSについて付け加えれば、ベース小野泰伸は細野晴臣をリスペクトし、女性シンセサイザー奏者3人とのニュー・ウェイヴ・バンドYOU MUST SEE Iとしても活動している。東京~名古屋~京都間での繋がり、ミュージシャン個々の音楽性の出自をたどっていくのも面白い。



(森豊和)

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NORTH_SOUTH_DIVIDE.jpg
 あくまで「ぼくにとって」だが、まるでジェイク・バグとザ・ストライプスの「いいところ」を抽出して畑に蒔いたら素敵なものが生えてきた...ってな感じの、とてもフレッシュなアルバム!


 公式サイトによれば、コートニー・ラヴが「ディランよりいい感じでディランっぽいことをやってる、この15歳の子は誰?」と言った。その表現も決しておおげさではないと思う。


 誰もが「えっ?」と思ってしまうこの名前、リアル・ネームらしい。もし彼が日本で育ったら学校でいじめられたりしてたかもしれない。だけど、どうだ! 全然名前負けしてないどころか、それを立派に背負って立つほど見事に成長した...。おとーさんはうれしーよ...(というくらいの年齢なんだよ、正直言って自分は...)。


 このアルバム・タイトル、日本の古株インディー/オルタナティヴ・ファンがぱっと見るとベン・ワットの『North Marine Drive』(83年)を思いだすかも? いや、単に語呂の感じで。意味的には(たとえばアメリカの南北戦争に象徴されるような)「北部と南部の相違」みたいな意味。たしかに、こんなところもディランっぽい...。


 『North Marine Drive』を持ちだしたのは、決して無理やりじゃない。あのアルバムには、ディランのカヴァーも入っていた。しかし、そうとは思えないほどクールに処理されていた。あのアルバム全体に漂う「体感温度の低さ」は、あの時代の最先端だった。そして、今はこの「がさつとも思える熱さ」が、やはり極めて新鮮なのだ。


 そういった意味で、何度か聴いたあと、ラスト・ナンバーがちょっとザ・トリフィッズ(80年代のオージー・オルタナティヴを代表するグレイトなバンドのひとつ。ピクシーズより前にギル・ノートンが手がけていた。わりと「知る人ぞ知る」バンドかと思ってたら、ドミノから00年代にデラックス・エディションが出てびっくり)を思わせる...とか感じてたのだが、どうやら彼は昨年まで家族と一緒にオーストラリアに住んでいたらしい。出身はサウス・ヨークシャー(このファミリー・ネームから、ケルト系であることが推測される)で、今はまたUKに戻ってきた。


 公式サイトに引用された発言を見ると、メルボルン時代に父親に連れられてディランのツアーを観にいった(10日9回のライヴを観たらしい...。それは筋金入りだ:汗&笑)ことを(たぶん)うれしそうに語っている。その体験に、すごく影響を受けたと。グレイトじゃないか!


 本作は、元クリエイション・レコーズ主宰者アラン・マッギーがチェリー・レッド傘下に新しく始めた新レーベル、359ミュージックのアルバム第1弾。「新しい動き」の幕開けにふさわしい、実に気持ちのいい作品だ。






【編集部注】『North South Divide』の国内盤は11月9日リリースです。

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Laurel Halo(ローレル・ヘイロー)『Chance Of Rain』.jpg

 ベッドルーム・ポップと呼ばれているドリーミーな音楽のブームは、グライムスなど良質なアーティストを数多く輩出したが、1週間も経てば忘れ去られる粗悪な音楽も生み出してしまった。バンドキャンプで"dream pop"と検索をかけてみよう。すると、今でもインスタントなベッドルーム・ポップが量産され、そのほとんどが甘い白昼夢に溺れただけの面白みゼロな音楽であることがわかるだろう。とはいえ、こうした粗製濫造な状況は、新たなポップ・ミュージックが浸透していくうえでは避けられないことでもある。それに、才能あふれるアーティストは粗製濫造な状況から抜け出し光り輝くものだ。それこそ、本作『Chance Of Rain』を上梓したローレル・ヘイローのように。


 前作『Quarantine』は、ドローン/アンビエントの要素が滲む音像を特徴とし、先に書いたドリーミーなベッドルーム・ポップ的サウンドでありながらも、彼女なりの実験精神が窺える内容となっていた。正直、頭ひとつ飛び抜けているアルバムとは思えなかったが、会田誠の『切腹女子高生』をアートワークに使用するセンスも含めた将来性は、非常に興味深いものだった。


 そして本作では、その将来性が見事に花開き、彼女は独自の世界観を力強く提示している。ギリシャ神話に登場する夢の神から引用した「Oneiroi」では、ブラワンを想起させるドライなベース・ミュージックに接近し、「Chance Of Rain」はサージョンやレジスといったインダストリアル・テクノに通じるなど、ポスト・インターネット世代の彼女らしい過剰なまでに記号を詰め込んだ作風となっており、高い音楽的彩度を誇っている。前作譲りの端整なサウンドスケープは本作でも味わえるが、荒々しいグルーヴとラフなビートを強調したプロダクションは、これまでの彼女にはなかった獰猛さとなって、聴き手に驚きを与えるだろう。


 そんな本作は、これまでのセオリーから解き放たれ、あらゆる文脈を細切れにして撹拌したダンス・ミュージックであり、リズム、音色、曲の展開、そのすべてが新たな想像力で満ちあふれている。本作は間違いなく、「頭ひとつ飛び抜けているアルバム」だ。



(近藤真弥)

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OUT LOUD.jpg
 韓国のホンデ界隈に行くと、洗練と混沌がアートとして撹拌され、投げ出されている感覚を受ける。現在のホンデ・シーンは、弘益大学校周辺を巡る何らかの記号性を持ちつつも、カフェ、クラブ、雑貨店、ライヴ・ハウスまでがセンスを鬩ぎ合う、複合カルチャーの発火点としての意味が強くなっている。


 そんななかでも、2006年にDJとして活躍し始めたデミキャットは、クラブ・ジャズとスタイリッシュで都会的なサウンドをベースにした作品群がホンデのカフェやクラブでパワー・スピンされるなど、後進に多くの影響を与え、クールなユース・カルチャーとしての場を盛り上げていたといえる。


 しかし、韓国の女性アイドル・グループ、シスターの「How Dare You」のリミックスでは、一時期のダフト・パンクに通じるフィルター・ハウス的な煌めきを導入しており、自身の名義では約3年振りとなるこの「Out Loud」でも、より幅広い層に受け入れられるであろう舵取りがなされている。


 ダブステップ以降のファットなビートを基調に、ネオン・バニーを招いた艶美な「Singing Bird」では、フリーテンポ、スタジオ・アパートメント、デデマウスの持つエレガントでしなやかなムードを醸し出し、ナイト・クラビングのための機能性も垣間見える。


 その他にも、スペーシーな「Higher Ground」や「Hold Me Tight」におけるグリッチ・ホップの援用もありつつ、大文字の80年代的ディスコティックな眩さをなぞり、初期の彼にまとわりついていたストイックな印象を変えるかもしれない5曲が、過渡期としての今を刻印している。


 ホンデ・シーンも一時期に比べれば爛熟し、他分野同士が交流するハブとしても機能するなか、"何でもアリは、そうでもない"という峻厳な端境期に来ているような感覚をおぼえる。そこで、早くからホンデ・シーンの一端を担っていたデミキャットがNU-JAZZ、クラブ・ジャズのカテゴリーを対象化し、不特定多数の人たちへの訴求力を持つサウンドにシフトしたのは興味深い。ポテンシャルを秘めたアーティストだけに、フル・レングスも含め、都度のサウンド・ワークに期待したい。


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the_1975.jpg
 話題になりはじめたころ、EPの曲をちょっと聴いてみたら、このバンド名のわりにドラムの音のダサさとか80年代っぽくない? ヴォーカルもスタジアム・ロックっぽいかも...と、あまりいい印象を受けなかったのだが、アルバム聴いて一気に意見を変えた。「今のダンス・ミュージック(R&Bおよび宅禄ポップっぽいフランク・オーシャンあたりも含む)」のいいところを、舌を巻いてしまうくらい見事に、ダイナミックかつしなやかなバンド・サウンドにとりいれている。


 アートワークや写真のイメージだと、かなりダークなこともわかったのだが、それと曲によっては脳天気なほど明るいトーン...という落差も最高におもしろい。だから、今のMGMTに感じる「明るいのか暗いのか、どっちともいえない」雰囲気が(また違った意味で)ここにも...!


 なにより素晴らしいのが(アルバム1曲目から順に)「The 1975」「The City」「M.O.N.E.Y.」「Chocolate」「Sex」「Talk!」...という、もう「シンプル」とか「わかりやすい」とか言うのもはばかられる曲名の数々。英語が母国語ではないぼくらにもやさしい...ってのを通りこして、一体何考えてるんだ? こいつら? と、うれしく...楽しくなってしまう。


 少なくとも「間口を広くしよう」という(無意識の? どうなんだろう?)意図だけは見えてくる。実際UKでは、かなり売れているらしい。いいことだ!


 結成地もしくは本拠地は、マンチェスター。なるほど! ぼくが(10CCの昔から)そこ出身のバンドを好きになることが多い理由は、その町の音楽にしみついた地方都市性にあると思っている。


 地方都市、そこでは「ジャンルの垣根」に関して「大都会」(クリスタル・キング...じゃなくて、東京とかロンドンとかニュー・ヨークとか)以上に頑なになってしまう人たちもいることはいるけれど、それを「自然に」飛びこえることに関しても、ときに「大都会」の人以上にむちゃくちゃなパワーを発揮することがある。


 このアルバムは、まさにその典型と言えるかもしれない。


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newcinema2.jpg

 ツイッターでクッキーシーンの近藤さんが呟いているのを目にして、サウンドクラウドで何となく聴いてみたのが彼らの「ばんねん」という曲だった。録音もアレンジも洗練こそされていなかったものの、この曲の衝撃の大きさは1年に1回あるかないかのものだった。サビまでAメロを2回繰り返し、タメを作ってから、一気に雪崩れ込むキャッチーなコーラス。"ファッショナブル"が目的化したサウンドやコンセプチュアルに"逃げた"歌詞には手を出さず、すこしだけノスタルジックな香りを残したポップ・ナンバーを全力で演奏している爽快感が、一番印象に残った。この時点ではライヴを観たことはなかったが、ヴォーカルの山本剛義が顔を歪ませながら大声で歌う姿がはっきりと頭に浮かんだ。イアン・ブラウンやリアム・ギャラガーを彷彿させる舌っ足らずな彼の歌い方も、カフェのBGM以上でも以下でもないシティー・ポップとは一線を画す要因になっている。


 ひとつひとつの選択に対して、自分の意思を決して曲げず、時代に迎合せず、次の時代を作るのがオルタナティヴの概念だと勝手に思ってきたけれど、ミラーマンはそういう意味でとてもオルタナティヴな存在だ。ただ、そこには必ず迷いや葛藤も生じるから、それはリリックで吐き出す。サウンドはとことん確信に満ち溢れている。前からずっとそこにあったように、ギター、ベース、ドラム、ヴォーカルが一体となって心が晴れ渡るようなサウンドスケープを作り上げる。それは、自信たっぷりに突き進む人間の内側では、誰かに依存せずにはいられない弱い感情が渦巻く、そんなコントラストと似ている。


 彼らはリアルをそのまま伝えている。週末の下北沢でしかありえない光景を歌っているわけでもなければ、クリエイティブなシーンに属する人間だけが体感できるような出来事を歌っているわけでもない。SNSを通した感情の発露ではなく(それはときに過剰で、本意とは違うポーズにすぎないから)、実際の生活の場で起こりうるシーンを切り取って、それをきれいな日本語に変換してサウンドとマッチさせている。だから、辛気臭くならない。これが辛気臭かったらぜんぜん良くないはず。歌っていることはけっこう情けないからね。《ここにはないものが そこにはあるのにね でもここにいたいのさ 君といたいのさ》なんてさ、共感を超えて恥ずかしくなるよ。普通は思っても言わないし。おい、これはなかなかの赤面ミニ・アルバムだぞ。


 今回のミニ・アルバムに収められたのは7曲。先行シングルの「Youth」が一番爽やかで、挨拶代わりの1曲にはぴったりなんだけど、ちょっとよそ行きの雰囲気が漂う。そこで、「ばんねん」はもちろんだが、特に注目すべきは最後に収録されている「unicorn in the groove」だ。1回しか登場しないコーラスでは《巨大な給水塔はいまはもうない いつかの誰かは二度と会えないのさ もう一回 もう逃げたい》という弱音が正直に吐露されている。多少シニカルで詩的なミラーマンというバンドが、最後の最後に悲観的なノスタルジーに陥るのだ。「もう一回」と「もう逃げたい」は相反する感情だが、「もう逃げたい」のほうが後ろにきているところが良いじゃない。


 「ニューシネマ」は、必ず日本のポップ・シーンを変えるきっかけになるし、ミラーマンの魅力を余すところなく伝えている。思わず快哉を叫びたくなるね。



(長畑宏明)

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Prince Of Denmark『The Body』.jpg
 ドイツの《Giegling》は、テクノ・シーンのなかでも一際アンダーグラウンド色を強く打ち出しているが、その《Giegling》の姉妹レーベル《Forum》が9月にリリースした『The Body』というアルバム、これが実に素晴らしい。じわじわと変化していく音像はミニマル・ミュージックの影響を滲ませ、淡々と刻まれる4つ打ちは冷徹に鳴り響く。一定のリズムを崩さず、音色の変化で起伏を作る手法はマルセル・デットマンといった《Ostgut Ton》周辺のサウンドに通じるが、本作はそれらのサウンドよりも起伏が抑えられ、トラックによってはリズムや音色がほぼ変わらないまま終わる、なんてことも珍しくない。


 正直、そんな本作を聴いていると気が狂いそうになるが、それでも繰り返し再生させるだけの妖艶な雰囲気を纏っており、なかなかの曲者。この雰囲気はミラーボールの下で脚光を浴びることはないかもしれないが、その代わり本作には、光も届かない地下深くで踊り狂う者たちを満足させるサディスティックなグルーヴがある。こうした作風は、昨今盛り上がりを見せるインダストリアル系の音とも共振する。


 ちなみに本作を作り上げたのは、プリンス・オブ・デンマークという名のアーティスト。別名義のトラウムプリンズでも、《Kann》やセルフ・レーベルの《Traumprinz》などからリリースを重ねている。日本ではテクノ系のパーティーでスピンされることが多いものの、その素性は謎に包まれており、テクノ好きのあいだでも知る人ぞ知る存在。神秘性を生み出しづらいSNS全盛の現在において、このミステリアスな側面もプリンス・オブ・デンマークの魅力なのは間違いなく、ゆえにカルト的な人気を得ているというのも頷ける。やはり刺激的で面白い音楽は、上から降ってくるのではない。下(アンダーグラウンド)から這い上がってくるのだ。


 ダブステップ以降、非4つ打ち系のトラックがフロアを支配していた。ヴィジョニストやフィルター・ドレッドといった、テクノ/ハウスが偏在する今を変革し得るアーティストも出てきている。しかし一方で、ブラック・ジャズ・コンソーティアムがテン年代のUSハウス・シーンを盛り上げ、イギリスではディスクロージャーがファースト・アルバム『Settle』を全英アルバム・チャート1位に送り込むなど、4つ打ち寄りの音を鳴らすアーティストが注目されているのも事実である。まあ、プリンス・オブ・デンマークがそうした潮流を気にするとは思えないが、特筆すべき音を鳴らしているのは確かだ。


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入江陽.jpg

 ディアハンターのブラッドフォード・コックスは、最近のインタヴューでこう語っている。「『Metal Machine Music』 は精神を病む子ども達に好かれるというが、僕もそんな音楽を作りたい」。音楽性は違うが、私は入江陽の音楽を思い出した。彼は現代のルー・リードかもしれない。都会の隅で生きる私たちの生活に寄り添い、砂のように儚い日常をこまやかに歌い上げる。


 アルバム本編は6曲。後期スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンを連想させるタイトなドラムから、ディアンジェロに通じる濃厚なゴスペル・コーラスへつながる1曲目「めきしこ」は不倫の歌のようだ。甘いメロディーに不穏な火花がくすぶる。続く卒業は恋人との別離を歌う、軽快なファンク・チューンのようで隠し切れない悲しみが滲み出す。ダブの音響処理で日常から突然首をもたげる断絶を鳴らす「砂遊び」。ノスタルジックなローズ・ピアノに乗って、最高にロマンチックでこれが本来の彼の声だろうイタリア。続く「地震」は陽気なカントリー調で、ダークな歌詞をシニカルに歌う。ピアノ弾き語りかと思いきや、空間を切り刻むギターと縦横無尽なコーラスが重なり合う。砂漠と水、嘘と真実、突然の暗転。全体を通して乾いたサウンド・プロダクションに感情を増幅するコーラス、黒人音楽の伝統に根ざす、しゃがれた、しかし温もりのある歌声が響く。怒りや焦燥感、飢えを、客観的なユーモアに滑り込ませる。楽曲の音数は最小限だが様々なイメージを喚起する。彼の音楽は過去に置き忘れたヒリヒリする感傷を思い起こさせる。その痛みは大切なうずきに変わり、血の色を戻してやがて治癒するだろう。


 ところで、アルバム・ジャケットはグラスに満たされた水だ。真っ白な背景に透き通る水。しかし録音されているのは、生活の様々な混濁を残した音楽。このデザインの意図はなんだろうか。私はこう考える。最初から美しく洗練されたアートは本来ではない。混みいったものを通り越さないと水になれない。水分が蒸発してかつての肥沃な土地は砂漠になる。水分は雨となって別の土地に降りそそぐ。山の頂から流れ、ろ過され滝になる。そうして、この奔流のような音楽が生まれた。


 様々なバンド形態で演奏するようになったのは2012年の春からだという。「中高生の頃はパンクやフリー・ジャズに傾倒していて機材の使い方も分からず爆音を出していた」と、彼は笑いながら私に語った。大学ではオーケストラでオーボエを吹いていたという入江は、自身の音楽の影響元として、マーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、デューク・ エリントンにジョニー・ホッジス、チャールズ・ミンガス、セロニアス・モンク、セルジュ・ゲンスブールに井上陽水、大瀧詠一、さらには急逝した吉村秀樹への憧憬を切々と語る。聞けば聞くほど出てきそうで際限がない。黒いポスト・シティー・ポップとでも呼びたい彼にふさわしいルーツ。だからか、ソウルDJ出身であるEP-4佐藤薫の目に留まり、彼の手によるリミックスも収録されている。他にカメラ=万年筆、DJぷりぷり、大島輝之+大谷能生といった面々もリミックス陣に名を連ねる。また、冒頭で精神疾患についてふれたが、入江はピアニストとして精神疾患の音楽療法も志している。自閉症児がしばしば誰に教えられたわけでもないのにラジカセのボタンを駆使してDJプレイをしたり、特殊な楽器をやすやす弾きこなすケースがあるが、入江の音楽の実験、独自のリズム感に通じるかもしれない。自閉症に限らず様々な精神疾患において、音楽は治療のためのコミュニケーション手段として有用である。特になんらかの理由で発達を阻害された子どもたちの心を開くためには、既成の音楽ではない、彼や彼女ひとりひとりのための表現が必要だ。心臓のリズム一つとってもみんなそれぞれ違う。入江陽は既成の音楽をこわす。


「何でも聴くし何でもやってみたい。無意識に出てくるものを大切にしたい。自然に出てくるもの。それらをできるだけ共通の言葉で表したい。夢の中みたいな、でも普遍的な表現に」。入江陽は語る。聴く側の想像力を呼び起こすような音楽なのか、と問うと彼は力強く肯いた。「枠にとらわれず、とにかくいい音楽をつくりたい。それが素晴らしければ別に演歌であったっていい」と熱く一気に語りだす。では、もしかしたら明日からヒップホップをやってるかもしれないよね? と意地悪に問いかけると、彼は破顔して、「そうですね!やりたくなったら(笑)」と答えた。



(森豊和)


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NEVERLAND-.jpg

 《でっちあげた物語 意気揚々と語る お話をしましょう でっちあげた物語 時に本当になる お話をしましょう》

(「トリッパー」)


 でっちあげた物語=寓話から本当へ、その本当がまたも、寓話的な未来としての「ショートバケーション」に回収される。それがこの作品のひとつの魅力にもなっている。


 彼らは5人体制になり、ヴィジュアル面での鮮やかさや雰囲気のユーフォリアをして、スタイリッシュなイメージがついているが、チェコ・ノー・リパブリックというバンド名を掲げ、こうしてメジャー・デビュー・アルバムに『NEVERLAND』と名づけるあたり、ノマド的にいま持ち得る限りの音楽的語彙の多岐性に投企する、そんなところを筆者は感じる。


 当初からよくリファレンスされていたヴァンパイア・ウィークエンドは、軽やかで多国籍なところから純然たるアメリカーナの根底に向かい、MGMTはヴァーチャルに捻じれていき、日本では匿名的なボカロやポスト・チルウェイヴ、つまりヒプナゴジックなポップスがじわじわと台頭してきている瀬もあるなか、彼らは過去曲のアップデイトと新曲を合わせた、カラフルでいてサイケな色合いも強い今作を上梓した。


 冒頭は、「ネバーランド」という有り得ない概念を呈示するドリーミー・ポップ。軽快な掛け声とともに創成しようとするさまは無防備なようで、知的な閃きも随所に感じられる。ネバーランドの不在、不在たるネバーランドへの希求という矛盾に引き裂かれながら、想像力の枠内でこのアルバムは躍る。


 そして、いしわたり淳治が参加した2曲目の「MUSIC」になだれ込む。ニューウェイヴ調のミニマルなリズムの反復とタカハシマイのコーラスが心地良い、彼らにとっては新しい気配を感じさせる曲になっている。《ダッダドゥダ》というハミングと魔法みたいな"music"について歌われながら、しかし《天国が あるかないかなんて 考えたことはないけど》、《三途の河で足湯し 菩提樹の下で一眠り》なんてフレーズは武井の感性に沿い、よぎる。死や虚無を後景に、それでもイヤフォンのヴォリュームを上げることで救われるときもある。基本的に今作は、そんなヴォリュームのチューニングに賭けているようなところが窺える。


 ライヴでも定番の過去曲「Call Her」「レインボー」は、新しいリスナーに届けるため端整に再構築されている。アルバムの中心部には人気曲のひとつ「Don't Cry Forest Boy」が片寄明人のプロデュースのもと、少しリズムが落とされ、武井とタカハシマイの声が雑ざり合い、幻惑的な雰囲気を倍化させ、何かしらのフォークロアに準拠するさまも感じられる。メンバー全員でチーム・ミーやムームをよく聴いていたという影響通り、じわじわとサイケデリックになってゆく後半パートは新曲も含め、興味深い。放浪性を表象した「トリッパー」はシンセの美しさ、転調の面白さ含めていいアクセントになっており、今後のライヴでも要所を占めてきそうだ。リ・アレンジメントされた9曲目の「幽霊船」も素晴らしい。震えるリズムとシンセの響き、そして少し腰を落ち着けた空気感は、これからの彼らのポテンシャルを感じさせる。


 《霧がかかった 海は荒れるが もう気にならない 揺れる幽霊船 さらに闇の方へ 帰り道のない HERE WE GO もう今しかない》

(「幽霊船」)


 その幽霊船が越えるべき境目を描く11曲目の「国境」は、ユース・ラグーンの最新作を想わせる浮遊感と白昼夢のような歌詞が残り、その風景を引き継ぐような最終曲「エターナル」は慕情溢れる、ビートルズ「Tomorrow Never Knows」のような小品。


 《今日 明日 二年後 五年後 分からないんだ 未来は 未来は じゃあ楽しむんだ 今を》

(「エターナル」)


 はじまりとしての今作は、端的に言えば漂流についての作品である。漂流し、"今"を楽しむことで浮かぶ行間に於いて、音楽があればどうにかなるのではないか、という向こう見ずな意思が行き来する。その揺れながらも、進もうとする彼らのステップが、不安定な現在を生きる同時代のユースの集合的無意識によって下支えされることを願ってやまない。


 《ネバーランド 今 何が君の目の前に広がる?》

(「ネバーランド」)



(松浦達)