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「ビヨンセとツアーするのが夢なの!」と語るバンドが、マサチューセッツ州の女性4人組ポッティー・マウスなわけだが、彼女たちのデビュー・アルバムとなる本作『Hell Bent』を聴くと「え?」という驚きに衝突する。再生ボタンを押せばすぐさま飛び出てくるのはヤッククラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーなどを思わせる、ガレージの匂いが漂うノン・ブレーキのささくれ立ったポップ・ソング。間にバラードなど挟まない、突っ走る35分間。ビヨンセの要素はほとんどない。でも、ビヨンセに憧れているという。そんなところに今を感じるというか。例えるなら、かつてグライムスが「K-POPやハード・コアも大好きなの」と言ったように、そして、やけのはらが平賀さち枝をゲストに迎えたりと、もはや自分と他のアーティストとの音楽性の違いはあまり関係なく、単純に音が面白いと感じたり、アティチュードに共鳴したら、どのような形であれ、有名/無名だとかそういうことは関係なしに、アーティストとアーティストは点から線になるのだ。


 バズコックスを筆頭にマンチェスター出身のバンドや、サーストン・ムーア、ダイナソーJr.の影響を受けたというポッティー・マウスだが、ビヨンセの影響も含めて聴くと本作は若干聴こえ方が変わってくる。もちろんビヨンセとは全然違うのだが、妙に官能的だということに気付く。例えば10曲目「The Better End」。がむしゃらにギターを掻き鳴らすだけではない哀感を含んだメロディーと歌声は「今の私たちにはここまでしかできないの!」という彼女たちのもどかしさを感じるけれども、一方で、「いつかギターを持ったビヨンセになってやるわ!」といった意気込みを感じるというか、「レディー・ガガに負けてられない!」みたいな女の意地が見えるというか。これって僕の拡大解釈? そうかもしれない。しかし得てしてガールズ・ポップ好きの野郎は女の性(さが)に敏感だったりするのだった(決して本作を揶揄しているわけではない)。


 いわばポッティー・マウスは音楽への憧れをサウンドで表現している。これは皮肉でもなんでもなく、純粋なことだと僕は思う。ギターを掻き鳴らすことは誰でもできる。でも、誰かへのリスペクトとして音を鳴らす行為は、届くのか分からない願いや祈りをどうにかして届けるために、自分たちが鳴らせる以上の音を鳴らそうとしているのだから。本作で鳴っている音が荒削りながらもキラキラと輝いているのはそれゆえ。ややもすればパンク・ロックの一言で素通りされそうな音楽なのに、すっとやさしく聴き手の心に触れてくる。瑞々しく、輝いているという点ではラ・セラキャット・パワーも同様。言わずもがな、パクリとかじゃない。そういった作品を『Hell Bent』と名付けたあたりにユーモアすら感じる。


 さらにはポッティー・マウスが鳴らす音に虚栄心や恥じらいは一切ない。憧れには届かないのかもしれないが、鳴らさずにはいられないという、もがく音が清々しく聴こえてくるから面白い。それらは自分たちに影響を与えた多くのアーティストへ向けた敬意であり、ありのままの自分たちでもある。もし本作が試聴機に並んでいたら「Shithead」を真っ先に聴いてほしい。暴動とやるせなさが同時に聴こえる。シャウトが儚く響き渡る。そして、音楽で誰かを愛することはできるのだと気付かされる。本作を聴いていると、音を鳴らす行為とは今まで僕らが思っていたよりずっと尊いものだと思えてくる。


 プライドだとか、地位だとか、そういったものだけの上に自分を築いてしまったバンドは少なからずいるだろうし、僕らだって意識的か無意識的かは問わずしてエゴの上に自分を築いてしまうことは多々ある。でも、ポッティー・マウスは誰かへの敬意の上に自分たちを置いている。そうして鳴らされる音の全ては強く、美しい。そこに、どうしてか反省させられるのだ。




(田中喬史)

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 かつて氣志團の綾小路翔は永遠の16歳を名乗り、学ランを着せたら俺の右に出るものはいないと語った。そしてユニコーンやBOφWY、尾崎豊、町田町蔵、果ては在りし日のヴィジュアル系からニュー・ウェイヴ期の海外アーティストまで愛あふれるオマージュをおこなった。フリッパーズ・ギターが、アズテック・カメラやモノクローム・セット、オレンジ・ジュースといったポスト・パンク期のアーティストを慕い日本に紹介したように。音楽性は全く異なるが、氣志團こそフリッパーズ・ギターの精神性を真に受け継いだバンドといえないか。表面的なおしゃれポップの要素を再利用するのではなく、深層に潜む、何でもありの精神を受け継いでいる。


 前置きが長くなったが、愛知のキーボード・ロック・バンド、みそっかすは間違いなくこの系譜に入るアーティストだ。フロント・マンのデストロイはるきちはBLANKEY JET CITY、THE BACK HORN、椿屋四重奏、9mm Parabellum Bullet、アルカラ、0.8秒と衝撃。といったバンドへの憧れを無邪気に口にする。彼らはそういった先達からの影響を全てぶちっこみ、レゲエやハワイアンのようなワールド・ミュージックの要素も混ぜてごった煮に料理する。大時代的で、いい意味で古臭いシンセとギター・リフがアルバム全編を支配している。特に、リード・シングルアメリカと中国と静岡の展開ときたら! サビは王道のヒーロー・ソングなのだが、前後のメロディーの移り変わりがせわしなく先が読めない。ロール・プレイング・ゲームのBGM集を早回しで聴いているかのようだ。


 そしてSEXY DYNAMYTEは、ヒップホップの要素をロックに注入したようなアークティック・モンキーズ以降の感性、擦り切れた靴とロケットはトゥー・ドア・シネマ・クラブを連想する4つ打ちだが、決してそれだけでは終わらない。またここで?という衝撃の展開の連続。彼らは日本福祉大学の軽音部出身で、知多半島にて名古屋のインディー・シーンから隔絶されていた。そういった環境がガラパゴス的な詰め込みJ-POP化を促進したのかもしれない。また、ライヴでの彼らは無様でもキーボードがひっくり返っても力技で盛り上げる。ベースを振り回してステージを破壊しかねない熱演。「俺達はただのみそっかすだ」という地点からはじまった彼らも、ツアーを重ね、関西ではKANA-BOONやキュウソネコカミ、東海ではpalitextdestroyやTheキャンプ、ビレッジマンズストアといった盟友も増えた。渋谷系の傍流のそのまた傍流たる彼らが日本全国をみそまみれにするとき、おしゃれの意味は逆転するかもしれない。


 ここからは余談であるが、くるりの岸田繁を唸らせた意表を突く曲展開とメロディー・センス、それからthe telephonesの岡本伸明も絶賛する踊れるエモ・コア要素は、彼らが持つ最大の武器だ。しかし、そのバランスが今後の課題になるかもしれない。後者に比重を傾けていくと動員は増す一方で、セル・アウトして大量消費の闇に消えていく恐れがある。HMVのインタビューでデストロイはるきちは語る。「(最近のインディーズ・シーンは)多様なようである程度型にハマっている気もします」。言ってくれるじゃないか! ブレイクしたとたんに彼らが時代の潮流とは全くあさっての暗黒舞踏を繰り広げることを切に希望する。デストロイはるきちが10代の頃ハマったというレディオヘッドの『KID A』全曲カヴァー・アルバムを突然無料配信するとかね(笑)。



(森豊和)



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 ゴルジェと呼ばれる音楽に出会ってから、音楽の聴き方が大きく変わってしまった。ゴルジェといえば、かの有名なGPL(Gorge Public Licence)、「1.タムを使え」「2.それをゴルジェと言え」「3.それをアートと言うな」という3つのルールが欠かせない音楽。この3つのルールを順守していれば、どんな音でもそれはゴルジェになる。とはいえ、このルールでさえ、ゴルジェのオリジネイターDJナンガが、「それぞれ明確な定義はしていない。勝手に解釈して作ってくれ」(※1)と言うように、あらゆる拡張の余地を残し、誰でも含意を書き換えることができる。このようにゴルジェは、それぞれの想像力によってさまざまな表情を見せ、変化し増殖する音楽なのだ。


 そんなゴルジェに触れてからというもの、筆者は"これはロックで、あれはロックじゃない"みたいな、頭が凝り固まった者が嬉々としてやりそうなことがくだらないものに見えてしまう。もちろん、ゴルジェも「それをゴルジェと言え」というように、タグづけから完全に逃れたわけではない。しかしゴルジェは、"◯◯じゃない"と否定したり排除するようなマネはしない音楽であり、このことが、ゴルジェが今も多くの人に驚きを与えつづけている所以なのだと思う。言ってしまえば、すべて個人の想像と解釈に委ねられ、そこから新たな創造がおこなわれる。これが筆者にとってのゴルジェだ。


 本作『ROCK MUSIC』は、日本におけるゴルジェの第一人者hanaliの作品である。だが、タイトルは『ROCK MUSIC』。シーパンクの中心人物とされるウルトラデーモンが、様式を固めるかのように『Seapunk』と名付けたアルバムをリリースしたのとは対照的だ。つまりhanaliは、あくまで自身にとってのゴルジェを本作で追求したということであり、そうすることでゴルジェが型にはまることを巧みに回避している。それゆえタイトルが『ROCK MUSIC』なのだろう。いわばこのタイトルは、本作の音を必ずしもゴルジェと呼ぶ必然性はなく、もっと言えば聴き手がそれぞれ好きなように呼べばいいという寛容な姿勢を、hanaliなりに示したのだと思う。


 そう考えると、本作の掴みどころのなさにも納得がいく。硬質かつ強烈なベースがそびえ立つ「Rebolted Wonder Gorge Ensemble Band」、さらには「Stop The Night Boldering in Kawai」といった、まるでハーケンを打ち込みながら聴き手に迫るような力強いリズムが印象的なトラックも収められた本作のサウンドは、ゴルジェの他にもインダストリアル、ドローン、アンビエント、テクノ、それから忘れてはいけないロックなど、どう呼ばれても不思議と違和感を抱かせないが、それはおそらく本作が、そこに音が存在するという事実のみで成立している作品だからだ。


 ここまでの作品を提示されてしまった以上、聴き手はその圧倒的なまでの音にただ耳を傾け、体感するだけでいいのではないだろうか? 言語やスタイルを軽々と飛び越えてしまう膨大なパワーが、本作にはある。



(近藤真弥)



※1 :『ROCK MUSIC』に同梱されているライナーノーツ内で読めるDJナンガのインタヴューより引用。

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 先日マルセル・フェングラーがリリースしたアルバム『Fokus』は、複雑なリズム・ワークと硬質かつ繊細なサウンドが見事に交わる良作だった。Resident Advisorでは、「ベルリンを訪れる観光客もわざわざ彼のセットを聴くために航空券を予約するわけではない」と、ちょっとあんまりな物言いをされているフェングラーだが、『Fokus』のリリースによって、テクノ・シーンでは頭ひとつ飛び抜けた存在に遂げたと言える。ノン・ビートの「Mayria」で幕を開け、「Liquid Torso」がラストに待ち構える流れはドラマティックな起伏を意識した並びになっており、それゆえテクノ・ファンのみならず、より幅広い層に届く可能性を宿しているのも素晴らしい。おそらく『Fokus』においてフェングラーは、アーティストとしての側面をアピールしたかったのだと思う。


 そして、フェングラーと共にベルリンのクラブ《Berghain》でレジデントDJを務めるもうひとりの"マルセル"、マルセル・デットマンも、2010年の『Dettmann』以来約3年ぶりとなるアルバム『Dettmann ll』を完成させた。比較的長いスパンを空けているが、『Dettmann』以降のデットマンは、「Translation」「Range」などのEPをリリースしながら、モードセレクターが主宰する《50 Weapons》からは「Deluge/Duel」「Linux/Ellipse」を発表したりと、活発に動いていたから久しぶりな感じはしない。むしろ、世界中をDJとして飛びまわり、エミカ「Count Backwards」やモーフォシス「Too Far」のリミックスを手掛け、ミックスCD『Conducted』も作り上げるといった忙しさのなかで、よく本作を完成させられたなという驚きのほうがデカイ。


 そうした多忙の合間を縫って制作された本作は、どす黒いサウンドスケープとストイックな4つ打ちというデットマン・サウンドの特徴が終始貫かれている。アルバム全体の流れも、先述した『Fokus』のドラマティックさとは対照的で、地の底を這うようなリズムがサディスティックに刻まれるさまは聴き手に淡白な印象を与えるが、同時に妖艶な雰囲気も醸し出す。


 また本作は、オープニングの「Arise」から5曲目の「Lightworks」までは控えめな出音の強さを保ちながらも、続く「Soar」では一気にキックの強度を上げるなど、デットマンのDJプレイでよく見られるパターンが散見される。こうした内容になったのは彼のDJとしての自負が所以かもしれないが、フェングラーのように野心を表し、より多くの聴衆を求めるチャレンジングな姿勢があってもよかったのではないか? これまでデットマンを追いかけてきたファンの期待に応えるものではあっても、新たなファンを取り込むには少し物足りない作風というのが正直なところだ。


 とはいえ、無駄に音数を増やさず、パンニングや音色を徐々に変化させることで聴き手の五感を支配していくそのインテリジェンスと狂気はオウテカに匹敵するものであり、それは本作でも堪能できる。オウテカのランダム・ビートと比べれば、本作のビートはシンプルの極地にあるものだが、その極地こそが本作に漂う蠱惑的な不気味さに繋がっている。



(近藤真弥)

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 思えば2009年の時点において、モードセレクターはトム・ヨークの偏愛もあり、前年のレディオヘッドのジャパン・ツアーでフロント・アクトとして抜擢されるなど多くの方に既に知られていたのみならず、巧みなDJや雑食的ともいえるサウンド・センスに対する注視の規模が膨れつつある時期だった。また、同年に自身の《Monkey Town》レーベルを立ち上げたことも大きかっただろう。なお、《Monkey Town》からはマウス・オン・マーズやオット・フォン・シーラークなどのリリース、更には近年では《50 Weapons》までも立ち上げ、彼ららしい色と実験的な試みを推し進めている。


 しかし、ダンスホール、ニュー・エレクトロ、グライム、ダブステップという多岐なるカテゴライズで語られたり、いわばジャンルレスでありながらも、フォーカスをあえて定めないところが魅力でもあり、欠点と言えなくもなかったが、アパラットと組んだモデラットとしてリリースした2009年の『Moderat』は、モードセレクターのみならず、双方の良いところが交わる興味深い内容になっており、ストイックさよりもジャーマン・テクノの持つシンプリシティーとアナログ的な音の要素が表前していた。モデラットそのものがあくまで、遊び心としてライヴに向けたプロジェクト的に始めた分だけ、肩の力が抜けていたところが良かったのかもしれない。


 『Ⅱ』とだけ名づけられたモデラットの新作は、そういう期待をもって聴くと、時おり別のアーティストの作品のように思えてしまう錯覚もおぼえる。メロディアスでシックなエッセンスが増え、アンビエント的な美しさが目立つものになっているからである。先にシングルとして公開された「Bad Kingdom」は、ライのようなソウル・フィーリングの強いものだったように、内省と夜の香りがメロウに漂うものだ。それはアルバムでの「Let in the Light」「Gita」といった曲にも通底している。


  "遊び"として始まったプロジェクトにも関わらず、レコーディング作業が難航を極め、各自の生活におけるセラピーのようになったというエピソードも興味深く、昨今のドレイク、またはチルウェイヴといった音からの影響も漂いながら、全体的にはポップに拓かれたという向きもあるだろうが、10分を越えるテック・ハウス的な「Milk」のようなトラック、「This Time」のスペーシーなテクノも混ざっていることを考えると、ライヴでの即興性に余地を残しているのは前作と変わらずだが、作品としての纏まりは高くなっている。


 スポンティーニアスに生まれた彼らが、逆説的に作品ではこうしてアイデアを練り込み、作り込んできた捩れはどうにも同時代性との共振をしている訳ではない微妙なズレがあり、そこがモードセレクター、アパラットの来歴、そして、モデラットという在り方を考えると、不思議と納得できる佳作になっていると思う。



(松浦達)

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 いま本稿を読んでいるあなたは、ダニエル・ロパティン(ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー)の公式ホームページにアップされている、カナダ人アーティストのジョン・ラフマンが手掛けた「Still Life(Betamale)」を観ただろうか? 「Still Life(Betamale)」は、本作『R Plus Seven』の収録曲「Still Life」に映像をつけたもので、ネット上にあるフェチ系の画像や動画を組み合わせて制作された、かなりスカトロ要素が強い刺激的なコラージュ作品。筆者はこのMVを初めて観たとき、サマーソニック09で遭遇したエイフェックス・ツインのライヴを想起した。この時のライヴでは、エイフェックス・ツインことリチャード・D・ジェームスの背後に大きなスクリーンが設置され、ラストに差しかかると人体を切り刻む映像も挟まれたりと、リチャードの悪意的とも言える遊び心が如実に表れていた。まあ、それでも「Still Life(Betamale)」ほどあからさまではなかったし、そう考えると「Still Life(Betamale)」は一線を越えたとも言える。何にせよ、現代を表象するフリーク・アウト芸術の傑作であるのは間違いない。


 とはいえ、無数のCM音楽をサンプリングし、それらを繋ぎあわせて作り上げたアルバム『Replica』から約2年経って届けられた本作に、「Still Life(Betamale)」の過激さはない。『Replica』にあった皮肉も減退し、より幅広い層に届くサウンドに徹している。だが、こうした作風も、ティム・ヘッカーとのコラボレーションを果たし、現代音楽に傾倒できるだけの音楽的知識とセンス、さらには今年12月日本公開予定のソフィア・コッポラによる映画『The Bling Ring』のオリジナル・スコアを担当するなど、さまざまな側面を持つダニエルの姿を知る者からすれば、冷静に受けとめられるものだろう。先述のMVを発表してしまう悪戯心も同様だ。むしろ、こうした高尚になりすぎない、言ってみれば俗にもなれる奔放さがダニエルの持ち味であると、多くの人に共有されているのではないだろうか?


 こうしたことをふまえれば、ダニエル・ロパティンという男に、ひとつの作品を基準に何かしらのレッテルを貼るのはお門違いなのかもしれない。もちろん本作自体も十分に魅力的な作品だ。アンビエントやミニマル・ミュージックの新たな可能性を開拓しながら、《Not Not Fun》をはじめとするインディー・ミュージックの文脈で再評価されるドローンの流れと絶妙に交わる柔軟性も光り、さらには精密な構築美が素晴らしいサウンド・プロダクション、聴き手の想像力を巧みに誘発する音響空間、ジョルジュ・ベレックの小説『人生使用法(La Vie Mode D'emploi)』に着想を得たというコンセプト、そしてダニエル自身の「このアルバムには多くの寓意がある」とする発言など、興味深い点はいくつもある。しかし、これらもダニエルを形成する要素群の一側面に過ぎない。


 そういった意味で本作は、ダニエルのなかに内在するカオスと狂気が底なしであり、限りなく多面的であることを知らしめる作品だ。おそらく、ダニエルの言う「多くの寓意」も、本作を聴いた人の数だけ存在するものであり、この寓意の増殖こそが本作におけるダニエルの狙いなのだと思う。


 高尚も低俗もごっちゃになり、従来の価値観やモラルが次々と貶められていく混沌とした現況だが、ダニエルはその混沌をさらに押し進めようと試みる。



(近藤真弥)

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 これは良い。聴いていて武者震いが止まらない。ヘヴィ・ロックやプログレッシヴ・ロックの要素、芥川龍之介が町田康の文体で書いたような歌詞も病みつきになる。さらにはフォークやトイ・ポップ調の曲もあり、めまぐるしく変わる展開は痛快。要は素晴らしいまでにリスナーの音楽欲をそそる作品なのだ。それは男女4人組、ソニックアタックブラスターが4枚目となる本作『月を見る人』でひとつの到達点にたどり着いた結果であろう。


 とにかく鮮烈。そりゃあファースト・フル・アルバム『阿呆の一生』も鮮烈だったし、前作『赤と黒』も、日本語の発音特性を巧く使ったヴォーカルや、ダイナソーJrにも通じるギター・サウンド、女性コーラスによる優美で、そしてフランクな官能美はいかんなく発揮されていた。しかもザゼン・ボーイズを彷彿させる"聴き手への迫り"は怒濤だった。キング・クリムゾンから大友良英、武満徹のサウンド・トーンまでも、あっけらかんと自らの音楽に落とし込むさまは大胆不敵。それらが、本作には贅沢なまでに詰め込まれている。さらには「何をしようが現実は変わらないよ」なんていうニヒルな言いを蹴散らすヘヴィなサウンドと歌詞が実に格好いいじゃないか。


 さらに嬉しいのは、「音楽はこうあるべき」という声が本作には一切ない。前作まではグランジをお手本としているんじゃ? というところや、ダウニーを鏡に映して鳴らしているようなところもあったのだが、本作では完全に吹っ切れている。そして、無難な音がない。世の中に出ると、暗黙の了解だとか、出る杭は打たれるだとか、はたまたデリケートな部分には触れないようにと生きてしまう場合が時としてある。しかし、ソニックアタックブラスターはそんなものとは無縁だ。むしろ音楽の、そしてリスナーの最もデリケートな部分を強く突いてくる音がある。ドラムス、ベース、ギター、ヴォーカル、ヴァイオリン、和太鼓、それら全てが無難な音を避けている。いや、違う。このバンドはテンプレートが用意されているような音を鳴らせないのだ。そうして鳴らされる音に聴き手は思わずギクリと胸を刺されるだろう。だから聴いていて武者震いが止まらないのだ。それでいて、9曲目「顔」ではタンゴを歌謡曲に落とし込み、朗らかに和やかに可愛らしい女性ヴォーカルがスキップを踏んでいるのだから思わず微笑んでしまう。


 おそらく、本作を聴いて「変わっている音楽」だと感じるリスナーは少なからずいるだろう。かくいう僕が最初はそう感じてしまったのだが、しかし、何と比べて変わっているのだろうか? それはリスナーが、そして僕が漠然と抱いている「音楽の基準」だろう。そうしたあまりにも潔い本作を聴いていて思わされるのは、僕らが抱えている「音楽の基準」なんてものは必要ないということだ。なぜって、音楽を何らかの枠の中から解放させるのがリスナーであると同時に、リスナーを解放させるのが音楽だと僕は思うから。本作はそういった音楽とリスナーの相互関係の中で激しく呼吸し、生きている。


 とはいえ、アウトサイダーであるとか、奇天烈であるとか、そういうことではなく、純粋に作品として素晴らしい。とにかく聴いていて楽しいのだ。ソニックアタックブラスターは和製レッド・ツェッペリンとか、現代の日本語ロックと呼ばれることもあるのだが、しかし、本作を先入観に捕らわれず、聴き手は自分の「音楽の基準」も「変わった音楽という枠」も破り散らして自由に楽しんでほしい。そうすることで本作は、そして音楽は今以上にもっともっと自由になる。



(田中喬史)

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 こりゃあ良いっすな。奥名懋一(「おくな・ぼういち」と読むそうです)が《ano(t)raks》からリリースした、「(Jesus has given and)xxx​.​EP」のことです。幽玄なサウンドスケープに身を委ねる心地よさ、繰り返し何度も聴いてしまう中毒性、そしてどうしようもなく惹きつけられてしまうポップネスとキュートさ。筆者の記憶から例えを引っ張りだすならば、エイフェックス・ツイン『Selected Ambient Works 85-92』や、グライムス『Halfaxa』を初めて聴いたときの驚きでしょうか、これと類似するナニカが本作にはあるのです。


 長野出身の17歳である彼女(らしい)、奧名懋一を知ったキッカケは、自身のバンドキャンプにアップされている「praha. EP」なんですが、ローファイながらも美しさを湛えたアンビエント・サウンドにすっかりトリコとなってしまい、特に10分以上もある「lumière (yasasii Remix)」は、音色の変化などが最低限に抑えられたミニマル・ミュージックの要素、それからドローン的な耽美的雰囲気も携えていて、寝転びながら何十回と聴かせてもらったほどハマりました。もし興味を持った方がいましたら、「praha. EP」もぜひ。


「(Jesus has given and)xxx​.​EP」に話を戻すと、アンビエントな音像を基調としながらも、ビートはヒップホップからの影響を感じさせるなど、彼女の彩度ある音楽性があらわになっていまして、このあたりが「praha. EP」とは異なる点だと思います。それから本作は彼女なりの歌モノ作品でもあって、「waterfloat」「cherenkov」「praha(yasasiii pop ver.)」では、彼女によるものと思われる歌声が聴けます。「praha(yasasiii pop ver.)」においては、《YO チェキラッチョ》なんて掛け声が唐突に入ってきたりと、かなり奔放な姿を垣間見ることもできる。


 さらに面白いのは、本作では何かが水面に落ちる音が随所で印象的に鳴り響くこと。これは「praha. EP」も同様だから、彼女は水の音が好きなんでしょうか? それはともかく、この水の音が鳴るタイミングもほんと絶妙で、カッコいい。


 彼女のツイッターを見る限り、わざと文字化けしたような文体でツイートを頻繁にしていたりと、キャラもかなり立っているので、いろいろ楽しませてくれそう。 とにかく、今後の活動が楽しみなアーティストがまたひとり現れたということです。



(近藤真弥)




【編集部注】「(Jesus has given and) xxx​.​EP」は《ano(t)raks》のバンドキャンプからダウンロードできます。

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 J-POPへの過剰な偏愛の結晶、ONIGAWARAは逆説的なパンク・ミュージシャンである。ポスト・シティー・ポップの先駆者であった自負と、手軽な打ち込み宅録とネット配信オンリーで活動するミュージシャンへの皮肉が、実に屈折した形で昇華されている。快楽的かつ大衆的な音楽を作りながらも、その姿勢は既存のスタイルに唾を吐く。彼らの歌とダンスのステージは80年代ジャニーズの某グループのようにローラー・スケートで滑り出しそうで、実は天井から吊られていて滑ってない、みたいな異様な興奮と喧騒に包まれる。


 2008年にメジャー・デビューするも今年2013年に解散した愛知は三河発のバンド、竹内電気のギターの竹内サティフォとキーボードの斉藤伸也の2人による打ち込みユニット、それがONIGAWARAである。去る2013年9月1日に突然ツイッターで告知してダウンロード配信というゲリラ的手法で、夏を彷徨うヒップホップ・チューン「ピーマン」を投下。翌週にはシュガー・ベイブ風メロウ・ナンバー「TSU・BA・SA」を発表。3週目にはファンキーなギター・カッティングと甘いヴォーカル回しにSMAPの影がちらつく失恋ソング「Bye Bye Baby」。この頃からcinema staffや凛として時雨といったミュージシャンから賛辞を送られるようになり、90年代後半のJ-POP黄金時代への過激なオマージュが話題になる。9月最終週には失恋を経て再び胸の高鳴りを鳴らすビート・ロック「アリス」をドロップ。そしてその配信直後9月27日の初ライヴでは、ツイン・ヴォーカルによる迫真のかけ合いと怒涛の演奏を見せるはずが、楽器を持ちながらも、たまにぶら下げたり、適当に指一本で弾いたり。「アリス」でのLUNA SEAを彷彿とさせるギター・ソロといった見せ場はあるものの、打ち込みをバックに、ハンドマイクでの掛け合いや拙いダンス・ステップで、わざとチープさを強調していた。ポスト・パンク・レジェンドであるマガジンが、イギリス国営テレビ出演時に、演奏しているフリを良しとせず、終了まで両手をだらりとさせて棒立ちだったというエピソードを思い出す。


 インディーズ時代の竹内電気はニュー・ウェイヴ、シューゲイザー・サウンドで武装した山下達郎といった音楽性だった。それがメジャー進出を機にギターの歪みをオフにして、アイドル・グループのようなイメージで売り出す戦略に出る。その是非はともかく、その後の東京進出時に斉藤は他メンバーと袂を分かった。しかし程なくしてリード・ヴォーカル山下の脱退とともに解散、そのまま彼らは表舞台から姿を消すかに見えた。そういった経緯からも想像できまいか。生の現場叩き上げのプロ・ミュージシャンであった彼らが、誰でもできる打ち込みとソーシャル・ネットワーク・サービスを活用する意味を。とても混み入った皮肉が透けて見えはしないか? 「ピーマン」において彼らはSNSでは恋に出会えないとラップしているのだから。


 ところで、神戸在住のトラック・メイカーtofubeatsは、ele-king vol.11のインタビューにおいて、「インターネットの普及で地方格差はなくなるどころかますます深まった。インターネットに現実の速度が追いついているのは東京だけ」という趣旨の発言をしている。そのインタビューを読むと、彼はインターネットを最大限に活用しながらも、それだけではない、結局は「独自の信念を持ってやり続け、どこかのポイントで現実との接点を持たなければいけない」と考えているようだ。そして彼でさえメジャーに行く前に、声だけかけられて話がなくなったり、大人の事情に振り回されたりしたという。また、「ヴェイパーウェイヴの出現で、ついにインターネットと同じ速度で音楽を作る試みが実現した」と語る一方で、その継続が困難であることを指摘し「結局みんな、好きなことを自分のスピードでやるのがいい」と述べ、神戸に住み続ける理由の一端を明かしている。


 ONIGAWARAに話を戻せば、彼らはいやがおうにも物語を背負ってしまった。メジャー・デビュー後のバンド解散と愛知へのリターン、別の形での再始動という、ともすればネガティヴなイメージを抱かれがちな物語だ。しかし、彼らはバンド形態での活動ができない状況を逆手にとって、キラキラでベタな装飾過剰的音楽を作り出す。tofubeatsが90年代J-POPへのオマージュをスマートに昇華し、どろどろした物語とは一見無縁のままで、アイドルの作曲やリミックスを次々手がけて時代の寵児となったのに対し、ONIGAWARAは90年代J-POPの野暮ったさをむしろ強調する。別にひねくれてやっているわけではない。おそらく彼らが本当にやりたい表現だからする、それだけで、きっとそれしかできないのだろう。「Bye Bye Baby」の 《変わらないでいて、と君はそう言うけれど、結局は変われない、僕のせいだよね》 というフレーズに、ONIGAWARAの複雑な心境が反映されている。しかし一方で、「アリス」で二人はこう歌う。


《君の存在に世界が嫉妬しても別にいいじゃない? だって輝きは止められない》


 流行りに応じて臨機応変に変わることなんてできやしない。しかし本気を出せば誰だってそれぞれの場所で輝けるのだ。彼らは不器用なステップを踏んで踊り、もがき、そして歌い続けるだろう。



(森豊和)



【編集部注】「アリス」はONGWARAのサウンドクラウドでダウンロードできます。

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 アクセル・ウィルナーことザ・フィールドは、ファースト・アルバム『From Here We Go Sublime』の時点で、すでに完成の域に達しているアーティストだったと思う。ザ・フィールドの代名詞といえば、聴き手を恍惚に導く執拗なループ・サウンドだが、その確固たる哲学は、ファースト収録の「Over The Ice」「Everday」などでひとつの頂点にたどり着いている。加えて、シューゲイザーの要素を含んだドリーミーなサウンドスケープ、それからループのなかに潜ませた親しみやすいメロディーもある『From Here We Go Sublime』は、ポップ・ミュージックに必要不可欠な共時性と通時性を巧みに共立させていたという点で、あまりにも隙がなさすぎる作品だった。それゆえ、複数のサウンド・レイヤーを重ねた厚みのある音像が前面に出た『Yesterday And Today』、アルバム全体のテンポを落とすことでドラッギーとも言えるトリップ感に接近した『Looping State Of Mind』、そして、ループ・オブ・ユア・ハート名義でリリースしたアンビエント・アルバム『And Never Ending Nights』と、ひとつの完成形を提示するというよりは、試行錯誤の経過を発表していくような実験的側面が強くなってしまい、作品を重ねるごとに『From Here We Go Sublime』で見せていたキャッチーな側面は薄れていった。もちろんそうした試行錯誤は興味深いものであり、変化の過程を追うのは面白くもあったが、それはウィルナーが聴衆という存在から遠ざかる、言ってみれば"独り善がり"によって生じる面白さだったことも事実だ。


 こうしたことをふまえて最新作『Cupid's Head』に触れると、完璧を求めているがゆえの緊張感は減退し、牧歌的な雰囲気が漂っていることに驚きを覚える。本作はすべてハード・ウェアによって作り上げられた作品で、ゆえにラフな質感も残っているが、ループに対するこだわりは健在。ただ、これまでの作品と異なるのは、そのループが従来の徹底的に磨き抜かれた洗練美ではなく、ウィルナーの音にしてはとても生々しい粗さがあることだ。この点を、自身のプロダクション技術を捨て去ったと批判的に捉えるか、それともウィルナーの姿が初めて剥き出しになった意欲作と見るかで評価は変わってくると思うが、筆者はその剥き出しになった意欲作として本作を評価し、もっと言えば、『From Here We Go Sublime』と比肩する傑作であると思っている


 まず、『Looping State Of Mind』までのウィルナーが構築美を追求していたとするならば、本作はアイディア一発勝負の瞬発力に傾倒したうえで作り上げられた作品である。「20 Seconds Of Affection」ではキックの音が明確に刻まれ、さらにシカゴ・ハウスのビートを滲ませる「Black Sea」は、昨今注目を集めるロウ・ハウスに近い文字通りのダンス・ミュージックに仕上がっており、本作におけるウィルナーは今まで以上にワイルドで肉感的だ。これまでの作品群は、肉体から精神を解き放つようなユーフォリア、仏教的に言えば"身解脱"を目指している節もあったが、本作はもっと原初的な"踊る"という行為に着目したような作風になっており、先述したラフな質感も手伝って、人間臭さを醸し出している。


 そんな漂白されきっていない作風ゆえか、本作のジャケットはトレードマークだった白系の色ではなく、黒を基調としたデザインになっている。このデザインはもしかすると、ストイックな完璧主義者という呪縛からウィルナーが解き放たれ、新たな未来に向けた自由を獲得した証左なのかもしれない。いわば、不完全であることの面白さとスリルにウィルナーは目覚めた。


 そういった意味で本作は、ジャケットの黒さから抱くイメージとは裏腹に、とてもポジティヴで前途洋々なウィルナーの姿が窺える作品だ。



(近藤真弥)