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グッド・バイ.jpgのサムネール画像

《たとえフラッて消えても 気付かないんでしょ?》

(「ローリー」)


 ジョルジュ・バタイユの連続/非連続という概念を付加せずとも、誰かとの「同じ」瞬間もなければ、色んな場所で見受けられることになったシェア(共有)という現代における言語速度は実のところ、或る他者性の無・理解ではなく、非・理解の幅によって成立してくるような気がする。


 例えば、筆者の知っている友の友は知らないが、想いの束が廻ってくると、審議を試される場所は電子上としても、とても近くなった。そうなってくると、不在たる速度に寄り添う感性の偏性の一部はどうしても、多義的な文脈でラブソングという形を纏わずとも、ラブソング的に聴こえてしまうことがあり、安藤裕子の持つ感受的偏性はどうしても、そうなってしまう。前作『勘違い』はオルタナティヴな色を強めながらも、震災、親縁者の死、子供の生誕といった重大な出来事に翻弄、脊髄反射するように音楽は分離、静動を行き来し、変拍子のトリッキーな曲からたおやかなバラッド、AOR調のムーディーさ、まで彼女の来歴を束ね上げながらも、着地点は曖昧になったのは否めず、だから、その次に進むべき方向は何らかの区切りになるのではないか、という気もした。『勘違い』の最終曲の「鬼」でこういう歌詞が刻まれているように。


《ねえ甘い未来を君に見せてあげる 堕ちた君を抉じ開ける》

(「鬼」)


 その甘い未来の、続きとしての今作『グッド・バイ』は原点回帰、10年目という区切りが事前に行き交い、ジャケットは意図的にデビュー・ミニ・アルバム『サリー』に近似させているが、精緻には違い、キャリアを重ねてきたからの重厚さがある。なお、山本隆二、宮川弾をはじめ、GREAT3の白根賢一、ベースにおいてはレピッシュのtatsu、鈴木正人、沖山優司、ドラムではASA-CHANG、toeの柏倉隆史、サケロック(最近では奥田民生、岸田繁とのサンフジンズでも活躍している)伊藤大地、佐野康夫など多数の名プレイヤーが参加するなど、曲ごとのアンサンブルに色を加えており、全10曲といえども非常に密度が濃い。


 壮大なバラッド「ようこそここへ」から、「完全無欠の空と嘘」は小沢健二の「僕が旅に出る理由」のカヴァー時で見せたような、じわじわとクライマックスに盛り上がってゆく可憐なポップ・ソングへ繋がるまでは、いかにも彼女らしく、作り込まれた内容だと感じられる。ただ、全体を通じ、4分台から5分台の曲が並ぶように構成が錬られ、BPMも抑え目のものが多い分だけ、軽く聴けるという感じではなく、彼女自身も新機軸に挑むというよりは、『勘違い』で得た捻じれた感覚をより研ぎ澄ませ、一曲一曲を叮嚀に構築していったという印象を受ける。


 音の質感は柔和でソフト・ロック寄りのものが多く、生音に拘り、彩味溢れるが、個人的にジョニ・ミッチェル『Blue』、ローラ・ニーロ『New York Tendaberry』、トニー・コジネク『Bad Girl Songs』など70年代のヴァルネラブルな女性シンガー・ソングライターの諸作を想起させるところがあり、通底低音に"孤独"が感応できる。そういった文脈沿いに、これまで以上に"遊び"的な曲が少なく、コンセプト・アルバム的な含みがあり、後半3曲の或る意味、不思議な彼岸感が肝なのかもしれない。


 8曲目「愛の季節」では肩の力の抜けた《会いたいな》というリフレインが残るシンプルなバラッド。やや装飾過多と言えなくもない曲群の中でも、剥き身の淡々とした空気感が心地良い。


《ねえ 楽しくて嬉しくて あふれ出るほどに漏れる愛を伝えたくて 寂しいとか辛いとか言ってるんだよ 聞こえないの? ねえ 変だな君は 聞こえないの? ねえ》

(「愛の季節」)


 彼女はときに、主体性が不在的になるが、その際に投げかける対象が主体になり、不在たる自身の合わせ鏡のように"なってしまう"。だから、冒頭に記したように、分かり合えないことを分かる、その境目を歩む。境目の君は、聞こえない、聞くことが予めできない。「愛の季節」での問いかけは、初めから自分の中で完結しているような心の残影があり、悲しくも美しい。


「Aloha'Oe アロハオエ」は、映画『四十九日のレシピ』の主題歌として先にリリースされていたが、ハワイアン的な要素よりも透徹さと彼岸性が染み入る。そして、ラストにしてタイトル・トラックたる「グッド・バイ」はこれまでの彼女にはない音楽語彙、沖縄民謡調のメロディーに今作のテーマたる何かが、純・日本語詞として網羅されているような悲しみと、少しだけ前を見ようとする毅然とした視点がある。


《永遠に綴る数え歌は 苔生す岩に伝えましょう》

(「グッド・バイ」)


 あなたと私を巡る想い、距離の間に今作はやはり、"さよなら"や喪失感のトーンが多くを占める。そんななかで、ただ、最後はこうして聴き手にささやくように締められる。


《また会えるように》




(松浦達)


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Tookah.jpg

 例えば、ガブリエル・タリドの『模倣の法則』はさまざまな分野でリファレンスされることが多い書だが、人間の最大の誘惑のひとつに類似性を見つけだすことや、擬態そのものが空間への同化を起こすことなどに言及している。但し、模倣は類似の源泉だったのかというと、そこの相似律はもう少し現代では再定義が要るように思う。相似律から敷衍しての模倣は、類似同化ではなく、異化への道を用意する可能性があるのではないか、そういう含意もあるような気がするからだ。2005年に《Rough Trade》から出た『Fisherman's Woman』の印象がいまだに強い方は多いかもしれず、筆者もそのジャケットと音からはジュディ・シル、ジョニ・ミッチェル、ローラ・ニーロ、ヴァシュティ・バニヤンなどの少し翳りを持つフィメール・シンガーソングライターの系譜の香りを感じた。


 非常にシンプルでフォーキーなサウンドに、エミリアナのか細く、少し舌足らずな声だけが切々と描かれる内容。デヴェンドラ・バンハート『Cripple Crow』やジョアンナ・ニューサム『Ys』などのアシッド・フォーク的な音像がその前後には世界でじわじわと隆盛していたのもあり、目立つ訳ではない、当該作の滋味深さはしかし、一定の人には評価され、その衒いのなさはニック・ドレイクの諸作を想い出せば早いように、じわじわと彼女の存在はあらためて巷間に拡がっていき、アーティストとしてのポテンシャルを期待させるものだった。


 そもそも当初から、エミリアナ・トリーニには、余分なイメージが先行、またはある偉大なアーティストとの類似が往来していたきらいがある。アイスランドという場所からまず、端整なルックスと澄んだ声で2002年に世界的にヒットした『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』のエンディング・テーマを歌い、俄然、注目を浴びてしまったこと。


 ただでさえアイスランドでは、ムーム、シガー・ロス、パスカル・ピノンなど日本でも人気の高いアーティスト/バンドがおり、また、ヨハン・ヨハンセン、ステファン・ハーコンなどさまざまな音楽のフィールドにも花を咲かせている。そこに並ぶ形で、エミリアナの周囲には好奇や関心が寄せられた訳だが、1999年のデビュー作『Love Is The Time Of Science』は、焦点のうまく定まっていないオルタナティヴな多岐性に溢れていた。トリップホップ的な意匠から、エレクトロニクス的な加工された音に、エレキ・ギターが烈然と響き、彼女の声がときに咆哮するなど、オーヴァー・プロダクション、支離滅裂的な、ともいえる情報量が多いアルバムだったものの、その2002年の映画におけるエンディング・テーマでのブレイク、そして、冒頭で触れた05年のアルバムにおいて、ブレはじわじわと再矯正されていき、或る程度は余計な冠詞がなくなったといえる。


 その後、彼女自身の冒険心はトラディショナルなフォーク・シンガーという枠を越え、2008年の『Me And Armini』においては、フォーキーな曲とレゲエ、ロックステディー風の曲、ビートを強調した実験的な曲までのみならず、思索/試作の後がそのまま呈示されていたりと、『Fisherman's Woman』に続くものとしては途っ散らかったところがあり、個人的に戸惑いが先だったのも事実であった。作品ごとに座標軸がブレてしまうさまは、元来のオルタナティヴ気質に依拠するかもしれないにしても、今後、どういった歩みを進めていくのか、心配にもなったおり、約5年振りとなる新作『Tookah』が届いたが、これは非常に興味深い。


 ミニマルなビートが反復し、刻まれる1曲目の「Tookah」にはモービーロイクソップのような穏やかな電子音楽と彼女のセンスの融和がある。ほのかなアンビエンスが後景しながら、ギターだけの3曲目の「Autumn Son」には叙情が刻まれ、オーガニックな、という言葉は使い勝手がいいだけに、あまり多用は好きではないが、肩の力の抜けた4曲目の「Home」辺りがやはり今作の本懐なのだと感じる。


 なお今作では、プロデューサーにフランツ・フェルディナンドなどを手掛けたダン・キャリーを招き、じわじわと輪郭を詰めていったとおり、いかにもダンらしいトラックにはリード・シングルたる「Speed Of Dark」が挙げられるだろうか。ダンサブルな曲だが、先鋭的なビート・メイクという訳ではなく、煌びやかなシンセと音響の奥行きを気にしたようなミドル・テンポのもので、80年代的な懐かしさを感じないでもない。それをリミックスしたのも、アンドリュー・ウェザーオールという人選もらしく、そのデキも手堅い。


 さて、ここまで具体名をあえて挙なかったが、アイスランドという場所含め、ビョークと比較、類似点を指摘されることも多くあったエミリアナだが、例えば8曲目の「Blood Red」は、『Vespertine』期の内省的かつ緻密に組まれた音響性が静かな余韻をおよぐという意味でやはり近似は感じるがしかし、この9曲という締まった曲群の中には前作同様、多彩な曲が入り混じるものの、今回は散漫な印象はおぼえず、それは着実にキャリアを積み重ねてきた彼女自身のオリジナリティーがしっかり確立されているのを感じるからでもある。


 そもそも、エミリアナが目指していたのはこういう遊び心溢れる風通しのよい場所だった気がする。そんな充実した作品になっている。



(松浦達)

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mgmt-mgmt.jpg

 ファースト・アルバム『Oracular Spectacular』(07年...えっ、もう6年も前なのか!?:汗&笑)収録曲「Kids」がスマッシュ・ヒットを記録、一躍時代の寵児に躍り出たデュオ・チーム(もしくはバンド)MGMT、3年前の2作目『Congratulations』(10年)は、そんな形でスポットライトを浴びることを明らかに拒絶したようなアルバムだった。エレクトロニクスを多用したサウンドが醸しだすサイケデリック風味が、もともと彼らの音楽の特徴だった。


 後者をぐっと前面に出しつつ60年代のガレージ/フォーク・ロックおよび「セカンド・サマー・オヴ・ラヴ」の前哨となった80年代インディー・ロック(MGMTのメンバー自身の弁によれば、フェルトやオレンジ・ジュースや初期プライマル・スクリーム)を同時に連想させるサウンドが、いい意味での既視感(プロデュースを担当したジジイことソニック・ブームのせいかも:笑)と「現在」ならではの新鮮さを(これまた)同時に漂わせていた前作『Congratulations』から、3年ぶり3作目のニュー・アルバムが、ついにベールを脱いだ。


 ひとことで言ってしまえば、素晴らしいアルバムだ。これまでの彼らの音楽の「いいところ」がすべて入っている。ファースト・アルバムでお世話になったデイヴ・フリッドマンをふたたびプロデューサーに迎え、彼のスタジオに長期間こもって作りあげたというだけあって、実にスポンティーニアス。3作目にして、ついに『MGMT』という自らの名前をアルバムに冠したのも納得がいく。


 アルバム1枚をとおして、実に自然な流れが生みだされている。意識がぶっとんでしまうほどエクストリームなサウンドから、一緒に歌いだしたくなるキャッチーなメロディーまで、すべてが「あるべきところにある」形で収まっている。まるでつづれ織りのごとくすべての意図...いや、糸を交錯させながら。「Kids」のような「キャッチーなシングル・ヒット」を期待すると、肩すかしをくらうかもしれない...という意味で(いろんなものが「混ざってる」分)、20世紀的な見方をすれば「商業的には弱い」かも。だけど、それがどうした? 今は21世紀(笑)。さらに言えば、彼ら自身、学生時代に自主制作したEPのタイトル「We Care/We Don't Care」をひきあいに出して、こんなふうに語っている。「ぼくらはいつだって、対極にあるものが一度に起こるような...そんな状態を望んでいた」(Elactronic Beats 13年9月の記事より)。


「対極にあるもの」といえば、『MGMT』を聴いて、まず感じたのは「この雰囲気、暗い? 明るい? どっちでもあって、どっちでもない!」という戸惑いみたいなもの。「TPOにあわせて音楽を聴きましょう」みたいな「20世紀的にお洒落なBGMを選ぶ姿勢」とは、あいいれない。


 実はつい最近アール・スウェットシャツの新作『Doris』を聴いて、まったく同じことを感じた。彼はフランク・オーシャンを輩出したヒップホップ・コレクティヴ、OFWGKTA(オッド・フューチャー・ウルフ・ギャング・キル・ゼム・オール)のメンバーで、フランク・オーシャンの傑作『channel ORANGE』(12年)にもフィーチャーされていた。そういえば、『channel ORANGE』も(とくにユーチューブにアップされた収録曲の公式ヴィデオを視聴すると)そんな感じだった。


 本作とほぼ同じころに出たアークティック・モンキーズの傑作ニュー・アルバムも、やはり同様の印象を受けた。13年9月に当サイトにアップされたアークティック・モンキーズのレヴューでは、彼らの音楽とヒップホップの共通項について述べられていた。激しく同意。そして、MGMTの音楽も、もちろんヒップホップと通底している。


 本作3曲目「Mystery Disease」では、オディッセイによる70年代ディスコの名曲がサンプリングされている。ただ、そんな部分にこだわりすぎてはいけない。同じ曲には、チャイナという70年代ポップ・ロック・バンド(らしい。ぼくもネットで調べて知った...)の断片も使われている。『MGMT』にはフェイン・ジェイド「Introspection(内省)」のカヴァーも入っている。彼は60年代のあまり有名ではないサイケデリック・ミュージシャンだが、13年7月にスタティックにアップされたアンドリューの言葉によれば、こんな感じ。「サン・フランシスコのレコード屋で働いてる友だちのフランクが、よく曲をつなげて(データで? アナログ・カセットで?)送ってくれるんだよね。だいたい無名だけどかっこいい曲ばかりを集めて。もうずいぶん前のミックスに、フェイン・ジェイドの3曲が入ってた。それ以来、「Introspection」という曲が大好きになっちゃって...」。


 MGMTは以前から、遊び/練習のときに、いろんな人たちの曲をカヴァーしてきた(もちろんライヴでも。11年の来日公演ではクリーナーズ・フロム・ヴィーナスのカヴァーも披露してくれたし、極初期にトーキング・ヘッズやジェネシスをカヴァーしている模様はユーチューブでも見られる。削除されていなければ...)。この曲も、久々に入るデイヴのスタジオに慣れるために演奏したものを録っておいたところ、雰囲気や歌詞の内容がアルバムにぴったり...ということで、あとになってから収録を決めたらしい。


 この比較的クールな姿勢は、90年代のいわゆる「(お洒落な)レア・グルーヴ」的ノリとは、少し異なる気がする。むしろ、80年代前半にヒップホップがまだラップ・ミュージックと言われていたころの「サンプリング感覚」に近いかも。そして、なにより、「今っぽい」。



(伊藤英嗣)

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『Future City Records Compilation Vol. III』.jpg

 魅惑的なシンセ・サウンド。聴き手を揺らすディスコ・ビート。そして、いなたさゆえの人懐っこさ。


 本作は、シンセ・ウェイヴやドリーム・ウェイヴとタグ付けされた作品をリリースし続けているレーベル《Future City》のコンピレーション・アルバムである。以前にレヴューで取り上げたセロレクト/LAドリームズも参加し、全25曲、そのすべてがシンセ・サウンドと80sポップスに向けた愛情で満たされている。


《Future City》自体は、ベータマックスなどをリリースしている《Telefuture》と並び、ここ1年の間で顕在化した80sポップス再評価の潮流において注目されているレーベルのひとつだ。このレーベルからは本作だけでなく、コズミック・サンド「Find Me At The Bay Tonight」プレジャー「Forever」といった秀逸な作品も出ているので、ぜひ1度は聴いてみてほしい。


 さて、『Future City Records Compilation Vol. III』についてだが、先に書いたように全ての曲がシンセ・サウンドを基調としており、ビートはシンプルなディスコ、つまり4つ打ちがほとんど。しかし何よりも興味深いのは、全曲ともベタすぎるキャッチーなメロディーを躊躇なく披露している点だ。言ってしまえば、"古臭い"  "カッコ悪い"  "ダサい" の強烈3連フルコンボを食らってもおかしくない本作だが、それでも"アリなもの"として注目されているのは、流行なり最先端から漏れてしまったとしても、それを享受できる聴き手に届きやすくなった現在の聴環境が関係していると思う。例えば、「それがゴルジェと言うこと」とするゴルジェを気に入った宇川直宏がドミューンでゴルジェの特集番組を放送し、ゴルジェの第一人者hanaliが自身にとってのゴルジェを追求したアルバム『ROCK MUSIC』を発表するなど、半ばやったもん勝ちで始まった音楽がひとつの潮流を作るまでに至ったように、本作もまた、80sポップスのイメージに対して抱く面白さや幻想をヴィジュアルとサウンドで具現化し、受け入れられている。もはや、新しいか古いかといった判断基準は、ネットを介してあらゆる時代の文化にアクセスできるようになった現在では消滅してしまった。このことを本作は鮮やかに告げている。"変わりつつある"のではなく"変わった"のだ。


 と、ここまでは本作の背景に多く言及してきたが、もちろん音楽自体も質の高いものが揃っている。そのなかでも特に面白いのは、やはりセロレクト/LAドリームズによる「Popular」だ。これまでは、イタロ・ディスコが持つダンス・ミュージックとしての機能性にこだわりを見せていたセロレクト/LAドリームズだが、「Popular」では従来の機能的なイタロ・ディスコ路線を維持しながら派手な転調も取り入れたりと、タイトルが示すようにポップ・ソングのフォーマットに接近している。もしかすると、ニュー・オーダーが好きな者ならすぐさま気に入るかもしれない。より多くの人に聴かれるための曲作り、いわば多様化が進んだ今だからこそ生み出せる"新たな普遍性"に近づこうとする意欲をメロディーやリズムで表現している。


 そんなセロレクト/LAドリームズをはじめ、本作に参加しているアーティストたちは、手のひらの上で世界を転がそうと試みる。




(近藤真弥)




【編集部注】『Future City Records Compilation Vol. III』は《Future City》のバンドキャンプからダウンロードできます。

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NINE INCH NAILS_Hesitation Marks.jpg

 トレント・レズナー、アッティカス・ロス、アラン・モウルダーという強力なプロダクション陣で送る、ナイン・インチ・ネイルズ(以下NIN)8枚目のニュー・アルバム。ロスとのサウンドトラック『The Social Network』『The Girl With The Dragon Tattoo』や、モウルダーが手がけたことで知られる『The Downward Spiral』『The Fragile』を期待して間違いないだろう。2008年にリリースされたインストゥルメンタルの6th『Ghosts I-IV』と7th『The Slip』以来、先のサントラとハウ・トゥー・デストロイ・エンジェルスを経て久しぶりのNIN名義での作品となり、2009年のツアーのあとNIN名義での活動は休止状態に入っていたため、こうして傑作を引っさげて帰ってきてくれたことがとても嬉しい。


 2nd『The Downward Spiral』がリリースされた頃、アメリカの音楽といえばグランジなどのシンプルなバンド・サウンドを聴かせるディストーション系が多く、インダストリアルとも言い切れない乾いた電子音は異質に感じた。ただ歪んでいるわけでもなく、ただ破壊的なわけでもない、音や歌詞ともに完成度の高い作品だった。胎児が螺旋状に降りて産まれる様に例えて自身の内側を描くストーリーを、ジョイ・ディヴィジョンにも通じる当時としては珍しい懐古的なサウンドと独特の電子音によって、実験的に魅せてくれた。今回のニュー・アルバムは、19年前にリリースされた2ndへの返答を、その歌詞とサウンドで示しているようでもある。


 デジタル音を中心とし、ファルセット・ヴォイスが美しい今作。多様な楽曲群でありながら統一感があって、聴けば聴くほどそのクオリティの高さに驚かされる。"不完全とは我々が常に目指しているもの、不完全の完璧主義であり、トレント・レズナーは完璧主義者ではない"とアラン・モウルダーは語っているが、あらゆることが計算し尽くされたように感じてしまう。アルバムからの1stシングル「Came Back Haunted」  に代表されるどす黒い暗さが色濃くもあるが、作品全体をよく表している2ndシングル「Copy Of A」などシンセサイザーが強めの曲が新鮮に聴こえ、綺麗なメロディーで聴かせる一面も多く見られる。チル・アウトできる楽曲が多いけれど、ハウ・トゥー・デストロイ・エンジェルスと違って男性の声しか入っていない男臭さはNINならではの良さだと思う。


 4th『With Teeth』以降の世界観は比較的外向きに傾倒していたため、3rd『The Fragile』以前の詞世界に近い今回の作品は、活動休止前のNINとは異なるものだと言えそうだ。それは、2009年にトレントがマリクイーンと結婚したことや、映画の音楽を作っていたこと、女性ヴォーカルをフィーチャーしたハウ・トゥー・デストロイ・エンジェルスの活動など、様々な変化の要因がうかがえるが、何が決定的だったのかはわからない。いずれにせよ、それらが良い方向に影響した結果生まれた作品で、一度NINから離れたからこそ見えてきたものがあるのだろう。"ためらいの痕"(Hesitation Marks)とは、2ndで言っていた「Mr. Self Destruct」「Hurt」などの自傷行為であると同時に、トレント自身が開けるパンドラの匣ではないだろうか。再び戻ってきたNINは、素晴らしい再出発を見せてくれた。



(吉川裕里子)

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 真の意味で自分以外の他者を知る、そして知りえた何かを表現するということは本来、命がけの行為だ。デヴィッド・ボウイが「Space Oddity」で歌ったように、地球の外側からこの世界の真実を知ってしまった日には、広大な何もない宇宙で発狂するかもしれない。


 このアルバムの主人公ジョー・ミークは、バス・ルーム・サウンドと呼ばれる独自の音世界を構築した、イギリスのプロデューサーである。1960年当時、他に類を見なかったオーヴァー・ダビングやコンプレッション、派手なリヴァーブ、テープ・ループを駆使したサウンドは、後世においてイギリスのフィル・スペクターとも形容された。彼は楽器を弾けないどころか譜面さえまともに読めなかったという。しかし鼻歌を録音したテープをミュージシャンに聞かせ、演奏させた音を元に多重録音し編集した。いわばラップトップ・アーティストの走りであり、今なら打ち込みで再現する音を自力で創り上げていった。対人接触を避け孤独を好む性質だった彼は、自宅録音で、より風変わりな音を探し求めた。ついには月面旅行を、宇宙空間を描き出すコンセプト・アルバムを作ろうと思いつく。音楽における挑戦とはしばしば新しい世界を創造する試みでもある。とはいえ人間が作った地上の装置で、はたして宇宙の摂理を表現できるのだろうか?


 高速回転させた虫声のようなヴォーカル・ハーモニーが響く「I Hear A New World」で本作は幕を開ける。マラカスと哀愁のスティール・ギターで月の軌道をなぞる「Orbit Around The Moon」から3曲目「Moon Entry Of The Globbots」で月面のパレードに遭遇する。陽気な声と青い顔の月面人。4~6曲目にかけて彼らのラヴ・ダンス(求愛の踊り)が続く。弦楽器がとぼけた泡のような光を表現する本作のハイライトだ。7曲目「Glob Waterfall」では月の奥深くから湧き上がる滝を見る。続く「Magnetic Field」で無重力における奇妙キテレツな動きに面くらい、そして9曲目「Valley Of The Saroos」で月の谷間に住む緑色の人々に出会う。気の抜けるリズムにずるずる引き込まれて、もがいたあげく我々の宇宙船は地球に帰れなくなる。ラストの「Valley Of No Return」は穏やかでどこか安堵感ただよう結末を鳴らす。この一大スペクタクル絵巻を、ジョーはスキッフル・バンドを呼び寄せ、ホーム・スタジオで録音したという。シャボン玉の膨らむ音、ミルク瓶を叩く音、キッチンのシンクの反響音、おもちゃのピアノにブリキの太鼓。日常の音を用いて地球外の音を表現した。例えるならビール缶で作ったロケットを月面へ飛ばすような無謀な試みだ。一発録りが当たり前の時代に、各パートを別々に録音しリヴァーブをかけ歪ませ、膨らませた。全体が部分の単純な合計ではない、摩訶不思議なサウンドに昇華させていった。だが結局は経済的な理由でリリースが頓挫し、91年にCD化されるまで完全版は日の目をみなかった。


 しかし彼のアイデアは時代を越えて、オレンジ・ジュースのエドウィン・コリンズ等、ポスト・パンク以降のアーティスト達に引き継がれた。テレヴィジョン・パーソナリティーズやゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツは表題曲「I Hear New World」をカヴァーしている。レゲエ、ダブの音作りやブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックの先駆けとも言われ、ステレオ・ラブ、エイフェックス・ツイン、ブリアルにまで影響が尾を引いていく。日本でも大瀧詠一が影響を口にし、ジョー・ミークの「Johnny Remember Me」が『ロング・バケイション』収録の「さらばシベリア鉄道」のモチーフとなっているようだ。本作『I Hear New World』は2013年のPitchforkで8.3の高評価を受け、2012年のNMEでジョー・ミークは最も偉大なプロデューサーに選出されている。フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドがジーザス&メリーチェインやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインらシューゲイザーの通底音であるとしたら、ジョー・ミークはオレンジ・ジュース以降のポスト・パンク、オルタナティヴ、テクノ・ミュージック、そしてはっぴいえんど以降のシティー・ポップスの遠い祖先と言えるかもしれない。


 ところで、アルバム・タイトルを訳すと「わたしは新しい世界を聴いた」となり、視覚イメージをともなう幻聴を連想する。幻聴や幻視といった幻覚体験は自己と他者(世界)との間の境界が損なわれ、自分の考えと、他人の声など外の世界の現象との間の区別がつかなくなることによって生じる。統合失調症における幻覚は主体が能動性を失い他者から圧倒される体験である。そのため自分から能動的に何かを見ようとする視覚ではなく、受動的に何かを聞く聴覚に幻聴として出現しやすい。しかし能動性が保たれた上で自己と世界が合一する体験は幻視や、ときに芸術表現と結びつく。ドラッグによる精神拡張体験が幻視を伴いやすく、60年代のサイケデリック・ロックにつながったことは言うまでもないが、しばしばミュージシャン本人の命を奪ったことも併せて明記しなければならない。


 ジョー・ミークがドラッグを用いていたかどうか、あるいは彼に統合失調症や妄想性障害(パラノイア)の予兆があったかは定かではない。しかし人工衛星の名から取られた「Telstar」という曲で1962年に全英、全米ナンバー・ワンを獲得するもしだいに人気は下降し、疑心暗鬼になった彼は、自分のスタジオに盗聴器が仕掛けられアイデアが盗まれているという妄想にとりつかれる。なんと、彼を慕い電話をかけてきたフィル・スペクターを疑い激しく非難したという。しかも彼は当時の社会では認められなかった同性愛者であった。様々な要因が絡み合い、追い詰められたジョーは1967年にショット・ガンで自らを撃ち抜いた。それに比べて、彼に影響を受けたエドウィン・コリンズは脳出血で半身麻痺となってもなお歌い続けている。どこに分かれ道があったのか? 私は2011年のエドウィン・コリンズ来日公演を観たが、彼の息子がデュエットで参加し、足が不自由なエドウィンを彼の妻やスタッフ総出で助け、見守っていた。彼らがお互いを見る目は暖かく、こちらまでほのぼのとさせられた。人間は誰しも支えあいながら生きていく。 


 ジョー・ミークが創造した荒涼たる月世界。ホット・ケーキにメイプル・シロップをかけるように、エドウィン・コリンズはそこに一雫のユーモアを垂らした。彼のヒット作『Gorgeous George』は一つの成果である。その収録曲に「Out Of This World」という曲がある。セイント・エティエンヌによるリミックスには「I Hear New World」という副題が付いており、エドウィンは「正気に戻るんだ、この世界を抜け出そう」と歌っている。これはジョーにささげる曲ではないだろうか。もう一つ思い出したのだが、ポスト・パンク期のバンドR.E.M.は、かつてあるコメディアンにささげる曲を書いた。偶然にもその題名は「Man On The Moon」だった。月面旅行再び。


 狂わないためにはシリアスな態度だけでなく、数グラムでもいい、ユーモアも必要だ。友人や家族と笑い合うことは、猜疑心にまみれ我を失った精神に、客観的な視点を持つための余裕を取り戻す。再び主体性を持ってこの世界を生きることができる。ドラッグよりよほどハッピーになれるのだ。今となってはジョー・ミークの自殺の原因は分からない。しかしイアン・カーティスにせよ、カート・コバーンにせよ、夭逝する数多くのミュージシャンには共通する何らかの原因がある気がする。それは案外シンプルで、それゆえに叶えがたいことだったのかもしれない。


『I Hear New World』を生命の根源たる子宮(宇宙)に例えれば、そこに次代のアーティストによるユーモアが注入され受胎した。そしてジョーの嫡子たる、様々な音楽ジャンルが生まれていった。今日ではジョー・ミークが作った楽曲は様々なコンピレーションにまとめられ容易に聴くことができる。売れなかろうが、理解されなかろうが素晴らしい音楽。あなたの存在は間違ってなどいなかった、そう伝えたい。音楽を志す前は英軍のレーダー技師であったというジョー・ミーク。もし彼が現代に生まれていたら、ネット上での音楽配信、マルチ・メディア展開にとてつもない手腕を振るっていたかもしれない。彼が見ていたのはレーダーに映る海面や月面のそのまた先、来るべきコンピューター・ワールドだったに違いないのだ。



(森豊和)




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JUANA MOLINA.jpg

 近年は、多くの日本アーティストの称賛もあり、アルゼンチン音響派と呼ばれる音が隆盛していたなかでも、そのルックスや音楽性を含めて、このフアナ・モリーナは真っ先に挙げられるかもしれない。


 00年の『Segundo』におけるエレクトロニカとウィスパー・ボイスが混成し、フォーキーながら、不思議な浮遊感と音風景は、特に日本で多くの人に受け入れられた。しかし、"アルゼンチン音響派"という曖昧な括りでは見え難いところがあり、そういったなかで音を紡ぐアーティストはトン・ゼー、ムタンチスから、プログレッシヴ・ロック、ポスト・クラシカルまで幅広くもアヴァンギャルドな指向を持つ音への敬愛をときに示すように、予めの多様性が前提にありつつ、音の実験を推し進めてゆくものと「うたもの」としての足場を固めてゆくもの、そんな二分化が少しずつ出てきている。


 フアナ・モリーナはイギリスの《Domino》と契約し、06年の『Son』をリリース。より拡がってゆくなか、ただそのアルバムでは脱・バンド、仲間内と一人での作業を詰めてゆくような形態を強めていった。フェルナンド・カブサッキは不参加、アレハンドロ・フラノフも2曲のみの参加、あとはほぼ全ての楽器を自分で演奏している。続いての08年の『Un Dia』でもそのアティチュードは極められ、結果として、多重に重ねられた自身の声がよりミニマルにシェイプされ、ゆえに内省性と陶然の狭間を行き来するようなデモーニッシュなセンスが強められていた。


 この変化と実際のライヴ・パフォーマンスで見せる多彩な面も併せ、筆者はむしろ『Segundo』以降よりも、現在における彼女の動きや新作に興味が向いていた。11月に開催されるHostess Club Weekenderへの参加も決まり、約5年振りとなるアルバム『Wed 21』も迫るなか、リード曲としてこの「Eras」が届けられたが、もはやアルゼンチン音響派の枠を越えたサイケ・フォーク的な佳曲になっている。後方でぐにゃりと響く電子音や幾つもの楽器、パーカッション、そして、フアナの歌声はリフレインし、エコーする。ここで想い出すのは新作が歌声を重視し、ポスト・クラシカルを越えた無比の内容になっていたコリーン、またはムームだったりする。どちらも新作では、明らかに違った場所に向かった。


 ここでフアナの少し複雑な来歴を振り返ってみたい。離婚はしたが、父親がタンゴ歌手のオラシオ・モリーナであり、幼少期もジャズ、ボサノヴァなど多くの音楽に囲まれて過ごし、1976年の軍事クーデターにより、11歳のときに家族でスペインに渡り、その後パリで6年を過ごし、政権変化で母郷たるブエノスアイレスに戻ったあと、当初はコメディエンヌとしてTVのなかで活躍をした。


 彼女は最初から「音楽で、何かを語ろう」という姿勢ではなかったのは確かだろう。だからこそ、緻密な音響のなかで、小声で意味を逸れ、聴き取れないことも厭わず、ジャケットでも髪で顔を隠し、アーティストとして匿名的な場所から始めないといけなかったような気もする。


 それでも何かを語るために、音楽があるのか、という問いは撞着も帯びる。メッセージ・ソングと呼ばれる類いが差異を均してしまうということ。例えば、"We"という言葉に含まれない人のためにも音楽はあるとしたら、何かを語らずとも現前する意味はある。


「Eras」では後半、不気味なコーラスとともに静かに終わるが、00年代半ばから「音楽で、何かを語ろう」とし始めた彼女の得体の知れないメッセージ性が想わぬ方向へと舵を切ってきているということであり、アルバムが俄然楽しみになってくる。洒脱なイメージがまだ付随しているところもあるが、一層、オルタナティヴになってゆく彼女の在り方は注視していきたい。


(松浦達)

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 ザ・シェフ・クックス・ミーに初めて出会ったのは、先月、たまたま観に行った下北沢シェルターでのライヴだった。前々から名前だけは知っていたが、そのバンド名を見て真っ先に宮沢賢二の『注文の多い料理店』を想起していたわたしは、西洋料理店の山猫軒に来た人々を調理して食べてしまうような、そんな恐ろしい音楽を奏でるプログレ・バンドなのだろうか・・・と、ぞっとする思いを抱きながらライヴに足を運んだ。しかしそこで待っていたのは、ビッグ・バンドのような大所帯のバンドがステージ上で思いっきり笑いながら極上のポップ・ミュージックを奏で、観客も手を掲げながら幸せそうに踊る、最高にハッピーなショウだった!


 今作は、そんなステージで繰り広げられていたような喜怒哀楽を詰めこみ、めまぐるしく展開していく万華鏡のような一枚。王道のポップ・ミュージックというよりはファンク、カントリー、ジャズ、フュージョンなどの音楽要素も放り込まれた色彩豊かな曲が集結している。ストリングス、ホーンがふんだんに盛り込まれた「流転する世界」からこのアルバムの幕は上がる。トランペットのハイトーンが印象的に鳴り響き、歩を進めるように曲が展開する「ケセラセラ」に心臓の高鳴りを感じながら、リード・トラックである「適当な闇」では幾多にも重なるコーラスとホーンで感情の昂ぶりにひとさじ。アッパーで明るい曲調とは裏腹に、《人は皆考えるほどに 素直さと人らしさなくし 苦しくて死にたくもなるさ》という、人の中の「闇」も顔を覗かせる。ファンキーな「パスカル&エレクトス」で今作は高揚を迎え、「環状線は僕らをのせて」では今作のプロデュースも行っているASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文、シンガーソングライターの岩崎愛、HUSKING BEEの磯部正文がゲスト・ヴォーカルとして心地よいビートに乗せて三者三様のラップを披露している。泣きのスロー・ナンバー「うつくしいひと」の冒頭では《消えてなくなればいい そう思うものありますか》と聴き手にヘヴィーな問いを投げかける。いつまでも未完成なままの私たち、だがその欠けている部分すら受け入れて、誰もが本当は美しい人なのだと柔らかくすべてを包み込み、フリーキーなテンポから始まる「song of sick」では良くも悪くも自分のすべてを狂わせた無数の歌に対する気持ちを、まるで草原を駆け抜ける少年かのごとく、アッパーなテンポとめまぐるしい曲展開に乗せて愛も皮肉もごちゃまぜに「アイラブユー!」と叫びまくる。


 一聴して様々な性格を持つ曲の集まりに思えるが、他方、歌詞に注目してみるとアルバム全体を通して同じテーマが繰り返し歌われていることに気づく。「生」と「死」、「愛」と「憎」、「肯定」と「否定」。そして、それらを繋ぐ「線」と「輪」。背反する言葉の間をたゆたいながら、わたしたちの毎日は規則正しく、地球の自転と共にぐるぐると回る。多幸感のあるサウンドに乗せて歌われる死生観に、心をじかに掴まれた心地に陥る。彼らはただ底抜けにポジティヴなポップ・ミュージックを奏でているわけではない。血と汗と涙を流しながら、ふがいない自分に厭きれながら、消え失せてしまいたくなりながら、それでもどうにか自分の「闇」を隠し時には滲ませながら、私たちは日々を生きている。そんなめまぐるしい日常に、このアルバムは輝きを見出し色彩を与えてくれる。瞬きをしている今にも回り続ける、街と人。それぞれが関わりあって回り続ける回転体だ。メランコリーと戯れながら、なんてことない変哲な日常を綴るわたしたちに寄り添ってくれるザ・シェフ・クックス・ミーの音楽は、あなたの耳元でも温かく鳴り響き、包み込んでくれるはずだ。幕がおりるその時まで。



(竹島絵奈)

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 スコットランドはグラスゴー発のエレ・ポップ・ユニット、チャーチズ。ファースト・アルバム『The Bones Of What You Believe』は、世界を通した自己の再発見、過去を省みて未来を変えることについての壮大な映画のサウンドトラックだ。彼らは実際に80年代の映画に想を得ている。バンド名は教会を意味するチャーチの複数形。ただしスペルのUをVに変えていて、荘厳でスペクタクルな音世界にマッチしている。


 メンバーはマーティン・ドハーティー(シンセ、サンプラー、ヴォーカル)を中心に、彼の10年来の友人であるイアン・クック(シンセ、ギター、ベース)、そしてマーティンがプロデュースで関わったポスト・ロック・バンドから引き抜いてきた女性、ローレン・メイベリー(ヴォーカル)の3人。トランポリンのように弾むシンセ音に、ドラム・ビートのように放たれるヴォーカルがぴったり絡み合う。ローレンは以前のバンドではドラムも担当しており、歌に自然なリズム感が備わっている。マーティンによればチャーチズの楽曲は、ヒップホップのトラック作りを意識しているという。ヴォーカルのエディットに加え各楽器がレイヤーとなって重なり合い和音を形づくる。3人がそれぞれ別バンドで培った音楽性が見事な編集感覚で組み合わさっているのだろう。仕上がった曲からはメンバー共通のフェイヴァリットであるシンディー・ローパーや80年代エレ・ポップを感じる。実際にライヴでプリンスの「I Would Die 4 U」をカヴァーしていたり、デペッシュ・モードの欧州ツアーをサポートしたりしている。しかしパッション・ピットやトゥー・ドア・シネマ・クラブと共演を果たすなど、あくまで現在進行形のポップスとして評価されている。複雑なことをやりながら、完成品はあくまでシンプルでキャッチーなのがミソだ。


 1曲目The Mother We Shareは、我々が哀しみを越えて取り戻すべきものについて歌っている、いわば映画のメイン・テーマ。優しく暖かく包み込むように音が広がっていく。続く「We Sink」、ここからが本当のプロローグ、深く現実に沈んでいく。光の粒子のような軽快なビートをくぐりぬける。3曲目はリード・シングルになったGun。破片のような言葉と楽器のフレーズが、弾丸のように連打し降りそそぐ。4曲目の「Tether」、朗々たる歌唱から光が地上に降りそそぐような後半部へ、次のLiesにかけて荘厳なリズム・セクションが行く手を遮る困難を象徴する。6曲目「Under The Tide」はマーティン歌唱のデジタル・ロック。後半きらびやかな音が重なりローレンのコーラスも加わる。シングル曲のRecoverは私たち1人1人に勇気ある決断を迫るかのようだ。8曲目の「Night Sky」でアルバムの作風は新たな局面へ突入する。昨今のインディーR&Bの流れを汲んで軽快に跳ねる。9曲目の「Science/Visions」はホラー映画のようなコーラスに激しいドラムが私たちを襲う困難を想像させる。続く曲が「Lungs」(肺)、「By The Throat」(喉)で発声器官の名称であり、映画『ミクロの決死圏』の体内の旅を思わせる。映画で目指す先は脳だが、音楽においては肺から喉が最重要臓器だ。最後の「You Caught The Light」はフレーミング・リップスのバラードを連想した。6曲目と同じマーティン歌唱、光へ打ち込むビートと切なる祈りをささげ、約60分のサウンドトラックは幕を降ろす。と、ここまでの解釈は私の妄想だが、聴き手の数だけ映画が生まれるはず。あなたなりの物語を夢想してほしい。


 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主人公と名前が似ていることから、ローレンはマーティンを、作中のタイム・マシンを発明する博士の愛称「ドク」で呼んでいるという。自分をチャーチズに誘ったマーティンは、まさしく彼女をめくるめく音楽の旅に誘った張本人なのだから的を射ている。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主人公は過去に向かい自分のルーツを知る。自分の両親に出会い父親の未来を変え、ひいては自分自身を成長させる。これは本作『The Bones Of What You Believe』の信念と共通する。マーティンが描いた音楽的構想は、ベイビー・フェイス以上にミラクル・ヴォイスがキュートなローレンの加入で完成を見た。彼女の歌は弾むような生命力で未来へ向かう。映画の希望に満ちた結末を示唆する声であり、新たな冒険の始まりを高らかに告げる。日本独自企画EP収録のNow is Not The Time(今じゃない)でローレンは歌う。


《今、二人は出会えないでいる 私たちはみんな光を見たのよ あなたが居なければ言葉なんて意味がない》




(森豊和)



【編集部注】『The Bones Of What You Believe』の日本盤は9月25日リリースです。



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 マニック・ストリート・プリーチャーズ(以下マニックス)の最新作『Rewind The Film』。日本語にすると『映画を巻き戻して』。早いもので、本作はマニックスにとって11枚目のオリジナル・アルバムだ。こうした彼らの歴史も手伝って、本作のタイトルはノスタルジーを漂わせているようにも見える。哀愁を滲ませた言葉が随所で見られ、さらにはカントリーやフォークなどのアコースティック・サウンドが目立つ内容ということもあって、本作中もっとも軽快な「Show Me The Wonder」以外は落ち着いた雰囲気の曲がほとんど


 マニックスは、かの有名な「30曲入りの2枚組アルバムを1枚だけ作って終わりにしたい。それを世界中でナンバーワンにして俺達は解散する」という公約を掲げ、ファースト・アルバム『Generation Terrorists』をリリースした。リッチー・エドワーズはスローガンがスプレー・ペインティングされたシャツを着用し、ジェームス・ディーン・ブラッドフィールド、ニッキー・ワイア、ショーン・ムーアの3人はイラついた表情や仕草を隠そうとせず、むしろ積極的にイライラをアピールしていた。今で言う"イタイ奴ら"だろうか。しかし、そのイライラが孤高のマスターピース『The Holy Bible』に結実するのだから、若さゆえの傲慢さも馬鹿にはできない。


 だが、その代償とでも言おうか、一時は地元カーディフにある精神病院に収容されるなど、以前から不安定だった精神状態がついに崩壊したリッチーは、1995年2月21日に忽然と姿を消した。


 そうした苦難を経てリリースされた『Everything Must Go』以降は、リッチーの喪失という空白を抱えながら活動してきた。おそらく、本作で初めてマニックスの音に触れ、枯れながらも色気のあるジェームスの歌声に驚く人もいると思うが、そういう人にこそマニックスの歴史を知ってほしい。彼らは泥臭くとも、常に正直であり続けたことがわかるはずだ。


 ディストーション・ギターは影を潜め、奇を衒ったアレンジも少ない『Rewind The Film』では、その正直なマニックスの姿がこれまでよりも明確に現れている。そんな姿を垣間見れる点は2004年の『Lifeblood』と類似するが、ソフィスティケートされたシンセ・サウンドがアルバム全体を支配し、それが結果としてマニックスから清々しさを奪うことに繋がった『Lifeblood』と比べれば、本作は持ち前の清々しさを内包しており、ルーシー・ローズ、リチャード・ホウリー、ケイト・ル・ボンといったゲスト・ヴォーカル陣もアルバムに華を添え、作品の彩度を高めている。特に表題曲「Rewind The Film」でジェームスとツイン・ヴォーカルを務めるリチャードの歌声は、聴き手を高揚させるドラマティックな情感を湛えた絶品もの。


 マニックスといえば歌詞も見逃せないが、そのなかでも一際興味深いのは「Show Me The Wonder」だ。実を言うとマニックスは、曲中に何度も登場する《Show Me The Wonder》と似たフレーズをとある曲で使用している。それは2001年のアルバム『Know Your Enemy』に収録された「Found That Soul」で、この曲には《Show Me A Wonder》というフレーズが登場する。ちなみに「Found That Soul」は、1999年12月31日、カーディフのミレニアム・スタジアムに5万人を動員して行われたライヴにまつわる複雑な心境が反映された曲だそうで、ニッキーは「あの日カーディフのステージから歩み去った瞬間、僕らはひとつのピークに達したんだ。この先そのピークを再現しようとしても無意味で、新しいことをしなければならないと。従って新作に向けてスタジオ入りした時はいつになくリラックスし、最高にナチュラルな気分を覚えていた。自分たちの選択が正しく、間違いなく次のアルバムに到達できると確信していたからね。(中略)「Found That Soul」はそういう心理状態を象徴している」(※1)と語っている。


 彼らはこうした引用を何度かやっており、過去にも初のベスト・アルバムにおいて、代表曲「Roses In The Hospital」の歌詞に出てくるフレーズを引用した『Forever Delayed』というタイトルを掲げている。2002年10月にリリースされた『Forever Delayed』、そしてその約9ヶ月後にお目見えした歴代シングルのB面+レア・トラック集『Lipstick Traces』は、バンドを『Lifeblood』の制作に向かわせる手助けとなったらしく、「過去と折り合いをつけていたからこそ、『Lifeblood』のレコーディングを始めた時にいつもより自由を感じたし、自分たちの気持ちに素直だった。だから2枚のベスト・アルバムは狙った通りの効果をもたらしてくれたんだよ」(※2)と、ジェームスも話している。さらに2009年の『Journal For Plague Lovers』はリッチーが残した歌詞をもとに制作が進められ、そうすることでリッチーに対する憶いと折り合いをつけるなど、マニックスは重要な区切りとなる作品では"過去"をインスピレーション源にすることが多い。


 そういった意味で本作は、もう若くないマニックスが怒りだけに頼らず歩みを進めていくための重要な区切りとなる作品かもしれない。それゆえ、トーンが抑えられながらも力強さを感じさせ、酸いも甘いも噛み分けた大人だけが持つ味わい深さを漂わせる。そんな作品を作り上げるまでの境地に至ったマニックスは、称賛に値するバンドだと心の底から思う。




(近藤真弥)




※1 : 『Know Your Enemy』の日本盤ライナーノーツより引用。

※2 : 『Lipstick Traces』の日本盤ライナーノーツより引用。


【編集部注】『Rewind The Film』の日本盤は9月25日リリースです。